【ゆく妖/腐】微妙な19のお題:10【柏秋】
【10. この笑顔でいつまできみをはぐらかせるのでしょうか】
この笑顔で、いつまでお前をはぐらかし続けられるだろうか。
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まるで長い夢を見ていたようだ、と思う。
ずっと普通に暮らしてきたつもりだったのに、ある日突然人の体から電脳体――プログラムへと変えられて。現実逃避のようにネットの世界を満喫していたら、これまた突然現れた警察とその愉快な仲間達に、親友であり同居人だったあの男の「真実」を知らされた。はじめは信じられなかった、だけど電脳体と化した己の全力をもって探し当てた「情報」のすべてが、彼らの言葉こそが真実なのだと知らしめている。
『こんなの……ありえないお……』
誰か嘘だと言ってくれ、そうしたらその「嘘」に、みっともなく縋りつけるのに。…当たり前だけど誰もそんな嘘はついてくれなくて、自分自身の理性すらも「嘘じゃない」と囁き続けるのだ。何よりも――街中のそこかしこに仕掛けられている監視カメラの映像をハッキングして捉えた映像を見てしまったら……親友が、なんでもないことのように笑顔で人を殺していく姿を、見てしまったら。
最早どうあがいたって現実逃避すら許されないのだと自覚するしかなくて、泣き出したくなった。否、そう考えた頃にはもう泣いてしまっていたのだけれど。
『――やらない夫、みんなを殺したら許さないお!』
『まさか、お前も……お前も俺の敵なのか?』
それからの展開は、まさに激動だった。色んな作戦を立てて、でも結局のところ失敗に終わって、多くの犠牲を出しながらも最終決戦に挑み――…………そして最後に勝ったのは、自分の仲間たち。親友は遺書となった手紙ひとつ残して、もう永遠に会えない場所へと旅立ってしまった。
その瞬間の、自分を襲った絶望と、虚空の闇。あればかりは、きっとこの世の誰にも理解はできないだろう。
何もかもを理解して、すべてを見聞きして、次から次へと、ゴミ掃除でもするかのように涼しい笑顔で人を殺していくあの姿を目の当たりにした今でさえ。どんな惨い最期を迎えたって文句は言えない、死んで当然の奴だったと、そう思えるのに、それでもどうしたって消えてくれない「彼」の残響。思い出せば思い出すほど、あいつとの日々がどれほど楽しくて幸せなものだったか、…あの存在が、どれほどに愛おしくかけがえのないものだったかを思い知らされるばかりで。…生きる気力なんてこれっぽっちも無くなってしまったのに、プログラムとなったこの身では後を追うことさえ許されない。まるで地獄の奥底に叩き落とされた罪人のような気分だった。
絶望に打ちひしがれていた中、五郎さん伝手で香主に声を掛けられたのは、あの忌まわしい事件から二ヶ月ほど経過したある日のこと。北米三合会を完膚なきまでに叩き潰すため、やる夫はいつものようにアメリカのサーバーをひたすらに潜っていた。そんな中で、三合会日本支部のトップという立場にある女に声を掛けられたのだ。忌々しい、とは思いながらも、五郎さんの顔を立てないわけにはいくまいと、素直に話を聞くことにする。果たして、それは正解だった。
あの最終決戦の前、香主と張を味方として巻き込むため、五郎さんたちは二人に取り引きを持ちかけたのだという。言われてみれば、確かに覚えがあった。イス人の装置を、電脳体となったやる夫が解析し、自由自在に使えるようになることで、香主の死んだ家族を取り戻せる可能性があると言い含めていたことを思い出す。…そう、死んでしまった人間を取り戻すのだ。最終決戦のときに亡くなった張も含めて。その話は、やる夫にとっても大きな希望を持たせてくれた。
(……そうだお、なんで今まで思いつかなかったんだお。あの装置、あれを解析して、やる夫が使いこなせるようになれば……あいつがああなる前に、巻き戻って…………やらない夫を、助けられる?)
