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    【地下都市チルドレン小説・SSまとめ】廃人様 黒幕だったハイト君のIFのお話譲れないもの ハイト君が異世界に迷い込んだ(セッション)後の話。愛しの花 マリカちゃんの過去の話。ハイド アンド シーク  ハイト君の過去の話88の嘘つきワンダーランド ユガミ君の過去の話。疑惑の色 キョウヤ君が職場に来た時の話。深淵を覗くとき ニケ君の過去の話。木を隠すなら森の中 ニケ君とキョウヤ君の話。罪と罰 アサヒくゃんが異世界に迷い込む話。花に関するSS キャラクターの花に関するSSまとめ。夢か現か スピカちゃんの独白。顔の見えない世界 スピカちゃんのとある一日の話。虹色の花 みすずちゃんとモモちゃん(よそのこ)の話模倣 ハイト君の過去のお話。雨夜の待ち合わせ ハイト君とレオちゃん(よそのこ)の話。虹向こうのエトランゼ ハイト君とレオちゃん(よそのこ)の話天気雨を傍らに ハイト君とレオちゃん(よそのこ)の話 ※性描写があります。天色を選んだ日 ハイト君とレオちゃん(よそのこ)の話。(CoCセッション後の話)エンカウント IF。スピカちゃんの夜の話。内緒の話 みすずちゃんが恋心を自覚する話。


    廃人様 黒幕だったハイト君のIFのお話 


    きらきらと星が煌めく夜の町。
    マフラーをなびかせて、今日も俺は教会へ向かう。

    幼少期から俺は、不完全だった。
    自己主張が弱く、すぐ人の言いなりになるのだと。
    俺自身の性質や、家庭環境の劣悪さ。
    学校では何度とそれを指摘されたか分からない。

    断固と人の意見を受け入れない父親。
    宗教にのめり込んでいた母親。
    自分考えや主張を持たない俺。

    そんな俺の家族に、皆が偏見的な目を向けていた。
    皆が持つその思考を、俺は理解出来なかった。

    母が死んだ。父も、俺が手にかけてしまった。

    皆の恐れていた結末はこれだったのだろうか?
    皆の危惧していた問題はこれだったのだろうか?
    理解し難かったその疑念を、 理解していたら…

    俺は、一人ぼっちでは無かったのだろうか。
    逃避を続ける毎日に苦しむことは無かったのだろうか。


    そんな事を考えながら、靴音を鳴らす。
    夜の町は、思いの外賑やかだ。
    町はどこもかしこも、自分の在り方を忘れてしまった子ども達の溜まり場と化している。

    時折声をかけられれば、おかしな薬や宗教を勧められる。
    物乞いは以前より少し減ったような気がする。

    また、中には特に理由も無く心の拠り所を求めて外を彷徨っていたり、居場所を失って夜の町を徘徊する子どももいる。

    俺が声をかけるのは、主にそういう子どもだ。
    こういった子どもは総じて我が弱く、何より"人"を
    求めている。

    皆が皆、逃げ場所を探して苦しんでいる。
    自分を探し続けて、果てなくもがき続けている。

    迷い子の手を引いて、教会に足を運ぶ。
    かつて母が俺の手を引いて、そうしたように。
    俺もまた迷い子を光のある場所へと導くのだ。

    最初は、俺が皆の心の拠り所になれれば良かった。
    逃避をするその手を引いて、自分を探し続けるその目を塞いでそらせば良かった。

    それが根本的な解決にならないことは俺も理解していた。
    だからこそ、苦しみは終わることなく続いた。
    ここに集まる子どもは増える一方だった。

    自分を持つという行為は、あまりにも難しい。
    自己主張という行為は、勇気がいる。
    自我を持つことは、許されない環境もある。
    自分がしっかりと自分である事はとても困難だ。

    ここに集まる人間は皆が皆、自分が曖昧だ。

    だから、染まりやすい。何色だって構わない。

    『この地下都市を廃都市へ』

    壇上に上がり、演説の声を響かせる。
    声を張り上げる俺の横で信者達の祈りの祝詞。
    焦点の定まらない目で、仲間達を見下ろす。

    自分を持たない俺の最後の願い。
    人の言いなりにしかなれない俺の最後の我儘。
    罪を償う毎日に憔悴しきった俺の最後の贖罪。
    同じように、心に虚無を持つ仲間を救うこと。

    汚れきった手で、俺は全てを汚し尽くすと決めた。
    虚無を持つものを否定するこの町を、俺は否定すると決めた。
    それが、皆のためになるのだと信じて。

    俺の絶命を起とし、この都市のシステムは終わる。
    酸素供給がシステムを侵食され、皆がここで眠る。

    皆が苦しむ事になってしまうのは、心が痛んだけれど。それでも俺は、止まるわけにはいかない。

    逃避をし続ける事で得られる物はない。
    果てし無い逃避を続けるのならば、いっそ。

    逃げることすらやめてしまえばいい。

    信者達の声が、脳の奥でこだまする。


    「ハイト様」「ハイト様」「ハイト様」


    自分の胸にナイフを翳して、皆に微笑む。


    「廃都様」


    サ ヨ ナ ラ 。


    そう言って、笑って仲間を見送った。後悔はない。
    俺が俺であれたことが何よりも幸せだった。
    人生のどの瞬間よりも満たされていた。

    歓喜の声とともに、視界が真っ赤に染まる。
    信者達が俺の体に赤いバラを添えていく。
    父を殺めてから何度も怯えていた赤い色も、今ではこんなにも愛おしい。

    薄れ行く景色の中で考える。

    皆の望んでいた結末はこれだったのだろうか?
    皆の望んでいた世界はこれだったのだろうか?
    正解を考える必要はもうどこにもない。

    俺は、一人ぼっちでは無かった。
    もう、逃避を続ける毎日に苦しむことは無い。

    これが俺の考えた最善の結末だ。

    ただ一つ気がかりなのは…

    そうして、俺はゆっくりと意識を手放した。



    譲れないもの ハイト君が異世界に迷い込んだ(セッション)後の話。

    俺は数時間前、葬儀屋や警察のメンバーと一緒に、ある不思議な騒動に巻き込まれた。

    たくさんの事がありすぎて、頭の中の記憶が濁流のように渦を巻いて、荒れている。

    目を覚ますと、バスルームのような場所にいて。
    牢屋に捕まっていた囚人を解放して。
    女性を介抱して、病院に連れていって。

    そうして…

    とても目まぐるしい数時間の出来事に、すっかり頭が錯乱していた。
    頭の中が焼けそうに熱くて、体は糸を切らしたマリオネットのように重たくて。

    足取りが縺れて、景色が滲んで。

    少し走り出せば、仲間に殴られた腹が想像以上に痛みだして思わず背が折れた。

    頭がぐるぐると回りだして、心の中は濁った水のようにどろどろとしていた。

    先刻出会った警察官の人の言葉が胸に響く。
    とても凛として真っ直ぐな瞳をしている人だった。
    厳かな雰囲気ではあったが、怖い人だとは思わなかった。

    部下にもよく慕われている人だった。

    『仲間を蔑ろにしてはならない』

    あの人に言われた言葉が、頭の中で何度もこだまする。俺は、仲間を軽んじていた。
    仲間を困らせていた。仲間の信頼を裏切るような態度を取っていた。

    思考が巡って、溢れて、鳴り止まない。

    雑音混じりの記憶が、砂嵐にかきけされながら追再生される。
    目に焼き付けた、仲間の不安げな表情が胸に刺さって、痛い。
    怖い思いをしてたのは俺だけじゃなかった。不安な思いをしていたのも俺だけじゃなかった。俺を気遣ってくれる仲間もいた。

    何でそんな当たり前の事に気が付けなかったんだろう。

    「俺は…」

    ユイを押し退けた時の、胸の奥を刺すような目。
    さつきが俺を庇ったときの、少し震えた声色。
    晴翔が俺に寄り添っていた時の、優しい表情。
    あの人に言われて思い出した、ミキの親愛的な態度。それから…まだまだたくさんあったっけ…

    葬儀屋は、自分に取って唯一の居場所だった。
    俺が、篠宮ハイトという人間で居られる大切な居場所だった。とても大切でかけがえのない場所で。

    この場所を守るために、俺は生まれてきたんだと思ってた。そんな事を思って今まで過ごしてきて。

    『ハイト君は、葬儀屋のパパみたいだね。』

    以前、仲間の一人にそんな風に形容された事があった。
    俺にとって、世間一般的な父親像はよく分からなかった。だから、その時の言葉の真意は汲み取れなかったけれど。

    ただ、その重圧のような何かが、自分を殺す一因を手伝ってくれていた事だけは、理解できた。

    「父親…」

    自分がかつて殺めてしまった、自分の羨望。
    もう一度、取り返せるのだろうか …そう考え込んでいたら、砕けたガラス片でも飲み込んでしまったかのように喉や胸が痛みだした。

    殴られた腹がズキズキと痛みだし、体の奥底からしまいこんでいた嗚咽が、ずぶずぶと溢れだした。
    半ば過呼吸気味に。噎せかえるように嗚咽を吐き出して。肩を抱いて踞る。

    たがが外れた思考で、先程、ユイが去り際にある言葉を言っていた事を思い出した。

    『篠宮クン、自分の事しか考えてないじゃん。』

    歪んでた俺の視界に、街頭の微かな灯りが滲みを作り出す。回りきった思考は止まらない。
    ぐるぐるとねじれきった思考の糸は、確かに冷たい温度で、俺にの心に間違いの意図を注ぎ続ける。

    『俺は、誰かをちゃんと守れたの…?』


    座り込んで耳を塞ぐ。

    唇から零れ落ちた言葉は、空に溶けた。

    俺は、仲間を。とても大切な居場所を守るために奔走した。自分の身を厭わず、自分の意思を殺し続けて、時にはわざと誰かを突き放して、時には誰かに寄り添って?そうして自分は満たされていただけ?

    自分の行動は間違えていた?どこで間違えていた?俺は何のために自分を貫いた?仲間のためだと思っていたそれが、仲間を困らせていた。苦しめていた。そんな結論にたどり着き、言葉を失う。

    自分の両手を見下ろして、俯く。

    両手に、しっとりと濡れた不快な感覚を感じながら、今日の事を考えていた。今日だけじゃない。何度も何度も自分と向き合っては、こうして自分の存在価値について考えていた気がする。

    こんな自分は、いらない。

    こんな自分は、欲しくない。

    こんな自分は……

    「俺は……」

    脳内で一つのある結論に達しようとしたその時だった。


    『そんな言葉、僕が許さない。』

    耳元で、鮮明に、確かにそう聞こえた。背後から腕を回された感覚に思わず力が抜ける。
    バランス感覚を失った体が、声の主に身を任せまいと強がるが、体が震え、全くコントロールが効かなかった。

    もうこうなってしまえば、俺には言葉を自制する事すら出来なくて。
    間違いを誤魔化すように、隠すように、そうして胸の奥にしまった言葉たちは、行き場を失って。
    今度は、ひたすらに溢れだすしか無かったのだと思う。

    しまっていた言葉はたくさんあった。ごめんなさいと、ありがとう。大好きと、信じてる。
    羨ましいと、誇らしい。力になりたい、助けたい。支えたい、守りたい。信じたい、応えたい。

    溢れた涙をぬぐいながら、ああ。そうか。涙って、理屈じゃないんだ。なんて…そんな事を考えていた。
    これは、心の悲鳴だ。言葉になれなかった、たくさんの思い達の悲鳴。

    一人ぼっちの子どもみたいに声をあげて、暗い空の下で、何年か分の涙が溢れた。

    口から溢れる言葉は止まらない。

    頬を次々と涙が伝って止まらない。

    たくさんの、伝えたい気持ちを俺は今まで、ずっとし舞い込んできた。
    そうするのが正しいのだと、思い込んできた。
    俺はずっと、自分と向き合えなかった。
    脳の片隅で響く自分の言葉を無視し続けた。

    本当は、自分と向き合いたくなかった。

    そうして今度は、仲間に寄り添って尽くすことで誤魔化していた。自分じゃない自分を演じては、作り上げては、向き合うことを拒んだ。過剰に自分を演じて、貫いて、自分を押し殺した言葉を吐き続けていた。

    本当に言いたかった言葉は…



    『こんな俺でも、生きててもいいの…?』



    そんな、重すぎる言葉だった。



    「生きててもいいんだよ。」


    死なれた方が困るよ。なんて、笑いながら声の主はそう告げた。
    その言葉に、ピタリと涙が止まる。まるで、加速を続けていた乗り物に、急なブレーキがかかったかのようだった。

    心はパタリと波打つのを止め、俺は、声を殺して泣き止むことしか出来なかった。


    だって。


    彼女の声が震えていたから。



    俺を抱き締めて震える彼女の方が、俺なんかより、ずっとずっと、子どもみたいに泣いていたから。

    誰かに服の裾を引かれるような感覚がし、思わずそちらに目をやる。虚ろな目をした小さな男の子が、心の奥を見透かすように、じっと俺を見つめていた気がした。

    男の子は俯いて何かを呟いている。その声の意味は、言葉の意味は、雑音混じりで、俺にはそのすべての声は聞き取れなかった。

    男の子は、じっと、すがるような目でこちらを見ては、今度は無理矢理に口角をあげて、祈るように俺の手をぎゅっと握った。

    『いつか、俺とちゃんと向き合ってね。』

    『信じてるよ。』

    視線の先で、男の子の首元に、街頭の灯りに照らされた十字架が鈍い光を放っていた。
    男の子が寄り添っていたその場所には、俺が流したたくさんの涙の後があって。

    俺はただ空虚を見つめて、その言葉の意味を考えることしか出来なかった。

    「………………………。」

    そういえば、この小さな男の子の姿を俺は何度も見た事がある気がした。
    夜に白昼夢を見るだなんておかしな話なのだけど。確かにそこには温度があって。

    「………ありがとう。」

    そう呟いて、俺の背で震える声の主を優しく撫でる。小さい頃父親が自分の頭を撫でてくれた感覚を思い出しながら。自分の名前を呼んでくれた温かい声色を思い出しながら。

    『…待たせてごめんね。』

    『帰ろう。』

    声の主を抱き締めて、何度も慈しむように頭を撫でる。この気持ちに、この思いに偽りはない。少なくとも、こうして誰かを思う自分だけは、信じていいんじゃないかって。そんな事を考えていた。

    『こんな俺を、信じてくれてありがとう。』

    今はこれでいいのかな。


    そうして、二人で今日の事を話ながら帰った。俺が同僚と子どもみたいにムキになって、喧嘩したこと。
    本当は自分が悪かったのは分かってたこと。囚人を説得している一生懸命な君を見て、心から尊敬したいと思ったこと。
    病院で、少しだけ眠たくなって、転んだときに壁に頭をぶつけたこと。

    額を撫でられながら、帰路について、君を見送った。
    灯りを失っていた夜の街は、次第に朝焼けに包まれ、輪郭を取り戻していく。
    かなり長い時間、俺は夜の町を歩いていたのだと分かった。

    数時間後には、今日と言う一日が始まる。

    そう思った矢先だった。手元で端末の音が鳴る。

    液晶を開くと、大切な仲間の顔が出迎えてくれて。


    恐らく、満身創痍だったため気付かなかったのだろう。端末には既に、いくつかのメッセージが届いている事が分かった。

    『昨日は大変な目にあったと聞きました。今日は仕事も少ないので、たまにはゆっくり休んでください。』

    『ハイト君。怪我は大丈夫ですか?昨日は助けてくれてありがとう。心細かったけどハイト君がいてくれて助かったよ。』

    『ごめんなさい。』

    端末の文字を何度も目で追う。再び、涙が溢れそうになって、慌てて目を擦った。
    そういえば、あの子に謝らなければいけないな…なんて、頭の隅で考えながら、端末を見つめる。
    ひとまず、今来ているメッセージに返信をし、帰路へと歩を進めた。

    『仲間を蔑ろにしてはならない。』

    疲労でおぼつかないが、不思議としっかりとした自分の足取りを感じながら、確かにその通りだな。なんて、少し思った。
    そんな言葉を思い出しながら、自宅に付近に着くと、見慣れた同僚の顔を見掛けた気がした。

    俺が慌てて駆け寄ろうとすると、同僚はこちらに気付いたのか定かでは無かったが、踵を返して路地に入り、どこかに姿を消してしまった。

    少し心残りではあったが、既に足が棒のようになってしまっていた事もあり、捜索は断念した。

    踵を返そうとすると、今度は路地裏で、見慣れないドーナッツ屋を見つける。
    雰囲気から察するに、新しく出来た店のようだ。時間が早いのか、店のシャッターが降りている。

    次に此処に来るときには、あの子に甘いものをたくさん食べさせてあげよう。なんて思った。

    俺に居場所をくれる仲間の顔を思い浮かべながら、自分を助けてくれた人達の事を考えながら…少しズキズキと痛む額を撫でながら、俺は玄関のドアを開ける。

    靴を脱いで部屋に上がると、自宅の猫が珍しく自分の足元にかけてくる。
    すりすりと自分に寄り添う猫の姿に、あの子の面影を重ねながら。

    俺は猫を抱き上げて、静かに微笑んだ。そうして、すぐに寝台に倒れこんで、目を閉じた。

    瞳の奥に、いつも俺を支えてくれる大切な人達の顔を思い浮かべながら。



    愛しの花 マリカちゃんの過去の話。

    すみれの花言葉をご存じでしょうか?
    誠実、小さな幸せといった言葉が特に有名なようです。
    私は、この花がとても好きでした。

    私の愛しい人に似た、紫色の綺麗な髪と瞳。
    それを見た時、私は迷わず彼女を『スミレ』と名付けました。
    私の最愛の人もとても嬉しそうに、それに同意してくださいました。

    彼女が生まれ、私と最愛の人は幸せの最中に居ました。
    時折、私は子育てにやや過保護であると怒られましたが、家族での生活は順風満帆でした。
    体に欠落がある私は上手く子育てが出来るものかと心配ではありましたが、それは杞憂であったようです。

    ある時、スミレが私の仕事道具を悪戯しているのを見かけました。
    子どもというのは好奇心が高いものですね。

    そういえばご存知でしょうか?子どもは五センチ程度の水で溺れてしまいます。
    また、ボタン程度の物を飲み込むと容易に呼吸が止まってしまうようなのです。
    最近は感染症も流行っているようですし、特に冬場の子育てにはとても気を使います。
    私は医療関係者でしたからそのような事には特に敏感でした。

    危険な物はまだまだたくさんあります。
    微生物に、害虫、病気、最近は空気も悪いのでしょうか?この子も咳が止まらないようです。
    危険な物は全て排除しなければなりませんから、子育てはとても大変です。
    それはもう、繁盛期の業務よりも遥かに重労働で。
    この頃から私は体調を崩すことが増えた気がします。

    危険な物は全て排除しなければなりません。
    何故なら、最愛の彼女に害を及ぼすから。その一点に限ります。
    幼子は危険に対して抵抗が出来ませんから。私が頑張らなければいけません。
    頑張らなければ。それが私の使命なのですから。
    最愛の娘のために、気を抜くのは許されません。

    昼食の後、腕の中で眠る彼女の寝顔を眺めて、ぼんやりとしている時間が、私にとって至福の時間でした。
    だからこそ、あのときは気が緩んでいたのかと思います。
    私はうっかり、彼女を腕の中から落としてしまいました。
    幸い、大事には至らなかったものの。
    あの時の事を考えると、今でも背筋がひやりと凍りつきます。

    神様は私が嫌いなのでしょうか?
    私には何も出来ない。そう神様が笑っているように感じるのです。
    その日の夜は最愛の人の腕の中でずっと泣き続けました。

    それからは何かと、彼女は怪我をする機会が増えたように思います。
    二度あることは三度ある。とでも言いたげに。
    彼女が大きくなるにつれ、活動も活発になりましたし、危険の排除も困難になりました。
    最愛の人は私を励ましてくださってくれましたが、私はとうに限界に近付いていたように思われます。

    車椅子で都市を出歩いていると、何度か乗り物にぶつかりかける事があります。
    もし、あのときいつもより数秒早く家を出ていたら?そう考えるとぞっとする事、皆さんにもありますよね。
    高いところに行って、もし、ここから飛び降りたら…なんて、そんな不届きな考えをすることもあるかと思います。

    私は、恐らくもう限界でした。
    ここ最近はサイコセルの症状にもよく見舞われるようになり、母親としての責務をこなすには、何もかもが不安要素の塊でした。
    想像力が豊かな気質も考えものです。本当にちょっとした事で、先にある危険や恐怖を感じて震えてしまうのです。
    毎日の何もかもが私には怖くて怖くてたまらなかったのです。
    恐怖と、彼女への想いと。葛藤をし続ける日々が続きました。

    あの人はお優しい方でしたから。
    彼女は彼に預け、私は大人しく身を引きました。
    それが最善だと、お互いに理解をしていました。
    今でも彼は私に手紙や電話をくださるんですよ?とても得の高い方ですよね。私の自慢の番です。恐らく、もう亡くなっている頃であると思いますけれど……

    『スミレ』彼女は今どうしているのでしょうか?歩き始め、言葉が出る頃には、寝込んだ私に水を持ってきてくれるような、とても聡明な子でしたから。どこかで上手くやっている事を願うばかりですね。
    いつか、会いに来てくれたら…なんて、高望みでしょうか?

    勤務の最中、帽子が似合っていない。と病院に来たお子さんに言われました。
    子どもは正直です。そして何より、勘が鋭いですよね。
    そうですね。これは、本当は私が被っているはずのものではありませんから。

    さて、今日のお仕事も終わりましたし。お家に帰りましょうか?
    一人でいるのが、私には一番性に合っていますね。

    起床時と帰宅時には花の水やりです。少しやりすぎでしょうか?
    だけど、このくらいがちょうどいいのです。
    私の家は工場の近くですから、少し気温が高いのです。
    何より、もし水が乾いてしまったら…そう思うと不安で仕方ないのです。

    ベランダ一面の紫色の花を見ているとどうも、心配性になってしまいます。
    世話を焼きたくなってしまうのです。それはもう、過保護な位に。


    私にとってこれは、特別な花ですから。


    ハイド アンド シーク  ハイト君の過去の話

    物心ついた頃から、家庭は少し変わっていた。
    我が強く癇癪持ちの父、宗教にのめりこみあまり家に帰らなかった母。
    学校の教師には度々身を案じられたが、俺自身の性格もやや周りに無頓着だった事もあり、自身の置かれた環境をあまり過酷であるとは感じなかった。


    朝、起きたらまず朝食を作る。
    父と母を見送り、学校に足を運ぶ。
    お昼は一人で食べる。友達はいたようないなかったような。
    付和雷同と過ごしていた気がする。

    夕方、帰宅したらベッドに雪崩れ込む。
    学校や図書施設で借りてきた本を夢中で読み更けては、母の帰りを待つ。

    夕食は、母と食べることが多かった。
    家族全員で食事をする事はほとんど無かった気がする。
    父が遅れて帰宅し、作業的に食事を済ませ、就寝する。

    サイレンの音が鳴る。その少し前に俺と母は部屋を出て、夜の町へと歩き出す。
    母の背に隠れるように後を追う。

    学校でよくのんびり屋だと言われていた気がする。
    夜の町。足音を殺しながら、早足で歩く母を追いかける。
    闇の中、母の靡かせるマフラーを目印にただ夢中で町中を進む。
    茨の覆う門をくぐり、大きな金色の十字架。そこにはいない誰かに会釈をして、虹色の天井のあるホールに向かう。

    同じ作業。同じ顔ぶれ。同じ台詞。
    淡々と、祈りを捧げ、目を閉じる。
    微睡むような意識、眠い目を擦りながら、母のマフラーの裾を掴む。
    ふらふらと歩く夜の道。見慣れた景色はぼんやりと滲む。
    頭を撫でられて、名前を呼ばれる。
    昔は母に抱かれながら帰路につくこともあった。

    祈りを捧げた次の日は、昼過ぎまで眠る。
    目を覚ますと、平穏な家庭がそこにあって。
    非現実的な世界に連れられた夜がまるで夢のようで。
    気持ちがぐらついたまま一日を過ごす。
    何だか時々、自分は、周りの子どもとは違う頭や心を持っている生き物のようだと思うことがあった。

    ある日、母が亡くなった。
    母にはまだまだ時間はあったけれど、その日は唐突に訪れて。
    これは秘密の話だけれど。母の誕生日を指折り数えては、少しほっとしていた。
    どこか少し疲れていたのかもしれない。
    寂しくて心に冷たい空洞が出来た。
    だけど、悲しさよりも安堵の気持ちが大きかった。

    母が死んでから、それでも日々は平穏だった。
    周りは自分や父をとても気遣っていた。
    特に、幼い自分は腫れ物に触るかのように扱われた。
    夜になると、時折父が声を殺して泣いているのを見るのが辛かった。
    悲しさを感じていない自分が、まるで悪者であると責め立てられているような気分になった。

    母が死んでしばらく経った頃だった。
    もう、俺は夜に家を抜け出して、あのおかしな建物に足を運ぶことは無くなっていた。
    ただ、夜になると心が冷たくなって、寂しさで胸が苦しかった。
    父が夜に泣くことも無くなった。
    それがまるで、母が完全にこの世界から消えてしまったかのようで苦しかった。

    それからしばらくして、あの夜がやってきた。

    今でもあの日の夜の事は忘れられない。
    きっかけは些細な事だった。父と激しい口論になった。
    髪を掴まれて、床に叩き付けられるあの感覚を今でも覚えている。
    父の嗚咽の混じった怒声も。
    それから、父を突き飛ばしたときの感覚も。

    父との揉み合いの最中のほんの一瞬。
    俺は満身創痍の中で父を突き飛ばした。

    父を突き飛ばした瞬間、時間の流れが遅くなった感覚がした。

    鈍い音。

    熱く沸騰したかのような血液が全身に降りかかった。
    事態が飲み込めないまま、血の海に膝を着いた。
    辺りを見回して状況を確認する。
    訳も分からないまま、傍らにあった母のマフラーをぎゅっと握って震えた。

    部屋の隅に踞ったまま、唇を震わせる。
    無我夢中で母に教わった言葉を紡いだ。
    目は、開けられなかった。
    暗闇の中で、ただただ、そこにいない誰かに助けを求め続けた。

    ドアの開く音。

    足音。

    薄目を開けて、ドアの方を確認する。
    見慣れた服を着た大人が数人、部屋に入ってくるのが見えた。

    ああ、そういえば、父と揉めた時に夢中でドアを開けていた気がする。
    そんな事を思い出しながら、俺は、静かに意識を手放した。
    目を開けた時にはきっと、いつもと変わらない平穏があると信じて。
    祈るように目を閉じた。

    闇の中で声が責め立てる。

    俺は…

    俺は…何をした…?

