【ゆく妖/腐】微妙な19のお題:11【柏秋】【11. 今だけは背中を見ててあげるけど、いつかは】
暗く淀んだ意識の中、ふと辺りを見渡すと、一面の花畑が広がっていた。更にその向こうには真っ黒な河がある。河が真っ黒なのは、汚れているからじゃない。夜の海と同じで、つまり此処には反射する光が無いから、河が色を映さなくて黒く見えているのだ。自分はその河の岸辺に立っていた。それも、かつてのように肉の体を持って。
今ではすっかり見慣れてしまった光景に、ああまたここに来れたんだ、と。心の中に歓喜が広がっていく。
ここにどうやって来ているのか、いつの間に来ているのか、今自分はどうなっているのか、何もかもが理解の範疇を超えていた。一度瞬きをしたその刹那には景色が変わっていた、そうとしか言い様がないぐらい、気がつけばいつもこの場所に立っているのだ。どうすれば来られるのかわからないから、ここから立ち去る時はいつも、恐怖を感じていた。二度と来れなかったらどうしよう、次に来たくなったらどうすればいいんだろう、といつだって不安で。だから、ここで過ごす時間は何よりも尊い、自分にとっての宝物だ。この貴重な時間を無駄にしてはいけない。
念のためにと手を握ったり開いたりすれば、皮膚が引きつる感覚と、腕周りの筋肉が連動している感覚があり、懐かしさに思わず嘆息。軽く準備体操をしてから、黒い河に足をそうっと踏み出した。ぴちゃん、という水音が、薄気味悪いほどに静まり返った空間の中、やけに明瞭に響く。
足の裏に微かに砂利を踏んでいる感触と、緩やかに流れている水が足を撫でる感覚はあるが、不思議と冷たくは感じなかった。…いや、冷たいどころかぬるいとも温かいとも感じない。この感覚をなんと表現すればいいのかと一瞬考えて、すぐにやめた。そんなことを考えている時間すら勿体ない。
無心になり、ざぶざぶと河を進んでいく。ここには光が無いから、時間の経過を示してくれるようなものは何も無く。あの運命の日にプログラムと化してからは当たり前になってしまった感覚ではあるけれど、何故か肉の体を得ている今も、どれだけ歩いても疲労の欠片も感じなかった。それらのせいで今、自分はどのあたりにいるのか、どれだけ進んだのか、この河へ入ってからどれだけの時間が経ったのかさえ全くわからない。少しずつ河が深くなっていき、今は膝の少し上あたりまでが水に浸かっているから、確かに前進できていることだけはわかるのだけれども。
更に河を進んでいくと、ついに腰にまで水面が届いてきた。さすがにここまで来ると、水の流れも早くなってきて少し歩きづらい。さりとてここからは泳いでいこう、と思えるまでの深さでもなく。仕方なしにもう少し深くなるまでは歩こうか、と再び足を踏み出したそのとき――懐かしい、大好きだった声が聞こえた。
「やる夫」
ばっと声のした方向に顔を向けると、自分にとって唯一無二の親友が、膝まで水に浸かってそこに立っていた。
ああやっぱり背高いんだな、やる夫は腰まで浸かってるのに、と取り留めのないことを考えて。
「やっと見つけただろ。お前、ここ来るたびにわざと分かりづらい方向に進んでないか? 探すの大変なんだから、もうちょい自重するべきだろ、常考」
「…しゃーないじゃんかお。こんな目印の一つもない真っ黒な河、やる夫自身にだって真っ直ぐ進めてるかどうかわかんねーんだお」
まーそりゃそうだけどな、と困ったように眉を下げる彼の姿が、あまりにも懐かしくて、愛おしくて。ざぶざぶと音を立てながら歩み寄り、その胸板に頭を押し付けた。
「…会いたかったお、やらない夫」
「……うん、俺も……」
こみ上げてくる愛しさに耐えかねて、彼――やらない夫の背中に腕を回してぎゅう、としがみつく。黒いスーツに皺が寄るが、やらない夫は怒ることもなく、小さく身を屈めながらやる夫を抱きしめ返してくれて、頭や頬を優しく撫でてくれた。
…昔は、うっかりスーツに皺が寄るような真似をすれば、「あー! 何やってんだよ、皺ついちまったじゃねーか、またアイロンかけなきゃだろ」なんて、ぶつぶつと文句を言ってたくせに。それでやる夫が責任を取ってアイロンをかけてやると、「大丈夫かあ? 焦げ跡なんかつけんなよ」と心配そうな、それでもどこか嬉しそうな顔でやる夫の手つきを眺めていて。無事に終わらせて、「どーだお! やる夫だってやればできるんだお!」と自慢してみれば、「はいはい、すごいすごい」なんて呆れたように笑いながらスーツを受け取って、最後には必ず「ま、ありがとな」とやる夫の頭をくしゃりと撫でる。
その一連のやり取りがまるで夫婦みたいだな、なんて。密かに、くすぐったくて幸せで、温かい気持ちになっていたことを、彼は知っていたのだろうか?
