【ゆく妖/腐】微妙な19のお題:01【柏秋】
【01. ただ、偶然かもしれなかったあの瞬間】
正直に言ってしまえば、あいつと初めて会ったときのことはよく覚えていない。今では唯一無二の親友という立場に納まってはいるけれど、そもそも仲良くなったきっかけはなんだったのかと問われても、答えが出てこないのだ。別に大した理由があったわけじゃなく、単に高校に入って同じクラスになったことで知り合い、なんとなく話をするようになってなんとなく仲良くなった。そんな、どこにでもよく転がっている理由でしかなかったのだと思う。
ただ、あいつがやたらと俺を持ち上げてくる奴だったことだけは、よく覚えているのだけれど。
「柏崎はやっぱり凄いおー」
「柏崎は自慢の友達だお!」
「柏崎かっけー! やっぱり柏崎はヒーローだお!」
なんて、毎度毎度ちょっとしたことで繰り出されるマシンガンのような褒め言葉がひどくこそばゆくて、それらの発言が単なる世辞や媚売りなどではなく、思ったことをそのまま口に出しているだけだということがわかるから、純粋に嬉しいと思えていた。
他人に媚を売るわけでもなく、ひたすら真っ直ぐにぶつかってくるあいつ――秋葉原やる夫が、いつからか無性に可愛く思えてしまうようになったのも、仕方がないことだと思わないだろうか?
とはいっても、その「可愛い」は初めの頃は、手のかかる弟か、もしくは尻尾振ってじゃれてくる子犬に向けるような、庇護欲に近いものでしかなかった。それが、友情だとか庇護欲だとか、そういったものとは似ているようでまるっきり違う、甘くて痛くてむず痒い想いへと変化したのは、いつの頃からだったろうか――――
*****
雲ひとつない、よく晴れた朝の通学路を一人歩いていく。朝のこの時間はまだ風が冷たく感じられるものの、日差しは暖かく。先月にはまだ桜の花を鮮やかに咲き誇らせていた木々も、今や青々とした新緑を茂らせていて、季節の移り変わりをはっきりと感じさせた。
こんな風に伸びやかな気持ちで季節の移り変わりに目を向けられるということは、だ。高校に入学してから早一ヶ月、何もかもが一新された環境の中、世間を騒がす五月病とやらも俺には訪れなかったようだと一人でこっそり笑った。
いい気分のまま学校への道のりを歩いて行くと、背後から俺を呼ぶ声が聞こえる。
「おーい! かっしわざきー! おはよーだお!」
底抜けに明るい、無邪気さすら滲ませる嬉しそうなその声に反応し、くるりと体ごと振り向くと、笑顔で手を振りながらこちらに駆け寄ってくる――最近友人になったばかりのクラスメイトの姿。
「…おお。おはようだろ、秋葉原」
こちらも朝の挨拶を告げ、小走りで駆け寄ってくる彼――秋葉原やる夫を待つために一旦立ち止まった。そして、彼が俺の隣に到達したタイミングで、また一緒に学校への道のりを歩き出す。
何気ない会話の中、俺と秋葉原の通学路がほぼ一緒だと判明して以来、なんとなくお約束のようになってしまったその一連の流れ。お互い時間を合わせているということも無いにも関わらず、上手いことタイミングがかみ合っているのか、待ち合わせなどしていないのに毎朝一緒に登校できている。意識し出すと何故だか無性に面映ゆい気分になってきて、僅かに身をよじらせた。秋葉原はそんな俺に気づいた様子もなく、無邪気に話しかけてくる。
「なーなー柏崎。数学の宿題なんだけどお、問五、解けたかお? あそこだけ全っ然わかんなくておー」
「ん、問五? あーあれな、確かに難しかったなあ。俺は解けたけど、かなり時間かかっちまっただろ」
「えっ解けたんかお!? ふぉー…やっぱ柏崎ってすげえおー」
キラキラと目を輝かせ、羨望の眼差しを向けてくる秋葉原に、僅かに苦笑を浮かべてしまう。
