【ゆく妖】微妙な19のお題:05【秋葉原+妖夢】【05. ねぇ。その痛みはやっぱり、くるしいですか?】
それは新月の夜のひととき。しぃんと静まり返った誰もいない家の中、パソコンに向かってぽつり、呟く。
「…ねえやる夫、いるかみょん?」
「ほいほーい、何だお?」
名を呼べば即座にぱっと画面に浮かび上がってくる彼の、楽しそうなのにどこか陰を帯びた笑顔に、少しだけ胸が痛んだ。出会ったばかりの頃は、こんな痛みは感じなかったのに。…彼はあの時、こんな悲しそうな笑顔なんて浮かべてはいなかったのに。
「明日の朝までママが仕事でいなくて、今夜は妖夢ひとりぼっちなんだみょん。寂しいから、しばらく話相手になってくれみょん」
「ありゃ、そうなんかお。でもだったらやる夫なんかよりもお友達とでも、そうでなきゃごろ」
「今日は、やる夫とゆっくり話したい気分なんだみょん。…駄目?」
やる夫の言葉を途中で遮って、畳み掛けるように呟いた。そのあまりに弱々しい声に、我が事ながら少し驚く。どうしてだろうか、今日は柄にもなくセンチメンタルな気分になっている。
新月の夜、だからだろうか? 月の出ない、見上げれば闇しかない空の下だから。
新月は、すべての妖なるものの力が衰える日だという。ならば自分の中に今も眠る怪物の力も、弱っているはずで。だからこんなにも心細い気分になるのかもしれない。
こんな夜は、あの人の顔が見たいと思う。私が苦しいとき、辛いとき、嫌な気持ちに押し潰されそうになったときにいつだって手を差し伸べてくれる、私をすくい上げる言葉をくれる、世界で一番かっこいい人。
でも今日だけ、今夜だけは…………
「…妖夢ちゃん、本当に元気がないみたいだおー。いいお、やる夫なら暇だし、話相手にでも何でもなるお!」
「…ありがと、だみょん」
「でも、本当にやる夫でいいのかお? 本当は別に…頼りたい人がいるんじゃないのかお?」
からかうみたいな口調でやる夫が笑う。そういえばさっきも、「お友達とでも、そうでなきゃごろ」とか言ってたっけ。「ごろ」って、どう考えても続く言葉は「五郎ちゃん」以外ないだろう。やる夫と私の共通の知り合いで「ごろ」がつく人なんて、あの人以外にいやしないんだから。
本人は全然気づかないのに、そう何度も顔を合わせたわけじゃないやる夫にはバレバレだという事実が、ちょっと悔しい。これが年の功ってやつなのかな。…五郎ちゃんもやる夫とあまり変わらない年齢じゃないかってことは、置いておくとして。
「…何回言わせるんだみょん。今日はやる夫と話したい気分だってんだみょん」
「ならいいけど…何を話すんだお? さすがに未成年の、それも女子高生相手にやる夫のお宝とかハッキングして手に入れた○○(ピー)の情報とか話すわけにはいかんしお」
「お前の頭の中にはそんなのしかないのかみょん! もっとなんかあるでしょ、たとえば………………やらない夫のこと、とか」
その名を口にした瞬間、画面に映るやる夫の姿がぶれたような気がした。僅かに顔も引きつっているように見えるのも…きっと気のせいじゃない。
「……そんなん、あんま楽しい話じゃないと思うお? 特に妖夢ちゃんにとっては」
「そりゃ、誘拐されたり、怪物にされたり、マフィアに付け狙われて襲われたり、前のときにはママを殺されたりとかいろいろあったけど……」
改めて口にしてみると、我ながら本当に散々な目に遭って来たものだ。普通、そんな酷いことを沢山されたら、その下手人を激しく憎んで恨んで、絶対に許さない、殺してやりたいと思うものじゃないかって思う。そして、そいつが死んだとしたら…ざまあみろ、と少しの爽快感と虚無感が入り混じったような微妙な気分になったりするだろう。
なのに、どうしてだろうか。あの、やらない夫が死んでから今まで、一度だってそんな気持ちは浮かんでこない。むしろ、なんて哀れな奴だったんだろうかと、「巻き戻り」以前の世界ではママを殺しさえしたあの男に、憐憫の情さえ覚えている。
