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  • おわり|ラスト Link Message Mute
    2018/06/01 0:52:36

    リゼロLOG 『剣聖』

    アヤマツで剣聖と。胸糞なので閲覧注意です
    #リゼロ #Reゼロから始める異世界生活 #rezero #漫画

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      #リゼロ #Reゼロから始める異世界生活 #rezero
      おわり|ラスト
    • アヤマツとのクロスオーバー小説『交差するセカイ』――命燃え尽きる前夜。
      それはとても静かで、穏やかなものであった。

      運命の明日に向けて瞼を閉じる。
      暗闇の中に、数々の日々が浮かび上がった。

      腐りきった世界で、ただ一つ、輝くもの。

      いくら手を伸ばしても、届かないとわかっていた。触れてはならないことも。側にいてはならないことも、誰より理解していた。

      それでも、たったひとつだけ。
      君に届けたい言葉が、想いがあった。

      だから――伸ばした手が切り落とされるとわかっていても。喉が擦り切れ、血が滲むほど叫んでも。剣先が身を貫き、肉を削ぎ落としても。
      まだ死ねないのだと立ち上がれた。

      それも明日で、この回で、全てが終わる。

      これは手応えではない。
      もっと確実な――『運命』だった。



      ※ ※ ※ ※ ※

       埃混じりの淀んだ空気。
      背を受け止めるものは固く、鈍い不快感が沸き起こる。
      新しい1日は、予期せぬ居心地の悪さから始まった。

      「知らない天井だ」

      第一に飛び込んで来たのは、蜘蛛の巣が張った木目の天井。
      ナツキ・スバルが就寝前に見た光景とは、似ても似つかないものだった。

      ルグニカを暗躍していたスバル達一行は、王都のとある貴族の屋敷に設けられた地下室を拠点とし、最後の日を迎えようとしていた。身を隠すなら相手の鼻先とはよく言ったものだ。
      地下室といえど、曲がりなりにも貴族の屋敷。荘厳な装飾品や調度品の数々が品良く配置されていたし、一時期『青』を幽閉していた石牢も存在していたが、ここはそれとも異なっている。

       とにかく状況を把握しなければと身を起こすと、痛んだ木の床がぎしりと鳴く。
      瞬間、神経を尖らせるも、どうやら人の気配はないようだ。
      手のひらサイズほどの小さな覗き窓から射し込む陽光の助けもあり、室内は仄かに明るい。備蓄用の納屋なのか、壁際に積まれた木箱や麻袋は埃を被っている。床もスバルが身を横たえていた部分を除いて、人の痕跡はない。

      「誰かがここに運んだわけでもない……か。俺の足跡すらないって、どんなトリック?」

      まぁ考えても仕方ない、と立ち上がり、疑問と共に埃を払うも、舞い上がるそれに咳き込んだ。

       ふと自身の装いに目を落とす。
      黒ずくめの軽装で完全な丸腰。
      一切の状況がわからない上にこれでは心もとないと、いくつか適当な木箱の蓋をずらす。すると、質は悪いが手頃な短刀とやや痛んだ黒のローブを見つけて有り難く拝借。
      この程度の短刀では心もとないが、元より非戦闘員気味なのだ、死に戻りの足掛かりにでもなれば万々歳。
      無論、死ぬのはごめんだが。

       陽光が差し込む小窓から、ちらりと外の様子を伺う。
      人の往来はなく、住居裏手の小道といったところか。納屋の扉は木材を錠から抜くだけの簡易的なもので、難なく外に出ることができた。
      小道の両脇に建ち並ぶ西洋式の住居はルグニカそのもので、とりあえず、別の異世界に飛ばされたという心配はなさそうだ。

       改めて体の埃を払い、怪しまれない程度にフードを被って通りを歩く。
      しばらくして小道を抜けると、商店が肩を寄せ合う繁華街が目の前に広がり、いつかの光景が脳裏をよぎった。
      それに吐き気を催す自分とは異なり、往来する人々の顔には活気があり穏やかで、今まさに王都を騒がせている王選や魔女教の混乱は見てとれない。

      「……振り出しに戻るとか、そういうのは勘弁願いたいね」

      深い溜息と共に、つい本音が漏れる。だが、この違和感。振り出しとはではいかなくとも、本来訪れるはすだった”明日”と異なる時間軸であるのは間違いない。
      なら、今はいつなのか。

       辺境伯の魔力で編まれたローブでないことが心許ないが、この時間軸で顔バレによる指名手配……なんてことにはなっていないだろうと腹をくくり、手近な店でそれとなく日付を聞いた。
      スバルが予想していた通り、本来のセーブポイントよりも時間が戻っている。しかも、未だ経験していないセーブポイントに。

       しかし、ここが全く未経験の時間か、というとそうでもなく、単に王都に居なかった、という意味だ。
      記憶力にはそこそこ自信がある。
      たしか、フリューゲルの大樹付近にて発生した白鯨討伐戦の残滓、”青”を拾うため、その周辺でペテルギウスに同行していたはずだ。
      時折、王都のアジトに足を運ぶことはあっても、むやみやたらに王都をうろつく理由もない。事実、セーブポイントもペテルギウス関連施設内だった。

       要するに現在の状況は、通常の死に戻りや、過去の別のセーブポイントに飛ばされたのではなく、新たに用意されたポイントに強制移動させられた、もしくは何らかの理由で死に戻り、ここから始まったということか。

      「剣聖とやり合いすぎて詰んだと思われたなら酷ぇ話だが。つっても、酷くなかった時なんざない気もするな……」

      この時間軸に来て、もう何度目になるかわからない深い溜息。人波を避けてふらふらと歩き、ふと顔を上げると、道端の立て看板が目に入った。

      芯のある瞳と目が合う。
      その瞬間、周囲の喧騒はぱたりと途絶え、行き交う人々の姿が滲む。世界から色が消え去って、そこだけが鮮明に浮き上がっていた。

      そして、頰を赤くしていた熱が落ち着いた頃、ようやく街に喧騒が戻り、隣の看板に描かれた他の候補者に気がついて

      「どーなってんだこれは……」

      そこには、存在ごと消滅したはずのクルシュ、王選を辞退したプリシラ、騎士を失い拠り所をなくしたアナスタシアらがある。
      エミリアを王にする為に、人としての尊厳すら踏み躙り、命どころか存在そのものを奪ったというのに、これは一体どういう理屈なのか。

      わけがわからない、と胸の奥底でと煮えたぎる思いがあった。
      現実を受け入れるのは容易くなく、 そのために削ぎ落としてきた魂が、声にならない絶叫が上げた。
      怒りに震える肩を抱き、ぶつけようのない慟哭を押さえ込んでいるうちに刻々と日が暮れて、気がつけば空は赤黒く染まっていた。


      「ねぇスバル、そろそろ戻りましょう」


       瞬間、時が止まる。
      顔を跳ね上げれば、自分を見つめる瞳がある。

      否、それは背後からもたらされた。
      しかし、あまりに突然の邂逅で、驚きのあまり振り向くことができない。


      「そうだな。ベア子とパトラッシュに土産は買ったし……まぁ俺としてはエミリアたんと夜景デートしてからってのもやぶさかでは」

      「もう、わがまま言わないの」

      声はそれほど近くない。
      まばらな雑音に混じって、しかし驚くほど鮮明に焼きついた。
      それはどんな凄惨な死より酷く、いかなる結末より受け入れがたく、魂を直接抉る刃そのものだ。

      声の主は忘れもしない、エミリア。
      そして、あまりにも聴きなれたスバル自身の――否、これはナツキ・スバルではなく


      ――おまえは、だれだ?


      疑問。
      次いで憎しみ。
      重ねて憎悪。

      最後に虚無感が押し寄せて――次第に声は遠ざかっていった。


      「く……ふはっ……傑作だな。
       なんだよそれ。これを俺に見せたかったのか? こんな結末もあったって、そう言いたかったのかよ? 俺は間違ってて、無力で、好きな子ひとり笑顔にできなくて……やれば出来た。なのに出来なかったって、嗤うのか? そうだな、嗤え。嗤えばいい。たまんないよなぁ。人をコケにすんのはさぁ……分かるよ」

      ふらふらと脚を引きずるように歩いた。うわ言のように呪いと憎しみ吐き出しつづけ、行くあてもなくて、兎に角誰もいない場所に在りたくて、街を出て、静かな街道をふらふらと歩いた。

      可笑しかった。どんな喜劇より滑稽だ。出来る力はあったのに、あれだけ強く願っていながら、こんな生き方があったなんて、そんなのがあるだろうか?

       ふと、草に脚を取られ、受け身を取ることもなく崩れ落ちた。心も体もボロボロだ。立ち上がる気力などあるわけがない。
      短刀で喉を貫き引き裂く力もなくて――

      「確かに俺は……てめぇらのお膳立てを全部無駄にしたんだろうよ」

      ナニモノかの想いも、願いも、全部踏みにじってやれたのかと思うと可笑しくて、くつくつと笑いが漏れた。

      「でもな。お前らが認めなくても、俺には俺の――最高の結末があった」

      腕をつき、身をもたげ、地に唾を吐きすてる。力なく天上を仰げば、虚ろな瞳に月が映り込んで

      「俺は――間違ってない。
       こんなものはまやかしだ。
       全部、俺が壊してやるよ」




       辺境伯邸に向かう竜車の中。
      ナツキ・スバルはまだ知らない。

      最も無力な自分自身が、最大の敵であるということを。



      ※ ※ ※ ※ ※


       ナツキ・スバルは順風満帆――とまでは言えないが、怠惰の大罪司教ペテルギウスを滅ぼした上、聖域の解放、および新たな仲間を得て、束の間の穏やかな時間を過ごしていた。

      穏やかなといっても、護身術の会得、新装具の鍛錬、ベアトリスへの魔力供給に加え、礼儀礼節なんやかんやと、寝る間も惜しくなるほどで。

      かつてのスバルなら、早々に根を上げていただろうが、幾重の困難を乗り越えたのだ。そう簡単には挫けない。
      むしろ、いずれ来たる死のループを想像すると、何もしないほうが落ち着かない――のだが、そんなスバルを心配したエミリアに、デートもとい、王都出張を命じられて今に至る。

      「ねぇスバル、本当に無理してない? 手も全然治療させてくれないし、すごーく心配なんだから」

      竜車が王都に走り出してすぐ、エミリアが眉をひそめつつ切り出した。

      「いつも言ってるけど、頑張った勲章ってのが男には必要なんだよ。それに休めるときは案外休んでるし、どうしてもダメなときはエミリアたんの膝枕で一秒チャージ!」

      幾重にもマメが出来た手を握りしめ、軽口を叩いてみるも、依然エミリアの表情は硬い。

      「はぁ。膝枕頼りの騎士なんてみっともないかしら」

      スバルの膝にちょこんと腰掛け、腕に抱きかかえられたベアトリスが大袈裟に息を吐く。

      「んん〜。 膝に座れないとむくれる大精霊様ってのは、みっともなくないのかなー?」

      ベアトリスの頭に頰を寄せ、きつく抱きしめてやると、むきゅっと声が上がり

      「ふ、ふん! それは契約者として当然のことかしら!」

      ぷいっとそっぽを向くも、耳まで真っ赤にしていては威厳もなく、ただただ愛らしいばかりだ。

      「ふふ。二人とも本当に仲が良いんだから」

      口元に手を当ててくすくすと笑うエミリアの表情は、先程までとは打って変わって朗らかだ。
      どうやらベアトリスのはからいが功を奏したようで――そのお礼とばかりに頰をグリグリ擦り付けてやると、竜車は賑やかな声で溢れた。


          *****


      「ベティはパトラッシュと一緒に待ってるかしら。でぃとは水入らずなのよ」

       王都に着くとベアトリスはそう言って竜車に残った。
      聖域を出てからしばらく、常にベアトリスと行動していたスバルにとって心寂しかったが、折角の気遣いに水を差すのはよろしくない。甘やかしてくれるときは徹底的に甘えるのが礼儀だと思い、エミリアの細くしなやかな手を握った。

      王都を訪れた理由は、でぃと以外にもある。白鯨討伐からしばらく経ったが、未だ記憶をなくしたままのクルシュの見舞いも兼ねていた。無論、単なる見舞いだけではなく同盟としての情報交換などが含まれる。

      クルシュとの会話が弾んだせいか、一通り挨拶を済ませた頃には日が傾き始めていた。

      「ごめんね、スバル。折角でぃと出来るはずだったのに」

      クルシュの邸宅を出たエミリアは、ロズワールお手製の認識阻害ローブを羽織りながら申し訳なさげに眉を下げ

      「ん。俺としては充分デートできた思ったけど、竜車に戻る前に買い物くらいは付き合ってもらおっかな」

      ベア子とパトラッシュにも何か買っていってやらないとな、と続けて笑い、エミリアの手を握る。緩く握り返す指先は暖かく、二人が育んできたものが確かなものだと再認識できた。
      この先どれだけ悪辣な障害が立ちふさがっても、二人――俺たちなら必ず抗えるのだと。

      今日も繁華街は活気に満ちていた。
      夕飯の買い出しのピークと重なったこともあり、人波に揉まれることとなったが、二人肩を寄せ合い、はぐれまいと一層手を固く結んで色々な店を見て歩いた。
      人波が落ち着き、空の色がすっかり赤く染まったところでエミリアが手を引いて

      「ねぇスバル、そろそろ戻りましょう」

      「そうだな。ベア子とパトラッシュに土産は買ったし……まぁ俺としてはエミリアたんと夜景デートしてからってのもやぶさかでは」

      「もう、わがまま言わないの」

      後ろ髪引かれる思いのままスバルがおどけてみせると、エミリアはその申し出を嬉しそうにしながらも、めっと小さく諭す。

      「じゃあ戻りましょう。えっと、あっち、だったわよね」

       エミリアが先導する形で手を引かれる中、ふと、スバルは街の一角に目を奪われた。薄汚れた黒いローブをまとった人影がある。
      王選候補者の看板の前で身を抱え、苦しげに身を強張らせていた。
      ローブといっても魔女教の装いとは異なるシンプルなものだ。

      体調が優れないのだろうか。
      エミリアなら駆け寄って声をかけるかもしれない。病人だとしたらベア子かフェリスを呼べば――そんなことを考えているうちに、人波に紛れ、いつしか姿は見えなくなっていた。

      胸の中にざらついた感触が残る。
      嫌な予感、そんなものではない。

      ただあれは、誰かがどうにか出来るものではないのだと、どこか共鳴するものがあったのかもしれない。
      恐らく、ナツキスバルにだけわかる、仄暗いものが。

      ベア子とパトラッシュに待たせてしまった詫びを入れてから竜車に乗り込むと、ロズワール邸に向けて走り出す。座席でベア子に膝枕をしてやりながら、車窓に目を向けると月が映った。



      その同じ月の下。
      悪辣な何者かが、今まさに産声を上げたと知らぬまま‪――



      ※ ※ ※ ※ ※


       ナツキ・スバルは、街道沿いを月明かりを頼りに歩いていた。
      この時間軸において何かを成し得るにしても、てんで無力な自分だけではエミリアに近づくこともままならない。
      簡単に言えば協力者。複雑に言えば利害関係の一致する、それなりに力のある人間とお近づきになりたい、というわけだ。
      目的を果たすどころか、生きていくためにはそれなりの資金もいるし、誰かを殺すにしても手回しが必要だ。
      そこのところをバランス良く介抱してくれる誰か――いの一番に浮かんだのが、辺境伯だ。他に共犯候補者に比べれば居処もわれているし、何よりいきなりスバルを殺したりはしない、という確信がある。

      しかし、だからといって協力関係になれる確信があるかというと、希望的観測という側面が大きいのも事実。

      特に辺境伯は、ナツキ・スバルの側にいる。故に、その影響下でいかなる変化をもたらされているか曖昧だ。
      さすがにあそこまで凝り固まった曲者が、そうそう変わるとは思えなかったが、裏か表かで言えば二分の一。
      多少の博打になるのは否めない。

      博打といっても、ナツキ・スバルのそれはイカサマ同然。迷うことはない。やってダメならやり直す。たったそれだけの簡単なお仕事――なのだが、ここで、最も大きな障害に阻まれる。ナツキ・スバルを祝福する唯一無二『死に戻り』に。

       この時間軸には二人のナツキ・スバルが存在し、互いに『死に戻り』の力を有していると考えられる。
      しかし、それは通常時の話であり、この時間軸においては話が別だ。
      死に戻りが作用せず、本当の『死』を迎える可能性。もしくは、『死』こそが自分を元の時間軸に還すトリガーである可能性。
      そして、ナツキ・スバルの死によってセカイが消滅し、再構築されるのだとしたら――それが二人いる状況下、先に死んだ者の死は確定し、残された側だけのセカイとなる。
      その死は誰の手によってでももたらされる。ナツキ・スバル同士が殺し合わなくとも、野犬に噛み殺されるだけでいい。

      つまり、『死に戻り』には頼れないということだ。

      これまで軽率な行動も厭わず、トライアンドエラーを繰り返してきたスバルにとって、これが大きな障害でなくてなんというのか。死に慣れてはいない。だが――繰り返し慣れていた。

      思考の海から頭をもたげ、前を見る。夜は深い。茂る草花の絨毯から虫の歌が聞こえる。と、そこに混じる雑音が大きくなることに気づき振り向いた。荷台をを引いた竜車の明かりが遠くに見える。

      道すがら衛兵らしい男に尋ねた際、この時間軸において白鯨は討伐されて、夜更けでも行商人や行き交うようになったと知った。白鯨が討伐された事実は、”青”を失ったことと同意義で、なんとしても辺境伯と協力関係にならなければという焦燥感に繋がって――

      「あの、すみません!」

      荷を引く地竜にまたがった青年が肉眼で捉えられるようになった頃合いで、大きく手を振り声を掛けた。商人らしい風貌の青年は地竜を止めてそれ応じ

      「こんな夜更けどうされました?」

      「その、実は知人を怒らせて竜車から追い出されてしまいまして。金貨一枚しか持ち合わせがないんですが、最寄りの宿舎までご一緒できないかと」

      「君もついてないね。僕も今日は王都で荷を全く捌けなくてね。一つ善行で徳を稼いでおくかな」

      言って、青年は地竜と一撫でしてから地に足を下ろす。屋根付きの荷台に乗り込むと、この辺りなら座れるかな、と言いながら木箱に手を掛けて

      「ああ、悪いね」

      瞬間、行商人後ろ髪を掴み、引き寄せる。バランスを崩し、倒れ込む商人の背を迎え入れると同時に喉元に短刀をねじ込んで、力の限り横に切り裂く。行き場を失った命の飛沫が宙を舞い、荷台はあっという間に血の海になった。叫ぶことが叶わぬ代わり、掻き切れた気道から空気が漏れる音が虚しく響く。足元に力なく崩れ落ちた青年の背を足で抑えつけて暫くすると、それは物言わぬ抜け殻となった。

      「手荒い真似は極力したくないんだけど」

      青年の服で剣先を拭った後、荷台の隙間から差し込む月光で照らし

      「思ったよりいい拾い物だったかも」

      良き相棒を腰に戻した後、凄惨な現場と化した荷台に再び意識を戻す。荷に倒れ込んだ青年の足を引き、木箱の隙間に押し込むと、そこに羽織っていたローブをかけた。その後、返り血を拭いながら竜車を走らせて、手頃な森で荷台を切り離す。ゆっくりはしていられない。日が登れば面倒事になるのは目に見えているのだから。

      地竜に跨ると商人が持ち合わせていた地図を頼りに街道を走る。
      朝霧が立ち込め、空は光を帯びていく中、辺境伯の領地内、アーラム村に到着したのだが――

      「――あれ。間違っては、ないよな」

      村の形はある。しかし、人の姿はなく閑散とした状態で

      「また、ナツキ・スバルか……」

      白鯨討伐がなされた時間軸。ペテルギウスによる襲撃を回避した先のセカイ。ナツキ・スバルによって何らかの策が遂行された故の現在。王都の初手から異なるナツキ・スバルには、それを理解できるはずもなく、湧き上がる疑問と胸の鈍い痛みを奥歯で噛み殺し、辺境伯邸へと急いだ。


      「魔女教の襲撃を回避するため、なのか。それにしても滅茶苦茶だ」

      眼前の光景に首をひねる。そこはかつて辺境伯の邸宅が顕在していた場所でありながら、現在は広大な更地とかしていた。スバルも訪れたことがある。ペテルギウスと共に屋敷を襲撃したことも、辺境伯と接点を持つために客人として訪れたことも。それは既にセカイから消失し、スバルの中にだけ残されたセカイだったが。

      地に目を落とすと、屋敷を取り囲む草木が一部炭化して残されいる。
      何らかの炎魔法が行使されたのか、単なる火災、それどれでもない何かか。

      「また間違ってるって、そう言うのか」

      掠れた声。答えはない。スバルは一人だ。
      それがナツキ・スバルの選んだ道なのだから。


      「これは思わぬ拾い物だねーぇ。予定を大いに狂わせてくれるのは実に君らしいわーぁけだが」

      運命の袋小路からスバルを拾い上げたのは、あまりにも場違いな間の抜けた声。顔を上げるとそこには、知らない顔の男――否、知っている。けれどそれは、スバルが知る厚い仮面を被ったものではなく――ここでも、胸を掻き毟られた。

      「おーぉや、なるほどねーぇ」

      瞳を興味深げに輝かせながら顎を擦る。

      「――辺境伯、どうしてここに」

      「ここは私の領地内なのだかーぁら、何もおかしな事はなーぁいのだーぁよ」

      「いや、でも――まぁいい。あんたに会うためにここまで来たんだ。まじで、手間が省けて助かった。俺は――」

      「これを、持っていくといい」

      スバルが言い終わるより早く、辺境伯は金の瞳を細め、おもむろにローブを手渡した。これは君のものだ、と。見覚えがある。認識阻害の魔法が編まれたそれは、スバルがいた時間軸でも辺境伯により授けられた。スバルが理解して受け取った様に確信を得たのか、満足げな笑みを口元に宿す。そして――焼けただれた一枚の紙を差し出した。

      「これは」

      四隅は灰になり、乱雑に扱えば崩れてしまいそうなほどのそれが、ただの白紙の紙であることを確かめながら、スバルは怪訝に顔をしかめる。すると、辺境伯は小さく、でも鮮明な声で囁いた。

      「――わかった」

      一瞬の沈黙の後、スバルは頷いた。
      その顔に、陰惨な笑みを宿して。



      ※ ※ ※ ※ ※


      「うっし、今日もいっちょやるか!」

      爽やかな水色に桃色の陽光が差し込む空へと腕を上げ、伸びをするところからナツキ・スバルの一日が始まる。慣れた動作で体の節々を伸ばして簡単なストレッチをするスバルの傍らで、ベアトリスが瞼をこすり、

      「スバルは朝から元気すぎるかしら。ベティはまだ眠いのよ」

      ふぁぁ、と小さな口をいっぱいに広げで欠伸をすると、淡く紅が差した目尻に涙が滲む。

      「これまで何もしてこなかったツケを回収しなきゃならないからな」

      前屈から起き上がったところで、アスレチックに腰掛けたベアトリスの頭をくしゃりと一撫でし

      「それに、こうやって体を動かしてる方が落ち着くんだ。体も鍛えられるし、一石二鳥、だろ?」

      「それよりも、その不幸体質を改善したほうがいいかしら。スバルは本当に困った契約者なのよ」

      「それが改善できるなら俺だってそうしてぇよ。レムが目を覚ました時に”まだ臭い”って言われたくねぇし」

      肩口をつまみ上げ、くんくんと匂いを確かめると柔らかな花の香りに鼻腔が包まれ、思わず頰が緩む。そこに形容し難い臭さは当然なくて、「わからん」と、首を捻るスバルにベアトリスは「ふふん」と得意げに鼻を鳴らし、

      「まぁ、ベティが居れば安心かしら。その不幸ごと吹き飛ばしてやるのよ」

      「ああ、そうだな! 頼りにしまくってるぜ!」

      こみ上げる愛しさをそのまま腕に込め、ベアトリスを抱きしめてやる。温かく柔らかな感触。強大な力を持つ大精霊ではなく、そこには華奢で小さな少女の体だけがあって。口では頼りにするといいながら、同時に、自分がベアトリスを守らなければならないのだという意思を新たにする。
      「よし!」と自らを奮い立て、ベアトリスを開放すると、

      「じゃ、ちょっくらひとっ走りしてくるわ」

      「こけないように気をつけるかしら」

      「子供かよ! でも、ま、気をつける」

      どこまで本気で心配しているのかは定かでないが、悪戯っぽい笑みを浮かべて見送るベアトリスに苦笑を返した後、広大な敷地を贅沢に使用したランニングコースへ駆け出す。軽快なステップはなかなか様になったもので、スバルの努力が垣間見える。ベアトリスは、その頼りなくも頼りになる背中を自慢げに見送った後、しばらくして、ふと空を見上げる。

      眩しい日差しに思わず目がくらむ。目頭に手のひらを翳して、その隙間から目を細めると、かつての光景が脳裏をよぎった。

      焼け落ちる屋敷の一角で、四百年の嘆きが今日こそ終わるのだと確信していた。あの時、ベアトリスに差し伸べられた火傷だらけの手。その手は、母が教え、授けたものではなく、自ら選び、握り返したもの。

      「――スバル」

      瞳を閉じ、愛しい名を確かめる。
      魂よりもっと深い場所で、今も二人を固く結びつける強靭な糸を感じ、心がじんわりと暖かくなる。それと同時に、ススで頰を汚し、数多の火傷をおいながらも、この手を掴めと呼びかけるスバルの顔が鮮明に思い起こされて、ベアトリスは再びその手を掴もうと

      「もう、寂しくなったのか」

      「ひゃん!?」

      突如、思考を声が引き裂いた。
      ベアトリスは可愛らしい悲鳴をあげた後、大きな瞳をまんまるに見開いて、キョロキョロと声の主を辿る。愛しい声の持ち主は、スバルが走り去った方向とは真逆にあって

      「い、いいいいつのまに帰ったかしら!?」

      「さぁ?」

      「さ、さぁって……」

      ベアトリスが上ずった声を慌てて投げつけたのに対し、まるで他人事のようにあっけらかんと返答するスバル。それに眉をひそめ、しばらく前にスバルが走り去った方向を見やるも、既にそこに人影があるはずもなく、ただ首を捻る。
      確かにスバルは目の前にいるのだから、少しどころか微塵も現実を疑いようがない。しかし、どこかその眼差しに違和感が拭えないままでいると

      「えーっと。ベアトリス、だよな」

      スバルは飄々と、しかし、ベアトリスと言う名の舌触りを確認するような不器用さをもって呟き、ベアトリスが否定しない様を見て肯定とすると

      「うん、我ながらナイスタイミング。今回ばかりは運命様は俺の味方かな。ま、連れて来といてそっぽ向かれちゃたまんねぇんだけど、わりとそれが日常茶飯事だから疑心暗鬼にもなるって話で……」

      「なにを言ってるかわけがわからないのよ」

      顎をさすりながら一人ぶつぶつと喋る様はベアトリスの瞳にも異様に映るが、それがナツキ・スバルとなれば話は別だ。しかし、どことなく居心地の悪さを覚えて、アスレチックから腰を上げると、それに呼応する形でスバルが歩み寄る。

      「これ。大事なものだったんだろ?」

      緊張感のない緩んだ所作で、懐から何やら取り出したスバルは、それをひらりとはためかせてからベアトリスへと差し出した。「大事なもの?」とオウム返しに問い返すも、スバルはこくりと頷くだけで、ベアトリスは渋々差し出されたそれに目を落とす。

      スバルが手にしたそれは、ただの紙切れだった。
      四隅が焦げ付き、いびつに歪んだ、ゴミ屑同然のそれが、どうしてベアトリスの大事なものなのか。疑問を投げかけようと小さく唇を動かしたところで、ぞわりと、灼熱が駆け上がる。

      「――ぁ」

      あまりに鮮明な感触に、震える肩を抱く。差し出されたそれは、一瞬でベアトリスを灼熱の禁書庫に連れ戻したのだ。熱波が肌を炙り、焦げ付いた匂いが鼻腔を蹂躙する。現実ではない、ただこれは、あまりにも真新しい記憶で

      「……どう、して」

      頭を振り、自らを蹂躙する忌まわしい熱を振り払う。しかし、振り払いきれなかった震えが声に滲む。ベアトリスの心は疑問で埋め尽くされていた。どうしてそんなものを、どうして今さらになって、どうして今日、どうして――そんな風に笑うのか、と。

      けれど、そのどれもが明確な答えをもたらすものではなくて、ベアトリスは混乱の中、がむしゃらに魂の奥底へ手を伸ばす。その糸を手繰れば、何よりも明確な答えがあると分かっていた。だから――

      「裏に、何か書いてあったけど」

      糸に触れる寸前のところで、愛しい声に、その手首を掴まれる。僅かに首を傾げ、柔らかな微笑みを貼り付けたスバルそのものが、ベアトリスの揺れる瞳を覗き込む。しかしそれは、ベアトリスの唇が震える様も、瞳の中で羽ばたきを止める蝶にすら何の感情も持っていなくて

      「ほら」

      ベアトリスが何も出来ないでいる様に業を煮やしたのか、スバルはベアトリスの手を引いて、紙切れを強引に手渡した。そして、その手を掴んだまま、紙切れを裏向けようと――

      瞬間、けたたましい耳鳴りが、警鐘となって鳴り響く。
      わからない、何故なのか。一体何に警鐘を投げかけているのか。だから、ベアトリスは止められなかった。止まれなかった。されるがまま、紙切れの裏に目を落とし、そして

      「――ぁ」

      何もかもが遅すぎたのだ。気づけたはずだった、表まで染みた赤黒いそれを見た時に。拒めたはずだった、禁書庫で焼け残った福音の一頁だと理解した瞬間に。振り払えたはずだった、その手が例えスバルのものであっても。しかし、強靭な絆が、堅く誓った愛そのものが、ベアトリスの判断を鈍らせたのだ。

      「じゃあ、よく聞けよ?」

      踏み入ってはならない契約者同士の聖域に、それはさも当然といった様子で侵入し

      「ベアトリス、これは命令だ」

      愛しい契約者の面を被って、傲慢に言い放つ

      「俺に、従え」

      ベアトリスの柔らかな手首に爪を食い込ませ、血が滲むのも関係ないと、力任せに引き寄せる。代わりに、もう一方。硬く結ばれた絆が引き千切れる音を愉快とばかりに嘲笑いながら。