一筋の希望は、そのまま生きる糧となった。あれから他のことなど目にも入らず、ひたすらに装置を解析することに全力を注いだ。イス人によって作られたそれの仕組みを把握するまではそう時間はかからなかったけれど、最も困難を極めたのは何より「時間」だ。なんとか巻き戻れる期間を十日前までに延ばすことには成功したものの、それ以上延長させることだけがどうしてもできなかったのだ。たかが十日じゃ何にもならない、あいつが北米三合会の連中に拉致されたのは十四年前……いや、捕らわれた当時じゃあ意味がない。そうなる前に、まだ確実に何も起こらなかった高校時代のあの日までに戻らなければ。最低でも、十五年。それ以下の期間は意味を成さない。さらに、時間をかければかけるほどに、遡らなければならない時間も長くなる。できるだけ早めに全貌を解析しなければ、より困難になっていくだけだ。
――そうして何度も何度も失敗を繰り返し、百回を超えたあたりから数えるのを止め、ひたすらに解析を続けて――ようやく全貌を解析できた、その瞬間の喜びをどう表現すればいいだろうか。プログラムとなったこの身に、あれほど感謝したことはない。おかげで、眠ることも食事も、お金すら必要なくなったから仕事をする必要もなく、文字通り二十四時間すべてを装置の解析に注ぐことができたのだから。
他には何もいらない。あいつを取り戻すためならば、もう一度会えるのなら……やる夫はなんだってしてやる。たとえそれが運命だとか、神様だとか、そんなものに逆らう行為であったとしても、なにも怖くはない。あいつを失った世界で生きる、それ以上の地獄なんてどこにもないから。
*****
あれから。
香主とともに同じ時代――やる夫がまだ高校生だった頃だ――まで「巻き戻る」ことに成功し、何かあった時には助けてやる、との「契約」を取り付け、互いに思い思いの生活を満喫する。彼女とはその日以来一度も連絡は取り合っていない。取り合わなければならなくなる日なんて、永遠に来なければいいと思うから、別にそれで構わないと思う。
そうして、やる夫はといえば。電脳体から生身の肉体に意識を飛ばしたことがどんな影響を与えるかと、そういった面でも心配はしていたが、幸いにして大きな後遺症もなく、無事に転移することができた。ではその後遺症は何かといえば、しばらくの間体が重くて動かしにくかったこと、過去から未来も含めて、ところどころで記憶が抜け落ちていること、ぐらいだろうか。特にイス人にまつわる記憶はほとんど残っておらず、今もう一度あの装置を解析してみろと言われたとしても、最早仕組みの片鱗すら理解することはできないだろう。もう使うことなんてないだろう知識だから、別に惜しいとは思わないけれど。
イス人にまつわる記憶だけではなく、過去や未来も含めて、いろんな思い出を忘れてしまっていることに気がついたことだけは、少し寂しく思う。だけど、大切な記憶だけは失わずに済んだ。だからもう、それだけでいい。
「…やる夫ー?」
ぐるぐると浸っていると、名前を呼ぶ声が聞こえた。あの日から一日たりとも忘れたことなんてない、愛しい声。
「…やらない夫」
もぞり、と身動ぎをする。今の自分の状況はといえば、やらない夫と二人、同じベッドの上で布団に包まって寝転んでいる。
あの日「巻き戻り」に成功して以来、高校時代から人生をやり直し、またやらない夫と共に過ごせるようになったわけだけれども。巻き戻り前の世界での、やらない夫と一緒に過ごした日々だとか、あの戦いのことだとか、……やらない夫に抱いた感情の全て、だとか。強烈に願い続けたおかげか、やる夫はそれら全部をちゃんと覚えていた。そのせい、なのかもしれないけれど、また一緒にいられるようになったことはこの上ない喜びで、内側からこみ上げてくる愛しさに耐えきれなくなって、ある日好きだと、恋人になって欲しいと伝えてしまった。…あのときのやらない夫の、目を見開いたまま真っ赤に染まった顔は、きっと一生何があっても忘れられないだろうなと思う。
そうして恋人同士になれて、高校を卒業して大学も出て、お互いに就職して。ずっと変わることなく、今もこうして恋人同士として側に寄り添い続けている。
「どうした? ぼーっとして。体調悪いとかだったら、ちゃんと言えよ」
そう言ってぽふ、とやる夫の頭を軽く叩く、その手の温もりが。その名を呼べる、幸せが。穏やかで優しい眼差しが、愛しさを込めてやる夫を見ていることが。どれだけ嬉しいことなのか、きっとやらない夫にだって伝わってはいないだろう。それで、いいんだ。
願ったものは、望んだものはこれだけ、この、たったひとつだけだから。他の何を失ったとしても、この温もりだけが傍らにあるのなら。
