王宮物語 序章 教会編 王宮の暗く冷たい石造りの地下廊下で、二人の男が話している。細かな装飾が施された黒いスーツに手袋を身につけた、王家の使用人の中でも上級の者たちだった。
「香漣王女の教育には、全く異なる環境で育った者が必要だ。王女は寂しさを感じていらっしゃる。同年代の子供がいない環境で、全てを分かった大人が彼女を教育することは、余計に彼女を自分の殻に閉じこめてしまうだけだ」
「年の近い、有能な者か……」
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「それで私どものところへ?」
シスターアレンは王族家の紋章にもう一度目をやった。実物は初めて見るものだ。突然の王宮関係者の来訪も驚くべきものだったが、その話の内容も容易には信じがたいものだった。王女の教育係を探しに来た、と。
シスターアレンの属するこの教会では、孤児たちを養育している。現在は十数名が教会内で暮らしており、朝晩の礼拝、奉仕活動、勉強などを行っている。勉強といっても必要最低限で、孤児が王宮の使用人になった例など聞いたことがなかった。それに、どの子供も、もちろん寂しさを抱えているが、引き取り先が決まったとしてもそれが必ずしも薔薇色のものでないことは今までの経験から分かっていた。シスターアレンは思いを巡らせた。
頭をよぎるのは、咲乃のことであった。
咲乃は最年長で、年下の子供の面倒見も良かった。他のシスター達に頭が良いと褒められることも多かった。しかしどこか、その表情には「ここに属していない」と感じさせるものがあった。寂しさ、それを押し殺し続けてきた者にしかない瞳の重さを、咲乃はもっていた。それは、たとえるならば戦場で唯一生き残った者が生涯ずっと背負い続ける、自責の念と相通ずるものがある。
「……候補となれる者はおります」
シスターアレンは静かに呟いた。
「本当ですか」王族の役人が一瞬、意外だという顔をしたのを、シスターアレンは見逃さなかった。
(やはり、場違いなところに来たと思っていらっしゃるのね)
王族の一家に女の子が産まれたという知らせは教会にも伝わってきていたが、まさかそのお世話係を求めて役人が国じゅうをたずねているとは。王族の子供はこの教会の孤児たちとは比べ物にならないほど、優雅で満ち足りた生活を送っているとばかり思っていたシスターアレンには、少々腑に落ちないものがあった。
王家の教育制度は大丈夫なのか。
咲乃が慣れない王宮できちんと扱われず、悲しい思いをしても不憫である。
「正義感と責任感が強く、王女のご友人として接することができると思われる者はおります。名前は咲乃。14歳です。しかし、一度王女と会わせた方が良いと思うのです。二人のために、合うか合わないか、一度試してみたほうが」シスターアレンは言った。
王家の役人は、王宮に仕えるならば合う合わないなど関係ないと言いたげだったが、これまでの人材探しが難航しているためだろうか、しぶしぶ無言の同意を示した。
もし、咲乃が王宮に行くことになったら、きっといろいろなことを教わるし、もっと咲乃の才能が発揮されるかもしれない。
孤児院では、読み書きと簡単な計算を教えるくらいの教育しかできず、高等教育など夢の話であった。そんな現状に、シスターたちはやるせない思いでいる。才能のある子がいても、里親を見つけない限り彼らには教育の選択肢はなかった。
「では、明日の正午に王宮の東門まで来てください。王女との面会時間を設けます」役人は、断定口調でそう言った。
「明日ですか」シスターアレンは驚く。よほど緊急に違いない。
「分かりました。咲乃と私で伺いましょう」
役人は頷く。
「他にも候補生がいるのですか」シスターアレンは聞いた。
「数十人いたが、王女には受け入れられなかった」役人は首を捻る。
上流階級の、十代の若き能力者たちだろう、とシスターアレンは想像する。どうやら、王女が決定権を持っているらしい。おもちゃに囲まれ、豪奢なドレスとレースの靴下を身に付け、何に対しても首を振る女の子の姿を想像した。
永遠に理想の教育係は現れないかもしれない。
シスターアレンは心のなかで肩をすくめた。
役人が、話が終わってもじっとしていることにシスターアレンは気がつき、「王家に神の御加護があらんことを」と口にした。聖職者の務めである。話の内容に圧倒されている自分に気がついた。
役人は頷き、扉を開けて教会を出ていった。彼のマントが長い影となって扉から伸びる。シスターアレンは一人、テーブルに残った。気がつけば、日が傾き始めている。同じようにマントを着けた咲乃の姿を、想像せずにはいられなかった。
きっと、咲乃のためになる。
彼女は自分に言い聞かせた。
咲乃がここを離れることになったら、他の子供たちは寂しがるだろう。
なにより、咲乃が心細いだろう。
何から伝えようか、シスターアレンは考えを巡らせていた。
きのうの今頃は、こんなことがあるなんて夢にも思っていなかった。きのうと全く同じに、きょうも過ぎていくのだと思っていた。
しかし、そうではないことは逆に、希望でもあった。
***
「王家に一人、王女様がいらっしゃることは知っていますか」
シスターアレンは切り出した。
夕食の準備を始めるシスターたちを手伝おうとしていた咲乃は、何度かまばたきをした。
「……はい。聞いたことがあります」
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咲乃は裏庭で水やりをしていた。小さな子供が2-3人周囲にいる。たまにしかないが、孤児に里親が見つかったときに、伝えるときの緊張感。選ばれた子の不安と期待と、選ばれなかった子のやるせなさ、不公平感。まだそういった感情を言葉にできない子供は、精神的に不安定になったり攻撃的になったりする。里親が見つかること自体は良いことなのだが、それに付随する波風も少なからず存在する。
咲乃がこちらへ駆け寄ってくる。
「シスターアレン。洋梨の木に水やりをしましたよ。他の植物も元気です。ジェイドたちが手伝ってくれました」
やはり、もの悲しい瞳をしている。シスターアレンはそう思った。
ジェイドとは5-6歳の少女である。他にも数人、まだ木のそばで遊んでいる。咲乃がいなくなることはもう、知っているはずだった。
「ありがとう」
シスターアレンは、ゆっくりと噛みしめるようにそう言った。咲乃の肩をなでる。
咲乃ははにかんだような顔をした。いつもやっているから何でもない、とでも言いたげな表情だった。
シスターアレンは目を細めた。
──この子ならきっと、心をこめてお礼を言うことから、王女に教えることができる。
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