雨の降る世界の中で
黒く細い糸を辿り、下へ下へと降りていく。曖昧な鈍色の空間が掻き混ぜられ、やがて靄の向こうにぼんやりと霞む街並みが見えた。とん、と足が柔らかく地面を踏みしめた、そこが終着点だ。
ゆっくりと顔を上げ、しかし次の瞬間には怪訝に眉をひそめることとなる。先ほどまでは確かにそこにあったはずの建物が、まるで巨大な足に踏み潰されでもしたかのように倒壊している。木造の家々は見る影もなく、ぐにゃりと曲がった鉄筋をむき出しにしたコンクリートのビルの残骸が、見渡す限りの瓦礫の街にぽつりぽつりと点在している。荒れ果てた街に人影はなく、遠くゆらりと立ち上るのは炎と煙だ。廃墟と呼ぶにはあまりに生々しく、新しすぎる。
つい先ほど、死がその街を通り過ぎ、なぎ倒したばかりのようだった。
どこをどう歩いたのか、足を動かしていた自覚すらなかったのだが、いつのまにか目の前を川が流れていた。否、川と呼んでよいものか。水の代わりに血と、夥しい人間が流されていく。そのほとんどが焼け爛れた肌に衣服の残骸のような襤褸を引っかけ、水に顔をつけるような格好をしていた。まるで最後の気力を振り絞り、水を飲もうとしたかのように。
地獄があるならば、このような光景が広がっているに違いない。
その、おぞましい光景から目をそらすように俯きかけたところで、ふと何か異様なものを見た気がして、川縁に目を凝らした。
生きている人間が、そこにいた。
こちらには背を向けて座り込み、ーー釣り糸を垂らしている。
まさか、と思い足を踏み出したところで、ブツリと音を立てて景色が切り替わる。
薄暗い一室に、川端は立っていた。それで潜書が終わったのだと知れる。ゆるくかぶりを振って意識を切り替える川端の肩を、何者かがそっと掴む。
「ひどい顔だ。きみは休んだ方がいい」
助手の永井が柳眉を歪ませ顔を覗き込んでいた。
「いえ、もう一度。背中が見えました。次こそ……」
見えたのは背中だけだったが、あの男こそが探し求める人物だと確信していた。何より、有魂書の中に広がっていたあの世界。終戦間際のこの国に顕現した地獄。魂の根幹にあんなものを飼っているのは、あの男くらいのものだろう。
確信すると同時に、危ういとも思った。あんなものをいつまでも見続けていてよいはずがない。長く留まるべきではない。例えこちらの世界に幸いがないとしても、それでもあの男をこちらに引き上げなくてはならないと思った。
現状、それが可能なのは川端のみだ。
洋墨を、と手を伸べると、永井は渋々とそこに洋墨壺をのせた。何があっても何を言っても引かないと察したのかもしれない。
本棚から新たな有魂書を引き抜き、まっさらなページを広げて洋墨を垂らす。洋墨はページの上に波紋を広げ、下へ下へと沈みながら行くべき道を示す。
「……さて、ひとり旅にでも出ますか」
「きみの命綱は僕が握っている。安心したまえ」
意識が、本の中へと呑まれていく。
黒々とした雲から、それよりも更に色濃い洋墨の雨が降っていた。汚らしい雨が瓦礫を黒く染めあげる。染められるのは瓦礫ばかりで、不思議なことに、傘もなく立ち尽くしているというのに雨に濡れることはなかった。この世界にとっては異物であるからかもしれない。
何にせよありがたく思いながら、先ほど見かけた背中を探す。
隠れるつもりもないのか、男はあっさりと見つかった。血と屍体の流れる川に呑気に釣り糸を垂れている。
「何が釣れますか」
声をかけると、男は驚いたように振り向いて、それから口元に柔らかく苦笑をつくった。
「何も。だが釣りっていうのは魚を釣るためだけにするものじゃない。こうして魚を待つ間、何も考えずぼうっと過ごす時間を楽しむことも大切なのさ」
アンタもどうだ、と示されるまま、その隣へと腰を下ろす。男の髪はぐっしょりと濡れ、頬には黒々とした線がいく筋も伝っている。彼は雨に打たれているのだ。だが、男がそれを煩わしく思っている様子はなく、もしかしたら彼には全く別の景色が見えているのかもしれないと思った。水があることは確かだろう。でなければ釣りをしようとは思うまいから。さてそれならば、男の目に映るのは、山椒魚の住む川か、少女が雁を拾った沼池か、或いはーー。
「見かけない顔だが、アンタはどこから来たんだ」
「……さて、鎌倉、でしょうか」
「なんだ、自分のことなのにわからないのか。まあ、いいや」
「あなたはどこへ向かわれるのです」
男はぱちくりと瞬いて、それからおどけるように肩をすくめた。
「それを知っているのはきっとアンタの方だろう?俺をどこへ行かせたいんだ?」
「……わかりません。ですがきっと、あまり楽しくはないでしょう」
そうか、と笑う男は、やはりどこか楽しげであり、一方でどこか寂しげでもあった。