「べっつにー、大丈夫だお? ただ、幸せだなーって思っただけから」
それは何ひとつとして偽りのない、真実の言葉だ。やる夫に触れる、少しかさかさとした無骨なその手の暖かさ、……何よりその手が黒く染まっていないこと。巻き戻り前の世界で見たような、今にも泣き出しそうなのに無理に作ったような笑顔、絶望と憎悪と狂気に満ちた冷たい目、どんなに暖かい部屋の中でも依然として冷たいままだった右手――そういったものが、全て無くなったこと。やらない夫が、生きて、そばにいてくれること、そばにいられること。
どれほど、どれほどに望んだことだろう、こんなにも優しくて穏やかなばかりの日々! 強い願いによって引き寄せられた、この奇跡を起こすためにどれだけ努力を重ねてきたことか! 毎日が楽しくて、嬉しくて、幸せで仕方なかった。今この瞬間だって、やる夫は幸せなんだ、本当に、心の底から。
……ああ、でも、どうしてだろうか。たまに、本当にたまにだけど、不意にどうしようもなく泣き叫びたくなる夜がある。今がまさに、その時だ。それは「巻き戻り」前の――まるでスーツについた埃を払うかのように、簡単に人を殺せるように変貌してしまった「彼」の姿を夢に見てのことだったり。何も知らず、何の痛み苦しみも絶望も味わうことなく安らかに眠るやらない夫の寝顔を、かつての「彼」の最期と重ね合わせてしまってのことだったり。
たぶんだけどきっと、やる夫の中にある後悔だとか、……罪悪感だとか、そういうものが残り続けているのだと思う。どれほどに、今目の前にいる彼を愛して、幸せにできたとして。巻き戻り前の世界で、あの「ひとりぼっちの魔術師さん」が死んだこと、それにやる夫が関わっていたこと、「彼」の変貌やその内に抱えた痛み苦しみ絶望に、微塵も気づいてあげられなかったこと……その事実に、変化はないから。
だからと言って、過去にばかり心を置いてきぼりにはしたくない。あの「やらない夫」を救えなかった後悔はやる夫の中に永遠に残り続けるだろうけれど、それでも。過去があったから、今がある。あの時救えなかったからこそ、今度は絶対に間違えたりはしないと誓うことができるし、全力で立ち向かうことができるんだ。何があろうとも、必ず守ってみせる。絶対に、もう二度とあんな未来なんて迎えさせない。そう願いを込めて、やらない夫の胸に顔を寄せて、ぎゅっと力を込めて抱きついてみる。
「やる夫?」
「ん、眠くなってきたからお。やらない夫ぬくいし、くっつくぐらい許せお!」
「……そう、だな。うん、俺も、やる夫とくっつくの好きだろ」
そう言って、やらない夫も優しく抱き返してくれた。その声色がひどく物言いたげで、含むものがありそうだということには気づいていたけれど、何も言わずその胸に顔を埋めて目を閉じる。
…こんな気分になる夜は初めてじゃあない。今日は上手く誤魔化せた方だと思うけど、以前、「彼」の最期と、そのときの会話を夢に見て、我慢しきれずに泣き出してしまったことも何度かあった。そういったときは、やらない夫を起こしてしまわないよう、せめて声だけは出さないようにと努めてはいたが、朝目が覚めたとき、彼が妙に何かを言いたげにやる夫をちらちらと見ていたことが何度かあったから、バレバレだったのかもしれない、と思う。
そのたびに「なーんか夢見が悪くておー、夜中何度も目覚めちまったお。ごめんお、うるさくなかったかお?」なんて、問いかけられる前に自分から切り出して、軽く笑って誤魔化してきたけれど、彼はいつも寂しげに「そっか。いや、大丈夫だろ」と呟いていた。
そんな顔はさせたくない。ずっと穏やかで優しい目で、笑っていてほしい、幸せでいてほしい、そう思うけれど。
――その顔を見ていてもなお、真実を告げる決意は未だにできていない。
いつかは話さなければならないのかもしれない。もしかしたら、話すことで避けられる未来だって、あるかもしれない。今のところ、アメリカ行きを阻止してからは何も起こることなく平和に暮らせているけれど、これが一生続くとは誰にだって言い切れないのだから。
だけど、話す勇気が出ない。信じてもらえないかもしれない、頭のおかしい奴だと思われて嫌われてしまうかもしれない、……そして何より。自分が、「巻き戻り」前に、彼を殺す手助けをした、なんて……言いたくない。
だからあと少しだけ、もう少しだけでいいから、何も気づかないフリをし続けていてほしい。怪しまれているのは、もうわかっているから、いつかは必ず話すから。だから、あと、ほんの少しだけでいいから。
この笑顔で、いつまで、お前を――