      「や――」

      ぷつりと、軽い音をたてて糸は途切れた。それは驚くほどあっけないものだった。四百年の孤独の末、やっと掴んだ一筋の幸福が、土足で聖域に踏み込んだ異邦人によって、いとも簡単に引き裂かれてしまうなど、誰が想像していただろう。

      スバルに――否、スバルの皮を被った悪魔に掴まれた腕がじくじくと痛むのを感じるのに、ベアトリスには振り払う気力も、意思も、自由すらない。手を引かれるまま、悪魔の懐に導かれ、力なく抱き寄せられると、やはりそこにはスバルそのものがあって心が揺れる。

      「それでいい。ベアトリスはいい子だな」

      くしゃりと頭を撫でる手のひらは、先刻の記憶と何ら違わず、ベアトリスの心に甘い毒を流し込む。例え悪魔であっても、これはスバルなのだ。自分は何か間違っているのだろうか。間違っていても構わない。スバルが自分を求めているのだから。

      思考が奪われる、過ちに蹂躙される、何が正しかったのか分からなくなる。恐怖で足がすくんで寒気がする。その肩をそっと抱き寄せる温もりがあって――ベアトリスはそれを受け入れた。


          *****


      日差しを背に浴びながら、スバルは軽快なリズムで見慣れたランニングコースをなぞる。丁度、その折り返しとなるカーブに差し掛かったところで、突如、胸の奥底にざらついた感触を覚え、速度を落とした。

      「っはぁ……はぁ……なんだ、これ、気持ちわる」

      胸の奥底を掻き毟るような経験のない心地悪さ。魔女に心臓を掴まれる苦痛とは別種のそれに、足を止め、肩で息をしながら地に膝をつく。こみ上げる胃液を吐き出そうとするも、その不快感を拭うことは叶わず

      「ちょっ……ぅぐ……これは結構マズった」

      それが徐々に大きくなる中、スバルはただの不調でないと確信を持って、意識を体の内側へと滑り込ませる。耳をふさぎたくなるほどの警鐘が轟く。魂の奥深くで結ばれた糸が張り詰め、軋み、悲鳴を上げていたのだ。それはベアトリスがスバルに呼びかるものとは違う。絆をを無理やり引き剥がそうとするような悪辣な衝動。

      「ぐぉっ……やめ、ろ!!」

      ベアトリスに何かあったに違いないと、内側の痛みを奥歯で噛み殺し、立ち上がる。瞬間――ぷつり、と軽い音を奏で、繋がりが途絶えた。

      「――ぇ」

      それまで魂を握りつぶさんとしていた不快感が嘘のように消え去った。再び意識を内側に集中させて、繋がりを手繰ろうと手を伸ばしてみるが、何ら感触はなく空を切る。ついさっきまで確かにあった強靭な繋がりは、その痕跡すら残さずに綺麗さっぱりと消え去っていたのだ。

      「は。嘘だろ。こんな……簡単に? そんなはずない。何かの間違いか、だって、そんな……嘘だ」

      何故こんな時に。スバルが呼び掛ければ、ベアトリスはすぐに駆けつけることができるのに、ベアトリスの身に異変が起こっているのを感じながら、スバルには何もできなかった。なにが起こったのかすら分からずに、形のない焦燥感に駆り立てられて、汚れた膝を払うことすらせず地を蹴る。日々鍛えたお陰で体は軽い。しかし、それでもなおスバルはただの人間だった。

      「畜生……ッくそったれが!!」

      先刻、ベアトリスを抱きしめて「守らなければ」などと考えたのは、どこの身の程知らずだっただか。全力疾走に焦燥感も相まって、呼吸があがり全身に酸素が行き渡らない。ベアトリスが待つアスレチックを視界が捉えたところで、足がもつれ、勢いをそのままに砂利道に倒れ込んだ。

      「くはっ! ……っィてぇ……」

      一分一秒、一歩でも早く辿り着かなければと分かっているのに、こんな場所で倒れ込んでいる暇はないのだと、地に腕をいて身をもたげる。「こけないように気をつけるかしら」そんな軽口が脳裏に響く。続けざま「子供かよ!」などと一蹴した自分が思い起こされて、それを振り払うように再び地を蹴った。どこまでもどこまでもどこまでも、今さらどんな努力を重ねても変えられない。ナツキ・スバルはあまりにも無力で――困った契約者だった。

      「ベア子!」

      アスレチックを前にして、スバルはベアトリスの名を叫んだ。痛烈な声は虚しくそれにぶつかるだけで、なんら応答はない。押し寄せる無力感のせいか、限界を超えて走り抜けたからなのか、鉛のように体が重く、肩で息をするだけで精一杯だ。しかし、休む暇がどこにあるのだと、拳を振り上げて膝を打ち、無理やりに呼吸を整えようと空気を肺腑の奥に押し込める。
      つい先刻までベアトリスがちょこんと腰掛けていた場所に手を掛ける。ひんやりとした感触が、失われてから経過した時間の重さを痛烈に感じさせ、焦る心に冷たいものを流し込む。

      胸に手をあて、再び奥底の繋がりに意識を傾ける。繰り返し確かめても、その手応えはなく、何故、という思いが止めどなく溢れ出す。契約者間の繋がりについて多くの知識があるわけではない。しかし、あれほど強靭だった繋がりが、こんなにあっけなく失われてしまうものなのか。ベアトリスが契約を自ら破棄するなどありえない。その程度の信頼があった。まして、ベアトリス自体が失われるなど――

      「そんな……はず」

      悲痛に顔を歪める。そんな可能性を考えることすら忌まわしいと、頭を振って思考を振り払う。何か、僅かでもいい、取っ掛かりを得なければ。

      「これは……?」

      ふと、視界の隅で揺れる存在に意識を奪われる。吹き抜けるそよ風に揺さぶられたそれは、時折赤黒いものをちらつかせ、こちらを手招きしているように思えた。アスレチックの端に結び付けられた、傷んだ布切れ。赤黒い染みは結び目を含む全体にあって

      「――」

      布を解き、それを広げる。落ち着きを取り戻しつつあった心臓が再び大きく脈打つ感覚。大きくない布だ。中央に赤黒い染みがある。それは禍々しく存在感を放ち、スバルにある意思を叩きつけた。

      『北東の森に来い!』

      文字だけ見ればあまりに馬鹿げた言い回しだった。おまけに感嘆符まで添えるとは程度が知れる。これが血文字でなかったなら、どこの果たし状だよ!と一蹴したいところ――と、ある違和感に思考が詰まる。あまりにも自然に受け入れていた。当然だ、スバルにとってそれはあたり前のことだったから

      「――にほん、ご?」

      それは紛れもなく、見間違いでもなく、ただ似ているだけでもなく。はっきりと、スバルが慣れ親しんだ言語をもって刻まれていた。

      弾かれるように顔を上げる。周囲をぐるりと見渡して、やはりそこには誰もおらず。手のひらにじっとりと汗が滲む。

      「何だって、それを――クソッ! 今は考えたってわかりっこねぇだろ! 考えるな、今はベアトリスの状況を考えて行動する事が最優先だ」

      布切れをポケットにねじ込むと、記憶の引き出しを乱雑に開け放ち、領地内の地図を広げる。北東に目を滑らせ、景色と照らし合わせてそちらを見やる。

      「あっち、か。確か手付かずの森……みたいなのがあったはず。また魔獣だらけでないことを祈るしかねぇか」

      ランニングコースと真逆の方向を睨みつけ、拳を握る。屋敷からそう距離は離れていないが、武器を取りに戻れば大きな時間のロスになるのは明白だった。大した武術も持たないスバルにとって、大きく戦力が変わるわけでもなく、むしろ会得した身のこなしの方が幾分か頼りがいがあるというもの。

      「これも含めて不幸体質だってんなら、改善の余地はあるかもな」

      身軽な装いで腑抜けていた自分に毒を吐き、目的の場所へと走り出す。来いというなら行ってやる。異世界人だろうが何だろうが、自分たちは人知を超えた存在と幾度となく対峙してきたのだ。今回だって必ず――抗うのを諦めない。

      それこそが、ナツキ・スバル、最大の武器なのだ。



      ※ ※ ※ ※ ※


      パトラッシュの散歩を兼ねた道すがら、この森を目にしたことがある。人の侵入を拒むように草木が密集し、迂闊に侵入すれば方角を見失って、簡単には抜け出せない自然の迷路。
      現屋敷からスバルの足でも三十分もかからないだろうというのに、領地が広大過ぎるためか、その気がなかっただけなのか、人の手が加わった痕跡はない。

      視界を阻む蔦のヴェールをかき分けて、地に目を落とす。これだけ荒れ果てた場所だ。ベアトリスに危害を加えた何者かがここで待つというならば、その痕跡が見つかるはず。

      「はず――なんだが、いまいちわからん」

      ボーイスカウトの経験でもあれば一目瞭然だったのかもしれないが、ある意味”箱入り”息子なスバルだ。しかし知恵はある。闇雲に探しても迷うのは目に見えていた。何か目印を残さねばと木の幹に手をあてて

      「通ったとこに印を入れ――ん、えぐられてる?」

      一筋の線だ。鋭利な何かが表皮をえぐり、その切れ目から肌色の木目が露出していた。

      「なるほど」と呟きながら、その印が示す方向へ目を移せば、同様の印がスバルを迎える。が、そちらの印は線が二重になっていて

      「なるほど、これを追ってけってか」

      焦る気持ちを押し殺しながら、冷静に、見失わないように慎重に、それが指し示す方向へと入り込む。鬼が出るか蛇が出るか。ただ一つ明らかなのは、スバルを誘い込むそれが同郷だということで、付け加えるなら、無能力に近い、ということだ。
      実際のところはわからない。しかしこの異世界において、”神”などという存在からまともな祝福が得られないことはスバル自身が証明していたし、プリシラ陣営の同郷、アルも似たようなものだ、と思われる。にしては、プリシラの騎士であることが不思議だが、それは同じく騎士であるスバルが言えたことではない。

      しかし、無能力と見せかけて、どちらも生き残る才を持つ曲者だ。無能力に近い、といってもそれが勝敗に影響するわけではないし、むしろ事態をより複雑なものにしていると言っていい。

      先を思うと心が曇るが、事が起こらなければ本領発揮といかないのがナツキ・スバルの祝福だ。雑念を捨てて印を追うことに集中する。

      一、二、三、と続いて十、十一、十二、十三、からの一、二、三と繰り返し追ううち、スバルは薄暗い森の奥深くへの導かれ、そしてその先――根本にぽっかりと大口を開けた大樹がスバルを待ち構えていた。

      その穴の周辺には、まだ新しい靴跡が残っている。はっきりとはわからないが、何者かの出入りがあったことは疑いようがない。その暗闇は、スバルが身を屈てやっと入れる程度のもので、地中深く、闇に向かって格子状の足場が続いていた。

      「滅茶苦茶怪しい。っつか領地内に何でこんなのがあるわけ。昔の遺跡とかそんな感じか」

      こんな状況でさえなければ浪漫と冒険を求める男心に火がついたかもしれないが、今は苛立ちが滲むだけだ。

      「そこにいるのか!?」

      投げかけた声が闇の奥底で反響し、こだまする。返事はない、ただの穴のようだ。このままでは埒が明かないと、足場につま先をかけて慎重に身を下ろしす。身長の三倍ほど潜った頃、つま先が地につく感触。

      徐々に暗闇に目が馴染み、周辺の壁が淡く発光している事に気づく。岩肌のように硬い土の層に混じる魔石が発光しているように見えた。心許ないが足場を確認するには十分だ。

      「ベア子……どこにいる」

      罠の可能性も捨てきれない。単なるブラフにしては誘い込む手が込んでいたが、無能力故の策謀とも考えられる。スバルは神経を張り詰めながら、壁伝いに奥へと進んだ。通路は狭く、しかし枝分かれすることなく、続いている。

      と、通路をしばらく進んだところで大きめの空間に出た。そして、壁際。小さな体を更に小さく丸めた紅一点。

      「大丈夫か!!」

      鎖が絡みついた鉄格子がスバルとベアトリスの間を阻む。格子の扉に絡みついた鎖は複雑に編まれているものの、錠はない。スバルはそれに手を掛けて

      「今出してやるからな!」

      金属音を五月蝿く奏でながら少しずつ鎖を解き、最後に格子から思い切り引き抜いて床に投げ捨てると、膝を抱え蹲ったままのベアトリスに駆け寄り、抱きしめた。冷え切った体は僅かに震えていて、スバルの胸がちくりと痛む。

      「無事だったんだな。何があった。兎に角ここから出て――」

      派手な衝撃音が耳をつんざく。頭を跳ね上げて振り返ると

      「隙あり! っと」

      軽口をたたきながら鉄の扉を閉める人影。スバルが扉に駆け寄るより一手早く鎖を一巻きすると、そこに魔石が埋め込まれた錠を掛ける。

      「てめぇ!! ふっざけんな!」

      駆け寄った勢いをそのままに格子の隙間から影への手を伸ばす。その指先が深く被られたフードに僅かに触れるも、影はひらりと身をかわして、捉えるには至らず空を切る。

      「あっぶねぇ、ちょっと焦ったわ。ま、でもなかなか上手く行ったろ」

      影は大げさな動きで胸を撫で下ろし、激しい音を立てて扉を抉じ開けようとするスバルを嘲笑う。その声と言い回しはどことなく耳馴染んだものだ。しかし、小気味いいものではなく、むしろ癪に障る気持ち悪さがあって、スバルは目を細め、フードに隠れた顔に目を凝らす。
      そんなスバルを察した影は口元を歪ませ、フードを手で肩に落とし

      「けど、我ならがどんくせぇなって呆れるよ。危機感が足りないんじゃねぇの? なぁ、ナツキ・スバル」

      「――は」

      顕になった顔を見て、時が止まる。呼吸を忘れ、乾いた声がもれた。
      フードの下。露わになった顔は、スバルと瓜二つ――否、スバルそのものだったのだ。

      「お前さぁ、あの子だけじゃなくて、そんな幼女まで手篭めにするとか、異世界ハーレム堪能しすぎだろ。風のウワサじゃ双子メイドまで囲ってるとか? どこのラノベだよ」

      まったくもって羨ましいね、とあざ笑うように付け加えてから、スバルと同じ顔をしたそれは鋭い視線を投げ返す。その瞳は仄暗く、軽口とは反対に何の感情も持っていない。
      『スバル』の眼差しに気圧されながらも、それを奥歯で噛み殺し

      「手篭めじゃねぇ……。けど、まさか幼女誘拐犯が俺と同じ顔をしてるたぁ、どこまでもふざけてやがる。この世界に飛ばされてからわけわかんねぇことの連続だけど、これは流石に、あまりに馬鹿げてて――正直ドン引きだわ」

      じっとりと、背中に冷や汗が滲むのを感じる。姿見だけ真似た偽物だと撥ねつけよう思っていた。けれど『スバル』の言葉はあまりにも本物のそれで胸焼けしそうだった。

      「あえて聞く。――お前は、誰だ」

      押し殺したはずの感情が、僅かに声を震わせる。
      その焦りが、混乱が、言い知れぬ悍ましさが、二人の間にしばしの沈黙を作った。

      「……うーん」

      沈黙を引き裂いたのは、間の抜けた唸り声。『スバル』は眉間に皺を刻みながら、腕を組み、首をひねる。そして、ひとしきり唸った後で、ぱっと顔を上げ。

      「――」

      細められた黒瞳がスバルを射抜く。色が無く、濁りきった輝きだけが宿っていて、スバルを見ているようで見ていない。もっと遠くにある別のナニモノかだけを一点に捉えたまま

      「俺は――魔女教大罪司教『傲慢』担当、ナツキ・スバルだ」

      何を、言ったのか。言葉の後、場を静寂が支配する。

      こいつは今、『傲慢』と言っただろうか。確かに『傲慢』にはまだ出くわしていない。鏡写しの姿になれる、これが奴の”権能”なのか? 違う、そういうことじゃないだろう。そんなに上手く、ナツキ・スバルになれるはずがない。

      だとしたら、こいつは――?

      「傲慢……だと……」

      スバルの声に『スバル』は笑みをより深く刻み肯定とすると、開手を打って区切りとする。そして、飄々とした態度で壁にもたれかかると、羽織ったローブの内側から一冊の本を取り出してみせた。

      「まぁ言いたいこともわかる。だから、少し話をしよう。それくらいの時間はお互いにあるはずだろ?」

      真っ黒な装丁。手のひらに収まるほどの小さな経典。魔女教徒が例外なく、たいそう大事に抱えている福音書そのものを手に、『スバル』はそれを開いてページを捲る。

      時間、という言葉にとっかかりを覚えながら、スバルは背後で膝を抱えたままのベアトリスに意識を傾けるが、スバルに現状を打開する術はなく、しかも相手が”本当”に『スバル』なのであれば分が悪い。そんなスバルを気にかけることすらせずに『スバル』は語り始めた。


      ――ある、男が居た。なんとも哀れな男が。
      華々しい青春の一頁目に、自ら泥を塗りつけて、一般社会に馴染めなかった人格破綻者。

      お先真っ暗な男に訪れた、突然の転機。
      そう、『異世界召喚』だ。

      嗚呼、お父さん、お母さん、お元気でしょうか。親不孝をお許し下さい。男にはどうしようもない不可抗力だったのです。

      そうやって、突如始まった異世界生活だったが、男にはチート的能力も、悪を滅ぼすエクスカリバーも与えられず、開幕早々チンピラに絡まれる始末。ピンチになった今こそ、本領発揮と意気込んだ矢先、無慈悲な暴力が男を打ち砕いた。

      しかし、全てを諦めた男に差し込む一筋の光。
      それは世界を照らす銀色の輝きで、男をピンチから救い出したのだ。

      その超絶どストライクな銀髪ハーフエルフと出会い、男の異世界生活は順風満帆――に思えたのだが、あっけなく、あまりにも簡単に、男の世界は閉ざされた。


      パタン、と軽い音を立てて福音が閉じられる。同時に軽快な語り部が止み、

      「俺の傍に居ると、あの子は不幸になる。わかるだろ……」

      か細い、小さな声だ。『スバル』の悲痛な胸の内が、スバルにだけは痛いほど理解できた。その心を蝕む闇の大きさも、その深ささえも。
      ナツキ・スバルだけが知り得る失われた世界を知る男。現実を突きつけられて尚、スバルはそれを呑み込みきれないでいた。

      「俺が側で何かする度に、あの子が死ぬのを何度も見た。そして、最後に突きつけられた現実は圧倒的な『力』の差。何度繰り返したって力がなければ救えない」

      圧倒的な力――剣聖の助力によって、スバルも死のループから解き放たれた。しかし、運命を切り開いたのは剣聖の力だけではない。エミリアとパックに指示を飛ばし、自分を犠牲にしてまでフェルトを逃がそうとした抗いの末、助力を得ることができたのだ。
      しかし、『スバル』は違う。非力を嘆き、力に焦がれ。そして――

      「だから俺は、『道具』を上手く使うことにした。『あの子の願い』を叶えるために」

      「道具……?」

      「『腸狩り』に『魔獣使い』。王都最高峰の治癒術師とかいう『青』に『死の商人』。使えるものはなんだって使った」

      いよいよもう限界だと白旗を上げたい気分だった。それ程強烈な嫌悪感。さも当然と言った様子で語る『スバル』に手が届くなら、その頰を全力で殴りつけたことだろう。

      「それで、道具として魔女教まで利用したってのか」

      「そゆこと。他に行くあてもなかったし、福利厚生が良いなら悪くないだろ。あ、でも勘違いすんなよ! ペテさんにはそこそこ世話になったが試練とか言ってあの子を殺そうとするから、ちゃんと始末しておいた。それに、他の大罪司教もそうだ。それ以外にも、あの子の敵陣営を引き摺り下ろすために最優を殺したりして。そうそう、折角青を拾ったのに目を離したらすぐ自殺するから滅茶苦茶苦労させ――」

      「――は。今、なんて」

      「んあ? いや、だから最優を殺したり、拾った青に苦労させられたりしたって話。あー……、お前は仲良しゴッコしてんだっけか」

      「――」

      目眩がした。ほんの少しの掛け違いで、自分がこんな悪辣なものになってしまっていたという現実に。込み上げる苛立ちは目の前の自分にだけではなく、スバル自身に対するものでもあった。
      鉄格子を握りしめ、もたれかかるように項垂れる。『スバル』は魔女教を利用するために『傲慢』の座に自ら座ったと雄弁に語ったが、その『傲慢』さこそ、まさにその座が求めていたもので――

      「ロズワールが求めてたのは、こういう俺だったのか? 全てを犠牲にしてエミリアを王にする悪魔。いや――それよりもっと最悪だろ」

      「辺境伯の思惑なんざ興味ねぇけど、エミリアが王になるってことは、あの子の願いが叶うってことだ。最悪どころか最高のエンデ――」

      「間違ってる」

      顔を上げ、毅然とした眼差しで『スバル』の言葉を打ち消した。その理性的な声に怯んだのか、軽快な語り部は止み、無音となる。そして、強く握られた扉が僅かに揺れてぎしりと軋み

      「いい加減にしろ。何が願いを叶えるだ。お前はエミリアの何もわかってない! 誰かを犠牲にして王になって、それであの子が喜ぶわけがねぇ! お前はエミリアに、お前の願望を無理矢理に押し付けて――泣かせるんだ」

      「――それでも、俺は、間違ってない」

      「いんや、間違ってる。お前は自分の過ちを認めたくないだけだ。俺を否定しなきゃ立っていられない。そりゃそうだよな。散々ぱらヤラカシて、殺さなくていいやつまで手にかけて、お前が俺なら多少は良心が痛んだろ」

      「――」

      「それで、今度は何をヤラカしに来た。エミリアの傍に居る俺が憎くて殺しに来たか。それとも自分の方がエミリアを王に出来ると自惚れたのか? 何だっていいけどよ、これだけははっきり言っといてやる」

      『スバル』を睨みつけ、自らの胸に片手を添える。誓いを立てるように。自分という存在が揺らがぬよう、脈打つ鼓動を確かめながら

      「お前が俺を認めたくないように、俺もお前を認めない! お前の存在そのものが過ちだ」

      言い切る。そして、

      「ぷ、ははっ――傑作だなこりゃ」

      『スバル』は嗤っていた。仲間の馬鹿げた話を聞いた後のようにしゃあしゃあと。そして、鉄格子越しのスバルを指差し、

      「いいか、ナツキ・スバル。お前は今、滅茶苦茶不利な状況だと言っていい。そこの大精霊を頼りにしてんなら諦めろ。そいつは今俺の手の内にある。んでもって、お前最大の武器も意味がない」

      「なに」

      「わかってると思うが、その大精霊とお前の契約は破棄させた。福音書ってこんな使い方もあるって知ってた? 言うて、俺も受け売りなんだが」

      『スバル』は福音書の間から、四隅が焼け付いた一枚の紙切れを持ち上げ、はらりと揺らす。

      「まさか――ベア子の福音」

      「大正解! そして、ここにチョチョイのチョイっと落書きしてやると、アラ不思議」

      スバルに向けて、くるりと紙切れが裏返される。そこには殴り書きのイ文字が赤く滲んでいて

      「『既存の契約を破棄し、新たに傲慢と契約せよ』とか、それっぽいことを書くだけで、そいつは俺の『道具』になる」

      ――無茶苦茶だ。確かに福音は未来を記す経典だと聞く。
      しかし、それはあくまで”道標”ではなかったのか。原理は不明だが、持ち主の心まで縛り付けるものなのだとしたら――そして、他者がそこに”未来”を刻めるというならば。

      「ふざけてる。人の心を捻じ曲げて、その上『道具』だ? お前はそれで平気なのかよ。何も感じないのかよ! 何でそうなっちまうんだよ。おかしいだろ……」

      「そりゃあ、その必要がなければやらねぇよ。でも目的のために手段を選り好みしてらんないだろ?」

      烈火の如く怒りを吐き出すスバルが理解できないといった様子で首を傾げた後、『スバル』は焼け焦げた紙切れを福音の間に戻してローブの中に仕舞い込む。そして、ひょいと指を一本立て

      「で、後もう一つの方なんだけど、こいつは結構重要な話だ」

      言いながら『スバル』は、もう片手でも指を一本立てて示し、左の指を数回曲げて「こっちが俺」、また逆を数回曲げて「こっちがお前」と付け加えると

      「いいか、俺もお前も元は同一の存在だ。同じ力を持ってる。そんな二人が、同じ盤上に存在して、仮にお前が死んだとする」

      右の指を下ろして見せつつ、

      「その時、盤上はどうなると思う? そう、俺が残ってる。盤自体が消滅する可能性もあるっちゃあるが、それはそれ。試してはいない。だからこれはあくまで、俺独自の推論だ」

      残された左の指を上唇にあてがって、くすくすと笑う『スバル』には余裕が見える。それもそのはずだ。最大の武器に頼れないスバルが状況を打開する術は無いに等しく、加えてベアトリスの力を借りることが出来ないとなると――

      「試してみたいなら力を貸すぜ?」

      『スバル』はローブをひらりとはためかせ、腰に携えた短刀を見せる。
      一昔前のスバルなら、状況に変化をもたらそうと、誘いに乗った可能性も捨てきれない。が、今は

      「――断る。俺は、生きれるだけ生き抜いて、どんな醜態を晒したって、足掻くことにしたんだ。だから、自ら死を選んだりしない」

      「何だそれ、アホかよ。システムは上手く利用してなんぼだろ? ま、死ぬのが嫌なのは俺も同感だけど……」

      誘いに乗らぬスバルに、つまらないといった様子で肩をすくめてみせると、『スバル』は短刀の柄に手を掛けてこちらを見やり

      「折角俺が介錯してやろうってのにツレねぇなぁ」

      柄を持ち上げ、僅かに銀色の刀身を露わにすると「自分殺しってめっちゃ背徳的」と、相変わらずの軽口をたたく。
      身の危険を感じ、鉄格子から身を遠ざけるも、『スバル』は「ジョークだよ、ジョーク!」と軽くあしらい短刀を鞘に戻す。

      「殺したいのは山々だが、そこの大精霊サマとの契約でね。『俺は、ナツキ・スバルを殺さない』そして『ベアトリスも双方のナツキ・スバルに加担しない』。オーケー?」

      それがベアトリスからの提案だったのか、はたまた『スバル』からの提案なのかは分からない。しかし、それによって”時間”の猶予が与えられたのは事実だ。スバルが死ねないというのなら、それは相手にとっても同じこと。余裕はない、しかし互いが生きている間、盤上は膠着状態に――

      「俺はお前を殺したい。けど、大精霊の手前それは無理。が、いずれ酸欠で死んじゃうとか、餓死しちゃうとか、そういうのは仕方ないよなぁ。今すぐに、必ず死ぬかって言うとそうでもないし、もしかしたら誰かが助けにくるかもしれないし、何らかの方法で奇跡の脱出劇を見せてくれるかもしれない。つまり、契約を反故にしたとは言えないだろ」

      「ッ……そういうのアリかよ」

      「ありありだ。じゃ、そろそろお喋りも飽きてきたんで、俺、行くわ」

      言い終わるより早く、それは身を翻しフードを深く被り直して

      「ちょ、おい! 待て! どうする気だ!」

      「待たねぇよ。じゃあ、さっさと死ねよ」

      その背中に、鉄格子から精一杯手を伸ばし、掴めるはずのない場所にあるそれを手繰ろうと力を込める。しかし、それはなんの手応えもなく暗闇を掴むだけ。
      代わりにと扉に手を掛け、力任せに前後に揺さぶってみるも、鎖が耳障りな音を奏でるばかりで何ら変化ももたらさない。鎖を結ぶ錠に込められた何らかの魔法の影響なのか、鎖は青白く輝き、封印をより強固なものにしているように感じられた。


          *****


      スバルが錠と戯れるのを尻目に、『スバル』は地上へと這い上がる。
      伸びをして新鮮な空気を肺腑の奥まで染み込ませた後、背後の大樹へ向き直り、その表皮を縦にひと撫で。すると、瞬きの間に大口は消え去って、そこにはただ、悠然とそびえる大樹だけが残された。

      「異世界不思議パワーって凄まじいな。秘密基地どころの騒ぎじゃねぇ」

      そのスケールの大きさに関心しきりの『スバル』の背に、何ら前触れもなく複数の影が人形を作る。それを慣れた様子で振り返り

      「秘密基地作成ご苦労さん。お陰で助かった。なんかよくわかんねぇ仕組みだったけど、説明不要。じゃ、監視の方、引き続きヨロシク!」

      影――否、勤勉な魔女教徒諸君に軽く手を上げ激励すると、それは恭しく頭を垂れて、再び人形を失い、地に崩れ、消失する。一番説明して欲しいのはその謎めいた力の方、と言いたいところだったが

      「――ぁ。辺境伯邸まで担いでいってもらえば良かったな」

      冗談なのか本気なのか、曖昧な呟きをもらしたあと、『スバル』は”スバル”としての一歩を踏み出す。その軽快なステップは心躍る躍動でありながら、踏み込むたび、スバルの頬を固くした。

      あの子に会ったら、まずなんて言えばいいんだろう。
      あの子に『エミリア』なんて、気安く呼びかけていいんだろうか。
      高鳴る胸を隠し、平静を装うことが出来るだろうか。
      あの子が使役する大精霊に、心を見抜かれてしまわないだろうか。
      あの子は、俺の名を呼んでくれるだろうか。
      あの子に、――――
      あの子が、――――
      あの子は、――――





      「っと……」

      あらゆる可能性を脳裏に描いては消し、描いては顔を赤くしていたスバルは、文字通り「あっ」という間に辺境伯邸の前に立っていた。

      ふと見上げた空は朱色に染まり、赤黒い雲が波のような筋を作る。それを黒瞳に映し、愛おしげに目を細めたところで、自分を呼ぶ音色に気づく。昏く長い影が指し示す先、しなやかな手が左右に揺らされていた。つられて波打つ銀髪が夕日をうけてキラキラと輝いて

      「――――」

      赤らむ顔は夕日を受けたものだったのか、高鳴る鼓動がそうさせたのか。
      それは、『スバル』にしかわからない。



      ※ ※ ※ ※ ※


      「もう! すごーく探したんだから」

      スバルの眼前に人差し指を突き出して、銀髪の乙女がぴしゃりと言い放つ。
      ほんのり桃色づいた唇は口角を下げているが、その吸い込まれそうな紫紺の瞳には、激情とは程遠い、子を叱りつける母のような愛情が宿っていて