そんなことを思い出して、大声で泣き喚きたくなってしまうも、必死に堪える。ひっ、と喉が引きつって、乾いた空気が漏れた。
「…ん? あーほら泣くなって、よしよし」
「…な、泣いてなんか、なっ」
「はいはい」
あやすように頭を撫でられて、ついに涙が溢れてくる。しばらくの間、やる夫はやらない夫にしがみついて、泣いた。やらない夫はその間ずっとやる夫の頭を撫でてくれて。その優しい手の感触すら哀しくて苦しくてしょうがない。
彼を殺すことに加担した自分が、どうしてこんなにも優しくしてもらえるんだろう。間違ったことをしたとは思わないし、後悔だってしていない。だけど間違いなく彼を殺すための戦いに、コンピュータの中からとはいえ参加したことが、今更になって重く感じられた。
どうしてこんなに苦しいのに、こんなに幸せなんだろう。どうして、こんな形でしか触れ合えなかったんだろう。愛しさと悲しさと懐かしさで、気が狂ってしまいそうだった。
*****
それから何分経ったのか、ようやく涙も止まってきて、のろのろとやらない夫の胸から顔を上げる。
「…落ち着いたか?」
その問いにこくり、と頷いてから一旦やらない夫の背中に回したままだった手の力を抜いた。すると勝手知ったりの様子で「よっと」という掛け声と共に体を持ち上げられる。右腕がやる夫の背中に、左腕がやる夫の膝の裏に回されて――いわゆるお姫様抱っこというやつだ。この場所に来るようになってから、当たり前のように繰り返されている行動。
最初の頃こそ「恥ずかしいからやめるお!」と叫んでじたばたと暴れたものの、「お前が足に怪我でもしたら嫌だし、何よりせっかくやる夫に触れるんだからさ、触ってたいんだよ」と言い張られて。触れたい触れられたいと思う気持ちは一緒なのだと、ふんわりした気持ちになったから受け入れた。でもそれにしてもお姫様抱っこは無いだろう、せめておんぶにしてくれないかと抗議したこともあったが、「だってそれじゃやる夫の顔が見えないだろ」とそれはそれは哀しそうな顔で言われ、それもそうか、結局やる夫が恥ずかしいのを我慢しさえすれば万事丸く納まるのだと、お姫様抱っこも受け入れる羽目になったことは記憶に新しい。
じゃあ行くぞ、と、やらない夫はやる夫をお姫様抱っこしたまま、ざぶざぶと音を立てながらやる夫が歩いてきた道を引き返す。
「…やらない夫、道間違えてるお」
「間違ってないだろ。お前が行くのは、こっち」
「……………」
「んな顔したって、駄目なもんは駄目だろ」
話している間も、やらない夫の歩みにはほんの少しの躊躇も戸惑いも見られない。それが酷く悔しくて、抗議の意を込めてやらない夫の鎖骨にぐりぐりと頭を擦り付ける。痛いっていうかくすぐったいだろ、と彼は笑った。
怒ってくれればいいのに、と思う。怒ってくれたのなら、こっちだって逆ギレかましてこの腕の中から飛び降りて、あの岸の向こう側まで走っていってやるのに。やる夫の我侭でしかないのはわかっている。だけどそれでも、願わずにはいられなかった。
哀しみに満たされそうになる心を持て余しながらも、昔一緒に歩いた時よりもゆるい歩幅や歩く速度にただ身を委ね、その存在感に酔う。ゆったりとしたリズムと、密着した体から伝わる温度があまりにも心地良くて、思わず眠ってしまいそうになる。だけど眠ったりするわけにはいかない。せっかく一緒にいるんだから、一分一秒でも多くやらない夫の顔を見ていたい。