「秋葉原はいちいち大げさだろ。俺はそんなにすごい奴じゃないっつーの」
「えー、そっかお? やる夫からしたら柏崎ってほんとすごい奴だと思うし、憧れるっつーか…こーいう奴になりたいなって思う対象だお?」
また大げさな、と繰り返そうとしたが、「…特に身長とか」とぼそりと呟く声が耳に届いたので咄嗟に飲み込んだ。改めて隣を歩く秋葉原を見やると、確かに男子高校生としては少し…いや、かなり小柄な方である。俺の視点からでは、秋葉原の頭のてっぺんが余裕で見られる(俺が長身だからなのかもしれないが)のだから相当だろう。
これはフォローを入れるべきか、いや俺がそんなん言ったら逆効果だろ常識的に考えて! と少し悩んでいると、秋葉原の方は既に思考を切り替えていたのか――
「だいたいあんなむずっかしー問五解けたってだけでもやる夫にとっちゃ尊敬の対象だおー? あーあ、なんでこの世には数学なんてモンがあんのかおー」
「う、うくく、それに関してだけは同意見だろ。俺も数学はそこそこ得意なほうだけど、好きか嫌いかで言えば嫌いだしな」
あっさりと話題を元に戻した彼に、切り替えの早い奴だとこっそり苦笑して、取り留めのない会話を続ける。意外と真面目なのか、話題は勉強のことばかりだったことに、失礼ながら少しだけ驚きつつも。
「…でさ、今度よかったらテスト勉強一緒にやんないかお? 柏崎先生!」
「先生はやめろ。ていうか教えてもらう気満々かよ」
「んー、そりゃやる夫も柏崎に教えられることがあったらいいけどおー、全教科柏崎の方が成績上だろお? やる夫が人に教えられるぐらいよく知ってることっつったら、ゲームぐらいしか」
「お、ゲーム? いいじゃん、教えてくれだろ。俺もゲームにはちょっとうるさいぞ?」
「ええ!? マジかおー! うわー意外意外意外っ! え、じゃあさ、あの――」
そこからはずっと、学校に着くまでどころか休み時間の度、その日の帰り道でまで互いの好きなゲームについての会話に興じてしまった。途中で会話に夢中になって周りの確認を怠ってしまったらしい秋葉原が、一部だけ蓋が外れていた側溝にはまって足を挫いてしまうというトラブルはあったものの、だ。
一緒にいるようになってみれば、秋葉原やる夫という人間は本当にいい奴で。俺を過大評価しすぎている感は否めなかったものの、本人には嫌味も媚び諂いも全く感じられないし、俺に対してイエスマンになっているわけでもない、本当にただ素直に無邪気にそう思ってくれているのだと、わかるから。その素直さはとても好ましく思うし、同性に対して使う言葉ではないが、可愛いとさえ思う。だからあいつと一緒にいるのは楽しかったし、このままいい友人になれたらいいな、なんて楽観的に考えていた。この時は本当にそうとしか思っていなかったのだ。
*****
それを見てしまったのは、それを聞いてしまったのは、本当にただの偶然だった。
ある日の放課後、秋葉原は日直だったことで担任に「ちょうどいいから仕事手伝ってくれ」と引っ張られていってしまい、俺は久しぶりに一人で帰宅することとなり。まあ仕方がないと一度学校を出て帰り道を歩いていたとき、ふっと嫌な予感がして鞄を漁ってみた。すると予想通り、宿題として出されたはずのプリントが見当たらない。机の中に忘れてしまったのだろう。
既に学校と家の中間あたりまで来てしまっていて、今更引き返すのも面倒だったが、忘れ物をしてしまった自分が悪いのだから仕方がない。それに今すぐ引き返せば、仕事を終わらせた秋葉原とも合流できるかもしれないと、ほんの僅かな期待を込めて一度来た道へと踵を返した。
