日曜日の死者、それからささやかなる幸せと乾杯自分が江戸川少年たちと同じくらいの年齢のころ、自分が得られる幸せは体の大きさに比例するものだと思っていた。
イメージはクリスマスの時期になると売っている、チョコレート菓子の詰まったサンタクロースの形をしたクリアボトルだ。生まれてから少しずつ、つま先から幸せが溜まっていって、頭のてっぺんまでが限界。成長すれば体が大きくなるからすぐには満タンにならなくて、けれど老い始めれば体が縮むからそれまで溜め込んだ幸せと体の大きさが釣り合ったときが寿命なのだと、誰に教えられたわけでもなく思っていた。
もちろん、現実的な発想ではない。多分にファンタジーなそれはちょっとした幼少体験を経て修正された。しかし三十代を手前にしてもふと思い出すときがある。幸せという形而上的なものに嵩があって、人間には個人のサイズに見合っただけの容量しかないとするのであれば、大それたものよりスケールの小さなものを好む自分は初期設定がミニマムなのだろうと。
「だからってわけでもないんですけど、ほら、おれも立場的に接待とかいろいろあるわけですよ。おれが接待してどうするんだって感じだけど」
だん、と。大振りのビアグラスを円テーブルに力強く叩きつける。
石畳の模した床のために一瞬だけぐらりとしたが即座に赤井がそれを支えてくれた。アルコールが入っても反射神経は健常であるらしい。ひとつ礼を言い、スモークアーモンドをぽりぽり齧る。
立ち飲みのいいところは最低限のマナーがあれば許されるところだ。無楽町の高架下、沢袋や空宿の裏通りなど行きつけは数あるが本日の名店は古橋のアイリッシュパブだ。スポーツバーも兼ねており、仕事帰りのサラリーマンたちがハイネケンやらギネスやらキルケニーやらを片手に半身になってサッカーの試合――東京スピリッツ対ノワール東京だ――に注目している。前半戦ももう終盤で両チームとも一歩も譲らず無得点を維持している。
サッカーと言えば、自分たちが子どものころはロスタイムと呼んでいたものがいつの間にかアディショナルタイムに統一されていて地味に驚いたのを思い出す。前者が和製英語と知ったのはサッカースタジアム関係者と知り合った際に読んだ本の知識だ。三冊ばかり読み、ルールや注目選手はおおむね頭に入れている。文字であれ写真や映像であれ、一度見ただけで覚えられないようでは公安警察は務まらない。
こういう仕事に就いて以降、読書は作業に近しいものだ。娯楽のために本を手に取る頻度は低い。そういう意味ではわりあい読書家であるらしい赤井との趣味は合わない。趣味嗜好の話ならば某少年探偵の断然噛み合うことだろう。など言いつつ、それがどうしたとも思う。自分が探偵小説を得意としなかろうが、赤井が真実シャーロキアンであろうが、こうしてひとつのテーブルを囲んでビールを腹に流すことには何ひとつの支障もない。
とりあえず、ぽりぽりとアーモンドを齧る赤井は正面から見ていてなんだか間抜けだ。何度見ても、間抜けだと思う。
「銅座でまわらない寿司相手に狼藉働いたって、帰りにセブン寄ってあん食パン買おうって思いますもん。駅前になかったら遠まわりしてセブンまわってやるからなって」
「ホー……それはあんパンとは違うんだな」
「あれ、あなた食ったことありません? うわ。日本にいるくせに人生損してるわー。おもしろいから一生そのまま損しててほしいですけどあの美味しさを知らないでセブンがそこら中にある東都にいるあなたがあんまりにも可哀想なんで教えてあげましょう」
どうして赤井相手にコンビニの食パンについて語っているのかと我ながら疑問になる。しかし、酒の席での話題なんてこんなものだ。仕事の話はできず、趣味の話にはならず。そうなればあとはその場で思い付いたものが採択される。
「これくらいなんですけどトーストするとおいしいんですよ。こんがり焼けたのにバターたっぷり塗ったのを齧ったらもう幸せったらないですね」
左右の親指と人差指でフレームをつくって大きさを示す。おおまかに手のひらサイズの二枚入りなので腹持ちはよくないが主食ではなくおやつ感覚なので十分満足できている。あん食パンのトーストには絶対に塩気のあるバターをたっぷり塗るべきだと熱く主張してくれた〈ポアロ〉の彼女に心から感謝する。
公安警察は外で食事をしないのだと某バラエティ番組で公表されてしまったが、それは時と場合による。デスクワークが主である際にも一切外食をしないというのは不可能だ。オペレーション中であれば細心の注意をはらった上で、あとは自己判断と自己責任になる。経験から言えば食事に手をつけない人間はひたすら怪しく、そういう輩は決まってネズミだった。