この場所にどうやって来ているのかなんて、やる夫にはわからないから。今まで何度も来れたからといって、また「次」があるかなんて誰にも保証はできないじゃないか。もしかしたら、今回が最後になるかもしれない。絶対に最後になんてしない、そう決意はするけれど…やっぱり怖いことに変わりはなくて、だから毎回、とにかくやらない夫だけを目に映し続けるんだ。
「…なー、なんで今、やらない夫の右腕、ちゃんと付いてるんだお? それ、あの液体生物じゃなくて、ちゃんと生身だお?」
「さあ、俺にもさっぱり…この場所だから、としか言い様ないだろ。そういうお前こそ、意識だけプログラム化したはずなのになんで体あるんだよ。わかんないだろ? それと同じことだろ、多分」
毎度繰り返される疑問だけど、毎度律儀に返答される。それから一度、感触を確かめるようにゆさり、と体を揺さぶられるように抱え直されて。
「…あー。でもさ、なんでかなんてわかんねーけど、やっぱ嬉しいだろ。もう二度と無理だと思ってたのに、また『生身の両手』でお前に触れられた」
ポチに頼らなくても、とふにゃりと幸せそうに笑む、その表情があまりにも痛くて。泣きそうになるのを堪えるように、やらない夫にぎゅう、としがみつく。
背中に伝わる、やらない夫の右腕の感触が嬉しい。あの忌々しい連中によって奪われたものが、全てやらない夫の内に帰ってきたような。
…こんな場所でなければ、もっと良かったのだけれども。
複雑な気持ちになりながらも、やる夫はただやらない夫を見つめ続けた。
*****
元来た岸にたどり着くと、やらない夫は水に浸かったまま、やる夫だけをそっと降ろして岸に立たせた。岸と水の中では段差があるというのに、相変わらずやらない夫の方が背が高い。向かい合っても、見上げなければ視線がかち合わないのがちょっとだけ悔しかった。
「…んじゃ、元気で…ってのも変だな、帰ったらお前はまたプログラムに戻るんだもんな。えーと、ウィルスには気をつけろよ」
困ったように笑いながら手を振り、やる夫に背を向けようとする彼のスーツをぎゅっと掴む。行かないで、まだ一緒にいたいんだ、…やる夫も連れて行って、と想いを込めて。結果はいつもと同じだと、わかっていても。
「駄目だろ」
ああほら、やっぱり今日も同じ結果。だけど諦めたくない。もう一度、畳み掛けるみたいに口を開く。
「まだ、駄目なんかお?」
「まだっつーか…俺としては、永遠に駄目だって言いたいとこなんだけど」
「今のやる夫には、死ぬって概念があんのかどうかわかんねーお? やらない夫の言う通りにしたら、やる夫はずっとコンピュータの中でひとりぼっちで過ごすことになるお」
やらない夫はぐっと息を飲んで顔を歪める。それから苦しげに片手で目元を押さえた。
その姿を見ていると、そこはかとない罪悪感がこみ上げるけれど、撤回する気にはなれない。…本当は別に、ひとりぼっちで過ごす云々はどうでもいいのだ。だって、ひとりぼっちだろうと大勢に囲まれていようと、やらない夫がいなければ意味がない。誰がいてくれたって、たったひとりの大切な存在が隣にいないのなら孤独も同然なんだ。だから、許して欲しい。
「…あのさあ、俺、本当に嫌なんだよ。お前を悲しませるのも、傷つけるのも、寂しい思いさせるのも」
「…………」
「お前がプログラムになってなきゃ、躊躇わずに永遠に駄目だって言えんのになああああ」
ばしゃり、と音を立てて水の中にしゃがみ込んで、やらない夫は嘆いた。こいつがやる夫を大切に思ってくれているのは、凄く伝わってくる。伝わっては、くるのだけれども。それならばやる夫がやらない夫を大切に思う気持ちも、理解してはくれないだろうかと思う。悲しませたくないのも、傷つけたくないのも、寂しい思いをさせたくないのも、やる夫だって同じなのだと、どうしたら伝えきれるだろうか。