    俺は…父を…

    ぐちゃぐちゃに絵の具を混ぜ合わせたような闇の中、母に頭を撫でられて、抱き締められた。
    名前を呼ばれ、少し息を吐いてから目を閉じる。

    「ハイト」

    その声はやけに鮮明に聞こえた。
    俺はこの声を知っている…
    この声は、昨日の…

    目を覚ますと、見知らぬ部屋のベッドの上で眠っていた。
    自分の手元を見ると、その手は返り血に染まっていて、思わず俺はベッドから転げ落ちた。

    あれは夢なんかじゃなかった!
    そうだ!俺は……思い出そうとした矢先。
    酷い頭痛と目眩がした。
    口の中で鉄錆のような苦い味がして。
    喉元がキリキリと締め付けられる。
    知らない大人に背を撫でられながら、胃が空っぽになるまで吐いた。

    意識が錯乱する。
    視界が定まらない。
    シーツに何度手を擦り付けても血が消えない。
    鉄錆のような不快な匂いが、頭の中をかき乱す。
    頭に巻き付けられた包帯に爪を立て、訳が分からないまま、吠えた。
    世界がめちゃくちゃだった。
    天地も分からないまま、世界が壊れていく。


    「ハイト」

    やけに鮮明な大人の声に呼ばれ、そちらを向く。
    滅茶苦茶な色に染まった世界の中で、金色に光る十字架が見えた。
    その光にピントを合わせようと、目を細める。

    「ハイト」

    朧気な意識の中で母の声を聞いた。
    そうだ、あれは母がいつも…

    「これは君の物だよ。」

    そう言って、その大人は俺の首に十字架をかけると、俺の体を抱えた。
    温かい感触に思わず目を閉じる。
    目を閉じたその向こうに、夜の町が見えるような気がした。

    そうして、再び寝台の上で目を覚ました。
    部屋の装飾に、金の十字架。
    ああ。そうだ。ここは、俺がよく知っている場所だ。

    薄暗い部屋の中で、絶え絶えに呼吸をする。
    今が何時なのかさえ分からない。
    傍らにカーテンを発見し、手を伸ばそうとする。


    !!
    そうして、慌てて手を引っ込めた。
    途端に、手先に激痛が走る。
    痺れた手先で爪が何枚か剥がれているのが分かった。

    そうして、今度は手に濡れた感触を感じて
    思わずぎゅっと目を閉じた。
    目を開けるのが怖くて、涙が溢れてくる。

    俺の手は今、どうなっている…?
    確かめたかったが、先程の光景がフラッシュバックして、気が引けた。
    諦めてただ静かに目を閉じる事しか出来なかった。

    十字架を握りしめて、祈りを捧げる。
    そこにいない誰かに助けを求める。
    マフラーを抱き締めて、必死で唇を噛み締めた。

    何時間そうしていたか分からない。
    その後の記憶はかなり混濁していて、気が付くと俺は、食卓の前にいた。父も母もいない食卓。
    虹色の窓や天井がキラキラと光る。

    俺はこの光景を知っている。
    そうだ、ここは…俺が母と一緒によく足を運んでいた教会だ。
    見知らぬ大人に話しかけられながら、味のしない食事を無我夢中で貪った。
    誰かがつけてくれたであろう手袋が汚れるのもお構いなしに。
    ボロボロといつまでも涙が零れて止まらない。
    これは、いつか俺が心の底から流したかった涙だった。

    ようやく理解できた。
    そうだ。俺は一人になったんだ。
    その夜は、見知らぬ大人に連れられながら、自分の知らない家に帰った。
    夜の町がこんなに怖いのは初めてだった。
    誰でも良かった。

    一人は嫌だ。
    一緒に居て欲しい。
    言葉を飲み込んで、ドアを開けた。


    あの大人が言うには、明後日から俺は学校に行くらしい。
    また、いつもの通りの生活が。いつもと変わらない毎日が始まるのだ。
    罪を滅ぼすには、あまりにも長過ぎる毎日が。

    俺は寝台に寝転び、そっと目を閉じる。
    目を開けてもそこにもう平穏な毎日は無い。
    今度は、確かに理解しながら。


    静かに、目を開けた。


    88の嘘つきワンダーランド ユガミ君の過去の話。

    ある夜。私は遊園地に出掛ける夢を見た。
    軽快な音楽と、鮮やかに彩られた景色。
    楽しそうな子どもや大人の声。
    夕闇に光るカラフルな電光が、進路を照らす。

    ぐるぐると勢いを増したコーヒーカップ
    定められた運動を繰り返すメリーゴーランド
    軋む音を立てて、落下するジェットコースター
    遊園地の中央には、猛獣の檻。
    サーカス団の真っ赤なテント

    テントの中には…

    くたびれ果てた小さなマネキンの山。

    進路を照らす灯りはどこにもない。
    彩りを失った景色。灰色の箱の中には風が吹き抜ける音。
    怒号を増した大人達の声。軽快な音楽は聞こえない。

    ある夜私は、遊園地に出掛ける夢を見た。それから…

    「おはよう。XX君。」

    薄暗い部屋の中。古びたベッドの上で目を冷ました。
    部屋の壁には、鉄柱の檻。彩られた景色はどこにもない。
    体を捩ってみれば、冷たい手枷や首輪から乾いた摩耗の音がした。

    足枷を引摺り、声の主の元へ。

    此処がどこなのか、分からない。
    自分の名前さえ、思い出せる気がしない。

    ただ、一つ。分かっていた事。

    「おはようございます。ご命令を。」

    マネキンの山を踏み分け、頭を垂れる。そうすることしか思い出せない。
    理解していた。私は此処から出られない。
    くたびれ果てた小さなマネキンの山。
    次に私が寝そべる場所はここなのだろうか。

    暗がりのトンネルを抜けて、地下の世界。
    朧気な発煙筒と、微かに聞こえる子どもの足音。
    言語化の出来ない、大人と子どもの声。
    足裏に伝う地面の冷たさが、体の芯まで支配する。

    脳奥にけたたましく響く雨の音。
    いつものように、同じ作業を繰り返す。
    実験で、裂かれた腕に強烈な雨が降り注ぐ。
    軋む音を立てて、落下するジェットコースター。
    暗転した世界の中央に。滲んだ輪郭の赤い靴。
    叩き割られた脳髄の奥、微かに響く人の声。

    「おはよ…、ご…、…す。ご命令を…」

    砂利を飲み込んだ喉で、絶え絶えにそう呟いた。
    遠くで、サイレンの音を耳にした気がした。

    薄暗い部屋の中。カーテンのついたベッドの上で目を冷ました。
    部屋の壁にはたくさんの紙切れ。窓の外には、鮮やかに広がる晴天が。
    窓を目指し、思わず身を捩る。
    足元を伝って、自分に巻かれていた包帯がするすると床に落ちた。

    「…………おはよう。ユウ。」

    凛とした声色。細くくたびれ果てた自分の腕を。
    誰かに捕まれる。

    此処がどこなのか、分からない。
    自分が何者だったのかすら分からない。

    ただ、一つだけ。分かること。

    この名前は間違いなく、自分の名前ではない。

    声の主に振り向くと、体を引かれ強く抱き締められる。
    何度も何度も"ユウ"と名を呼ばれ、背や頭を撫でられた。

    「…………?。」
    「良かった。目を冷ましてくれて…」

    言葉を失って立ち尽くしている私をよそに
    小柄な体躯の女性が、私の胸に顔を埋めていた。
    髪に結んだ赤いリボンが、印象的な女性だった。

    この時感じた感情は何だったのか。とうに思い出せなかったけれど。
    私は、帰るべき場所に帰ってきた。
    そう思うべきだと、直感した。

    だからこそ彼女に、こう言った。

    「ただいま」と。精一杯の笑顔で。

    彼女の背にゆっくりと手を回す。そういえば
    あの煩わしかった手枷や首輪が、歪に壊れている。
    きっと貴方の思い人は、こんな滑稽なものを付けてはいないのだろうけど。

    恐らく。きっと。

    それから私は、平穏な日々を過ごした。
    あの地獄のような日々が戻ってくる事は無かった。
    きっと私の存在はどこかの誰かに埋め合わされたに違いない。

    手元の書類に目を通しながら、コンピューターの音に耳を傾ける。
    背後を振り返れば、白衣に身を通した赤い髪の女性がこちらに微笑んだ。
    彼女は研究者。私は従順に彼女の研究を手伝う毎日だった。
    寝る間も惜しんで、研究の手伝いに明け暮れては、何度も彼女に叱咤された。

    遅れきっていた勉学も、片手間で頭に詰め込んだ。
    もしかしたら、昔よりも忙しい日々を送っているのでは無いだろうか。とさえ感じることもあった。

    規則的な毎日。時々は外に出て、一緒に色々な場所を訪れる。
    杖を持つ彼女の手を取り、道を先導する。
    外に出ては、通りすがる人々が、私や彼女に視線を寄せているのが分かる。

    何だかそれが、妙に心苦しかった。

    「カガミ、大丈夫?」

    彼女にそう問いかけた時、本当に問いかけたかったのは、自分の心だったのかもしれない。

    「どうしたの?ユウ?」
    「何だか、人の目が…痛い…」
    「……私は痛くないよ。大丈夫。」

    考えてみれば、当然の返答だった。

    こうなってしまえば、私はもう、ただ彼女の意思を遂行するまでだった。
    彼女を庇うように先行し、段差や障害物に目を配る。
    私が外に出て、彼女と距離を詰めて歩くことは、ほとんど無かった。

    月日はあっという間に巡る。奴隷であった頃は、早く日が暮れないものかと何度となく思ったが。
    今の生活を始めてからは、一日の終わりが惜しくなった。
    一日は必ず決まった時数であるにも関わらず、何故ここまで日が経つのが早いものかと、不思議だった。

    特に、彼女と番になってからは。
    光陰矢のごとく。まさにそう形容出来る程に。
    忙しなく、穏やかな月日が巡った。

    「ユウ。そろそろ寝ないとダメよ。」
    「………?」

    彼女が遠くで、私の名前を呼んでいた。
    叱咤のようだったが、どちらかといえば、親を求める子のような。そんな声色にも聞こえた。

    「あーあ、もう。ほんとに相変わらずね。こんなに寂しがりの番を一人で寝させる気?」
    「ええと…それは命令?だけど、変わった言い方だね…。」

    それから、やや怒り気味の彼女に引きずられるように床についた。

    彼女の寝顔をじっと眺める。その度に、何だか心が安らいだ。
    初めて彼女に会ったあの日。私に身に覚えのない名前が出来たあの日。

    どうしてか、彼女とは昔からの顔見知りのような気がしていた。
    彼女の寝ている顔にも、昔から見覚えがあるような、不思議な感じがした。
    自分の正体などとうに忘れてしまった。

    ただ、彼女に与えられた名前を忘れないように。
    与えられた役割を忘れないように。そうやって生きていた。

    彼女と寄り添って眠る度。心が静かに安らいで、何度も何度も涙が溢れそうになる感覚がする。ぼんやりとした明かりの下、いつもの穏やかな夜。

    私は、眠りに落ちるまでのこの時間が好きだった。

    彼女にキスをして。手を握って、眠った。
    手枷と鎖が擦れ、シーツの中で乾いた摩耗の音がした。

    地下都市には"四季"があった。四季を見届けたのは何度目だろう。
    寒がりな私は、どうもこの季節が苦手だ。
    寒さはもちろん、彼女を連れている時の私にとって、日が早く落ちるのも困りものだった。

    闇が深くなる前に、急ぎ足で帰路に着く。
    軽快な音楽と、人々の楽しそうな声。
    鮮やかなイルミネーションが、路地を点々と照らしている。
    私だけが知っている。遊園地の近くの秘密の抜け道。

    私は、この場所を知っている。
    暗がりの苦手だった私は、何度も何度も。
    それはもう幾度となく。
    この道を通って、家まで帰った記憶があった。

    「ユウ。」

    遊園地の方向を指差して、彼女は笑う。
    彼女の声色は普段よりも、少しだけ暗く。
    繋いだ手が少しだけ震えているのが分かった。

    「一緒に、此処に行こう?」
    「…………私は、此処には…」

    記憶にある限り、誰かの言葉に断固と反論をしようとしたのは、この時が初めてだった。
    此処に足を踏み入れてはいけない。と、直感的に思った。

    だけど、言葉を吐き出すことは許されない。
    私は、そういう風に出来ているのだから。

    「…………今日じゃないと、ダメかな。」
    「うん。今日じゃないと、ダメ。」

    腕に爪痕が残る位に、ぐっと強く腕を握られる。
    熱のこもった声で、態度で。
    彼女は強く自己主張をしていた。

    ただ、気になったのは…

    それは『命令』では無かったということ。


    「私は、ここがいいってずっと決めてたの。」

    微笑みながら、彼女は強く断言した。

    体はなんとなく拒絶をしていたけれど、彼女の気迫に押され、渋々遊園地の中へと歩を進める。

    遊園地の入り口で見掛けた巨大なホログラフィーのツリーが印象的だった。
    きらきらと、鮮やかな電光が辺りに煌めき、頭上では人口雪が辺りに降いでいた。
    軽快なクリスマスソングが、園内を包む。

    クリスマスのイベントを行っていた事もあり、夕暮れの遊園地はいつもより賑やかな様子で、心なしか番や家族連れの姿が多く見られた。

    「こんにちは。お兄さんとお姉さんは番さんなの?」

    背後から幼げな声色で、声をかけられる。
    振り向くとそこには、一人の少年が立っていた。
    長く伸ばした白い髪に、宝石のような色合いの赤とも黄色とも見える瞳。
    半分だけの片足に、左手には杖をついている。
    明るくも憂いを帯びた雰囲気の少年だった。

    少年は、彼女。カガミを食い入るようにじっと観察して。
    そうして、思い付いたように、懐から紙切れを取り出した。

    「…これ。そっちのお姉さんにあげるね。観覧車の特別予約チケットなんだけど…」

    少年は口元に手を寄せて、ひそひそと話をする。
    観覧車の写っている液晶に目をやると、3時間待ち。との記述が確認できた。

    「一応、職員用のチケットだから、他のお客さんには絶対に内緒だよ!観覧車の所にいる人にこれを見せて、リタって人から貰った。って言ってね。」

    彼女の言葉のタイミングに合わせるように、リタに感謝の意を述べた。
    すると、リタはカガミの手を取り、まるで母親を前に甘える子どものように、にっこりと笑った。

    「ボク、最後にお姉さんに会えて良かったよ。」

    どこか引っ掛かる言い回しだった。

    「それじゃあ、バイバイ!」

    つられるようにぎこちなく手を振る。
    先程の発言を追求をしたかったが、どうしてか言葉がでなかった。

    リタは、他の職員の声に対し、慌てて踵を返すと、ご機嫌そうにクリスマスソングを歌いながら、人混みの中に消えて行った。

    「親切な職員さんだったね。」
    「…そうだけど、何故私達に…?」

    そう尋ねると、彼女は俯いて私の服の裾を握った。
    どうにも、今日の彼女の態度には、かなり気になる点が多い。
    だけど、私にはその理由にまるで心当たりが無かった。

    それから、私は彼女の手を取り、遊園地の様々な場所を巡った。
    いつも遠目で見ていたアトラクションの色や形が。音が。記憶のなかでぼんやりと思い起こされる。

    数々のアトラクションや、サーカス、劇、ショーなど、恐らく一日がかりでもまわりきれるか分からないほどに、ここには娯楽や芸術が散りばめられていた。

    園内の装飾品や設備の数々も、和洋テイストや、ファンタジーな世界観など様々で。
    園内を徐に回るだけでも、まるで絵本や映画の世界を旅しているかのような気分になった。

    レストランでかなり遅めの夕食を済ますと、私と彼女は歩が進むがままに、観覧車の方へと向かう。
    長蛇の列の横をすり抜け、ようやく受付に辿り着いた。

    受付を済ませ、イルミネーションが巻き付けられたそれに、彼女を抱え注意深く乗り込む。
    観覧車が透明な分足元が暗く、慎重に目を配った。

    観覧車の中は暖かく、そして、思っていたよりも遥かに暗く感じた。
    座席と座席の間で雪だるまの人形がキャンドルの形のライトを抱えている。

    「外の光、全然ないね。今、何時くらいなんだろ…」
    「時計を見た限り、確か23:00を過ぎた位だったね。まもなく日付が変わるんじゃないかな?」
    「……………。」

    園内の光に慣れていた事もあってか、外はまるで黒い絵の具でしっかりと塗りつぶしてしまったかのように暗く、都市内の街頭の灯りがぽつぽつと光っていた。

    「あ!今の何!ユウ見て!空の方に何か…」
    「…え…?」


    彼女に促されるがまま、空の方に目をやると、キラキラと宝石のように煌めく星空が私達を迎えた。星達は空を流れ、零れるように、地に降り注ぐ。

    そうして集まった星達は、今度は、騎士や動物の形になり、物語を展開した。
    まるで、空全体が映画のスクリーンのようだった。
    星達のエフェクトが様々な変化を見せる度に、私も彼女もまるで幼い子どものように、声をあげてはしゃいだ。
    なるほど、これは何時間と待ってでもこのアトラクションに乗りたがる人々の気持ちが理解できる気がする。

    外の景色に夢中になって食いつく私をよそに、彼女はいつの間にか、私の隣にしっかりと寄り添っていた。

    「ねえ。ユウ。本物の世界より嘘の世界の方が綺麗だなんて、少し寂しいね。」

    「……そう、なのかな?私は……」

    『そうは思わない』咄嗟に頭にそう浮かんだ。
    思考が浮かぶがまま、矢継に言葉を繋いでいく。

    「嘘の世界でも、その世界を生み出したのは、本物の世界だ。だから、私はこの世界が大好きだよ。それに、今はカガミがいる。寂しいだなんて、思わない。」

    そう言い終え、彼女の手を握る。
    彼女の手が先程よりも少し冷たくなっているような感覚がした。
    私が彼女の体温を確認するよりも早く、彼女は慌てて口を開く。

    「…………ユウ、私ね。貴方に秘密にしていた事があるの。」
    「秘密にしていた事…?」


    彼女は、ふわりと微笑んで目に涙を溜めながら告げる。

    『私ね。今日が、18才の誕生日なんだ。』



    言葉の意味は、すぐに理解した。


    『だからね。私、貴方にお願いがあるの。』


    私がいなくなっても、どうか悲しまないで。
    私がいなくなっても、どうか泣かないで。
    私がいなくなっても、どうか笑顔でいて。

    それから、最後の『命令』は……

    『……、……。』

    そう言い終えた彼女の耳元で、囁く。

    『愛してる』
    『ありがとう』
    『さようなら』

    それから…

    その次の言葉は、決して彼女に届くことは無かった。

    眠ってしまった彼女を抱き抱え、足早に観覧車を降りる。
    不思議と気分は落ち着いていたような気がする。

    もしかしたら、私は本能的にこの状況が来ることを悟っていたのかもしれない。とさえ思えた。
    まもなく閉園時間を向かえる遊園地では、まだまだ客は多く見えるようだった。

    ただ、時間を危惧してか、観覧車周りは思いの他閑散としているようだった。
    長蛇に続いていた列も、今は数名程度にまで落ち着いている。

    彼女を抱き抱え、立ち尽くしていると、視界の奥から、かつかつと聞き覚えのある杖の音が聞こえた。

    「また会ったね。お兄さん、お姉さん。」

    私に近付いてくる少年に軽く会釈をする。先程、リタと名乗った少年だった。
    リタは、寂しそうに彼女の方に目を向けているように見える。

    「お兄さんは知ってる?人ってね、死んだら皆、お星さまになるんだって。」

    何かを誤魔化しているようだ。リタの声色からすぐに分かった。
    ただ、反論は見つからなかった。
    リタの心中を察しつつ、彼の話に黙って耳を傾ける。

    「夜の明かりって皆、偽物なんだけどね。お星さまだけは本物なんだ。星空が何だか、いつもと違う模様をしてるなあって、思う時あるでしょ?あれはね。優しい人達がボク達を見守ってくれてるからなんだよ!」

    ふと、先程、観覧車で見た景色を思い出し、手が震えた。

    「リタ君。君はどうして私にそんな話を…?」
    「それが、ボクの仕事だからね。」
    「…………………。」
    「………お姉さんのお星さまは、どれだろうね。」

    そう言ってリタは、黒く塗り潰されただけの空を指差して笑う。
    全てを悟りきったような表情で、穏やかに空を見上げていた。

    「…あそこの、うさぎみたいな形をした星座の、一番右下…。」

    空を見上げれば、声が震えた。
    瞳に涙がじわじわと溜まっていく感覚がする。
    手が震え、頭の中が霧がかかるように熱くなる。
    嗚咽が漏れかけた唇を、思わず噛み締めた。

    「……リタ君は、見えるかな…?」
    「うん。見えるよ。すごく、すっごく!優しい光だね。」
    「……ありがとう…そう言って貰えると嬉しいよ。」

    そうして、今度は精一杯の笑顔で彼を見つめる。
    さようなら。と声をかけると、リタは、バイバイ!お兄さん!と嬉しそうに答え、私の視界から見えなくなるまで手を振っていた。

    足元に気を付けなくてもいい帰路は、初めてだった。
    彼女の住んでいた家に戻ると、私はそっと彼女を寝台の上に降ろした。

    そうして、彼女の傍らに寄り添って眠った。
    彼女の寝顔を眺めている時間が私は何よりも好きだった。
    彼女の頬を撫で、そっとキスをする。

    「…寂しいな…」

    「隠し事なんかして……寂しがりの私を置いていくなんて…ひどい番だよ。カガミ。」

    それが、やっと出てきた反抗の言葉だった。
    ぼんやりとした明かりに照らされた部屋。
    窓の外では、無数の星が優しく煌めいていた。
    あの輝きの一つになる事を、今の私は許されない。

    静かに呼吸を整えて、徐に瞼を閉じた。

    それから数日後、彼女の葬儀が行われた。
    彼女に宛てた手紙を、私は微笑んで柩に詰めた。


    『 私の恩人であり、大切な番へ。

    ある夜。私は遊園地に出掛けた。
    あの夜の事は忘れない。
    軽快な音楽と、鮮やかに彩られた景色。
    たくさんの世界がそこにはあった。

    中でも君と見た星空は、本当に綺麗だった。
    だけど、一人で見る星空も心から愛しく思え
    るの は……君のおかげだ。

    使桜 ユガミ』



    疑惑の色 キョウヤ君が職場に来た時の話。

    初仕事の朝は、明け方に目を覚ました。
    初仕事とはいえ、おおよそはオリエンテーション等が主になるが。

    身支度を整えながら、資料に目を通す。
    今日は、自分が教師として初の仕事を行う日だ。

    鏡を見ながら、首元に包帯を巻いていく。
    少し息苦しさを感じつつも、きっちりと包帯を締める。

    「傍目には怪しいやろか…?」

    そんな事を考えながら、前平きのシャツに袖を通す。
    首元の包帯が隠れきらないのが、どうにももどかしい。

    窓の外、薄ら目に朝日を眺めながら、シャツのボタンを締める。
    身なりを整え、鏡を眺める。鏡に映った自分の姿をじっと眺める。


    弟切キョウヤとしての一日が今日も始まる。


    資料にあった地図を元に、赤い線を指でなぞる。
    路地を抜け学校の方を目指す。通勤に向かう人々をすり抜けながら、横断歩道を渡る。
    一般的にこの日は、学校が休みということもあり、人は閑散としていると予想したが、どうもこの辺りに限ってはそうでもないようだ。

    通勤などに向かう人間を横目で見れば、期待に満ちていたり、憂鬱げな表情を見せていたりと、色も様々に見える。
    通行人にぶつかりかけながら、この横断歩道ですれ違う人間達には、目には見えない様々な思考があるのだと感じた。
    そのいずれもが、この場所でせめぎあっているのかと思うと、何だか感慨深い気持ちにもなる。

    自分は、今日から学校の教員として働く身だ。
    元々は遠方で働いていたがスカウトを受け、専科講師として、保育士や教師の進路に進む学生の指導を行う教師の業務を引き受けたのだった。

    自分は昔からずっと、保育士として人と接し、業務を行ってきた。
    人を見透かしきった、子どもや利用者との接し方。
    確固として揺らがない保育概念など、様々な面で評価を受けた。

    あくまで保育の仕事は、目的であり、手段だったことに変わりは無いが。
    このように評価をされたとあれば、応えるべきであるだろう。という結論を出した。
    保育や教育を志す学生の価値観も、自分にとっては尊いものとなるはずだ。


    目的を果たすのには最適だろう。そう推測を立てた事もある。


    学校の門を開け、扉をくぐる。
    ゲートにバーコードを翳し、早足に事務室へと向かう。
    比較的最先端の設備の整えられた学校に見受けられた。
    自分とすれ違う人たちが、興味深そうに自分を眺めては、通りすぎて行く。


    やや好機的な目。興味深そうに自分を観察する人の目は、それなりに興味をそそった。

    視界の端で、窓の外を何かがそっと通り抜けていく。それは、赤い蝶のようにも見えた。



    事務室のドアを開け、挨拶を済ませる。
    視線と、言葉、声色を気にかけながら、部屋の奥へと向かう。
    赤錆色の髪をした男性職員が一人、デスクに座って、仕事をしていた。

    年齢は自分と同じか一つ上位の人間に見えた。
    実に人当たりの良さそうな。一般的なイメージである、真摯的で情愛的な教師を絵に描いたような。そんな男性だった。

    案の定、教師は慌てて仕事をする手を止めると、好意的に自己紹介を済ませ、書類を一瞥した後、こちらへと手を差し出す。


    「ああ。ええと、初めまして。弟切先生?だね。俺は鷲尾桐彦。よろしく頼むよ。」

    「……お初にお目んかかります。弟切キョウヤですわ。よろしゅう。足引っ張らんよう善処します。」


    鷲尾桐彦と名乗ったその男は、むしろそれはこっちの台詞だよ。と、困り果てたように笑って、頭をかいていた。
    謙虚で社交的な人間であると見てとれた。

    鷲尾のデスクを見ると、きっちりと整頓はされているが、随所でツメの甘さが垣間見える。
    仕事は基本的にしっかりとこなすが、時折取りこぼしのある性格なのだろう。と推測出来た。


    「弟切先生は、その業界では有名な方だと伺ったから…一緒に仕事が出来るなんて光栄だよ。」


    鷲尾の声色と表情をじっと眺める。
    自分から見てそれは、さながらドラマか何かの俳優が台詞を読んでいるかのような印象を受けた。

    鷲尾は、こちらを見つめたまま微塵も目を逸らす気配はない。赤い瞳が印象的だ。

    また、観察する限り、極めて一般的な人間だが、あまり見かけないタイプの人間でもあると感じた。


    「まあ、そないに期待せんといてください。教職は初めてやさかい。ご教授頼みますわ。鷲尾先生。」


    そう微笑んで返せば、鷲尾も緩やかに表情を綻ばせた。
    先程よりも、ぎゅっと強く手を握りしめられ、少しだけ困惑する。
    視線を交錯させれば、彼の視線は自分ではないどこか遠くを見ているように感じられた。

    鷲尾がデスク上の荷物を、やや乱雑に退ける。
    どうやら、自分の隣のデスクの持ち主は、あまり整理整頓が得意ではないようだ。
    ゲームキャラクターをモチーフにした文房具や、キーホルダー等が確認できる。

    この席の教員とはおそらくあまり、話が合わないだろう。
    嵐山 と書いてある私物が、目に入った。
    嵐山という名の教員の隣のデスクが、自分のデスクであり、そのまた隣のデスクに鷲尾が位置していた。


    「この先生は、物なつめるんがよう苦手なお人なんですわな。」


    崩した書類の山を整えながら、鷲尾が苦笑いする。
    随分と手慣れた手付きでデスクを整頓しているようなので、いつもこのような事をしているのだと推測できる。

    「…そうなるね…。ああ、でも、悪い人ではないよ。どちらかというと俺よりもそつなく仕事はこなしているかな。」
    「甘やかすのもええですけど、締めるべきとこはしゃんと締めんと、この人も、よう成長せぇへんで?」


    鷲尾は、苦笑いをするだけで特に反論はしてこなかった。
    学校内の案内図に目を通しながら、書類の山と格闘している鷲尾にさりげなく手を貸す。


    「…ありがとう…何だか、来た早々に申し訳ないな…。」
    「……別に。よう気にしとらんですわ。」


    そう言い捨てて、渡された資料に目を通す。

    地図を確認する限り、ここは、一般教育をする場所と、専門職の専科・講習などを同施設内で行っているようだ。
    改めてこの辺りのエリアは設備が整っていると感じる。


    「そういえば、弟切先生は変わった話し方をするんだね。」
    「ああ。おかしいですやろか?ボクの居た所では皆こんな感じやったさかい……気になるんやったら、直しますけど…。」


    そう言葉を濁すと、鷲尾は、申し訳なさそうに慌てて弁解をし始めた。
    以前居た職場は、このエリアからかなり離れた場所だった事もあり、このような喋り方はさほど浮いたほうでは無かった。
    確かに、やや危惧していた問題ではあったが、改めて指摘をされると、少し気になってしまう。


    「いや、むしろ、生徒達にはいい社会勉強になると思ってるよ。地下都市内でも場所によって、文化や風習が違ったりするからね。」
    「……おおきに。そう言って貰えると助かりますわ。」


    実に模範的な回答だと思った。
    校内に、規則的なチャイムの音が鳴る。
    横目で鷲尾を見ると、書類に目を通して、何かを言いたげにしているようだった。


    「鷲尾先生。ボクの書類…何か不備でもありますやろか?」
    「不備…はないけど、弟切先生のサイコセル……『偏愛』っていうのは…」


    鷲尾の視線が、じっと自分を捉える。執着にも似た温度を帯びたその視線に、思わず身構えた。
    まるで、心の奥まで見透かそうとするような。
    その赤い瞳に、自分の中で興味に似た感情が沸いてくるのが分かる。

    出来るだけ平静を装って、視線で鷲尾を見据えながら、返答を紡ぐ。
    相変わらず、鷲尾は微塵も視線を逸らそうとはしない。


    「ああ…それ。ボクな、人と変わったもんが好きなんですわ。それだけやで。」

    「………………。」


    恐らく、疑問が残っている。と、いった反応だった。
    詮索をされようとも構わなかったが、やや返答には困る質問ではある。


    「他の書類見て貰えれば分かるように、長い間仕事してきとるけど、問題はあれへんかったさかい。まあ、そこまで気にせんでええですよ。」

    「……ああ、すまないね。余計な詮索をしてしまったかな?」


    今に至るまで、鷲尾桐彦という人間と対話をしていて、とにかく、絡み付くような視線が印象的な人間だと思った。
    一目見たときから、彼の、"視線"が心底から気になった。
    この視線の意図が追求してみたくなった。追求したくてたまらなかった。

    幸いにも、というのだろうか。今日のスケジュールは学校案内や、この職場の仕事内容の説明程度。と伺っている。
    おそらく、この調子だと時間を持て余すだろう。
    この教員と親睦を深めてみても面白いかもしれない。そう考えた。


    「鷲尾先生。失礼やけど、番とかあらしゃります?」
    「番か…今は、特にいないかな。」
    「……ほんなら、香水とか使ってはるん?花?みたいな香りがしますさかい。」
    「……!」


    鷲尾が、書類を捲る手をピタリと止める。

    一瞬、彼の表情が固まったが、すぐに先程までの柔和な笑顔に戻っていた。
    …嘘をついたり、何かを誤魔化す時に口角を上げる癖があるのだろうか。


    「知り合いだよ。」


    それ以上は詮索するな。と言わんばかりに声のトーンが変わっていたのが分かった。
    書類に目を通し終えたのか、鷲尾は慣れた手付きで書類をキャビネットにしまう。
    どうやら、このファイルに、ここの職員の情報がファイリングされているようだ。

    赤いファイルをじっと目に焼き付けながら鷲尾の様子を観察する。
    少し、手が震えているようだ。
    不可解に感じ、鷲尾の顔色を伺うが、彼は表情一つ変えず、こちらに向き直った。

    ただ、少し息を切らしているようにも見えた。


    「ええと、校内を案内したいんだけど…大丈夫かな?弟切先生。」
    「…お気遣い感謝しますわ。まあ、構へんさかい。早よ行きましょか。」


    そう言って、自分が椅子から立ち上がった矢先の事だった。
    途端にぐらりと視界が揺れ、体が床に叩きつけられる感覚がした。
    すぐに状況を確かめようと、目を凝らすと、それを遮るかのように、轟音が響く。
    刹那、視界を乗っ取るような赤色。
    自分の体の上に、何かがのし掛かってきたのが分かった。

    ピントを歪ませた視界に、水面が揺れるようなノイズがかかった。
    状況を察するに、こちらに歩いて来ようとした鷲尾が、自分の方に倒れてきたらしい。


    「鷲尾先生…?」
    「……………………。」


    そう伺ってまもなく、彼は、沈黙する。徐に鷲尾と視線が交錯する。
    鈍い熱を帯び、さながら焦点の合わない視線に、ぞわりと鳥肌が立った。
    自分はこの感覚を知っている。この目を知っている。

    察するに、サイコセルの症状だろう。
    彼に呼び掛けて正気に戻すことも考えたが、現状の打破よりも興味の方が遥かに上回った。

    肩に爪を立てられ、床に押さえ付けるように、ぐっと体重をかけられる。
    振り解く事も出来たが、あえて鷲尾を観察することにした。

    『……、……』


    耳を澄ますと、鷲尾が何かを呟いていたが、しっかりとは聞き取れなかった。
    息を切らし、頭を抑えている彼をじっと観察する。戸惑うような表情を横目に見る。
    恐らく彼の目に今、自分の姿は写っていないだろう。


    これは、中々面白いものが見られそうだ。なんて、思った。


    高鳴る鼓動を抑えながら、紅潮した彼の頬に迷わず手を伸ばし、頬から、喉にかけて指を這わせる。


    すると、苦しそうに息を切らしていた鷲尾の表情が更に強張るのが分かった。
    焦ったように首を振り、絶え絶えの声で、何度も何度も、誰かの名前を呼んでいた。

    「…………桐彦。」

    囁くように、名前を呼んでみれば、ガタリと鷲尾の体が跳ねたのが感じられた。
    そのタイミングに合わせるように体を起こし、彼の背に手を回す。

    慈しむように、背を撫で、耳元で言葉を囁く。
    視界全体を犯すような、シャツの赤い色が心地よい。

    『……、……』
    「……っ…?」

    案の定、耳元で息の乱れる音が聞こえた。
    触れあった体から、鷲尾の心臓の鼓動が早まる感覚を感じながら彼の体に寄り掛かる。
    震える手が、自分の背に回るのが分かった。


    「なるほどな…こら面白そうなもん見つけましたわ。」


    自然と、口角が上がる。もう少し彼を観察したいとも思ったが今回はやめておこう。
    そう考えながら、彼の体を揺すり、名前を呼ぶ。
    糸が切れた人形のように脱力する鷲尾を眺めながら。