      「……よかった」

      そう言って、目尻を下げると長い睫毛に縁取られた紫紺が揺れる。それはひどく安心しきった様子で、スバルの胸に鈍い痛みが染み出した。

      「ペトラと一緒にずっと探してたのよ。昼食にも来てないって言うから、私もすごーく慌てて。また――何かあったんじゃないかって、心配で仕方なくて……」

      銀鈴の音色がスバルの耳を優しく撫ぜる。その心地良い音色に聞き入っていると

      「――スバル」

      親しげな声色がスバルに呼びかける。
      彼女の何気ない一声が、スバルにとっては夢にまで見たそれで

      「どうか、した?」

      押し黙るスバルを見て、不安の色が濃くなるのが分かった。
      返す言葉は持っている。ここに至るまでに丁寧に復唱した。けれど――

      そよ風にさらわれた髪をなでつける、彼女の何気ない仕草さえ神々しくて、考えていた言葉の数々が真っさらになってしまう。
      しかし、それでも何か。彼女に答えなければと気ばかりが焦ってしまい

      「あ、あの――ごめん。そう、だね。心配させてごめん……」

      不器用に絞り出した声は、とても小さくて、あまりにも頼りないものだった。いつもの詭弁は一体どこへ引っ込んでしまったというのか。肝心なときほど役に立たない有り様は、それこそ自分を体現しているようで――

      どうか、彼女の顔がこれ以上曇らないようにと願いを込めて「――ごめん」と、自らの醜態を重ねて詫びた。

      「何か、あった? スバルはいっつも、一人で抱え込んじゃうんだから」

      何か言い淀んでいるように写ったのか、彼女は寂しげに眉をひそめる。しかし、次の瞬間には「困った騎士様ね」と添えて、小さく笑う。

      「あ、ああ。ちょっと、今日は体調が優れなくて。ベアトリスに介抱してもらったり」

      「最近ずっと無理してたんだから当然ね。ベアトリスにまで迷惑かけるなんて、もっと駄目なんだから」

      ベアトリスのことを、ナツキ・スバルは何と呼んでいただろう。ベア子、と言ったか。やっぱり、ベティだっただろうか。
      そのどちらも声にする勇気が出ないまま、彼女に合わせて言葉を紡ぐ。

      ナツキ・スバルは、彼女とどんな風に話すのだろう。
      こんな喋り方で本当によかったんだろうか。
      昔、自分が彼女と言葉を交わした時は一体どんな風に接したか。

      忘れてしまったわけではない。
      ただスバルの中で、彼女があまりにも尊い存在になっていたから――

      「それで、ベアトリスはどうしたの?」
      「ん。心配ないよ。ちゃんと繋がってるから」

      問うに落ちず語るに落ちると、間をおかずに返答する。そして、これ以上この話題を続けまいと、彼女に手を差し出して

      「エミリア、行こう」

      白くきめ細やかな指先がスバルの手のひらに合わると、同時に大きな胸の高鳴りを感じて、もう片手で思わず胸を押さえつける。今はまだ、自分がナツキ・スバルであって、そうでないことを知られなくなかったし、この素直過ぎる反応を見られたくなかった。

      「――ええ」

      ほんの少し、何か言いたげな沈黙があった。けれど、エミリアは微笑み一つでそれを濁す。
      それが、ナツキ・スバルへの全幅の信頼からくるものだということは明白だった。当然、自分の身には余るもので。

      これが、スバルの”本当”であったなら――どれだけ幸福な日々だっただろう。
      ナツキ・スバルの日常を知るごとに、スバルは自分という存在が、とてもちっぽけに思えた。

      エミリアに手を引かれ、荘厳な屋敷の中に招かれる。真新しい光沢を持つ贅沢な内装。まさに順風満帆な異世界生活だっただろう。闇に紛れ暗躍し、その手を血で汚す日々だったスバルには、それはあまりに眩しいものだった。
      実際、スバルが考えているほどに、ナツキ・スバルの異世界生活は順調ではなかったし、多くの難題を抱え、似た苦しみを持っていた。別の手段を選んだだけで、二人に歴然とした差はなかったのかもしれない。

      しかし、スバルの瞳に映ったナツキ・スバルはエミリアの『英雄』そのもので――

      顔に暗い影が落ちる。前を向いていられなかった。このセカイの現実が、スバルにとっては毒そのものだから。ナツキ・スバルを壊そうとしていたはずなのに、傷だらけになっていくのは自分の方などと、滑稽にも程がある。

      スバルが暗がりに心を浸していると、先導するエミリアの足が止まった。
      半歩遅れてそれに習い、顔を上げると、銀色の装飾に縁取られた扉があって

      「今日はゆっくり休んで」

      「ああ」

      スバルの体をいたわるエミリアにうなづいて、

      「明日は私と、お話しましょう」

      「……そう、だね」

      たどたどしく肯定すると、繋がれた手にエミリアのもう一方の手が重なって、スバルの手を包み込む。ほんの少し前までならば、顔を赤くし、心を絆されていただろう。しかし――

      「……また、明日」

      スバルは決別の言葉を紡ぐと、包み込まれたばかりの手を引き抜いて、紫紺から逃げるように顔を背けると、部屋の扉を押し開く。背後で寂しげに佇むエミリアの気配を感じながら、その思いを断ち切るように、間をおかず扉を閉じた。

      薄暗い部屋の中。扉にもたれかかったまま動けないでいるスバルと同じように、エミリアもしばらくその場に立ち尽くしていたが、か細い声で「おやすみなさい」と呟いた後、足音が遠ざかり静寂が戻る。

      夕日が落ちて、窓辺から薄明かりが差し込む。扉に背を滑らせて、その場に腰を落とすと、膝を抱え、そこに額を寝かせる。未だ手のひらに残る柔らかな手の感触。それを横目に見て息をつく。

      「俺は、ナツキ・スバルじゃない。そんなことくらい、わかってる」

      誰に語りかけるわけでもない。けれど、声に出さずにいられなかった。自分自身に、はっきりと言い聞かせる必要があったから。

      「あいつと違って俺は、君に触れることなんて許されない。汚れてるんだ。拭っても拭っても、拭いきれないほど汚れてて」

      拳を固く握る。爪が手のひらに食い込んでじんわりと痛んだ。この痛みが、自分という存在を確実なものにする気がしたから、力を更に強くする。

      「――あいつを殺して、すげ代わったところで意味がない。俺とあいつは同じなのに、全く違う。こんな生き方、俺は知らないんだ……」

      小さく、肩が震える。握りしめた拳から赤い筋が流れて、冷え切った床にぽつりと落ちた。

      「けど俺は、俺の手で、君を王にすることを諦めない。それを失ったら俺は――空っぽだ……」

      スバルは自身のそれを、あまりにも虚しい嘆きだと思った。それしか出来ない。それしか知らない。だから――

      「俺は、君のために。
       君を泣かせてしまっても。
       必ず君を、王にするよ」

      ひどく純粋な誓い。そこには、邪な思いも、詭弁も、微塵の悪辣さすら存在しない。
      ただその誓いが、あまりにも純粋すぎが故に、スバルは過ちを繰り返す。
      誓いのために、それ以外の何者も目に留めず。その歩みを阻害する全てを殺し、侵し、蹂躙して、踏みにじる。

      夜闇が、凛とした静寂が、男の体を抱きとめる。そして、今にも泣き出してしまいそうなそれを撫ぜ、優しいまどろみの中に連れ去ってゆく。


      今はただ、束の間の休息を――――。


          *****


      コンコンと木を打つ音がして、スバルは現へ押し戻された。
      薄目を開ければ、固い床がすぐそこにあって、窓辺から差し込んだ陽光が荘厳な室内を照らし出しているのが見えた。

      「――ぁ、さ?」

      ぼんやりとした頭を覚醒に導こうと上体を起こしてみると、銀の装飾に縁取られた扉がスバルの背を抱きとめる。どうやら、思案を巡らせながらそのまま寝入ってしまったらしい。
      固い床に押し付けられていたせいか、体のあちこちが痛んだが、いかに豪華絢爛な部屋であろうと、ナツキ・スバルの寝台で眠るよりかは何倍もましだった。

      一言、ナツキ・スバルへの悪態でもついてやろうと、乾いた口を開けたその瞬間、背後から今一度扉を打つ軽い音が響いて

      「――んぁ、何か?」

      扉越し、姿の見えない音の主へ腑抜けた声を投げかける。窓枠の影の伸び具合から察するに、正午過ぎといったところだろうか。体調不良と訴えていたスバルをこの時間までそっとしておいてくれたなら、なかなか心にくい演出だ。音の主はエミリアだろうと脳裏に描き、立ち上がると

      「スバル、体調はどう? お腹、減ってない?」

      そこに昨晩の重苦しい空気は既になく、スバルの体調を気遣う心地よい銀鈴の音色が返ってきた。若干の引け目を感じながら、扉を僅かにあけて外を覗くと、中を窺おうとするエミリアの紫紺とかちあって、弾かれたように顔を離す。
      それに呼応する形で、エミリアが扉を押して

      「髪も乱れてるし、服も昨日のままじゃない。それに、やっぱりベアトリスは一緒じゃないの?」

      肩幅程の隙間からスバルの部屋をくるりと見渡すと、スバルの装いに苦言を呈したついでに、痛いところをついてくる。昨晩と変わらぬ黒ずくめの装いを軽くはたき、その手で額に垂れた前髪をなでつけて

      「ああ、だいぶ疲れてたみたいで、みっともないところを。えと、ベアトリスには頼み事をしてあって――またあとで話すよ。それから、食欲ないから、飯はいいかな」

      あとで、という言葉に眉を潜めながら「また危ないことしてないといいけど」と、スバルに届くか届かないかといった声で苦言を呈する。しかし、それを瞬きの間に微笑みへと変えて

      「スバル。今日は私と『でぃと』しましょう」

      「でぃ……と、ってと?」

      日常から程遠い場所にあったスバルは、エミリアの提案に首を捻る。しかし、一拍遅れで『でぃと』なる単語の意味するところに気がついて、顔を赤くしながら遠慮がちに首をすくめ

      「そ、それは……着替えないとだけど……」

      「言っても、ただのお散歩だけどね」

      エミリアは、桃色の唇にぺろりと舌先を覗かせて悪戯っぽく笑った後、「ここで待ってる」と添えて扉を閉める。『でぃと』等と馬鹿げた話だ。これから君を泣かせてしまうというのに、何ともお気楽じゃないか。しかし、話をするには都合がいいと、着替えを探して視線で部屋を一周。それらしい家具の引き出しを引いてみると、流石はナツキ・スバルといった黒い装いが丁寧にしまい込まれていた。「ちょっと拝借」と一言断ってから古着を脱ぎ捨てて、それに袖を通す。
      装いに大きな変化はない。汚れていた箇所が綺麗になったというぐらいで、辿る道が違っても、基本的なところがブレないのは、さすが同一の存在といったところか。
      そんな、よくよく考えれば当たり前のようなことを思いつつ、鏡を見て髪に手櫛を通す。

      こちらを見つめる瞳は、昨日見たばかりのそれと同じで、一瞬緊張で体が強張る。魔女教徒からの報告はない。まだ息があるのだろう。秘密基地にはそれなりの広さがあったし、空腹に飢えることはあっても一日二日で低酸素云々という所まではいかないだろう。

      鏡越しのそれをナツキ・スバルに見たてて、睨みつけると、

      「安心しろ。『でぃと』なんてお遊びに付き合う気はさらさら無い。ここは俺には居心地が悪すぎる。さっさとおさらばして、俺なりのやり方を見せてやるよ」

      言い終えたところで、エミリアが待つ扉に向き直り、軽く咳払いしてから、ポケットに手のひらサイズ程の本の感触があることを確認し、ドアノブに手を掛けてエミリアが待つ廊下に顔を出す。

      「あ。スバル、準備はできた? じゃあ、いきましょう」

      昨夜とは逆にエミリアから、しなやかな手が差し出される。
      仲良く手を繋ぐつもりはさらさら無かったが、それに従う以外の選択肢なく、おずおずと手を出すとエミリアが軽く握り返して、

      「このお屋敷に越してきて暫く経ったでしょう。フレデリカとペトラが中庭を手入れしてくれてたんだけど、温かくなってきたから、お花が咲き始めたの」

      嬉しそうに中庭の様相を語るエミリアの横顔は端正に整っていて、雪のように白く、透き通った頬に咲く桃色が、その美貌をさらに完全なものにしていた。それを見て、つい顔を赤くしてしまうが、自分がすべきことを脳裏に描きなおして、浮き立つ心を押さえつける。

      中庭は、屋敷中央の階段を下りた先で、様々な色を咲かせながらスバルとエミリアを歓迎した。ガラス張りになったエントランスに映えるその景色は、女性的なしなやかさがあって、とても可憐なものだったが、エミリアの美貌の前ではどれも引けを取ってしまうから罪深い。そして、エントランスホールのガラス扉を抜けて中庭へ出ると、芳しい花の香りが二人を包み込んだ。
      『ただのお散歩』と言うには贅沢過ぎる庭園だったが、スバルはその花々のことよりも、エミリアにいつ話を切り出せばいいのか、と、頃合いをつかめずにいた。



      「ねぇ、スバル」

      ひとしきり花の説明を終えた後、エミリアがふとスバルに呼びかけて、

      「今、こうやってしていられるのは、スバルのお陰」

      銀鈴の音色を奏でながら、エミリアが優しくこちらに微笑みかける。しかし、スバルの心では、それを打ち消す、全く別の感情が沸き起こっていて、

      ――それは、俺じゃない

      エミリアが微笑みかけているのも、この手握ってくれるのも、全てはナツキ・スバルの功績だ。それを踏みつけて捻り上げ、蹂躙している存在こそ、エミリアの目の前にいる悪辣なものなのに。

      「王様になるなんて、本当は無理だって思ってた」

      ――君は、王になれる。俺が必ずそうしてあげるから

      どんな犠牲を払っても、エミリアがその時、笑顔をなくしていても、そのたった一つの願いを、必ず叶えると誓いをより固くする。

      「でも今は違う。スバルと一緒なら本当になれるって思えるの」

      ――俺は、君と一緒にいられない。けれど必ず王にする

      一緒にいれば、エミリアが不幸になると確信していた。『力』がないスバルに出来ることはたった一つ。エミリアの窮地に駆けつけて、人知れずそれを打ち砕くこと。

      「いつも、助けられてばかり。
       だけど――
       私も、スバルの力になりたいの」

      ――ありがとう、エミリア


      君の心根は、最初から何も変わっちゃいない。
      その美しく尊い在り方こそ、スバルの魂を魅了して離さない。『ナツキ・スバル』という存在の根源は、いつもそれなのだから。


      「だから、聞かせて?」

      二人の間に、沈黙が生まれる。
      しかし、心の準備はとうに出来ていた。だからこそ、何度も立ち上がって、君だけ見て、それだけの為に、魂を削り落とせたのだから。

      けれど、それでも、悲しむ顔を見るのは辛くて。どうしようもなく、胸が掻き毟られる。

      沈黙を守るスバルに、やっぱり何も教えてもらえないのかと、紫紺を縁取る長い睫毛が伏せられる直前、スバルによって長い沈黙が破られた。

      「俺は――」

      エミリアの真剣な眼差しが、スバルを捉え、言葉を待っている。

      「――」

      それがあまりに真髄なものだったから、言葉を絞り出すのに時間がかかってしまって

      「俺は、君の隣にいられない」

      「どう、して――?」

      理解してあげたいけど、理解してあげれない。
      きっと、自分に何か足りていないからだと捉えて、けしてスバルを責めない、優しい憂いの色がある。

      「俺がいると、君は王になれない」

      「どうして、突然、そんなことを言うの?」

      「それは――」

      躊躇いはない、しかし次の瞬間、エミリアがどんな顔をするのか畏れていた。
      だから、ほんの少し間を置いて、息を呑み。
      ポケットから黒い装丁の教典を取り出して胸の前に掲げて見せると、

      「俺が、『傲慢』だから」

      「――――ぇ」

      中庭を吹き込んだ一陣の風が、落ちた花弁を巻き上げたあと、エミリアの美しい銀髪を撫でて去る。
      そして、そこからしばしの間をあけて、スバルはゆっくりと声にする。

      「俺は、君を王にしたい。
       だから、一緒にいることはできない。
       銀髪のハーフエルフと『魔女教』が一緒にいるなんて、そんなのは民衆がみとめない。まして、王の傍なんて以ての外だ」

      紫紺の瞳が揺れている、彼女の心を映すように。胸の前で細い手をきつく握り、その慟哭を押し込めようとしているように見えた。

      「必ず、君を王にする。
       君の願いを叶えてみせる。
       そして――――いつか、俺を殺してくれ」

      「――――」

      それはあまりにも苛虐な願い。
      しかしスバルは、その穏やかな終わりを渇望していた。

      常軌を逸した酔狂な微笑みは、ただただ愛しい銀髪の乙女に注がれている。
      本来なら甘酸っぱい思い出になるはずだったひと時は、今や、狂人によって穢され、踏みつけられていた。

      そして、スバルは福音をしまい、その場を立ち去ろうと――

      「それが――届いたからなの?」

      銀鈴が凛とした音色を奏で、『傲慢』の舞台を引き裂いた。
      俯いてなどいない。嘆いてなどいない。
      その毅然とも言える立ち姿は、狂酔したスバルを簡単に吹き消して

      「それが、届いたから、スバルはそんなことを言うの?」

      「――それは……」

      足元が崩れてしまいそうだった。
      難しい問いかけだったからではない。
      ただ、詭弁をまくし立てても、全て跳ね除けられてしまうのではないかと思える強さがあったから

      「そう、なのね?」

      気圧され、思わず後退する。まるで絶壁を背に、追い詰められた鼠のように。

      そして――

      つかつかとスバルの目前に迫ると、その手から福音を奪い去って、

      「ぇあ――」

      予想だにしない出来事に、スバルは微塵も抵抗できず、素っ頓狂な声をあげただけで

      「こんなもの」

      言いながら、福音を投げ捨てて

      「壊しちゃえばいいのよ」

      瞬間、虚空から氷の刃が生み出され、鋭い斬撃が宙を舞う福音に襲いかかり、幾重にも切り裂かれ

      「ゃめ――っ」

      はらはらと舞い落ちた。

      「――そんな」

      計画の一端を、いとも簡単に、修復不可能なほどの紙吹雪に変えられて――スバルはそれが風にさらわれていく様を眺めるしかなかった。

      福音を残骸を見て、呆然と立ち尽くすスバルの前で、エミリアは自らの腰に手を当てて、もう一方でスバルを指差し

      「スバルはスバルじゃない。与えられたからって、従う必要なんかないのよ」

      一点の曇りもない顔で、ぴしゃりと言い放つ。

      「も、もし、福音を破壊したら俺まで死ぬって設定だったらどうすんの! 力技すぎない? 君ってそういうタイプなの?」

      「でも、スバルは生きてるから問題ないでしょう?」

      「えぇ……」

      まさかの展開に目を白黒させるスバルであったが、福音書が破壊されたからといって、何ら計画に支障をきたすわけではない。
      計画の一端ではあったが、そもそもスバルの福音は『魔女教の福音書』を真似て作ったまがい物。
      故にスバルを『傲慢』たらしめる何かが変化するわけではなかったし、間に挟まっていた『ベアトリスの福音の一部』に関しても同じこと。それが破壊されたからといって効力がなくなる代物ではない――はずだ。

      「……残念だけど福音書を壊したって、俺が『傲慢』だってのはかわらない。だから――」

      「スバルには、『私の騎士様』って役目があるでしょ?」

      「――やく、め?」

      「ん。スバルはもう『私の騎士様』なんだから、それ以外になることなんてできないの」

      「――――」

      エミリアの高潔すぎる考えに、とうとう完全なまでに言葉を失ってしまった。
      ナツキ・スバルに与えられた役目を果たせと奮い立たせるその紫紺は、未完ながらも確たる王の器が形成されていることを感じさせる。

      しかし、エミリアは知らない。
      目前のスバルは『騎士』ではなく、ただの『傲慢』であることを。

      ――ただの『傲慢』?

      引っかかりを覚えて復唱する。

      銀髪の乙女と、その『騎士』スバル。
      そしてその前に現れた『傲慢』。


      ――あぁ、そっか
      俺は、『銀髪の乙女』とその『騎士』に、『殺される役』なんだ


      瞬間、胸がちくりと痛んだ。
      けれど、自分の中にすんなりと馴染んでいくような気がして


      ――このセカイのエミリアが王になるための礎になれるなら、俺は、全てを君のために捧げるよ


      「わかった、エミリア。
       俺は、俺の役目を果たす」

      決意に満ちた瞳は、どこか空虚だ。そして、間をおかずに続けて

      「俺は、君の『騎士』じゃない。
       君のナツキ・スバルはここにいない。
       だから俺はただの『傲慢』なんだ」

      瞬間、エミリアは理解できないといった風に表情を曇らせるが、

      「――君の『騎士』を返す」

      この言葉だけで、エミリアに全てを伝えることはできないとわかっていた。噛み砕いて説明するのも『死に戻り』を知らない人間には理解しがたいのは明白。故に、スバルは自分の影に視線を落とし、そして

      「――聞いてるか? とりあえず、ナツキ・スバルと大精霊を出しておけ。地上に放り出してエミリアに会える程度には適当に介抱しといてくれる?」

      すると、スバルの影に波紋が生まれ、そして静まる。
      そして、今一度エミリアに向き直り、

      「じゃあ、行こう。
       君の『騎士』様が待ってる」

      手を差し出したりはしない。
      それは本来、俺のものではなかったから。
      エミリアに森まで行くと話をして、パトラッシュという名の地竜を借りると、二人でその背に乗って森を目指した。

      途中、エミリアが「パトラッシュにもわかるのね」と小さく漏らしたが、スバルにはその意味はわからなかった。

      しばらく走った後、森から少し離れた位置にパトラッシュを待たせる。エミリア曰く、パトラッシュが混乱しそうだから、という配慮らしいが、スバルは軽く聞き流してエミリアの後に続いた。



      ※ ※ ※ ※ ※


      生暖かい闇の中にスバルはいた。人肌の温もりを感じる優しい世界。スバルが深い眠りに落ちる時、それはかならず現れて、そしてスバルの魂をまた別の――

      と、そんなまどろみから自分を連れ戻そうとする、眩しい光が差し込んで――次の瞬間、それが本当の陽光だと気がついた。

      ゆっくりと重い瞼をもたげると、ぽつり、と頬に雨が落ちる。
      視界には、木の葉の隙間から覗く澄んだ空と、残り半分を占める逆さまの少女があった。少女の大きな瞳からは、今まさに大粒の雫が落ちる寸前で揺れていて

      「――ベア子」

      スバルの声に、少女はその愛らしい口元をきゅっとつぐんで、何かをこらえるように嗚咽を漏らす。

      「――大丈夫か……?」

      ふっくらとした桃色の頬に手を伸ばすと、ベアトリスがそれを頬に迎え入れ、その甲に小さな手を添えた。

      「……ベティは、大丈夫なのよ。それよりもスバルは自分のことを心配した方がいいかしら。水は飲ませたけど、きっとくたくたに違いないのよ」

      ベアトリスは自分の非力を嘆くように、少し弱々しい声音で語る。濡れた頬と目尻をぬぐってやると、こそばゆそうに目を細めていて

      「ベア子が助けてくれたのか……?」

      酸素が行き渡っていなかったせいか、やや記憶が頼りない。肺腑の奥を新鮮な酸素で満たしながら記憶を手繰る。

      「なんの風の吹き回しかはわからないのよ。でも魔女教徒の連中がベティ達を外に運んだかしら。そしたら、その後ベティを縛る契約が解かれて……それからスバルに治癒を施したのよ」

      ベアトリスの膝に受け止められた頭を少し動かして、周囲の状況を確認する。木漏れ日が差す一角。傍には件の大樹があって、スバルを誘い込んだ大口はすでに無く、

      「そっか」

      全てがわかったわけではない。それでも、一つの脅威が過ぎ去ったのだということが理解できた。けれど、実際なんら抗うことも出来ず、幽閉されていただけなのだから居心地が悪い。
      事が起こり、スバルが奔走することで乗り越えてきたというのに。
      当然そのほうが苦しいに決まってる。しかし、手応えがないまま、完全解決というにはどうも歯切れが悪い。
      そんな状況で、ベアトリスの膝枕に甘えているわけにもいかず、

      「はぁ……なんか、よくわっかんねぇな」

      名残惜しい気持ちを隠さずに、ゆっくりと身を起こす。体の汚れを払い、ベアトリスの手を引いて立ち上がらせて、

      「そういえば、福音に書かれてたやつとかも大丈夫なのか?」

      『既存の契約を破棄し、新たに傲慢と契約せよ』などとふざけたそれを思い起こし、虫唾が走る。そのせいでベアトリスの心が捻じ曲げられてしまったのだから当然だ。

      「あれは……本当は、ベティの意思で振り払うことも出来たはず、なのよ」

      どこか歯切れが悪い。振り払うことができなかった事実を恥じているようで、ベアトリスはスバルから顔を背け、

      「ベティは、あれを前にして……迷ってしまったかしら。その迷いが、ベティを動けなくしてしまったのよ。……本物のスバルがわからなくなるなんて、ベティは――」

      「多分、あいつは『偽物』じゃない。あいつも『本物』の俺なんだ。違う選択をして生きてきた俺で、元を辿れば同じ存在――だと思う。俺もわかんなくなるくらいだし、ベア子が迷うのも当然だ」

      頭をぽんと手をおいて、くしゃりと撫でる。

      「多分、あいつはまだ存在してる。そんな気がするんだ。繋がりとかそんなの無いし、本当になんとなくだけけど、おそらく間違いない」

      ベアトリスの小さな背に合わせて、膝をおり、その視線と高さを合わせてから、

      「俺はあいつをどうにかして止めなきゃなんねぇ。あいつと対峙した時に、俺が俺を見失ってしまわないように、ベア子に隣りにいて欲しい。だから――」

      ベアトリスの華奢な肩に手を添えて、

      「――俺と、もう一度契約してくれるか?」

      「当たり前、なのよ」

      顎を引き、互いの額を合わせると、ゆっくりと目を閉じる。ベアトリスの可愛らしい息遣いをすぐ傍に感じて、スバルの心は徐々に熱を帯び――

      「スバルは、ベティの愛しい契約者かしら」

      胸に込み上げる熱い衝動がある。
      それが、はちきれんばかりに高まって。
      最後に、きらきらと弾け散り、強靭なつながりが顕現する。
      なくす前と繋がりのカタチは同じでも、これまでより更に強固な絆となって二人を結びつけていた。

      ゆっくりと額を離すと、ベアトリスの顔が耳まで赤くなっていることに気付いて、お互い顔を見合わせて笑いあった。そして、ベアトリスの手を取ると、その指先にマナの流動を僅かに感じる。立ち上がり、周囲をぐるりを見渡して、朧げな記憶を手探りしつつ森の外を目指す。

      『スバル』がここを立ち去ってから、外で何が行われたのかわからない。もし失われたものがあっても、それを知らなければ取り戻せない。そんな焦燥感にかりたてられて、足早になる。語らずともベアトリスも似た感情を持っているのは手に取るように分かった。

      再び印を頼りに森を抜けると、屋敷の方角を確かめて――と、前方から駆けてくる銀色の輝きに気がついて、

      「――――エミリアっ!!」

      そして、その少し後をついてくる忌々しい黒い影にも。

      「そいつから離れるんだ!」

      ベアトリスの手を握る力を強くして、合図する。相手の出方によっては――

      「スバル! ベアトリス!」

      エミリアがスバル達の元に駆け寄って「よかった、本当に」と安心しきったように笑う。
      同様にスバルもエミリアの無事を確認して安堵するも、間をおかずに『スバル』に鋭い視線を投げつけて、エミリアをかばうように前に出ると

      「てっめぇ! 無茶苦茶してくれやがったな。マジで死にかけただろうが!」

      スバル達から少し離れた場所で、気怠げに頭を掻く『スバル』に、激情を堪えきれず叫ぶ。

      「死にそこねて残念だったな。ま、新しい経験が出来てよかったろ」

      それは、ひどく残念だと言わんばかりに肩を落として言った。そんな態度にスバルが怒りを滾らせていると、

      「スバル。ベティにも言わせるかしら」

      繋いだ手をくいくいと引いて、スバルの怒りをを鞘に戻させると、『スバル』に向き直り

      「どうしてベティとの契約を破棄したかしら。ベティとスバルが再契約した今、お前は嬲り殺しにされるだけなのよ。それくらいわかっていたはずかしら」

      堂々と嬲り殺し宣言をするとんでもない幼女に、スバルはやや落ち着きを取り戻す。対するそれは、秘密基地――洞窟で邂逅した時とは別の、空虚な瞳をこちらに向けて、

      「お好きにどうぞ、ってことだ」

      「はァ? さんざんぱらヤラカシといて、今さら改心したとか言わねぇよな」

      「あぁまったく。その子と同じで、そう簡単に心根はかわらねぇよ」

      「――だろうな」

      心根は変わらない。スバルの在り方は道によって変われど、元を正せば同じこと。『スバル』と自分自身に嫌悪感を隠せないままでいると、

      「お前がいない間に色々わかった。
       んでもって、俺は『俺の間違い』を認めることにした」

      「な――」

      「俺は――知らなかった。
       知ろうとしなかったから。
       だけど、願いを叶えたかった。
       ――それしか、知らなかったから」

      その悲痛な胸の内に、スバルの胸が痛む。
      『スバル』がどんなセカイに身を置いていたのか、その一端すらはっきりは分からない。それでも、それはナツキ・スバルだったから、同じ痛みを知っていた。

