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    雨の降る世界の中で
     黒く細い糸を辿り、下へ下へと降りていく。曖昧な鈍色の空間が掻き混ぜられ、やがて靄の向こうにぼんやりと霞む街並みが見えた。とん、と足が柔らかく地面を踏みしめた、そこが終着点だ。
     ゆっくりと顔を上げ、しかし次の瞬間には怪訝に眉をひそめることとなる。先ほどまでは確かにそこにあったはずの建物が、まるで巨大な足に踏み潰されでもしたかのように倒壊している。木造の家々は見る影もなく、ぐにゃりと曲がった鉄筋をむき出しにしたコンクリートのビルの残骸が、見渡す限りの瓦礫の街にぽつりぽつりと点在している。荒れ果てた街に人影はなく、遠くゆらりと立ち上るのは炎と煙だ。廃墟と呼ぶにはあまりに生々しく、新しすぎる。
     つい先ほど、死がその街を通り過ぎ、なぎ倒したばかりのようだった。


     どこをどう歩いたのか、足を動かしていた自覚すらなかったのだが、いつのまにか目の前を川が流れていた。否、川と呼んでよいものか。水の代わりに血と、夥しい人間が流されていく。そのほとんどが焼け爛れた肌に衣服の残骸のような襤褸を引っかけ、水に顔をつけるような格好をしていた。まるで最後の気力を振り絞り、水を飲もうとしたかのように。
     地獄があるならば、このような光景が広がっているに違いない。
     その、おぞましい光景から目をそらすように俯きかけたところで、ふと何か異様なものを見た気がして、川縁に目を凝らした。
     生きている人間が、そこにいた。
    こちらには背を向けて座り込み、ーー釣り糸を垂らしている。
     まさか、と思い足を踏み出したところで、ブツリと音を立てて景色が切り替わる。

     薄暗い一室に、川端は立っていた。それで潜書が終わったのだと知れる。ゆるくかぶりを振って意識を切り替える川端の肩を、何者かがそっと掴む。
    「ひどい顔だ。きみは休んだ方がいい」
     助手の永井が柳眉を歪ませ顔を覗き込んでいた。
    「いえ、もう一度。背中が見えました。次こそ……」
     見えたのは背中だけだったが、あの男こそが探し求める人物だと確信していた。何より、有魂書の中に広がっていたあの世界。終戦間際のこの国に顕現した地獄。魂の根幹にあんなものを飼っているのは、あの男くらいのものだろう。
     確信すると同時に、危ういとも思った。あんなものをいつまでも見続けていてよいはずがない。長く留まるべきではない。例えこちらの世界に幸いがないとしても、それでもあの男をこちらに引き上げなくてはならないと思った。
     現状、それが可能なのは川端のみだ。
     洋墨を、と手を伸べると、永井は渋々とそこに洋墨壺をのせた。何があっても何を言っても引かないと察したのかもしれない。
     本棚から新たな有魂書を引き抜き、まっさらなページを広げて洋墨を垂らす。洋墨はページの上に波紋を広げ、下へ下へと沈みながら行くべき道を示す。
    「……さて、ひとり旅にでも出ますか」
    「きみの命綱は僕が握っている。安心したまえ」
     意識が、本の中へと呑まれていく。

     黒々とした雲から、それよりも更に色濃い洋墨の雨が降っていた。汚らしい雨が瓦礫を黒く染めあげる。染められるのは瓦礫ばかりで、不思議なことに、傘もなく立ち尽くしているというのに雨に濡れることはなかった。この世界にとっては異物であるからかもしれない。
     何にせよありがたく思いながら、先ほど見かけた背中を探す。
     隠れるつもりもないのか、男はあっさりと見つかった。血と屍体の流れる川に呑気に釣り糸を垂れている。
    「何が釣れますか」
     声をかけると、男は驚いたように振り向いて、それから口元に柔らかく苦笑をつくった。
    「何も。だが釣りっていうのは魚を釣るためだけにするものじゃない。こうして魚を待つ間、何も考えずぼうっと過ごす時間を楽しむことも大切なのさ」
     アンタもどうだ、と示されるまま、その隣へと腰を下ろす。男の髪はぐっしょりと濡れ、頬には黒々とした線がいく筋も伝っている。彼は雨に打たれているのだ。だが、男がそれを煩わしく思っている様子はなく、もしかしたら彼には全く別の景色が見えているのかもしれないと思った。水があることは確かだろう。でなければ釣りをしようとは思うまいから。さてそれならば、男の目に映るのは、山椒魚の住む川か、少女が雁を拾った沼池か、或いはーー。
    「見かけない顔だが、アンタはどこから来たんだ」
    「……さて、鎌倉、でしょうか」
    「なんだ、自分のことなのにわからないのか。まあ、いいや」
    「あなたはどこへ向かわれるのです」
     男はぱちくりと瞬いて、それからおどけるように肩をすくめた。
    「それを知っているのはきっとアンタの方だろう?俺をどこへ行かせたいんだ?」
    「……わかりません。ですがきっと、あまり楽しくはないでしょう」
     そうか、と笑う男は、やはりどこか楽しげであり、一方でどこか寂しげでもあった。
    「どこだっていいさ。ひとりにはもう飽きたんだ。地獄だろうと天国だろうと構わんから、アンタたちのところへ俺を連れていってくれ」
     釣り竿はいつのまに仕舞われたのか、男の手には何もなかった。その手がスッと差し伸べられる。
    「よろしいのですか、ほんとうに?」
    「こんなオジサンでもいいというならね。アンタが知っているかはわからないが、俺は一度筆を置いた人間だ。もう一度持てるとは思わんよ。それでも俺が必要なら、好きに使ってくれ」
    「……私はあなたと同じ、使われる側の者ですが」
    「ああ、そうかい。それならひとつ、よろしく頼むよ。酒があるなら飲もうじゃないか」
     辛抱強く差し出されたままの手を、ようやく握りしめた。つよく、握り返される。
     ふわり、と意識が浮上する。傍らの男が驚きに目を瞠るのを視界の隅に捉え、そういえば、いつのまにか周りの景色を気にしなくなっていたことに気づいた。
     雨はやんだのだろうか。
     それを確かめるすべはなかった。