    「鷲尾先生?」
    「………っ、あ…っ、…あれ…?俺…」
    「…ああ、気が付きましたか。良かったですわ。急に倒れはりましたさかい。心配しとったで?」


    何が起こったのかと、困惑する鷲尾に、貧血か何かやったんと違います?と声をかける。
    しばらく辺りを見回すと、彼は、安堵しきった表情で、真摯的に謝罪の言葉を述べた。

    何度も、本当に何も無かったか。と追求されたが、反論を述べ続けると、鷲尾の目から疑惑の色が少しずつ消えていく。
    疑惑の色は消えどその瞳の色は先程より濁ったように見えた。
    少し、椅子に腰かけて休んだ後、彼は徐に立ち上がった。


    「休んどったほうがええんと違います?」
    「ああ、ありがとう。今のところ、特に問題は無いかな。」
    「……まあ、さっきより顔色は良さそうやな。ほんなら頼みますわ。あんまり無理せんといてください。」
    「勿論だよ。弟切先生に迷惑をかけるわけにはいかないからね。」


    ネームプレートを首にかけ、鷲尾の後を追いかけていく。
    無機質な校内で、相変わらず彼は、淡々と台本を読むかのように、校内を案内してくれた。

    講習や補習で学校に訪れている様々な人物とすれ違う。
    その皆々が、それぞれの思考を帯びた視線でこちらを伺っている。
    階段を降り、長く続く廊下をひたすら歩いていく。

    ずきずきと痛みを感じる肩を、そっと手でなぞる。
    昨晩、ある事情により負った傷が開いたようだ。
    いくつか刻まれた爪痕から、少し血が滲んでいる。
    傷を隠すように、カーディガンを手繰り寄せる。

    規則的に続く足音。
    お互いに淡々と雑談を続けながら、先程の鷲尾の姿を思い出していた。
    自分を見つめる、絡み付くような視線を思い出しては、胸が騒いだ。


    「鷲尾先生。教師と保育者の違いってなんですやろ。」
    「そうだなあ…教師は、生きる術やスキルを学ばせる。保育者は人との関わりを学ばせる。って感じかな。」


    ひどく模範的な回答だ。と感じた。
    自分の考えというよりは、マニュアルが染み付いたかのような印象を受ける言葉だった。

    少し緊張は解けた様子だが、先程初めて会ったときと比べ、相変わらず鷲尾の声色や話のテンポに変化はない。
    ただ、先刻と比べ鷲尾の目の色が、赤から少しずつ鈍色に近付いているように見えた気がした。

    数十分ほど校内を周り、再び事務室へと戻る。
    ざっくりとした、業務の説明を受け、それを順次聞き入れた。
    鷲尾が他の生徒に声をかけられ、席を外した隙にファイルへと目を通す。


    「……ああ。なるほどな。」


    体の奥から、ぞくぞくと血が沸く感覚がする。


    『ボクと、桐彦はん。似た者同士や無いですか。』


    ファイルを、音を立てないように元の場所へ戻す。
    早まる鼓動を押さえ付け、鷲尾が戻ってくるのを待った。
    そうして、話を一通り聞き入れ、今日の活動を終えた。

    相変わらず、鷲尾は数時間を通して、全くペースを崩すことは無かった。

    あの出来事を除いては。

    荷物をまとめながら、鷲尾の話に耳を傾ける。


    「それじゃあ、明日からよろしく頼むよ。弟切先生。」
    「…おおきに。今日は世話になりましたわ。」
    「不足がなければいいんだけどね…」
    「気になる点がある時は、よう聞きますさかい。……まあ、明日から頼みますわ。」


    肩口の傷を抑えながら、踵を返した。自分を見送る鷲尾を、振り向いて一瞥した。
    不思議そうに自分を見つめる彼の目は、相変わらず心地よい鈍色をしていた。

    校内のゲートをくぐり、足早に帰路に着く。
    交差点を行く人だかりは、相変わらず顔色も様々に自分のすれ違っていく。
    規則的に、見慣れた顔付きで。
    交錯する思考の塊を、横目で見送りながら、帰路へと足を進める。

    そんな最中、気だるげな様子の青年と肩がぶつかった。
    見覚えのあるキャラクターのグッズが目に入り、思わず思考を巡らせる。

    ああ、あれは確か…

    そうして、今度は、鈍痛を訴える肩をそっと押さえる。

    痛む肩を抑える一方で、体の奥から心地よい温度を感じる。
    自宅のドアをくぐれば、薄暗い部屋の中、無機質な時計の秒針の音に脳の奥を犯される感覚がする。

    初仕事の日の午後は、なんとなしに自宅のベッドに寝そべった。
    窓の外に映る景色は、相変わらず代わり映えのしない青空だ。

    肩口を抑えながらぼんやりとしていると、視界の端で一匹の赤い蝶がひらひらと飛んでいくのが見えた気がした。

    ふらふらと部屋をうろつき、鏡越しに自分の肩を見る。
    包帯に滲んだ錆色の赤が、やけに既視感のある色のように感じられる。
    思考を巡らせれば、途端にぞくぞくと鼓動が高鳴った。久しぶりの感覚だった。


    「ああ、明日も、あの人に会えるんやな…」

    「楽しみやな。」


    首元を押さえ、静かにそう呟いた。



    深淵を覗くとき ニケ君の過去の話。

    晴天の空。町並みを歩く足取りは今日も重い。
    いつもの見慣れた景色の道、多くの人々の思想がせめぎ合う道。
    通りすがる人々は今日も盲目で、頭の中に雑音が止まない。

    目の色、視線、呼吸、仕草、言動…人通りの多い交差点はまるで、映画で見た戦場のようで。
    孤立無援の四面楚歌。自分だけがずれた世界にいる感覚がする。

    そうして、慣れた足取りで歩いてみれば、背に微かな視線を感じる。
    ああ。何だそんな所で傍観をしていたんだ。
    そこの君。君だよ。今まさに、画面越しにボクを眺めているそこの人。

    ありふれたモノローグなんて退屈だ。

    少しだけ、ボクの昔の話をしようか。



    幼少期のボクは、心理学の名家"アーデルハイト家"に生まれた。
    この家の血筋は人間観察の感覚が優れている事で名が知れていた。

    人間というのはそもそも、基本的な感覚器官の他にも医学的にまだ不可解な点が多い、共感覚やエコロケーションなどの知覚も持ち合わせているらしい。これは俗に、シックスセンス。とも云うそうだ。

    これは学術的な見解であるが、この家の人間はそう言った感覚的な情報の知覚に優れているのだと云う。

    特に幼少期の子どもなどは、まだ未熟な知識で生存に必要な情報を補おうとするため、そういった能力は大人よりも優れており、アーデルハイト家の子どもを実験体とした研究や活動も各所で行われていた。


    その実験体の一人が、ボク。ニケ=アーデルハイトだ。


    学校が終わった後や、学校が休みの日の朝は決まってボクはこの研究施設に連れて来られる。
    このルーティンに例外があった事はほとんどない。

    やる事は大抵いつも同じだ。
    まずは、固く座り心地の悪い椅子に腰掛け、脳に装置を接続する。
    後は警察の活動である尋問や、研究機関の心理実験の様子等を、ボクはただ傍観する。
    今まさにこうして文章を読んでいる誰かのように。

    マジックミラー越しに、どこかの誰かの顔を見て、表情や視線を注視する。
    スピーカーから拾われた音を脳に響かせ、思考する。
    後は、ボクの脳波が機械に送信され情報の解析を行う。

    おおよそは、嘘発見器のような働きをする事が多かったと思う。
    時折、カウンセリングのような活動や心理実験の活動もあったように思う。
    毎日毎日、絶え間なく誰かを傍観する。そんな毎日がボクの日常だった。

    「お疲れ様。ニケ。」

    研究員の一人がボクに声をかける。ニケと言うのはボクの名前だ。
    ある地方に伝わる勝利の女神の名前が、ボクの名前の由来らしい。
    ボクのシックスセンスは、アーデルハイト家の子どもの中でも一級品のそれだった。

    それ故に心理学界にとって革命を及ぼす存在だと、祀りあげられた。
    故にボクは、ニケ=アーデルハイトという名を与えられたのだと、両親は言っていた。

    ボクの両親は多忙な人だった。時折顔を忘れそうになってしまうくらい。
    ボクと両親が顔を合わせる事は少なかったように思える。
    誰かに両親の話を伺えば、いつだって、多忙であると返答をされた。

    「今日はもう、終わり…?」

    絶え絶えになった声で研究員に問いかける。
    今日見た犯罪者の目の記憶が。精神病患者の震えた声の記憶が。
    ボクの脳をいつまでも漂って離れない。
    ふらつく足取りで椅子から転げ落ちれば、研究員の手により安定剤の注射を打たれる。

    そうして、錠剤をいくつか口に含んで、一気に胃の奥に飲み込む。
    朧気になった視界で時計に目をやれば、それはまさに研究の終わりを指し示していた。

    緊張が一気に解け、安堵で思わず口角が緩んだ。

    「ねえ。ボク、今日もユイと遊びたいな。」

    ユイ=アーデルハイトはボクの従兄弟の名前だ。
    年はボクより2つ下。女性ともとれる名前をしているが、ボクと同じ男だ。
    彼は、この研究施設を管理している家の子どもで、分家ではあるが同じアーデルハイト家の人間だった。

    この施設で連日の研究が続くときには、移動の時間を短縮するため、分家の家に寝泊まりをする事が多かった。
    自分を送ってきた研究員に手を振り、分家の家のドアを開ける。

    「いらっしゃいニケ君。ユイに会いに来てくれたのね。」

    ユイの母親が、ボクの頭を撫でて微笑んだ。
    この人は比較的友好的な人だった。問題は、この家の父親である。
    ユイの父親は、ややボクを軽蔑的な目で見ることが多い。
    研究員が言うには、本家と分家とで確執があり劣等感から、そのような態度を取っているのだという。

    ユイの母親の動向を"視る"に、今日は父親はいないようだ。
    この人は、とても優しい人でありボクがこの人を、観察的な目で視ることをあまり気にしないで居てくれる。
    周りの大人に軽蔑にも似た目で見られ続けてきたボクにとって、安息をもたらしてくれる人間の一人だった。

    「ユイなら部屋で遊んでいるわ。今日もゆっくりしていって頂戴ね。」
    「……はい。ありがとうございます。」

    ユイの母親に促されるがまま、家に上がりお茶とお菓子を見舞われる。
    大抵は、ユイも一緒におやつを食べるが今日は気が進まないのか、部屋から出てこなかったようだ。

    食器を下げ、ユイの部屋に足を運ぶ。
    ノックをし、その返答に合わせて、部屋に足を踏み入れた。

    「ユイ!久しぶり!ボクね、ユイに会いたかったんだ!ねえ、一緒に遊ぼう!何して遊ぶ?」
    「……ニケ、うるさい。耳が破れる。」
    「…あ、ごめん…嬉しくてつい…」
    「………………。」

    ユイは決まってボクから視線を逸らすことが多かった。
    ユイはボクの目を怖がっていて、あまり目を合わせようとしないのだ。
    周りの大人ですら、自分の目を怖がっていた。
    だから、ユイが同じような反応をするのも納得できた。

    ただ、本心からボクを嫌っている訳ではないことがなんとなく本能的に分かっていた。それだけが嬉しかった。

    ユイはボードゲームをボクの前に引き摺って、こちらの様子を伺う。

    「これ。やろ?…他の人とやっても、弱すぎてつまんないんだ。」
    「うん。そうだよね。ボクもその気持ち、分かるよ。」

    ユイも自分と同じアーデルハイト家の子どもだ。
    心理分析には優れている。ボクもそうだが、友達やクラスメイトと遊びをしても、大抵の場合、隠すことを知らない子どもが相手なのだ。考えが読めてしまうため遊びやゲームはあまり楽しめるものではない。

    升目の引かれた板盤に淡々と駒を並べていく。
    やや天の邪鬼な思考をしているユイの心理を読むのは、中々に難しい。
    何より、自分の考えも読まれてしまうため、油断のならないスリリングな空気が心地よい。

    板盤と駒がぶつかる、木の乾いた音が耳に響く。
    板盤の升目の終点に、駒を置けばユイが何か言いたげに声を発した。

    「………あ。」
    「…ボクの勝ちだね。」
    「…もう少しだったのに……」
    「ユイも結構健闘してたよ。」

    こうして、ユイと過ごす時間が本当に幸せだった。

    夢中で一緒に遊びを楽しんだ後は、ユイやユイの母親と一緒に食事をしたり、どこかに出掛けたり、様々な事をして過ごす。
    そうして日が暮れる頃には、ユイとベッドを分け合うように眠る。
    こんな何気ない日常的な時間が、本当に愛しかった。


    そうしてまた、変わらない日常を繰り返す。

    それから、また何年か。10才の誕生日を向かえたボクは心理捜査官になった。


    仕事にはとにかく一生懸命に打ち込んだ。
    同年代の職員が多かった事や、たまたま偏見の少ない同僚にも恵まれた事もあり、職場内の空気は居心地が良く、ここでの日常はボクにとってとても尊いものだった。

    そして、ある日彼女に出会った。
    ボクのような人間も心から純粋に愛してくれる、寛容で偏見の無い人だった。
    最初は、ボクの方からの完全な一目惚れだったと思う。

    「ニケの能力(ちから)は、誰かを疑ったり暴くためじゃなくて、誰かのSOSに気付いてあげられる優しい力だよ。」

    それが、彼女の口癖だったように思う。
    落胆したボクに彼女は何度もそう声をかけてくれた。
    彼女の前では人を心理学的な目で探ることはほとんど無かった。

    恋は盲目だと言うけれど、本当にその通りであると思う。
    事件が起こったのは、彼女と番を結んでしばらく経った時の事だった。

    その事実を知ったのは本当に突然だった。

    彼女はアーデルハイト家に恨みを持つ人間だったのだ。
    彼女の父はある犯罪で、逮捕された。
    彼女が主張するには彼女の父は冤罪であったそうだ。

    裁判の審理で一度は無罪で事が運んだが、アーデルハイト家の管轄にある機関での心理分析により結果は有罪。刑を受けたのだと言う。

    その事実を知った矢先。
    ボクはある日彼女の手により毒を盛られ、ナイフでの襲撃を受けた。
    なんとか抵抗をし、致命傷は免れた。

    ただ、問題はその後だった。
    彼女はあろうことか、自分の身だけでなく、ユイへの報復も企てていたのだ。

    全身にびりびりとする激しい痛みを感じながら、ユイの姿を探して、町中を足を引き摺って回った。
    生憎自分はあまり体が強い方ではない。
    何度も意識が遠退く感覚に見舞われながら。
    何度も足をもつれさせ転びながら。必死にユイの姿を見つけた。

    ユイは、瓦礫の山の傍らで唖然として座り込んでいるように見えた。
    ぎこちない足取りで、ユイの元へ駆け寄る。

    「ユイ…!良かった、無事で…」

    そうして、腕の中にユイを抱き締めた。その矢先だった。

    「触んないで…!」

    涙に震えたユイの声が、ボクの耳を鋭く刺した。
    ユイに突き飛ばされ、瓦礫に頭をぶつける。
    朧気に途絶えかけた意識の中で、必死にユイに向かって手を伸ばす。
    ユイがボクを見つめるそれは、完全に怯えきった瞳だった。

    遠くなる意識の中で、遠ざかるユイの足音を聞いた。

    あの日、ボクは死んでしまったのだと思う。

    それからの事はよく覚えていない。
    まるで屍のように意思を持たずに過ごした。
    しばらく入院して、またいつものように仕事をする。
    彼女は、何かしらの刑を受けたのだっけ?あまり覚えていない。


    職場に足を運べば、いつものように犯罪者の話を聞いて、事件のプロファイリングをする。そんな事を繰り返す。

    どうしてか、居心地が良かったはずのこの場所は、ボクにとっては牢獄のように思えた。


    人を信じることが出来なくなった。

    人を信じることが、好意を持つことが恐ろしく思えた。


    好意を持っていた人間は自分の元を離れてしまった。
    好意を持っていたと思われる人間は、自分を嫌悪していた。
    人間がとにかく、怖くなった。

    あんなに知っていたはずの『人間』が、わからなくなった。
    だからこそ、ボクはさらに『人間』にのめり込んだ。
    恐怖は未知なのだ、ならば全て知ってしまえばいい。
    そうすれば、もうこんな思いをしなくて済む。
    想定外に怯えなくて済む。
    そんな思いで、人間の心理にすがりついた。


    そうして、溺れた先は、深淵だ。

    ペンデュラムの針先を眺めながら、ある写真を見る。

    「ああ。良かった。」

    『見つけた。』

    そうして、身支度を整えパトロールのため、夜の町に繰り出す。
    ふわふわとした意識が心地よい。

    宵闇の空。町並みを歩く足取りは今日も軽快だ。
    いつもの見慣れた景色の道、多くの人々の思想がせめぎ合う道。
    通りすがる人々の意識は今日も心地好くて。頭の中に歪な音楽が奏でられていく。

    目の色、視線、呼吸、仕草、言動…夜の町はまるで、狩猟者に満ちた闇の中。
    自分が世界に溶け込んで、夜の音楽を奏でる、その一つの要員となっている感覚がする。

    皆、深淵の中にいる。

    『心』という底知れない深淵の中に。

    いずれ君も気付くと思うよ。『人間』という存在の闇の深さに。
    ボクの語る物語はここまでだ。後は好きに考えてみればいいんじゃない?


    ニケ=アーデルハイト。

    ボクが何者なのか。

    ボクがどうしてこんな風になってしまったのか。

    その答えは画面越しにボクを見ていた君が一番知っているはずだからね。



    木を隠すなら森の中 ニケ君とキョウヤ君の話。

    宵の静寂に包まれて、乾いた音が脳内に炸裂する。
    路地裏の影、呻く男を見下ろしながら、銃を構える。
    雨上がりの町、辺りは湿った空気に包まれて、微かに錆びた鉄の匂いがする。

    「…ボクとイクトはんの事、よう嗅ぎまわらんでくれはります?」

    地面に伏した男を踏みつけながら、銃を突きつける。
    地面に滲むように広がる血が、コンクリートの装飾の隙間を伝って辺りに流れていく。

    夜の町、今日もいつもと同じようにイクトと、ある『取引』をしていた。
    そんな帰り道の事だった。路地を抜けた先で、たまたま出会ったこの男に目をつけられてしまったのだった。
    恐らく、服装からして医療関係者なのだろう。
    イクトに目をつけていた可能性が高い。と察しがついた。
    男と揉み合いになりながら、なんとか路地まで追い詰め、そうして現在に至る。

    「…っ、お前…それにアイツも…!狂ってる!」
    「狂ってるから、何です?ピーピーやかましいで。ドタマぶち抜かれたく無かったら、よう吠えんとき。」
    「だ、誰がアイツの言うことなんか……」
    「せやから……」

    太股を抑えながら、男は自分を睨み付ける。
    この様子だと、恐らくこの男を解放すれば、警察にでも事実を公表しにいくだろう。
    ハッタリをかけ、言いくるめも試みたが、この辺りが限界だろう。そう直感した。
    男の口に銃を突っこみ、引き金に指をかける。

    「吠えすぎやで。駄犬。」

    至近距離で響く炸裂音に、脳内を揺さぶられる。
    肩を抑えて、男の体が動かなくなるその瞬間を注視した。
    抵抗を受けた際に痛めた肩が鈍く痛む。

    辺りの様子を伺いながら、ロープで死体を引摺り路地の手頃な死角に隠す。
    イクトにでも知らせておけばいいだろうか?あるいは、竜胆にでも連絡を取っておくべきだろうか。
    そんな事を考えながら、路地を出た矢先だった。

    「こんばんは。弟切先生。」

    柱の影に誰かの人影が見える。
    そうして、自分の名前を呼ばれた事にも驚愕した。
    声色から察するに自分と同じ年頃の男の声だろう。

    間違いなく、物音は警戒していたし、周りだって隅々まで注意深く見ていたはずだ。
    何より、そこに人がいた気配など少しもしなかった。

    だからこそ、ふいに耳を抜けたその声に驚愕した。
    背にピストルを隠しながら声の主の様子を窺う。
    自分の背は袋小路だ。尚且つ、先程の男を隠している。
    少なくとも正面に進む必要があった。

    「こんな夜中に、ボクに何の用です?急いでるんですわ。君と話してる暇ないで?」

    この男を正面突破しよう。そう覚悟を決めた矢先だった。
    まるで自分の行動を見透かしたように、男は笑う。

    「ボクを突破する必要はないよ。」

    そうして、男は自分の方に歩み寄ってくる。
    風貌からして恐らく警察だろう。街灯の明かりが乏しく、顔はよく見えなかったが、金色とおぼしき髪で、顔を半分隠している男だった。

    「それに、君を捕まえるつもりもない。だって……」

    立ち尽くしてまもなく、男はすたすたと自分の傍らを通りすぎて行く。
    通りすがりに見つめたその目は、何も見ていなかったように見えた。
    ただただ、男の不気味さやプレッシャーに押され、思わず体が後退した。

    「悪を罰してくれたんだから。」

    そう言って男は、自分の隠した死体を引きずり出し、街灯の微かな明かりに照らされる中、大層愉快そうに口角を上げた。

    男は路地に座り込んでじっと死体の検死を始める。
    事態は呑めなかったが、恐らく男は自分を罰する気も、捕まえる気も無いのでは無いかと思った。
    少なくとも今は死体に釘付けになっているようだ。

    「ああ、やっぱりね。クスリをキメてたのか。へえ。道理で。彼にはね。正直ボクら警察も手を焼いてたんだよ。」
    「……………一つ、聞いてもええですやろか?」

    わざとらしく言葉を紡ぐ男の頭に、拳銃を突き付ける。
    恐らく、勘づかれたとは思うが、男は微動だにしなかった。

    「その犬はエサやろ?君、いつからボクをつけてはったん?」
    「…へえ。流石だね。いつから気付いたの?」

    にこにこと、不気味な笑みを顔に張り付けて、男は笑う。
    通信機の電源を入れると、男は端的に業務命令を済ませ、ゆっくりと立ち上がった。

    「こいつの言うてはった"アイツ"っちゅーのが、どうも引っ掛かっとったんですわ。」
    「流石、教育界に名を馳せているだけあるね。」
    「……ボクが思うに。マインドコントロールの類いですやろ?」
    「…あはは!すごいすごい!ご名答!よく分かったね。」

    軽快な拍手の音がひどく耳に障る。
    負傷した肩を抑えながら、静かに溜め息を溢すと、男もまた同じように溜め息をついて、ゆらりとした動きで自分の方に振り返った。
    まるで、珍しい生き物を見つけた子どものような目で、じっと見つめられる。

    「天然物の狂人と養殖物の狂人の差くらいつきますさかい。侮らんといてくれはります?」
    「……まあまあ。仲良くしようよ。弟切先生。少なくとも君が、犯罪者を一人始末した事実は変わらないんだ。そこは、素直に感謝の言葉を述べさせて貰うよ。」
    「…有難迷惑な話ですわ。」

    察するに、自分が撃ったあの男は、この男を探していたのだと思う。
    そうして、どうしてかは分からないが、この男が、ボク『弟切キョウヤ』という人間を付けていた事を知った。
    あるいは知らされた。そうして、現在この状況に至る。と推測を立てた。

    「友人の医者を庇うために、無益な殺しをするなんて意外な結果だったなあ。」
    「目障りな犬を躾るのは当然やろ?…これでも、よう譲歩した方ですわ。」
    「そうなんだ…意外だね。弟切先生にとって殺しは、愛を概念とした美学じゃなかったっけ?」

    男はより一層笑みを深くする。
    一体この男は、どこまで自分の事を知っているのだろう。
    そう思うと、まとわりつくような寒気が背筋を駆け抜けた。

    男の気に圧され、思わず後ずさろうとすれば、銃を持った手をぐっと捕まれた。
    冷たく心地の悪い手の感触に、冷や汗が伝う。
    慌てて男の手を振り払おうとすれば呼吸を合わせるように、肩を壊された。

    「……っ、あ"っ…!?」
    「知りたいな。」

    脳を貫き通すような痛みに、視界が赤く瞬いた感覚がした。
    状況が飲み込めないまま、反射的に肩を抑え、膝を崩す。
    ぼやけた視界がぐらぐらと歪んで、吐き気が込み上げた。

    「教えてよ。」
    「…………………。」
    「ねえ。」
    「……せやなあ…よう聞き。」

    期待からか、男の手が緩む。
    思考を止め、感覚を研ぎ澄ませて、慎重に様子を窺う。
    空気を肌で感じながら、男が脱力するタイミングに合わせて、鳩尾に蹴りを叩き込んだ。

    「教えてください。やろ?」

    吐瀉物を吐いて、咳き込む男を見下ろす。

    「まあ、また会ったら、躾したってもええで?よう覚えとき。駄犬。」


    男を足で転がし、踵を返したが、男はそれ以上抵抗することも足掻くこともしなかった。
    ただただ、身動きも取らず苦しそうに踞っていたように思う。

    振り向いて確認するまでも無かったが。
    きっと相変わらず笑みを浮かべているに違いない。
    そう推測出来た。

    遠くで聞こえるパトカーの音や警察とおぼしき集団の話し声や足音に意識を研ぎ澄ませる。
    恐らく、先程の男の仲間だろう。手頃な物陰に隠れ、息を殺す。

    「あれが警察なあ…世も末やな。」

    そうして、騒ぎが収まると同時に夜の町へ駆け出した。
    この辺りの町一帯はやや治安が悪い。
    だからこそ、自分はこの場所を活動拠点に選んだ。
    夜だというのに、今日も町は騒がしい。
    ずきずきと響く肩の痛みに耐えながら、足音を殺して歩いていく。

    様々な少年少女に援助交際の声をかけられながら、訳の分からない薬を売り付けられながら、遠くで場違いな発砲の音と、聞き覚えのある知り合いの声を聞きながら。

    そうして、人気の無い通りにある、ガレージの中に入っていく。
    ガレージの中には、見慣れたいつも通りの景色がそこにはあって。

    「木を隠すなら、森の中…って感じやな。」

    ガレージの扉を閉めようとすると、ふと、扉の近くに手紙のような物を見つける。
    やけに達筆な字で書いてあるそれを手に取る。

    『また明日。今度はこの場所で会いたいな。』
    『ニケ=アーデルハイト』

    手紙の主をなんとなく直感し、溜め息混じりに手紙を屑籠に打ち捨てた。

    救急道具を取り出し、なんとなく肩を手当てする。
    今、自分の肩がどのような状態にあるのか原理を考えながら、想定されるであろう適切な処置を探る。

    生憎、医学知識はあるが、応急手当への明確な知識はない。
    自分の身に付けたそれのほとんどは、私欲のために身に付けた知識であるからだ。

    「ホンマに、この町は狂った人らばっかりやなあ…」

    眼前の人間に話しかけるが、どこからも返答はない。

    それが、まさに自分が狂っている事の証明のような気がした。



    罪と罰 アサヒくゃんが異世界に迷い込む話。

    ある日、僕は不思議な夢を見た。
    両手にお菓子を抱えながら、ふらふらと帰路に着く。そんな時の事だった。

    「アサヒ君こんにちはー?あ。それともアサヒちゃん?どっちでもいいけど。」

    楽しそうな声に振り向くと、そこに誰かの姿は無くて。
    静けさを増した町に不釣り合いに楽しそうな声が、辺りに響き渡った。

    「良かったら僕と遊ぼうよ!!アサヒちゃん!!」
    「…っ、…!?」

    雑音混じりのスピーカーの音に耳を塞げば、辺りの景色は一気に変わって。
    反響するハウリングが、この部屋が閉じられた場所である事を告げる。

    「……何、ここ……どこ…」
    「まあまあ。その話は後後。早く僕と遊ぼう?」

    相変わらず、部屋の中には楽しそうな声が響き渡る。
    見上げると、天井のスピーカーからその声は発せられてる事が分かった。
    白塗りの壁を手で触りながら、部屋の中を宛もなくうろつく。

    「…遊ぶ…?…分かんないよ。さっきから…何が起こってるのか…」
    「簡単だよ。君はただ『選ぶ』だけでいい。難しい事は何にもないよ?」
    「………選ぶ…?」
    「まあ、やってみれば分かるんじゃない?」

    声の主がそう言うと、白い壁には薄く切れ目が入り、四角く壁に穴が空く。
    ひらひらと白いカーテンが手招いているかのように、風になびいていた。

    渋々、カーテンを抜けて、部屋の奥へと進む。

    部屋に入ると、首から縄をかけてる人が二人いた。
    ライトと同じ年位の女の人と、自分と同じ年位の男子が、助けを求めるような目で僕を見ていた。
    状況が理解できないまま立ち尽くしていると、スピーカーから、よく聞き慣れた声がした。


    「さあ、第一問!!!君ならどっちを選ぶ?」

    17歳のもうすぐ死ぬが善を尽くしてきた女性
    10歳だが働かず遊びまわっている少年

    さぁ、考えて?アサヒ君?