ちなみに赤井とは互いに酒のコードネームを名乗っていた際に、チームのもうひとりとやらかした春のてりたまバーガーと秋の月見バーガーの違いについての大論争に巻き込んだ程度には食事を共にしていた。あのときもあのときで冬のグラコロバーガーで参戦してきたものだから話が変に拗れたのだった。言うまでもなく頭の悪いエピソードのひとつだ。
気がつけばビアグラスが空いていた。泡だけが残るそれを掲げ、ホールを巡回する店員にハイネケンのおかわりを頼む。赤井のほうを見ると指を二本立てたのでもう一杯をさらに追加。
店員が去るのを待たずに赤井は新しい煙草に火を点けた。
ゆら、と嗅ぎ慣れてしまった副流煙。今日は何本吸うのだろうか。それでつつくわけでもないが、会計前に灰皿の吸殻を数えるのが習慣化していた。
「……ふむ。君が寿司以上に惚れ込んでいるとなれば、さすがに気になるな」
「寿司も寿司でちゃんとうまかったんですよ。銅座だし。夏の寿司屋は雲丹あるからもう最高ったら」
「雲丹か……」
「あなた雲丹きらいそうだもんな。うまそうに食わないやつと飯行ってもしょうもないから連れて行かないんで、安心してくれていいですよ」
そうしてくれ、と赤井は苦笑ひとつせずにビールの底を上げる。
なんやかやと共に酒杯を干すようになって思い出したが、奴と会話をしていると否定されたり反論されたりが少ない。こちらが意図しないタイミングで思いもよらないぶった切り方をしてくることは多々あれ、基本的には聞き手のポジションに立つ。その甲斐もあり、たとえ相手がこの男であろうとなかなか楽しい時間が過ごせている。かつて奴に手を焼かされたのは話を聞いた上で聞かないという点もあった。初めから制御不可能である以上にやりづらい相手だった。
肴のアーモンドも残り数粒。手もとに酒もないとあっては正しく手持ち無沙汰で、間凌ぎに壁掛けの大型テレビに目を向ける。いまだ得点はないようだが、さもありなん、今日の試合には東京スピリッツの主砲たる赤木英雄は不在であるらしい。空撮で抜かれる観覧席にちらほらと空席があることにもうなずけて、これにはサッカー小僧でもある少年探偵も残念に違いない。
「ところで、ナッツ以外何も来ませんけど、あなた他になんか頼んだ?」
「いや」
「は? はああ? おまえ頼んでないのかよ。冗談でしょう。ちょっとメニュー寄越せ」
「了解」
「まったく……、アイリッシュパブなんだからフィッシュ&チップスは絶対じゃないですか。あ、この店のポテトでかい。それからコルキャノンと、シェパーズパイと」
「これまた芋づくしだな」
「目についたやつ片っ端から言っていますからね。あとサラミ。グリルソーセージの盛り合わせと、ムール貝……いやムール貝はここじゃなくていいな。別に店知ってるし。じゃ、あとピクルスでいいか」
品を決めたところでビールが運ばれてきた。ビアグラスを交換しようとするのを遮り、フードを注文する。横着し、これとこれととメニュー表を指差しただけのオーダーを正確にくり返してもらう。手書きの伝票でもハンディ注文機でもなく自前のスマートフォンを使っているのがめずらしく、機器を扱い慣れた指さばきを眺めてしまった。思いがけないところで自分の年齢を実感し、心にぐっさりきた。
「……よく食べるな」
オーダー中も口を挟まず、煙草を片手にさっさとビールに口をつけていたはずの赤井が心なしが驚いているトーンで言葉を発した。
「結構な品数だったが、食い切れるかな」
「うーん、まあ男ふたりだし、腹にはいる分はおれが食います」
「腹が減っているというのではないのか」
「ええ。単にテーブルの上がさみしいのが嫌なんです」
「なるほど」
赤井がうなずく。
これは相槌だ。以前ならば汲み取れなかったものがわかるようになって、そのことを認識するたびにぞっとなってうっすらと鳥肌が立つ。
赤井との関係は圧倒的に緩和したが模索中であることに変わりはない。今度どうなるのか、どうなりたいのか、結論を先延ばしにして久しい。間が合えば適当な店で合流して酒を飲み、合わなければ連絡のひとつも取り合わない。当然、約束もない。そういうのは名前のついた関係にある人間同士が行うものだ。自分たちの関係には不適応だ。少なくとも、今のうちは。
ふ、と赤井が小さく笑った。短くなった煙草を灰皿に押しつける。
思い出し笑いはやらしいんですよ、と言いかけて、やめる。
「それで、締めはあん食パンか」
「ええ、もちろん。見掛けただけ買い占めてやりますよ」
好物のひとが聞いたら迷惑がられそうなことを当然と口にして、ハイネケンのうすい泡を唇につける。
何を考えたのか、それに付き合おうと同行を示した赤井に、ふはと声をあげて笑う。
「あなた、あんこ苦手なくせに」