     狭く、埃っぽく、薄暗い部屋だ。
     四方の壁には天井まで届くほど背の高本棚が並び、上から下までギッシリと本が詰まっている。それらを見回したのち、井伏は目の前の人物へと視線を転じた。
    「井伏鱒二だ。そっちに津島……いや、太宰は来ているか?」
     有魂書の内部でのやり取りは覚えている。あれが有魂書の中であったことも、今ならばわかる。文学書を蝕む現象のこと、なんのために二度目の生を享けたのか、凡そ必要と思われる事柄は、脳裏にしっかりと刻まれていた。
     それで、いちばんに思うことが有魂書の中で出会った男のことでなく、この戦いのことでもなく、弟子のことというのが薄情である気もし、おのれらしい気もした。
    「はじめまして、井伏さん。わたしはこの帝國図書館の特務司書、名を暮坂と言います。太宰さんには後ほどお会いいただことになりますが、……ですがその前に、どうかお礼を言わせてください」
    「……礼だって?」
     初対面の相手に感謝されるようなことをした覚えはない。まして自分は、言ってしまえば生まれたばかりなのだ。何を、と眉をひそめる井伏に構わず、司書はにこりと笑って話を続けた。
    「わたしは広島に生まれ、育ちました。広島に生まれたなら子どもの頃から繰り返し聞かされる話があります。戦争を知らないわたしたちには馴染みが薄く、けれどそう昔のことではない話です。終戦の年に、広島と、それから長崎に、ひとつの爆弾が落とされました。わたしの曾祖母はその爆発に巻き込まれながらも生き残った人間です。曾祖父も、それから祖父母も。けれどもそれは本当に奇跡的なことで、たくさんの人が亡くなりました。誰かの父であり母であり、子どもであった人たちが。誰かの父にも母にもなれなかった人たちが。……なんて、今さら井伏さん相手に説明するようなことではありませんね。
     とにかく、わたしたち広島の子どもは、被爆者から話を聞き、原爆を取り扱った多くの作品に触れながら育ちます。生き残ってしまった側の人間の血を受け継ぎ、亡くなってしまった方々を悼みながら生きています。
     そういう環境に身を置くからこそ、積極的に知ろうとせずとも自然と頭に情報は残り、自ら原爆文学を読もうという気には、わたしはなれなかった」
     ふっと言葉を切り、司書は何かを思い出すように目を伏せる。井伏も、井伏を連れて来た男も、司書の傍らに控える男も、誰も口を開かず、しばしの沈黙が流れる。
    「黒い雨を読みました」
     司書の話は、唐突に再開された。
    「転生可能な文士の中に、井伏さんが加わったと聞いて、改めて読もうと思ったのです。
     原爆投下直後の描写は、まさにわたしがかつて被爆された方々から聞いた、そのままの光景でした。こんなにも淡々と克明に、見たはずがないあなたが見たままを書けるものかと、ゾッとしました。話を聞いたことがなくとも、あの日の光景を知らずとも、読むだけで誰もがあの光景を脳裏に思い描くことでしょう。
     ……わたしには広島の血が流れています。直接は見ていなくとも、聞かされた光景をずっと、この胸の内に抱えて生きています。この血が原爆を憎み、忘れるなと叫び続ける限り、わたしは原爆というものを意識しないではいられないでしょう。あの日を忘れてくれるなと、知らしめよと訴え続けることでしょう。
     だからこそ、ああした文学があることが嬉しい。黒い雨は、惨たらしいばかりの、陰惨な現実だけではなかった。忠実に描きながらもたしかにあれは文学でした。だからこそきっと黒い雨は読み継がれる。あの作品が生き続ける限り、あの日が忘れられることはない。……そうでしょう?」

     恍惚とした表情で語る司書を見ながら、川端は悟った。有魂書の中の世界にあの景色を投げかけ続けていたのは、井伏自身ではなく、この司書だと。あれは井伏ではなく、司書の心に巣食う世界に他ならない。
     そろりと目を伏せ、わらう。
     その表情は、誰に見咎められることもなく。
    やたろ Link Message Mute
    2018/06/30 2:47:52

    雨の降る世界の中で

    かわいぶ再掲。
    心象風景たる有魂書の中の世界が、特務司書の文豪への印象や読書歴に左右されるものだとしたらゾッとしないなあというはなし。
    ぶせさんは迎えに来た彼がばたさんだとは気づいてないのでしょう。気づいた時の反応が楽しみでなりません。

    #文アル【腐】

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    • 嵐のよるに(はるいぶ)「雨が降るとあんたは楽しそうだよな」

       振り向こうとしたのを押しとどめるように肩を抱かれ、井伏は思わず息を詰めた。咄嗟に振り払わなかっただけ上出来だ、と思う。並んで窓の外を伺う顔の近さに、どうして違和感を覚えないでいられよう。

       一度だけ、師弟の距離を踏み越えたことがある。ちょうど、今のような雷鳴轟く嵐の夜だった。
けれど過ちは一度きりであり、二人の距離は正されたはずだ。佐藤春夫は三千人の門弟を持つ師匠であり、井伏はその内の一人に過ぎない。ほかに二人を繋ぐものなど何もない。
       どうして、このひとにはそれがわからない。

      「井伏?」

       怪訝に振り向いた師から目を逸らし、いや、と井伏は曖昧にわらう。
言ったところで無駄だろう。どうせ、佐藤に自覚はないのだ。唇を噛んだ井伏の横顔を、青白い雷光が照らす。

       頬に伸ばされた手を拒む術を、師に従順な弟子は知らない。

      #文アル【腐】 #はるいぶ
      「雨が降るとあんたは楽しそうだよな」

       振り向こうとしたのを押しとどめるように肩を抱かれ、井伏は思わず息を詰めた。咄嗟に振り払わなかっただけ上出来だ、と思う。並んで窓の外を伺う顔の近さに、どうして違和感を覚えないでいられよう。

       一度だけ、師弟の距離を踏み越えたことがある。ちょうど、今のような雷鳴轟く嵐の夜だった。
けれど過ちは一度きりであり、二人の距離は正されたはずだ。佐藤春夫は三千人の門弟を持つ師匠であり、井伏はその内の一人に過ぎない。ほかに二人を繋ぐものなど何もない。
       どうして、このひとにはそれがわからない。

      「井伏?」

       怪訝に振り向いた師から目を逸らし、いや、と井伏は曖昧にわらう。
言ったところで無駄だろう。どうせ、佐藤に自覚はないのだ。唇を噛んだ井伏の横顔を、青白い雷光が照らす。

       頬に伸ばされた手を拒む術を、師に従順な弟子は知らない。

      #文アル【腐】 #はるいぶ
      やたろ
    • 魂の輪郭(藤村と谷崎)「君の嗜好は君自身に拠るものなのかな、君はどう思ってる?
」
       師と楽しげに話している分には別段何とも思わないが、その好奇心がおのれに向けられるとなると話は違ってくるのだと、ここへ来てようやく実感した。どうあしらおうと小首を傾げた谷崎を、瞬きの少ない昆虫めいた双眸がひたと見据える。

      「さて、どういう意味でしょう」
       当たり障りのない返答もできないことはなかったろう。けれども考えるより、嫌悪が口を動かす方が早かった。拒絶を匂わせる声音にしかし、男が怯んだ様子はない。
        好奇心の塊というより好奇心そのもののようなこの男は、自身の欲求を満たすためには何をしても良いと思っている節があるのではと疑っていたのだけれど、真実そうだと示されたところで面白いとも思えない。鼻白む谷崎にも一向に構わず、しかし相変わらず好奇心の矛先は谷崎を向いているのだから滑稽といえばそうだった。

      #文アル【腐】
      「君の嗜好は君自身に拠るものなのかな、君はどう思ってる?
」
       師と楽しげに話している分には別段何とも思わないが、その好奇心がおのれに向けられるとなると話は違ってくるのだと、ここへ来てようやく実感した。どうあしらおうと小首を傾げた谷崎を、瞬きの少ない昆虫めいた双眸がひたと見据える。

      「さて、どういう意味でしょう」
       当たり障りのない返答もできないことはなかったろう。けれども考えるより、嫌悪が口を動かす方が早かった。拒絶を匂わせる声音にしかし、男が怯んだ様子はない。
        好奇心の塊というより好奇心そのもののようなこの男は、自身の欲求を満たすためには何をしても良いと思っている節があるのではと疑っていたのだけれど、真実そうだと示されたところで面白いとも思えない。鼻白む谷崎にも一向に構わず、しかし相変わらず好奇心の矛先は谷崎を向いているのだから滑稽といえばそうだった。