    楽しそうに、僕の名前を呼ぶ不気味なその声は、何故か頭の中で聞こえた気がした。

    縄を切ることを思い付き、リュックから工具を取り出そうとすると、その声はより一層不気味さを増して、僕の耳元で囁いた。

    「ほらほら。ちゃんと『選ぶ』んだよアサヒ君。」

    そう聞き終えると、手が、まるで火で炙られたかのような感触で、ズキりと痛んだ。

    「……っ、痛っ…」

    痛みに滲んだ視界で前を見ると、今度は二人の人物の前に、変わった形のスイッチが見えた。
    直感的にだが、このスイッチでどちらかを選ぶのでは無いか。なんとなくそう思った。

    「助けたい方のスイッチを押すんだよ。よろしくね~あ。ちなみに、どちらも選ばなかった場合。」
    「…え…?」
    「君の大切な人がどうなっても知らないよ?……っ、あははは…っ…!」

    困惑する自分をよそに、その声はより一層楽しそうに笑っていた。
    本能的に、この場から逃げることは許されないと感じた。

    少年の元に駆け寄り、スイッチを観察する。
    すると、すがるような声で少年が自分に話しかけてくる。
    自分とさほど変わらない年の、無気力な目をした少年だった。

    「僕、何年もずっと親に監禁されてたんだ……」
    「………監、禁…?捕まってたって事…?」

    少なくとも、この少年は悪い人ではない。
    そんな気がした。手元のスイッチを見下ろす。

    「そんな感じなのかな…ようやく親のところから逃げ出して、やっと自由になれると思ってたのに…!まだ、俺…死にたくない…!助けて…!」

    「………あっ、ええと……そうだよね…。僕も…今、死ねって言われたら、出来ない……まだ、やりたいこともたくさんある…」

    少年の言葉を聞いて、大切な人の顔が頭に浮かんだ。
    少年と話をしてみたが、自分と年が近いこともあり、かなり話に共感できる部分が多かった。

    怠惰的でなく、これからたくさんの事を頑張りたい。
    と言っていた少年の言葉にも好感が持てた。

    何より、自分だったら、少年と同じ境遇に立たされたとき、きっととても怖いと思う。
    生きたいと思う。
    だからこそ、少年は自分をすがるような目で見ていたのかもしれない。と思った。

    「待って、私の話も聞いて…!!」

    そんな矢先に、耳に女性の声が飛び込んできた。

    「私、子どもがいるの…!!この間、小学校に入ったばっかりで…私、私がいなくなったら…あの子は…あの子はどうなるの…」

    「………え…?」

    涙ながらに懇願する女性の声に、思わず気圧されて、膝が崩れた。
    どうやら、話を聞く限りこの女性には、まだ幼い子どもがいるらしい。
    恐らくこの人は、誰かのお母さんなのだと思う。

    その後も、女性は、自分の子どもを気にかける話ばかりしていた。
    自分がこんな状況に置かれているにも関わらず、子どもの事ばかり話していた。

    話を聞いている間、上の空だったが、この人が本当に自分の子どもを愛している事が伝わってきた。

    「………お母さん……。」

    気が付くと、僕は昔の事ばかり思い出していた。
    一人ぼっちの部屋の中の、噎せ返るような重たい空気。
    何日も家を空け、最後にはいよいよ自分に会いに来てくれなかったお母さんの事。
    この人がいなくなったら、この人の子どもはどうなるのだろう…

    そんな事を考え出すと居てもたってもいられなくなって。
    無我夢中で、女性の傍らのスイッチを押していた。

    「…嘘だろっ、…!!俺…、まだ死にたくない…!!!助けて…!!」

    視界の傍らで、少年が首を吊られてもがいていた。
    ただ、ただ、僕はそれを見て、立ち尽くしていた。

    少年が動かなくなる頃には、僕は女性の腕の中で頭を撫でられていた。
    頭の中は真っ白だったけれど、ボロボロと涙が溢れて止まらなくなった。

    「…あのね。…子ども、大事にしてあげてね……寂しい思いをさせたらダメだよ…」
    「ええ、約束するわ!ありがとう…!」

    そう言うと、女性は僕の頭を撫で、時折僕の方を気にかけながら、ゆっくり踵を返していった。

    「感動の展開だったねアサヒ君。いやー、涙無しには見られなかったよ。」
    「……こんなの…」
    「…ん?」
    「…こんなの、ひどいと思う…!まだ生きたいと思う人を、こんな所に連れてきて、殺すなんて…!!本当に…」

    もう動くことは無いであろう少年を見つめて、座り込む。
    体からは、すっかり力が抜けてしまって、僕は立つこともままらなかった。

    「はいはい。このままボーッとしてても埒があかないし、次行こうか!アサヒちゃん!」

    スピーカーから聞こえる声は相変わらず楽しそうだった。
    人が死んだのに、不気味な位楽しそうな声だった。

    思わず反射的に、スピーカー目掛けて工具を投げつける。
    損傷を受けたスピーカーの音が、ひどく耳触りだった。

    「……許、さない、許さない許さない…!!絶対に!!…こんなひどい事、許さない…!」

    「うんうん。いい顔になってきたね!次行こうか!次!」

    すると、今度は空間全体が回るように暗転した。
    何が起こってるのかは分からなかったが、相変わらず白い部屋に囲まれた空間の中、気が付くと僕の体は天井から床に叩き付けられた。

    「…痛、っ……」

    帽子を深く被り直し、辺りを見回す。

    「さあ、どんどん行ってみよう!!第二問、どちらを助ける?」

    難病で苦しみながらも生きようとしている少年
    元気が有り余っていじめばかりしている少女

    目の前を見ると、自分と同じ年位の少年と少女が宙吊りの状態でこちらを見下ろしていた。
    二人の足元には、大きな刺のような物が並んでおり、恐らくあの場所から落とされると、棘が刺さる仕組みなのだろうと感覚で理解した。

    「……次に言うことは分かるよ…選ばないと、僕の大事な人がって…そう言うんだよね。」
    「そう言う事だね!物分かりのいい子は好きだよアサヒちゃん。」
    「……だったら、もう決めた…」

    迷うまでもない選択肢だった。

    地下都市には、怪我や病気で苦しい想いをしている人がたくさんいる。
    とにかくたくさんいる。手や足が無い子もたくさんいる。
    そういう子どもに、あるいは大人の手助けをするのが、僕の、いいや僕たちの仕事だ。

    最初にこの仕事を始めた時、ジュダスという人に会った。
    手や足が人間のそれでは無かったから、気になって問いかけた事がある。
    彼は深くは話さなかったが、色々な事情があり現在の状態になった。と言っていた。

    同時に、仕事のやりがいについても語っていた。
    工具の入ったリュックをぎゅっと抱きしめながら、その言葉の一部を思い出していた。

    「…足りない部分を補完して、支えてあげればいいだけじゃなくて………本当に支えるのは、心…」

    自分に足りない部分は、まさにそういう部分だと言われた気がする。
    少年を見つめて気付く。
    僕を見つめるその目は本当に、心細そうな目をしていた。
    同時に、その目には強く生きたがってる意思を宿している。
    僕にはそう見えた。

    「出来るかな……僕に…」

    勝手な同情であるのは分かっていたし、自分の判断が感情任せなのも理解していた。
    だけど、心細い想いをしている人に寄り添うのが、自分の仕事だ。

    そういう風に教えられたから。
    少年の方にあるスイッチを押そうとした矢先。
    隣で女の子が叫び出した。

    「待って!!待ってよ!私を助けて…!私、あの子達を守らないと…!まだ死ぬわけにはいかないの!お願い!」

    少女の声が響く。でも、多分心はもう決まっていた。

    「……ごめんね。僕もう、君を助けるつもりは…無いよ。絶対に。」
    「何で、そんな…!そんなの…!」
    「…だって…」

    懇願する少女を睨み付ける。


    『僕も昔、虐められていたから』

    『とても心細い思いをしたから』

    『だから、最初から君を選ぶつもりは無かったよ。』


    そう告げると、少女は何か言いたげな顔をしていたが、話を聞くつもりは無かった。
    次に出てくる主張なんてどうでも良かった。
    少女への憎しみももちろんあった、だけど何より、目の前の少年を助けることに僕は夢中だった。
    自分でも、自分の事は少しひどい人なのかもしれない。なんて思いながらスイッチを押した。

    すぐに少女の体は下に落下し、返り血が自分の元に飛び散った。
    少女の体は原型を留めておらず、まるで模型でも踏み潰したかのような状態で。
    鮮明に焼き付いたその景色が、自分を責め立てる。
    目の前にいる人物を殺したのは、紛れもなく自分だと。

    そう思うと、決心はしていたけれど、どうしてかとても怖くなった。
    不安な気持ちが沸き上がってきて、どくどくと鼓動が高鳴った。

    僕は、今…確かに…この手で、この子を…

    震える肩を抱き、踞る。ぐるぐると景色が歪む。

    胃をせりあがって来る吐き気に堪えられず、思わず踞って嘔吐した。
    何度も咳き込んで、嗚咽を上げながら噎せ返った。

    「……嘘だっ、…嫌だ…僕…………ライトっ、…嫌だ…よ……っ、…僕、僕もう、こんなの嫌だよ…っ…」

    朧気な意識の中で、何度も彼女の事を考えた。
    何度も名前を呼んだ。そうしないと、今にも自分が自分で無くなってしまいそうで、悲しくて苦しかった。


    『助けて』


    その言葉は誰にも届かなかった。

    この場所で助けを呼んでも、誰も僕を助けには来ない。誰も僕を見つけてはくれない。

    この感覚はまるで…

    昔の…


    どこかで少年の声が聞こえていた気がしたが、気が付くと自分は一人ぼっちだった。
    体を起こすと凄惨なその景色は無く、目の前には白いカーテンがひらひらとなびいていた。

    「いいねえアサヒ。君は中々に楽しませてくれるじゃないか!」
    「…楽しくなんかないよ…」
    「もう限界って感じかな?まあでも安心してよ!次で最後。この選択を終えれば、君は元の世界へ帰れるかもしれないよ?」
    「え?」


    元の世界へ…帰れる?


    その言葉だけが、僕の薄らぐ意識を鋭く突き刺した。

    ライトや、ジュダスや、ソーマや、皆がいる場所へ、帰れる?
    そう思うと、不安な気持ちや悲しい気持ちは、一瞬で吹き飛んだ。
    ただただ、無我夢中で元の世界へ帰りたいと願った。

    「…っ、帰る!!帰りたい!!皆のいる場所へ早く帰りたい!!」

    すがるようにそう叫んだ。

    皆のいる場所へ帰れる。
    そう思うと、重たい足取りはすぐに軽くなった。
    次にどんな選択が待っていようと構いはしなかった。
    さっきのような選択が来たって、構わない。
    誰を殺したってもう構わないとさえ思った。



    『皆のいる場所へ帰りたい』



    その意識だけが僕を突き動かした。



    だから、カーテンの先のその景色を見た時には
    僕はただ、その場所に立ち尽くすしか無かった。



    水槽の中で、大切な家族が囚われていた。


    『大切な家族に会えて良かったねアサヒ!』

    まあ、少なくとも二人とはお別れしなきゃいけないんだけどね。
    そう続けて、スピーカーの声は今まで聞いた中で一番愉快そうな声色をしていた。
    相変わらず、声の主は軽快に告げる。

    『第三問。

    君は誰を選ぶ?』

    選択肢は聞かずとも分かった。
    スピーカーに耳を傾けないまま、僕はただ、必死で水槽に殴りかかっていた。
    何度も何度もただ、夢中で水槽を殴り付けた。
    そんな僕を嘲笑うかのように、水槽の中にどんどん水が注がれていく。


    「…ダメだよ…!…出来ない…!!こんなの、こんなの!選べるわけない!!」

    「選べないんじゃなくて『選ぶ』んだ。君はさっきまでもそうして来ただろ?」

    「それとこれとは話が別だよ!だって、この人達は僕の大事な家族なんだ!!」

    『何も変わらないよ。』


    スピーカーの声は、そう冷たく告げた。
    同時にその発言の意図にも気付く。
    さっきまで自分が殺してきた人達にだって、家族がいたかもしれない。
    その人達を大切に思う人達がいたかもしれない。

    僕は、完全に忘れていた。

    あるいは、その事実から目を背けようとしていたのかもしれない。


    「僕は…、自分がされて嫌な事を、誰かにしていたって事…?」


    そう考えると、さっきまで熱くなっていた頭の奥が不思議と熱を失っていくのが分かった。


    『じゃあ、これは…僕の罰なんだね。』


    紡がれた思考は、水槽に注がれる水の音にかき消される。
    水槽を殴り付けた手が、痛みで少しも動かなかった。
    視界の端で眠る家族を見つめたまま、僕はボタンの方に歩いていった。

    本当は誰を選ぶか、なんて迷うまでもなかった。
    だけどきっと、誰かと話をしたら僕の意思は揺らいでしまう。
    誰かの目を見たら、選べなくなってしまう。
    きっと皆を見殺しにしてしまう。そう思った。

    だからこそ、迷ってる暇は無かった。

    だって、僕が一番好きなのは…


    『ライト…僕ね…ライトの事が好きなんだ…。』

    『ライトはきっと、気付いてないと思うけど…』

    『僕ね、すごく後悔してるんだ…』

    『ライトの事、好きにならなきゃ良かった。』


    手の震えが止まらない。

    涙が溢れて止まらなくなった。

    こんな発想に至った自分が怖くなった。



    「ライトなら、きっと、こうするよね…」

    そう呟いて、祈るようにボタンを押した。
    視界の端で自分の殺した家族を見つめながら、何度もただ、ごめんなさい。と吠えた。
    声を荒げて、何度もただ、その言葉を繰り返した。

    周りの音は何も聞こえなくなった。
    滲んだ景色の中で、ライトの悲しそうな視線がやけに目に焼き付いた。
    許して貰おうだなんて思わない。


    「ライトごめんね…ごめんなさい…僕を見つけてくれてありがとう…たくさん、愛してくれてありがとう…。本当に、本当に大好きだった…っ…だけど、ごめんね…、…………………僕も…すぐそっちに行くから………」


    目は、背けなかった。


    「ソーマも、ありがとう…お兄ちゃんみたいに優しくしてくれて…僕の事、大事にしてくれて…」


    目を背けたら、きっといけないんだと思った。


    だってこれは…


    声を殺して。座り込んで。
    僕はただ、幼い子どもみたいに泣き叫んでいた。
    失意の中、僕はただ未練がましく水に浮く二人を見つめ続けていた。
    紛れもなく、自分が殺した二人の姿を。

    「アサヒ」

    聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、思わずそちらを振り返る。
    きっと、怒られると思っていた。自分の選択を批難されると思っていた。
    それでも、構わなかった。

    だから、彼に自分の体を抱き締められた時は、状況が理解できなかった。

    「………え…?」
    「まさか、俺を選ぶとは思わなかった。」
    「……、…、なかった……本当は僕だって、そんな事したくなかったよ…!だけど、だけど…っ!」

    違う。
    言いたい事はそんな事じゃない。
    誰も悪くは無いんだ。
    家族を殺した自分に、誰かを責め立てる権利なんか無いはずだ。


    「ジュダスが生きててくれて良かった…」

    嗚咽を噛み殺しながら、言葉を紡ぐ。
    僕の背や頭を撫でるジュダスの手がどうしてかとても温かく感じた。

    本当は彼にしがみついて、精一杯泣き付きたかった。甘えたかった。
    だけど、それはライトを裏切るみたいで、何だかそれが申し訳なくて。
    僕はただ、彼の腕の中で震えて泣いている事しか出来なかった。

    「…まぁ、とにかく…感謝だけはしておく。お前の選んだ選択なら、俺は受け入れる。」
    「…………ジュダス…ごめん、僕……」

    差し伸べられたジュダスの手を取ろうと立ち上がる。

    「だけど」

    『お前がまさかそんな奴だとは思わなかった。』

    その瞬間に、僕はジュダスに突き飛ばされた。

    体は床に叩き付けられた。同時に、心はが深い深い奈落の底に落ちていくような感覚がした。

    暗くて深い水の底に、心が沈んでいくような感覚。
    それを受け入れるのがとにかく怖くて、恐ろしくて、ジュダスの背を見送りながら、僕は言葉を投げ付けた。

    「僕だって…、ジュダスを助けたくなんかなかった…っ!」


    本当の心は。

    どうだったか、分からない。


    「…っ、あはははは!!!可哀想なアサヒ!!これでまた君は一人ぼっちだね!!」

    「……っ、…。」

    「まあいいや、面白いものも見せて貰ったし、可哀想なアサヒ。さぁ、現実に帰ろうか?」

    『また遊ぼうね。』


    声の主がそう言うと、景色は段々と薄暗くなっていく、微睡む意識の中で、誰かの声が聞こえた。

    「アサヒ?アサヒ、どうしたのだ?このような場所に座り込んで…」
    「…ソーマ…?生き、てる…?あれ……?」

    気が付くとそこは、見慣れた町の道端だった。
    地面に落ちていたお菓子の袋を拾いながら、ソーマが不思議そうに僕を見下ろしていた。

    僕は、元の世界へ帰ってこれたのだ。

    「ソーマ!!ライトは無事!?ジュダスは!?」
    「どうしたのだ、アサヒ!今日は変わった事ばかり言うのだな?……チハハハ!安心したまえ!二人ならあそこにいるぞ!」

    ソーマの視線の先に目をやる。
    ジュダスとライトが二人で話をしている姿が見えた。
    その姿に思わず溜め息が溢れた。と、同時に安堵からか、ボロボロと涙が溢れてきた。

    そんな様子に気付いたのか、ライトが慌ててこちらに駆け寄ってくるのが見える。

    「アサヒくゃん大丈夫!?転んだ?もしかしてどこか痛いの?」
    「………………。」

    気が付くと、無意識にライトの手を掴んでいた。
    確かにライトはそこにいて、心配そうに僕を見つめていた。
    何だかそれが申し訳なくて、乱暴に涙を拭う。

    そうして、今度は何度も何度も、そこにいる事を確かめるように、じっと彼女を見つめた。

    不思議と体はどこも痛くなくて。
    自分の足元を見ながら、少し仮病をしてみようか…何て考えた。
    けれど、なんとなくそれも気が引けて、彼女に笑顔で返した。

    「ええと、うん…大丈夫、どこも…痛くないよ…」
    「そっか。良かった!アサヒくゃんはたまに無理し過ぎるからねー、疲れたらちゃんと言うんだよー?」
    「…んー、あっ、ええと、無理してないよ…大丈夫。」

    そう答えると、ライトは僕の頭を撫でて、ジュダスの元へと駆け寄っていった。
    二人の姿を視線で追いながら、とぼとぼとソーマの後を追う。

    何故かソーマにも頭を撫でられた。


    「む?これは何なのだアサヒ?」
    「………?」
    「何やら紙切れが……ええと…、今回は見逃してあげただけだからね。人殺しさん…?うーん?よく分からないな…」
    「あー、ええと、多分…誰かの悪戯だよ。放っとこう?」


    その人殺しは、僕なんだよ。

    なんて、そんな事言えるはずなくて。


    僕は、ただソーマの服の裾を握りながら歩き続けた。
    遠目に見る、ライトとジュダスの姿はとても嬉しそうで。
    多分、二人は気付いていないと思うけれど、傍目には仲睦まじい番のようにも見えた。

    夕日に照らされる三人の姿を目に焼き付けながら、色んな事を考えていた。
    さっきまでの悪夢もとても恐ろしいものだったけれど、とうにその記憶は頭の片隅に押し退けられてしまっていた。



    こんな日々がずっと続けばいいな。

    ずっと、皆と一緒に居られればいいな。


    そんな事を思いながら、僕は笑顔で皆の背中を見つめ続けていた。



    花に関するSS キャラクターの花に関するSSまとめ。

    ブルーベルの花が好きだった。
    君の買ってきたそれは私の好きな花。
    とても嬉しかった。
    でも、その花はよく見れば青いヒヤシンスだった。
    見た目は殆ど変わらないけれど、両者には違いがある。
    匕ヤシンスの花はいつも上を。
    ブルーベルの花はいつも下を向いている。君はきっとそれを知らない。

    『四谷みすず/ ブルーベル…変わらぬ心、寂しさ、不変。』



    家には大きな窓がある。
    毎朝、カーテンを開けて向日葵の花に日を浴びせるのが日課だ。
    強い日差しが似合うこの花も、不思議な事に最初は光が苦手なんだって。
    雨の日も晴れの日も。凛として真っ直ぐ伸びるその花を見て、考えるのは君の事で。
    君もこの花も、きっと太陽が似合うよ。笑顔でいてね。

    『篠宮ハイト/ 向日葵…私はあなただけを見つめる、愛慕、憧れ。』



    最近、帰路で繁殖している花がある。
    『弟切草』昔は毒や薬と使われていたらしい。医療が発達した今は必要が無い。
    名前も花言葉も縁起が悪く贈り物にも適さない。
    だがその花が、今も咲き続けているのは何故だろう。
    理由など無い。きっとこの不気味な花に人はどこか魅せられるのかもしれない。

    『弟切キョウヤ/ 弟切草…秘密、迷信、敵意、恨み。』



    地獄から抜けた先で、初めて見たのは桜の花だった。
    だから、私はこの花を見るのが好きだった。
    誰かとしての人生はそれなりに楽しかったように思う。
    風に流された花弁が落ちていく。
    きっと全ての花弁が散ったとき、私はこの世界からいなくなるのだろう。
    満開の桜の下で君の名前を呟いた。
    『使桜ユガミ/ 桜…純潔、精神の美。』


    僕の目は赤い色をしている。
    小さかった頃は、赤い色が嫌いだった。
    お母さんとは目の色が違っていたから。
    だけど、今は赤い色が好きなんだ。
    君とお揃いの色だから。
    お母さんにこの花を渡すことは出来なかったけれど。
    君になら、きっと渡せるような気がするよ。
    愛してくれてありがとう。
    『褥アサヒ/ カーネーション…愛情、感謝、愛を信じる。』



    スミレの花言葉は、小さな幸せ。と言うそうです。
    健気で可愛らしいあの子にはピッタリの花であると思います。
    花が好きでしたから、今は庭付きの家に住んでいて。
    そこに咲き誇るスミレの花に囲まれていると、とても幸せな気持ちになります。
    もう一度あの子に会えたら、名前を呼んであげたいな。

    『三渡川マリカ/ スミレ…謙虚、誠実、小さな幸せ。』


    イフェイオン。絵本の中で見つけた花だ。
    星の形をしているだなんて、貴方が笑っていた事を思い出す。
    星の無い夜には、決まっていつも貴方の夢を見る。
    私の世界にあるのは、いつも貴方の笑顔だけ。
    暗い夜空には、たった一つの光が丁度いい。
    星に願いを。私はずっと貴方の『夢』を見続ける。

    『スピカ/ イフェイオン…星に願いを。』



    今より昔の話。
    ボクはずっと四つ葉のクローバーを探していたんだ。
    それを渡したい人が居たから。
    だけど、とうとう見つからなかった。
    あれはそういう品種だったんだって。
    今ならきっと簡単に見つけられる。
    だけどもう、君には渡せないような気がするよ。
    気付くのが少しだけ遅すぎたね。

    『ニケ=アーデルハイト/ クローバー…幸運、約束、復讐。』



    夢か現か スピカちゃんの独白。

    夢を見た。
    とても怖い夢だった。

    暗い暗い夜に僕は拐われた。
    轟々としたパトカーのサイレンの音が頭に焼き付いて。
    その音を思い出す度、頭が割れそうになる。

    目を覚ますと、そこは知らない場所だった。知らない場所、知らない人。
    事情は説明されたけれど、やっぱりこの人達は知らない人。


    知らない家に拐われて、自分はこの家の子どもだと言われた。
    そんな事を言われたって、受け入れるのは容易く無かった。
    言いたいことはたくさんあった。
    だけど、両親と名乗るその人達と、目を合わせて話をする事が出来なかった。
    人の顔が、黒い何かで塗りつぶされていたのは生まれて初めてだった。


    顔が、見えない。

    声も、ノイズがかって聞こえない。

    この人達が誰なのか分からない。

    自分がどうしてここにいるのかも分からない。

    僕は知らない世界に拐われた。
    世界に一人取り残された。
    だから、与えられた役を演じる事しか出来なかった。

    そんな世界の片隅で、誰かに手を引かれた。


    これは夢なのだろうか。
    それとも、現実?

    『初めまして、現君。』

    その子の声ははっきりと聞こえた。
    顔もしっかりと見えた。
    自分と同じ目をした女の子が、確かに自分を見据えていた。
    差し出された手を離さないように、しっかりと握って、僕はどこかで聞いたその名前を呼んだ。


    『夢』


    そうして、僕と夢との共同生活が始まった。
    両親の声は相変わらず、ノイズがかりはっきりとは聞こえない。顔も見えない。
    対話がロクに出来ない僕は、夢にすがりながら。
    時には両親の雰囲気を感じとりながら、寡黙に振る舞うことしか出来なかった。
    家にいる間は、ずっと決まって夢を探し続けた。


    『彼女の存在は現実で。これは僕の夢なのか』
    『はたまた僕が夢で。彼女が現実なのか』


    カメラが止まる。息を整えて、台本を見返す。
    僕は今、異世界に迷いこんだ少年だ。それでいて少女でもあった。

    この家に来てから、演劇を習うようになった。
    どうしてか自分を隠せるこの時間は嫌いでは無かった。


    両親だった人達の葬式の日は何だか、色々な物から解放されたように感じた。
    両親だった人達が死んでしばらくして。
    彼女は本当の自分を打ち明けた。
    とても、衝撃的だったように思う。
    だけど、なんとなくそんな気もしていた。
    僕だって、同じような境遇を過ごしていたから。


    置いていかないで。

    そうすがるように。


    僕は、その日から…星になった。

    彼女に、そして彼という光に寄り添う星に。

    『置いていかないで。』
    『側にいて。』

    私も同じだよ。

    夢を見た後で、君はこんなに近くにいて。
    その光はいつまでもきっと私を照らしてくれる。


    台本を開いて微笑んだ。私は、ずっと私でいよう。

    言葉を選ぼう。
    相応しい顔色を。
    求められた声を。
    私が私でいるために。


    眩しく見えるその星も、自分の中の光には気が付けない。
    僕のいる場所は暗闇だ。誰も気付かない場所に僕は居て。
    ガラスのように粉々に砕かれた僕は、光を受けてキラキラと煌めいて。
    その影の中に僕はいる。


    鏡を見れば『スピカ』であり『性の不一致から女性として生きている』
    『空鏡現と云う男』という自分がいる。


    私は今日も傍観して自分を見つめる。
    朝目が覚めて、支度を終えて仕事に出掛ける。
    今日も私は誰かを演じる仕事をする。
    町行く人を見つめれば、誰とも目を合わせず、帰路に着く。


    そうして、彼女の顔を見ながら晩御飯を食べ、談笑を終えるとベッドにくるまる。

    私の世界に見えるのは彼であり彼女だけ。
    僕の持つ鏡に写るのは彼であり彼女だけ。
    世界は今日も変わらない。

    この夢から僕は永遠に目覚めない?
    それとも、自分の存在そのものが夢?



    夢か現か。僕には分からない。


    顔の見えない世界 スピカちゃんのとある一日の話。

    朝、いつも私は早起きだ。
    というよりも、体の中でのサイクルが妙にきっかりと出来上がっていて。
    いつも決まった時間に目を覚ます。
    身支度を整え、眠っている兄を起こしに行く。

    いつも通りの朝。
    いつも通りの景色。
    いつも通りのルーティン。
    ただ、その日はいつもと違っていた。

    兄の体を揺すって、異変に気付く。
    兄ではなく、自分自身の異変に。

    いつも見慣れていたはずの兄の顔が見えなかった。

    そんなはずはない。
    何度も心の中でいい聞かせては、ぐらぐらと目眩がした。

    顔が見えない。ただそれだけで、こんなにも心が揺らぐ。

    こんな不安な朝は初めてだ。


    応答する兄の声を聞きながら、早足に家を出た。

    やるべき事はやったんだ。
    今日くらい早く家を出たって問題はない。
    なりやまない鼓動の音を抑えつつ、町並みの中をかけていく。
    いつもと同じ景色。
    いつも通りの景色。


    今日の私は、何だか変だ。
    何がおかしいのかさえ分からない。
    食事も睡眠もしっかり摂っていたはずだ。

    仕事だっていつもと同じ程度だったはずだ。
    そもそも、兄に対してこんな症状が出たのは初めてだ。
    だから少し焦った。
    生まれて初めての事だったから。

    ショーウインドウに写った自分の姿を眺める。

    ガラス板の中の自分は、相当ひどい顔色をしているように見えた。
    息を整え、表情をなんとか組み立てる。
    自分は役者なんだ。
    この位の事は造作もない。

    いつものように今日も自分を演じよう。

    近くの飲食店に入り、摂り損ねた朝食をこしらえる。
    今日もこの世界の人達はいつも通りだ。
    いつも通りの人達だ。
    だから大丈夫。


    朝食を済ませ、放送局に足を踏み入れると、見知らぬ人に声をかけられた。
    ただ少し語弊があって。
    知ってる人だったけれど、あまりにも雰囲気が変わっていたものだから。
    それに気付けなかっただけで。

    度々そんな事を繰り返しては、声色を選び、頭を下げる。
    気にしないでなんて頭を撫でられた。


    楽屋に入り、台本に目を通す。
    今日の仕事は、ある番組のゲストだ。
    『表現』をテーマにした番組で時折、ゲストとして呼ばれる事があった。

    演技も歌も芸術も表現の一環だ。
    役者として呼ばれる事は何らおかしな事ではない。
    自分の想いを発信する事はあまり好きではなかったけれど。


    ただ、引っ掛かりを覚えたのはその番組の今回の特集だ。

    『表情』

    間違いなくそう書いてあった。
    どうしてか分からないけれど、少しだけ胸の奥がざわついた。
    出演時間自体はさほど長いものではない。
    今日もいつも通り済ませよう。
    そう思いながら、お気に入りのペンダントを首から下げた。


    番組の中のコーナーの一環で、似顔絵を描くことになった。
    要は写真と絵との顔付きの、それぞれの風合いの違いを楽しむとかなんだとか。

    そんな事を聞きながら、頭の中は上の空だった。
    色紙を渡されたが全く筆が進まない。
    描くべき所が全く描けなかった。
    臨機応変に思考を巡らせる。


    表情って『目に見えるもの』なのに、絵にするのはこんなに難しいんですね。


    困り気味の『表情』と声色でそう嘘をついた。
    対応は恐らく間違えていないはずだ。
    しばらくして、傍らに座っていた漫画家が話をし始める。
    その話に同調しながら相槌を入れた。
    番組自体は上手くいったようだった。


    番組を終え、ゲストの方と談笑する。
    幸いにも『素直』な感想に、好感を持って貰えたようだった。
    関係者に頭を下げ、差し入れなんかを貰いながら、次の仕事場へと向かう。
    今日もいつも通りだ。
    この後はある劇をこなす予定だ。
    確か、人に化けた狼を見つけるだとかそんなアドリブの劇だった。

    そういえば、兄と一緒の仕事だったんだっけ。
    そんな事を思い出しながら、遠くで聞き覚えのある声を聞く。

    特に気まずいことは無かったのだけど、反射的に体は物陰に隠れていた。
    兄から距離を取るように、足早に控え室へと向かう。
    衣装を着せられながら、ふと自分に与えられた役を思い出す。


    今日の自分は『盲目の町娘』だったはずだ。

    なんとも皮肉な話だと、少しだけ思った。


    スタッフに声をかけ、ヴェールの下にぐるぐると包帯を巻いてもらう。
    スタッフに手を取られながら舞台へと向かう。
    暗がりの世界は不思議と怖くなかった。
    むしろ少しだけ安心感があった。

    誰かの顔を見なくていい世界はこんなにも心地よい。

    案の定、舞台上で兄に声をかけられた。
    いつもと違う時間に駆け出すように家を出た自分を、兄は随分と心配してくれているようだった。
    脳を揺さぶるように優しく響くリヒトの声にどうしてか涙が溢れてしまいそうになる。

    リヒトの顔が見たい。

    心からそう思った。
    だけど、行動は相反した。


    今日の兄は『私の治療をしてくれている主治医』なのだという。
    基本的に、私とリヒトは関係性のある役を振られる事が多い。
    双子として呼吸の合った演技を評価されているからだ。

    今日の『私』は彼に庇護される立ち位置だ。
    ただし、今日の彼は『敵』か『味方』かは分からない。そんな劇らしい。


    何もかも、見えないものだらけだ。

    信じられないものだらけだ。


    リヒトに手を引かれながら椅子に座る。
    遠くに観客の気配を感じながら、耳を澄ます。
    他の出演者の声色を分析する。
    顔色は窺えない。

    いつも通りの世界。
    いつも通りの人達。
    いつもと変わらない景色が心地よい。
    握られた手を、ぎゅっと握り返して。
    静かに微笑む。


    『大丈夫』

    これがいつもの私なのだから。
    何度も何度も心の中でそういい聞かせる。
    傍らの彼もまた、きっと自分と同じ表情をしているのだろうか。
    何だっていいや。