      「俺は、間違ってたんだ。端から、全部。存在そのものが”過ち”だった」

      自分自身を嘲るように吐き捨てて、それは両手を広げる。抵抗する気は無いと示しながら

      「――俺を殺せ、ナツキ・スバル。
       それこそが、過って、過ちぬいた『傲慢』の結末だ」

      嗤っている。さぁ早くしろと、追い討ちをかける様にして

      「――っ」

      吐き気がした、あまりにも邪悪なそれに。
      相手は『傲慢』なら、それを滅ぼすのは正しいことなのかもしれない。けれど、殺せと言い張るその姿はあまりにも――

      「この役回りこそが、散々ぱらヤラカシてきた俺の、ツケなんだろうよ……」

      消え入る様な掠れた声だ。側にいなければ聞き取れないほどの、生きる事を諦め切った声。
      しかしそれは、スバルの心に鮮明に届いて

      「――っまえは……」

      ベアトリスの手を離し、拳を握りしめて、

      「っんな簡単に! 死のうとすんじゃねぇ! 俺だろ!」

      距離を詰め、『スバル』の胸ぐらを掴んで捻り上げる。

      「ッ――俺は、お前とは違う……」

      「いいや、お前は俺だ! はっきり言って、認めたくなんざねぇけどな」

      胸ぐらを引き寄せて、その空虚な目の奥深くを睨みつげる。その奥底にちらつく、非力を嘆くナツキ・スバルの瞳を。

      「っ……何で! 俺を殺せばそれでハッピーエンドだろ! 何が気に入らない! 本当は死にたくなんか無いって言えば満足なのか?!」

      それは胸ぐらをつかむ手を剥がそうと身を捩り

      「もういいだろ……俺は終わりたいんだ。散々なんだよ、こんなのは! 俺にツケを払わせてくれよ。その子が王になるための踏み台だ。うまい話じゃねぇか。自分を殺すのは気分が悪いってんなら、誰に殺させたっていい。ああ、そうだ。俺が自分で殺――」

      「もう、やめて。そんなこと、言わないで……」

      醜態を晒す『スバル』を肩越しに見守っていたエミリアが、苦しげに懇願する。

      「えみ、りあ……」

      「あなたは私を王様にしようとして。
       でも、それはよくない方法で……
       それでも、頑張ってくれたのよね」

      エミリアは、そのひとつひとつの想いを確認する様に投げ掛けて、

      「――でも、君は喜ばない」

      泣かせる、とまでは、あえて言わなかった。それはエミリアに聞かせたくないだけでなく、おそらくは『スバル』自身にとって辛い事だからで

      「そう、ね。きっとそう。
       でも――ありがとう、スバル」

      エミリアは否定しなかった。
      その結末も、生き方も、選んだ道も、歪んだ愛すらも、自分を想ってしてくれたことなら、ちゃんとお礼をしなきゃと。そんな、大きな優しさで『スバル』を受け止めていた。

      胸ぐらをつかむ手を離す。すると、『スバル』は、力なく項垂れて、

      「俺は――君の”スバル”じゃない。むしろ殺そうとしてた。だから、優しい言葉をかける必要なんざないんだ」

      「ううん、あなたもスバルよ。私にだってわかるもの」

      エミリアは自らの胸に手を当てて、スバルとの記憶に想いを馳せる。様々なスバルを傍で見て、困難を一緒に乗り越えてきたからこそ、彼女なりの答えを見出していた。

      「エミリアたんはこう見えて頑固だから、言い出したら聞かねぇよ? それに、死んだところでなんも解決しねぇだろ。――これまでも、そうだったんだ」

      だろ? と、肩をすくめて見せると、弱々しく地に目を伏せ、顔に陰を落とす『スバル』に、

      「俯くな。お前が信じた道を最後まで走れ。吐気がするような終わりでも、それがお前の結末だろ」

      スバルは、その黒髪を軽く拳ではたき、「自分叩くってなんか変な感じだな」と苦笑い。

      「あるべき場所に帰れ。
       そして俺の邪魔をするな」

      はたかれた場所に手を乗せて、憎々しげにこちらを見やる『スバル』の鼻先に指を突きつけて言い放つ。その後、「今のなかなかかっこよくなかった?」と軽口を叩いておどけて見せるから、かっこがつかない。
      そんな馬鹿馬鹿しい『このセカイ』の姿に、心底呆れたといった様子で『スバル』は溜息を溢す。

      「お互い全部終わったら、答え合わせでも何でも付き合ってやんよ。だから、その時に胸を張って自分の終わりを語れるようにしとけ。ま、『最悪だ』って言うけどな」

      「――最高、だ」

      「っし! じゃ、帰り支度は出来たな」

      「はぁ? 何の話だ」

      「お前、本当に俺かぁ? こんなトンデモ設定のオチつったら決まってんだろ」

      「いや、だから、意味――」

      瞬間、スバル達を取り囲む景色が、まるでハリボテであったかのように亀裂が走り、そこからまばゆいの光が差し込んで

      「す、スバル!」

      一拍遅れでそれに気付いたエミリアとベアトリスがスバルに駆け寄って、それぞれ手を握り

      「大丈夫、大丈夫。こういうのお約束っつーの? 次の瞬間には夢から醒めるって。まぁ、夢かはわかんねぇけどさ」

      「むぅ、わけがわからないのよ……」

      納得ならないと言った様子で、ベアトリスは空間全体に伸びていく光の筋とスバルを交互に見上げる。

      「スバル、本当に大丈夫?」

      「大丈夫だ、問題ない!」

      肩にかかる銀髪をふわりと揺らしながら、エミリアは微笑んで、

      「よくわからないけど……、スバルが言うなら、きっとそうね」


      そんな一団と対象的に、『スバル』はつまらなさそうに空を見上げ

      「はぁ、なるほど。っていうかベタすぎね? まぁ帰れるなら万々歳だし、夢だってんなら、こんな悪夢はさっさと忘れたいね」

      「大体、悪夢に限って覚えてんだよなぁ」

      「はぁ、お前……ほんとサイテーだな」

      嫌味たらしく言い放つスバルを横目でぎろりと睨みつけていると、スバルは片目を瞑って悪戯っぽく笑ったあと、

      「まだまだ掛かっけど、いつか見せてやるよ。お前が見れなかった、最高のハッピーエンドを」

      「――はっ。本当にどこまでもどこまでも、馬鹿げてる」

      馬鹿らしすぎて見ていられないといった風に『スバル』は顔を背け、音もなく崩れ落ちていく空間が、徐々に真っ白なそれに包まれるのを見て、そっと目を閉じる。

      その、瞼の裏の暗闇さえも真っ白な光に包み込まれて――自分という存在がぼやけ、おぼろげになってゆく。セカイそのものと混ざり合い、何もかもが一つになって。
      それは無限とも、瞬きの間とも思える時間を掛けて、一つの意識を形成し、そして――


          *****


      「知ってる、天井だ」

      湿っぽい空気が満たす薄暗い部屋。荘厳な装飾がなされた天井がスバルを迎えた。
      ベッドに沈み込んだ身をもたげると、タイミングを見計らったように扉を開ける影が一つ。

      「あら、やっとお目覚め? 最後の日だというのに、とんだ曲者ね」

      艶のある落ち着いた声色。豊満な胸元に漆黒の三つ編みを垂らした『腸狩り』だ。

      「メィリィは待ちくたびれて先に出ていってしまったわ」

      「だったら起こせばいいだろ……」

      「加減をするのは苦手なのだけれど」

      「どんだけ手荒な方法取る気だよ! 殺される前に死ぬわ!」

      寝起き早々頭が痛くなるようだったが、そんな戯言に興じている暇は無いとベッドから足を下ろし――

      「ひとつ、いいかしら」

      再び外に出ていこうとしていたエルザがこちらを振り返り、艶やかな所作で舌なめずりして見せ

      「あなた、今日はとてもいい顔をしているわ」

      「――はっ。 そりゃどうも」

      そして、そのまま部屋を出て行く。
      再び静寂を取り戻した部屋で、こなれた動きでジャージに袖を通すと、クローゼットに備え付けられた鏡に自らを映し、服装を正す。
      ふと、鏡越しの自分と視線がかち合って、やや居心地の悪さを感じながら

      「いいか。ちゃんと見てろ。これが俺の――生き方、だから」

      返ってくる言葉はない。
      それはただ、スバルを見て、そして――――始まる。


      ナツキ・スバル、最後の一日が。





      (おわり)

      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

      ご覧いただきありがとうございました。生誕祭にぎりぎり完成したので誤字もろもろあるかもしれませんが、よかったら感想等いただけるととても喜びます。

      マジで小説って形でちゃんと書いたのははじめてかな? と思う。書いたとしても2作品、文字数も5千文字以上は無くて、かけた事にびっくりです。しかも一番驚くのがハッピーエンドってとこ!ハピエン書けるんだこの人……

      ここまで読んでくださってありがとうございました。

      #rezero #リゼロ  #Reゼロから始める異世界生活 #小説
      ――命燃え尽きる前夜。
      それはとても静かで、穏やかなものであった。

      運命の明日に向けて瞼を閉じる。
      暗闇の中に、数々の日々が浮かび上がった。

      腐りきった世界で、ただ一つ、輝くもの。

      いくら手を伸ばしても、届かないとわかっていた。触れてはならないことも。側にいてはならないことも、誰より理解していた。

      それでも、たったひとつだけ。
      君に届けたい言葉が、想いがあった。

      だから――伸ばした手が切り落とされるとわかっていても。喉が擦り切れ、血が滲むほど叫んでも。剣先が身を貫き、肉を削ぎ落としても。
      まだ死ねないのだと立ち上がれた。

      それも明日で、この回で、全てが終わる。

      これは手応えではない。
      もっと確実な――『運命』だった。



      ※ ※ ※ ※ ※

       埃混じりの淀んだ空気。
      背を受け止めるものは固く、鈍い不快感が沸き起こる。
      新しい1日は、予期せぬ居心地の悪さから始まった。

      「知らない天井だ」

      第一に飛び込んで来たのは、蜘蛛の巣が張った木目の天井。
      ナツキ・スバルが就寝前に見た光景とは、似ても似つかないものだった。

      ルグニカを暗躍していたスバル達一行は、王都のとある貴族の屋敷に設けられた地下室を拠点とし、最後の日を迎えようとしていた。身を隠すなら相手の鼻先とはよく言ったものだ。
      地下室といえど、曲がりなりにも貴族の屋敷。荘厳な装飾品や調度品の数々が品良く配置されていたし、一時期『青』を幽閉していた石牢も存在していたが、ここはそれとも異なっている。

       とにかく状況を把握しなければと身を起こすと、痛んだ木の床がぎしりと鳴く。
      瞬間、神経を尖らせるも、どうやら人の気配はないようだ。
      手のひらサイズほどの小さな覗き窓から射し込む陽光の助けもあり、室内は仄かに明るい。備蓄用の納屋なのか、壁際に積まれた木箱や麻袋は埃を被っている。床もスバルが身を横たえていた部分を除いて、人の痕跡はない。

      「誰かがここに運んだわけでもない……か。俺の足跡すらないって、どんなトリック?」

      まぁ考えても仕方ない、と立ち上がり、疑問と共に埃を払うも、舞い上がるそれに咳き込んだ。

       ふと自身の装いに目を落とす。
      黒ずくめの軽装で完全な丸腰。
      一切の状況がわからない上にこれでは心もとないと、いくつか適当な木箱の蓋をずらす。すると、質は悪いが手頃な短刀とやや痛んだ黒のローブを見つけて有り難く拝借。
      この程度の短刀では心もとないが、元より非戦闘員気味なのだ、死に戻りの足掛かりにでもなれば万々歳。
      無論、死ぬのはごめんだが。

       陽光が差し込む小窓から、ちらりと外の様子を伺う。
      人の往来はなく、住居裏手の小道といったところか。納屋の扉は木材を錠から抜くだけの簡易的なもので、難なく外に出ることができた。
      小道の両脇に建ち並ぶ西洋式の住居はルグニカそのもので、とりあえず、別の異世界に飛ばされたという心配はなさそうだ。

       改めて体の埃を払い、怪しまれない程度にフードを被って通りを歩く。
      しばらくして小道を抜けると、商店が肩を寄せ合う繁華街が目の前に広がり、いつかの光景が脳裏をよぎった。
      それに吐き気を催す自分とは異なり、往来する人々の顔には活気があり穏やかで、今まさに王都を騒がせている王選や魔女教の混乱は見てとれない。

      「……振り出しに戻るとか、そういうのは勘弁願いたいね」

      深い溜息と共に、つい本音が漏れる。だが、この違和感。振り出しとはではいかなくとも、本来訪れるはすだった”明日”と異なる時間軸であるのは間違いない。
      なら、今はいつなのか。

       辺境伯の魔力で編まれたローブでないことが心許ないが、この時間軸で顔バレによる指名手配……なんてことにはなっていないだろうと腹をくくり、手近な店でそれとなく日付を聞いた。
      スバルが予想していた通り、本来のセーブポイントよりも時間が戻っている。しかも、未だ経験していないセーブポイントに。

       しかし、ここが全く未経験の時間か、というとそうでもなく、単に王都に居なかった、という意味だ。
      記憶力にはそこそこ自信がある。
      たしか、フリューゲルの大樹付近にて発生した白鯨討伐戦の残滓、”青”を拾うため、その周辺でペテルギウスに同行していたはずだ。
      時折、王都のアジトに足を運ぶことはあっても、むやみやたらに王都をうろつく理由もない。事実、セーブポイントもペテルギウス関連施設内だった。

       要するに現在の状況は、通常の死に戻りや、過去の別のセーブポイントに飛ばされたのではなく、新たに用意されたポイントに強制移動させられた、もしくは何らかの理由で死に戻り、ここから始まったということか。

      「剣聖とやり合いすぎて詰んだと思われたなら酷ぇ話だが。つっても、酷くなかった時なんざない気もするな……」

      この時間軸に来て、もう何度目になるかわからない深い溜息。人波を避けてふらふらと歩き、ふと顔を上げると、道端の立て看板が目に入った。

      芯のある瞳と目が合う。
      その瞬間、周囲の喧騒はぱたりと途絶え、行き交う人々の姿が滲む。世界から色が消え去って、そこだけが鮮明に浮き上がっていた。

      そして、頰を赤くしていた熱が落ち着いた頃、ようやく街に喧騒が戻り、隣の看板に描かれた他の候補者に気がついて

      「どーなってんだこれは……」

      そこには、存在ごと消滅したはずのクルシュ、王選を辞退したプリシラ、騎士を失い拠り所をなくしたアナスタシアらがある。
      エミリアを王にする為に、人としての尊厳すら踏み躙り、命どころか存在そのものを奪ったというのに、これは一体どういう理屈なのか。

      わけがわからない、と胸の奥底でと煮えたぎる思いがあった。
      現実を受け入れるのは容易くなく、 そのために削ぎ落としてきた魂が、声にならない絶叫が上げた。
      怒りに震える肩を抱き、ぶつけようのない慟哭を押さえ込んでいるうちに刻々と日が暮れて、気がつけば空は赤黒く染まっていた。


      「ねぇスバル、そろそろ戻りましょう」


       瞬間、時が止まる。
      顔を跳ね上げれば、自分を見つめる瞳がある。

      否、それは背後からもたらされた。
      しかし、あまりに突然の邂逅で、驚きのあまり振り向くことができない。


      「そうだな。ベア子とパトラッシュに土産は買ったし……まぁ俺としてはエミリアたんと夜景デートしてからってのもやぶさかでは」

      「もう、わがまま言わないの」

      声はそれほど近くない。
      まばらな雑音に混じって、しかし驚くほど鮮明に焼きついた。
      それはどんな凄惨な死より酷く、いかなる結末より受け入れがたく、魂を直接抉る刃そのものだ。

      声の主は忘れもしない、エミリア。
      そして、あまりにも聴きなれたスバル自身の――否、これはナツキ・スバルではなく


      ――おまえは、だれだ?


      疑問。
      次いで憎しみ。
      重ねて憎悪。

      最後に虚無感が押し寄せて――次第に声は遠ざかっていった。


      「く……ふはっ……傑作だな。
       なんだよそれ。これを俺に見せたかったのか? こんな結末もあったって、そう言いたかったのかよ? 俺は間違ってて、無力で、好きな子ひとり笑顔にできなくて……やれば出来た。なのに出来なかったって、嗤うのか? そうだな、嗤え。嗤えばいい。たまんないよなぁ。人をコケにすんのはさぁ……分かるよ」

      ふらふらと脚を引きずるように歩いた。うわ言のように呪いと憎しみ吐き出しつづけ、行くあてもなくて、兎に角誰もいない場所に在りたくて、街を出て、静かな街道をふらふらと歩いた。

      可笑しかった。どんな喜劇より滑稽だ。出来る力はあったのに、あれだけ強く願っていながら、こんな生き方があったなんて、そんなのがあるだろうか?

       ふと、草に脚を取られ、受け身を取ることもなく崩れ落ちた。心も体もボロボロだ。立ち上がる気力などあるわけがない。
      短刀で喉を貫き引き裂く力もなくて――

      「確かに俺は……てめぇらのお膳立てを全部無駄にしたんだろうよ」

      ナニモノかの想いも、願いも、全部踏みにじってやれたのかと思うと可笑しくて、くつくつと笑いが漏れた。

      「でもな。お前らが認めなくても、俺には俺の――最高の結末があった」

      腕をつき、身をもたげ、地に唾を吐きすてる。力なく天上を仰げば、虚ろな瞳に月が映り込んで

      「俺は――間違ってない。
       こんなものはまやかしだ。
       全部、俺が壊してやるよ」




       辺境伯邸に向かう竜車の中。
      ナツキ・スバルはまだ知らない。

      最も無力な自分自身が、最大の敵であるということを。



      ※ ※ ※ ※ ※


       ナツキ・スバルは順風満帆――とまでは言えないが、怠惰の大罪司教ペテルギウスを滅ぼした上、聖域の解放、および新たな仲間を得て、束の間の穏やかな時間を過ごしていた。

      穏やかなといっても、護身術の会得、新装具の鍛錬、ベアトリスへの魔力供給に加え、礼儀礼節なんやかんやと、寝る間も惜しくなるほどで。

      かつてのスバルなら、早々に根を上げていただろうが、幾重の困難を乗り越えたのだ。そう簡単には挫けない。
      むしろ、いずれ来たる死のループを想像すると、何もしないほうが落ち着かない――のだが、そんなスバルを心配したエミリアに、デートもとい、王都出張を命じられて今に至る。

      「ねぇスバル、本当に無理してない? 手も全然治療させてくれないし、すごーく心配なんだから」

      竜車が王都に走り出してすぐ、エミリアが眉をひそめつつ切り出した。

      「いつも言ってるけど、頑張った勲章ってのが男には必要なんだよ。それに休めるときは案外休んでるし、どうしてもダメなときはエミリアたんの膝枕で一秒チャージ!」

      幾重にもマメが出来た手を握りしめ、軽口を叩いてみるも、依然エミリアの表情は硬い。

      「はぁ。膝枕頼りの騎士なんてみっともないかしら」

      スバルの膝にちょこんと腰掛け、腕に抱きかかえられたベアトリスが大袈裟に息を吐く。

      「んん〜。 膝に座れないとむくれる大精霊様ってのは、みっともなくないのかなー?」

      ベアトリスの頭に頰を寄せ、きつく抱きしめてやると、むきゅっと声が上がり

      「ふ、ふん! それは契約者として当然のことかしら!」

      ぷいっとそっぽを向くも、耳まで真っ赤にしていては威厳もなく、ただただ愛らしいばかりだ。

      「ふふ。二人とも本当に仲が良いんだから」

      口元に手を当ててくすくすと笑うエミリアの表情は、先程までとは打って変わって朗らかだ。
      どうやらベアトリスのはからいが功を奏したようで――そのお礼とばかりに頰をグリグリ擦り付けてやると、竜車は賑やかな声で溢れた。


          *****


      「ベティはパトラッシュと一緒に待ってるかしら。でぃとは水入らずなのよ」

       王都に着くとベアトリスはそう言って竜車に残った。
      聖域を出てからしばらく、常にベアトリスと行動していたスバルにとって心寂しかったが、折角の気遣いに水を差すのはよろしくない。甘やかしてくれるときは徹底的に甘えるのが礼儀だと思い、エミリアの細くしなやかな手を握った。

      王都を訪れた理由は、でぃと以外にもある。白鯨討伐からしばらく経ったが、未だ記憶をなくしたままのクルシュの見舞いも兼ねていた。無論、単なる見舞いだけではなく同盟としての情報交換などが含まれる。

      クルシュとの会話が弾んだせいか、一通り挨拶を済ませた頃には日が傾き始めていた。

      「ごめんね、スバル。折角でぃと出来るはずだったのに」

      クルシュの邸宅を出たエミリアは、ロズワールお手製の認識阻害ローブを羽織りながら申し訳なさげに眉を下げ

      「ん。俺としては充分デートできた思ったけど、竜車に戻る前に買い物くらいは付き合ってもらおっかな」

      ベア子とパトラッシュにも何か買っていってやらないとな、と続けて笑い、エミリアの手を握る。緩く握り返す指先は暖かく、二人が育んできたものが確かなものだと再認識できた。
      この先どれだけ悪辣な障害が立ちふさがっても、二人――俺たちなら必ず抗えるのだと。

      今日も繁華街は活気に満ちていた。
      夕飯の買い出しのピークと重なったこともあり、人波に揉まれることとなったが、二人肩を寄せ合い、はぐれまいと一層手を固く結んで色々な店を見て歩いた。
      人波が落ち着き、空の色がすっかり赤く染まったところでエミリアが手を引いて

      「ねぇスバル、そろそろ戻りましょう」

      「そうだな。ベア子とパトラッシュに土産は買ったし……まぁ俺としてはエミリアたんと夜景デートしてからってのもやぶさかでは」

      「もう、わがまま言わないの」

      後ろ髪引かれる思いのままスバルがおどけてみせると、エミリアはその申し出を嬉しそうにしながらも、めっと小さく諭す。

      「じゃあ戻りましょう。えっと、あっち、だったわよね」

       エミリアが先導する形で手を引かれる中、ふと、スバルは街の一角に目を奪われた。薄汚れた黒いローブをまとった人影がある。
      王選候補者の看板の前で身を抱え、苦しげに身を強張らせていた。
      ローブといっても魔女教の装いとは異なるシンプルなものだ。

      体調が優れないのだろうか。
      エミリアなら駆け寄って声をかけるかもしれない。病人だとしたらベア子かフェリスを呼べば――そんなことを考えているうちに、人波に紛れ、いつしか姿は見えなくなっていた。

      胸の中にざらついた感触が残る。
      嫌な予感、そんなものではない。

      ただあれは、誰かがどうにか出来るものではないのだと、どこか共鳴するものがあったのかもしれない。
      恐らく、ナツキスバルにだけわかる、仄暗いものが。

      ベア子とパトラッシュに待たせてしまった詫びを入れてから竜車に乗り込むと、ロズワール邸に向けて走り出す。座席でベア子に膝枕をしてやりながら、車窓に目を向けると月が映った。



      その同じ月の下。
      悪辣な何者かが、今まさに産声を上げたと知らぬまま‪――



      ※ ※ ※ ※ ※


       ナツキ・スバルは、街道沿いを月明かりを頼りに歩いていた。
      この時間軸において何かを成し得るにしても、てんで無力な自分だけではエミリアに近づくこともままならない。
      簡単に言えば協力者。複雑に言えば利害関係の一致する、それなりに力のある人間とお近づきになりたい、というわけだ。
      目的を果たすどころか、生きていくためにはそれなりの資金もいるし、誰かを殺すにしても手回しが必要だ。
      そこのところをバランス良く介抱してくれる誰か――いの一番に浮かんだのが、辺境伯だ。他に共犯候補者に比べれば居処もわれているし、何よりいきなりスバルを殺したりはしない、という確信がある。

      しかし、だからといって協力関係になれる確信があるかというと、希望的観測という側面が大きいのも事実。

      特に辺境伯は、ナツキ・スバルの側にいる。故に、その影響下でいかなる変化をもたらされているか曖昧だ。
      さすがにあそこまで凝り固まった曲者が、そうそう変わるとは思えなかったが、裏か表かで言えば二分の一。
      多少の博打になるのは否めない。

      博打といっても、ナツキ・スバルのそれはイカサマ同然。迷うことはない。やってダメならやり直す。たったそれだけの簡単なお仕事――なのだが、ここで、最も大きな障害に阻まれる。ナツキ・スバルを祝福する唯一無二『死に戻り』に。

       この時間軸には二人のナツキ・スバルが存在し、互いに『死に戻り』の力を有していると考えられる。
      しかし、それは通常時の話であり、この時間軸においては話が別だ。
      死に戻りが作用せず、本当の『死』を迎える可能性。もしくは、『死』こそが自分を元の時間軸に還すトリガーである可能性。
      そして、ナツキ・スバルの死によってセカイが消滅し、再構築されるのだとしたら――それが二人いる状況下、先に死んだ者の死は確定し、残された側だけのセカイとなる。
      その死は誰の手によってでももたらされる。ナツキ・スバル同士が殺し合わなくとも、野犬に噛み殺されるだけでいい。

      つまり、『死に戻り』には頼れないということだ。

      これまで軽率な行動も厭わず、トライアンドエラーを繰り返してきたスバルにとって、これが大きな障害でなくてなんというのか。死に慣れてはいない。だが――繰り返し慣れていた。

      思考の海から頭をもたげ、前を見る。夜は深い。茂る草花の絨毯から虫の歌が聞こえる。と、そこに混じる雑音が大きくなることに気づき振り向いた。荷台をを引いた竜車の明かりが遠くに見える。

      道すがら衛兵らしい男に尋ねた際、この時間軸において白鯨は討伐されて、夜更けでも行商人や行き交うようになったと知った。白鯨が討伐された事実は、”青”を失ったことと同意義で、なんとしても辺境伯と協力関係にならなければという焦燥感に繋がって――

      「あの、すみません!」

      荷を引く地竜にまたがった青年が肉眼で捉えられるようになった頃合いで、大きく手を振り声を掛けた。商人らしい風貌の青年は地竜を止めてそれ応じ

      「こんな夜更けどうされました?」

      「その、実は知人を怒らせて竜車から追い出されてしまいまして。金貨一枚しか持ち合わせがないんですが、最寄りの宿舎までご一緒できないかと」

      「君もついてないね。僕も今日は王都で荷を全く捌けなくてね。一つ善行で徳を稼いでおくかな」

      言って、青年は地竜と一撫でしてから地に足を下ろす。屋根付きの荷台に乗り込むと、この辺りなら座れるかな、と言いながら木箱に手を掛けて

      「ああ、悪いね」

      瞬間、行商人後ろ髪を掴み、引き寄せる。バランスを崩し、倒れ込む商人の背を迎え入れると同時に喉元に短刀をねじ込んで、力の限り横に切り裂く。行き場を失った命の飛沫が宙を舞い、荷台はあっという間に血の海になった。叫ぶことが叶わぬ代わり、掻き切れた気道から空気が漏れる音が虚しく響く。足元に力なく崩れ落ちた青年の背を足で抑えつけて暫くすると、それは物言わぬ抜け殻となった。

      「手荒い真似は極力したくないんだけど」

      青年の服で剣先を拭った後、荷台の隙間から差し込む月光で照らし

      「思ったよりいい拾い物だったかも」

      良き相棒を腰に戻した後、凄惨な現場と化した荷台に再び意識を戻す。荷に倒れ込んだ青年の足を引き、木箱の隙間に押し込むと、そこに羽織っていたローブをかけた。その後、返り血を拭いながら竜車を走らせて、手頃な森で荷台を切り離す。ゆっくりはしていられない。日が登れば面倒事になるのは目に見えているのだから。

      地竜に跨ると商人が持ち合わせていた地図を頼りに街道を走る。
      朝霧が立ち込め、空は光を帯びていく中、辺境伯の領地内、アーラム村に到着したのだが――

      「――あれ。間違っては、ないよな」

      村の形はある。しかし、人の姿はなく閑散とした状態で

      「また、ナツキ・スバルか……」

      白鯨討伐がなされた時間軸。ペテルギウスによる襲撃を回避した先のセカイ。ナツキ・スバルによって何らかの策が遂行された故の現在。王都の初手から異なるナツキ・スバルには、それを理解できるはずもなく、湧き上がる疑問と胸の鈍い痛みを奥歯で噛み殺し、辺境伯邸へと急いだ。


      「魔女教の襲撃を回避するため、なのか。それにしても滅茶苦茶だ」

      眼前の光景に首をひねる。そこはかつて辺境伯の邸宅が顕在していた場所でありながら、現在は広大な更地とかしていた。スバルも訪れたことがある。ペテルギウスと共に屋敷を襲撃したことも、辺境伯と接点を持つために客人として訪れたことも。それは既にセカイから消失し、スバルの中にだけ残されたセカイだったが。

      地に目を落とすと、屋敷を取り囲む草木が一部炭化して残されいる。
      何らかの炎魔法が行使されたのか、単なる火災、それどれでもない何かか。

      「また間違ってるって、そう言うのか」

      掠れた声。答えはない。スバルは一人だ。
      それがナツキ・スバルの選んだ道なのだから。


      「これは思わぬ拾い物だねーぇ。予定を大いに狂わせてくれるのは実に君らしいわーぁけだが」

      運命の袋小路からスバルを拾い上げたのは、あまりにも場違いな間の抜けた声。顔を上げるとそこには、知らない顔の男――否、知っている。けれどそれは、スバルが知る厚い仮面を被ったものではなく――ここでも、胸を掻き毟られた。

      「おーぉや、なるほどねーぇ」

      瞳を興味深げに輝かせながら顎を擦る。

      「――辺境伯、どうしてここに」

      「ここは私の領地内なのだかーぁら、何もおかしな事はなーぁいのだーぁよ」

      「いや、でも――まぁいい。あんたに会うためにここまで来たんだ。まじで、手間が省けて助かった。俺は――」

      「これを、持っていくといい」

      スバルが言い終わるより早く、辺境伯は金の瞳を細め、おもむろにローブを手渡した。これは君のものだ、と。見覚えがある。認識阻害の魔法が編まれたそれは、スバルがいた時間軸でも辺境伯により授けられた。スバルが理解して受け取った様に確信を得たのか、満足げな笑みを口元に宿す。そして――焼けただれた一枚の紙を差し出した。

      「これは」

      四隅は灰になり、乱雑に扱えば崩れてしまいそうなほどのそれが、ただの白紙の紙であることを確かめながら、スバルは怪訝に顔をしかめる。すると、辺境伯は小さく、でも鮮明な声で囁いた。

      「――わかった」

      一瞬の沈黙の後、スバルは頷いた。
      その顔に、陰惨な笑みを宿して。



      ※ ※ ※ ※ ※


      「うっし、今日もいっちょやるか!」

      爽やかな水色に桃色の陽光が差し込む空へと腕を上げ、伸びをするところからナツキ・スバルの一日が始まる。慣れた動作で体の節々を伸ばして簡単なストレッチをするスバルの傍らで、ベアトリスが瞼をこすり、