      #文アル【腐】
      やたろ
    • カミサマと人間(直白)「神様と呼ばれるのは、いったいどんな気分なの」
      問いかけとも思われぬひそやかな声に、志賀は咥えていた煙草を離して傍らの男をまじまじと見下ろした。いつから目を覚ましていたのか、うつ伏せに寝転んだ姿勢のまま視線だけを志賀に向けている。
      「どうした、藪から棒に」
      「……君が小説の神様であるように、横光くんが文学の神様であるように、僕はきっと詩歌においてそう呼ばれるに等しい立場にあるのだけれど」
      「国民詩人様だもんな、お前は」
      けれどね、と言いさして、北原はあまり似つかわしくない重たげな息をつく。
      僕にもおくれよと言うので、志賀はサイドボードに置かれていた敷島を渡してやった。
      「お前、寝煙草は嫌いじゃなかったか」
      「よく言ったものだね、その僕の隣で堂々と寝煙草をしておいて」
      「起きてるだろ」
      「そうかい」
      煙草を咥えた北原がもそりと身を起こすので、志賀は黙って顔を近づけた。北原の煙草の先端にぼうっと赤い火がともり、ふっと解けるように煙が立ちのぼる。
      うす紫の煙のあわいから、北原の詩は生まれるのだ。
      「国民詩人、詩聖、言葉の魔術師……どれも北原白秋を指す言葉だよ。それらを与えられるだけのものを遺したという自負はあるさ。あの時代において僕以上に詩歌に挑み続けた者はそういないだろうね」
      けれどね、と北原はまた嘆息する。視線を動かすと、志賀が無言で灰皿を差し出してきたのでそこに吸いさしを擦りつけた。
      「彼ならば、と思うひとがひとりだけいたのだよ。そうなる前に彼は僕を置いて逝ってしまったのだけれど」
      決して届かないものに焦がれて血を吐くような声だった。一度死んで生まれ直しても、こいつは、北原は諦めきれないのだ。志賀ははじめて、北原のいっとう脆い部分に触れたと思った。
      「他の誰になんと言われようと、どう思われようと構わないさ。けれど、彼にだけは、間違っても僕に劣るなどとは思ってほしくない。あんなところで終わるひとではなかった。僕の隣を、いいや、僕の先を行くべきひとだったのだよ」
      彼、というのが誰を指すのか、志賀は薄々勘付いていた。今生においては北原がそのおとこにほとんど恋慕に近い感情を抱いているのではないかと、前々から思っていたのだ。北原自身には、その自覚がないようだが。
      志賀が無言でいると、北原は話しすぎたとでも思ったか、表情を隠すように顔を背けた。矜持の高いおとこだ。恥じ入るというよりは、志賀にすがるような真似をしたおのれ自身に腹を立てたのかもしれない。
      志賀はうす紫の髪に手を伸ばし、愛弟子にするようにくしゃりと無造作にかき混ぜる。
      「俺を神様だと呼びたい奴はそう呼べばいい。否定したいならすればいい。けどな、」
      と一旦言葉を切って、今にもぼろりと崩れて灰を落としかけていた吸いさしを灰皿に押しつける。
      空いた両手で薄い肩を抱き寄せた。この少年のような未成熟な身体が二丁の銃を操るのかと、いつも驚かされる。
      「俺もお前と同じただの人間だから、武者やなんかに神聖視されたらキツイだろうな」
      「ばかだね、君は」
      「ああ」
      「人間でなければ何だというのだい」
      「そうだな」
      そうだな、と繰り返し、志賀は北原の肩に顔を埋める。志賀が顔を上げるまで、北原は黙ってされるがままになっていた。

      #文アル【腐】 #直白
      「神様と呼ばれるのは、いったいどんな気分なの」
      問いかけとも思われぬひそやかな声に、志賀は咥えていた煙草を離して傍らの男をまじまじと見下ろした。いつから目を覚ましていたのか、うつ伏せに寝転んだ姿勢のまま視線だけを志賀に向けている。
      「どうした、藪から棒に」
      「……君が小説の神様であるように、横光くんが文学の神様であるように、僕はきっと詩歌においてそう呼ばれるに等しい立場にあるのだけれど」
      「国民詩人様だもんな、お前は」
      けれどね、と言いさして、北原はあまり似つかわしくない重たげな息をつく。
      僕にもおくれよと言うので、志賀はサイドボードに置かれていた敷島を渡してやった。
      「お前、寝煙草は嫌いじゃなかったか」
      「よく言ったものだね、その僕の隣で堂々と寝煙草をしておいて」
      「起きてるだろ」
      「そうかい」
      煙草を咥えた北原がもそりと身を起こすので、志賀は黙って顔を近づけた。北原の煙草の先端にぼうっと赤い火がともり、ふっと解けるように煙が立ちのぼる。
      うす紫の煙のあわいから、北原の詩は生まれるのだ。
      「国民詩人、詩聖、言葉の魔術師……どれも北原白秋を指す言葉だよ。それらを与えられるだけのものを遺したという自負はあるさ。あの時代において僕以上に詩歌に挑み続けた者はそういないだろうね」
      けれどね、と北原はまた嘆息する。視線を動かすと、志賀が無言で灰皿を差し出してきたのでそこに吸いさしを擦りつけた。
      「彼ならば、と思うひとがひとりだけいたのだよ。そうなる前に彼は僕を置いて逝ってしまったのだけれど」
      決して届かないものに焦がれて血を吐くような声だった。一度死んで生まれ直しても、こいつは、北原は諦めきれないのだ。志賀ははじめて、北原のいっとう脆い部分に触れたと思った。
      「他の誰になんと言われようと、どう思われようと構わないさ。けれど、彼にだけは、間違っても僕に劣るなどとは思ってほしくない。あんなところで終わるひとではなかった。僕の隣を、いいや、僕の先を行くべきひとだったのだよ」
      彼、というのが誰を指すのか、志賀は薄々勘付いていた。今生においては北原がそのおとこにほとんど恋慕に近い感情を抱いているのではないかと、前々から思っていたのだ。北原自身には、その自覚がないようだが。
      志賀が無言でいると、北原は話しすぎたとでも思ったか、表情を隠すように顔を背けた。矜持の高いおとこだ。恥じ入るというよりは、志賀にすがるような真似をしたおのれ自身に腹を立てたのかもしれない。
      志賀はうす紫の髪に手を伸ばし、愛弟子にするようにくしゃりと無造作にかき混ぜる。
      「俺を神様だと呼びたい奴はそう呼べばいい。否定したいならすればいい。けどな、」
      と一旦言葉を切って、今にもぼろりと崩れて灰を落としかけていた吸いさしを灰皿に押しつける。
      空いた両手で薄い肩を抱き寄せた。この少年のような未成熟な身体が二丁の銃を操るのかと、いつも驚かされる。
      「俺もお前と同じただの人間だから、武者やなんかに神聖視されたらキツイだろうな」
      「ばかだね、君は」
      「ああ」
      「人間でなければ何だというのだい」
      「そうだな」
      そうだな、と繰り返し、志賀は北原の肩に顔を埋める。志賀が顔を上げるまで、北原は黙ってされるがままになっていた。

      #文アル【腐】 #直白
      やたろ
    • 今はまだ、(かわとく)「秋声でいいよ」
      
くふん、と鼻を鳴らしながら、なんでもないことのように徳田は言う。しかし、と言い澱み、泳いだ視線はひやりとする手に頬を挟まれたことで動きを止めた。

      「あの、」

      「悪いけど僕の方では君のことを覚えていないわけだからさ、覚えていない人にそうやって畏まられても、困る」
      
「……はい」

      それに、と言いさして、今度は徳田の目が泳ぐ。
      
「僕の方では、その、君のことを、友人、だと思ってるんだけど」

      ごにょごにょと不明瞭にくぐもった語尾まで確と聞き届け、川端はぱあっと頬に朱を散らす。その、初々しいとさえ思える反応に、徳田は余計に照れてしまった。思わず引いた手を、川端の手が追いかけ捉える。