    『私はいつも通りの私なんだから。』


    虹色の花 みすずちゃんとモモちゃん(よそのこ)の話

    この世界にはたくさんの人が居て。
    この世界の人は皆、人それぞれの考え方や、その人なりの世界があって。

    きっと皆、自分の中の世界を守るために。
    その世界を好きな色で染めるために。
    そのために、必死に生きているんじゃないかって思う。

    だから、他者の色が混ざらないように、時には心を閉ざしたりして。
    世界の中から、不要な色を排除していく。

    そうやって、バランスを取って生きている人間だっているんだ。


    地下都市のいつもの昼下がり。私は仕事の打ち合わせのため、クライアントの家を訪れていた。
    彩りの少ない部屋の中、当たり障りのないヒーリング音楽が室内に響いている。

    促されるがままソファーに座り、資料を受け取る。

    私は、ある企業のプロモーションイベントに参加する、モデルの衣装を考えて欲しい。との事で依頼を受けており、今回の打ち合わせの目的はいわば、双方のイメージ合わせといったところだった。

    クライアントの話に耳を傾けながら、必死にメモを取っていく。

    「…確か、企業名の由来は花の名前でしたっけ…」
    「そうですね。ヒヤシンスの銘柄の一種です。あそこに飾ってあるやつですね。」

    そう言ってクライアントは、棚の上を視線で示す。
    棚の上を見れば、恐らく両手で抱えきれないであろう大きさのガラスの花瓶から、溢れんばかりに色とりどりの花が顔を覗かせていた。

    「…綺麗…」

    花々のその鮮やかな彩りに思わず目を奪われる。
    確かこの会社のシンボルマークは虹色の花束のようなデザインだったはずだ。
    恐らく、この花に感銘を受けたのだろうと一目で理解した。

    「そう言っていただけると、嬉しい限りです。あの花は、社員皆で長い時間をかけて、ようやく作り上げた物なんですよ。花を自然に交配させるのが本当に大変で…」

    あまりにも綺麗な虹色のグラデーションに、きっと造花でも使っているのでは無いか。
    そう思わせる色合いの花々だったが、クライアントの話によればどうやらこの花々は、全て自然交配により作られた物であるらしい。

    「…思い出の花なんですね。あの、そういえば、この会社のロゴのモチーフって…あの花、ですか…?」
    「ええ。その通りです。」
    「あ!やっぱり!そうですよね。すごく彩りの綺麗な花で…多様性を大切にしてるこの会社にはピッタリだと思いますよ!」

    自分の中で、なんとなくインスピレーションは降りてきた気がする。
    クライアントに感謝の言葉を述べ、端末のペンをとる。

    「服は白のワンピースにして、ここの裾の部分を虹色から白のグラデーションにするんです!…それから……」

    端末を傾け、デザインを見せると、クライアントはとても満足そうに微笑んでいた。

    「…なるほど。虹は多様性の象徴ですしとても良いと思います。」
    「後は、モデルさんの雰囲気によって少しアレンジを…あれ?そういえば、モデルさんって…」
    「ああ、すいません。話していませんでしたね。モデルは、○○事務所の四谷エリさんという方にお願いしていて。」

    思考の中で、その名前は鮮明に。鋭く。それでいてとても大きく聞こえた気がする。
    聞き覚えのあるその名前に、まるで金槌で思いっきり頭を叩かれたかのような。
    そんな衝撃が、頭の中を果てなく駆け抜けた。


    「四谷、…エリ…?って…」


    まさか…そんなはずはない。

    ありふれた名字にありふれた名前。
    きっと、同じ名前のどこかの他人だ。

    ホワイトアウトした思考の中で、祈るように何度もそう言い聞かせた。

    そして、心の中での問答も虚しく、私は写真と向き合った。
    間違いなく、自分の想定していた人物がそこには居て。
    事態が呑み込めなかった。
    このまま、心臓が止まるんじゃないかって思った。
    例えようの無いぞわぞわとした感覚に、思わず言葉を失う。


    『四谷エリ』

    というのは、私の姉の名前だ。
    本当は『エリ』という名前に何か漢字があてられていたはずなのだが、随分と昔の事のため思い出せない。


    「………………。」

    見つめ合った写真の中で、彼女はとても魅力的で。

    その笑顔を見れば、何か、とても強い力でぐっと心臓を捕まれるような感覚がする。
    先ほど、花を見た時にも同じような感覚がした。
    だけど、どこか、寒くて、冷たい感覚。これは一体何なのだろう。

    思考の中で、途切れる事なく姉の名前が反響し続けた。
    彼女の写真はいくつか見せられたけれど、どの写真もとても魅力的で。

    なんだかそれが、とても怖くなった。

    「エリさんは、とても素敵な方なんですよ。どこか、人を引き付ける魅力があって…最近は…、の…で、…」

    思考が今にもフェードアウトしそうな私をよそに、クライアントは話を続ける。
    どうやらクライアントは彼女の熱烈なファンであるらしい。
    震えの止まらない手で、パラパラと写真を眺める。

    彼女を肯定して称賛する、その言葉の一つ一つが苦しくて、重くて、冷たくて。
    誤魔化すように、顔を伏せる。
    そうして、ただひたすら唇を噛んで涙を堪えた。

    「後は、メイクの雰囲気も大切ですよね。後日また打ち合わせを…」
    「そ、そう、ですね…。ええと…」

    正直な所。少し上の空だ。
    先程の事が気になってしまい、どうも落ち着かない。
    空気が重く、どこか息苦しい。

    やり取りを続けるが、自分の声色に段々と覇気が無くなっていくのが
    嫌でも分かってしまった。せめて笑顔で振る舞おうと意識をすれば、頭の中で
    彼女のあの笑顔が、残像のように浮かんでくる。

    そんな私の様子が気にかかったのか、クライアントが心配そうにこちらに声をかけてくる。

    「四谷さん…イベントまで日はあるので、焦らなくても大丈夫ですよ。」
    「あ、ごめんなさい!ありがとうございます…!その、私は大丈夫なので!ご心配なく!……」
    「…そうですか。では、よろしくお願いしますね。」
    「はい!任せてください!こ、こちらこそ、よろしくお願いします!」

    写真をあまり見ないように、そう意識をしながら、分厚い資料をなんとか鞄に詰める。
    そうして極力取り繕いながら、頭を下げてクライアントの家を後にした。

    自分では明るく元気なふるまいを心がけたが、案の定建物の外まで見送りをされてしまい、心配をかけてしまっている事実がただただ少し申し訳無くなった。

    しっかりしなくては。

    自分は、あの人の期待に。熱意に。全力で応えなければならない。
    余計な事を考えている暇はない。
    いや、考えるべきではない。
    頭の中でそういい聞かせながら、資料の入った鞄をぎゅっと強く抱きしめる。

    この例えようのない焦燥感や不安は、確実に今の私の世界には不要なものだ。
    それでも、あの写真の笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。

    靴を引き摺るように歩きながら、気が付けば、ぶつぶつと独り言を呟きながら、鞄に爪を立てていた。

    「大体、昔からアイツにはムカついてたんだよ…!ちょっと可愛いからって、いい子ちゃんぶってて…お父さんにもお母さんにも、他の人にも、馬鹿みたいに可愛がられて…」

    自分の母親と姉はモデルだった。父親は確か美容師で。
    まあ、いわばそういう家庭に私は生まれた。
    だから、物心ついた頃からモデル業みたいな事はしていたし、私も最初はそれが楽しかった。

    だけど、仕事をすると決まって皆同じ事を口にするんだ。

    『姉の方が可愛い』『姉の方がすごい』って。

    自分の外見の優劣とか、まだその時はよく分からなかったけれど、お母さんまで同じことを言い始めた時は、なんて最低な親だろうと思った。

    だけど、確かに今思い返せば、自分はダメな所だらけだった。

    まず、要領が悪かった。賢くも無ければ、愛想も無かった。
    気も強かったし、人と接するのも下手くそだった。

    だから気が付けばあらゆる場面で、周りは自分より姉をよく可愛がるようになっていた。
    当たり前の話だ。両親ですらそうだったのだから、きっと周りの人間は皆そうだった。

    昔、好きな男の子に初めて恋をして、告白した事がある。
    初めての恋は見事に玉砕で。フラれた挙句、姉の方が好きだとまで言われた。

    その時は流石に、八つ当たり出来るもの全部に当たり尽くして、翌日の朝までずっと泣き通しだったのを覚えている。

    その日から、此処にいると自分の人生は姉にめちゃくちゃにされる。
    自分の欲しいものは全部取り上げられる。そう確信するようになった。
    それが怖くて、たまらなくて、家を飛び出した。

    私にとって、家出をする理由はそれで十分だった。

    それから私は今に至るまで、姉のいない人生を過ごしていた。
    困ったこともあったけれど、それでも自分の人生は、思っていたよりは上手くいっていて。
    今に至るまで、自分の世界に姉が入ってくることは無かった。
    後一年出会わなければ、姉のいない人生を過ごしきれた。

    本当はそんな事は気にしなくたっていいんだ。
    今の自分にとっては、姉がどうして居ようがどうだっていいのだ。
    姉はもう、自分の人生においては赤の他人のようなものだ。

    だから、放っておけばいいのに。
    それでも涙が止まらなくなって、矢継ぎに流れる涙を絶え間なく拭い続ける。

    「何なんだよ…今になって…!あんなに、幸せそうに笑ってるなんて…」

    すれ違う人々が何か言いたげにこちらを見てきたけれど、構わずに泣き続けた。
    と言うよりも今の自分に、感情を制御出来るだけの理性は残っていなかった。
    そうやって考えに夢中で、余所見をしているものだから。

    段差に滑って転び、鞄の中身を派手にぶちまけた。

    ぶつけた背中を擦りながら地面を見れば、クライアントが資料と一緒に入れてくれていたのであろう、モデルの写真が嘲笑うようにこちらを見ている。

    それが、とにかく腹立たしくて、胸がざわついて。訳が分からなくて。

    「…、…ふざ、けんな…!ふざけんなふざけんな!!アンタのせいで、私の人生はめちゃくちゃだったんだよ…!」

    感情のままにそう吐き捨てた。
    地面に爪を立てながら、写真をぐしゃぐしゃに握り潰す。
    きっと自分は、端から見ると相当おかしな人に見えているに違いない。
    だけど、そんな事はもうお構いなしだった。

    今はただ、胸の奥で沸き上がる感情を、吐き出したくてたまらなかった。
    そうしないと、自分が自分でなくなってしまう。形を無くしてしまう。

    「…どうして…、私、何かした…?何で…何で今になって、こんなに惨めな気持ちになんなきゃなんないの…何で…」

    自分ですら、もう自分の涙の理由が分からなかった。
    ただただ、惨めで。悔しくて。情けなくて。
    訳が分からないまま、馬鹿みたいに泣きじゃくって。


    涙を拭う度に、自分の中で自分の世界の色が崩れていく。

    鮮やかな彩りを保っていた世界が、黒く深く色を滲ませていく。


    肺の辺りに大きな穴でも空いたみたいに、息が上手く出来ない。
    噎せ返るような苦しさが、喉をせり上がって、とめどなく溢れていく。

    地面を見つめたまま、立ち上がる気力が無い。
    多分、立ち上がった所で歩く気力がない。
    私は、ただ黙って、座り込んで、俯いている事しか出来なかった。

    座り込んでいる自分の背後から、足音が聞こえる。きっとこんな所に座り込んでいたら、邪魔だと怒られるに違いない。
    そう思い立ち、立ち上がろうとするが、体に力が入らない。

    その刹那、耳に飛び込んできた声に私は思わず息を飲んだ。

    『……みすずちゃん?』

    そんな訳がない。そんな事があるものか。
    こんな情けない姿で、惨めな姿で、あの子に向き合わなきゃいけないなんて、そんなはずはない。

    そう思いながら、恐る恐る背後を振り向く。

    天ノ川モモ。自分の予想通りの人物の姿がそこにはあった。
    自分にとってはある意味、この状況で一番会いたくなかった人物だったと思う。

    「その声、モモちゃんだよね…やっぱり…」
    「……………。」

    返答は無かった。その意図は分からなかったけれど、きっと状況が飲み込めていないのだろう。と推測を立てた。

    沈黙の中、拾った資料を鞄に放り込み、写真をぐしゃぐしゃにして、手の中に丸め込む。思考はほとんど回らなかった。

    モモにまで、心配をかけてしまっている。
    情けない姿をさらしてしまっている。
    その事実と向き合いたくなかった。
    早く。一刻も早くこの場から逃げ出したい。
    そんな気持ちがはやし立てていた。

    足に力を込めれば、さっきまでの無気力感が嘘みたいに簡単に立ち上がれてしまって。

    後は黙って走り去ればいい。そう思った矢先、モモにぐっと手を掴まれる。

    「…待っ…!みすずちゃん。怪我は……」
    「………大したことないよ。見て分かるでしょ!…………離して!よ、予定あるから…」

    掴まれた手なんて、振りほどこうと思えば簡単に振りほどけた。
    さっさとこの手を振りほどいて、逃げ出したかった。
    だけどどうしてか、体がそれを拒んでいるのが分かる。

    「予定って急ぎなん?もし時間に余裕があるなら、手当てだけでもして行きましょ。ちょうどここ、店の近くですし。」
    「…店の近く…?適当な事言わないでよ…」

    そんなはずはない。自分は仕事を終え、帰路に着こうと歩いていた。
    モモの言う喫茶店は、自分の向かおうとしていた場所からは反対方向にあり、むしろ遠ざかっていなければおかしい位で。

    だけど、辺りを見回せば、曲がり角の先には確かに喫茶店が見えた。

    「…え?…何で…私、確かに家に帰ろうとして…」
    「……?」
    「……そっか。モモちゃんの言う通りだね。」

    きっと自分は、気持ちを落ち着かせようとして。
    あるいは、拠り所を求めて。
    そうして無意識に喫茶店の方に向かっていたのだろう。
    その事実がただただ情けない。

    「……………………………………もう嫌だ…」
    「…みすずちゃん…?」

    今に限って、そんな自分に気付きたくなかった。
    そんな事実に気付きたくなかった。
    塞き止められていた感情が堰を切ったように溢れてきて。
    とっくに枯れ果てたと思った涙が、少しずつ頬を伝ってきた。

    「もう嫌だ…私、…めちゃくちゃカッコ悪いじゃん……変な事で機嫌悪くして、道端で馬鹿みたいに泣いて、転んで…親切にしてくれたモモちゃんにまで、八つ当りして…」
    「……………。」
    「……なのに、足が勝手に…喫茶店の方に向かってた。…きっと、甘えようとしてたんだ…モモちゃんは、私の事を否定しないから…全部分かってて、…」


    自分は、弱くて。ずるくて。幼稚で。情けなくて。
    それでいて劣等感の固まりだ。
    自分はこんな風になりたいんじゃない。
    違う。こんなのは違う。


    「何で私、こんな風にしかなれないんだろ…」

    考えれば考えるほど、ずるずると体から力が抜けていく。
    すっかり座り込んでしまった私に目線を合わせるように、モモはこちらを覗き込んだ。

    「それで。みすずちゃんは、そんな自分に嫌気が差した。って所なん?」

    どこまで悟られているのかは分からなかったけれど。
    モモはまるで、全て知っているとでも言いたげな表情と声色で。

    それが気にくわなかったのか、あるいは図星をつかれたからか、理由は分からないけれど、私はむしろ少し意地になっていた。

    モモに食いかかるように視線を合わせれば、優しく頬を撫でられる。
    どうしてか、それが尚更自分の中で気に食わなかった。

    「……みすずちゃん。人って、一人では生きていけないんですわ。だから、辛いときに誰かに頼るのは、悪い事なんかじゃ…」
    「…頼れない。」
    「…え?」
    「……頼れないって言ってるの!……何でも出来て、色んな人から好かれて…悪いけど。モモちゃんみたいな人には、私の気持ちなんて、絶対に分かんないよ…!」

    震えの止まらない手で、モモの服の胸倉をぐっと握り込む。

    視線を合わせれば、いつもの飄々としたモモの表情が、焦りからか、恐怖からか、段々と暗くなっていくのが分かる。

    「…!!」

    服を掴んだ勢いの最中、ふと、モモのマフラーの隙間から痛々しい傷が覗く。
    そうして、ふと思い出す。
    確か、彼女は自殺未遂のサイコセルを患っていたはずだ。
    不用意に感情をぶつけ、万が一追い詰めてしまったら、何が起こるか…
    なんて、こんな状況でも簡単に察しはついた。

    慌てて手を離し、必死に言葉を探す。

    「…違う…。ごめん…違うの…!分かってるんだけど…そうじゃなくて…!モモちゃんのせいじゃなくて…!私…」
    「……みすず、ちゃん…?」
    「…違うの。モモちゃんは何も悪くない…悪いのは全部私で、だから…」
    「…………………。」

    自分は今、自分が制御出来なくなっている。
    自分で自分が分からない。
    何を考えてるのか、何がしたいのか。

    「私が、しっかりしなきゃって…分かってるんだけど…」

    言葉が上手く紡げない。手が震える。
    今の自分は間違いなくモモといるべきではない。

    だけど、モモに踵を返して立ち去ろうとすれば、また足が動かなくなった。
    まるで自分は、どこに行けばいいのか分からない。とでも言うように。


    自分は何にもなれない。

    どこにも行けない。

    赤い色が青い色になれないように、自分は自分でしかいられない。


    だから今は、甘えている自分を振りほどけない。


    「…ねえ。みすずちゃん。少し助けを借りてもええ?」
    「…助、け…?何で今、私に……?」
    「ボク一人だと、ちょっと厳しいんですわ…」
    「…………………。」

    唐突な頼みに、思わず首を傾げる。
    モモに促された視線の先に、大きな花束のような物が見えた。
    どうやら話を聞くと、この花を喫茶店に持ち帰ろうとしていたらしい。

    俯きつつも渋々承諾して、大きな花を抱えながらモモの後を付いていく。

    本当は気まずくてたまらなかったけれど。
    もしかしたら、褒めて貰えるんじゃないかとか。
    どうしたって、そういう見返りに期待してしまう自分がいて。
    本当に最低だな。なんて思ったけれど…逆に言えば、この状況でモモに助けを求められて、断る理由の方が無かった。

    あるいはきっと、自分を許して、肯定して欲しくてたまらなかった。

    「……めちゃくちゃ嫌な奴だ…私…。」

    小さくそんな事を呟きながら、渡された袋の中を覗き込む。
    見た目の割には、そんなに重い荷物では無かったため、きっとモモなりに気を使ってくれたんだろうな…なんて思った。

    「…それにしても…何でヒヤシンスなの…?」
    「…嫌いな花なん?」
    「そういう訳じゃないけど…」

    思わず口から言葉が溢れる。
    渡された袋の中では、鮮やかなブルーのヒヤシンスがそれはもう窮屈そうに縮こまっているのが見えた。

    ヒヤシンス。今日はやけにこの花と縁があるようだ。
    どうしても、嫌な事を思い出してしまう。
    花ならいくらでも種類があるはずなのに…どんな偶然が重なればこんな事になるんだろう。

    そんな事を思いながら、とぼとぼと通りを抜けていく。

    「うーん…ほんまは、ブルーベルの花が良かったんやけど…」
    「ブルーベル…?私の好きな花だ…結構マイナーだと思うんだけど…なんかやっぱり、モモちゃんは博識だね。」
    「博識、というか…」

    モモが、少しだけ照れ臭そうに視線を逸らす。

    「…ああ。何でも無いです。どうもあの花、特定の場所でしか咲かないらしいくて…どこも取り扱って無かったんよ…だから、代わりに青いヒヤシンスを取り寄せて貰ったんです。」
    「…あれ?そうなんだ…知らなかった…」

    ブルーベルの花は、子どもの頃あちこちで咲いているのを見かけた記憶がある。
    でも、この辺りではどうやら入手すら困難であるらしい。

    「そっか…あの花って、この辺りには無いんだね。昔家の近所とかにいっぱい咲いてたから…考えたことも無かった。」

    仕事柄、各地を転々としてきたものの、そう考えると自分は随分遠くまで来たんだな…なんて思った。

    花を抱えたまま、静まり返った喫茶店の店内に足を踏み入れる。
    明かりの無い店内に、シャッターの隙間から差し込む日が、まるで夕刻のような程よい暗がりを作り上げていた。

    物静かで落ち着いた様子の店内。珈琲の香り。
    さっきまでの焦燥感が嘘のように、気持ちが安らいでいく。
    もうとっくに、体がこの場所の居心地を覚えてしまっている。

    「…やっぱりここは落ち着くね。………なんか…あのさ。さっきは、ごめんね。完全に私の八つ当たりだった…」
    「気にしてないですよ。ボクの方こそ…嫌な気持ちにさせてしもたみたいですし…堪忍な。……それより、怪我の手当しましょか。」
    「え?…あ。怪我…そういえば、そんな事言ってたね。ありがとう…」

    一言ぐらい、言い返したっていいのに。
    よりにもよって、年下に八つ当たりするな。とか、もう少し大人になれ。とか。色々。
    むしろ今は、めいいっぱいに罵倒して欲しい位で。

    なのに、モモはいつもそうだ。
    いつもこんな私に寄り添って、気を使ってくれている。
    自分の方が五つも年上なのに、いつもいつも世話になってばかりだ。

    複雑な気持ちを感じながらも、促されるがまま椅子に座り、手当てを受ける。

    「背中、結構擦りむいてますよ…」
    「…そうなの?でも、擦り傷だけなら、別に適当に手当てしちゃっていいよ。」
    「…あ、ここも…あー…まあ、あれだけ派手に転んだら…こうもなりますわな。」
    「…まあ、あれだけ派手に転んだらね…って、ちょっと待って!?見てたの…?」

    動揺する私をよそに、どうしてか、モモはただ黙っていた。

    背中越しに、モモの手の感覚が伝わってくる。
    様子は見えなかったが、淡々と背中に何かが貼られていくのが分かった。
    その手際からどうやら、怪我の手当は随分と手馴れているようだ。

    「結構慣れてるんだね。モモちゃん、そんなにやんちゃするようには見えないんだけど…」
    「…あー…そうやな。エト君とか、よう怪我してくるんですわ。」
    「ああ。なるほどね!納得…じゃあ、モモちゃんの周りって、怪我の多い人ばっかりって訳だ!大変そうだね…」
    「…そんな所です。…ほんまに皆揃って、無茶ばっかりしますねん…。」

    呆れたようにつぶやくモモの声色が、どこか温かい気がした。

    「…終わりましたよ。」
    「モモちゃん流石ー!ありがとう!…色々迷惑かけちゃったね。」

    少しだけ伸びをして、立ち上がる。
    厳重に手当てをされているのか、痛みは無かったけれど、背中に、テープの張り詰めるような感覚がした。

    横目にモモを見れば、淡々と救急箱を片付け、お店の開店準備に取り掛かっていた。
    辺りを見回し、何か手伝えることは無いかと思考を巡らせる。

    「…モモちゃん?あのさ、この花って、飾っちゃっても大丈夫?」
    「…ん?ああ。お願いします。みすずちゃんやったら、センスもいいしレイアウトは任せますわ。」
    「相変わらず褒め上手だねー!ばっちりだよ!任せといてー!」

    モモに乗せられるがまま、持って帰って来た花を両手でしっかりと抱え、花瓶に移す。
    店内は少し暗がりではあったが、それでも、鮮やかなブルーの花々が、溢れんばかりに花瓶の中から顔を覗かせていた。

    花の向きを整えながら、様々な角度で何度も花瓶を見返す。
    店内の照明を付ければ、暖色の淡い照明と相まって、花の色合いの鮮やかさがより一層映えて見えた。
    何だかんだでこの店の内装には、寒色系の色の花がよく馴染んでいるような気がする。

    「青い花ってさ。確かほとんどが人工的に作られているんだよね…」
    「…そうです。確かその色の花は、三種類の花を交配して作られているらしいですよ。」

    照明の角度に花瓶の配置を合わせながら、どこかで得た知識を、気まぐれにモモに投げかける。
    スムーズに返答が返ってくる辺り、やはり彼女には敵わないなと思った。

    「そうなんだ…なんかすごいよね。元々存在しない色の花も、他の花の色を混ぜて作っちゃえる訳なんだから…」

    背後で、テーブルや椅子を引きずる音が聞こえてくる。
    手を貸そうとそちらを振り返れば、モモが重々しい声色で呟く。


    『人間も同じですよ。』


    やけに重みのあるモモの声色に、思わず息を飲む。
    店内に飾ってある絵画をじっと眺めながら、モモは静かに言葉を続けた。


    『皆、それぞれ自分の色を持っていて。違う色を持った誰かと交わった時、世界に色が増えていく。だから人間の心の世界は広い。』


    「モモちゃんはまた随分と、難しい事言ってるね。」
    「…ボクじゃないですよ。この絵画の作者の言葉なんです。」

    窓から差し込む日がモモの横顔を照らす。
    重々しさを感じる声色をよそに、その表情は少しだけ綻んでいるように見えた。

    「……そこのヒヤシンスの花なんて、まさにそうやないですか…」
    「花…?」

    モモに促されるがまま、花瓶の方を見る。

    アンティーク調の淡い色合いで統一された店内の一角では、相変わらず、涼しげな青い色のヒヤシンスの花がその輪郭を浮かべている。

    「その花も、最初は赤い花とかだったのかもしれない。だけど、他の色の存在があったから、こうして今は青い花にだってなる事が出来たんじゃないかって。」
    「……人間も、そんな風に変われるかもしれないって事?」

    モモが静かに頷く。

    「だって現に、うちがそうやったから…鈴ちゃんに会えて、ほんまに世界が変わった。それに、救われた。」
    「…そう、なの…?私、どっちかというと、スミレちゃんに迷惑かけてばっかりというか…」
    「迷惑やなんて思ってへん。鈴ちゃんは、よう頑張っとるよ。」

    自分は、彼女に会って何か変われたのだろうか。
    自分の世界は何か変わったのだろうか。
    彼女はきっとこれからもっと変わっていくんだと思う。
    だけど、自分はもしかしたら…ずっとこのまま変われないのかもしれない。

    視界の端で、あの花が目に映った。あの鮮やかな色合いを持った花。
    どこかで多様性の象徴とされていたヒヤシンスの花。
    あんな風に、自分も新しい色を見つける事が出来るんだろうか。

    「私は、スミレちゃんに会えて、ううん…今の私って何か変われたのかな?」
    「…………鈴ちゃん。前に言うとったやろ。片想いの人が居て、名前すら聞けなかったって。でも、うちにはちゃんと気持ちを伝えてくれたやないですか。それだけで、十分だよ。」

    そんな彼女の言葉に少しだけ、励まされた。
    いや、気付かされた。といった方が正しいだろうか…。

    確かに、ダメな所だらけの自分だったけど。
    彼女にはちゃんと気持ちを伝える事が出来た。
    何より、彼女のような人間が自分の気持ちに応えてくれた。

    もしかしたらきっと、彼女の言う通り、今はそれだけで十分なのかもしれない。

    「そっか…そうだよね。私、ちゃんと頑張ったから…だから、スミレちゃんは私の気持ちに応えてくれた。私の事を選んでくれた。」

    彼女は、自分の人生において、自分の力で手に入れた。大切な人。

    私自身に、生まれて初めて好きだと言ってくれた人。

    自分の世界で、たった一人だけ。自分の全部を打ち明けられる人。背中を預けられる人。

    『なんかさ…こんな私を、好きになってくれてありがとう。』

    テーブルの上を整えていた彼女を、背後からぎゅっと抱きしめる。
    制御なんて利かなかった。ただただ今は、彼女が愛しくて、恋しくて。
    とても、大切で…この気持ちは、自分の言葉じゃ、きっと伝えられない。
    そう思うと、体が勝手に動いていた。

    「…うちも、って……鈴ちゃん…!?…何、急に…」

    いつもの飄々とした調子はどこへやら。腕の中で、珍しく彼女がたじろいでいた。

    自分は、確かに、弱くて。ずるい。
    それでいて、幼稚で。情けなくて。
    時々、甘え癖があって、単純で。
    きっと他の人より劣っている所だらけだ。

    だけど、そんな自分でも、認めてくれる人がいる。肯定してくれる人がいる。

    「スミレちゃんみたいな人が、私の想いに応えてくれるだけで。ほんとに嬉しかったんだ。正直、それだけで十分というか…いいよ。私を無理に支えなくても。」
    「…そうは思いませんよ…。想いに応えたからには、うちはずっと鈴ちゃんを支えていきたいんよ。それに…」
    「…人と人とは支え合って生きてくものだから?」
    「え…?」

    きょとんとしている彼女をよそに、微笑みを返した。

    「分かるよそれぐらい。だって、スミレちゃんはそういう人だからね。」


    この世界にはたくさんの人が居て。
    この世界の人は皆、人それぞれの考え方や、その人なりの世界があって。

    皆それぞれの世界があるから、それぞれの色がある。
    誰かがいるから、新しい色を見つける事が出来る。

    自分は結局自分にしかなれない。

    赤い色が青い色になれないように、自分は自分でしかいられない。


    「スミレちゃんとなら…私も、いつかあんな風に笑えるのかな?」
    「今も十分幸せそうに笑ってるやないですか」
    「?」

    言われるがまま、窓ガラスに写った自分の顔をふと見つめ直す。
    綻んだその表情は、自分が羨望したあの笑顔とは違っていたけれど。

    だけど、それでも十分なのかな。
    なんて、少しだけ思った。

    一緒に店内を整えて、席に着く。
    めちゃくちゃになった荷物の中から丸めた写真を見つけては、それらを夢中で元の形に戻そうとした。

    そうしたらきっと今度は、自分の心と向き合えるんじゃないかって。
    なんとなく、そんな気がしたから。

    「……。」

    昔から、自分に自信が無かった。
    仕事にのめり込んで、たくさんの人に認められて。
    そうしたらいつかこの気持ちも無くなると思っていた。そう信じていた。
    だけど、ずっと、私の中での劣等感は消えなかった。

    容姿は姉より劣っていて。せめて内面ぐらいはって思ってたけれど。
    実際の自分は気が強くて、我が儘で、幼稚で、賢くなくて、時々人任せで、優しい人には甘える癖があって。
    ダメな所だらけの自分を知ってる癖に、それを認める事が出来なくて。

    そんな自分に向き合うのがきっととても怖かったんだ。

    店内も賑わってきたのか、時折客の談笑が聞こえてくる。
    ふと店内を見回せば、印象深いあの花が照明に輝いて堂々と佇んでいた。

    目的の花じゃなかった。モモはそう言ったけれど。

    「でも十分、綺麗だよね。」

    そう呟いて、端末にペンを走らせた。
    彩りに溢れたあの花を思い出しながら。
    眩しく輝いていた、姉のあの笑顔を思い出しながら。
    仕事をしている愛しい人を時々、視線に捉えながら。