それはきっと、あの男の過去への同情心だとか、そういうものではなくて。似た立場に置かれた者としての、一方的なシンパシー。
「あのね、やる夫……あいつ、本当は自分を止めてほしかったんじゃないかって思うんだみょん」
「…うん。あいつは絶対認めないだろうけど、やる夫もそう思うお。そう、信じたいってだけかもしれないけど…」
ぽつり、ぽつりと雨を降らすように呟かれた言葉には、ゆるく首を振ることで返した。
黒いスーツと黒い液体生物を身に纏う、「地獄」を具現化したみたいな…今は亡き男のことを思い出す。私にとっても、たぶん霊夢たちにとっても、悪魔でしかなかった男。それでも…やる夫にとってはとても、とっても大切な友達だった人。
…最初は世界を滅ぼそうとするやらない夫が許せなくて、あいつを止めたくて、止めるためだけに必死になりすぎていて、他の何かを考えられる余裕なんてなかった。ううん、あったとしても、きっとわかりたいとも思わなかった。でも、諸々が落ち着いてきた今になって、ようやく見えてきた気がする、いろんなこと。
きっとあいつは、やらない夫は――
「妖夢は、誘拐されたとき、五郎ちゃんが助けてくれたみょん。霊夢も竜崎も…やる夫だって、力になってくれたみょん。妖夢には…助けてくれて、庇ってくれて、守ってくれて、力になってくれる人たちがいたみょん」
ひとりぼっちの魔術師さん、と彼を評した竜崎。それは契約、脅迫、洗脳なんかを伴わない完全なる「仲間」がいなかったやらない夫へ皮肉を込めての渾名だったのかもしれない。でもきっと、それはやらない夫の本質を突いていたんだと、今はそう思う。
もし、ひとつでも何かがずれていたら、今頃は私が第二の「柏崎やらない夫」になっていたのかもしれない。そう思うと全身に冷やりとしたものが走る。
だって私が世界を救ったのは、世界のためじゃない。ママを始めとして、五郎ちゃんも霊夢も竜崎も、学校のみんな…ほんの一握りの大切な人たちに死んでほしくなかったからってだけだもの。世界を守る理由なんて、それだけで十分だった。
「でも、やらない夫には」
「……うん。誰も、いなかったんだおね。北米三合会の連中に拉致られても、そこでどんだけ酷い目にあってても…助けてくれる、誰かが」
哀しそうでいて悔しそうな、複雑に顔を歪めるやる夫が、ぽつりぽつりと呟く。
どうして、あいつが一番苦しんでいるときに側にいてやれなかったのか、助けてやれなかったのか、せめて異変に気がついてやれなかったのか。
どうして、あんなにも近くにいたのにあいつの内なる憎悪、怨嗟、絶望…それらの感情に何一つ気づけなかったのか。
どうして、あんな決断をしてしまう前に、世界そのものを呪う程に追い詰められる前に、一言でいいから相談してくれなかったのか。
そう思っているのがありありと伝わってくる、見ているこちらの方が辛くなってしまう、そんな表情。初めてコンピュータの中に入ったやる夫を見つけたときから幾度となく見てきた顔だけど、何度見ても痛々しくて直視できない。
「正直、ちょっと思ってるんだお」
「…何をだみょん?」
「やる夫がもっと昔に、たとえばあいつが北米三合会の連中に拉致されたときにプログラムになってたとしたら、あいつを助けてやれたんかな、ってお」
想像もしていなかった発言に、思わず目を見開いた。画面の中で、自分の両手を眺めながらやる夫は続ける。まるで、無力な自分を責めているかのように。
「ほんとはわかってるんだお。何であいつが、やる夫に一言も相談してくれなかったのか。……やる夫が、頼りなかったからだお。あいつを助けるどころか、自分の身さえ守れないぐらいに、弱っちかったから」
「やる夫……」
「あの事件のときだってそうだお。プログラムになってから、やっと色んなこと理解できて、コンピュータの中から妖夢ちゃんたちと一緒に戦えたお。逆に言えば…プログラム化してなきゃ、あいつの苦しみに気づけなかった、妖夢ちゃんたちの力にもなれなかったってことだお」