      「わたしはあなたの友人がいい」

      #文アル【腐】 #かわとく
      「秋声でいいよ」
      
くふん、と鼻を鳴らしながら、なんでもないことのように徳田は言う。しかし、と言い澱み、泳いだ視線はひやりとする手に頬を挟まれたことで動きを止めた。

      「あの、」

      「悪いけど僕の方では君のことを覚えていないわけだからさ、覚えていない人にそうやって畏まられても、困る」
      
「……はい」

      それに、と言いさして、今度は徳田の目が泳ぐ。
      
「僕の方では、その、君のことを、友人、だと思ってるんだけど」

      ごにょごにょと不明瞭にくぐもった語尾まで確と聞き届け、川端はぱあっと頬に朱を散らす。その、初々しいとさえ思える反応に、徳田は余計に照れてしまった。思わず引いた手を、川端の手が追いかけ捉える。

      「わたしはあなたの友人がいい」

      #文アル【腐】 #かわとく
      やたろ
    • 山椒魚は怒らない(だざいぶ)男のくせによく手入れされた指が首筋を辿る。その指先の微かな震えを感じ取り、井伏はおい、とのし掛かる男に呼びかかける。
      「やめておくか」
       男ははっと目を見開いた。きんいろの双眸が、月のようにぽっかりと浮かび上がって輝いている。

       薄く開いた男のくちびるから、いいえ、と吐息のような声が漏れる。
そうか、と井伏は小さくわらった。
氷のように冷たい指先に喉仏を柔く抑えられ、井伏は思わず息を詰めた。
それ宥めるように、男はくちびるを重ねてくる。

      「せんせい」

      「大丈夫だ、大丈夫だよ、太宰」
       よかった、と息をついて、今度は両手を井伏の首に巻きつけてくる。問うように首を傾けるので、井伏はいいよ、と言ってやった。

       握る手にゆっくりと力が込められる。
首を絞められる井伏より、絞めている太宰の方が苦しげに顔を歪めていた。
ややほつれた三つ編みの横を、透明な汗がつたう。眦に到達したそれは、涙のように頬へと滑る。

       だざい、とその名を呼んでやりたいのに声が出ない。
せめてもと笑いかけると、太宰の顔は益々歪んだ。

      「せんせ、」

       そんな顔をするんじゃないよ。
俺は太宰に何をされても怒らんよ。

      #文アル【腐】 #だざいぶ
      男のくせによく手入れされた指が首筋を辿る。その指先の微かな震えを感じ取り、井伏はおい、とのし掛かる男に呼びかかける。
      「やめておくか」
       男ははっと目を見開いた。きんいろの双眸が、月のようにぽっかりと浮かび上がって輝いている。

       薄く開いた男のくちびるから、いいえ、と吐息のような声が漏れる。
そうか、と井伏は小さくわらった。
氷のように冷たい指先に喉仏を柔く抑えられ、井伏は思わず息を詰めた。
それ宥めるように、男はくちびるを重ねてくる。

      「せんせい」

      「大丈夫だ、大丈夫だよ、太宰」
       よかった、と息をついて、今度は両手を井伏の首に巻きつけてくる。問うように首を傾けるので、井伏はいいよ、と言ってやった。

       握る手にゆっくりと力が込められる。
首を絞められる井伏より、絞めている太宰の方が苦しげに顔を歪めていた。
ややほつれた三つ編みの横を、透明な汗がつたう。眦に到達したそれは、涙のように頬へと滑る。

       だざい、とその名を呼んでやりたいのに声が出ない。
せめてもと笑いかけると、太宰の顔は益々歪んだ。

      「せんせ、」

       そんな顔をするんじゃないよ。
俺は太宰に何をされても怒らんよ。

      #文アル【腐】 #だざいぶ
      やたろ
    • 不帰(だざしげ)知ったような顔をして、知ったようなことを言って、取り澄まして、眼鏡の奥の眼差しはいつも冷静に俺を観察している。明るいみどりいろの、顔のパーツのひとつひとつは柔和なくせに、あいつの一部というだけで油断ならないそのまなこが、俺を見て、無言で責める。やはり太宰は自分の藝術を尊重することが足りなかった。文学者としての自尊心が十分大きくなかった──
      うるさい!うるさいうるさいうるさいうるさい!おまえにおれのなにがわかる!何を知っているっていうんだ!棺桶に納まる俺をしづかに見下ろして、餞別がわりの罵倒を寄越す。やはり太宰は〇〇だった!ああそうとも!そうだとも!水に浸かりすぎてふやけた皮膚の一枚一枚を剥ぎ取って、血管を避け、肉を切り分け、青ざめた骨の白さに目を細め、全てをさらけ出すしかない哀れな男のここはこうだ、あいつはこうだと好き勝手に喚いている!死んだ俺をさらに殺すのだ!
      何が論争者か何が文学者か!書いていたいといいながら文学から逃げたのはおまえだろう!
      だけども死体は喋れないので俺は黙ってされるがままになっている。臓腑のひとつひとつを舐め回す視線に堪えている。犬畜生のように無様にはらを晒して横たわっている。
      死後の陵辱、まさにそうだ。俺の尊厳は誰にも守られない、おれ自身にも。死んで今更、道化を演じさせられるのだ。死んだ身体に首輪をはめてぐずぐずに腐った手には鎌を持たせて踊れと命じられるまま、俺は恥を重ねている。ああ嫌だこんなもの、死んでしまいたい。けれども死ねばあいつは俺を謗るだろう。太宰治は〇〇とはいえぬ云々──
      みどりいろの目が偽善者の顔をして俺を見上げている。硝子玉のように無機質にひかりながらいっちょまえに哀れんでいる。けだものじみて腰を振りたてる俺を眺めている。ぽかんと間抜けに開いたくちびるから漏れるのは、あ、とかう、とか条件反射の聞くに堪えない無意味な音ばかり。そのくせ目だけは憐憫と観察を同居させながら俺を映している。言葉より雄弁とは、文学者が、笑わせる。相手とたたかうならば相手を死なせねばならない。相手が首をくくるというようなところまで相手を追いこまねばならない。死ぬことから逃げたおとこが!太宰治の何たるかを知りもしないで!
      フツカヨイだ、と誰かは言った。フツカヨイ、それもいい。死んでは酔いが覚めることもない。こいつは、酔っ払って、前後不覚の男に犯されているのだ。ざまをみろ。