    私の世界の色は、今日も明日もきっと大きくは変わらない。
    だけど、いつもより少しだけ眩しい彩りに気が付いた。
    色が増えたことに気が付いた。
    だからきっと、これからもっと世界は変わっていくはずなんだ。
    期待してもいいんだよね。

    ふと傍らの絵画を見れば、見上げた空には鮮やかな虹がかかっていた。


    模倣 ハイト君の過去のお話。

    昔、俺には家族がいた。

    宗教にのめり込んでいた母。
    癇癪持ちの父。父と母の仲はとても円満に見えた。
    二人が不仲な場面をあまり見掛けた記憶はない。
    俺はただ、なんとなくそこに居た。

    母からはたくさん愛情を受けたけれど、母のそれは不特定多数の誰かにも向けられている物だった。
    母は誰にでも自己犠牲的で優しかった。

    父は無口な人で、仕事が多かったから。
    あまり会話や交流は無かったように思う。
    父は自分を少しだけ苦手に思っているような印象を受けた。

    自分の家庭は、一般的には平穏な家庭であると思う。
    だけど、家族としては少しちぐはぐだったんじゃないかって。

    俺はただ、父と母が幸せそうに過ごす毎日を傍観し続けた。
    それがなんとなく幸せだった。
    不満は無かったし、俺もそれなりには満たされていた。
    それでいいんだと思っていた。

    夜、母と一緒に教会に足を運ぶのが好きだった。
    時折、眠い目をこすりながら。
    夜の町を母と歩いた。
    教会に出向いた母はたくさんの子どもや大人に迎えられて。

    この場所では誰も彼もが幸せそうに見えた。

    確か、教会に居た神父はこう言っていたと思う。

    『この場所では皆が家族』なのだと。

    その言葉の意味は、幼かった俺にもなんとなく理解できた。
    ああ、そうか。家族とは、形じゃなくて心で繋がるものなんだな。なんて。

    だけど俺には、心の繋ぎ方が分からない。

    だから、母を真似する事しか出来なかった。
    時折ひどく疲れてしまう事もあったが、懸命に母を模倣し続けた。


    誰かの負担にならないように。

    誰かの助けになるように。

    求められたら応えて。受け入れて。


    そうしたら、この心の中の違和感も無くなって。
    いつか俺や両親も、本当の家族になれるのかな。
    なんて思っていた。なれたのかも、しれなかった。

    母が亡くなったのはそんな矢先の事だった。
    母を失った父は、まるで別人のように変わってしまった。
    きっと本当は、俺が支えるべきだったんだ。
    だけどこんな時、家族ならどうするべきなのだろうか。
    分からなかった。何度も戸惑って、迷った。

    そんな俺にますます父は強く当たるようになった。

    そうしてある日。それは起こった。
    きっかけはほんの些細な事だったように思う。
    父と激しく争った最中、身の危険を感じた俺は、反射的に父を突き飛ばしてしまった。

    手や顔を濡らした、熱い血液の感覚が。
    俺を責め立てる父の声が。
    荒れ果てた部屋を包む鉄のような匂いが。
    俺は未だに忘れられない。


    俺はあの日、父を殺してしまった。

    大切な、家族を殺してしまった。


    法的に罪を問われる事は無かったけれど。
    それでも俺の中には、その事実がただただ重くのしかかった。

    長い間、息をするのが苦しかった。
    自分が息をするための酸素が、世界にはあって。
    俺が生きていくための長い時間がそこには存在して。


    ただ、それだけが苦しかった。

    俺は、どうして生きているんだろう。


    ある日道端で倒れ込んだ俺は、遠くに見える家族連れを見つめていた。
    幸せそうな父親と母親、楽しそうに会話をしている兄弟の姿。

    俺の欲しかったはずの何かがそこにはあって。

    返り血にまみれた手を、無意識に伸ばして。

    そうして気が付いたのは。









    今、俺の手を握り返してくれる家族は、この世界にはいないという事だった。



    雨夜の待ち合わせ ハイト君とレオちゃん(よそのこ)の話。 





    地下都市には、定期的な周期で雨が降ることがある。地面の下で雨が降るなんて、不思議な事だと思うかもしれない。

    だけどこの雨は、自然や生態系の保持に必要なものなのだと、学校で教わった。

    「……今日は、あまり人が来なさそうだな…」

    教会の扉を解錠し、玄関先のタイルを磨く。俺は、夜になると毎日この教会に足を運んでいた。他の仲間より少し早くここに来て、玄関の掃除をするのが日課だった。


    雨の日は嫌いだった。

    あの出来事が起こったのも、雨の日の夜だった。

    俺の父親が亡くなったあの夜の事…


    そんな事を思い出しながら、上の空で作業をしていると、不思議な形の人影がこちらに駆けてくるのが見えた。

    そうして、その人影は瞬く間にこちらに近付いてきて。

    「…今日の夜から雨なんて、聞いてないよ…」

    溜め息をつきながら、玄関先に飛び込んできた。
    どうやら様子を見るに、先ほどの雨に降られ、雨宿りに来た人物のようだ。

    飛び込んできたのは、猫の耳のような物がついているフードを着た女の子だった。

    様子を見るに、彼女はかなり慌ててこちらに来たようで。ぜえぜえと息を切らし、肩で呼吸を続けている。
    フードの隙間から覗く金色の髪から、雨の滴がポタポタと落ちている。見覚えのある声色と風貌に、彼女が自分の知り合いであった事を思い出す。

    「こんばんは。雨の事なら、昨日の夜放送で言ってたよ。」

    いつものように何気なく、そう声をかけた。何て返事が来るかは分からなかったけれど、きっとムキになりながら、悔しげな事を言うと思っていた。

    だから、最初は少し戸惑った。

    だって彼女の口から最初に出た言葉は

    「初めまして」

    だったのだから。

    もしかしたら、俺の知っている彼女によく似ているだけで、他の家族なのかもしれない。そんな事を思いながら、玄関先に積み重ねていたタオルを取りに行き彼女に手渡す。

    「ごめん、初めまして。知り合いと間違えたよ。」
    「いいよ。こっちこそ急に押し掛けちゃって…ごめん。雨が降るって知らなかったから。ありがとう。」
    「とりあえず、髪、拭いた方がいいと思う。風邪引くかもしれないし。」

    そう言うと、彼女は静かにこくんと頷き、フードを捲る。その横顔を見て、俺はただただ唖然とした。

    間違いなく、彼女は俺の知り合いである、レオ=ドゥンケル その本人だった。

    俺に気付いていないのだろうか…。とも思ったが、特に変装をしているわけでも、変わった格好をしているわけでもない。

    「レオ…?」

    何気なくそう呼び掛けると、彼女が小さく首を振ったのが分かった。何かしらの事情があるのだろう。あまり深くは追求しないでおいた方が懸命だ。

    玄関先に彼女を立たせているのも申し訳なくなり、俺は促すように彼女を教会の中へと招き入れた。

    椅子に深く座り込む彼女の懐から覗く、薬袋を見て、先程の態度の理由を察する。

    「初めまして。俺は、篠宮ハイトだよ。よろしく。」

    自己紹介と、自分が行ってる活動について彼女に伝えた。

    警察関係者にあまり情報を流すのは少し気が引けたが、彼女が持っている薬袋を目にした事もあり、そこまで警戒はしていなかった。

    何より、単純に俺は彼女の身を案じていた。雨の中外に出すのも気が引ける。

    つまりは、ここに居て貰える方が俺としても気が楽だった。

    それから、この状況において、お互いに疑心暗鬼と言うのも少し気まずかった。

    だからこそ、伝えるべき事は伝えておいた。
    彼女はしばらく、何か言いたげにしていたが、すぐに言葉を飲み込み、口角を上げた。

    「そうか。僕は、『 』よろしく。」

    営業名なのだろうか。聞き馴染みの無い名前を、忘れないように何度も頭の中で繰り返す。

    教会にあったローブを差し出すと、彼女はありがとうと会釈をした。別室を指差し、彼女に着替えるように促す。

    あくまで主観ではあるが、普段よりも彼女が従順であると感じた。それから少し、何かに怯えているような様子も見てとれた。

    「ありがとう、ハイト。助かったよ。」
    「……別に。たまにそういう子どもも来るし。それより、体調は平気?向こうにベッドがあるから、少し休んでたら?」
    「大袈裟だよ。そこまでヤワじゃない。」

    そう言い捨てて、彼女はすたすたとこちらに歩み寄って来た。手を掴まれ、思わず身構える。

    「…さっきは聞きそびれたんだけど…ハイトは、何でこんな事をしてるんだ…?」
    「…何でって…必要としてる人がいるから。それだけだよ。」
    「……………。」
    「『 』?」

    名前を呼んで聞き返すと、彼女は俺の手を離し、何か言いたげに不機嫌そうな顔をした。

    俺の横をとぼとぼと通りすぎる彼女を横目に、教会の時計に目をやる。まもなく、雨が止む時間だ。

    一時間程の時間のほとんどを沈黙の中で過ごした。雨が降っていたため、予想はしていたが、こちらに足を運ぶ子どもの姿は無かった。恐らくこれから、こちらに出向く子どもが殆どだろう。

    教会の鐘が鳴ると同時に彼女が俺の服の裾を引く。

    「今日はありがとう。助かった。これ、明日返しに来るよ。」

    ローブを指差して、『 』が笑う。先程の弱々しさは抜け、いつも通りの余裕綽々とした様子の彼女がそこにいた。見たところ、特に顔色も悪くは無く、俺は心の中で安堵した。

    「返さなくてもいいよ。たくさんあるし。それより…帰るの?」
    「いいや。僕にはまだすることがあるのでね。少し、寄り道をして帰るよ。」
    「分かった。気を付けてね。」

    軽やかに踵を返して、早足に玄関に向かう彼女の腕を掴む。

    「!?」

    突然の事に立ち尽くしてる彼女の体を引き寄せ、口を塞いだ。微かに震えている彼女を見下ろしながら、声のトーンを下げ、耳元で冷たく囁く。

    「もうここに足を運んじゃダメだよ。レオ。」

    そう忠告をし、手を離す。慌てて俺から距離を取る彼女に背を向けて、俺は教会の廊下へと足を進める。

    背後の足音に耳を傾けると、少し立ち尽くした後、彼女が教会の外へ走り去っていくのが分かった。

    また、夜に俺と彼女が此処で出会う事はないだろう。半ばそう確信した。

    だからこそ、次の日の夜、彼女が教会の入口に寄り掛かっていた時は、はっとした。

    彼女の性格から察するに、此処に足を運ぶことは無いだろうと思っていたから…全くもって予想外の出来事だったと言える。

    「レオ?……何で此処に来たの?」

    彼女に歩み寄りながら、追求する。すると、次の一言もまた。

    「初めまして」

    だった。

    動向が窺えないまま、たじろぐ俺に、彼女が歩み寄り声をかける。

    「君は、ここで何をしているんだい?」

    尚更、訳が分からなくなった。ここで何をしているかは、昨日間違いなく説明をしたはずだ。

    彼女の顔色を窺うが、特に嘘をついてる様子は無い。

    そうして、俺は昨日の夜の事を思い出した。昨日の夜、雨の中教会に足を運ぶ子どもはいなかったが、彼女は雨の中傘も持たずに外出していた事。

    それから、現在。昨日、俺がしたはずの話の内容を再び追求している事。忠告をしたにも関わらず、此処に足を運んでいる事。

    何より、初めまして。という言葉から、彼女は夜に体験した記憶が無いのではないだろうか。と推測を立てた。

    サイコセルの記憶障がいでそのような症状があると、どこかで聞いたことがある。

    だからこそ。俺は笑顔でこう返した。

    「初めまして。俺はハイト。篠宮ハイトだよ。それからここは……」

    教会の事、俺が行っている活動の事を伝えると、昨日と同様に彼女は驚いた様子を見せ、何かを言いたげに言葉を飲み込んでいた。

    彼女を見下ろしながら少し距離を詰めると、今日も昨日と同様に懐に薬袋を忍ばせている事が分かった。恐らく、彼女は夜の町に出てはこれを売って歩いているのだと分かった。

    弱味を握っている余裕からか、彼女の記憶が消えてしまうという安心感からか、昨日よりは気楽に会話をすることが出来た。

    軽口を叩き合うような会話をしていると、不安げな表情をしていた彼女から、先程よりも安心している様子が窺えた。

    空の色が先程よりも深く暗さを増すと、古びた懐中時計を見ながら、彼女は少し考え込んでいた。

    「じゃあね。この辺りで失礼するよ。今日はやることがあるからさ。」
    「…そっか。気を付けてね。『 』」

    俺が声をかけると、懐の薬袋を服の奥に隠すように彼女は踵を返す。

    「ハイトの話。忘れないうちに帰るよ。」

    そう呟いて、俯いたまま彼女はとぼとぼと歩き去っていった。

    その背中を見て俺は、明日の夜も彼女は此処に足を運ぶだろうと確信していた。

    案の定。次の日の夜も、この場所で彼女と出会った。

    初めまして。の後、彼女は俺に毎日違う名前を名乗った。俺も毎日、初めまして。の後、この教会の事、活動の事を説明した。

    そうして、少しだけ雑談をして、お互いにそれぞれのやるべき事を果たしに行く。そんな事を、何日も何日も繰り返した。

    ここだけの話であるが、彼女は俺に好意を持っている。そのためか、彼女の態度は少しだけぎこちなく見える事が多い。だが最近は、ぎこちなさが少し抜けたように思える。

    夜の記憶は無いようだが、恐らく、感覚的な物は覚えているようで、彼女と話す度、日に日に声色や態度が変わっているような気がした。

    いつもと同じ夜。彼女に会うために教会に足を運んでいると、路地裏で蹲っている子どもを見つけた。

    「君、大丈夫?怪我は?」

    子どもを介抱すると、懐から薬袋がいくつか地面に落ちる。慌ててそれを拾い上げる子どもを見ながら、思わず背筋がぞくりと震えた。

    様子を窺うに、恐らくこの子どもは、薬を売っていたが、それを客に強奪をされたのだと察した。夜の町は決して治安が良いという訳ではない。

    こういった事件などは特別珍しくもないのだ。

    気が付くと、俺とその子どもの周りにぐるりと野次馬が囲んでいた。どうやら、話を窺うに今夜は各地でこのような事が起こっているらしい。

    野次馬の一人が子どもの介抱をし始めたのをきっかけに、俺は、人と人の間を抜け、夜の町に駆け出した。彼女の名前を呼びながら無我夢中で走り回った。

    錯乱していた。

    焦っていた。

    だから気が付かなかった。

    当たり前じゃないか。

    教会の前で相変わらず彼女は、俺を待っていた。

    そうして、次の言葉は

    「初めまして」

    いつもそうだったじゃないか。

    いつもこの場所で、彼女は決まって待っているんだ。そう考えた矢先に浮かんだのは、安心感ではなく恐怖だった。

    薬の売買を行っている彼女が、きまってここに足を運んでいる事を知っている人間がいるかもしれない。既に目をつけた人間がいるかもしれない。恐ろしい事を企てている人間がいるかもしれない。

    ズキズキと頭が痛み出す。

    息を乱して踞る俺に、案の定彼女は駆け寄ってくる。その手を引ったくり、教会の物陰に彼女を連れ込んで押し倒した。

    「ハイト!?何…」
    「レオ…っ、レオは何で、毎日此処に来るの…」
    「え?それは、僕もよく分からないけど…」
    「俺は確かに忠告したはずだよ!もう此処に足を運んじゃダメだって!」

    戸惑っている彼女を見下ろしながら、息を整える。
    回りきらない頭で、彼女をどう説得するか、必死に考えた。夜の商売をやめるよう、言いくるめるのは恐らく難しいだろう。

    なら、せめて、彼女が毎日此処に足を運ばないよう上手く説得が出来ないだろうか…

    夜の記憶を持たない彼女が、何故か此処に本能的に足を運ぶ理由…それは…

    俺への好意だ。

    確信があった。だからこそ、次に取るべき行動が手に取るように分かった。

    「ハイト?落ち着いたか…?」

    心配そうにこちらを見る彼女を見つめ返す。

    「大丈夫。ごめん…この辺りに物盗りが出たって聞いて、少し取り乱してたんだ……」

    出来るだけ、優しい声色でそう返した。しばらくすると、どうやら俺の言葉の裏を察したようで、目をそらしながら彼女は顔を赤くした。

    「そ、それって……どういう意味……」
    「………そういう意味だよ。レオが心配だった。」
    「…っ…」

    俺が体を退けると、彼女は座り込んだままフードを目深に被った。

    わたわたと慌てる彼女を腕の中に抱き寄せて、俺は慈しむように彼女の頭を撫でる。耳元で、名前を囁くと、小さく震えながら彼女は俺の背に腕を回した。

    「…レオ…俺、もしかしたら、レオが好きなのかもしれないね…」

    自分がレオに向けている気持ちは、よく分からなかったが、恐らく、一番近いであろう心境をぶつけた。俺の中でも少し躊躇いがあったのかもしれない。その言葉を吐き出した途端、手の震えが止まらなくなった。

    必死に手の震えを押さえながら、強く強く彼女を抱き締めた。

    「…ハイト、僕も…」

    泣きそうに震えた声で、そう言いかけた彼女の唇を、自分の唇で塞いだ。

    気が動転しきった彼女を眺めながら、わざとらしく首を傾げる。

    「レオは、俺が好きなの?」
    「は!?…今聞く!?そんなの…当たり前だろ…嫌いだったら、もっと抵抗してるよ。」
    「そっか。そうだよね…」

    彼女を抱き締める手の震えが止まらなくなった。
    頭がぐらぐらと痛み出して止まらない。
    目頭が熱くなる。涙が溢れそうになっているのが、自分でも分かった。

    「こんな俺を好きになってくれて、ありがとう。」

    彼女に、今の俺の精一杯の笑顔を向けた。


    そうして、一息つくと、彼女は気恥ずかしそうに小さく、ありがとう。と呟いていた。溢れてくる涙を必死に隠しながら、俺を見つめる彼女が、偽りなく愛しいと思えた。

    だからこそ、今度は、精一杯の嫌悪を向けて言わなくちゃならない事があった。

    決意を込めて、息を飲む。どうしてか、不思議と涙も手の震えも止まっていた。

    抱き締めていた彼女を突き飛ばし、見下ろす。

    そうして、精一杯嫌悪を込めた顔と声でこう言った。

    「でも、俺は嫌い。」

    「近付かないで。」

    「迷惑なんだ。」

    静寂。

    彼女の目の色が、一気に光を失っていくのが分かった。状況が飲み込めないまま、俺の服の裾を掴む彼女の手を振り払う。

    そうして、座り込んで唖然としている彼女に目を向けないように、踵を返した。彼女の、ごめんなさい。の言葉が、何度も何度も胸の奥に刺さって、息が詰まりそうだった。

    教会の中に入り込み、扉を閉める。
    彼女の嗚咽が、扉の向こうで聞こえてくる。
    彼女の嗚咽が止むまでの間、俺はずっと、扉に寄り掛かったまま座り込んでいた。

    人目は無かったけれど、涙は堪えた。
    涙を流せば、それこそ幼い子どものように声を上げて、泣いて、吠えてしまいそうだった。

    どのくらいそうして震えていたか分からない。外の音に耳を傾け、外の様子を覗いていると、彼女がその場からふらふらと立ち去るのが分かった。

    慌てて扉に手をかけ、はっと立ち尽くす。

    恐らく、彼女はもうここに足を運ばないであろう。
    今度こそ、俺の中には確信があった。

    しばらくして外に出ると、予報通りの雨が俺の頬を掠めた。昨日の夜、予報が出されていた数時間程度の通り雨だ。雨はだんだんと酷くなり、俺は降り注ぐ雨の中立ち尽くす。

    そういえば、夜の町で彼女に初めてあったのも、こんな雨の中だった気がする
    もしかしたら、彼女もまた同じように雨に降られているのかもしれない。

    耳障りな音をたて、降り注ぐ雨の中、俺はまるで幼い子どものように、声を上げて泣いた。座り込んで、地面に爪を立てて、泣いて。泣いて。泣いて。泣いて。それから訳もわからずに吠えた。


    雨は、止まない。





    虹向こうのエトランゼ ハイト君とレオちゃん(よそのこ)の話 


    人間の性格、パーソナリティーは全て、記憶から形成されているらしい。

    例えば、人間Aの記憶をそのまま人間Bに完全にコピーする。
    その人間は、パーソナリティー上は人間Aであるのだと言える。

    実際、記憶とは重要な物で、精神治療においても記憶に関与する物がほとんどだ。

    人間の性格やパーソナリティーは、記憶によって変えることが出来るのだ。

    「何かよく分かんない講習だったね~ハイト君。」

    テキストを眺め、メモを書いていると、隣から眠そうな声が聞こえる。

    そちらに目をやると、隣席の同僚、さつきが退屈そうに伸びをしていた。

    葬儀屋、警察官、保育士等のカウンセリング技術向上の一環として開かれた講習に、俺とさつきは出向いていた。

    講習を終え、周りの人間が次々と荷物をまとめ、席を立っていく。無機質な会議室に次々と椅子を引き摺る音や、部屋を去っていく足音が室内にこだまする。

    テキストを開きながら、気難しそうな顔をしているさつきに話しかける。

    「例えばさつきが、ミケって名前の猫を飼ってたとして。ミケがある日、色も見た目も全く同じ別の猫に変えられてたら、それはミケじゃないよね。って話…だったかな。」

    「…あ!そういう事か~なるほどね!っていうか、ハイト君絵上手いね~!」

    紙の端に猫の絵をざっくりと描き上げる。

    感覚型の彼女には、図説や比喩の方が理解は早いと思っていたが、想定した通り、概要は理解して貰えているようだった。

    腑に落ちていなかった部分を理解し気が済んだのか、さつきはテキストを閉じると、早々に荷物をまとめ席を立った。

    笑顔で踵を返す彼女に手を振り返す。俺も静かに伸びをすると、会議室を抜け、早足で帰路につく。


    昼下がり。やや人が少ないバスに乗り、バス停から噴水のある広場を抜けて、雑貨屋の立ち並ぶ通りを歩いて行く。

    「あ!篠宮さんじゃないですか!良かったら寄って行ってください!今フェアをやっていて…」

    軽快な声色。行き付けのお店の店員に声をかけられ、促されるがままチラシを受け取る。店員が何故か猫耳をつけていたが、特に追求はしない事にした。

    チラシを見ると、羊皮紙のような紙に茶色いインクで、猫の肉球のような模様が押されている。

    「猫グッズフェア…?ああ、そっか。それで…耳…」
    「そうなんですよ!今週は、猫をモチーフにしたグッズをたくさん販売してて…」

    話を意識半分に聞き流し、店員の猫耳をじっと見る。どこか懐かしい感覚がした。そういえば、彼女は元気で居てくれているだろうか…

    数週間前の夜の事だった。俺は、猫耳のフードを着たある女の子を裏切り、手酷く突き放した。彼女を守るためとはいえ、他に何か手段があったのでは無いか…そう思っている。それが今でも少し心残りだった。

    ぼんやりと立ち尽くしていると、いつの間にか俺は、ぐいぐいと店員に手を引かれ店の中へと立ち入っていた。

    まさにその瞬間だ。

    「そこ、退いて。」

    店から出てくる、金髪の女の子とすれ違った。それも、見覚えのあるパーカーを着た。

    彼女では無いかと慌てて目を凝らしたが、顔に何かをつけており、顔がよく確認が出来なかった。また、一瞬の出来事だったという事もあり、彼女だという確信は持てなかった。

    何より、店内に目をやると、同じようなパーカーがいくつか置いてあったため、もしかしたら人違いなのでは。という考えの方が勝っていた。

    そもそも、この時間帯に彼女があの格好で此処をうろついている訳が無いのだ。

    「知り合いですか?篠宮さん?」
    「うーん…少し知りあいに似てたけど、もしかしたら、違う人だったかも…」

    棚にざっくりと並べられた商品を手に取っていく。店内はフェアを唱っている事もあり、猫や魚、肉球等をモチーフにしたポップやぬいぐるみ。イラスト、本などがあちこちに飾ってあった。

    店内をぐるりと周り、見定めながら籠に商品を入れる。何だかいつもの自分よりも、籠に商品を入れるペースが早いように感じた。

    「あれあれ~?篠宮さん~?」

    店員がにやにやとこちらを見つめている。

    「アクセサリーを買うなんて珍しいですね~彼女でも出来たんですか?」
    「……え?」

    言われてみれば、妙に可愛いアクセサリー等を手に取っているような気がする。普段はあまり衝動買いはしない方だと自負しているが、籠を見て、改めて少し驚いた。

    「まあ、職場の子が誕生日だからね。」

    吐き捨てるようにそう言い返し、目を逸らす。
    陳列棚に並んだクッキーを手に取り、店員に声をかける。

    「これって、猫も食べられるって事…?」

    店員はあいかわらず、にやにやとした表情を崩さないまま、そうですよー!と陽気に返答をしていた。しばらくはからかわれそうな雰囲気だ。

    足早にレジに向かい、店を後にすると、いくつか立ち並んだ住居施設のゲートをくぐる。建物の外周をぐるりと回り、自分の住んでいる部屋に向かおうとしたまさにその時。

    自分の住んでいる部屋の辺りから、鈍い物音と誰かの声が聞こえた気がした。鞄を肩にかけ、足早にそちらに向かう。

    「あーあ…もう最悪…」

    見ると、自分の部屋の前でペタリと座り込んでいる人影があった。

    辺りは程々に暗くなっており、詳しく目視をする事は出来なかったが、その子が見覚えのあるパーカーを着ていることに気が付き、思わず歩が下がる。

    無論、彼女?を退けなければ、部屋には入れないのだけど…

    「君、そこで何やってるの?」
    「え?」

    俺の声に気付き、彼女?は徐に振り返る。金色の髪に、医療用の眼帯をつけた少女がすがるような視線でこちらを見ていた。

    今度こそ、見間違いでは無かった。

    暗がりではあったが、見覚えのある服装と顔付き。少し低めの声色から、そこに座り込んでいる彼女は、俺の知り合いのレオ=ドゥンケル本人であると確信した。

    ただ、気になった点を挙げるとするのなら、彼女がこの場を一向に動かないことと、見覚えのある猫を抱き抱えていた事だった。

    彼女の足元にも、また不思議なことに見覚えのあるクッキーの袋が落ちている。俺がゆっくりと彼女に歩み寄ると、彼女は不安そうな声色でうろたえた。

    「ごめん…!僕は別に、何もしてない…ただ、この子を追いかけた時に、転んじゃって…」

    「転んだ…?」

    そう問いかけると、彼女はぎゅっと強く猫を抱き、こくりと頷く。施設職員を呼びに行こうとも考えたが、ここからは少し距離がある。

    何より、施設敷地内とはいえ彼女を一人にするのは少し心配だった。

    「その感じだと、立てないみたいだね。待ってて。」

    荷物を室内に放り入れ、震える彼女をお姫様抱っこのような姿勢で抱き抱える。近付くと、各所に軽傷があり、痛々しい傷が目に入る。

    また、確認する限り、少なくとも足は折れていないようだった。部屋に上がると、彼女を静かにソファーに座らせ、施設職員宛てに部屋の電話でコールをかけた。

    「何か、迷惑かけたね。ごめん…ありがとう…」
    「気にしないで。困ったときはお互い様だよ。」

    救急箱を取り出している俺の傍らで、彼女が溜め息をついていた。先程は、動揺していた様子だったため、恐らく本人も精神的にかなり疲弊したのだろう。

    擦り傷にガーゼを当てていく。滑るように転んだのだろうか、怪我は体の片側に集中しているのが分かった。

    「君の家は、此処から近いの…?」
    「………あんまり。この辺りにはバスで来ることが多いし…」

    落胆する彼女に手当を続ける。軽傷は、腕の擦り傷が主だったが頬も少し擦ってしまったようで、彼女の顔に医療用眼帯とガーゼが並んでいるのが、傍目に見ていて痛々しい。

    しばらくして、施設職員が部屋に顔を出した。職員が彼女の足を確認すると、両足が腫れているのが分かった。

    職員は慣れた手付きで手当てを行うと、お大事に。と頭を下げて、部屋を退室する。

    推測通り、骨折はしていなかったが、彼女は両足を捻挫しており、痛みがひどくなるようなら病院にかかるよう勧められた。

    また、少なくとも、朝になるまでは安静にしているべきだと指示を受けた。

    「この感じだと、帰宅は難しそうだね。ええと…家族とかに連絡は…」

    そう問いかけると、彼女はすぐに首を振った。

    彼女には、確か、姉か兄がいたはずだ。追求をしようと言葉をかけたが、当の本人は、核心からふらふらと言葉を濁すばかりだった。

    なんとなく、家族と気まずい関係を築いているのは推測出来た。

    「心配いらないよ。ただの捻挫だし。………帰る。」

    そう言って、壁伝いに歩いて行こうとする彼女を慌てて制止する。壁に寄りかかるようにすると歩けるようだったが、どう考えてもこの状態で外を歩くのは危険だ。

    「ダメ。さっきの職員の話、聞いてた?それに、家までは距離があるんだよね…?よく考えて…」
    「でも…」

    気まずそうに俯く彼女を、冷静に宥める。

    「少なくとも、今夜はここで安静にしているべきだ。出歩くのは勝手だけど、せめて朝になってからの方がいいよ。」

    「…え?今……っ、や、やっぱり大丈夫…!帰る……」

    今のは少し失言だったかもしれない。

    何やら、お互いに少し、解釈違いを起こしているような気がした。

    ただ、少なくとも今彼女が、あること無いこと考えているような様子だったことは分かった。誤解をさせるわけにもいけないため、慌ててフォローの言葉を続ける。

    「ごめん。おかしな事を言ったね。もし気まずいなら、此処の職員さんが自室に泊めてくれるって言ってたよ。…仮にも男と女だし、嫌ならその方がいいと思う。」

    彼女は渋々と首を振る。

    「……兄がいるから、そういうのは気にならない。」

    「……気にした方がいいと思うけど…。俺だって一応仮にも思春期の男子だし…密室だし…目の前に可愛い女子がいたら、本当に何するか分からないよ?」

    少し冗談じみた調子でそう返すと、彼女は猫をぎゅっと抱き締め、何か言いたげに、こちらを睨んでくる。

    これ以上からかうのはやめておこう…。キッチンに向かい、コップに温かいミルクティーを注ぐ。

    不思議な事に、俺が先日拾ってきた猫はすっかりと彼女になついているようで、気がつけば腕の中でごろごろと機嫌が良さそうに喉を鳴らしている。

    俺には強気で攻撃的なのに…。猫を一瞥し、落胆しながら、彼女に話しかける。

    「ミルクティー入れたんだけど、大丈夫…?うち、飲み物って紅茶と牛乳くらいしか置いてなくて。」
    「大丈夫…ありがとう。いただいておくよ。」

    そう言うと、彼女は少しだけ顔を綻ばせて、コップに口をつけた。

    カーテンの隙間を覗くと、外は果ての無い宵闇に落ちており、つくづく彼女が転んでいたのが、この場所で良かった。と少しだけ安堵する。

    夜が始まると、俺には確認しなければならない事があった。

    「自己紹介が遅れてごめん。俺は、篠宮ハイト。まあ、細かいことはともかく、今日は災難だったね。」
    「ああ。初めまして…僕は…えっと……………レオでいい。まさか、猫を追いかけてたらこんな目に遭うとは思わなかった…。」

    レオ?