嫌だと、帰りたくなんてないと、子供のように駄々をこねて、やらない夫に縋り付いて泣き喚いたこともあった。だけどそのたびに、こいつが哀しそうに苦しそうにやる夫を見るから。その理由が、意味がわからないわけじゃないから。
自惚れだと嗤われても構わない、こいつに世界で一番愛されて大切にされている存在は、間違いなくやる夫であるという自負があった。そのやる夫が、自分を想って、追いかけて、こんな場所にまで来てしまうのだ。それをやらない夫が哀しく思わない筈が無い。常に哀しそうで苦しそうなその顔に気づかないほど、やる夫は馬鹿じゃなかった。あの頃、こいつの内なる絶望や憎悪に気づけなかったぐらいの愚かだった自分を思い返して、あああの頃みたいな馬鹿でいられたら良かったのに、そしたら何も気にせずにこの川を渡っていけたのにと、思わずにいられない。
今までこんなにもどうしようもない思いに駆られたことなんてなかった。叶うならこのまま……二人でこのまま、この河の底に飲み込まれてしまえばいいのに。あの岸の向こうに行くことが許されないのならいっそ此処で終わってしまいたい。
そんなことをぐるぐると考えていると、やらない夫は苦しげに顔を歪ませたまま、すっと立ち上がった。それからふぅ、と大きく息を吐き出して、やる夫を見据えてくる。
「…………やる夫。じゃあせめて、あと百年ぐらいは向こうにいろよ。具体的には、妖夢ちゃんたちが婆さん爺さんになって死んじまうまでは」
要するに、お前を知っていて、お前の名前を呼ぶ誰かがいなくなるまでは。そう言って、やらない夫は寂しげにただ笑う。…そんな顔をするぐらいなら、側にいさせてくれればいいのに。
「んなこと言ったって、やらない夫のことだから、実際そうなったらなったで別の理由つけて、やっぱ駄目って言いそうな気がすんだけどお」
「…何だよ、今日はやけに突っかかってくるな」
「…………いい加減、やる夫も限界だってことだお」
ぽつりと零すと、やらない夫は居た堪れない、というように目を逸らした。だが許さない。今日という今日は、絶対に認めさせてやる。お前にとっても譲れないことかもしれないけど、やる夫にだって譲れないことはあるんだ。
「あのさ、頼むから、もう許してくれお。そりゃ、五郎さんも妖夢ちゃんも竜崎さんも霊夢さんもしょっちゅう呼びかけてくれたりとかするけど…それでもやっぱ、一番一緒にいたいのは、やらない夫なんだお。やらない夫がいてくんなきゃ…誰がいたって、寂しいだけなんだお…」
口に出してみれば、思った以上に縋るような弱々しい声が喉から漏れて、ああ自分で思っていたよりも限界だったのだと改めて実感する。やらない夫からしても胸に来るものがあったのか、彼は苦しげに片手で顔を覆った。
「俺だって嫌だよ。お前にそんな思い、させるなんて」
「…………」
「でもさ、お前には生きててほしいんだよ。一度は世界を滅ぼそうとしたくせに何言ってんだって思われるだろうけど…お前には、お前にだけは、幸せに笑って生きて欲しくて…」
「だから、それなら許してくれっつってんだお、やる夫がここに残るの。やらない夫がいてくんなきゃ、やる夫は全然幸せになんてなれないんだお…?」
一度言葉を切って、改めて周りを見渡す。やる夫がここに来てから随分と時間が経っているというのに、相も変わらず光の一つも見えない真っ黒な河と、不思議と風ひとつ吹かない中に咲き誇る花たち。
それらを皮肉げに見やってから、やらない夫に向き直った。
「…あのさ、あえて今まで言及しなかったけどお、ここって明らかに三途の川ってやつだお?」