      #文アル【腐】
      知ったような顔をして、知ったようなことを言って、取り澄まして、眼鏡の奥の眼差しはいつも冷静に俺を観察している。明るいみどりいろの、顔のパーツのひとつひとつは柔和なくせに、あいつの一部というだけで油断ならないそのまなこが、俺を見て、無言で責める。やはり太宰は自分の藝術を尊重することが足りなかった。文学者としての自尊心が十分大きくなかった──
      うるさい!うるさいうるさいうるさいうるさい!おまえにおれのなにがわかる!何を知っているっていうんだ!棺桶に納まる俺をしづかに見下ろして、餞別がわりの罵倒を寄越す。やはり太宰は〇〇だった!ああそうとも!そうだとも!水に浸かりすぎてふやけた皮膚の一枚一枚を剥ぎ取って、血管を避け、肉を切り分け、青ざめた骨の白さに目を細め、全てをさらけ出すしかない哀れな男のここはこうだ、あいつはこうだと好き勝手に喚いている!死んだ俺をさらに殺すのだ!
      何が論争者か何が文学者か!書いていたいといいながら文学から逃げたのはおまえだろう!
      だけども死体は喋れないので俺は黙ってされるがままになっている。臓腑のひとつひとつを舐め回す視線に堪えている。犬畜生のように無様にはらを晒して横たわっている。
      死後の陵辱、まさにそうだ。俺の尊厳は誰にも守られない、おれ自身にも。死んで今更、道化を演じさせられるのだ。死んだ身体に首輪をはめてぐずぐずに腐った手には鎌を持たせて踊れと命じられるまま、俺は恥を重ねている。ああ嫌だこんなもの、死んでしまいたい。けれども死ねばあいつは俺を謗るだろう。太宰治は〇〇とはいえぬ云々──
      みどりいろの目が偽善者の顔をして俺を見上げている。硝子玉のように無機質にひかりながらいっちょまえに哀れんでいる。けだものじみて腰を振りたてる俺を眺めている。ぽかんと間抜けに開いたくちびるから漏れるのは、あ、とかう、とか条件反射の聞くに堪えない無意味な音ばかり。そのくせ目だけは憐憫と観察を同居させながら俺を映している。言葉より雄弁とは、文学者が、笑わせる。相手とたたかうならば相手を死なせねばならない。相手が首をくくるというようなところまで相手を追いこまねばならない。死ぬことから逃げたおとこが!太宰治の何たるかを知りもしないで!
      フツカヨイだ、と誰かは言った。フツカヨイ、それもいい。死んでは酔いが覚めることもない。こいつは、酔っ払って、前後不覚の男に犯されているのだ。ざまをみろ。

      #文アル【腐】
      やたろ
    • 十二国記パロ(直白)麒麟はその性、仁にして、流血を嫌い、争いを厭うという。

       そう、麒麟は、白秋は、だめなのだ。たった今、眼前で起きたような流血沙汰を、こいつにだけは見せるべきではなかったのだと悔いたところで後の祭りだ。
血の気の引いた顔を見下ろしながら、己の麒麟をどう宥めたものかと頭を悩ませる。
       青褪めながらも、何を無茶な王たる自覚が云々と叱る言葉は留まるところを知らぬようで、口を挟む隙もない。
抱き起こそうと震える身体に伸ばした腕は、余計に怯えさせるだけだった。

       一刻も早く血の穢れから遠ざけなくてはと、わかってはいるのだが。

      「王、死んだかよ!」

       と、その時、何とも無礼な叫びと共にその場に乱入してきた若者を見て、志賀は不覚にも安堵した。白秋の声がぶつんと途切れる。
ずんずんと大股に、そのくせ足音一つ立てずに優雅に歩み寄る文官に、志賀はやれやれと肩を竦めてみせた。

      「おあいにくさま、生きてるよ。おい、赤いの。お前、」
      「あーっ!王、あんたバッカじゃないの!怪我人が宰輔に近寄るなよこの昏君!さっさと手当てを受けてこい」
       歩み寄ってきた勢いをそのままに、むんずと襟を掴まれて、志賀は些かげんなりとする。
      「わぁーってるから耳元で大声出すなよ。おい、俺はいいからお前は白秋を頼む」
      「僕のことはいいから王を頼むよ。一人で出歩かれてはまたどこぞで頭をぶつけかねないからね」
       志賀が言うと、すかさず白秋がそれに被せてくる。振り向けば、まだ青い顔に睨めつけれて言葉に詰まった。
       白秋の顔色が悪いのは、血が流れたからというだけではない。他ならぬ主人が、白秋を守るために自らの命を危険に晒したためだ。ほんの擦り傷であっても、恐ろしい思いをさせてしまったことに変わりはない。
      「……行くぞ、赤いの」
       志賀がそう言って背を向けると、白秋はようやく肩の力を抜いて壁にもたれた。

      #文アル【腐】 #直白 ##はるいぶ十二国記パロ
      麒麟はその性、仁にして、流血を嫌い、争いを厭うという。

       そう、麒麟は、白秋は、だめなのだ。たった今、眼前で起きたような流血沙汰を、こいつにだけは見せるべきではなかったのだと悔いたところで後の祭りだ。
血の気の引いた顔を見下ろしながら、己の麒麟をどう宥めたものかと頭を悩ませる。
       青褪めながらも、何を無茶な王たる自覚が云々と叱る言葉は留まるところを知らぬようで、口を挟む隙もない。
抱き起こそうと震える身体に伸ばした腕は、余計に怯えさせるだけだった。

       一刻も早く血の穢れから遠ざけなくてはと、わかってはいるのだが。

      「王、死んだかよ!」

       と、その時、何とも無礼な叫びと共にその場に乱入してきた若者を見て、志賀は不覚にも安堵した。白秋の声がぶつんと途切れる。
ずんずんと大股に、そのくせ足音一つ立てずに優雅に歩み寄る文官に、志賀はやれやれと肩を竦めてみせた。

      「おあいにくさま、生きてるよ。おい、赤いの。お前、」
      「あーっ!王、あんたバッカじゃないの!怪我人が宰輔に近寄るなよこの昏君!さっさと手当てを受けてこい」
       歩み寄ってきた勢いをそのままに、むんずと襟を掴まれて、志賀は些かげんなりとする。
      「わぁーってるから耳元で大声出すなよ。おい、俺はいいからお前は白秋を頼む」
      「僕のことはいいから王を頼むよ。一人で出歩かれてはまたどこぞで頭をぶつけかねないからね」
       志賀が言うと、すかさず白秋がそれに被せてくる。振り向けば、まだ青い顔に睨めつけれて言葉に詰まった。
       白秋の顔色が悪いのは、血が流れたからというだけではない。他ならぬ主人が、白秋を守るために自らの命を危険に晒したためだ。ほんの擦り傷であっても、恐ろしい思いをさせてしまったことに変わりはない。
      「……行くぞ、赤いの」
       志賀がそう言って背を向けると、白秋はようやく肩の力を抜いて壁にもたれた。

      #文アル【腐】 #直白 ##はるいぶ十二国記パロ
      やたろ
    • 水面の月に焦がれてる(鱒司書)私は自分をとても強欲な人間だとおもう。月がほしいとなくわがままは子どもだから許されるのだ。届かないものにいつまでも手を伸ばし続ける愚かな自分を、それでも捨てられないでいる。