    彼女、レオがそのように名乗ったのは、意外だった。

    夜、レオと会うとき、いつもは決まってこう繰り返す。初めまして。僕は… 大抵その時に名乗るのは偽名だ。

    薬の売買をしている事もあり、足がつくのはまずいのだろう。と思っていた。

    今日は、どういった気分の変わりようなのだろう。薬を売買していないから…?様々な事を考えたが、特に答えは浮かばなかった。

    「…………レオ…」
    「……何?」
    「ああ、気にしないで。俺の知り合いと同じ名前だなあと思って。よろしく。」
    「……うん。よろしく。ハイト。」

    特に追求はせず、今度は専用の皿に入れたミルクとエサを猫に差し出す。

    「ルナ。おいで。」

    エサとミルクを与えるときは妙に素直だ。テーブルの上で夢中になって、エサとミルクにありつく飼い猫を眺めながら、レオの傍らに少し距離を取って腰かける。

    「あれ?この子、ここの猫だったの…?」
    「うん。一応ね。少し前だったかな…行きつけの雑貨屋の近くで拾ったんだ。」

    レオは、コップを静かに置くと、夢中で猫を見つめる。

    「片目…怪我してるね。それに、足も少し引きずってる……」
    「目は元々なんだけど…足を怪我したのは…一昨日位だったかな?……どうも脱走癖があって…」

    猫を撫でようと徐に手を伸ばす。まさにその瞬間だった。俺とレオは、二人で妙に息ぴったりにこう言葉を重ねた。

    『臆病な子なんだね。』『気の強い子なんだ。』

    弾みでお互いの手がぶつかり、少し動揺しているレオを横目に、そういえばレオも片目に眼帯をつけていて。足を引きずっているな…なんて、思っていた。

    猫を相変わらずじっと見つめながら、レオが口を開く。

    「ルナ…だっけ、何か聞き覚えがある名前なんだよね…。」
    「そういえば職場の女の子が、小さい頃に見たアニメのキャラクターと同じ名前だって言ってたよ。…俺は、女の子向けのアニメとかってよく分からないけど…」
    「……女の子向けの…」

    何気ない軽口の雑談のつもりだったが、レオはますます顔色を悪くする。

    男装をしているような子だから、そういった話題には繊細なのだろうか…?事態が理解できないまま、俯いている彼女を一瞥する。

    「レオ…?気を悪くしたならごめん。少し顔色が悪いみたいけど…大丈夫?」
    「…………ルナ…その名前…確かに、小さい頃に聞いたことがある気がする…。」

    声をかけるが、レオは完全に上の空だった。

    「レオ…?聞いてる?」
    「…あ。ごめん!ちょっと考え事してた…」

    微かに震える彼女を見て、なんとなくある考えが巡った。レオの記憶障害には、恐らく何らかの悪い要因が作用しているのではないか?

    偶然ではあったが、講習で記憶に関して話を聞いたこともあり、妙な勘が冴えていた。

    少なくとも本能的に、彼女の過去や記憶に紐付く話は避けるべきだと直感した。

    「無理に思い出さなくてもいいよ。その話振られても、多分俺…分からないから。」

    何か気を逸らせる話題は無いだろうか…辺りを見回して、考える。レオは相変わらず懐に猫を抱いたままぼんやりとしているようだった。

    「そういえば、ご飯とか食べた?さっき、施設の人からパンを貰って。もし、気が向いたらでいいから。」
    「………ありがとう。何か、至れり尽くせりだね。」

    そう呟いて、彼女は少しだけ顔を綻ばせた。
    そうして、しばらくは二人でのんびりと過ごしていた。

    俺がテキストを捲る音と、テレビ番組から聞こえるBGMや人の声、時計の音、そして時折猫の退屈そうな泣き声…様々な音に包まれながら、テキストの文字に線を引いていく。

    レオは、時折テレビに目を向けながら、飽きもせず猫と戯れている。俺の好きなテレビ番組が始まると、すぐにチャンネルを変えられたのは、内心少し凹んだけれど。

    「レオ。先にシャワー浴びてきたら?」
    「……は!?な、何言って…」

    赤面でテンパっているレオを見つめる。何を焦っているのかと、思考を巡らせると、何やらちょうど、テレビドラマで男女がホテルに出向いているシーンが映っているようだった。

    意外と、女の子らしいところもあるのだな…と思いながら静かにテキストを閉じる。

    「うーん…そこで遠慮されると、俺としても逆に困るというか…あんまり気分が良くないというか…」
    「あー、もう……わ、分かった!もう、十分世話になってるし…じゃあ、有り難く使わせて貰う…」

    眼鏡をケースにしまい、レオの方に歩み寄る。

    「タオルなら、洗面台の棚の所にあるから好きに使って。もし移動が厳しそうなら、手を貸すけど…」
    「そ、それは大丈夫…!流石にそこまでしなくてもいいよ!」

    肩を貸すような形で手を差し伸べると、レオは、流石に恥ずかしそうに首を振った。そうして、ぎこちなく立ち上がると、そっけなく踵を返して、シャワールームへと足を進めた。

    先程よりは、腫れが引いているのか、相変わらず不安定な姿勢で足を引き摺っていたものの、比較的スムーズな足取りで歩いているようだった。

    シャワーの音を聞きながら、部屋の掃除を端的に済ませる。最近は、やんちゃな同居人…いや、同居猫が増えた事もあり、かなり苦労させられている。

    「また棚の下で寝てる…」

    猫を腕の中に抱え、そっとベッドに下ろす。
    そんな時だった。インターホンの音に、ドアを開ける。

    「ああ、遅くにごめんなさい。ハイト君が困っているだろうから、これを届けようと思ってて」
    「何か…本当に色々とありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません…ええと、これは……」

    袋の隙間を覗き、慌てて閉じる。

    親切にも、施設職員の人に着替えを届けて貰った。女子物の下着を買いに行くにも気が引けたため、本当に有り難かった。

    「あの人にも、お礼は特にいらないって言っておいてください。困ったときはお互い様ですから。」

    この職員とは、かなり長い付き合いであるため、どうやら、俺の困りうる事態は全て想定しているようだ。流石に頭が上がらない。

    職員に感謝の言葉と共に頭を下げて、ドアを閉める。

    レオも、俺と職員とのやり取りが気になって聞いていたのか、しばらくシャワーの音が止まっているのが分かった。

    「レオ、聞いてたよね。着替え。ドアの所に置いとくね。服は、俺のだから少し大きいかもしれないけど…」

    返答は無い。

    しばらくすると、またシャワーの音が聞こえ始めた。シャワーの音に紛れ、レオの声が途切れ途切れに聞こえる。

    思わずそちらに耳を澄ます。

    「レオ…?」

    その声は、俺には、嗚咽のように聞こえた。

    ああ、そうだった。彼女はまだ、自分とほとんど年の変わらない女の子なのだ。不測の事態や、慣れない環境に不安を感じているのかもしれない。

    そう思った矢先に聞こえたレオの言葉に、思わず意識が研ぎ澄まされる。

    「ごめんなさい…私、ダメな子で…」

    レオの嗚咽と懺悔は止まない。

    「私のせいで、ヤートが…怪我しちゃって…」

    『ごめんなさい』

    何度も何度も、すがるようにその言葉を繰り返す。

    その後は、シャワールームに背を向け続けながら、レオがひたすら母親に謝り続けている声を聞いた。しばらくすると、少し気持ちが落ち着いたのか、ピタリと嗚咽が止んだ。

    「ハイト…?そこにいるの…?」

    先程までの怯えたような声とは違い、いつもの凛凛しい声色だった。

    「いるよ。着替えを届けに来ただけだから、気にしないで。」
    「……そっか、ありがとう。迷惑かけてばっかりだね。」
    「迷惑なんかじゃないよ。俺は、レオだから、手を貸したいだけ。」
    「え?」

    掃除道具を持って、足早に寝室に向かう。あえて返答を返さなかったのは、照れ隠しもあった。ハイトそれどういう意味?と聞き返す声に、何でもない。と、素っ気なく返答をする。

    着替えを終えたレオが俺の背に話しかけてきた。

    「ハイトごめん。結構待たせたね。」

    振り向くとそこには、俺の服を着て、恥ずかしそうに目を逸らすレオの姿があった。

    てっきり、サイズが合わないものだと危惧していたが、俺とレオとでそこまで身長や体格差が無かったことを思い出す。

    むしろ、傍目には、俺よりもスマートにそれらを着こなしているかのように見えた。

    「別に変じゃないよ。そんなに恥ずかしがらなくていいのに…」
    「……………。」

    カッコいいと言うべきなのか、可愛いと言うべきなのか、迷いに迷ったが、俺の中ではその言葉が精一杯だった。

    何か言いたげにしているレオに、掃除したてのベッドを勧め、シャワールームへと向かう。

    作業的にシャワーを浴びながら、色々な事を考えていた。相変わらず、自分の両手を見ると返り血の幻覚が消えていないことに気が付き、気が重くなる。

    鏡と向き合い、自分がレオよりも髪が長い事に気が付く。じっと鏡に目を凝らす。篠宮ハイトという男がそこには居て、こちらをじっと見つめ返す。

    「……………。」

    鏡に、指で何かを書いた痕跡を見つけ、じっと観察する。レオもこんな事するんだ。なんて、少し親近感が沸いた。

    それと同時に、レオはこの鏡を見て、何を思ったのだろう…ととても気になった。自分を傍観して分かること、自分と向き合って気付くこと。

    自分は、自分でしかあれないということ。

    自分の記憶と行動全てで自分は作られている。

    自分でいる限り、自分の積み上げてきた行動からは、行った選択からは、悔いとなった後悔からは、決してどのような手を使っても逃れられない。

    だとしたら、どうすればいいのだろうか…
    鏡を曇らせ、指で文字を書いた。先程、少しだけ残った文字の痕跡を思い出しながら。

    『レオは、どうして泣いていたの?』

    もちろん、返事は無い。

    シャワールームから出て、そそくさと着替えを済ませる。そろそろレオは寝ている頃だろうか…ちょうどそんな時だった。激しく地面を打つ雨の音が、耳元を通り抜けた。

    慌てて着替えを済ませ。レオのいる寝室へと足を運ぶ。

    雨の予報を聞いた記憶等、もちろんない。

    「レオ…?大丈夫…?」

    ちょうど、彼女がその中でくるまっているであろう、布団を捲り上げたその瞬間だった。

    「!?」

    途端に景色は暗転し、寝台の上で俺は、天井と見つめ合うような姿勢となっていた。事態が飲み込めないまま、レオの手により肩をぐっと寝台に押し付けられる。

    仮にも、警察として仕事をしているだけある。と感じた。その手は容易に俺の抵抗を許さない事を、俺は本能的に察していた。

    嗚咽混じりに、レオが何かを言っているのが分かった。その言葉は、幸か不幸か気が動転していた俺には聞き取れなかった。

    助けを求めるような、すがりつくかのような、懺悔するかのような。そんな言葉だったんじゃないかと思う。

    ただ、俺にはレオの紡ぐ言葉がどうしても、聞き取れなかった。聞き取れるが、それを頭で上手く処理しきれない。ぼんやりと頭に靄がかかる感覚と共に、額の辺りが熱くなるのが分かる。

    滲んだ視界に、彼女の言葉が文字となって見えた気がした。

    『好きになってごめんなさい。』


    お互いに、雨の音の中、見つめ合った夜があった。

    確か以前にもこんな事があった気がする。

    いや、忘れるはずがない。

    あの雨の日に、俺とレオは…

    『ごめんね。』


    レオのシャツを引き寄せるようにして、体を抱き寄せる。ぐっと強く、彼女の体が粉々に壊れてしまうんんじゃないかってぐらい、満身創痍で彼女を抱き締めた。

    嗚咽を上げて、泣きじゃくる彼女を抱き締めながら、何度も『大丈夫』と頭を撫でた。

    レオをこれだけ傷付けたのは、紛れもなく俺だ。だとしたら、俺にはレオと向き合う義務がある。俺は、俺自身の後悔と向き合わなければならない。

    遠くで放送の音が聞こえる。誤動作の雨を伝える、無機質な謝罪の言葉。次第に雨は止み、脳の中で雑音が一つ消えていく。

    鮮明になったレオの嗚咽と呼吸の音を聞きながら、ゆっくりと、子どもを宥めるかのように背を撫でる。

    「ほら、大丈夫。雨はいつか止むんだ。だからね、悲しい事もいつか終わりが来るんだよ。レオ。」

    悲しい記憶があるのなら、無くしていけばいい。
    後悔した記憶があるのなら、許していけばいい。
    愛されなかった記憶があるのなら、愛していけばいい。

    『だけどきっと、俺のこの想いは、愛では無いんだろうね。』

    そんな事を思いながら、泣き疲れた彼女を寝台の上にそっと導く。額を撫でて、布団をかけると、ぼんやりと、こちらを見つめるレオの表情が、少しだけいじらしくも見えた。

    「大丈夫だよ。悲しい事は、きっと、明日には全部忘れてるから。」
    「……………。」

    レオの表情が曇る。

    「レオ、少しだけ目、閉じてて。」

    レオのシャツのボタンを開け、首元に手を這わせる。傷に触れないよう注意深く、彼女の首に、チョーカーを飾る。

    相変わらずレオは少し怯えていたようで、手に少し爪を立てられたけれど。それでも、慌てて謝罪の言葉を述べるレオの様子には、少しだけほっとさせられた。

    「それ、レオにあげるよ。」
    「…えっと…、何、これ?首輪…?」

    もしかして、お洒落には少し疎いのかな…?なんて、そう思った。

    探るように、首元に指を這わせるレオをじっと眺める。傷を隠せて嬉しかった反面、何かを誤魔化して喜んでいるような自分に気が付き、少しだけ複雑な気持ちにもなった。

    「まあ、明日には忘れてるかもしれないけど…それを見て、俺の事を思い出してくれたら嬉しいなって。」
    「……………………。」
    「……レオ…?」
    「…………僕だって…」

    レオが何かを言いかけて、慌てて口をつぐむ。なんとなく、言いかけた言葉に察しはついたが、あえて追求はしないでおいた。

    このチョーカーは誓いであり、俺自身のけじめのつもりで、渡したのだから。


    もう、君に悲しい想いはさせない。

    悲しい記憶は、全て俺が塗り替えてあげる。

    そんな、誓いをこめて。こう言った。

    『友達になろう。』

    レオの手を握って、笑顔でそう伝えた。

    作り物じゃない、俺の本心からの想いを込めて。


    たじろぐレオをじっと見つめる。

    「だから次は、初めまして。じゃなくて、また会えたねって言いたいな。」

    「僕には出来ないよ…ハイトはロマンチストだね。」

    そう言って、レオは俺に背を向け、勢いよく布団にくるまった。もう夜も深い。ぼうっとした眠気が少しずつ思考を染め上げていく。欠伸をして、朧気な視界になった目を擦る。

    流石に男女一緒に同じ布団に入るには気が引けたため、ひとまず俺はソファーで眠る事にするのが、無難だろう。

    そう思い、立ち上がった。その時だった。

    刹那。またも俺は天井と見つめ合うことになった。気が付くと俺は、再びレオに寝台の上に押し倒された。

    この場合、引き倒された?とも言えるだろうけど。あまりにも一瞬の出来事に、少し気は動転していたけれど、二回目ともあり流石にそこまで驚かなかった。

    「レオ?どういう意味?言ったと思うけど、俺一応、男で…」
    「ハイトも疲れてるだろ?しっかり休んだ方がいいよ。それに、何かあっても、流石に自分の身ぐらい自分で守れる。」
    「……何も無いように頑張るよ。ありがとう。」

    そう言って、極力距離を取るように、レオに背を向けて眠った。徐に目を伏せると、すぐに俺の意識は眠りへと落ちた。

    夢の中で目を覚ますと、そこは公園のような場所に見えた。見上げると、眩しい位の日差しが俺を照らしている。

    思わず俺が立ち尽くしていると、足元で金色の髪をした女の子が泣いていた。青いリボンで髪を結んだ10才にも満たない位の女の子だった。活発な子なのだろうか、体の各所に怪我や手当ての跡が多く見られる。

    俺の服の裾をぎゅっと握り、嗚咽混じりに弱々しく女の子は呟く。

    「私っていらない子なのかな?」

    不安げに俯く女の子の頭を撫で、抱き締める。辺りを見ると、この公園には、俺と女の子以外の人間がいない事に気が付く。

    私は、いらない子だから。

    だから、私はずっとここで一人ぼっちなんだ。

    女の子は摘んできたであろう花を握りしめながら、寂しそうに、そう言った。女の子を見つめながら、俺は自分の胸を叩き、反論する。

    「一人ぼっちなんかじゃないよ。だって…」

    『ここには、俺がいる。』

    そう言い返すと、女の子は俺を見つめ、何かを言いたげに俺の服の裾をぎゅっと握っていた。しばらく様子を見つめていると、いよいよ女の子は何も言い返す事無く、踵を返す。

    その表情は、先程より少しだけ穏やかに見えた。

    雲が傾き、先程まで日当たりの良かったこの場所は少しだけ影が差す。雨の予感に空を見上げると、晴天の青空の向こうに鮮やかな虹が見えた。

    「ハイト!見て!空に虹が見えるよ!」

    遠くで、聞き覚えのある女の子の声と、猫の声が聞こえた気がした。名前を呼ぶ声に急かされながら、俺は早足でそちらへとかけていく。


    朝、目を覚ますと、いつも通りのレオがそこにいた。二人で端的に食事を済ませて雑談じみた会話を重ねた。足もある程度治ったのか、自力での歩行が可能な程度には回復しているようだった。

    昨日のしおらしさが嘘のように、レオは本当にいつも通りだった。

    「ありがとう。ハイト。」

    猫を撫でながら、レオは安心しきった顔で笑う。俺には辛辣で強気な態度を貫く猫が、レオの腕の中だと本当に大人しい。

    たまには、この子にも会いに来てあげてよ。そう告げると、むしろ家に連れて帰りたい。だなんてレオは言っていた。

    レオを見送った後は、妙に機嫌の悪い猫を宥めながら、俺はソファーへと座り込んだ。部屋の外で施設職員とレオが談笑をしている声を聞いた気がした。

    窓の外を見ると、やけに強い日差しの中、空の果てに鮮やかな虹が見える。

    「今日は、覚えてたらいいな。」

    相変わらず機嫌の悪い猫を撫でながら、そう呟く。
    窓に映った自分の姿を見ると、心なしか肩の荷が降りたような…そんな表情をしていた。

    篠宮ハイトと云う名の男がそこにいる。

    今日の記憶は、出来事は、俺を一体どのような人間に変えたのだろうか。そして、レオ=ドゥンケルという人間をどのように変えられたのだろうか。

    俺は、彼女の力になれたのだろうか。

    そんな事を思いながら、猫に手元のクッキーを続々と奪われていく。

    これだけ豪勢に暴れられたら、流石のレオも慌てただろうなあ…なんて、くだらない事を思いながら。





    また今夜、彼女と待ち合わせよう。今日の言葉は、初めまして。じゃありませんように。そう祈った。

    遠くで、雨の予報のアナウンスが聞こえた。





    天気雨を傍らに ハイト君とレオちゃん(よそのこ)の話 ※性描写があります。

    昼下がりの午後。俺はデスクに積み上がった書類を見下ろしながら、椅子にへたりこんだ。この時期の葬儀屋は決まって多忙を極めている。

    また、他の葬儀屋メンバーの夏期休暇が重なった影響もあり、こうして俺は、残務処理のため一人休業中の葬儀屋に足を運んでいた。

    「これで明日からはゆっくり休めそうかな…」

    書類を抱えて、書庫に放り込む。日照りに当たり続けた金庫のドアは、そのまま触れれば火傷してしまいそうな程に熱い。

    事務室の窓から照りつける日差しは強く、それでいて、着実に俺の体力を削っていった。およそ数時間の作業だったが、既に疲労困憊だった。

    閑散とした事務室の中、溜め息をこぼしながら帰る支度を始める。晴天の空は、まるで攻め立てるように俺を見下ろしていて。

    これから、この日差しの中、帰路に着くのだと思うと気が滅入る。

    「ほんとに、暑いなあ……」

    『雨でも降ればいいのに。』

    なんて、ぼやきながら。葬儀屋を後にした。

    そうして、外にでると今度は引き締めていた口角がゆっくりと緩んだ。

    日照りの中ではあったが、胸が高鳴り、不思議と足取りも軽い。左手に付けていたブレスレットを一瞥して、俺は少しだけ早足で帰路に着いた。

    そうして家に付けば、それはもう、ドアが外れるんじゃないかってくらい、勢いよくドアを開けた。それぐらい、俺の気持ちは昂っていた。

    だって、今日は…

    「レオ、ただいま!」

    「おかえり、ハイト。テンション高いね…」

    部屋に入ると、猫を抱いたレオが俺を出迎えてくれた。ソファーに腰掛けながら、レオは安心したように笑みを浮かべる。

    何か作業でもしていたのだろうか?机上を見ると書類や端末が無造作に転がっていた。

    室内では、冷房の動く音と何かの音楽が流れていた。おそらくレオの端末から流れている物だろう。

    頬に冷房の風邪を受けながら、シャツの隙間を扇ぐ。とりあえずはシャワーをあびる事に決め、足早にシャワールームへと向かう。

    手早くシャワーを浴びて、部屋に戻る。

    気が付くと、先程までの書類や端末が机上端に退かされており、代わりに皿に乗せられたホットケーキが置かれていた。

    タオルで髪を拭いながら、レオの傍らに腰掛ける。

    レオはある理由により、俺の家に泊まりに来ている。今日は休日だが、その翌日以降は先週オープンしたある施設の警備を任されているそうだ。

    その施設が俺の家から近いこともあり、泊まり込みを提案した結果、レオは今こうしてここで過ごしている。

    「お疲れ様。良かったらこれ、食べてよ。」

    レオに促されるがまま、机上に置かれたホットケーキを眺める。

    レオは確か料理が苦手だったような…そんな事を思い出すが、そこにあったのは、商品パッケージにでも描かれていそうな美味しそうなホットケーキだった。

    「これ、レオが作ったの…?」
    「そうだよ。朝食に作ったんだけど余っちゃって…この子も食べないみたいだったから。」
    「そっか。ありがとう。丁度甘いものが欲しかったんだよね。」

    そうして、ホットケーキに手を付ける。想像した通りのほどよい甘さが口の中に溶けて、広がっていく。

    レオと一緒に出掛けた喫茶店のホットケーキによく似た味と食感だと感じたが、そこで出される物よりも甘さが控えられている印象だった。

    「…美味しい。」

    思わず、言葉がこぼれる。そういえばあのお店でホットケーキを食べたときに、俺には少し甘過ぎるかも。なんて話をしたっけ。

    そんな事を思いながら、あっという間に目前のホットケーキを完食してしまった。

    職場で昼食を済ませていた事もあり、小腹に滑り込ませるにはいい間食だったと思う。 心地よい満腹感が脳を刺激した。

    「……え?食べるの早いね…」
    「…そうだね。美味しかったからつい…」

    傍らでじっとその様子を見ていたレオも、流石に少し驚いていたようだったが、まるでプレゼントを眼前にした子どものように嬉しそうに、笑みを浮かべていた。

    「それにしても、レオ…確か料理は苦手なんじゃなかったっけ…練習したの?」
    「ううん。最近知り合いに教えて貰ったんだ。」
    「知り合い…」

    レオも、知り合いに料理を教えて貰ったりするんだ。なんて少し驚いた。

    てっきり外では、僕はいいお兄さんだから、料理位出来るに決まってる…!なんて、強がった振る舞いをしそうなものだけど。

    「レオも、変わったんだね。色々と…交遊関係も広がってるみたいで安心したよ。」

    そう言って、レオの首元のチョーカーを見る。

    そういえば以前は、服で隠れるような位置にチョーカーを付けていたが、見えやすい位置に移動しているような気がした。

    周りの音に耳を傾ける。いつの間にか音楽は止んでしまったようだ。冷房の音を聞きながら、ソファーに寄りかかる。

    シャワーを浴びた後だったのと、胃が膨れた事もあってか、少し意識がぼんやりとしてくるのが分かる。

    俺の膝の上で、猫が鳴き声をあげる。見れば、猫がタオルで爪を研いでいた。

    心地よい暖かさに思わずうっすらと瞼を閉じ、うとうとと頭を下げれば、レオに肩を揺すられる。

    「ハイト。寝るならベッドの方に行きなよ。」

    心配そうに溜め息をつかれた。気が付けば、俺はレオに促されるがままベッドの方にぐいぐいと背を押されていった。

    本当に疲れていたのかもしれない。流れ込むようにベッドに飛び込むと、すぐに俺の意識は途絶えた。

    そうして目を覚ます頃には、窓の外の景色は少しだけ暗がりを帯び、空の色は夕方と夜の境界と思しき色をしていた。

    少しだけ伸びをして、寝返りを打とうとする。すると、自分の腕は思いきり何かにぶつかり、足元は何かの重みで思うように動かない事に気がつく。

    背の方に振り向けば、自分と向かい合うような形で、レオが眠っていた。とは言っても、先程腕をぶつけてしまった事もあり、案の定レオはすぐに目を覚ましたのだけど。

    「…ん、ん……ハイト?」
    「…あ。ごめん、レオ。起こしちゃった…」
    「…………いいよ別に。」

    ぼんやりとしたレオの瞳と目が合う。まだ意識が鮮明ではないのだろうか。顔色を伺えば、その表情は普段のレオの表情よりも少しだけ幼げに見えた。

    その表情が何だかとても愛しく思えて、思わず腕の中にレオを抱き寄せる。

    頭を撫でれば、安堵にも感じられる呼吸の音が聞こえる。てっきり恥ずかしがられるものかと思っていたが、あろうことか、レオは更に腕の中に深く入り込んできた。

    そうして、呟く。

    「……、…が、…える…」
    「…え…?」
    「ハイトの、心臓の音が聞こえる。」

    心臓がぎゅっと掴まれたかのような感覚がした。

    何だか、その言葉が妙に照れ臭くて。鼓動が高まる音を聞かれるのが恥ずかしくて。

    そうして、レオを抱き寄せた腕を離そうとすれば、ぐっと腕を掴まれて抵抗される。

    「ダメだよ。ハイト。」
    「……レオ…」
    「もう少しだけこうしてて。」
    「……………………。」

    先程よりも、少し大人びた声色だった。

    だけど、駄々をこねるようなその言葉は、まるで幼い子どもみたいだな。なんて思った。

    それがまた、何だか愛しくて。

    「レオ…ずるいよ…。」
    「ずるいって、何が…」

    疑問を持った声色だった。無自覚でそんな事を言ってるのだとしたら、本当にずるい子だと思う。

    とろんとした瞳で俺を見つめたまま、レオが俺の頬に手をよせる。まるで、俺がそこにいることを確かめるように。

    「……ねえ。」
    「………何でもない…。」

    思わずたじろげば、ハイト、顔真っ赤。だなんて、悪戯めいた声で笑われた。

    俺は完全にからわかれているようだ。そうして今度は、耳元や首筋に指を這わされ、ぞくぞくと体が震える。

    「…っ、!…レオ…っ、ちょっと…、」
    「ちょっと、何…?」

    何だか、そんな風に好き勝手にされるのが少し悔しくて。あるいは別の感情だったのかもしれない。得意気に俺を見つめているレオの焦った顔が少し見たくなって。

    気が付けば俺は、レオの肩に手をかけて、その体を押し倒していた。きっと、その時の俺は顔を真っ赤にして、子どもみたいに拗ねた表情をしていたのだろうと思う。

    「ハイト、何…」
    「何、じゃないよ。」

    だから、レオも焦っていなかったのかな。なんて。まだ余裕綽々としている様子のレオの髪を解いて、そうして今度はやや強引に彼女にキスをした。

    流石に少し抵抗されたけれど、すぐには止めなかった。舌を滑り込ませると、俺の肩を掴んでいたレオの手は、ゆっくりとシーツの上に落ちる。

    シーツに爪を立てながらも、レオはこれといって抵抗する気がない様子だ。むしろ、少し期待していたとでも言いたげに、俺に身を任せているようだった。

    唇を離せば、レオは顔を真っ赤にして腕で目元を隠しながら息を乱していた。すっかり余裕を無くしてしまったレオに、畳み掛けるように、シャツの下から手を滑らせる。

    幾重にも巻かれたさらしに手をかけると、流石のレオも焦ったように俺の腕にしがみついた。

    「…っ、は…、…ハイ、ト…待って…!」
    「……待たない。…………レオが悪いんだよ?」
    「…、はっ…!?」

    さらしを解いてその下の肌を手で撫でる。先程まで眠っていたからだろうか、手袋越しではあったが、肌から少し熱い位のレオの体温が確かに感じられる。

    手探りで心臓の位置を探し、手を押し当ててみれば、そこには確かに、レオの鼓動が感じられて。

    手から伝わる鼓動の感覚が、脳内で音となって響く。

    手を止めてレオを見つめれば、腕の隙間から、同じように見つめ返される。そしてすぐに目を逸らされた。

    「……………………。」

    鼓動の音と、レオの呼吸の音。

    混ざり合った音に思考がかき乱されていく。

    頭の中で響く規則的な音の感覚が心地良い。

    レオの体にゆっくりと指を這わせれば、各所に小さな傷が点々としている事が分かる。時折、誤魔化すように胸元を指で掠めれば、上擦った声を上げて、レオの体がびくりと跳ねた。

    「…待、待って…!僕こういうの、ほんとに、慣れてない…からっ……それに…」
    「……それに…?」
    「…手……」

    息を乱しながら、何か言いたげな様子で、レオが俺の腕を掴む。思わず手を止めると、ぎこちない手つきで手袋を外されそうになり、反射的に身構える。

    なんとなくだが意図は読めた。だからこそ、少し心がざわついた。

    まるで、迷子の子どもが親を探すように。すがるように、確かめるように、レオを見据える。

    自分の顔を隠すように添えられていたレオの手は、気が付けば、そっと、俺の頬を撫でていた。

    先程までの様子が嘘みたいに、レオは落ち着き払って居たように見えた。あるいは、俺を安心させようとそのような態度を取っていたのかもしれない。

    「……レオ、待って……俺…」
    「……大丈夫だよ、ハイト。」

    そうして戸惑う俺に微笑みながら、吐息混じりの声でレオは呟いた。

    『僕は、ハイトの手で触れてほしい。』

    そうして手袋が取り去られた手を見る。どうしてか、いつも見ていたあの幻覚は、見えなかったように思えた。

    呆然としていると、再びレオに手を引ったくられ胸元にそれを導かれた。

    相変わらず顔を真っ赤にして、レオは俺から視線を逸らす。

    「………素直じゃないんだから…。」
    「…う、うるさい…!」
    「でも、さっきの言葉嬉しかったよ。ありがとう。」
    「…別に僕はそんな……っ、!?……待っ、…!」