そして再び校門をくぐり、下駄箱から上履きを出して教室へと向かうと、中から聞こえてきたのは俺の名前。
「…でさぁ、柏崎ってむかつかね? 俺らとは違いますってツラしててさ」
「あー分かるかも。柏崎の奴、絵に描いたような優等生サマだもんなー」
「いいよなー優等生サマは。何やっても教師連中に褒められるばっかでさー」
「つか贔屓だよなー、こないだ柏崎が遅刻したときだって全然注意されなかったもんな」
明らかに悪意しかこもっていない、恐らくはクラスメイトと思わしき連中から自分への悪態を耳にして、正直ショックだとか怒りがわくだとかそれ以前に、高校生にもなってそんなくだらない理由で陰口か、と呆れる気持ちの方が大きかった。 いや、こういう風に思ってしまうこと自体、俺が奴らを対等に見ていないということなんだろうか、と少し自省。顎に手を当ててそう考え込んでいると、突如教室の中から大声が響いた。
「何言ってんだおおめーら!」
それは、よく耳慣れた、男にしては少し高めの――友人の声。
「ひいきだとかなんとか、言いがかりばっかつけてんじゃねーお! 不真面目なやつより、真面目な努力家の方が先生たちから評価されんのなんて当たり前じゃんかお!」
あいつも居たのかという気持ちと、その、あまりにも怒りしかこもっていない声に驚いて、こっそりと教室のドアにはめ込まれている小窓から中を覗きこむ。見えたのは、声と同じぐらいの怒りに満ちた顔。顔を歪ませ、真っ直ぐに他の連中を睨みつけている。
「柏崎は授業さぼったりしねーし、ノートだっていっつも真面目にとってるし、夢があるからっていっつも勉強頑張ってんだお! それにこないだ遅刻したのだって、あいつが悪いんじゃなくて、一緒に登校してたやる夫が側溝にハマって足挫いちまったから肩貸してくれて、保健室まで付き添ってくれたせいなんだお! あいつが悪いわけじゃないんだから、怒られなくってあったり前だお!」
「な、なんだよ秋葉原。ムキになりすぎだろ。お前は関係ないじゃんか、別にお前の悪口言ってるわけじゃねーんだから」
秋葉原のあまりの怒気に、怯んだように反論する奴らを一瞥すると、秋葉原は机にダァンと力いっぱい拳を叩きつけ、叫んだ。
「うっせー! 柏崎はやる夫の大事な友達だお! 友達を悪く言う奴は、許さんお!」
普段、あんなにガキくさくて、無邪気なばかりの笑みを浮かべて。自身が何を言われたって笑って受け流して、自分で持ちネタにして笑いを取ったりなんかもして、怒ったところなんて見たことがないぐらいだったのに。今は、あんなにも怒りに満ちた目で、声を荒げ、相手をきつく睨みつけている。
なんとなくここにいてはいけない、ここに俺がいることを気づかれてはいけないような気がして、音を立てないようにその場から立ち去った。
一先ず校舎裏の芝生へと移動して、そこに座り込む。何故だろう、と思う。どうして、彼はあんなにも怒っているのだろう。本当に少しだけ考えて、すぐにやめた。
考えるまでもない、そんなの決まっている。ついさっき秋葉原本人が言った通り、俺を、つまり自分の「友達」が悪く言われるのが許せなかったんだろう。…「友達」とはいえ、赤の他人のためにあそこまで本気で怒ってくれて、反論までしてくれて。大事な友達だと、あいつは言ってくれるんだ。
……ああ、なんて眩しい奴なんだろう、と。痛烈にそう思った。
結局その日は、空が茜色から闇の黒へと変化する直前まで、俺は校舎裏で一人ぼんやりと考え込んでしまったのだった。
*****
翌日、朝。なんとか宿題は終わらせたものの、あれからずっと…宿題を解いている間すらも、秋葉原のことが頭から離れず、寝不足の頭を持て余しながら通学路を歩いていく。今日、秋葉原に会ったらどんな顔をすればいいんだろうかとずっと考え続けたけれど、結局答えは出なかった。さて、どうするべきだろう。