      「人間なんてのは皆そんなもんだろう」
      妹を想う兄のような、或いは娘を見る父親のような、少なくとも年下とはいえ仮にも職場の上司に向けるべきではない柔らかな表情で、佐藤は司書の頭を撫でた。面倒見のよい、苦労性の兄貴分とはなるほどこういう一面だろうかとおもう。
      ……それを司書に向ける前に、見せるべき相手がいるだろうにと思うのは、佐藤にとっては余計なお世話だろうけれど。
      「あんたがあいつのために一生懸命になってくれるのは俺としても嬉しいよ」
      「一番弟子だから、ですか?」
      頭に置かれたままの手の影からそっと様子をうかがうと、佐藤は薄くわらったまま、ほんの少し、眼を細めた。
      「そういうあんたはどうなんだ。あいつをどうしても転生させたいというのはわかったが、なぜなんだ?言っちゃ悪いが他の連中の時にはそこまで熱心でもなかっただろ」
      あ、なにかをごまかしたなとおもう。
      「好きだからって言ったら笑いますか?」
      「……なんだって?」
      佐藤の手がようやく頭の上から退けられて、司書はその目を真っ向から見返す。怪訝にひそめられた眉の下、真意を探るように鋭くひかるその眼差しに挑むように。
      「好きなんです。先生がたと今までコツコツと貯めてきた資材の全てを投げ打ってでも手に入れたくて堪らないほど。滑稽なと笑いますか?愚かだと罵りますか?でも、先生だってあのひとと会いたいでしょう。だからきっと、呆れながらも付き合ってくださるでしょう?」
      「……ひとつだけ聞かせてくれ」
      「はい、なんなりと」
      「あんたはあいつが転生したとして、それからどうしたいんだ?恋仲にでもなるつもりか」
      思わぬことを聞いたとばかり、司書は目を見開いて佐藤を凝視する。実際、恋仲になろうなどとは考えてもみなかった司書からすれば、佐藤のその疑問は予想だにしないものだった。
      「……ええと、それはナイです」
      「ないのか」
      「ないです。ううん、なんといいますか、そこにいてくれるだけでいいんです。か、観賞用?といいますか」
      「観賞用」



      「という話をしていたのを思い出したんだが」
      「ああ、そんなこともありましたねえ」
      今宵は宴会が開かれている。井伏鱒二の転生を歓迎してのことだ。遠く聞こえてくるどんちゃん騒ぎに耳を傾けながら、佐藤と司書は報告書をまとめていく。
      司書が宴会に混ざらないのはいつものことだが、下戸とは言え、井伏の師である佐藤があの場にいないのはいかがなものだろうかとおもう。書類仕事を手伝わせておいて言うことではないが、本当に付き合ってもらってよかったのだろうか。このひとが目をかけ、その面倒見の良さを発揮するべき相手はもっと他にいるだろうに。
      「それで、実際どうなんだ。あいつと話しただろう」
      「ええ、声を聞くだけで腰が砕けそうになりましたがなんとか持ちこたえました。あの顔面にあの声は反則でしょう。意外と語尾が柔らかいのだなと思っていたら、何ですかあの戦闘中の口の悪さ。無理ですギャップ萌えという言葉をご存知ないのでしょうか。明日から助手についていただく予定なのですが私は大丈夫なのでしょうか?たかだか二十数年ばかり生きただけの小娘ですが、これほどまでに生命の危機を感じたことはありません」
      「落ち着け」
      電気ケトルから直接注がれた白湯を受け取り、司書は一息に飲み干した。
      「無理です」
      佐藤は湯呑みにもう一杯、白湯を注いでくれた。今度はゆっくりと啜り込む。これが酒だったなら言い訳も立つのに。
      「私はあなたにひとつだけ嘘をつきました」
      佐藤の片眉がぴくりと跳ねる。それだけだった。続きを促すような沈黙にそっと息を吐いて、司書は指先を温めるように湯呑みに添わせた。
      「井伏さんを好きというのはほんとうです。けれどあの人の転生を願った理由はそれだけではありません。
      先生は、ご存知ないでしょう。あのひとが生きた時代のうちの最後のひとつは、私が生まれた時代でもありました。現在、転生可能とされている文豪のうち、あのひとだけが失われた私たちの時代に、実際に生きていたのです」
      明治、大正、昭和、その後には平成と呼ばれた時代があった。人に溢れ、物に溢れ、そして、文化に溢れていた時代。日本という国はかつてなく豊かな時代を迎えていた。今はもう、ほとんどの人間の記憶にも、記録にも残っていない、失われた時代。司書にとっての「現代」。
      文学への侵蝕は、何も文豪と呼ばれる彼らの著書のみを対象としたわけでもなければ、彼らの著書から始まったわけでもなかった。
      誰にも気づかれることなく、静かに、少しずつ、平成という時代に生まれた文学は、その身を侵され姿を消していった。物に溢れていた時代。文学も当然の如く溢れていた。それゆえの弊害。あまりに数が膨大過ぎたために、それが減っていることに気づけなかった。気づいた時には手遅れだった。
      文学への侵蝕現象がようやく認知され始めた頃のことだ。高層ビルが立ち並ぶ、ごみごみとした大都市が、ある日突然、その姿を変えた。日本全体が時代を遡るように、建築物も、乗り物も、服装も、人々の知識も記憶も、巻き戻され、すり替えられ、そうして生まれたのが、この帝都だ。
      そんなことを知る者は、もうほとんど残っていないけれど。
      いっそこの記憶も失われてしまえばよかったと、どこにいるとも知れぬ神を呪ったこともある。そのくせ、思い出すたびにこの記憶が擦り切れ色褪せていくことが恐ろしい。全てはおのれの妄想ではないかと疑ったこともある。そうであるならばよかった。ひとりで抱えていくには限界だった。
      そんな時だった。井伏鱒二転生のためのの招魂研究の許可が再び下りたのは。そういえば、あのひとも平成を知っているのだ、覚えているかもしれないと、そう思ってしまえば、堪らなかった。佐藤に語ったことはほんとうだ。けれどそれ以上に、秘密の共有者がほしかった。どうしても、井伏だけは手に入れなければならなかった。
      なんて不純な動機だろうとおもう。
      恋のような繊細で美しい感情とは違う、この気持ちはもっとどろどろとした、自分本位の醜い欲だ。
      「先生、ねえ、先生。見ているだけだなんて、きっとそれも嘘になってしまうに決まっています。私はそのうち、あのひとなしじゃ生きていけなくなるんです」
      「……あまり、俺の弟子を困らせてくれるなよ」
      他にも何かを言いたげに司書を見下ろしていたが、結局、佐藤の口からそれ以上の言葉が紡がれることはなかった。こういう時に、佐藤は必要以上に踏み込んではこない。関わりたくないというのが本音だろうとはおもう。もとより何か有効なアドバイスを期待していたわけでもない。むしろ佐藤に引かれるための言葉を意識的に選んだ司書としては、その態度には満点をつけたかった。だってどうせ、あの時代を知らない佐藤には、何を言ったところでわかってはもらえないのだから。わかってもらいたくない、というのもある。
      司書がほしい言葉も理解も共感も、佐藤から得られるはずがないのだ。井伏でなくては。
      そうして勝手に井伏への期待値を高めていく。そこにいるだけでいいと言いながら、否、実際に彼が転生するまではそうだったはずだ。平成という時代の存在を証し立てる井伏がいるだけで、それをよすがに生きていけると、以前には思っていたはずだ。けれどほんとうに転生に成功してしまえば、もっと、と望んでしまう。この気持ちを知ってほしい、理解してほしい、分かち合いたい、慰めてほしい。ひとりでよく頑張ったと褒めてほしい。井伏が覚えているという確証すら、まだ得られていないのに。
      なんて、浅ましい。
      月はただ見上げているよりも、手に届くところまで来てしまってからの方が、欲深くなるのだと知った。もしほんとうに手に入れてしまったならば、どうなるのだろう。
      月がほしいと泣いた子どもが月を手に入れたことはない。けれど井伏は月ではない。人間だ。だったら、手に入れられるかもしれないではないか。手に入れてしまったって、構わないではないか。

      わたしは、こんなにもあなたに焦がれている。

      #文アル
      私は自分をとても強欲な人間だとおもう。月がほしいとなくわがままは子どもだから許されるのだ。届かないものにいつまでも手を伸ばし続ける愚かな自分を、それでも捨てられないでいる。