      「スバルは朝から元気すぎるかしら。ベティはまだ眠いのよ」

      ふぁぁ、と小さな口をいっぱいに広げで欠伸をすると、淡く紅が差した目尻に涙が滲む。

      「これまで何もしてこなかったツケを回収しなきゃならないからな」

      前屈から起き上がったところで、アスレチックに腰掛けたベアトリスの頭をくしゃりと一撫でし

      「それに、こうやって体を動かしてる方が落ち着くんだ。体も鍛えられるし、一石二鳥、だろ?」

      「それよりも、その不幸体質を改善したほうがいいかしら。スバルは本当に困った契約者なのよ」

      「それが改善できるなら俺だってそうしてぇよ。レムが目を覚ました時に”まだ臭い”って言われたくねぇし」

      肩口をつまみ上げ、くんくんと匂いを確かめると柔らかな花の香りに鼻腔が包まれ、思わず頰が緩む。そこに形容し難い臭さは当然なくて、「わからん」と、首を捻るスバルにベアトリスは「ふふん」と得意げに鼻を鳴らし、

      「まぁ、ベティが居れば安心かしら。その不幸ごと吹き飛ばしてやるのよ」

      「ああ、そうだな! 頼りにしまくってるぜ!」

      こみ上げる愛しさをそのまま腕に込め、ベアトリスを抱きしめてやる。温かく柔らかな感触。強大な力を持つ大精霊ではなく、そこには華奢で小さな少女の体だけがあって。口では頼りにするといいながら、同時に、自分がベアトリスを守らなければならないのだという意思を新たにする。
      「よし!」と自らを奮い立て、ベアトリスを開放すると、

      「じゃ、ちょっくらひとっ走りしてくるわ」

      「こけないように気をつけるかしら」

      「子供かよ! でも、ま、気をつける」

      どこまで本気で心配しているのかは定かでないが、悪戯っぽい笑みを浮かべて見送るベアトリスに苦笑を返した後、広大な敷地を贅沢に使用したランニングコースへ駆け出す。軽快なステップはなかなか様になったもので、スバルの努力が垣間見える。ベアトリスは、その頼りなくも頼りになる背中を自慢げに見送った後、しばらくして、ふと空を見上げる。

      眩しい日差しに思わず目がくらむ。目頭に手のひらを翳して、その隙間から目を細めると、かつての光景が脳裏をよぎった。

      焼け落ちる屋敷の一角で、四百年の嘆きが今日こそ終わるのだと確信していた。あの時、ベアトリスに差し伸べられた火傷だらけの手。その手は、母が教え、授けたものではなく、自ら選び、握り返したもの。

      「――スバル」

      瞳を閉じ、愛しい名を確かめる。
      魂よりもっと深い場所で、今も二人を固く結びつける強靭な糸を感じ、心がじんわりと暖かくなる。それと同時に、ススで頰を汚し、数多の火傷をおいながらも、この手を掴めと呼びかけるスバルの顔が鮮明に思い起こされて、ベアトリスは再びその手を掴もうと

      「もう、寂しくなったのか」

      「ひゃん!?」

      突如、思考を声が引き裂いた。
      ベアトリスは可愛らしい悲鳴をあげた後、大きな瞳をまんまるに見開いて、キョロキョロと声の主を辿る。愛しい声の持ち主は、スバルが走り去った方向とは真逆にあって

      「い、いいいいつのまに帰ったかしら!?」

      「さぁ?」

      「さ、さぁって……」

      ベアトリスが上ずった声を慌てて投げつけたのに対し、まるで他人事のようにあっけらかんと返答するスバル。それに眉をひそめ、しばらく前にスバルが走り去った方向を見やるも、既にそこに人影があるはずもなく、ただ首を捻る。
      確かにスバルは目の前にいるのだから、少しどころか微塵も現実を疑いようがない。しかし、どこかその眼差しに違和感が拭えないままでいると

      「えーっと。ベアトリス、だよな」

      スバルは飄々と、しかし、ベアトリスと言う名の舌触りを確認するような不器用さをもって呟き、ベアトリスが否定しない様を見て肯定とすると

      「うん、我ながらナイスタイミング。今回ばかりは運命様は俺の味方かな。ま、連れて来といてそっぽ向かれちゃたまんねぇんだけど、わりとそれが日常茶飯事だから疑心暗鬼にもなるって話で……」

      「なにを言ってるかわけがわからないのよ」

      顎をさすりながら一人ぶつぶつと喋る様はベアトリスの瞳にも異様に映るが、それがナツキ・スバルとなれば話は別だ。しかし、どことなく居心地の悪さを覚えて、アスレチックから腰を上げると、それに呼応する形でスバルが歩み寄る。

      「これ。大事なものだったんだろ?」

      緊張感のない緩んだ所作で、懐から何やら取り出したスバルは、それをひらりとはためかせてからベアトリスへと差し出した。「大事なもの?」とオウム返しに問い返すも、スバルはこくりと頷くだけで、ベアトリスは渋々差し出されたそれに目を落とす。

      スバルが手にしたそれは、ただの紙切れだった。
      四隅が焦げ付き、いびつに歪んだ、ゴミ屑同然のそれが、どうしてベアトリスの大事なものなのか。疑問を投げかけようと小さく唇を動かしたところで、ぞわりと、灼熱が駆け上がる。

      「――ぁ」

      あまりに鮮明な感触に、震える肩を抱く。差し出されたそれは、一瞬でベアトリスを灼熱の禁書庫に連れ戻したのだ。熱波が肌を炙り、焦げ付いた匂いが鼻腔を蹂躙する。現実ではない、ただこれは、あまりにも真新しい記憶で

      「……どう、して」

      頭を振り、自らを蹂躙する忌まわしい熱を振り払う。しかし、振り払いきれなかった震えが声に滲む。ベアトリスの心は疑問で埋め尽くされていた。どうしてそんなものを、どうして今さらになって、どうして今日、どうして――そんな風に笑うのか、と。

      けれど、そのどれもが明確な答えをもたらすものではなくて、ベアトリスは混乱の中、がむしゃらに魂の奥底へ手を伸ばす。その糸を手繰れば、何よりも明確な答えがあると分かっていた。だから――

      「裏に、何か書いてあったけど」

      糸に触れる寸前のところで、愛しい声に、その手首を掴まれる。僅かに首を傾げ、柔らかな微笑みを貼り付けたスバルそのものが、ベアトリスの揺れる瞳を覗き込む。しかしそれは、ベアトリスの唇が震える様も、瞳の中で羽ばたきを止める蝶にすら何の感情も持っていなくて

      「ほら」

      ベアトリスが何も出来ないでいる様に業を煮やしたのか、スバルはベアトリスの手を引いて、紙切れを強引に手渡した。そして、その手を掴んだまま、紙切れを裏向けようと――

      瞬間、けたたましい耳鳴りが、警鐘となって鳴り響く。
      わからない、何故なのか。一体何に警鐘を投げかけているのか。だから、ベアトリスは止められなかった。止まれなかった。されるがまま、紙切れの裏に目を落とし、そして

      「――ぁ」

      何もかもが遅すぎたのだ。気づけたはずだった、表まで染みた赤黒いそれを見た時に。拒めたはずだった、禁書庫で焼け残った福音の一頁だと理解した瞬間に。振り払えたはずだった、その手が例えスバルのものであっても。しかし、強靭な絆が、堅く誓った愛そのものが、ベアトリスの判断を鈍らせたのだ。

      「じゃあ、よく聞けよ?」

      踏み入ってはならない契約者同士の聖域に、それはさも当然といった様子で侵入し

      「ベアトリス、これは命令だ」

      愛しい契約者の面を被って、傲慢に言い放つ

      「俺に、従え」

      ベアトリスの柔らかな手首に爪を食い込ませ、血が滲むのも関係ないと、力任せに引き寄せる。代わりに、もう一方。硬く結ばれた絆が引き千切れる音を愉快とばかりに嘲笑いながら。

      「や――」

      ぷつりと、軽い音をたてて糸は途切れた。それは驚くほどあっけないものだった。四百年の孤独の末、やっと掴んだ一筋の幸福が、土足で聖域に踏み込んだ異邦人によって、いとも簡単に引き裂かれてしまうなど、誰が想像していただろう。

      スバルに――否、スバルの皮を被った悪魔に掴まれた腕がじくじくと痛むのを感じるのに、ベアトリスには振り払う気力も、意思も、自由すらない。手を引かれるまま、悪魔の懐に導かれ、力なく抱き寄せられると、やはりそこにはスバルそのものがあって心が揺れる。

      「それでいい。ベアトリスはいい子だな」

      くしゃりと頭を撫でる手のひらは、先刻の記憶と何ら違わず、ベアトリスの心に甘い毒を流し込む。例え悪魔であっても、これはスバルなのだ。自分は何か間違っているのだろうか。間違っていても構わない。スバルが自分を求めているのだから。

      思考が奪われる、過ちに蹂躙される、何が正しかったのか分からなくなる。恐怖で足がすくんで寒気がする。その肩をそっと抱き寄せる温もりがあって――ベアトリスはそれを受け入れた。


          *****


      日差しを背に浴びながら、スバルは軽快なリズムで見慣れたランニングコースをなぞる。丁度、その折り返しとなるカーブに差し掛かったところで、突如、胸の奥底にざらついた感触を覚え、速度を落とした。

      「っはぁ……はぁ……なんだ、これ、気持ちわる」

      胸の奥底を掻き毟るような経験のない心地悪さ。魔女に心臓を掴まれる苦痛とは別種のそれに、足を止め、肩で息をしながら地に膝をつく。こみ上げる胃液を吐き出そうとするも、その不快感を拭うことは叶わず

      「ちょっ……ぅぐ……これは結構マズった」

      それが徐々に大きくなる中、スバルはただの不調でないと確信を持って、意識を体の内側へと滑り込ませる。耳をふさぎたくなるほどの警鐘が轟く。魂の奥深くで結ばれた糸が張り詰め、軋み、悲鳴を上げていたのだ。それはベアトリスがスバルに呼びかるものとは違う。絆をを無理やり引き剥がそうとするような悪辣な衝動。

      「ぐぉっ……やめ、ろ!!」

      ベアトリスに何かあったに違いないと、内側の痛みを奥歯で噛み殺し、立ち上がる。瞬間――ぷつり、と軽い音を奏で、繋がりが途絶えた。

      「――ぇ」

      それまで魂を握りつぶさんとしていた不快感が嘘のように消え去った。再び意識を内側に集中させて、繋がりを手繰ろうと手を伸ばしてみるが、何ら感触はなく空を切る。ついさっきまで確かにあった強靭な繋がりは、その痕跡すら残さずに綺麗さっぱりと消え去っていたのだ。

      「は。嘘だろ。こんな……簡単に? そんなはずない。何かの間違いか、だって、そんな……嘘だ」

      何故こんな時に。スバルが呼び掛ければ、ベアトリスはすぐに駆けつけることができるのに、ベアトリスの身に異変が起こっているのを感じながら、スバルには何もできなかった。なにが起こったのかすら分からずに、形のない焦燥感に駆り立てられて、汚れた膝を払うことすらせず地を蹴る。日々鍛えたお陰で体は軽い。しかし、それでもなおスバルはただの人間だった。

      「畜生……ッくそったれが!!」

      先刻、ベアトリスを抱きしめて「守らなければ」などと考えたのは、どこの身の程知らずだっただか。全力疾走に焦燥感も相まって、呼吸があがり全身に酸素が行き渡らない。ベアトリスが待つアスレチックを視界が捉えたところで、足がもつれ、勢いをそのままに砂利道に倒れ込んだ。

      「くはっ! ……っィてぇ……」

      一分一秒、一歩でも早く辿り着かなければと分かっているのに、こんな場所で倒れ込んでいる暇はないのだと、地に腕をいて身をもたげる。「こけないように気をつけるかしら」そんな軽口が脳裏に響く。続けざま「子供かよ!」などと一蹴した自分が思い起こされて、それを振り払うように再び地を蹴った。どこまでもどこまでもどこまでも、今さらどんな努力を重ねても変えられない。ナツキ・スバルはあまりにも無力で――困った契約者だった。

      「ベア子!」

      アスレチックを前にして、スバルはベアトリスの名を叫んだ。痛烈な声は虚しくそれにぶつかるだけで、なんら応答はない。押し寄せる無力感のせいか、限界を超えて走り抜けたからなのか、鉛のように体が重く、肩で息をするだけで精一杯だ。しかし、休む暇がどこにあるのだと、拳を振り上げて膝を打ち、無理やりに呼吸を整えようと空気を肺腑の奥に押し込める。
      つい先刻までベアトリスがちょこんと腰掛けていた場所に手を掛ける。ひんやりとした感触が、失われてから経過した時間の重さを痛烈に感じさせ、焦る心に冷たいものを流し込む。

      胸に手をあて、再び奥底の繋がりに意識を傾ける。繰り返し確かめても、その手応えはなく、何故、という思いが止めどなく溢れ出す。契約者間の繋がりについて多くの知識があるわけではない。しかし、あれほど強靭だった繋がりが、こんなにあっけなく失われてしまうものなのか。ベアトリスが契約を自ら破棄するなどありえない。その程度の信頼があった。まして、ベアトリス自体が失われるなど――

      「そんな……はず」

      悲痛に顔を歪める。そんな可能性を考えることすら忌まわしいと、頭を振って思考を振り払う。何か、僅かでもいい、取っ掛かりを得なければ。

      「これは……?」

      ふと、視界の隅で揺れる存在に意識を奪われる。吹き抜けるそよ風に揺さぶられたそれは、時折赤黒いものをちらつかせ、こちらを手招きしているように思えた。アスレチックの端に結び付けられた、傷んだ布切れ。赤黒い染みは結び目を含む全体にあって

      「――」

      布を解き、それを広げる。落ち着きを取り戻しつつあった心臓が再び大きく脈打つ感覚。大きくない布だ。中央に赤黒い染みがある。それは禍々しく存在感を放ち、スバルにある意思を叩きつけた。

      『北東の森に来い!』

      文字だけ見ればあまりに馬鹿げた言い回しだった。おまけに感嘆符まで添えるとは程度が知れる。これが血文字でなかったなら、どこの果たし状だよ!と一蹴したいところ――と、ある違和感に思考が詰まる。あまりにも自然に受け入れていた。当然だ、スバルにとってそれはあたり前のことだったから

      「――にほん、ご?」

      それは紛れもなく、見間違いでもなく、ただ似ているだけでもなく。はっきりと、スバルが慣れ親しんだ言語をもって刻まれていた。

      弾かれるように顔を上げる。周囲をぐるりと見渡して、やはりそこには誰もおらず。手のひらにじっとりと汗が滲む。

      「何だって、それを――クソッ! 今は考えたってわかりっこねぇだろ! 考えるな、今はベアトリスの状況を考えて行動する事が最優先だ」

      布切れをポケットにねじ込むと、記憶の引き出しを乱雑に開け放ち、領地内の地図を広げる。北東に目を滑らせ、景色と照らし合わせてそちらを見やる。

      「あっち、か。確か手付かずの森……みたいなのがあったはず。また魔獣だらけでないことを祈るしかねぇか」

      ランニングコースと真逆の方向を睨みつけ、拳を握る。屋敷からそう距離は離れていないが、武器を取りに戻れば大きな時間のロスになるのは明白だった。大した武術も持たないスバルにとって、大きく戦力が変わるわけでもなく、むしろ会得した身のこなしの方が幾分か頼りがいがあるというもの。

      「これも含めて不幸体質だってんなら、改善の余地はあるかもな」

      身軽な装いで腑抜けていた自分に毒を吐き、目的の場所へと走り出す。来いというなら行ってやる。異世界人だろうが何だろうが、自分たちは人知を超えた存在と幾度となく対峙してきたのだ。今回だって必ず――抗うのを諦めない。

      それこそが、ナツキ・スバル、最大の武器なのだ。



      ※ ※ ※ ※ ※


      パトラッシュの散歩を兼ねた道すがら、この森を目にしたことがある。人の侵入を拒むように草木が密集し、迂闊に侵入すれば方角を見失って、簡単には抜け出せない自然の迷路。
      現屋敷からスバルの足でも三十分もかからないだろうというのに、領地が広大過ぎるためか、その気がなかっただけなのか、人の手が加わった痕跡はない。

      視界を阻む蔦のヴェールをかき分けて、地に目を落とす。これだけ荒れ果てた場所だ。ベアトリスに危害を加えた何者かがここで待つというならば、その痕跡が見つかるはず。

      「はず――なんだが、いまいちわからん」

      ボーイスカウトの経験でもあれば一目瞭然だったのかもしれないが、ある意味”箱入り”息子なスバルだ。しかし知恵はある。闇雲に探しても迷うのは目に見えていた。何か目印を残さねばと木の幹に手をあてて

      「通ったとこに印を入れ――ん、えぐられてる?」

      一筋の線だ。鋭利な何かが表皮をえぐり、その切れ目から肌色の木目が露出していた。

      「なるほど」と呟きながら、その印が示す方向へ目を移せば、同様の印がスバルを迎える。が、そちらの印は線が二重になっていて

      「なるほど、これを追ってけってか」

      焦る気持ちを押し殺しながら、冷静に、見失わないように慎重に、それが指し示す方向へと入り込む。鬼が出るか蛇が出るか。ただ一つ明らかなのは、スバルを誘い込むそれが同郷だということで、付け加えるなら、無能力に近い、ということだ。
      実際のところはわからない。しかしこの異世界において、”神”などという存在からまともな祝福が得られないことはスバル自身が証明していたし、プリシラ陣営の同郷、アルも似たようなものだ、と思われる。にしては、プリシラの騎士であることが不思議だが、それは同じく騎士であるスバルが言えたことではない。

      しかし、無能力と見せかけて、どちらも生き残る才を持つ曲者だ。無能力に近い、といってもそれが勝敗に影響するわけではないし、むしろ事態をより複雑なものにしていると言っていい。

      先を思うと心が曇るが、事が起こらなければ本領発揮といかないのがナツキ・スバルの祝福だ。雑念を捨てて印を追うことに集中する。

      一、二、三、と続いて十、十一、十二、十三、からの一、二、三と繰り返し追ううち、スバルは薄暗い森の奥深くへの導かれ、そしてその先――根本にぽっかりと大口を開けた大樹がスバルを待ち構えていた。

      その穴の周辺には、まだ新しい靴跡が残っている。はっきりとはわからないが、何者かの出入りがあったことは疑いようがない。その暗闇は、スバルが身を屈てやっと入れる程度のもので、地中深く、闇に向かって格子状の足場が続いていた。

      「滅茶苦茶怪しい。っつか領地内に何でこんなのがあるわけ。昔の遺跡とかそんな感じか」

      こんな状況でさえなければ浪漫と冒険を求める男心に火がついたかもしれないが、今は苛立ちが滲むだけだ。

      「そこにいるのか!?」

      投げかけた声が闇の奥底で反響し、こだまする。返事はない、ただの穴のようだ。このままでは埒が明かないと、足場につま先をかけて慎重に身を下ろしす。身長の三倍ほど潜った頃、つま先が地につく感触。

      徐々に暗闇に目が馴染み、周辺の壁が淡く発光している事に気づく。岩肌のように硬い土の層に混じる魔石が発光しているように見えた。心許ないが足場を確認するには十分だ。

      「ベア子……どこにいる」

      罠の可能性も捨てきれない。単なるブラフにしては誘い込む手が込んでいたが、無能力故の策謀とも考えられる。スバルは神経を張り詰めながら、壁伝いに奥へと進んだ。通路は狭く、しかし枝分かれすることなく、続いている。

      と、通路をしばらく進んだところで大きめの空間に出た。そして、壁際。小さな体を更に小さく丸めた紅一点。

      「大丈夫か!!」

      鎖が絡みついた鉄格子がスバルとベアトリスの間を阻む。格子の扉に絡みついた鎖は複雑に編まれているものの、錠はない。スバルはそれに手を掛けて

      「今出してやるからな!」

      金属音を五月蝿く奏でながら少しずつ鎖を解き、最後に格子から思い切り引き抜いて床に投げ捨てると、膝を抱え蹲ったままのベアトリスに駆け寄り、抱きしめた。冷え切った体は僅かに震えていて、スバルの胸がちくりと痛む。

      「無事だったんだな。何があった。兎に角ここから出て――」

      派手な衝撃音が耳をつんざく。頭を跳ね上げて振り返ると

      「隙あり! っと」

      軽口をたたきながら鉄の扉を閉める人影。スバルが扉に駆け寄るより一手早く鎖を一巻きすると、そこに魔石が埋め込まれた錠を掛ける。

      「てめぇ!! ふっざけんな!」

      駆け寄った勢いをそのままに格子の隙間から影への手を伸ばす。その指先が深く被られたフードに僅かに触れるも、影はひらりと身をかわして、捉えるには至らず空を切る。

      「あっぶねぇ、ちょっと焦ったわ。ま、でもなかなか上手く行ったろ」

      影は大げさな動きで胸を撫で下ろし、激しい音を立てて扉を抉じ開けようとするスバルを嘲笑う。その声と言い回しはどことなく耳馴染んだものだ。しかし、小気味いいものではなく、むしろ癪に障る気持ち悪さがあって、スバルは目を細め、フードに隠れた顔に目を凝らす。
      そんなスバルを察した影は口元を歪ませ、フードを手で肩に落とし

      「けど、我ならがどんくせぇなって呆れるよ。危機感が足りないんじゃねぇの? なぁ、ナツキ・スバル」

      「――は」

      顕になった顔を見て、時が止まる。呼吸を忘れ、乾いた声がもれた。
      フードの下。露わになった顔は、スバルと瓜二つ――否、スバルそのものだったのだ。

      「お前さぁ、あの子だけじゃなくて、そんな幼女まで手篭めにするとか、異世界ハーレム堪能しすぎだろ。風のウワサじゃ双子メイドまで囲ってるとか? どこのラノベだよ」

      まったくもって羨ましいね、とあざ笑うように付け加えてから、スバルと同じ顔をしたそれは鋭い視線を投げ返す。その瞳は仄暗く、軽口とは反対に何の感情も持っていない。
      『スバル』の眼差しに気圧されながらも、それを奥歯で噛み殺し

      「手篭めじゃねぇ……。けど、まさか幼女誘拐犯が俺と同じ顔をしてるたぁ、どこまでもふざけてやがる。この世界に飛ばされてからわけわかんねぇことの連続だけど、これは流石に、あまりに馬鹿げてて――正直ドン引きだわ」

      じっとりと、背中に冷や汗が滲むのを感じる。姿見だけ真似た偽物だと撥ねつけよう思っていた。けれど『スバル』の言葉はあまりにも本物のそれで胸焼けしそうだった。

      「あえて聞く。――お前は、誰だ」

      押し殺したはずの感情が、僅かに声を震わせる。
      その焦りが、混乱が、言い知れぬ悍ましさが、二人の間にしばしの沈黙を作った。

      「……うーん」

      沈黙を引き裂いたのは、間の抜けた唸り声。『スバル』は眉間に皺を刻みながら、腕を組み、首をひねる。そして、ひとしきり唸った後で、ぱっと顔を上げ。

      「――」

      細められた黒瞳がスバルを射抜く。色が無く、濁りきった輝きだけが宿っていて、スバルを見ているようで見ていない。もっと遠くにある別のナニモノかだけを一点に捉えたまま

      「俺は――魔女教大罪司教『傲慢』担当、ナツキ・スバルだ」

      何を、言ったのか。言葉の後、場を静寂が支配する。

      こいつは今、『傲慢』と言っただろうか。確かに『傲慢』にはまだ出くわしていない。鏡写しの姿になれる、これが奴の”権能”なのか? 違う、そういうことじゃないだろう。そんなに上手く、ナツキ・スバルになれるはずがない。

      だとしたら、こいつは――?

      「傲慢……だと……」

      スバルの声に『スバル』は笑みをより深く刻み肯定とすると、開手を打って区切りとする。そして、飄々とした態度で壁にもたれかかると、羽織ったローブの内側から一冊の本を取り出してみせた。

      「まぁ言いたいこともわかる。だから、少し話をしよう。それくらいの時間はお互いにあるはずだろ?」

      真っ黒な装丁。手のひらに収まるほどの小さな経典。魔女教徒が例外なく、たいそう大事に抱えている福音書そのものを手に、『スバル』はそれを開いてページを捲る。

      時間、という言葉にとっかかりを覚えながら、スバルは背後で膝を抱えたままのベアトリスに意識を傾けるが、スバルに現状を打開する術はなく、しかも相手が”本当”に『スバル』なのであれば分が悪い。そんなスバルを気にかけることすらせずに『スバル』は語り始めた。


      ――ある、男が居た。なんとも哀れな男が。
      華々しい青春の一頁目に、自ら泥を塗りつけて、一般社会に馴染めなかった人格破綻者。

      お先真っ暗な男に訪れた、突然の転機。
      そう、『異世界召喚』だ。

      嗚呼、お父さん、お母さん、お元気でしょうか。親不孝をお許し下さい。男にはどうしようもない不可抗力だったのです。

      そうやって、突如始まった異世界生活だったが、男にはチート的能力も、悪を滅ぼすエクスカリバーも与えられず、開幕早々チンピラに絡まれる始末。ピンチになった今こそ、本領発揮と意気込んだ矢先、無慈悲な暴力が男を打ち砕いた。

      しかし、全てを諦めた男に差し込む一筋の光。
      それは世界を照らす銀色の輝きで、男をピンチから救い出したのだ。

      その超絶どストライクな銀髪ハーフエルフと出会い、男の異世界生活は順風満帆――に思えたのだが、あっけなく、あまりにも簡単に、男の世界は閉ざされた。


      パタン、と軽い音を立てて福音が閉じられる。同時に軽快な語り部が止み、

      「俺の傍に居ると、あの子は不幸になる。わかるだろ……」

      か細い、小さな声だ。『スバル』の悲痛な胸の内が、スバルにだけは痛いほど理解できた。その心を蝕む闇の大きさも、その深ささえも。
      ナツキ・スバルだけが知り得る失われた世界を知る男。現実を突きつけられて尚、スバルはそれを呑み込みきれないでいた。

      「俺が側で何かする度に、あの子が死ぬのを何度も見た。そして、最後に突きつけられた現実は圧倒的な『力』の差。何度繰り返したって力がなければ救えない」

      圧倒的な力――剣聖の助力によって、スバルも死のループから解き放たれた。しかし、運命を切り開いたのは剣聖の力だけではない。エミリアとパックに指示を飛ばし、自分を犠牲にしてまでフェルトを逃がそうとした抗いの末、助力を得ることができたのだ。
      しかし、『スバル』は違う。非力を嘆き、力に焦がれ。そして――

      「だから俺は、『道具』を上手く使うことにした。『あの子の願い』を叶えるために」

      「道具……?」

      「『腸狩り』に『魔獣使い』。王都最高峰の治癒術師とかいう『青』に『死の商人』。使えるものはなんだって使った」

      いよいよもう限界だと白旗を上げたい気分だった。それ程強烈な嫌悪感。さも当然と言った様子で語る『スバル』に手が届くなら、その頰を全力で殴りつけたことだろう。

      「それで、道具として魔女教まで利用したってのか」

      「そゆこと。他に行くあてもなかったし、福利厚生が良いなら悪くないだろ。あ、でも勘違いすんなよ! ペテさんにはそこそこ世話になったが試練とか言ってあの子を殺そうとするから、ちゃんと始末しておいた。それに、他の大罪司教もそうだ。それ以外にも、あの子の敵陣営を引き摺り下ろすために最優を殺したりして。そうそう、折角青を拾ったのに目を離したらすぐ自殺するから滅茶苦茶苦労させ――」

      「――は。今、なんて」

      「んあ? いや、だから最優を殺したり、拾った青に苦労させられたりしたって話。あー……、お前は仲良しゴッコしてんだっけか」

      「――」

      目眩がした。ほんの少しの掛け違いで、自分がこんな悪辣なものになってしまっていたという現実に。込み上げる苛立ちは目の前の自分にだけではなく、スバル自身に対するものでもあった。
      鉄格子を握りしめ、もたれかかるように項垂れる。『スバル』は魔女教を利用するために『傲慢』の座に自ら座ったと雄弁に語ったが、その『傲慢』さこそ、まさにその座が求めていたもので――

      「ロズワールが求めてたのは、こういう俺だったのか? 全てを犠牲にしてエミリアを王にする悪魔。いや――それよりもっと最悪だろ」

      「辺境伯の思惑なんざ興味ねぇけど、エミリアが王になるってことは、あの子の願いが叶うってことだ。最悪どころか最高のエンデ――」

      「間違ってる」

      顔を上げ、毅然とした眼差しで『スバル』の言葉を打ち消した。その理性的な声に怯んだのか、軽快な語り部は止み、無音となる。そして、強く握られた扉が僅かに揺れてぎしりと軋み

      「いい加減にしろ。何が願いを叶えるだ。お前はエミリアの何もわかってない! 誰かを犠牲にして王になって、それであの子が喜ぶわけがねぇ! お前はエミリアに、お前の願望を無理矢理に押し付けて――泣かせるんだ」

      「――それでも、俺は、間違ってない」

      「いんや、間違ってる。お前は自分の過ちを認めたくないだけだ。俺を否定しなきゃ立っていられない。そりゃそうだよな。散々ぱらヤラカシて、殺さなくていいやつまで手にかけて、お前が俺なら多少は良心が痛んだろ」

      「――」

      「それで、今度は何をヤラカしに来た。エミリアの傍に居る俺が憎くて殺しに来たか。それとも自分の方がエミリアを王に出来ると自惚れたのか? 何だっていいけどよ、これだけははっきり言っといてやる」

      『スバル』を睨みつけ、自らの胸に片手を添える。誓いを立てるように。自分という存在が揺らがぬよう、脈打つ鼓動を確かめながら

      「お前が俺を認めたくないように、俺もお前を認めない! お前の存在そのものが過ちだ」

      言い切る。そして、

      「ぷ、ははっ――傑作だなこりゃ」

      『スバル』は嗤っていた。仲間の馬鹿げた話を聞いた後のようにしゃあしゃあと。そして、鉄格子越しのスバルを指差し、

      「いいか、ナツキ・スバル。お前は今、滅茶苦茶不利な状況だと言っていい。そこの大精霊を頼りにしてんなら諦めろ。そいつは今俺の手の内にある。んでもって、お前最大の武器も意味がない」