「……そうだろ」
「何でいつ来てもやらない夫、ここにいんだお? やる夫がここに来たとき、やらない夫がいなかった時なんて一回も無かったお?」
「……俺には天国は勿論、地獄すら生温いってことだろ。かと言って輪廻の輪からももうとっくに外されてるから転生も出来なくて、だからここで…あの世とこの世の狭間で彷徨ってるだけって感じ? …あとさ、仮にお前に『死』があったとしても、俺はお前と同じ場所には行けないだろ。ずっとこの場所から出られないままだと、思う」
「……わかってるお。やらない夫は人を殺しすぎたんだお。それは、何があっても許されることじゃないお」
あまりに予想通りすぎる言葉に、思わず冷笑が零れた。どんな理由からであっても、何がきっかけであったにせよ、こいつはあまりにも人を殺しすぎた。更には世界を巻き込んだ自殺を企て、一度は世界を滅ぼしかけた、それは何よりもの大罪であろう。確かに、地獄すら生温い――だからこその。地獄で責め苦を受けるのではなく、生と死の狭間で、輪廻の輪へと還る人々を横目に、孤独を託ちながら永遠の時を過ごせ、と。そういう「罰」なのだろう。
そんな彼を哀れだと思うのは、罪だろうか? どんな罪を背負っていたとしても、どんな罰を受けねばならぬ身だとしても、その隣に寄り添っていたいと願うのは、罪だろうか。
もしも罪だというのなら、是非とも彼と同じ「罰」を受けたいものだ。彼ともう二度と会えないぐらいなら、輪廻の輪になんて永遠に戻れないままでいいと、やる夫は頑なに思い続けているのだから。
「わかってんなら…」
「だから、お前はここで待ってればいいお。やらない夫がやる夫とおんなじとこに来れないなら、やる夫がやらない夫のとこに行けばいいだけの話だお?」
「なっ」
心底から驚愕したのか、顔を青ざめさせて反論の言葉を吐こうとしたのだろうやらない夫を、その胸に飛び込むことで制止する。
「…許してお。今すぐじゃなくてもいいから、妖夢ちゃんたちを看取った後でいいから、やらない夫の側にいさせて欲しいんだお」
「…やる、」
「もう嫌なんだお、やらない夫と、一緒にいられないの…。次はいつここに来れるかわかんねーから、もしかしたら今日が最後になるかもしれないって、次の機会が来るまでいっつも、怖くて怖くて仕方ないんだお」
「……やる夫」
名を呼ばれると同時に、再びその腕の中に抱き込まれた。そして、ぽすり、と頭の上に、顔を埋めてくる。心地良い重みに、思わず泣きながら笑った。
「俺が、いないと、辛い?」
「辛いし苦しいし、寂しいお」
「俺がいないと、幸せじゃない?」
「お前が側にいてくんなきゃ、絶対幸せになんてなれないお」
「…俺のこと、好き?」
「好きだお。大好きだから、いっつもここに来ちまうんだお」
「あんなとんでもない真似しでかした、俺なのに?」
弱々しい声音が頭上から響く。きっとなんとも情けない顔をしてるだろう彼の、その頬を両手で掴んで、思いっきり笑いかけてやりたいけれど、力強く抱きしめられているからそれも叶わない。
そのかわりに、やらない夫の腕にぎゅっとしがみついて、愛おしむように。
「お前がやったことは、絶対に許されることじゃないお。やる夫だって、許す気はないし」
「…………」
「でも、やる夫には、やらない夫だけなんだお。お前がどんな人間でも、どんだけ酷いことしてたって、ずっと変わらないお」
「え…」
「お前がやってきたこと、全部見てたお。ネットの奥に潜って調べた分も含めて、いろんなこと、いっぱい知ったお。それでも、変わらないお? やる夫は、やらない夫が一番好きだお」