      「人間なんてのは皆そんなもんだろう」
      妹を想う兄のような、或いは娘を見る父親のような、少なくとも年下とはいえ仮にも職場の上司に向けるべきではない柔らかな表情で、佐藤は司書の頭を撫でた。面倒見のよい、苦労性の兄貴分とはなるほどこういう一面だろうかとおもう。
      ……それを司書に向ける前に、見せるべき相手がいるだろうにと思うのは、佐藤にとっては余計なお世話だろうけれど。
      「あんたがあいつのために一生懸命になってくれるのは俺としても嬉しいよ」
      「一番弟子だから、ですか?」
      頭に置かれたままの手の影からそっと様子をうかがうと、佐藤は薄くわらったまま、ほんの少し、眼を細めた。
      「そういうあんたはどうなんだ。あいつをどうしても転生させたいというのはわかったが、なぜなんだ?言っちゃ悪いが他の連中の時にはそこまで熱心でもなかっただろ」
      あ、なにかをごまかしたなとおもう。
      「好きだからって言ったら笑いますか?」
      「……なんだって?」
      佐藤の手がようやく頭の上から退けられて、司書はその目を真っ向から見返す。怪訝にひそめられた眉の下、真意を探るように鋭くひかるその眼差しに挑むように。
      「好きなんです。先生がたと今までコツコツと貯めてきた資材の全てを投げ打ってでも手に入れたくて堪らないほど。滑稽なと笑いますか?愚かだと罵りますか?でも、先生だってあのひとと会いたいでしょう。だからきっと、呆れながらも付き合ってくださるでしょう?」
      「……ひとつだけ聞かせてくれ」
      「はい、なんなりと」
      「あんたはあいつが転生したとして、それからどうしたいんだ?恋仲にでもなるつもりか」
      思わぬことを聞いたとばかり、司書は目を見開いて佐藤を凝視する。実際、恋仲になろうなどとは考えてもみなかった司書からすれば、佐藤のその疑問は予想だにしないものだった。
      「……ええと、それはナイです」
      「ないのか」
      「ないです。ううん、なんといいますか、そこにいてくれるだけでいいんです。か、観賞用?といいますか」
      「観賞用」



      「という話をしていたのを思い出したんだが」
      「ああ、そんなこともありましたねえ」
      今宵は宴会が開かれている。井伏鱒二の転生を歓迎してのことだ。遠く聞こえてくるどんちゃん騒ぎに耳を傾けながら、佐藤と司書は報告書をまとめていく。
      司書が宴会に混ざらないのはいつものことだが、下戸とは言え、井伏の師である佐藤があの場にいないのはいかがなものだろうかとおもう。書類仕事を手伝わせておいて言うことではないが、本当に付き合ってもらってよかったのだろうか。このひとが目をかけ、その面倒見の良さを発揮するべき相手はもっと他にいるだろうに。
      「それで、実際どうなんだ。あいつと話しただろう」
      「ええ、声を聞くだけで腰が砕けそうになりましたがなんとか持ちこたえました。あの顔面にあの声は反則でしょう。意外と語尾が柔らかいのだなと思っていたら、何ですかあの戦闘中の口の悪さ。無理ですギャップ萌えという言葉をご存知ないのでしょうか。明日から助手についていただく予定なのですが私は大丈夫なのでしょうか?たかだか二十数年ばかり生きただけの小娘ですが、これほどまでに生命の危機を感じたことはありません」
      「落ち着け」
      電気ケトルから直接注がれた白湯を受け取り、司書は一息に飲み干した。
      「無理です」
      佐藤は湯呑みにもう一杯、白湯を注いでくれた。今度はゆっくりと啜り込む。これが酒だったなら言い訳も立つのに。
      「私はあなたにひとつだけ嘘をつきました」
      佐藤の片眉がぴくりと跳ねる。それだけだった。続きを促すような沈黙にそっと息を吐いて、司書は指先を温めるように湯呑みに添わせた。
      「井伏さんを好きというのはほんとうです。けれどあの人の転生を願った理由はそれだけではありません。
      先生は、ご存知ないでしょう。あのひとが生きた時代のうちの最後のひとつは、私が生まれた時代でもありました。現在、転生可能とされている文豪のうち、あのひとだけが失われた私たちの時代に、実際に生きていたのです」
      明治、大正、昭和、その後には平成と呼ばれた時代があった。人に溢れ、物に溢れ、そして、文化に溢れていた時代。日本という国はかつてなく豊かな時代を迎えていた。今はもう、ほとんどの人間の記憶にも、記録にも残っていない、失われた時代。司書にとっての「現代」。
      文学への侵蝕は、何も文豪と呼ばれる彼らの著書のみを対象としたわけでもなければ、彼らの著書から始まったわけでもなかった。
      誰にも気づかれることなく、静かに、少しずつ、平成という時代に生まれた文学は、その身を侵され姿を消していった。物に溢れていた時代。文学も当然の如く溢れていた。それゆえの弊害。あまりに数が膨大過ぎたために、それが減っていることに気づけなかった。気づいた時には手遅れだった。
      文学への侵蝕現象がようやく認知され始めた頃のことだ。高層ビルが立ち並ぶ、ごみごみとした大都市が、ある日突然、その姿を変えた。日本全体が時代を遡るように、建築物も、乗り物も、服装も、人々の知識も記憶も、巻き戻され、すり替えられ、そうして生まれたのが、この帝都だ。
      そんなことを知る者は、もうほとんど残っていないけれど。
      いっそこの記憶も失われてしまえばよかったと、どこにいるとも知れぬ神を呪ったこともある。そのくせ、思い出すたびにこの記憶が擦り切れ色褪せていくことが恐ろしい。全てはおのれの妄想ではないかと疑ったこともある。そうであるならばよかった。ひとりで抱えていくには限界だった。
      そんな時だった。井伏鱒二転生のためのの招魂研究の許可が再び下りたのは。そういえば、あのひとも平成を知っているのだ、覚えているかもしれないと、そう思ってしまえば、堪らなかった。佐藤に語ったことはほんとうだ。けれどそれ以上に、秘密の共有者がほしかった。どうしても、井伏だけは手に入れなければならなかった。
      なんて不純な動機だろうとおもう。
      恋のような繊細で美しい感情とは違う、この気持ちはもっとどろどろとした、自分本位の醜い欲だ。
      「先生、ねえ、先生。見ているだけだなんて、きっとそれも嘘になってしまうに決まっています。私はそのうち、あのひとなしじゃ生きていけなくなるんです」
      「……あまり、俺の弟子を困らせてくれるなよ」
      他にも何かを言いたげに司書を見下ろしていたが、結局、佐藤の口からそれ以上の言葉が紡がれることはなかった。こういう時に、佐藤は必要以上に踏み込んではこない。関わりたくないというのが本音だろうとはおもう。もとより何か有効なアドバイスを期待していたわけでもない。むしろ佐藤に引かれるための言葉を意識的に選んだ司書としては、その態度には満点をつけたかった。だってどうせ、あの時代を知らない佐藤には、何を言ったところでわかってはもらえないのだから。わかってもらいたくない、というのもある。
      司書がほしい言葉も理解も共感も、佐藤から得られるはずがないのだ。井伏でなくては。
      そうして勝手に井伏への期待値を高めていく。そこにいるだけでいいと言いながら、否、実際に彼が転生するまではそうだったはずだ。平成という時代の存在を証し立てる井伏がいるだけで、それをよすがに生きていけると、以前には思っていたはずだ。けれどほんとうに転生に成功してしまえば、もっと、と望んでしまう。この気持ちを知ってほしい、理解してほしい、分かち合いたい、慰めてほしい。ひとりでよく頑張ったと褒めてほしい。井伏が覚えているという確証すら、まだ得られていないのに。
      なんて、浅ましい。
      月はただ見上げているよりも、手に届くところまで来てしまってからの方が、欲深くなるのだと知った。もしほんとうに手に入れてしまったならば、どうなるのだろう。
      月がほしいと泣いた子どもが月を手に入れたことはない。けれど井伏は月ではない。人間だ。だったら、手に入れられるかもしれないではないか。手に入れてしまったって、構わないではないか。