「おはよーだおー、柏崎!」
そう考えている間にも、何事もなかったかのようにいつも通りの、俺のよく知る笑顔を浮かべて俺の隣に駆け寄ってくる秋葉原の姿に、思わずびくりと身を跳ねさせてしまった。
「っ…あ、ああ。おはようだろ、秋葉原」
いつも通りに挨拶したつもりだったけれど、声は裏返っていなかっただろうか。漠然とした焦燥感のような気持ちに心を支配されて、隣を歩く秋葉原が何かを一生懸命喋っているのに、全く耳に入ってこなかった。
どうしようどうすればいいんだろう何か言うべきかいやここは何事もなかったように振る舞っておくべきだろ、と未だに纏まらない思考のまま。自分でも自分の思考が全く理解できなかったけれど――
「あー、あー…あの、あ、秋葉原っ!」
「んお? なんだお、柏崎?」
「……………」
咄嗟に名前を呼んでしまった。だが、やはり何を言えばいいのか全く思い浮かばない。
昨日、あんなに怒っていた理由を聞く? いや、盗み聞きしていたことをばらすのも趣味が悪い気がするし、それを聞いてしまえば逆に気に病まれてしまうような気がする。
俺のために怒ってくれたことに礼を言う? それも何か違う気がするし、きっとこいつだって別に感謝してほしいからあんなことを言ったわけじゃない。いつも通り、思ったことをそのまま口に出しただけだろう。
俺を庇ったりしたせいで、あの連中と今後トラブルになってしまうかもしれないことを謝る? それはもっと違うだろうと一人突っ込み。
どうしようかと言いあぐねて無言のままぐるぐると悩んでいると、彼は目をぱちぱちと瞬かせ、小さく「……かしわざきー」と舌ったらずの声で俺を呼んだ。
「な、何だ?」
「あんさ、悩みとかあんなら、やる夫で良ければだけど相談してくれお?」
「え?」
「いや、なんか柏崎、さっきからすっげー困った顔してるからお。何か悩みとかあんじゃないかなーって」
思わず息を飲んだ俺を、秋葉原はどう思ったのか。眉を僅かに下げて、ごくりと一度喉を鳴らしてから、続けた。
「えっと、やる夫でもいいなら、いっくらでも愚痴とか聞くし! やる夫、バカだけど…相談してくれんなら一緒に悩むこともできるしお。やる夫じゃヤだったら別の友達でも、スクールカウンセラーの先生とかもいるお? …とにかく、一人で何でも抱え込んじゃうのは、ダメだお」
努力家なのはいいことだけど、と一生懸命言い募ってくる彼の目は、今まで見たことがないようなほどに真剣で。挙動不審な俺を見て、本気で心配してくれているんだと、痛いぐらいに伝わってくる。
普段はあれだけ俺を憧憬の眼差しで見つめてくるくせに、今はこんなにも気遣わしげな目で。ああこいつは俺を見上げているんじゃなくて、ちゃんと対等な目で見てくれているんだな、と思えた。「柏崎は自分なんかとは違うんだから大丈夫」だとか、根拠のない信頼感をぶつけてくるような奴じゃない。俺を凄いと思えば凄いと言ってくれて、俺を悪く言う奴がいれば我が事のように怒ってくれて、俺が困った顔をすれば真剣に心配してくれて。ただ憧れの対象として持ち上げてるだけじゃない、等身大の、ただの「柏崎やらない夫」を見てくれているんだと、万や億の言葉を積まれるよりも確実に、今、理解できた。
そして、はっきりとそう認識した途端に、胸の奥にぽう、と柔らかな光が灯り、そこからじわじわと全身に暖かい何かが染み渡っていくような感覚を覚える。
(……ああ、そうか。きっと、人生にそんなにたくさんのものなんて必要ないんだよな、きっと)