「どこだっていいさ。ひとりにはもう飽きたんだ。地獄だろうと天国だろうと構わんから、アンタたちのところへ俺を連れていってくれ」
釣り竿はいつのまに仕舞われたのか、男の手には何もなかった。その手がスッと差し伸べられる。
「よろしいのですか、ほんとうに?」
「こんなオジサンでもいいというならね。アンタが知っているかはわからないが、俺は一度筆を置いた人間だ。もう一度持てるとは思わんよ。それでも俺が必要なら、好きに使ってくれ」
「……私はあなたと同じ、使われる側の者ですが」
「ああ、そうかい。それならひとつ、よろしく頼むよ。酒があるなら飲もうじゃないか」
辛抱強く差し出されたままの手を、ようやく握りしめた。つよく、握り返される。
ふわり、と意識が浮上する。傍らの男が驚きに目を瞠るのを視界の隅に捉え、そういえば、いつのまにか周りの景色を気にしなくなっていたことに気づいた。
雨はやんだのだろうか。
それを確かめるすべはなかった。
狭く、埃っぽく、薄暗い部屋だ。
四方の壁には天井まで届くほど背の高本棚が並び、上から下までギッシリと本が詰まっている。それらを見回したのち、井伏は目の前の人物へと視線を転じた。
「井伏鱒二だ。そっちに津島……いや、太宰は来ているか?」
有魂書の内部でのやり取りは覚えている。あれが有魂書の中であったことも、今ならばわかる。文学書を蝕む現象のこと、なんのために二度目の生を享けたのか、凡そ必要と思われる事柄は、脳裏にしっかりと刻まれていた。
それで、いちばんに思うことが有魂書の中で出会った男のことでなく、この戦いのことでもなく、弟子のことというのが薄情である気もし、おのれらしい気もした。
「はじめまして、井伏さん。わたしはこの帝國図書館の特務司書、名を暮坂と言います。太宰さんには後ほどお会いいただことになりますが、……ですがその前に、どうかお礼を言わせてください」
「……礼だって?」
初対面の相手に感謝されるようなことをした覚えはない。まして自分は、言ってしまえば生まれたばかりなのだ。何を、と眉をひそめる井伏に構わず、司書はにこりと笑って話を続けた。
「わたしは広島に生まれ、育ちました。広島に生まれたなら子どもの頃から繰り返し聞かされる話があります。戦争を知らないわたしたちには馴染みが薄く、けれどそう昔のことではない話です。終戦の年に、広島と、それから長崎に、ひとつの爆弾が落とされました。わたしの曾祖母はその爆発に巻き込まれながらも生き残った人間です。曾祖父も、それから祖父母も。けれどもそれは本当に奇跡的なことで、たくさんの人が亡くなりました。誰かの父であり母であり、子どもであった人たちが。誰かの父にも母にもなれなかった人たちが。……なんて、今さら井伏さん相手に説明するようなことではありませんね。
とにかく、わたしたち広島の子どもは、被爆者から話を聞き、原爆を取り扱った多くの作品に触れながら育ちます。生き残ってしまった側の人間の血を受け継ぎ、亡くなってしまった方々を悼みながら生きています。
そういう環境に身を置くからこそ、積極的に知ろうとせずとも自然と頭に情報は残り、自ら原爆文学を読もうという気には、わたしはなれなかった」
ふっと言葉を切り、司書は何かを思い出すように目を伏せる。井伏も、井伏を連れて来た男も、司書の傍らに控える男も、誰も口を開かず、しばしの沈黙が流れる。
「黒い雨を読みました」
司書の話は、唐突に再開された。
「転生可能な文士の中に、井伏さんが加わったと聞いて、改めて読もうと思ったのです。
原爆投下直後の描写は、まさにわたしがかつて被爆された方々から聞いた、そのままの光景でした。こんなにも淡々と克明に、見たはずがないあなたが見たままを書けるものかと、ゾッとしました。話を聞いたことがなくとも、あの日の光景を知らずとも、読むだけで誰もがあの光景を脳裏に思い描くことでしょう。
……わたしには広島の血が流れています。直接は見ていなくとも、聞かされた光景をずっと、この胸の内に抱えて生きています。この血が原爆を憎み、忘れるなと叫び続ける限り、わたしは原爆というものを意識しないではいられないでしょう。あの日を忘れてくれるなと、知らしめよと訴え続けることでしょう。
だからこそ、ああした文学があることが嬉しい。黒い雨は、惨たらしいばかりの、陰惨な現実だけではなかった。忠実に描きながらもたしかにあれは文学でした。だからこそきっと黒い雨は読み継がれる。あの作品が生き続ける限り、あの日が忘れられることはない。……そうでしょう?」
恍惚とした表情で語る司書を見ながら、川端は悟った。有魂書の中の世界にあの景色を投げかけ続けていたのは、井伏自身ではなく、この司書だと。あれは井伏ではなく、司書の心に巣食う世界に他ならない。
そろりと目を伏せ、わらう。
その表情は、誰に見咎められることもなく。