      「なに」

      「わかってると思うが、その大精霊とお前の契約は破棄させた。福音書ってこんな使い方もあるって知ってた? 言うて、俺も受け売りなんだが」

      『スバル』は福音書の間から、四隅が焼け付いた一枚の紙切れを持ち上げ、はらりと揺らす。

      「まさか――ベア子の福音」

      「大正解! そして、ここにチョチョイのチョイっと落書きしてやると、アラ不思議」

      スバルに向けて、くるりと紙切れが裏返される。そこには殴り書きのイ文字が赤く滲んでいて

      「『既存の契約を破棄し、新たに傲慢と契約せよ』とか、それっぽいことを書くだけで、そいつは俺の『道具』になる」

      ――無茶苦茶だ。確かに福音は未来を記す経典だと聞く。
      しかし、それはあくまで”道標”ではなかったのか。原理は不明だが、持ち主の心まで縛り付けるものなのだとしたら――そして、他者がそこに”未来”を刻めるというならば。

      「ふざけてる。人の心を捻じ曲げて、その上『道具』だ? お前はそれで平気なのかよ。何も感じないのかよ! 何でそうなっちまうんだよ。おかしいだろ……」

      「そりゃあ、その必要がなければやらねぇよ。でも目的のために手段を選り好みしてらんないだろ?」

      烈火の如く怒りを吐き出すスバルが理解できないといった様子で首を傾げた後、『スバル』は焼け焦げた紙切れを福音の間に戻してローブの中に仕舞い込む。そして、ひょいと指を一本立て

      「で、後もう一つの方なんだけど、こいつは結構重要な話だ」

      言いながら『スバル』は、もう片手でも指を一本立てて示し、左の指を数回曲げて「こっちが俺」、また逆を数回曲げて「こっちがお前」と付け加えると

      「いいか、俺もお前も元は同一の存在だ。同じ力を持ってる。そんな二人が、同じ盤上に存在して、仮にお前が死んだとする」

      右の指を下ろして見せつつ、

      「その時、盤上はどうなると思う? そう、俺が残ってる。盤自体が消滅する可能性もあるっちゃあるが、それはそれ。試してはいない。だからこれはあくまで、俺独自の推論だ」

      残された左の指を上唇にあてがって、くすくすと笑う『スバル』には余裕が見える。それもそのはずだ。最大の武器に頼れないスバルが状況を打開する術は無いに等しく、加えてベアトリスの力を借りることが出来ないとなると――

      「試してみたいなら力を貸すぜ?」

      『スバル』はローブをひらりとはためかせ、腰に携えた短刀を見せる。
      一昔前のスバルなら、状況に変化をもたらそうと、誘いに乗った可能性も捨てきれない。が、今は

      「――断る。俺は、生きれるだけ生き抜いて、どんな醜態を晒したって、足掻くことにしたんだ。だから、自ら死を選んだりしない」

      「何だそれ、アホかよ。システムは上手く利用してなんぼだろ? ま、死ぬのが嫌なのは俺も同感だけど……」

      誘いに乗らぬスバルに、つまらないといった様子で肩をすくめてみせると、『スバル』は短刀の柄に手を掛けてこちらを見やり

      「折角俺が介錯してやろうってのにツレねぇなぁ」

      柄を持ち上げ、僅かに銀色の刀身を露わにすると「自分殺しってめっちゃ背徳的」と、相変わらずの軽口をたたく。
      身の危険を感じ、鉄格子から身を遠ざけるも、『スバル』は「ジョークだよ、ジョーク!」と軽くあしらい短刀を鞘に戻す。

      「殺したいのは山々だが、そこの大精霊サマとの契約でね。『俺は、ナツキ・スバルを殺さない』そして『ベアトリスも双方のナツキ・スバルに加担しない』。オーケー?」

      それがベアトリスからの提案だったのか、はたまた『スバル』からの提案なのかは分からない。しかし、それによって”時間”の猶予が与えられたのは事実だ。スバルが死ねないというのなら、それは相手にとっても同じこと。余裕はない、しかし互いが生きている間、盤上は膠着状態に――

      「俺はお前を殺したい。けど、大精霊の手前それは無理。が、いずれ酸欠で死んじゃうとか、餓死しちゃうとか、そういうのは仕方ないよなぁ。今すぐに、必ず死ぬかって言うとそうでもないし、もしかしたら誰かが助けにくるかもしれないし、何らかの方法で奇跡の脱出劇を見せてくれるかもしれない。つまり、契約を反故にしたとは言えないだろ」

      「ッ……そういうのアリかよ」

      「ありありだ。じゃ、そろそろお喋りも飽きてきたんで、俺、行くわ」

      言い終わるより早く、それは身を翻しフードを深く被り直して

      「ちょ、おい! 待て! どうする気だ!」

      「待たねぇよ。じゃあ、さっさと死ねよ」

      その背中に、鉄格子から精一杯手を伸ばし、掴めるはずのない場所にあるそれを手繰ろうと力を込める。しかし、それはなんの手応えもなく暗闇を掴むだけ。
      代わりにと扉に手を掛け、力任せに前後に揺さぶってみるも、鎖が耳障りな音を奏でるばかりで何ら変化ももたらさない。鎖を結ぶ錠に込められた何らかの魔法の影響なのか、鎖は青白く輝き、封印をより強固なものにしているように感じられた。


          *****


      スバルが錠と戯れるのを尻目に、『スバル』は地上へと這い上がる。
      伸びをして新鮮な空気を肺腑の奥まで染み込ませた後、背後の大樹へ向き直り、その表皮を縦にひと撫で。すると、瞬きの間に大口は消え去って、そこにはただ、悠然とそびえる大樹だけが残された。

      「異世界不思議パワーって凄まじいな。秘密基地どころの騒ぎじゃねぇ」

      そのスケールの大きさに関心しきりの『スバル』の背に、何ら前触れもなく複数の影が人形を作る。それを慣れた様子で振り返り

      「秘密基地作成ご苦労さん。お陰で助かった。なんかよくわかんねぇ仕組みだったけど、説明不要。じゃ、監視の方、引き続きヨロシク!」

      影――否、勤勉な魔女教徒諸君に軽く手を上げ激励すると、それは恭しく頭を垂れて、再び人形を失い、地に崩れ、消失する。一番説明して欲しいのはその謎めいた力の方、と言いたいところだったが

      「――ぁ。辺境伯邸まで担いでいってもらえば良かったな」

      冗談なのか本気なのか、曖昧な呟きをもらしたあと、『スバル』は”スバル”としての一歩を踏み出す。その軽快なステップは心躍る躍動でありながら、踏み込むたび、スバルの頬を固くした。

      あの子に会ったら、まずなんて言えばいいんだろう。
      あの子に『エミリア』なんて、気安く呼びかけていいんだろうか。
      高鳴る胸を隠し、平静を装うことが出来るだろうか。
      あの子が使役する大精霊に、心を見抜かれてしまわないだろうか。
      あの子は、俺の名を呼んでくれるだろうか。
      あの子に、――――
      あの子が、――――
      あの子は、――――





      「っと……」

      あらゆる可能性を脳裏に描いては消し、描いては顔を赤くしていたスバルは、文字通り「あっ」という間に辺境伯邸の前に立っていた。

      ふと見上げた空は朱色に染まり、赤黒い雲が波のような筋を作る。それを黒瞳に映し、愛おしげに目を細めたところで、自分を呼ぶ音色に気づく。昏く長い影が指し示す先、しなやかな手が左右に揺らされていた。つられて波打つ銀髪が夕日をうけてキラキラと輝いて

      「――――」

      赤らむ顔は夕日を受けたものだったのか、高鳴る鼓動がそうさせたのか。
      それは、『スバル』にしかわからない。



      ※ ※ ※ ※ ※


      「もう! すごーく探したんだから」

      スバルの眼前に人差し指を突き出して、銀髪の乙女がぴしゃりと言い放つ。
      ほんのり桃色づいた唇は口角を下げているが、その吸い込まれそうな紫紺の瞳には、激情とは程遠い、子を叱りつける母のような愛情が宿っていて

      「……よかった」

      そう言って、目尻を下げると長い睫毛に縁取られた紫紺が揺れる。それはひどく安心しきった様子で、スバルの胸に鈍い痛みが染み出した。

      「ペトラと一緒にずっと探してたのよ。昼食にも来てないって言うから、私もすごーく慌てて。また――何かあったんじゃないかって、心配で仕方なくて……」

      銀鈴の音色がスバルの耳を優しく撫ぜる。その心地良い音色に聞き入っていると

      「――スバル」

      親しげな声色がスバルに呼びかける。
      彼女の何気ない一声が、スバルにとっては夢にまで見たそれで

      「どうか、した?」

      押し黙るスバルを見て、不安の色が濃くなるのが分かった。
      返す言葉は持っている。ここに至るまでに丁寧に復唱した。けれど――

      そよ風にさらわれた髪をなでつける、彼女の何気ない仕草さえ神々しくて、考えていた言葉の数々が真っさらになってしまう。
      しかし、それでも何か。彼女に答えなければと気ばかりが焦ってしまい

      「あ、あの――ごめん。そう、だね。心配させてごめん……」

      不器用に絞り出した声は、とても小さくて、あまりにも頼りないものだった。いつもの詭弁は一体どこへ引っ込んでしまったというのか。肝心なときほど役に立たない有り様は、それこそ自分を体現しているようで――

      どうか、彼女の顔がこれ以上曇らないようにと願いを込めて「――ごめん」と、自らの醜態を重ねて詫びた。

      「何か、あった? スバルはいっつも、一人で抱え込んじゃうんだから」

      何か言い淀んでいるように写ったのか、彼女は寂しげに眉をひそめる。しかし、次の瞬間には「困った騎士様ね」と添えて、小さく笑う。

      「あ、ああ。ちょっと、今日は体調が優れなくて。ベアトリスに介抱してもらったり」

      「最近ずっと無理してたんだから当然ね。ベアトリスにまで迷惑かけるなんて、もっと駄目なんだから」

      ベアトリスのことを、ナツキ・スバルは何と呼んでいただろう。ベア子、と言ったか。やっぱり、ベティだっただろうか。
      そのどちらも声にする勇気が出ないまま、彼女に合わせて言葉を紡ぐ。

      ナツキ・スバルは、彼女とどんな風に話すのだろう。
      こんな喋り方で本当によかったんだろうか。
      昔、自分が彼女と言葉を交わした時は一体どんな風に接したか。

      忘れてしまったわけではない。
      ただスバルの中で、彼女があまりにも尊い存在になっていたから――

      「それで、ベアトリスはどうしたの?」
      「ん。心配ないよ。ちゃんと繋がってるから」

      問うに落ちず語るに落ちると、間をおかずに返答する。そして、これ以上この話題を続けまいと、彼女に手を差し出して

      「エミリア、行こう」

      白くきめ細やかな指先がスバルの手のひらに合わると、同時に大きな胸の高鳴りを感じて、もう片手で思わず胸を押さえつける。今はまだ、自分がナツキ・スバルであって、そうでないことを知られなくなかったし、この素直過ぎる反応を見られたくなかった。

      「――ええ」

      ほんの少し、何か言いたげな沈黙があった。けれど、エミリアは微笑み一つでそれを濁す。
      それが、ナツキ・スバルへの全幅の信頼からくるものだということは明白だった。当然、自分の身には余るもので。

      これが、スバルの”本当”であったなら――どれだけ幸福な日々だっただろう。
      ナツキ・スバルの日常を知るごとに、スバルは自分という存在が、とてもちっぽけに思えた。

      エミリアに手を引かれ、荘厳な屋敷の中に招かれる。真新しい光沢を持つ贅沢な内装。まさに順風満帆な異世界生活だっただろう。闇に紛れ暗躍し、その手を血で汚す日々だったスバルには、それはあまりに眩しいものだった。
      実際、スバルが考えているほどに、ナツキ・スバルの異世界生活は順調ではなかったし、多くの難題を抱え、似た苦しみを持っていた。別の手段を選んだだけで、二人に歴然とした差はなかったのかもしれない。

      しかし、スバルの瞳に映ったナツキ・スバルはエミリアの『英雄』そのもので――

      顔に暗い影が落ちる。前を向いていられなかった。このセカイの現実が、スバルにとっては毒そのものだから。ナツキ・スバルを壊そうとしていたはずなのに、傷だらけになっていくのは自分の方などと、滑稽にも程がある。

      スバルが暗がりに心を浸していると、先導するエミリアの足が止まった。
      半歩遅れてそれに習い、顔を上げると、銀色の装飾に縁取られた扉があって

      「今日はゆっくり休んで」

      「ああ」

      スバルの体をいたわるエミリアにうなづいて、

      「明日は私と、お話しましょう」

      「……そう、だね」

      たどたどしく肯定すると、繋がれた手にエミリアのもう一方の手が重なって、スバルの手を包み込む。ほんの少し前までならば、顔を赤くし、心を絆されていただろう。しかし――

      「……また、明日」

      スバルは決別の言葉を紡ぐと、包み込まれたばかりの手を引き抜いて、紫紺から逃げるように顔を背けると、部屋の扉を押し開く。背後で寂しげに佇むエミリアの気配を感じながら、その思いを断ち切るように、間をおかず扉を閉じた。

      薄暗い部屋の中。扉にもたれかかったまま動けないでいるスバルと同じように、エミリアもしばらくその場に立ち尽くしていたが、か細い声で「おやすみなさい」と呟いた後、足音が遠ざかり静寂が戻る。

      夕日が落ちて、窓辺から薄明かりが差し込む。扉に背を滑らせて、その場に腰を落とすと、膝を抱え、そこに額を寝かせる。未だ手のひらに残る柔らかな手の感触。それを横目に見て息をつく。

      「俺は、ナツキ・スバルじゃない。そんなことくらい、わかってる」

      誰に語りかけるわけでもない。けれど、声に出さずにいられなかった。自分自身に、はっきりと言い聞かせる必要があったから。

      「あいつと違って俺は、君に触れることなんて許されない。汚れてるんだ。拭っても拭っても、拭いきれないほど汚れてて」

      拳を固く握る。爪が手のひらに食い込んでじんわりと痛んだ。この痛みが、自分という存在を確実なものにする気がしたから、力を更に強くする。

      「――あいつを殺して、すげ代わったところで意味がない。俺とあいつは同じなのに、全く違う。こんな生き方、俺は知らないんだ……」

      小さく、肩が震える。握りしめた拳から赤い筋が流れて、冷え切った床にぽつりと落ちた。

      「けど俺は、俺の手で、君を王にすることを諦めない。それを失ったら俺は――空っぽだ……」

      スバルは自身のそれを、あまりにも虚しい嘆きだと思った。それしか出来ない。それしか知らない。だから――

      「俺は、君のために。
       君を泣かせてしまっても。
       必ず君を、王にするよ」

      ひどく純粋な誓い。そこには、邪な思いも、詭弁も、微塵の悪辣さすら存在しない。
      ただその誓いが、あまりにも純粋すぎが故に、スバルは過ちを繰り返す。
      誓いのために、それ以外の何者も目に留めず。その歩みを阻害する全てを殺し、侵し、蹂躙して、踏みにじる。

      夜闇が、凛とした静寂が、男の体を抱きとめる。そして、今にも泣き出してしまいそうなそれを撫ぜ、優しいまどろみの中に連れ去ってゆく。


      今はただ、束の間の休息を――――。


          *****


      コンコンと木を打つ音がして、スバルは現へ押し戻された。
      薄目を開ければ、固い床がすぐそこにあって、窓辺から差し込んだ陽光が荘厳な室内を照らし出しているのが見えた。

      「――ぁ、さ?」

      ぼんやりとした頭を覚醒に導こうと上体を起こしてみると、銀の装飾に縁取られた扉がスバルの背を抱きとめる。どうやら、思案を巡らせながらそのまま寝入ってしまったらしい。
      固い床に押し付けられていたせいか、体のあちこちが痛んだが、いかに豪華絢爛な部屋であろうと、ナツキ・スバルの寝台で眠るよりかは何倍もましだった。

      一言、ナツキ・スバルへの悪態でもついてやろうと、乾いた口を開けたその瞬間、背後から今一度扉を打つ軽い音が響いて

      「――んぁ、何か?」

      扉越し、姿の見えない音の主へ腑抜けた声を投げかける。窓枠の影の伸び具合から察するに、正午過ぎといったところだろうか。体調不良と訴えていたスバルをこの時間までそっとしておいてくれたなら、なかなか心にくい演出だ。音の主はエミリアだろうと脳裏に描き、立ち上がると

      「スバル、体調はどう? お腹、減ってない?」

      そこに昨晩の重苦しい空気は既になく、スバルの体調を気遣う心地よい銀鈴の音色が返ってきた。若干の引け目を感じながら、扉を僅かにあけて外を覗くと、中を窺おうとするエミリアの紫紺とかちあって、弾かれたように顔を離す。
      それに呼応する形で、エミリアが扉を押して

      「髪も乱れてるし、服も昨日のままじゃない。それに、やっぱりベアトリスは一緒じゃないの?」

      肩幅程の隙間からスバルの部屋をくるりと見渡すと、スバルの装いに苦言を呈したついでに、痛いところをついてくる。昨晩と変わらぬ黒ずくめの装いを軽くはたき、その手で額に垂れた前髪をなでつけて

      「ああ、だいぶ疲れてたみたいで、みっともないところを。えと、ベアトリスには頼み事をしてあって――またあとで話すよ。それから、食欲ないから、飯はいいかな」

      あとで、という言葉に眉を潜めながら「また危ないことしてないといいけど」と、スバルに届くか届かないかといった声で苦言を呈する。しかし、それを瞬きの間に微笑みへと変えて

      「スバル。今日は私と『でぃと』しましょう」

      「でぃ……と、ってと?」

      日常から程遠い場所にあったスバルは、エミリアの提案に首を捻る。しかし、一拍遅れで『でぃと』なる単語の意味するところに気がついて、顔を赤くしながら遠慮がちに首をすくめ

      「そ、それは……着替えないとだけど……」

      「言っても、ただのお散歩だけどね」

      エミリアは、桃色の唇にぺろりと舌先を覗かせて悪戯っぽく笑った後、「ここで待ってる」と添えて扉を閉める。『でぃと』等と馬鹿げた話だ。これから君を泣かせてしまうというのに、何ともお気楽じゃないか。しかし、話をするには都合がいいと、着替えを探して視線で部屋を一周。それらしい家具の引き出しを引いてみると、流石はナツキ・スバルといった黒い装いが丁寧にしまい込まれていた。「ちょっと拝借」と一言断ってから古着を脱ぎ捨てて、それに袖を通す。
      装いに大きな変化はない。汚れていた箇所が綺麗になったというぐらいで、辿る道が違っても、基本的なところがブレないのは、さすが同一の存在といったところか。
      そんな、よくよく考えれば当たり前のようなことを思いつつ、鏡を見て髪に手櫛を通す。

      こちらを見つめる瞳は、昨日見たばかりのそれと同じで、一瞬緊張で体が強張る。魔女教徒からの報告はない。まだ息があるのだろう。秘密基地にはそれなりの広さがあったし、空腹に飢えることはあっても一日二日で低酸素云々という所まではいかないだろう。

      鏡越しのそれをナツキ・スバルに見たてて、睨みつけると、

      「安心しろ。『でぃと』なんてお遊びに付き合う気はさらさら無い。ここは俺には居心地が悪すぎる。さっさとおさらばして、俺なりのやり方を見せてやるよ」

      言い終えたところで、エミリアが待つ扉に向き直り、軽く咳払いしてから、ポケットに手のひらサイズ程の本の感触があることを確認し、ドアノブに手を掛けてエミリアが待つ廊下に顔を出す。

      「あ。スバル、準備はできた? じゃあ、いきましょう」

      昨夜とは逆にエミリアから、しなやかな手が差し出される。
      仲良く手を繋ぐつもりはさらさら無かったが、それに従う以外の選択肢なく、おずおずと手を出すとエミリアが軽く握り返して、

      「このお屋敷に越してきて暫く経ったでしょう。フレデリカとペトラが中庭を手入れしてくれてたんだけど、温かくなってきたから、お花が咲き始めたの」

      嬉しそうに中庭の様相を語るエミリアの横顔は端正に整っていて、雪のように白く、透き通った頬に咲く桃色が、その美貌をさらに完全なものにしていた。それを見て、つい顔を赤くしてしまうが、自分がすべきことを脳裏に描きなおして、浮き立つ心を押さえつける。

      中庭は、屋敷中央の階段を下りた先で、様々な色を咲かせながらスバルとエミリアを歓迎した。ガラス張りになったエントランスに映えるその景色は、女性的なしなやかさがあって、とても可憐なものだったが、エミリアの美貌の前ではどれも引けを取ってしまうから罪深い。そして、エントランスホールのガラス扉を抜けて中庭へ出ると、芳しい花の香りが二人を包み込んだ。
      『ただのお散歩』と言うには贅沢過ぎる庭園だったが、スバルはその花々のことよりも、エミリアにいつ話を切り出せばいいのか、と、頃合いをつかめずにいた。



      「ねぇ、スバル」

      ひとしきり花の説明を終えた後、エミリアがふとスバルに呼びかけて、

      「今、こうやってしていられるのは、スバルのお陰」

      銀鈴の音色を奏でながら、エミリアが優しくこちらに微笑みかける。しかし、スバルの心では、それを打ち消す、全く別の感情が沸き起こっていて、

      ――それは、俺じゃない

      エミリアが微笑みかけているのも、この手握ってくれるのも、全てはナツキ・スバルの功績だ。それを踏みつけて捻り上げ、蹂躙している存在こそ、エミリアの目の前にいる悪辣なものなのに。

      「王様になるなんて、本当は無理だって思ってた」

      ――君は、王になれる。俺が必ずそうしてあげるから

      どんな犠牲を払っても、エミリアがその時、笑顔をなくしていても、そのたった一つの願いを、必ず叶えると誓いをより固くする。

      「でも今は違う。スバルと一緒なら本当になれるって思えるの」

      ――俺は、君と一緒にいられない。けれど必ず王にする

      一緒にいれば、エミリアが不幸になると確信していた。『力』がないスバルに出来ることはたった一つ。エミリアの窮地に駆けつけて、人知れずそれを打ち砕くこと。

      「いつも、助けられてばかり。
       だけど――
       私も、スバルの力になりたいの」

      ――ありがとう、エミリア


      君の心根は、最初から何も変わっちゃいない。
      その美しく尊い在り方こそ、スバルの魂を魅了して離さない。『ナツキ・スバル』という存在の根源は、いつもそれなのだから。


      「だから、聞かせて?」

      二人の間に、沈黙が生まれる。
      しかし、心の準備はとうに出来ていた。だからこそ、何度も立ち上がって、君だけ見て、それだけの為に、魂を削り落とせたのだから。

      けれど、それでも、悲しむ顔を見るのは辛くて。どうしようもなく、胸が掻き毟られる。

      沈黙を守るスバルに、やっぱり何も教えてもらえないのかと、紫紺を縁取る長い睫毛が伏せられる直前、スバルによって長い沈黙が破られた。

      「俺は――」

      エミリアの真剣な眼差しが、スバルを捉え、言葉を待っている。

      「――」

      それがあまりに真髄なものだったから、言葉を絞り出すのに時間がかかってしまって

      「俺は、君の隣にいられない」

      「どう、して――?」

      理解してあげたいけど、理解してあげれない。
      きっと、自分に何か足りていないからだと捉えて、けしてスバルを責めない、優しい憂いの色がある。

      「俺がいると、君は王になれない」

      「どうして、突然、そんなことを言うの?」

      「それは――」

      躊躇いはない、しかし次の瞬間、エミリアがどんな顔をするのか畏れていた。
      だから、ほんの少し間を置いて、息を呑み。
      ポケットから黒い装丁の教典を取り出して胸の前に掲げて見せると、

      「俺が、『傲慢』だから」

      「――――ぇ」

      中庭を吹き込んだ一陣の風が、落ちた花弁を巻き上げたあと、エミリアの美しい銀髪を撫でて去る。
      そして、そこからしばしの間をあけて、スバルはゆっくりと声にする。

      「俺は、君を王にしたい。
       だから、一緒にいることはできない。
       銀髪のハーフエルフと『魔女教』が一緒にいるなんて、そんなのは民衆がみとめない。まして、王の傍なんて以ての外だ」

      紫紺の瞳が揺れている、彼女の心を映すように。胸の前で細い手をきつく握り、その慟哭を押し込めようとしているように見えた。

      「必ず、君を王にする。
       君の願いを叶えてみせる。
       そして――――いつか、俺を殺してくれ」

      「――――」

      それはあまりにも苛虐な願い。
      しかしスバルは、その穏やかな終わりを渇望していた。

      常軌を逸した酔狂な微笑みは、ただただ愛しい銀髪の乙女に注がれている。
      本来なら甘酸っぱい思い出になるはずだったひと時は、今や、狂人によって穢され、踏みつけられていた。

      そして、スバルは福音をしまい、その場を立ち去ろうと――

      「それが――届いたからなの?」

      銀鈴が凛とした音色を奏で、『傲慢』の舞台を引き裂いた。
      俯いてなどいない。嘆いてなどいない。
      その毅然とも言える立ち姿は、狂酔したスバルを簡単に吹き消して

      「それが、届いたから、スバルはそんなことを言うの?」

      「――それは……」

      足元が崩れてしまいそうだった。
      難しい問いかけだったからではない。
      ただ、詭弁をまくし立てても、全て跳ね除けられてしまうのではないかと思える強さがあったから

      「そう、なのね?」

      気圧され、思わず後退する。まるで絶壁を背に、追い詰められた鼠のように。

      そして――

      つかつかとスバルの目前に迫ると、その手から福音を奪い去って、

      「ぇあ――」

      予想だにしない出来事に、スバルは微塵も抵抗できず、素っ頓狂な声をあげただけで

      「こんなもの」

      言いながら、福音を投げ捨てて

      「壊しちゃえばいいのよ」

      瞬間、虚空から氷の刃が生み出され、鋭い斬撃が宙を舞う福音に襲いかかり、幾重にも切り裂かれ

      「ゃめ――っ」

      はらはらと舞い落ちた。

      「――そんな」

      計画の一端を、いとも簡単に、修復不可能なほどの紙吹雪に変えられて――スバルはそれが風にさらわれていく様を眺めるしかなかった。

      福音を残骸を見て、呆然と立ち尽くすスバルの前で、エミリアは自らの腰に手を当てて、もう一方でスバルを指差し

      「スバルはスバルじゃない。与えられたからって、従う必要なんかないのよ」

      一点の曇りもない顔で、ぴしゃりと言い放つ。

      「も、もし、福音を破壊したら俺まで死ぬって設定だったらどうすんの! 力技すぎない? 君ってそういうタイプなの?」

      「でも、スバルは生きてるから問題ないでしょう?」

      「えぇ……」

      まさかの展開に目を白黒させるスバルであったが、福音書が破壊されたからといって、何ら計画に支障をきたすわけではない。
      計画の一端ではあったが、そもそもスバルの福音は『魔女教の福音書』を真似て作ったまがい物。
      故にスバルを『傲慢』たらしめる何かが変化するわけではなかったし、間に挟まっていた『ベアトリスの福音の一部』に関しても同じこと。それが破壊されたからといって効力がなくなる代物ではない――はずだ。

      「……残念だけど福音書を壊したって、俺が『傲慢』だってのはかわらない。だから――」

      「スバルには、『私の騎士様』って役目があるでしょ?」

      「――やく、め?」

      「ん。スバルはもう『私の騎士様』なんだから、それ以外になることなんてできないの」

      「――――」

      エミリアの高潔すぎる考えに、とうとう完全なまでに言葉を失ってしまった。
      ナツキ・スバルに与えられた役目を果たせと奮い立たせるその紫紺は、未完ながらも確たる王の器が形成されていることを感じさせる。

      しかし、エミリアは知らない。
      目前のスバルは『騎士』ではなく、ただの『傲慢』であることを。

      ――ただの『傲慢』?