「秋葉原やる夫」という存在を一言で表せと問われたなら、「いい奴」だと俺は答えるだろう。何も考えていないように見えて、道化じみた子供のようにも見えて、その実、いつでも身近な存在を気にかけてくれている、保護者のようだとさえ思う。普段の姿ばかりを目にすれば、同い年の誰よりも子供っぽくはあるけれど、根本的なところでは誰よりも大人なのかもしれない。
…秋葉原は、いつも俺を凄い奴だと、憧れると言ってくれるけれど。本当は、凄い奴だと思っているのも憧れているのも、俺の方なんだと思う。秋葉原は俺のようになりたいとも言ってくれるけれど、俺は秋葉原みたいな人間にこそなりたかった。こいつみたいに、真っ直ぐな心を持ち、周りを常に気遣って、困ったときには手を取って道を指し示してくれて。明るくて眩しくて、暖かい――まさしくそれは太陽のように。
(どんだけ辛いこととか苦しいことがあったとしても、たったひとつ、この『太陽』さえあれば生きていける。そんな気がするだろ)
同い年の男に向かってなんてポエムじみたことを考えているのかと、我ながら少し呆れもするけど。これこそが、嘘偽りなんて何一つない本心なのだと、素直にそう認められた。
――たとえ何を失おうとも。たった一人、秋葉原やる夫、お前の存在さえ見失わなければ、俺は。
「…いや、悩みがあるってわけじゃないだろ」
「んおー? ほんとかお? もっかい言うけど、一人で抱え込んじゃうのはダメだお?」
「大丈夫だって。心配してくれてありがとな、……『やる夫』」
「ほあっ!?」
「…うく、うくくくく。何て声出してんだよ、名前呼んだぐらいで動揺しすぎだろ、常考」
ていうか「ほあっ」って、可愛いなあこいつ。と腹の底から笑いが溢れてくるのを止められない。うくく、と笑いながら、明らかに動転しっ放しの彼が口を開くのを待つ。
「うぇ、だ、だっていきなりでびっくりして…てかどしたんだお、突然?」
「どうしたもこうしたも、だって――俺たち、友達だろ?」
「!」
自然とそう口に出すことができた。なんだか無性に晴れやかな気持ちだ。告げた途端に目をいっぱいに見開いてキラキラと輝かせてくるやる夫に、また少し笑って。ああ、こいつともっと仲良くなりたいな、と改めて強く思った。いつでも一緒にいて、時には喧嘩したりどつき合ったり、それでも絶交なんてお互い絶対に考えられないってぐらいの、お互いがお互いにとって唯一無二の――親友になれたらいい。そしたらきっと一生楽しく過ごしていけるだろう。そう思いながら、言葉を続ける。
「友達なのに、いつまで経っても名字呼びってのは他人行儀だろ。それをいつ言おうかなってタイミング見計らってただけだろ」
「あーなるほど、そういうことかおー」
「嫌だったか?」
「いっ、嫌なわけないじゃんかお! うん、これからはやる夫って呼んでくれお! あ、あとっ、その、じゃあ、じゃあ、やる夫も柏崎んこと、名前で呼んでいいかお?」
「OKに決まってるだろ、俺から言い出したんだから。むしろそうしてくれる方が嬉しいだろ、常考」
「やったおー! えっと、そんじゃこれからもよろしくだお!」
やる夫は両手を万歳の形に上げて、満面の笑みを浮かべ、心底嬉しくてたまらないとでもいうように、それはそれは高らかに。
「 や ら な い 夫 ! 」
そう、呼ばれた、その声に。
「ッ…!?」
何故か突然、どくりと心臓が大きく跳ねた。
(え、いや、いやいやいやいや…おい、何だよこれ、おい)
胸の奥から全身に、じわりじわりと熱が広がっていく。さっき感じた、陽だまりのような暖かさとは違う、文字通り焼け付きそうなほどに熱くて、痛くて、それでも不思議と心地良く感じてしまう、そんな感覚だ。目の前で無邪気に「へへー、なんか照れくさいおー」なんて、ほんのりと顔を赤らめながら嬉しそうに笑うその顔が、怖いほど眩しくて。高揚感と浮遊感が混ざったような何かが次々に沸き上がってきて、息が止まりそうなぐらいに心臓が騒ぐ。