      わたしは、こんなにもあなたに焦がれている。

      #文アル
      やたろ
    • 嗚呼、親愛なる我が師匠実際、あんたは俺の自慢の弟子だよ、と師は言う。
      弟子たちの中でもいちばん聞き分けが良くて、まあそこがもどかしいところもあったんだがな。俺はあんたを本気で叱ったためしがないだろう、と。
      それで、ああそうか、と了解したのだ。この師は覚えていらっしゃらない。元々、記憶に虫食いの多い方ではあるけれど、あの時のことは、師にとっては覚えている価値もない些末な事だったのだろう。
      この人にとっての自分の価値は、従順であるという一点のみなのだ。従順であるがゆえの一番弟子。従順であるがゆえの可愛さ。
      ならば今生はそう振る舞おう。

      ◆◇◆

      「たまにな、ほんとうに時々だが、おまえと一緒に死んでやろうかと思うこともあるんだよ」
      「先生、それは嘘でしょう。いいえ、先生が本気でそのつもりだとしても、最期にはあなたは俺を置いていくに決まっています。皆そうだったんだ」
      「俺をそこいらの女と一緒にするなと言いたいが、ま、そうだろうなあ。俺にはおまえを殺せんよ」
      「そうでしょうとも。先生はひどいひとです」
      ──俺にも先生を殺せないのだということには気づいてはくださらない。

      #文アル【腐】
      実際、あんたは俺の自慢の弟子だよ、と師は言う。
      弟子たちの中でもいちばん聞き分けが良くて、まあそこがもどかしいところもあったんだがな。俺はあんたを本気で叱ったためしがないだろう、と。
      それで、ああそうか、と了解したのだ。この師は覚えていらっしゃらない。元々、記憶に虫食いの多い方ではあるけれど、あの時のことは、師にとっては覚えている価値もない些末な事だったのだろう。
      この人にとっての自分の価値は、従順であるという一点のみなのだ。従順であるがゆえの一番弟子。従順であるがゆえの可愛さ。
      ならば今生はそう振る舞おう。

      ◆◇◆

      「たまにな、ほんとうに時々だが、おまえと一緒に死んでやろうかと思うこともあるんだよ」
      「先生、それは嘘でしょう。いいえ、先生が本気でそのつもりだとしても、最期にはあなたは俺を置いていくに決まっています。皆そうだったんだ」
      「俺をそこいらの女と一緒にするなと言いたいが、ま、そうだろうなあ。俺にはおまえを殺せんよ」
      「そうでしょうとも。先生はひどいひとです」
      ──俺にも先生を殺せないのだということには気づいてはくださらない。

      #文アル【腐】
      やたろ
    • 街は燃えている。
      
瓦解した家々の下から、或いは燃え盛る炎の中から、声にはならぬ誰かの悲鳴が聞こえてくる。焼け爛れた皮膚をぶら下げて、流れる血もそのままに、動ける者は逃げ場を求めて歩いていく。
その人々を責め立てるように、黒い、黒い雨が降っていた。
黒く、太く、粘りつくような洋墨の雨は、炎を消すにはいっかな役に立たぬ。
地獄の底のような光景がそこには広がっていた。
      
「なんだい、これは」

      喉奥から絞り出されたような声は掠れ、震えている。傍らの徳田はこの世のものとは思えぬ光景に魅入られたように立ち尽くしている。

      「どうして、こんなになるまで気づかなかったっていうわけかい。どうして君は平然としてるんだよ、これは君の本だろう!」

      かと思えば、一転して井伏に掴みかからんばかりの勢いで責め立てる。
ああ、そうか、と気がついた。
この青年は、今でこそ年若い容姿ながらもかつての文壇の重鎮であった男は、この光景を知らぬのだ。
徳田だけではない。北原も、尾崎も、井伏以外の者は誰も知らぬ。

      「これは侵蝕じゃあないよ、徳田さん。アンタは知らないだろうがここは元々こういう場所なんでね」

      この地獄の如き光景こそが、この本の本来あるべき姿だった。

      #文アル
      街は燃えている。
      
瓦解した家々の下から、或いは燃え盛る炎の中から、声にはならぬ誰かの悲鳴が聞こえてくる。焼け爛れた皮膚をぶら下げて、流れる血もそのままに、動ける者は逃げ場を求めて歩いていく。
その人々を責め立てるように、黒い、黒い雨が降っていた。
黒く、太く、粘りつくような洋墨の雨は、炎を消すにはいっかな役に立たぬ。
地獄の底のような光景がそこには広がっていた。
      
「なんだい、これは」

      喉奥から絞り出されたような声は掠れ、震えている。傍らの徳田はこの世のものとは思えぬ光景に魅入られたように立ち尽くしている。

      「どうして、こんなになるまで気づかなかったっていうわけかい。どうして君は平然としてるんだよ、これは君の本だろう!」

      かと思えば、一転して井伏に掴みかからんばかりの勢いで責め立てる。
ああ、そうか、と気がついた。
この青年は、今でこそ年若い容姿ながらもかつての文壇の重鎮であった男は、この光景を知らぬのだ。
徳田だけではない。北原も、尾崎も、井伏以外の者は誰も知らぬ。

      「これは侵蝕じゃあないよ、徳田さん。アンタは知らないだろうがここは元々こういう場所なんでね」

      この地獄の如き光景こそが、この本の本来あるべき姿だった。

      #文アル
      やたろ
    • 紅鱒なるほど、師匠なのだろうと思う。
      遠く騒がしい赤い頭に細められたまなこは師というよりも父親のそれに近い温もりを感じさせるが、厳しすぎるところのあるもう一人と足して割ればちょうどよかろう。流石に注視し過ぎたか、振り返った井伏は視線が交わったかと思うとすぐにその目を泳がせる。
      目元の赤さを怪訝に思うまでもなく、答えは自ずから明かされた。
      「そんな、息子を見るような目をせんでくださいよ」
      拗ねたような声でそんなことをのたまうものだから、尾崎はやや高い位置にある頭へと手を伸ばし、それこそ子どもにするように掻き撫ぜた。
      「愛い奴め」

      #文アル【腐】
      なるほど、師匠なのだろうと思う。
      遠く騒がしい赤い頭に細められたまなこは師というよりも父親のそれに近い温もりを感じさせるが、厳しすぎるところのあるもう一人と足して割ればちょうどよかろう。流石に注視し過ぎたか、振り返った井伏は視線が交わったかと思うとすぐにその目を泳がせる。
      目元の赤さを怪訝に思うまでもなく、答えは自ずから明かされた。
      「そんな、息子を見るような目をせんでくださいよ」
      拗ねたような声でそんなことをのたまうものだから、尾崎はやや高い位置にある頭へと手を伸ばし、それこそ子どもにするように掻き撫ぜた。
      「愛い奴め」

      #文アル【腐】
      やたろ
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