      引っかかりを覚えて復唱する。

      銀髪の乙女と、その『騎士』スバル。
      そしてその前に現れた『傲慢』。


      ――あぁ、そっか
      俺は、『銀髪の乙女』とその『騎士』に、『殺される役』なんだ


      瞬間、胸がちくりと痛んだ。
      けれど、自分の中にすんなりと馴染んでいくような気がして


      ――このセカイのエミリアが王になるための礎になれるなら、俺は、全てを君のために捧げるよ


      「わかった、エミリア。
       俺は、俺の役目を果たす」

      決意に満ちた瞳は、どこか空虚だ。そして、間をおかずに続けて

      「俺は、君の『騎士』じゃない。
       君のナツキ・スバルはここにいない。
       だから俺はただの『傲慢』なんだ」

      瞬間、エミリアは理解できないといった風に表情を曇らせるが、

      「――君の『騎士』を返す」

      この言葉だけで、エミリアに全てを伝えることはできないとわかっていた。噛み砕いて説明するのも『死に戻り』を知らない人間には理解しがたいのは明白。故に、スバルは自分の影に視線を落とし、そして

      「――聞いてるか? とりあえず、ナツキ・スバルと大精霊を出しておけ。地上に放り出してエミリアに会える程度には適当に介抱しといてくれる?」

      すると、スバルの影に波紋が生まれ、そして静まる。
      そして、今一度エミリアに向き直り、

      「じゃあ、行こう。
       君の『騎士』様が待ってる」

      手を差し出したりはしない。
      それは本来、俺のものではなかったから。
      エミリアに森まで行くと話をして、パトラッシュという名の地竜を借りると、二人でその背に乗って森を目指した。

      途中、エミリアが「パトラッシュにもわかるのね」と小さく漏らしたが、スバルにはその意味はわからなかった。

      しばらく走った後、森から少し離れた位置にパトラッシュを待たせる。エミリア曰く、パトラッシュが混乱しそうだから、という配慮らしいが、スバルは軽く聞き流してエミリアの後に続いた。



      ※ ※ ※ ※ ※


      生暖かい闇の中にスバルはいた。人肌の温もりを感じる優しい世界。スバルが深い眠りに落ちる時、それはかならず現れて、そしてスバルの魂をまた別の――

      と、そんなまどろみから自分を連れ戻そうとする、眩しい光が差し込んで――次の瞬間、それが本当の陽光だと気がついた。

      ゆっくりと重い瞼をもたげると、ぽつり、と頬に雨が落ちる。
      視界には、木の葉の隙間から覗く澄んだ空と、残り半分を占める逆さまの少女があった。少女の大きな瞳からは、今まさに大粒の雫が落ちる寸前で揺れていて

      「――ベア子」

      スバルの声に、少女はその愛らしい口元をきゅっとつぐんで、何かをこらえるように嗚咽を漏らす。

      「――大丈夫か……?」

      ふっくらとした桃色の頬に手を伸ばすと、ベアトリスがそれを頬に迎え入れ、その甲に小さな手を添えた。

      「……ベティは、大丈夫なのよ。それよりもスバルは自分のことを心配した方がいいかしら。水は飲ませたけど、きっとくたくたに違いないのよ」

      ベアトリスは自分の非力を嘆くように、少し弱々しい声音で語る。濡れた頬と目尻をぬぐってやると、こそばゆそうに目を細めていて

      「ベア子が助けてくれたのか……?」

      酸素が行き渡っていなかったせいか、やや記憶が頼りない。肺腑の奥を新鮮な酸素で満たしながら記憶を手繰る。

      「なんの風の吹き回しかはわからないのよ。でも魔女教徒の連中がベティ達を外に運んだかしら。そしたら、その後ベティを縛る契約が解かれて……それからスバルに治癒を施したのよ」

      ベアトリスの膝に受け止められた頭を少し動かして、周囲の状況を確認する。木漏れ日が差す一角。傍には件の大樹があって、スバルを誘い込んだ大口はすでに無く、

      「そっか」

      全てがわかったわけではない。それでも、一つの脅威が過ぎ去ったのだということが理解できた。けれど、実際なんら抗うことも出来ず、幽閉されていただけなのだから居心地が悪い。
      事が起こり、スバルが奔走することで乗り越えてきたというのに。
      当然そのほうが苦しいに決まってる。しかし、手応えがないまま、完全解決というにはどうも歯切れが悪い。
      そんな状況で、ベアトリスの膝枕に甘えているわけにもいかず、

      「はぁ……なんか、よくわっかんねぇな」

      名残惜しい気持ちを隠さずに、ゆっくりと身を起こす。体の汚れを払い、ベアトリスの手を引いて立ち上がらせて、

      「そういえば、福音に書かれてたやつとかも大丈夫なのか?」

      『既存の契約を破棄し、新たに傲慢と契約せよ』などとふざけたそれを思い起こし、虫唾が走る。そのせいでベアトリスの心が捻じ曲げられてしまったのだから当然だ。

      「あれは……本当は、ベティの意思で振り払うことも出来たはず、なのよ」

      どこか歯切れが悪い。振り払うことができなかった事実を恥じているようで、ベアトリスはスバルから顔を背け、

      「ベティは、あれを前にして……迷ってしまったかしら。その迷いが、ベティを動けなくしてしまったのよ。……本物のスバルがわからなくなるなんて、ベティは――」

      「多分、あいつは『偽物』じゃない。あいつも『本物』の俺なんだ。違う選択をして生きてきた俺で、元を辿れば同じ存在――だと思う。俺もわかんなくなるくらいだし、ベア子が迷うのも当然だ」

      頭をぽんと手をおいて、くしゃりと撫でる。

      「多分、あいつはまだ存在してる。そんな気がするんだ。繋がりとかそんなの無いし、本当になんとなくだけけど、おそらく間違いない」

      ベアトリスの小さな背に合わせて、膝をおり、その視線と高さを合わせてから、

      「俺はあいつをどうにかして止めなきゃなんねぇ。あいつと対峙した時に、俺が俺を見失ってしまわないように、ベア子に隣りにいて欲しい。だから――」

      ベアトリスの華奢な肩に手を添えて、

      「――俺と、もう一度契約してくれるか?」

      「当たり前、なのよ」

      顎を引き、互いの額を合わせると、ゆっくりと目を閉じる。ベアトリスの可愛らしい息遣いをすぐ傍に感じて、スバルの心は徐々に熱を帯び――

      「スバルは、ベティの愛しい契約者かしら」

      胸に込み上げる熱い衝動がある。
      それが、はちきれんばかりに高まって。
      最後に、きらきらと弾け散り、強靭なつながりが顕現する。
      なくす前と繋がりのカタチは同じでも、これまでより更に強固な絆となって二人を結びつけていた。

      ゆっくりと額を離すと、ベアトリスの顔が耳まで赤くなっていることに気付いて、お互い顔を見合わせて笑いあった。そして、ベアトリスの手を取ると、その指先にマナの流動を僅かに感じる。立ち上がり、周囲をぐるりを見渡して、朧げな記憶を手探りしつつ森の外を目指す。

      『スバル』がここを立ち去ってから、外で何が行われたのかわからない。もし失われたものがあっても、それを知らなければ取り戻せない。そんな焦燥感にかりたてられて、足早になる。語らずともベアトリスも似た感情を持っているのは手に取るように分かった。

      再び印を頼りに森を抜けると、屋敷の方角を確かめて――と、前方から駆けてくる銀色の輝きに気がついて、

      「――――エミリアっ!!」

      そして、その少し後をついてくる忌々しい黒い影にも。

      「そいつから離れるんだ!」

      ベアトリスの手を握る力を強くして、合図する。相手の出方によっては――

      「スバル! ベアトリス!」

      エミリアがスバル達の元に駆け寄って「よかった、本当に」と安心しきったように笑う。
      同様にスバルもエミリアの無事を確認して安堵するも、間をおかずに『スバル』に鋭い視線を投げつけて、エミリアをかばうように前に出ると

      「てっめぇ! 無茶苦茶してくれやがったな。マジで死にかけただろうが!」

      スバル達から少し離れた場所で、気怠げに頭を掻く『スバル』に、激情を堪えきれず叫ぶ。

      「死にそこねて残念だったな。ま、新しい経験が出来てよかったろ」

      それは、ひどく残念だと言わんばかりに肩を落として言った。そんな態度にスバルが怒りを滾らせていると、

      「スバル。ベティにも言わせるかしら」

      繋いだ手をくいくいと引いて、スバルの怒りをを鞘に戻させると、『スバル』に向き直り

      「どうしてベティとの契約を破棄したかしら。ベティとスバルが再契約した今、お前は嬲り殺しにされるだけなのよ。それくらいわかっていたはずかしら」

      堂々と嬲り殺し宣言をするとんでもない幼女に、スバルはやや落ち着きを取り戻す。対するそれは、秘密基地――洞窟で邂逅した時とは別の、空虚な瞳をこちらに向けて、

      「お好きにどうぞ、ってことだ」

      「はァ? さんざんぱらヤラカシといて、今さら改心したとか言わねぇよな」

      「あぁまったく。その子と同じで、そう簡単に心根はかわらねぇよ」

      「――だろうな」

      心根は変わらない。スバルの在り方は道によって変われど、元を正せば同じこと。『スバル』と自分自身に嫌悪感を隠せないままでいると、

      「お前がいない間に色々わかった。
       んでもって、俺は『俺の間違い』を認めることにした」

      「な――」

      「俺は――知らなかった。
       知ろうとしなかったから。
       だけど、願いを叶えたかった。
       ――それしか、知らなかったから」

      その悲痛な胸の内に、スバルの胸が痛む。
      『スバル』がどんなセカイに身を置いていたのか、その一端すらはっきりは分からない。それでも、それはナツキ・スバルだったから、同じ痛みを知っていた。

      「俺は、間違ってたんだ。端から、全部。存在そのものが”過ち”だった」

      自分自身を嘲るように吐き捨てて、それは両手を広げる。抵抗する気は無いと示しながら

      「――俺を殺せ、ナツキ・スバル。
       それこそが、過って、過ちぬいた『傲慢』の結末だ」

      嗤っている。さぁ早くしろと、追い討ちをかける様にして

      「――っ」

      吐き気がした、あまりにも邪悪なそれに。
      相手は『傲慢』なら、それを滅ぼすのは正しいことなのかもしれない。けれど、殺せと言い張るその姿はあまりにも――

      「この役回りこそが、散々ぱらヤラカシてきた俺の、ツケなんだろうよ……」

      消え入る様な掠れた声だ。側にいなければ聞き取れないほどの、生きる事を諦め切った声。
      しかしそれは、スバルの心に鮮明に届いて

      「――っまえは……」

      ベアトリスの手を離し、拳を握りしめて、

      「っんな簡単に! 死のうとすんじゃねぇ! 俺だろ!」

      距離を詰め、『スバル』の胸ぐらを掴んで捻り上げる。

      「ッ――俺は、お前とは違う……」

      「いいや、お前は俺だ! はっきり言って、認めたくなんざねぇけどな」

      胸ぐらを引き寄せて、その空虚な目の奥深くを睨みつげる。その奥底にちらつく、非力を嘆くナツキ・スバルの瞳を。

      「っ……何で! 俺を殺せばそれでハッピーエンドだろ! 何が気に入らない! 本当は死にたくなんか無いって言えば満足なのか?!」

      それは胸ぐらをつかむ手を剥がそうと身を捩り

      「もういいだろ……俺は終わりたいんだ。散々なんだよ、こんなのは! 俺にツケを払わせてくれよ。その子が王になるための踏み台だ。うまい話じゃねぇか。自分を殺すのは気分が悪いってんなら、誰に殺させたっていい。ああ、そうだ。俺が自分で殺――」

      「もう、やめて。そんなこと、言わないで……」

      醜態を晒す『スバル』を肩越しに見守っていたエミリアが、苦しげに懇願する。

      「えみ、りあ……」

      「あなたは私を王様にしようとして。
       でも、それはよくない方法で……
       それでも、頑張ってくれたのよね」

      エミリアは、そのひとつひとつの想いを確認する様に投げ掛けて、

      「――でも、君は喜ばない」

      泣かせる、とまでは、あえて言わなかった。それはエミリアに聞かせたくないだけでなく、おそらくは『スバル』自身にとって辛い事だからで

      「そう、ね。きっとそう。
       でも――ありがとう、スバル」

      エミリアは否定しなかった。
      その結末も、生き方も、選んだ道も、歪んだ愛すらも、自分を想ってしてくれたことなら、ちゃんとお礼をしなきゃと。そんな、大きな優しさで『スバル』を受け止めていた。

      胸ぐらをつかむ手を離す。すると、『スバル』は、力なく項垂れて、

      「俺は――君の”スバル”じゃない。むしろ殺そうとしてた。だから、優しい言葉をかける必要なんざないんだ」

      「ううん、あなたもスバルよ。私にだってわかるもの」

      エミリアは自らの胸に手を当てて、スバルとの記憶に想いを馳せる。様々なスバルを傍で見て、困難を一緒に乗り越えてきたからこそ、彼女なりの答えを見出していた。

      「エミリアたんはこう見えて頑固だから、言い出したら聞かねぇよ? それに、死んだところでなんも解決しねぇだろ。――これまでも、そうだったんだ」

      だろ? と、肩をすくめて見せると、弱々しく地に目を伏せ、顔に陰を落とす『スバル』に、

      「俯くな。お前が信じた道を最後まで走れ。吐気がするような終わりでも、それがお前の結末だろ」

      スバルは、その黒髪を軽く拳ではたき、「自分叩くってなんか変な感じだな」と苦笑い。

      「あるべき場所に帰れ。
       そして俺の邪魔をするな」

      はたかれた場所に手を乗せて、憎々しげにこちらを見やる『スバル』の鼻先に指を突きつけて言い放つ。その後、「今のなかなかかっこよくなかった?」と軽口を叩いておどけて見せるから、かっこがつかない。
      そんな馬鹿馬鹿しい『このセカイ』の姿に、心底呆れたといった様子で『スバル』は溜息を溢す。

      「お互い全部終わったら、答え合わせでも何でも付き合ってやんよ。だから、その時に胸を張って自分の終わりを語れるようにしとけ。ま、『最悪だ』って言うけどな」

      「――最高、だ」

      「っし! じゃ、帰り支度は出来たな」

      「はぁ? 何の話だ」

      「お前、本当に俺かぁ? こんなトンデモ設定のオチつったら決まってんだろ」

      「いや、だから、意味――」

      瞬間、スバル達を取り囲む景色が、まるでハリボテであったかのように亀裂が走り、そこからまばゆいの光が差し込んで

      「す、スバル!」

      一拍遅れでそれに気付いたエミリアとベアトリスがスバルに駆け寄って、それぞれ手を握り

      「大丈夫、大丈夫。こういうのお約束っつーの? 次の瞬間には夢から醒めるって。まぁ、夢かはわかんねぇけどさ」

      「むぅ、わけがわからないのよ……」

      納得ならないと言った様子で、ベアトリスは空間全体に伸びていく光の筋とスバルを交互に見上げる。

      「スバル、本当に大丈夫?」

      「大丈夫だ、問題ない!」

      肩にかかる銀髪をふわりと揺らしながら、エミリアは微笑んで、

      「よくわからないけど……、スバルが言うなら、きっとそうね」


      そんな一団と対象的に、『スバル』はつまらなさそうに空を見上げ

      「はぁ、なるほど。っていうかベタすぎね? まぁ帰れるなら万々歳だし、夢だってんなら、こんな悪夢はさっさと忘れたいね」

      「大体、悪夢に限って覚えてんだよなぁ」

      「はぁ、お前……ほんとサイテーだな」

      嫌味たらしく言い放つスバルを横目でぎろりと睨みつけていると、スバルは片目を瞑って悪戯っぽく笑ったあと、

      「まだまだ掛かっけど、いつか見せてやるよ。お前が見れなかった、最高のハッピーエンドを」

      「――はっ。本当にどこまでもどこまでも、馬鹿げてる」

      馬鹿らしすぎて見ていられないといった風に『スバル』は顔を背け、音もなく崩れ落ちていく空間が、徐々に真っ白なそれに包まれるのを見て、そっと目を閉じる。

      その、瞼の裏の暗闇さえも真っ白な光に包み込まれて――自分という存在がぼやけ、おぼろげになってゆく。セカイそのものと混ざり合い、何もかもが一つになって。
      それは無限とも、瞬きの間とも思える時間を掛けて、一つの意識を形成し、そして――


          *****


      「知ってる、天井だ」

      湿っぽい空気が満たす薄暗い部屋。荘厳な装飾がなされた天井がスバルを迎えた。
      ベッドに沈み込んだ身をもたげると、タイミングを見計らったように扉を開ける影が一つ。

      「あら、やっとお目覚め? 最後の日だというのに、とんだ曲者ね」

      艶のある落ち着いた声色。豊満な胸元に漆黒の三つ編みを垂らした『腸狩り』だ。

      「メィリィは待ちくたびれて先に出ていってしまったわ」

      「だったら起こせばいいだろ……」

      「加減をするのは苦手なのだけれど」

      「どんだけ手荒な方法取る気だよ! 殺される前に死ぬわ!」

      寝起き早々頭が痛くなるようだったが、そんな戯言に興じている暇は無いとベッドから足を下ろし――

      「ひとつ、いいかしら」

      再び外に出ていこうとしていたエルザがこちらを振り返り、艶やかな所作で舌なめずりして見せ

      「あなた、今日はとてもいい顔をしているわ」

      「――はっ。 そりゃどうも」

      そして、そのまま部屋を出て行く。
      再び静寂を取り戻した部屋で、こなれた動きでジャージに袖を通すと、クローゼットに備え付けられた鏡に自らを映し、服装を正す。
      ふと、鏡越しの自分と視線がかち合って、やや居心地の悪さを感じながら

      「いいか。ちゃんと見てろ。これが俺の――生き方、だから」

      返ってくる言葉はない。
      それはただ、スバルを見て、そして――――始まる。


      ナツキ・スバル、最後の一日が。





      (おわり)

      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

      ご覧いただきありがとうございました。生誕祭にぎりぎり完成したので誤字もろもろあるかもしれませんが、よかったら感想等いただけるととても喜びます。

      マジで小説って形でちゃんと書いたのははじめてかな? と思う。書いたとしても2作品、文字数も5千文字以上は無くて、かけた事にびっくりです。しかも一番驚くのがハッピーエンドってとこ!ハピエン書けるんだこの人……

      ここまで読んでくださってありがとうございました。

      #rezero #リゼロ  #Reゼロから始める異世界生活 #小説
      おわり|ラスト
    • 5オボレルの。動画用にと一部は思って描いたけど一枚も採用されなかったね!ハハッ!
      #リゼロ #Reゼロから始める異世界生活 #rezero
      おわり|ラスト
    • 15リゼロLOG 5章とか落書きごちゃまぜ #リゼロ #Reゼロから始める異世界生活 #rezeroおわり|ラスト
    • 26リゼロLOG『福音書』良い結末ではありません
      #リゼロ #Reゼロから始める異世界生活 #rezero #漫画
      おわり|ラスト
    • 7リゼロLOG 『最優』アヤマツで最優と。胸糞なので閲覧注意です
      #リゼロ #Reゼロから始める異世界生活 #rezero #漫画
      おわり|ラスト
    • エルスバ小説『人形が見た夢』金の鉤針が白い毛糸すくい、編み込まれ。しなやかな手のひらの上で、徐々に人型を成していく。
      奪うばかりの血濡れた双腕も、この一時だけは真逆の性質を持っていて――

      「エルザはこういう時だけ、器用よねぇ」
       女の斜め前で頬杖をつきながら、繊細な指使いをぼんやりと見つける少女がいた。
      もう片手で濃い紺色のおさげを撫ぜる仕草も、その声色も、幼い外見とは対照的に艶めいている。

      「そうかしら。ありがとう」
      「あんまり褒めてないんだけどお」

       少女の皮肉じみた言い回しに手を止めることもなく、女の黒瞳は人形を捉えたままだ。
      その眼差しは、愛しい我が子を見つめるような、優しい光を宿していて、窓から差し込む月光がその輪郭を浮き上がらせていることも手伝って、見惚れるほどの美しさがあった。

      「最近待機が続いてるけど、お兄さん、もう飽きちゃったのかしら」
      「本人に聞いてみたら?」
      「本人にって。あの子の話になると人が変わっちゃうから、やぶ蛇だわあ」

      少女がため息混じりに肩をすくめると、女がくすくすと笑って

      「できた」

      鉤針を抜き取り、その結び目を小ぶりのナイフで断ち切る。
      薄紫の髪と白を基調とした装いの人形は、少女にも見覚のある姿をしていて

      「その人形、この間の騎士さんね。最優、だったかしらあ。エルザが殺したの?」

      少女は顔色一つ変えることなく、その穏やかでない事実を口にする。問われた女もまた、それをさも当然のこととして受け止めて、ゆるゆると首を左右に振り

      「いいえ。私としては、お腹を見てみたかったのだけれど」
      「人形のお腹を裂いても、出てくるのは綿だしね。ピンクの太い紐を入れれば少しは――」
      「――そういう入れ知恵するのはやめろ」

       穏かに交わされる、ただならぬ会話を男の声が遮った。肩で扉を押し開き、腫れぼったい眼を擦る人影に自然と視線が集まって

      「……なんだよ」
      黒瞳を細め、居心地の悪さを濁すように声にする。

      「どこから聞いてたのかしらあ」
      「まるで俺が聞き耳立ててたみたいに言うなよ。お前らが何話してようが別に興味ねぇし。ただ、あんまり趣味がわりぃから止めたまでだ」
      「ふうん。それでこの騎士さんは、お兄さんが?」

      少女は女の手に収まった人形を指差して、小さく首を傾げる。つられて男が人形に視線に向けると、途端に表情を曇らせて

      「……さぁな」

      細められた黒瞳には嫌悪の情が宿っており、それ以上の追求をあからさまに拒んでいた。
      女はそれに気付いていながらも気に留めることはなく、「藪蛇ね」と少女に悪戯っぽく投げかけた。

      「このアジトだっていつまでいるかわからない。あんまり物を増やすなよ」

       女越しに見える木枠の窓には、既に数体に人形が腰掛けている。
      いずれも男に関わってしまった不幸な者達だ。
      その末路は様々であったが、半数がハラワタをぶちまけた死体であったのは語るまでもない。
      故に、この世界から失われた者たちを『カタチ』に残して何になるのだと、男の中で苛立ちが募るばかりであった。

      「待っているだけなのも退屈なのよ。それで、ひとつ頼まれてくれないかしら」
      「頼み? どうせろくでもないことなんだろ。嫌だね」

      男は黒髪をくしゃりと掻いて、ぶっきらぼうに跳ね除ける。
      その様に、少女は頬を膨らませて抗議を形にすると

      「お兄さんてば、内容を聞きもしないで断るなんて、エルザにお腹を切られちゃうんだから」
      「どうせ断るなら、タイミングなんざいつでも構わないだろ。むしろ早ければ早いだけいいに決まってる」

      少女からの追撃も虚しく、男の意志は固い。これ以上話す事はないと、男は足を踏み出して――

      「そうなると、私かメィリィが行くことになるけれど、よかったかしら」

      足を止める。そして今一度、女に恨めしげな視線を投げやると

      「――正攻法で駄目だからって、脅すのはやめろよ」
      「あら、人聞きが悪いことをいうのね。お互いのためになることよ」

      女は悪びれるでもなく、その艶やかな唇を湿らせて、くすりと笑う。
      悩ましげな仕草も、その正体が悪名高き『腸狩り』なのだから台無しだ。
      ことに、男にとっては癪に障る他無く――

      「うっざ……」

      率直な感想が口をつくほどだった。
      しかし女は、それを肯定と取って笑みを深め

      「足りない色を買ってきてほしいの。顔が割れていると苦労するわ」

      女の視線が下に落ち、机上で小さくなった毛糸の束を捉えた。その残量は、男の素人目から見ても心許ない。加えて、このまま手持ち無沙汰をこじらせて、『腸狩り』の本領を発揮されてはたまらない。

      「しゃーねぇ……使いパシられてやるよ。けど動きづらいのは、お前がやたらめったらグロ量産すっからだ」

       ギリリと女を睨みつける男の脳裏を過るのは、苦々しい過去の出来事だ。
      『腸狩り』と聞いて駆けつけた衛兵らをなぎ払い、内臓の絨毯を作り上げた最悪の光景。
      むせ返るほどの血生臭さと死の臭い。その記憶を手繰るうち、胃から込み上げるものがあることに気付いて、頭を振り思考を払う。

      「お兄さんは表に出ないからそう言えるのよお。ま、エルザがやり過ぎなのは本当だけどねえ」

      顔色を悪くする男をよそに、少女は気だるげな眼差しで女をチクリと刺した。
      しかし、女に自身を省みようとする様子は微塵もないのだから、少女の苦労が伺える。

      「これを」

       言って、女はその豊満な胸元から、ひらりと一枚の紙切れをつまみ上げ、男へと差し出した。
      そこから一瞬間があって、しぶしぶ男が歩み寄り、受け取って目を通す。
      紙切れには毛色の指示が幾つか並び、その中の一つに眉をひそめるも、瞬き一つで消し去って、「わかった」と頷くと、男は踵を返して部屋を出た。

       その背を視線で見送り、しばらくして

      「殺したい人間のお使いに出掛けるって、どんな気分なのかしらあ」
      「いい気分でないのは確かね」
      「お願いする側もどうかと思うけど。ほんと、何考えてるんだか」

      少女は悩ましげに吐息を漏らし、女から騎士の人形を受け取る。
      それを大事そうに抱え込むと、人形の腹を小さな指先で横に撫ぜ

      「お腹を開いて、中身が見えたら簡単なんだけど」

      人形の表情は柔らかく、だが返答はない。
      穏やかで、穏やかではない、歪んだ日常だけがそこにあった。


      ****************


      「呑気に買い物してる場合かよ……」
       黒いフードを今一度深く被り直し、王都の喧騒にまみれて歩く。
      既に時は夕暮れで、薄闇に紛れてアジトに帰るには最適だ。
      抱えた紙袋は軽いわりに嵩張るし、依頼主への苛立ちも手伝って自然と足早になっていた。

       繁華街を抜けて喧騒から解放されると、若干心が身軽になる。
      今まさに王都を暗躍する大罪人である男は、その容姿が割れていないとはいえ、後ろ暗い気持ちが頬を強張らせていたし、街角で目をギラつかせる衛兵に気づけば、その視線から逃れるように目を背けた。
      怪しまれたところで何ら証拠が出るわけでもないのだが――

      「うぉっと、すまね」
       角を曲がってすぐ、男の前を人影が遮った。
      丁度通りを出ようとしていた相手とタイミングが被ったらしく、男は軽く会釈して謝罪を口にする。
      「いや、僕の不注意だ。そう、僕の不注意で……僕が不甲斐ないばかりに」
      誠実そうな声色。しかし、拠り所をなくしたようなそれは、自身を責め立てる弱々しさがあって
      「そんな、ただタイミングが被ったくらいで――」
      目立つ行動を取るつもりはない。足早に立ち去って、数分後には相手の記憶から抜け落ちているのが最適解だと理解していながらも、男はフードの影から目を覗かせて、ちらりと相手を仰いだ。
      目がくらむほどの眩しい赤。そして真っ青な空そのものをはめ込んだような澄み切った瞳。見まごうはずがない、それは――

      「剣、聖……」

      思わず声が漏れる。男にとってこれは、それ程までに意図せぬ邂逅であり、あってほしくない再会だった。
       しかし、記憶に焼き付いて離れない姿と、今の男はまるで違う。表情に暗い影が差し、後悔と悲嘆に支配されているように見えた。

      「最近、思い知らされてね。考えごとをしていたせいだ」
      「剣聖様も、悩むことがあるんですね。その『力』があれば出来ないことなんてないでしょうに」
      「そう、思うかい。大切なものを守れない力に、意味があるのかな」

      そう言って自虐的な微笑みを浮かべる剣聖に、黒い感情が湧き上がるのを感じた。

       力を持っているくせに、無いものの苦しみを知らないくせに、贅沢な悩みじゃないか。代われるものなら代わってやろう、代わってみればきっとわかる。痛みが、苦しみが、嘆きが、いか程のものか突きつけてやれたのに。
      だから男は、それをそのまま声にした。

      「俺は欲しいです、その『力』が。守れなくても、守るために振るう『力』がある。『力』がなければ、悪あがきすら許されない」

      それは嘆きそのものだった。何ら悪辣さも含まない、ただ、嫉妬を吐き出して

      「君は――」
      「すみませんが、連れを待たせているので。剣聖さん、また」
      「あぁ……、すまなかったね」

      男は剣聖の言葉を遮ると、その横を通り過ぎて、足早に路地の奥へ姿を消した。

      「――――」

      何か、引っかかるものがあったわけではない。
      しかし、剣聖の胸にはざらついた感触がこびりつき、それはしばらく離れなかった。


      ****************


      「はぁ。最悪の最悪だったな」
       鉄の扉を後ろ手で閉めながら、男は深い深い溜め息をついた。
      それもそのはずだ。あっていいはずのない邂逅があって、まして言葉を交わす事になったのだから、その運命を呪わずにいられない。

      ――と、肩をすくめる男から数歩離れた場所で、黒い気配が生まれ、人型を作り

      「ん、お前らか。姿を見せたってことは進展があったと思っていいんだよな」
      男が顔を向けると、それは恭しく頭を垂れて敬服し、ぼそぼそと耳障りな囁き声をもって男に応じた。
      「そうか、わかった。これでやっと動けるわけか。とりあえず、ご苦労さん」
      報告を聞き届けると、男はひらりと手を振って黒い影に退場を促し、黒い影もまたそれに応じて闇へと溶けた。

      「無力なりの悪あがきを見せてやるよ」
      口元を歪め、よこしま笑みを作る。その脳裏には、赤い炎が揺らめいて
      「戻ったのね。待っていたわ」
       扉の軋む音と同時に声があり、女性らしい凹凸のあるしなやかな肢体が顕になる。
      「『腸狩り』なんかに待たれるとかゾッとしねぇな。お待ちかねの毛糸だ」
      男の表情から既に笑みは消えていて、代わりに純粋な嫌悪がそこにあったが、女はそれを微塵も気にすることはなく、男が投げた紙袋を豊満な胸に受け入れた。

      「昨日の今日で助かるわ」
      「礼なんざいらねぇよ、吐き気がする。これは貸しだからな」
      「ええ、そうね」

      女は小さく頷いて、紙袋の中身に目を落とし毛色を確認すると

      「――」
      「それよか、仕事だ。お前の『力』が必要になる」
       女が声にするより早く、男は女とすれ違いざまに鋭い視線を投げかける。
      『女の力』だけを求める声に、女はより笑みを深くして応じ
      「王都全員の腸狩り放題、嬉しいだろ。人形遊びしてる暇はないな」
      「素敵ね。ゾクゾクしちゃう」

      女はよこしまな想像と共に赤らんだ頬に片手を添えて、熱っぽく吐息を溢す。

      「ま、死ぬけどな。じゃ、俺は明日に備えて寝るから」

       女が見た男の黒瞳の奥には、銀色の輝きだけがある。
      死ぬと語る男の声は、それと真逆の幸福に満ちあふれていた。


      ****************


       ――その日、王都は燃えていた。

       剣聖の耳に入った最初の報告は、貧民街での爆破と炎上。
      木造りの家屋が肩を寄せ合うように密集していたことが手伝って、火の手は瞬く間に広がった。
      それを食い止めるべく、多くの魔法兵が駆り出されたところで、貴族街で二度目の爆発。
      その威力は凄まじいもので、とある貴族の屋敷が数件、跡形もなく吹き飛ぶほど。爆風が衝撃波となって周辺を薙ぎ払い、甚大な被害が出たことは語るまでもない。

       炎上と倒壊、多くの死傷者を前にして、剣聖は実に『無力』であった。
      神がかった剣技がある。神のそれと見まごうほどの加護がある。
      しかし、その全てもってしても『敵』には形が必要だった。

      「誰が、何のために!」
       悲痛に顔を歪めた剣聖が、業火を前に拳を握る。
      崩れ落ちた石壁にその拳を打ち付けて、屈辱を吐き出すその姿は、今まさに王都が危機に瀕していることを現していた。

      「エミリア様を、お守りしなければ……」
      使命を今一度胸に刻みつけ、慟哭を押し殺す。

       心許した最優と青を失って尚、剣聖には誇り高い意志がある。黒い怒りを滾らせながら、愛する世界を守るために地を蹴った。
      その体は羽が生えたように軽く、世の理を覆す脚力を持って空に跳躍し、上空から赤い王都を見下ろして

      「――?」

       常人の視界ならば、それを捉えることはできなかっただろう。
      しかし、剣聖の空色の瞳には、噴き上がる黒煙の先――燃え盛る王都を走る黒い影が、くっきりと映り込んでいた。