    先程と同じように、レオの体を手で蹂躙する。普段は常に手袋をしているからだと思う。直に手で触れた肌の感触は、心地よくて。

    頭の中がふわりと溶かされそうな、不思議な感覚がした。

    時折、首筋や耳に柔く歯を立て、舌を這わせる。先程より激しくレオを攻め立てると、余裕が無いのだろうか、レオは俺の背中に手を回して、声を殺しているようだった。

    「……ハイト、…首…っ、それ、やだっ…」
    「………嫌だった?」
    「嫌…っ、じゃない、けど…っ、…でも…」
    「もし辛かったら、捕まっててもいいよ。」

    レオの手に触れて、そう促す。すがりつくように、それでいて強くなりすぎないように。もどかしそうに背中につき立つレオの爪の感触が、少しだけくすぐったかった。

    「…ハ、イト…っ…」
    「………どうしたの?」
    「…何か、…変な感じ……頭が熱くて…それで、何だろう……ちょっと、怖い…。」

    息を乱して震えるレオの頬を、優しく撫でる。

    『大丈夫…怖くないよ。レオ。』

    そう耳元で囁くと、背中に回された手にぐっと力が込められるのが分かる。

    レオに促されるがまま唇にキスをして、顎から首筋へと手を滑らせた。チョーカーについたチャームがぶつかり合い、乾いた金属音が響く。

    腰に回した手を太股に滑らせれば、レオは少しだけ目を見開いて、俺の手を握った。

    足の隙間からゆっくりと上辺を撫でるようにその場所に指を這わせると、少しだけ嗚咽混じりにレオは声を殺していた。

    戸惑っている様子はあるが、特に抵抗する意思は無さそうに見えた。

    「…レオ、大丈夫?嫌だったら教えて。」

    そう問いかけると、レオは少しだけ迷ってから首を振る。意図が読めず思わず手を止めれば、消え入りそうな声で、ハイトならいいよ。大丈夫。と呟く声が聞こえた。

    「…じゃあ、レオを信じるよ。無理しないでね。」
    「…うん。…大、丈夫………だと思う…」
    「後で、嫌だった。って言っても、聞いてあげないからね。」
    「…しつこい…!大丈夫だよ…」

    恥ずかしそうに視線を逸らすレオの頬を撫でれば、少しだけ拗ねたような表情で、俺を一瞥する。

    視界の端。レオが顔を逸らす動作に合わせ、首筋や耳にまとわりつく金色の髪が、やけに綺麗で印象に残った。

    上辺を撫でていた指を、ゆっくりレオの中に滑り込ませる。指先からじわりと絡まる熱の感覚に意図せず鼓動が早まる。

    「…、んんっ…!」
    「…レオ、大丈夫。力抜いて。」
    「……っ、はぁ…、ハイト…、手…握って…」

    懇願するように、俺を求めるレオの手を握り、じわじわと攻めを続ける。唇を噛んで声を殺していたレオの唇から、吐息混じりの声が次々と溢れた。

    『ハイト』

    上擦った声で、愛しげに何度も名前を呼ばれ、脳の奥がじわりと甘く痺れるような感覚がした。薄暗い部屋の中、静かにレオの名前を囁いた。

    そうしてその後は、強く手を握って、指を絡めたまま。鼓動を確かめるように、温度を確かめるように。何度も熱く抱き合って、何度も名前を呼び合った。

    そうして二人で抱き合って、少しだけ眠った。


    しばらくして目を覚ませば、早々にシャワーを浴びて、俺とレオは布団にくるまっていた。時計の針を注視する。このまま眠りについたら、ちょうどいい時間だな。なんて思った。

    「……おやすみ。レオ…」

    そう囁くと、レオがそわそわと腕の中に身を寄せてくる。

    「………まだ、寝ないよ…。」

    拗ねたような声色で、そう言われた。

    何だかそれがいじらしくて、思わずレオの頭を撫でる。濡れた髪の感触や、レオが持参してきたシャンプーの匂いを鼻先に感じながら、ゆっくりとレオの体を抱き寄せた。

    「…何か、不思議だね。俺もレオも体格とか、身長とかそんなに変わらないのに。」
    「不思議?」
    「こうして、腕の中に収まってるレオはすごく小さく感じる気がする。」
    「……相変わらず、ハイトは変な事を言うんだね。」

    興味深そうな様子で、レオがこちらを見つめてくる。顔色を見る限り、すっかり疲れきってしまった俺と違い、何やらレオはまだまだ元気そうに見える。

    流石警察だな…なんて。そんな事を思いながら、レオの濡れた髪を指先で弄ぶ。

    「…あれ?もしかして俺の方が髪、長い…?」
    「だと思う。僕はこの間切ったばっかりだから…」
    「……勿体無いな。綺麗な髪なんだから、伸ばせばいいのに…」
    「僕はいいお兄さんだからね。この位がちょうどいいんだ。」

    そう言って、レオは冗談混じりに微笑んだ。いつも通りの凛としたレオの声だった。髪を弄んでいた手を首もとに這わせ、どうしてか少しほつれのあるタオルを指で退ける。

    チョーカーのチャームを指でつついて、レオの方を見る。

    「いいお兄さんは、仕事の時までこんなのつけないと思うよ。」
    「…そっか。じゃあ外そうかな。僕はこれ、結構気に入ってるんだけど…まあ、でも、ハイトが言うなら仕方ないね。」

    猫がもぞもぞと布団に潜り込んでくる。案の定、レオの懐に潜っては、呑気に鳴き声を上げていた。

    俺には全然なつかないのに…なんて、少しだけ溜め息をつきながら、レオの頭を撫でた。

    「……それ、分かってて言ってるなら、相当意地悪だよね。レオって。」
    「ハイト程じゃないよ。」

    反論を紡ごうとしたら、眼前の猫にじっと睨みを利かされた気がした。一撃食わされそうな雰囲気を感じ、仕方なく目を閉じて、懐に二人?を抱き寄せる。

    「おやすみ。レオ…」
    「うん。おやすみ。ハイト。」

    目を閉じてしばらくすると、ぎこちなくキスをされた感覚がした。

    そうして、レオが俺の心音に耳を傾けてるのだろうか、胸元に顔を埋めてくる。ようやく静まってきた鼓動の音が鳴り止まない。

    結局、俺が眠りについたのは、明け方近くになっての事だった。

    「行ってきます。」

    レオのそんな声で一度は目を覚ました気がするが、結局目を覚ましたのは、昼近くになっての事だった。

    朧気な意識の中、窓の外から聞こえる規則正しいその音に耳を傾ける。窓に伝う滴を見て、それが雨の音なのだと確信した。

    「雨…?」
    「今日は出掛けようと思ってたんだけどな…」

    『雨の予報なんてあったっけ』

    窓の外から差し込む日差しは強く、少し空を見上げれば鮮烈な日の光に目をやられてしまいそうだった。眠い目をこすりながら、身支度を済ませ、昼食の準備のためにキッチンへと向かう。

    何故かコンロの上には、フライパンが置いてあって。蓋を外せば、やけに大判なホットケーキがフライパンの上めいいっぱいに焼いてあって。

    どころか、家の中でそれなりに大きさがあるであろう皿の上にもそれは取り分けられていた。

    そういえば、昨日も、同じものを食べたな。なんて思い出した。その時の事をよくよく思い出せば、こんなに大量のホットケーキが焼いてある理由にも納得がいく。

    「……流石に、こんなには食べきれないよ。レオ。」

    ほんとに、素直な子なんだなあなんて。少し微笑ましくなった。

    紅茶を入れて、ソファーに腰掛ける。相変わらず、窓の外では雨の音がぽつぽつと響いているようだ。甘さの控えられたホットケーキを口に運ぶ。

    流石に昨日みたいには食べられなかったけれど。

    しばらくすると、食事の雰囲気を感じ取ったのか、猫が一目散にかけてきて、テーブルの上に飛び乗った。食べていたホットケーキを奪い取られそうになり、慌てて皿を退ける。

    確かレオの話では、この子は、これを食べなかったんじゃなかったっけ…?

    「………ずるいよ…ほんとに…」

    そんな事を呟いて、なんとかホットケーキを死守した。

    雨の音を傍らに、壁時計に目をやる。後数時間もすれば、レオが帰ってくる時間だろうか。早くも、夕飯のメニューを考えながら窓の外を見る。

    相変わらずの晴天だが、雨はまだ、降り続いているようだ。こういうのを天気雨って云うんだっけ?

    食事を下げれば、身支度を済ませ、傘を持って外に出た。昨日の昼下がりを思い出す熱気に、思わず身構える。

    ぽつぽつと規則的なリズムで、頬に当たる冷たい雨の感覚が心地良かった。

    たまには、こうして、雨に打たれてみるのもいいのかもしれない。そんな事を思った。

    傘を閉じれば、どこか聞き覚えのある、リズムを耳元に感じながら、俺は早足に町へくり出した。

    晴天の空は相変わらず眩しかったが、何だかそれも少しだけ愛しく思えた。




    天色を選んだ日 ハイト君とレオちゃん(よそのこ)の話。(CoCセッション後の話)






    夢を見た。

    きっと、それは。とても不思議な夢だったと思う。

    夢の中の俺は、真っ白になっていて。

    君と一緒に、色を探して分け合った。

    それから



    目を覚ませばそこは、俺が時々足を運んでいる教会だった。

    白く無機質な色をした景色に、天井の色とりどりのステンドグラスから、淡い朝の陽の光が滲んでいた。

    朝焼けのグラデーションに包まれて、窓の外で、鳥の鳴く声がする。その声は、心なしかいつもより少し静かな気がした。

    「あれ…?ここは…」

    俺はどうしてこんな場所にいるのだろうか。回りきらない頭で、ぎこちなく思考を張り巡らせる。

    背に、固く冷たい床の感触を感じながら、指先にふと温かい体温を感じる。訳もなく伸ばした手が、隣で眠っている人物の頬を撫でていた。

    傍らに目をやれば、そこには、白いワンピースを着てすやすやと眠っている人物の姿があって。

    「レオ…?」

    思わず彼女の名前を呼ぶ。握った手を見る。そうして気付いた。

    俺もどうしてか白い礼装を身に付けていた事。それは先程まで夢の中で着ていた服だと思い出す。

    あれは、夢じゃなかったのだろうか…

    そんな風に思考を張り巡らせたが。疑問すら思考の外だった。ただ、ただ、気が付けば、俺は無我夢中で目の前の彼女を抱き締めた。

    理由も理屈もどうしてかよく分からなかったけれど、目から途切れることなく、ボロボロと涙が溢れた。

    「ハイト…」

    凛とした柔らかい声が耳元で囁かれる。紛れもなく、彼女の声だ。

    声色から、事態が飲み込めないといった様子は感じなかった。彼女はまるで、全てを理解していたかのような。

    そんな様子で。俺の背に手を回しながら、すがり付くように、俺の名前を何度も何度も呼んででいた。

    「……ハイト、…ハイト…っ…!」
    「…レオ、…」

    どうしてか、以前の彼女よりも腕の力が弱くなっているように感じたけれど。それでも、びっくりするくらい、強い力で抱き締められた。

    『良かった。』

    『…私、もう一人じゃないんだね。』

    言葉の意図はどうしてか。すぐに理解できた。夢の中の人物の言っていた、悪夢の話なのだろうと感じる。

    きっと、レオは長い間一人ぼっちになってしまう夢を見ていたのだと思う。世界で、たった、一人きりになる夢を。


    不思議な夢の中で、彼女はこうも言っていた。

    それが、自業自得であるとも。

    不思議な夢の中から帰ってくる間際。俺は無意識的にその言葉の意味を、問いただした。そうして、彼女の口から確かにこう聞いた。

    「夢の中でね。僕は、ハイトを殺せなかったんだよ。」

    「ハイトの事が殺せなくて、皆を見殺しにした。」


    だから、俺は確かこう返したのだと思う。


    「そっか…ええとね、俺は昔、父親を殺しちゃったんだ。夢じゃなくて、現実で。」

    「それを受け入れるのが怖くて、皆を騙して生きているんだ…それに…」

    不思議な空間で、朝霧のような景色に包まれながら、彼女の手をぎゅっと握った。

    自業自得だなんて言っていたけれど、少なくとも俺には、レオが過ちを犯したようには思えなかった。

    素直な彼女の事だ。ただ、ひたむきに真っ直ぐに、俺の事を選んでくれていただけなのだと。そう思った。




    それに

    『きっと俺だって同じように過ちを犯したと思うよ。』

    そう言って、俺は微笑んで彼女の手を取った。



    「レオ、落ち着いた…?」
    「……、…、…」
    「…分かった。もう少し聞くよ。」

    腕の中で、錯乱気味に泣きじゃくる彼女の頭を撫でた。口から紡がれるたくさんの言葉が、矢継きに思考の中に流れ込んでいく。

    その言葉達の意味は、どうしてか感覚的に、まるで手に取るように理解できた。

    「…そっか、大丈夫…レオは悪くないよ。」

    とても長い間、彼女の言葉を肯定し続けていた気がする。いつのまにか涙は止まっていて、俺はレオに微笑みかけ続けていた。

    腕の中で泣きじゃくる彼女のその様はまるで、失意の中で懺悔をする罪人のようであり。ひたむきに愛を求める幼い子どものようでもあった。

    「ずっと一人ぼっちで、辛かったんだね。レオ」
    「………、…、………うん…。」

    弱々しく俺を見つめていた彼女の瞳に、一瞬強い色が宿る。その瞬間、彼女は俺と同じように微笑んでいた。

    『大丈夫。もうレオを一人にはさせないよ。』


    教会の鐘が鳴る。

    まるで、罪は許されたとでもいうように。

    気が付けば、辺りはすっかり陽の光に包まれているようだった。窓の外から射し込む光は眩しくて、思わずふらっと目眩がした。目の焦点が定まらない。

    ぼんやりとした彼女の輪郭の中で、首元のチョーカーが鋭く陽の光を反射した。

    「…だから、もう少しだけ側にいさせて。」

    彼女のチョーカーを見て、改めて思った。彼女を選んだことは、決して間違いなんかじゃなかった。

    送るアクセサリーはもしかしたら、少し間違えたのかもしれないな。なんて。そんな事を考えながら、左手に指を絡めて、彼女の体を腕の中に引き寄せた。

    彼女の頭を撫でながら、耳元で囁きかける。

    「レオ……俺ね…これから、一緒に叶えたい夢があるんだ。」

    抵抗もせず、素直に俺の行動を受け入れる彼女の様は、本当にいじらしくて。それでいて、心から愛おしいと思えた。


    今は少しだけ、君のその素直さが羨ましいよ。

    『 』

    そう言って、彼女の唇にキスをした。


    「……ハイト、待って…!い、今の言葉……どういう意味…」

    顔を真っ赤にして、彼女が取り乱す。言葉の意味は分かるが、理解が追い付かない。そんな感じなのだと思う。こんなに焦りのある彼女の表情は、久しぶりに見た気がする。

    「…私、ええと…僕の聞き間違いじゃない…よね?」

    俺だって、今の言葉を言われたら、きっと同じような反応をしていたんだろうな。なんて。

    「聞き間違えてたら、それはきっと、俺のせいだね。」
    「え?」
    「……ううん。何でもないよ。帰ろうか。」

    呆然とした様子の彼女が、思考を張り巡らせ続けている。そんな事もお構い無しに、俺は慌てて彼女の手を取った。そうして、誤魔化すように踵を返す。

    もしかしたら、いつかどこかの未来で歩くのだろうか。淡い白色をした教会の通路を、早足に駆け抜けた。

    辺りを見回せば、色とりどりのステンドクラスが、キラキラと光っている。窓から射し込む光は眩しさを増す。

    思わず腕で顔を覆いながら、天井を見る。詩的な表現をするなら、このままあの天井から、白い無数の羽が降ってきて、天使が降りてきても、不思議じゃないな。なんて。

    振り向いて、彼女を一瞥する。

    「…ハイト?…ええと、何…」
    「それで。さっきの答えは決まった?」
    「……は!?…そ、そんな…すぐ決められないよ…」
    「……知ってる。大丈夫だよ。多分、後4年位なら待てるから。」

    そうして、再び彼女をリードする。背後で、4年も考えてたら、死んじゃうじゃん…と少し拗ねたように呟く声がした。

    天使の彫刻が施された、教会の扉の前に立つ。

    扉に少しだけ手をかけて、考えた。

    この扉の向こうにいけば、今朝見た夢の中での出来事のように。きっとまたどこかで、選択を強いられるのであろう。

    そんな事を考えながら、すり抜けるように扉をくぐる。

    ゆっくりと外に出れば、脳まで貫くような人口太陽の眩しい光が、視界の奥にじわりと染み入った。

    思わず手で視界を覆えば、その刹那何かの黒い影が視界を通りすぎる。

    「え?」

    影を目で追えば、足元を一匹の猫が、それはもう退屈そうにふらふらと歩いていくのが見えた。

    彼女も同じものを見たようで、ぼんやりとした様子で、俺と同じ方向に視線を向けている。

    「……………。」

    気が付けば、先刻まで身に付けていたはずの俺の礼装も、彼女のワンピースも、どうしてかいつもの私服に戻っていた。

    彼女の手を取り、帰路へと着く。見慣れた地下都市の町並みを抜け、時折、横断歩道を渡る。

    平日の昼間ということもあり、人通りはいつもより少ないように見えた。

    だけど、いつも通りの景色がそこにはあった。

    一緒に手を取って歩いている間。彼女はまるで、通り行く景色一つ一つを慈しむかのように、じっとそれらを目で追っていた。

    そうして、一緒に見慣れた景色を辿っていく。彼女の家の前につけば、玄関のドアをくぐる彼女を笑顔で見送った。

    『今度の選択は間違えないでね。レオ。』

    締め切ったドアの前で、そう微笑みかけながら。

    俺は静かに踵を返して帰路についた。
    エンカウント IF。スピカちゃんの夜の話。月の無い夜は、町へと歩み出す。
    降り続く雨の音。レインコートのフードを深く被り、街灯の明かりを辿っていく。
    暗がりに包まれた世界。
    雑音を掻き消してくれる雨の音。
    自分が何者でも無くなる時間。
    何も演じる必要の無い世界。
    此処はなんて、居心地がいいんだろう。

    彼女は、いや、彼は確か散歩が好きだと言っていたっけ。
    時折、彼が家を抜け出しているものだから。
    ほんの出来心で自分も外に飛び出した。
    するとどうだろう、夜の散歩というのは存外心地の良い物だった。
    双子だから、性分も似ているのだろうか。
    そんな事を思いながら、路地を抜けていく。

    私にとっての日常はとても窮屈だ。
    求められる反応を、好感を買う声色を、惹き付ける表情を。選んでいくだけの毎日だ。
    今この時は、選ばなくていい。不機嫌な顔をしていてもいい。
    誰も私を見ていないし、気にかける事はない。
    頭の中に響く、規則的な雨の音。
    世界はこんなにも穏やかだ。

    そんな時、誰かに肩を叩かれた。
    顔の無いその人は、ノイズ混じりの声で忠告する。

    『気を付けて』

    淡々とその声を受け流し、踵を返す。
    下ろした髪が少しだけ雨に濡れている。容姿の印象を変え、声色を低くすれば、案外自分の正体はバレないものだなあ。
    なんて呑気な事を考えていた。

    結局の所皆、模範生が好きなんだ。
    清く正しく愛想良く。
    そうでなければ、他人は自分に興味を示さない。目を向けない。
    通りすぎていく景色だとしか思わないのだ。
    夜の町はとても素敵だ。静かで穏やかで、自分の世界に干渉してこない。
    そんな世界が此処にはあって。

    彼と一緒に、雑談でもしながら歩けたらこの景色はきっと、もっと美しいのだと思う。
    彼は恐らく、雨の日は好まないのだろうけれど。
    人通りの少ない路地裏を抜け、ふと何かを踏んづけた事に気が付いた。
    随分、見覚えのある飾りのついたネックレスだ。
    これを付けていたのは一体誰だっただろうか…

    人の顔が見えないから。声がよく聞こえないから。
    だから、どうしたって誰かの付けているアクセサリーは印象に残りやすい。
    だけど、これを付けていたのは確か…
    そう考えた矢先、踏み込んだ水溜まりがいつもより鈍い音を立てた。
    足元を見れば、コンクリートに重なるのは鮮やかな赤い色で。

    目の前に、自分と同じレインコートを着た人物が背を向けて立っていた。
    このネックレスは、この人の物なのでは無いか。
    ただ、直感的にそう思った。
    知らない人に話しかけるのは気が引けたけれど、心の中で例えようの無い安心感があった。
    だから私は、その人の方に向かって一歩踏み出した。

    心地の良い世界。
    高揚した穏やかな気持ち。懐かしいような、温かいような感覚…もしもこのまま世界が終わってしまったとしても。
    悪魔にならば、夜に飲み込まれたって構わない。
    規則的に降り続く雨の音に呼吸を合わせ、フードを取る。

    『気を付けて』

    次の言葉は間違えないように。
    内緒の話 みすずちゃんが恋心を自覚する話。
    とある日曜の昼下がり。
    今日も私は元気に行きつけの喫茶店へと足を運んでいた。ドアに手をかける一歩手前、窓ガラスを一瞥する。
    そうして、少しだけ口角を上げて店に来店した。
    目が腫れていたけれど、誤魔化せるかな?なんて。
    知り合いに貰った化粧品をそんな使い方したら怒られそうだけどね。

    そうして、行きつけの喫茶店の決まった席に着く。
    自分の他に数名の客が店内にいるようだった。顔見知りのマスターの様子を窺う。
    先程まで客と何かの話をしているように見えた。
    いつものように注文を済ませれば、今度はカウンターに篭りきりになってしまった。隣にいる客と少し距離を取るように端末を取り出す。

    案の定、自分の予感は正しかったようで、初対面であったはずのその客は、やや馴れ馴れしく声をかけてきた。
    やっぱ、そういう系の人だよね。人見知りというわけでは無いのだけど、こういう人は少し苦手だ。
    押しの強い男性は特に。じろじろと探るような視線に、睨みを返して、端末を覗き込んだ。

    自分は、ナンパだとか、そういった事に比較的巻き込まれやすい傾向だった。
    いっそ慣れてしまった。雰囲気でそれが分かる位には。
    マスターから飲み物を受け取り、また作業を続ける。
    しばらくすると、客は退屈そうに店を出た。別れ際に声をかけられたけれど、無視を貫いた。嫌な感じの言い方だったし。

    嫌な事って続くもんだなあ。なんて思いながら、ミルクティーを喉に流し込む。
    ボーッとしながら店内に飾ってある絵画を眺める。前のマスターが気に入っていると話していた絵だ。
    店内にはジャズ調の心地の良い音楽が流れている。あの客がいなくなった店内は随分居心地がいいなあ。なんて思った。

    それとも、自分が神経質だっただけだろうか?真意は分からない。
    マスターに話しかければ、いつも通りの淡々とした声色で。あるいは時々悪戯めいた口調で話を返される。
    α波とかそういうあれなのかな?よく分からないけれど、この人の声を聞いていると、心の底でとても安心する自分がいた。

    そうしてまた、マスターはカウンターに篭り始めた。忙しそうなのに、よくやるなあ…なんて思うことがある。
    だけど、この人がこの店に対して、何かとても強い信念を持っている事はなんとなく理解していた。
    ある種、そういう部分のストイックさは自分と似ているかもなあなんて思った。

    そうして、作業を続けてしばらくだった。マスターに肩をつつかれ、そちらに振り向いた。
    少しは休憩をした方がいいんじゃないかって。そんな事を言われて、サービスのケーキを差し出された。
    詳しい名称は分からないけれど、それはうさぎの形をしたチョコケーキ?のように見えた。

    他のお客さんには内緒。そう言われたけれど、多分他のお客さんにもこういう事してるんだろうなって。
    それに、勝手に作業をしてる1客の体調なんて別に気にしなくてもいいのに。とか、どうしてか今日はそんな事ばかりが頭に浮かんだ。だけど、その行為が何だかとても嬉しくて、子どもみたいに喜んでしまった。

    と言うか、もやもやしてたものが吹っ切れたというか。そんな感じだった。
    はしゃぎすぎだって、ちょっとだけ笑われたけどね。だけどいつだってそうだ。
    この人は自分の気持ちの揺らぎを、すぐに汲み取って、受け止めてくれる。多分人の顔色に敏感で、誰にだって優しくて気が利く人なんだろうなって。

    まあ、だからこそこういう仕事をしているんだと思うけどね。さっきのケーキがとても気に入ったから、商品化したら売れるんじゃないかって声をかけた。
    ニーズには敏感だったし、確信はあった。だけどマスターには、いつもの悪戯めいた口調で、作るのが大変だったからやめとく。って返された。

    言葉の真意は分からなかったけれど、料理には詳しくなかったから、気にせずに話に同調した。
    そうしてしばらくすると、外で雨が降っていた事もあり、駆け込むように女性客が数名来店した。
    急かし気味で話を切り上げ、またいつものように作業に戻る。常連なのだろうか?客とマスターはやや親しげだった。

    店によくいる事もあり、ある種の慣れなのか、他のお客さんの話は自然と耳には入ってくるものの、そこまで印象に残った事は無い。
    だけど、今日は違った。女性グループの一人の話が、とにかく気にかかって仕方なかった。
    どうやら、この人はここのマスターに気があるらしい。何だか、胸がざわつく。

    あの人は優しくて、気が利いて、ただの客である自分の話も真摯に聞いてくれて。そんな感じの事を話していた。
    そういえば、私は全然気にしたことが無かったけれど、容姿が整ってて、顔もかっこいいとか、そんな話も結構してた気がする。
    年齢も同じなんだって。まあ、気持ちは分からなくも無かったな。

    少し傍観的に彼女の話を受け入れていて、こんな言葉を聞いた。

    『今度来た時に想いを伝えようと思う。』

    消え入りそうな彼女の声が、頭の中で延々と反響した。しばらく頭の中が真っ白になった。
    焦ったし、動揺した。私はただ、呆然としているしかなかった。ペンを持つ手の震えが止まらなかった。

    思えば、考え足らずだったのかも知れない。マスターは自分だから優しくしてくれている訳でも、自分だから話をしてくれる訳でもない。誰にだって優しいし、気持ちを汲んで向き合ってくれるんだ。
    お客さん相手にそうするのは、当然の話で。そんな事をぐるぐると考えていると、マスターと目があった。

    心配そうな目をしていたから、話しかけないでくれと言わんばかりに端末と向き合った。こんな状態で絵なんか描ける訳無いのに。マスターの視線を感じる事はあったが、不思議と声をかけられる事は無かった。
    てっきり、声をかけてくると思ったけれど。それほど自分は、キツい態度をしてたのかなあなんて。

    家には帰りたくなかったけれど、どうしても気持ちの整理が付かなくて。今日は流石に店を出ることにした。
    それ位自分にとって先程の出来事は衝撃的だった。俯きながら会計を済ませ、荷物をまとめる。
    マスターの態度は相変わらず優しくて。5才も年下に気を使わせてる自分が情けなくて泣きそうになった。

    『…、……みすずちゃん。』

    店を去る間際、名前を呼ばれて思わず振り返る。マスターの声は、いつもの余裕のある雰囲気とは違い、少し弱々しくて焦っているような声だった。振り向き際に涙を拭われ、焦ってマスターを押し退ける。
    でも、どうしてかマスターは私の行動には全く動じず、言葉を続けた。

    まず、嫌な想いをさせた事を謝られた。

    違う。この人は何も知らないし。何も悪くない。むしろ、謝るべきはこっちだったはずで。だけど、言葉が出なかった。

    それから、また此処に顔を出して欲しい。

    そんな事は当然だ。自分だってこの場所に居たくてたまらない。だけどやっぱり伝えられない。


    上手く言葉を紡げない自分に少し苛立った。そんな事もなんとなく察したかのように、ぎゅっと手を握られた。

    『明日もまた待ってます。』

    そうして優しく微笑まれた。
    不思議と胸の中が苦しくなくなった。その言葉が嬉しかった。だけど私には、迷惑をかけてごめんなさい。の一言が精一杯だった。

    慌てて店の外に出て、少し離れた建物の屋根の下で、矢継ぎに溢れる涙を拭った。
    もしかしたら、店を出た事にどこか安心して、周りが見えなくなっていたのかもしれない。気持ちを落ち着かせ、呼吸を整えた時、心配そうに自分を見下ろすマスターと目があった。驚愕こそしたけど、今度は冷静に話が出来た。

    何の用事かと思えば、傘を届けられた。そういえば、自分は傘を持っていなかった事に気が付く。
    雨が病むまで店に居ようと思ったんだっけ。慌てて飛び出して来たのだから、当然だ。
    今度は、ちゃんとありがとうが言えた。
    15才にもなってこんなに情けない様なのは少しどうかと思うけれど。

    そうして、桜の模様の描いてある傘を差しながら帰路に着いた。家の中は相変わらず、薄暗く雑然としている。だけど、帰宅したときにいつも感じる、孤独感や虚無感は今日は感じなかった。
    傘を玄関に立て掛けて、ひとまず、丁寧に雨を拭いた。自分にしては、割れ物でも扱うかのように、丁寧に。

    明日にでも、これを返しに行かなければなあ…なんて考えた。
    少しだけ気が重かったが、流石に行かないわけにもいかないだろう。あの女性客に会わない事を祈るばかりだけれど。
    そんな事を考えながら、ベッドに転がり込んだ。いつものように、てっきり涙が出てくるかと思えばそんな事は無かった。

    ふと、テーブルの上を見るとレターセットが目に入った。そういえばこの間デザインした物だったっけ。

    「手紙…」

    落ち込んでいたはずが、どうしてか今日は気持ちの切り替えが早かった。
    少しすれば、手紙を書いてみようだとか、いつもとは違う服を着てみようだとか。そんな事ばかりが頭に浮かぶ。

    明日は久しぶりに美容院に足を運んでみよう。
    知り合いから貰った化粧品も、ちゃんと使ってみよう。
    それから…そんな事を考えながら、雑然としていた部屋を更に、とんでもない状態にした。
    だけど、満たされた気持ちだった。明日こそ笑顔で店に入って笑顔で店を出よう。そう決心して眠りについた。

    夜鏡 Link Message Mute
    2018/06/21 1:04:47

    【地下都市チルドレン小説・SSまとめ】

    地下都市チルドレンのキャラの小説・SS等のまとめです。
    作品によっては他の方のキャラクターをお借りした物もあります。


    【 地下都市チルドレン 】
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    #創作  #創作企画  #地下都市チルドレン

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