そんなことはない、と言ってあげたかった。でも、言えない。きっと、やる夫の傷はそんな言葉で慰められるような痛みじゃないから。何より、それは私の口から発せられるべき言葉じゃない。その言葉でやる夫を慰めることができるたった一人の存在は――もうこの世のどこにもいないのだから。
ぐっと歯を食いしばり、一度だけ深く息をつく。あまり良くない頭をフル回転させて、告げる言葉を考える。私にだって、できることはあるはずだ。その傷を完治させることはできなくたって、せめて和らげることぐらいは。
「…それを言うなら、妖夢だってそうだみょん。五郎ちゃんに協力してもらって怪物化をコントロールする方法を思いついてなかったら、みんなの足引っ張るだけにしかならなかったみょん。実際、最初の頃は失敗ばっかりで、五郎ちゃんにも迷惑かけてばっかりで…」
「そうは言っても…妖夢ちゃんはついこないだまで普通の女子高生だったんだからしょうがないお。探偵の五郎さんとか、警察の霊夢さん、そのパートナーやってる竜崎さんとじゃくぐってきた修羅場の数が違うお?」
「…うん。だからさ、やる夫もあんまり自分を責めたりするなみょん。あの事件があるまで普通の生活しかしてなかったのは、やる夫だって同じでしょ?」
できるだけ穏やかに言葉を紡げば、やる夫がぐ、と息を呑むように体を竦ませたのがわかった。それから肩の力が抜けたようにふ、と眉根を寄せたまま小さく笑って。
「こりゃ一本取られたお。妖夢ちゃん、ごめんだお。やる夫としたことが子供相手にこんな」
「…子供扱いすんなみょん。ウルトラぷりちーマジカル妖夢ちゃんなめんなみょん!」
茶化したように笑ってはみせたけど、ちゃんと笑えていたかどうかはわからない。やる夫は何も言わないけど、こっちに気を遣ってくれてるだけかもしれないし。
胸の中を渦巻く思いとは裏腹に、なんでもないように振舞いながら会話を続ける。
「やらない夫はホントに馬鹿な奴だったみょん。こんなにあいつのこと心配して、力になりたいって思ってくれるやる夫みたいな友達が側にいたんだから、もっと別の方法を探せば良かったのに」
「…ははっ、妖夢ちゃん、あん時も似たようなこと言ってたお? なんだっけ、『誰かの幸せに関係する何かで』?」
「うん…後からだったら何でも言えるし、そんな簡単にあいつが味わった絶望とか、恨みとかそういうのが消えちゃうってことはないだろうけど…それでも」
「…言いたいことはなんとなくわかるお。やる夫も、あいつのこと調べてて、色々わかったときから、ずっと似たようなこと思ってたから…」
やる夫が泣く寸前みたいな顔で、それでも笑みを浮かべる。泣いてしまえばいいのに、と思う。大人だからって泣いちゃいけないってことはないだろうし、最初にコンピュータの中に入ったやる夫を見つけてやらない夫のことを話したときも、あの日やらない夫が死んだときだって……あんなに泣いてたくせに。
なのに、やる夫はあれから泣かなくなった。妖夢たちに呼び出されてないときはどうかは知らないけど、少なくとも妖夢たちの前では絶対に涙ひとつ零さなくなった。…やらない夫の名前も、決して呼ばなくなった。今日だって、ずっと「あいつ」としか言ってない。
泣いてしまえばいいのに。その名を呼んで、素直に寂しいと、辛いと叫んだとして、あいつの死を悼んで泣き喚いたとして、誰もそれを責めたりなんてしないのに。
きっとやる夫は、あれからずっと自分を責めている。許せないでいる。あんなにも近くにいた親友の心の傷に気がつけなかったことが何よりもの罪だと、悲しいまでの自責の念を引きずったまま。そして、その「罪」を償う方法も、親友を失った傷を癒せる人も、もう何処にもいなくて。
何もできないのならせめてやる夫の手を握ってあげたい、頭を撫でてあげたい――五郎ちゃんがあの時、泣く私にそうしてくれたみたいに。だけど、次元という壁に阻まれた場所にいるやる夫相手じゃ、それすら叶わない。
(…ねえ、その痛みはやっぱり、苦しいんでしょ?)
声にならない問いは、喉の奥に消えていき。私はただただ、やる夫が自分を責める言葉を口にするたびに、穏やかに声をかけることしかできなかった。