      ****************


      「ッはぁ……はぁ……」

       燃え盛る炎と熱波に炙られて、肌に焦げ付く感触がある。
      黒煙を吸った喉は枯れ、口内に血の味が滲んだ。

      「あの子は、どこに」
      すすで汚れたフードを手で肩に落とし、周囲に目を走らせるが、吹き上がる黒煙がそれを許さない。
      故に男は、自らを目指して落ち来る炎に気づくことはなく
      「――づぁッ!」
      瞬間、熱波が吹き荒ぶ。それは火の粉を伴って、男の体をいとも容易く吹き飛ばす。

      「――そこまでだ」

       それは、澄み切った声だった。
      男が地に手をついて身をもたげると、そこには熱波に揺らめく炎がある。
      否――それは炎ではなく人の姿をしていた。
      白い騎士服に身を包んだそれは、紅蓮の髪を風に揺らし、澄み切った空色の瞳で男を睨みつけていた。

      「っまえは……剣聖。もう二度と、会いたくなかったんだけどな」
      「君は、いったい」
      「――『力』が欲しかっただけの、ただの人間。しいて言うなら『お前の敵』だろうな」

      口内が酷く血なまぐさい。石畳を転がって口が切れ、それだけでなく体の節々が悲鳴を上げている。ただそこにあるだけで圧倒的な力を振るうそれに、男は赤い唾を吐き捨てた。

      「存分に『力』を振るばいい。友の仇、国民の仇、叩き切る理由には困らないだろ? そして俺は、いとも簡単に死ぬんだ」

      男の言葉で憎悪を色濃くする剣聖を前にして、それは肩を揺らして笑っていた。

      「――けどな、俺は死なない。そして、諦めない」

      凶悪な笑みの中に、悲痛な嘆きがある。しかし、狂人のそれは誰に理解されることもなく、交わす言葉の代わりに剣聖の腕が振りかぶられて

      「必ずお前を――殺してやる」

       そして、それが男の最後の言葉となって――否、男は地を蹴って業火の中にその身を投げた。
      身体を両断するはずだった剣聖の手刀は、業火の中の瓦礫をかすめて行き場を失う。
      ただで殺されてやるつもりなど端から無い。意地汚い、ほんの数秒の悪足掻きだったとして、それでも剣聖を出し抜けたなら、そこに意味があるのだから。

      「づぁっ……っそ、がぁっ!」
       業火に逃げ込んでも、それが死を伴う地獄なのは変わりない。むしろ剣聖のそれより性質が悪いと言っていい。
      身を焼きながら炎の中を駆け抜けて、勢い任せに炎の隙間へ飛び出す。地を転がり、その身を燃やす炎を払って、焼け焦げたローブを投げ捨てる。
      「げはっ……ぐ……ぅッ……」
      喉が焼け、息をすることすら鮮烈な痛みを伴い、苦痛に喘ぐ。真っ赤に焼けただれた手は震え、地につくだけで神経が焼き切れるほどの痛みを吐き出した。
      しかし、それでもなお、地を蹴る足と伸ばす手があるうちは止まれない。あの子のもとへ行くことを諦めない。

      「――ぁ」

       瞬間、駆け出した足がずるりと滑り、上体が石畳に投げ出される。
      そして一拍遅れて、倒れ込んだ男を柔らかな風が撫でた。
      ――何が。
      ただれた頬が擦り剥けて、頭を上げれば喉元まで血が滴る。
      しかし、その不快感も痛みも、何もかもがどうでも良くなるほどの衝撃が脳天を貫いて

      「――があああああぁあああぁあッ!!」

       地をのたうち、身を丸めて膝を抱く。否――抱けなかった。右膝から下が、まるごと消失していたから。
      本来それを満たすはずだった鮮血が、行き場をなくして地を汚す。
      だがしかし、今はそんなことはどうでもよくて、ただ痛みにのたうつしか出来なくて

      「憎しみはある。でも、それをぶつけるような真似をするつもりはない」

      だから、炎が男を見下ろす距離にあっても、それに構う余裕すらなかった。

      ――痛い。痛くて痛くて痛くて痛みで死んでしまいそうなほどに痛い。終わりだ終わるんだ終わっていく何もかも。だけど終わらない終わらせない、絶対に剣聖を、殺してやる死なせてやる嘲笑ってやる。俺が死んで死んで死ねば死ぬほどお前は死に引きずり込まれて死んでいくんだ。

      「く…ひひ……」

       絶対絶命の状況にあって、意識を痛みに支配されてなお、男は笑った。
      血走った目で頭上の剣聖を見上げ、男すら理解しきれない感情をもって笑っていた。
      剣聖の瞳に憐れみはない。ただ男の命を――道を断ち切らんと、再び手を振りかぶって

      「お兄さん!」

       幼い声がした。そして地を蹴る堅い爪の音。
      そして男を跨ぐようにして、獣の巨躯が剣聖へ飛びかかり――瞬間、血飛沫となって降り注ぐ。

      「メィ――」

      言い終わるより早く、浮遊感がある。
      そして、剣聖が遠ざかった時に初めて、その躍動をもたらした女の存在に気がついた。

      「余計な、ことを」

       死には至らずとも、血を失いすぎた頭では状況への理解が追いつかない。
      ただ一つ分かるのは『死に損なった』ということで、それは同時に『剣聖に殺されずに済んだ』ことでもあった。
      「まだ、死ねないのでしょう」
      艶っぽい声が注がれる。男を傍らに抱え、圧倒的な脚力をもって地を蹴り、屋根を蹴り、壁を蹴り。その度に男を衝撃が撃ち抜いて、答えるどころか命をつなぐだけで精一杯だった。

      「諦めて、しまったの?」

       ひとしきり血を垂れ流した上に、荒っぽく運ばれたせいで、男の感覚はおおよそ失われている。
      地に降ろされ、すすにまみれた石壁に背を寝かされたことも明確に理解できないまま、それでも女の声に黒瞳を細めて応じ

      「――諦めたと、思う、のか。お前を殺すことも……諦め、て、ない」

      色を失った顔はまるで生きているのが不思議なほどで、しゃがれた声もまた、地獄を這いずる亡者のそれのようだった。
      しかし、瞳に宿る黒い情念はまだ失われておらず、女は唇に弧を描いた。

      「俺を、殺せ」

      故に、一瞬の沈黙があって

      「――終わってしまうわ」
      「終わら、ない」

       ――何を、言っているのか。
      女に理解することは不可能だった。男に女と同じ祝福はない。似たものがあっても、女には知るすべがなかったのだから当然だ。
      狂人のそれか、ここにきて気が触れたのか、矛盾した言葉の先に答えはない。

      「絶対に、殺してやる。剣聖も、お前も。だか――」

       ふわりと、浮いた感触があった。そして、景色が斜めになるのを捉え、そこで男は気がついた。


      ――死んだ、と。


      女が見える。表情は変わらなかった。
      ただ何故か、その一瞬だけは、女が鮮やかに見えた気がして――闇に呑まれた。


      ****************


       金の鉤針が黒い毛糸すくい、編み込まれ。しなやかな手のひらの上で、徐々に人型を成していく。
      奪うばかりの血濡れた双腕も、この一時だけは真逆の性質を持っていて――

      「そのための、『貸し』だったの」

      人形は答えない。命を持っていないのだから当然だ。
      女もそれを不服には思わない、それが日常でもあったから。

       人形は今も、拒み続けている。
      この世界の運命そのものを拒み続けて――そして

      「橙色は買ってくれなかったのね」

      いつまでもいつまでも、未完のまま、そこに在り続けた。




      おわり



      ~~~~~~~~~~~~~~~


      ご覧いただきありがとうございました。
      前回の『交差するセカイ』はハピエンだったけど、今回はバッドエンドです、おそらく。そして念願のエルスバ小説! あれ……エルスバってない……かな、ごめん。私は、スバルに対するびみょ~~~なエルザの反応が好きなんだよね。
      ていうか、またアヤマツでしたね! アヤマツ好きすぎかよこいつ! でもエルスバと言えばアヤマツになりがちなんですよ。死ぬけど。至高のエルスバ生産機アヤマツ! 猫先生ありがとう。神に感謝。
      というわけで、アナタのエルスバと合致するかどうかは微妙でしたが、気に入っていただけたら幸いです。
      んでもって毎度ながら、感想お待ちしています~~!


      ◆ ほめて箱(匿名でTwitterから投稿可能)
      [[jumpuri:https://twitter.com/owari_su/status/985871633523998720 > https://twitter.com/owari_su/status/985871633523998720]]

      ◆ おたよりフォーム(匿名で簡単に投稿可能)
      [[jumpuri:http://owari-last.tumblr.com/imp > http://owari-last.tumblr.com/imp]]
      金の鉤針が白い毛糸すくい、編み込まれ。しなやかな手のひらの上で、徐々に人型を成していく。
      奪うばかりの血濡れた双腕も、この一時だけは真逆の性質を持っていて――

      「エルザはこういう時だけ、器用よねぇ」
       女の斜め前で頬杖をつきながら、繊細な指使いをぼんやりと見つける少女がいた。
      もう片手で濃い紺色のおさげを撫ぜる仕草も、その声色も、幼い外見とは対照的に艶めいている。

      「そうかしら。ありがとう」
      「あんまり褒めてないんだけどお」

       少女の皮肉じみた言い回しに手を止めることもなく、女の黒瞳は人形を捉えたままだ。
      その眼差しは、愛しい我が子を見つめるような、優しい光を宿していて、窓から差し込む月光がその輪郭を浮き上がらせていることも手伝って、見惚れるほどの美しさがあった。

      「最近待機が続いてるけど、お兄さん、もう飽きちゃったのかしら」
      「本人に聞いてみたら?」
      「本人にって。あの子の話になると人が変わっちゃうから、やぶ蛇だわあ」

      少女がため息混じりに肩をすくめると、女がくすくすと笑って

      「できた」

      鉤針を抜き取り、その結び目を小ぶりのナイフで断ち切る。
      薄紫の髪と白を基調とした装いの人形は、少女にも見覚のある姿をしていて

      「その人形、この間の騎士さんね。最優、だったかしらあ。エルザが殺したの?」

      少女は顔色一つ変えることなく、その穏やかでない事実を口にする。問われた女もまた、それをさも当然のこととして受け止めて、ゆるゆると首を左右に振り

      「いいえ。私としては、お腹を見てみたかったのだけれど」
      「人形のお腹を裂いても、出てくるのは綿だしね。ピンクの太い紐を入れれば少しは――」
      「――そういう入れ知恵するのはやめろ」

       穏かに交わされる、ただならぬ会話を男の声が遮った。肩で扉を押し開き、腫れぼったい眼を擦る人影に自然と視線が集まって

      「……なんだよ」
      黒瞳を細め、居心地の悪さを濁すように声にする。

      「どこから聞いてたのかしらあ」
      「まるで俺が聞き耳立ててたみたいに言うなよ。お前らが何話してようが別に興味ねぇし。ただ、あんまり趣味がわりぃから止めたまでだ」
      「ふうん。それでこの騎士さんは、お兄さんが?」

      少女は女の手に収まった人形を指差して、小さく首を傾げる。つられて男が人形に視線に向けると、途端に表情を曇らせて

      「……さぁな」

      細められた黒瞳には嫌悪の情が宿っており、それ以上の追求をあからさまに拒んでいた。
      女はそれに気付いていながらも気に留めることはなく、「藪蛇ね」と少女に悪戯っぽく投げかけた。

      「このアジトだっていつまでいるかわからない。あんまり物を増やすなよ」

       女越しに見える木枠の窓には、既に数体に人形が腰掛けている。
      いずれも男に関わってしまった不幸な者達だ。
      その末路は様々であったが、半数がハラワタをぶちまけた死体であったのは語るまでもない。
      故に、この世界から失われた者たちを『カタチ』に残して何になるのだと、男の中で苛立ちが募るばかりであった。

      「待っているだけなのも退屈なのよ。それで、ひとつ頼まれてくれないかしら」
      「頼み? どうせろくでもないことなんだろ。嫌だね」

      男は黒髪をくしゃりと掻いて、ぶっきらぼうに跳ね除ける。
      その様に、少女は頬を膨らませて抗議を形にすると

      「お兄さんてば、内容を聞きもしないで断るなんて、エルザにお腹を切られちゃうんだから」
      「どうせ断るなら、タイミングなんざいつでも構わないだろ。むしろ早ければ早いだけいいに決まってる」

      少女からの追撃も虚しく、男の意志は固い。これ以上話す事はないと、男は足を踏み出して――

      「そうなると、私かメィリィが行くことになるけれど、よかったかしら」

      足を止める。そして今一度、女に恨めしげな視線を投げやると

      「――正攻法で駄目だからって、脅すのはやめろよ」
      「あら、人聞きが悪いことをいうのね。お互いのためになることよ」

      女は悪びれるでもなく、その艶やかな唇を湿らせて、くすりと笑う。
      悩ましげな仕草も、その正体が悪名高き『腸狩り』なのだから台無しだ。
      ことに、男にとっては癪に障る他無く――

      「うっざ……」

      率直な感想が口をつくほどだった。
      しかし女は、それを肯定と取って笑みを深め

      「足りない色を買ってきてほしいの。顔が割れていると苦労するわ」

      女の視線が下に落ち、机上で小さくなった毛糸の束を捉えた。その残量は、男の素人目から見ても心許ない。加えて、このまま手持ち無沙汰をこじらせて、『腸狩り』の本領を発揮されてはたまらない。

      「しゃーねぇ……使いパシられてやるよ。けど動きづらいのは、お前がやたらめったらグロ量産すっからだ」

       ギリリと女を睨みつける男の脳裏を過るのは、苦々しい過去の出来事だ。
      『腸狩り』と聞いて駆けつけた衛兵らをなぎ払い、内臓の絨毯を作り上げた最悪の光景。
      むせ返るほどの血生臭さと死の臭い。その記憶を手繰るうち、胃から込み上げるものがあることに気付いて、頭を振り思考を払う。

      「お兄さんは表に出ないからそう言えるのよお。ま、エルザがやり過ぎなのは本当だけどねえ」

      顔色を悪くする男をよそに、少女は気だるげな眼差しで女をチクリと刺した。
      しかし、女に自身を省みようとする様子は微塵もないのだから、少女の苦労が伺える。

      「これを」

       言って、女はその豊満な胸元から、ひらりと一枚の紙切れをつまみ上げ、男へと差し出した。
      そこから一瞬間があって、しぶしぶ男が歩み寄り、受け取って目を通す。
      紙切れには毛色の指示が幾つか並び、その中の一つに眉をひそめるも、瞬き一つで消し去って、「わかった」と頷くと、男は踵を返して部屋を出た。

       その背を視線で見送り、しばらくして

      「殺したい人間のお使いに出掛けるって、どんな気分なのかしらあ」
      「いい気分でないのは確かね」
      「お願いする側もどうかと思うけど。ほんと、何考えてるんだか」

      少女は悩ましげに吐息を漏らし、女から騎士の人形を受け取る。
      それを大事そうに抱え込むと、人形の腹を小さな指先で横に撫ぜ

      「お腹を開いて、中身が見えたら簡単なんだけど」

      人形の表情は柔らかく、だが返答はない。
      穏やかで、穏やかではない、歪んだ日常だけがそこにあった。


      ****************


      「呑気に買い物してる場合かよ……」
       黒いフードを今一度深く被り直し、王都の喧騒にまみれて歩く。
      既に時は夕暮れで、薄闇に紛れてアジトに帰るには最適だ。
      抱えた紙袋は軽いわりに嵩張るし、依頼主への苛立ちも手伝って自然と足早になっていた。

       繁華街を抜けて喧騒から解放されると、若干心が身軽になる。
      今まさに王都を暗躍する大罪人である男は、その容姿が割れていないとはいえ、後ろ暗い気持ちが頬を強張らせていたし、街角で目をギラつかせる衛兵に気づけば、その視線から逃れるように目を背けた。
      怪しまれたところで何ら証拠が出るわけでもないのだが――

      「うぉっと、すまね」
       角を曲がってすぐ、男の前を人影が遮った。
      丁度通りを出ようとしていた相手とタイミングが被ったらしく、男は軽く会釈して謝罪を口にする。
      「いや、僕の不注意だ。そう、僕の不注意で……僕が不甲斐ないばかりに」
      誠実そうな声色。しかし、拠り所をなくしたようなそれは、自身を責め立てる弱々しさがあって
      「そんな、ただタイミングが被ったくらいで――」
      目立つ行動を取るつもりはない。足早に立ち去って、数分後には相手の記憶から抜け落ちているのが最適解だと理解していながらも、男はフードの影から目を覗かせて、ちらりと相手を仰いだ。
      目がくらむほどの眩しい赤。そして真っ青な空そのものをはめ込んだような澄み切った瞳。見まごうはずがない、それは――

      「剣、聖……」

      思わず声が漏れる。男にとってこれは、それ程までに意図せぬ邂逅であり、あってほしくない再会だった。
       しかし、記憶に焼き付いて離れない姿と、今の男はまるで違う。表情に暗い影が差し、後悔と悲嘆に支配されているように見えた。

      「最近、思い知らされてね。考えごとをしていたせいだ」
      「剣聖様も、悩むことがあるんですね。その『力』があれば出来ないことなんてないでしょうに」
      「そう、思うかい。大切なものを守れない力に、意味があるのかな」

      そう言って自虐的な微笑みを浮かべる剣聖に、黒い感情が湧き上がるのを感じた。

       力を持っているくせに、無いものの苦しみを知らないくせに、贅沢な悩みじゃないか。代われるものなら代わってやろう、代わってみればきっとわかる。痛みが、苦しみが、嘆きが、いか程のものか突きつけてやれたのに。
      だから男は、それをそのまま声にした。

      「俺は欲しいです、その『力』が。守れなくても、守るために振るう『力』がある。『力』がなければ、悪あがきすら許されない」

      それは嘆きそのものだった。何ら悪辣さも含まない、ただ、嫉妬を吐き出して

      「君は――」
      「すみませんが、連れを待たせているので。剣聖さん、また」
      「あぁ……、すまなかったね」

      男は剣聖の言葉を遮ると、その横を通り過ぎて、足早に路地の奥へ姿を消した。

      「――――」

      何か、引っかかるものがあったわけではない。
      しかし、剣聖の胸にはざらついた感触がこびりつき、それはしばらく離れなかった。


      ****************


      「はぁ。最悪の最悪だったな」
       鉄の扉を後ろ手で閉めながら、男は深い深い溜め息をついた。
      それもそのはずだ。あっていいはずのない邂逅があって、まして言葉を交わす事になったのだから、その運命を呪わずにいられない。

      ――と、肩をすくめる男から数歩離れた場所で、黒い気配が生まれ、人型を作り

      「ん、お前らか。姿を見せたってことは進展があったと思っていいんだよな」
      男が顔を向けると、それは恭しく頭を垂れて敬服し、ぼそぼそと耳障りな囁き声をもって男に応じた。
      「そうか、わかった。これでやっと動けるわけか。とりあえず、ご苦労さん」
      報告を聞き届けると、男はひらりと手を振って黒い影に退場を促し、黒い影もまたそれに応じて闇へと溶けた。

      「無力なりの悪あがきを見せてやるよ」
      口元を歪め、よこしま笑みを作る。その脳裏には、赤い炎が揺らめいて
      「戻ったのね。待っていたわ」
       扉の軋む音と同時に声があり、女性らしい凹凸のあるしなやかな肢体が顕になる。
      「『腸狩り』なんかに待たれるとかゾッとしねぇな。お待ちかねの毛糸だ」
      男の表情から既に笑みは消えていて、代わりに純粋な嫌悪がそこにあったが、女はそれを微塵も気にすることはなく、男が投げた紙袋を豊満な胸に受け入れた。

      「昨日の今日で助かるわ」
      「礼なんざいらねぇよ、吐き気がする。これは貸しだからな」
      「ええ、そうね」

      女は小さく頷いて、紙袋の中身に目を落とし毛色を確認すると

      「――」
      「それよか、仕事だ。お前の『力』が必要になる」
       女が声にするより早く、男は女とすれ違いざまに鋭い視線を投げかける。
      『女の力』だけを求める声に、女はより笑みを深くして応じ
      「王都全員の腸狩り放題、嬉しいだろ。人形遊びしてる暇はないな」
      「素敵ね。ゾクゾクしちゃう」

      女はよこしまな想像と共に赤らんだ頬に片手を添えて、熱っぽく吐息を溢す。

      「ま、死ぬけどな。じゃ、俺は明日に備えて寝るから」

       女が見た男の黒瞳の奥には、銀色の輝きだけがある。
      死ぬと語る男の声は、それと真逆の幸福に満ちあふれていた。


      ****************


       ――その日、王都は燃えていた。

       剣聖の耳に入った最初の報告は、貧民街での爆破と炎上。
      木造りの家屋が肩を寄せ合うように密集していたことが手伝って、火の手は瞬く間に広がった。
      それを食い止めるべく、多くの魔法兵が駆り出されたところで、貴族街で二度目の爆発。
      その威力は凄まじいもので、とある貴族の屋敷が数件、跡形もなく吹き飛ぶほど。爆風が衝撃波となって周辺を薙ぎ払い、甚大な被害が出たことは語るまでもない。

       炎上と倒壊、多くの死傷者を前にして、剣聖は実に『無力』であった。
      神がかった剣技がある。神のそれと見まごうほどの加護がある。
      しかし、その全てもってしても『敵』には形が必要だった。

      「誰が、何のために!」
       悲痛に顔を歪めた剣聖が、業火を前に拳を握る。
      崩れ落ちた石壁にその拳を打ち付けて、屈辱を吐き出すその姿は、今まさに王都が危機に瀕していることを現していた。

      「エミリア様を、お守りしなければ……」
      使命を今一度胸に刻みつけ、慟哭を押し殺す。

       心許した最優と青を失って尚、剣聖には誇り高い意志がある。黒い怒りを滾らせながら、愛する世界を守るために地を蹴った。
      その体は羽が生えたように軽く、世の理を覆す脚力を持って空に跳躍し、上空から赤い王都を見下ろして

      「――?」

       常人の視界ならば、それを捉えることはできなかっただろう。
      しかし、剣聖の空色の瞳には、噴き上がる黒煙の先――燃え盛る王都を走る黒い影が、くっきりと映り込んでいた。


      ****************


      「ッはぁ……はぁ……」

       燃え盛る炎と熱波に炙られて、肌に焦げ付く感触がある。
      黒煙を吸った喉は枯れ、口内に血の味が滲んだ。

      「あの子は、どこに」
      すすで汚れたフードを手で肩に落とし、周囲に目を走らせるが、吹き上がる黒煙がそれを許さない。
      故に男は、自らを目指して落ち来る炎に気づくことはなく
      「――づぁッ!」
      瞬間、熱波が吹き荒ぶ。それは火の粉を伴って、男の体をいとも容易く吹き飛ばす。

      「――そこまでだ」

       それは、澄み切った声だった。
      男が地に手をついて身をもたげると、そこには熱波に揺らめく炎がある。
      否――それは炎ではなく人の姿をしていた。
      白い騎士服に身を包んだそれは、紅蓮の髪を風に揺らし、澄み切った空色の瞳で男を睨みつけていた。

      「っまえは……剣聖。もう二度と、会いたくなかったんだけどな」
      「君は、いったい」
      「――『力』が欲しかっただけの、ただの人間。しいて言うなら『お前の敵』だろうな」

      口内が酷く血なまぐさい。石畳を転がって口が切れ、それだけでなく体の節々が悲鳴を上げている。ただそこにあるだけで圧倒的な力を振るうそれに、男は赤い唾を吐き捨てた。

      「存分に『力』を振るばいい。友の仇、国民の仇、叩き切る理由には困らないだろ? そして俺は、いとも簡単に死ぬんだ」

      男の言葉で憎悪を色濃くする剣聖を前にして、それは肩を揺らして笑っていた。

      「――けどな、俺は死なない。そして、諦めない」

      凶悪な笑みの中に、悲痛な嘆きがある。しかし、狂人のそれは誰に理解されることもなく、交わす言葉の代わりに剣聖の腕が振りかぶられて

      「必ずお前を――殺してやる」

       そして、それが男の最後の言葉となって――否、男は地を蹴って業火の中にその身を投げた。
      身体を両断するはずだった剣聖の手刀は、業火の中の瓦礫をかすめて行き場を失う。
      ただで殺されてやるつもりなど端から無い。意地汚い、ほんの数秒の悪足掻きだったとして、それでも剣聖を出し抜けたなら、そこに意味があるのだから。

      「づぁっ……っそ、がぁっ!」
       業火に逃げ込んでも、それが死を伴う地獄なのは変わりない。むしろ剣聖のそれより性質が悪いと言っていい。
      身を焼きながら炎の中を駆け抜けて、勢い任せに炎の隙間へ飛び出す。地を転がり、その身を燃やす炎を払って、焼け焦げたローブを投げ捨てる。
      「げはっ……ぐ……ぅッ……」
      喉が焼け、息をすることすら鮮烈な痛みを伴い、苦痛に喘ぐ。真っ赤に焼けただれた手は震え、地につくだけで神経が焼き切れるほどの痛みを吐き出した。
      しかし、それでもなお、地を蹴る足と伸ばす手があるうちは止まれない。あの子のもとへ行くことを諦めない。

      「――ぁ」

       瞬間、駆け出した足がずるりと滑り、上体が石畳に投げ出される。
      そして一拍遅れて、倒れ込んだ男を柔らかな風が撫でた。
      ――何が。
      ただれた頬が擦り剥けて、頭を上げれば喉元まで血が滴る。
      しかし、その不快感も痛みも、何もかもがどうでも良くなるほどの衝撃が脳天を貫いて

      「――があああああぁあああぁあッ!!」

       地をのたうち、身を丸めて膝を抱く。否――抱けなかった。右膝から下が、まるごと消失していたから。
      本来それを満たすはずだった鮮血が、行き場をなくして地を汚す。
      だがしかし、今はそんなことはどうでもよくて、ただ痛みにのたうつしか出来なくて

      「憎しみはある。でも、それをぶつけるような真似をするつもりはない」

      だから、炎が男を見下ろす距離にあっても、それに構う余裕すらなかった。

      ――痛い。痛くて痛くて痛くて痛みで死んでしまいそうなほどに痛い。終わりだ終わるんだ終わっていく何もかも。だけど終わらない終わらせない、絶対に剣聖を、殺してやる死なせてやる嘲笑ってやる。俺が死んで死んで死ねば死ぬほどお前は死に引きずり込まれて死んでいくんだ。

      「く…ひひ……」

       絶対絶命の状況にあって、意識を痛みに支配されてなお、男は笑った。
      血走った目で頭上の剣聖を見上げ、男すら理解しきれない感情をもって笑っていた。
      剣聖の瞳に憐れみはない。ただ男の命を――道を断ち切らんと、再び手を振りかぶって

      「お兄さん!」

       幼い声がした。そして地を蹴る堅い爪の音。
      そして男を跨ぐようにして、獣の巨躯が剣聖へ飛びかかり――瞬間、血飛沫となって降り注ぐ。

      「メィ――」

      言い終わるより早く、浮遊感がある。
      そして、剣聖が遠ざかった時に初めて、その躍動をもたらした女の存在に気がついた。

      「余計な、ことを」

       死には至らずとも、血を失いすぎた頭では状況への理解が追いつかない。
      ただ一つ分かるのは『死に損なった』ということで、それは同時に『剣聖に殺されずに済んだ』ことでもあった。
      「まだ、死ねないのでしょう」
      艶っぽい声が注がれる。男を傍らに抱え、圧倒的な脚力をもって地を蹴り、屋根を蹴り、壁を蹴り。その度に男を衝撃が撃ち抜いて、答えるどころか命をつなぐだけで精一杯だった。

      「諦めて、しまったの?」

       ひとしきり血を垂れ流した上に、荒っぽく運ばれたせいで、男の感覚はおおよそ失われている。
      地に降ろされ、すすにまみれた石壁に背を寝かされたことも明確に理解できないまま、それでも女の声に黒瞳を細めて応じ

      「――諦めたと、思う、のか。お前を殺すことも……諦め、て、ない」

      色を失った顔はまるで生きているのが不思議なほどで、しゃがれた声もまた、地獄を這いずる亡者のそれのようだった。
      しかし、瞳に宿る黒い情念はまだ失われておらず、女は唇に弧を描いた。

      「俺を、殺せ」

      故に、一瞬の沈黙があって

      「――終わってしまうわ」
      「終わら、ない」

       ――何を、言っているのか。
      女に理解することは不可能だった。男に女と同じ祝福はない。似たものがあっても、女には知るすべがなかったのだから当然だ。
      狂人のそれか、ここにきて気が触れたのか、矛盾した言葉の先に答えはない。

      「絶対に、殺してやる。剣聖も、お前も。だか――」

       ふわりと、浮いた感触があった。そして、景色が斜めになるのを捉え、そこで男は気がついた。


      ――死んだ、と。


      女が見える。表情は変わらなかった。
      ただ何故か、その一瞬だけは、女が鮮やかに見えた気がして――闇に呑まれた。


      ****************


       金の鉤針が黒い毛糸すくい、編み込まれ。しなやかな手のひらの上で、徐々に人型を成していく。
      奪うばかりの血濡れた双腕も、この一時だけは真逆の性質を持っていて――

      「そのための、『貸し』だったの」

      人形は答えない。命を持っていないのだから当然だ。
      女もそれを不服には思わない、それが日常でもあったから。

       人形は今も、拒み続けている。
      この世界の運命そのものを拒み続けて――そして

      「橙色は買ってくれなかったのね」

      いつまでもいつまでも、未完のまま、そこに在り続けた。




      おわり



      ~~~~~~~~~~~~~~~


      ご覧いただきありがとうございました。
      前回の『交差するセカイ』はハピエンだったけど、今回はバッドエンドです、おそらく。そして念願のエルスバ小説! あれ……エルスバってない……かな、ごめん。私は、スバルに対するびみょ~~~なエルザの反応が好きなんだよね。
      ていうか、またアヤマツでしたね! アヤマツ好きすぎかよこいつ! でもエルスバと言えばアヤマツになりがちなんですよ。死ぬけど。至高のエルスバ生産機アヤマツ! 猫先生ありがとう。神に感謝。
      というわけで、アナタのエルスバと合致するかどうかは微妙でしたが、気に入っていただけたら幸いです。
      んでもって毎度ながら、感想お待ちしています~~!


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      ◆ おたよりフォーム(匿名で簡単に投稿可能)
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      おわり|ラスト
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