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この笑顔で、いつまでお前をはぐらかし続けられるだろうか。
本当は、知っているんだ。色んなことに、俺は気がついている。
やる夫がいつも、夜中にこっそりと起き上がっては、俺の胸にそうっと触れて、鼓動を確かめてはほう、と安心したように息を吐いていること。時々、それと同時に押し殺すような泣き声が微かに聞こえてくることだとか。枕に、おそらくはそのときの涙であろうシミがついていたことさえも。
それだけじゃない。いつも通りに話をしている中、不意に泣き出しそうな顔をされることもあるし、触れ合うときに俺の右腕を愛おしそうに、それでいて悲しそうな顔で見たり、口付けたりすることだって。
いつからだろうか? 知り合った十代の頃から今に至るまで変わらない無邪気な笑みの奥に、俺の知らない「秋葉原やる夫」の姿が見える気がするようになったのは。
最初は気のせいかと思っていた。そうでなければ、俺がやる夫を想う気持ちが、親友としてのそれではなく恋心へと変化したせいで、見る目が変わってしまったのだろうと。だけどやる夫の様子を見ていると、その考えは間違っているのだと、誰に言われるまでもなく予感できてしまった。そしてその予感は、日に日に確信へと近づいている。
――やる夫は何かを隠している。おそらくは高校時代から今に至るまで、ずっと。
思えば、高校時代に俺がアメリカへの留学の話を持ちかけられたときからして、おかしかったのだ。やる夫の性格から考えて、寂しがりはするだろうけど絶対に応援してくれると思っていたのに――あの時、まるで戦争映画で死地に向かう恋人を引き留めるヒロインのように、全身を強張らせて縋りついてきて、駄目だと、行かないでと、必死の形相で俺を止めていた。離ればなれになってしまう寂しさからのものかと一瞬だけ思ったけれど、すぐにそんな考えは雲散霧消したことをよく覚えている。それほどまでに――まるでこの世の地獄を見たような、あまりにも深い絶望に満ちたあの目を見てしまったから。
正直、それでも諦めたくない、せっかくのチャンスを無駄にしたくはないという気持ちが無かったといえば嘘になる。だけどやる夫にあんな目をさせ続けることだけは絶対に嫌だったから。それに、考古学者になるという夢を叶えるだけならば、別に急いて外国へ向かう必要などないのだし。
だから「わかっただろ。アメリカは、行かない」と一言告げた。その途端、やる夫の動きが一瞬停止して、それからゆっくりと息を吐き出して…次の瞬間には、張りつめていたものが切れたかのように、気絶してしまったのだ。
慌てて保健室に連れて行って寝かせてやると、眠ったままだというのに、何度も俺の名前を呼びながら、ぼろぼろと涙を流し、謝罪の言葉を繰り返していた。あれは明らかに普通じゃない。何か、理解の範疇を超えたことがやる夫の中で起こっていたのだ。
――そう、確信できるのに、恋人に隠し事をされているのだとわかっているのに、知らない振りを続けて、ただ俺は笑ってやる夫の側にいる。
何があったのか知りたい、問い詰めたい、相談してほしい…そんな気持ちは溢れかえるほどにある。だけど、声に出して訊ねることはできない。やる夫の性格からして、言えるものならばとっくに言っているだろう。誰にも知られたくはないと思っているからこそ、親友兼恋人である俺にも、隠し続けているのだろうと、思う。そう考えを巡らせれば、問おうとする言葉はいつも喉の奥で詰まってしまうのだ。真実を尋ねる言葉は、あまりにも重い。
だから、今は何も聞けない。何も知らないフリをして、ただ愛しい恋人を安心させるために、優しい笑顔ばかりを向けて、はぐらかし続けよう。ただいつか、いつかで構わない、やる夫の口から話していいと思ったそのときに――話してくれたらいいと思う。何があっても受け止める覚悟はできているし、たとえ何を隠されていたとしても、やる夫が俺にとって誰よりも大切な存在であることに変わりはないから。
願わくば。お前が抱えているすべてを、受け止めさせてもらえる日が来ますように。
この笑顔で、お前をいつまではぐらかせるかなんてわからないけど。叶うならば、いつかお前の口から真実を明かされるその日まではと口を噤み続けよう。
そして、いつか全てを話してくれる日が訪れたのなら。
『知ってただろ。俺の目を誤魔化せると思ってたのか?』
って。そう言って、指差して笑ってやるから。お前は度肝を抜かれたみたいな顔して、それから参ったなって感じで苦笑してくれたらいい。
この笑顔で、いつまで、お前を――