(ちょ、何だよこれマジで。小中学生じゃあるまいし、名前呼ばれたぐらいで、こんな)
学ランごと、心臓のあたりを押さえるようにぎゅう、と握りしめる。どくんどくんと高鳴っていく鼓動が、やる夫に聞こえませんようにと祈りながら。
「…えっと、や、やらない夫? どしたんだお?」
名前を呼んだ途端に黙りこくってしまった俺を不審に思ったのか、やる夫がまた気遣わしげに俺の顔を覗きこんでくる。その眉根の下がった表情と、身長差故の上目遣いに、また心臓が大きく跳ねた。
「…あ、いや、何でもないだろ。よく考えてみりゃ名前で呼ばれたのも久しぶりだなって、ちょっと照れくさくなったんだわ」
「えー? ふーん、やらない夫ってば意外と可愛いとこあるおねー」
可愛いのはお前だろうが、と突っ込みそうになって慌てて飲み込む。いったい俺はどうしちまったんだと混乱しながらも、表面上は何もなかったかのように取り繕い続けた。隣を歩くやる夫の笑顔が、昨日までとは違う意味で光り輝いているように見えるようになってしまったことにも、気づかないフリをして。
*****
あれは偶然だった。あの怒りに満ちた表情を、声を聞いたのは、あの場に居合わせたのは、本当にただの偶然でしかなかった。
『うっせー! 柏崎はやる夫の大事な友達だお! 友達を悪く言う奴は、許さんお!』
その、ただ、偶然かもしれなかったあの瞬間に。ほんの数瞬前までは単なる友人のうちの一人としか思っていなかった奴に、恋をしてしまったのだ。まずい、と思ったときにはもう手遅れだった。「友人付き合いをしていくうちにだんだん好きになった」とは言い難い、まるでカードをひっくり返したように、一瞬にして「友情」から「恋情」へと変化した想い。
だけどもしかしたら、そうとは気がついていなかっただけで、本当は最初からずっと好きだったのかもしれない。それぐらい、あまりにも自然にこの想いを恋だと認められた。今まで同性に対してそんな想いを抱いたことなど一度も無かったにも関わらずだ。
もしこいつが悪く言われるようなことがあれば、こいつがそうしてくれたように庇ってやりたい。こいつが誰かに傷つけられるようなことがあれば、どんな手を使ってでも守りたい。…そして、なんて言えばいいのか…ただ、こいつがいつでも笑っていられればいいな、と思った。そして願わくば、いつまでもこいつの隣で、その笑顔を見続けていたい――あの太陽が燃え尽きる最期の一瞬まで、側にいたい。あの、明るくて眩しくて柔らかくて痛烈な光がいいつかは抱くだろう想いの矛先が、俺であればいいのにと。そう、強く思ってしまったのだ。上手く言い表せないけれど、きっとこの気持ちを「愛しい」と呼ぶのだろう。
…いつかは、伝えられたらいいな。そう思って、自分の中で賭けをした。
俺は高校を卒業したら、アメリカの大学へと留学する。考古学者になるという、昔からの夢を実現させるために。だけどいずれは必ず、この日本に戻ってくるつもりだ。
だからもしも、もしも戻ってきたそのときに、やる夫がまだ独り身だったのなら――そのときこそ、想いを告げようと。
そのときに受け入れてもらえるにしても、きっぱりと振られるにしても。どちらの結末になろうとも、あの太陽の側で生きていければそれでいい。
「うくくくく」
当たり前のように、遠い未来でも彼への想いは変わらないだろうと考えている自分自身が可笑しくて、俺は高らかに笑い声をあげたのだった。
――――これはひとつの恋の始まりのお話。そして、先に起こる大きな出来事の、先触れのお話。