だからお前のその罪も受けるべき罰も、一緒に背負いたいんだ。背負った上で、いつまでも隣で一緒に歩いていきたい。そう囁けば、やる夫を抱き込む腕の力が更に強まったのを感じる。
笑ったのか、それとも泣いていたのか。わからないけれど、やらない夫は小さな小さな声でそっとやる夫の耳元に告げた。
「……ありがとう、やる夫」
お前の存在に、感謝するよ。続けられたその言葉に、目の奥がじわりと熱くなった。
「なあ、やる夫。約束、できるか?」
「何を、だお?」
「嫌になったら、俺に気ぃ使ったりしないで、ちゃんと正直に言ってくれだろ。そしたらちゃんと、手離してやれるから。お前が苦しんだり嫌がったりすることなんて、何一つしたくないから」
「…嫌になんて、ならないお」
「それでも、だろ。約束してくれるか?」
「……わかったお」
「ん。……じゃあ、あと百年、向こうで待ってろよ。その時もまだ、今のお前の気持ちが変わってなかったら――」
そのときこそ、ずっと一緒にいよう。
続けられたその言葉に、胸に歓喜が広がった。ああ、やっと許してくれた。これで、もう離れないでいられるんだ。今すぐにといかなかったことだけは残念だけど、これまでの日々を思えば十分すぎるほどの幸福だった。
「ずっと、かお?」
「ずっとだろ。お前が嫌がらない限りはな」
「嫌がるなんて永遠にありえねーってんだお!」
全身に広がる至福のままに笑いながら告げれば、見上げた顔も泣き笑いみたいな顔をしていて、ああ今の自分はきっとこの世もあの世もひっくるめて一番幸せな人間だと思った。
空を見上げると、月も星もないどころか一寸の光もない、真の闇の世界が広がっている。なのに、何故だかちらちらと眩しく感じられて。幸せな気持ちに浸りながら、ゆっくりと目を閉じた。
「…じゃあ、またな」
最後の一瞬に見えたのは、大好きな彼が背を向けながら、笑顔で手を振る姿だった。
*****
ふと、意識が切り替わったような感覚を覚えた。目を開けると、そこにはもうやらない夫の姿も、花畑も、河も無く。自分はまたプログラムに戻り、電脳の海の中を漂っている。
現実に帰ってきた感覚に、少し気分が落ち込む。だけどあれは決して夢じゃない、幻じゃない。間違いなく本当にあった出来事だ。
いつからだったろうか。心の奥底で頑なに願い続ける望み――一刻も早く、やらない夫に会いにいきたいと――その思いと、あいつを恋しく想う気持ちが強すぎて、意識があの場所へと飛んでしまうようになったのは。
とはいっても自分の思い通りに飛べるわけではないから、まさに運を天に任せる、といった状態なのだけれど。
「…………やらない夫」
ああ約束したものの、きっと自分は、百年も待てない。これからだって何度も何度も、あの場所へと飛んでしまうだろう。そしてそのたびに「まだ早いだろ」と困ったように笑うあいつに抱き上げられて、追い返されるのだ。
そんな、遠くない未来の光景を想像して思わず笑った。昨日までは辛いだけだったはずの光景が、ようやく彼の側に行くことを許された今となっては幸せなやり取りにしか思えなくなってしまっているのだから、我ながら現金なものだ。
なあ、やらない夫。これからだって、何度でも会いに行くよ。いずれ、またずっと一緒にいられるようになる、その日まで。
それまでは、一人であの河に残るお前の背中を見ていてやるから。
「だから、お前こそちゃんと待ってろお。絶対ぜーったい、何百年経っても会いに行って好きだって言い続けてやっかんな! やる夫のしつこさ、なめんじゃねーお!」
電脳の海の中、彼の映像を浮かべながら、改めて誓い直した決意をぶつけ、やる夫は笑った。