【ニルヴァーナ】
――これで、良かったんだろうか。
何時だって。そんな疑問が浮かんでは、目を背けた。
いや、これで良かったのだ。私たちの歩んできた道に、間違いなどあり得ない。
あり得るはずはないんだ。
「どうして、紅さんは。いつもそんなふうに、言いきれるの?」
聞こえた声に顔をあげれば、不思議そうな顔で首をかしげる吹雪様と目が合った。
陽の光の様子から、時刻は昼を過ぎたおやつ時だろうか。
いつもの場所 ― 守護を任された森の一角にて ―
幾分輝きを和らげた陽光を浴びながらのんびりと書物を捲っていると、小さな来訪者が訪れた。
長い紫髪を緩やかに纏めた少年は、いつも通りの笑みで、俺の隣を陣取り。
他愛ない話を聞きながら、時には彼の考え事に自分の意見を返していた折の、その質問。
一瞬呼吸を忘れたのは、まさかそのように質問されるとは思わなかったからだろう。
ぱたんと、書物を閉じて相手に視線を合わせれば、彼は僅かに背筋を伸ばして、居住まいを正す。
ふわり。頬をくすぐる風は、世情を忘れさせてくれるかのような、柔らかなもの。
「……あなたには。俺は、そのように見えますかね」
「え? うん、紅さんは……自分の意見を言う時、迷いがない感じがする、かな。
……僕は自分の意見に自信とかないし、間違ってるかもなあって思いながら言うから、
そんなふうに言えるのはすごいなあって思うよ」
「そうですか。……有難いお言葉ですね」
有難うございます。素直な気持ちで感謝を述べれば、彼は照れたように笑みを零す。
互いに言葉を噤んで訪れるのは、この場所に相応しいくらいの静寂。
時折風に揺れる木の葉のさざめきを聞きながら、深く、息をついた。
(……どうして。か)
質問を心の中で反芻しながら、瞼を閉じる。
けれども答えは至極簡単に思い浮かんで、言葉の変わりに笑みが零れた。
長くを生きた。白雪が顕現するよりも、シリア様が産まれるよりも前から在るこの命。
いや、正式には一度死んでいて、器ごと再利用されていると言ったほうが正しいのだが――
ともかく、気の遠くなる程に長い時間を過ごしているのは確かだ。
故に私は彼らの道しるべであるよう言葉を紡ぎ、それに足るだけの〈力〉であるよう努めてきた。
二人が足を止めた時、戸惑い躊躇う時。声をあげるのは自分であり、
……それが理由で誰に嫌われようとも、構わなかった。
性を変え、話し方を真似て。彼らが揺らぐとき、土台であれるよう、己だけは揺らがぬように。
それは虚勢だったのかもしれないけれど、【大丈夫】だという言葉には必要な強さを求めては、笑った。
「俺は。そうでなければいけないのですよ」
ゆっくりと瞼を持ち上げながら、誰に告げる訳でもなく、言葉を紡ぐ。
けれどもそれを耳聡く聞いたらしい少年は、ぱちりと瞳を瞬かせて、続きを促すように俺の服の裾を軽く引いた。
ひゅるりと。前髪を揺らす風は、あの日から変わらずに、冷たいもの。
「あの日。彩輝様は俺に、『行け』と命じた。故に私は命を守り、そうして私達は彼を失った」
「……彩輝様って、凛さんのお師匠様のこと、だよね?」
「ええ。俺を顕現した主人でもあります。……私はいわば、彼の<力>の残りかすのようなものです。
それからのシリア様は信じる道を見失いました。白雪もまた、よく泣いていた」
今でも思い出せる。あんなにも優しかったひとが、人を食らうようになったと知った時。
私の両腕を掴んで、「どうすれば良いの。どうすれば良かったの」と、彼女は涙を溢れさせていた。
うすっぺらい“大丈夫”を告げても、彼女の瞳は不安げに揺れていて。
――これでは駄目だと。俺だけは強く在ろうと。思ったのだ、あの方のように。
「自分の言葉すら疑う者の言葉を、誰が信用しましょうか。
そんな安っぽい言葉で何を護れましょう。支えになれましょう。
……そう考えれば、自ずと自分のあるべき姿が浮かびましたね」
「紅さん、それは……」
「これは。あの方を失う道を紡いでしまった、私の贖罪なのですよ」
「贖罪って……紅さんのせいじゃ、ないでしょう?」
「私の選択が招いたことであることは、確かです。
ですが――この道で、良かったのです。けして、間違ってはいなかった」
「どうして、そう言いきれるの?」
「そんなの、当たり前じゃないですか。疑うべくもない。
――そうでなければ、彼らの苦しみは、何だったというのです」
間違った道の上で苦しんでいたというのか。助けてと、心の奥で叫んでいたというのか。
そんなの、……あまりにも、酷いじゃないか。
「他の誰もが否定しても、俺はあの日々を肯定し続けますよ。
今代のシリアに間違いなどなかった。全ては、然るべきことだったのだと」
後頭を木肌に預け、空を見上げる。
幾度となく伸ばしても届かない青は、強かった主と似た色をしている。
(私はあなたのように、なれただろうか)
小さな疑問に返ったのは、隣の少年が苦笑する吐息だった。
「……矛盾してるよ。
自分のせいだって自分を追いつめながら、誰かのために、それが正しかったと思い込むなんて」
「自覚しています。なればこその、俺ですよ」
「苦しくないの?」
「何を苦しむことがありましょう」
「……強がり言っちゃってさ」
困ったように溜息を重ねた少年は、ぽすんと体重をこちらに預けるよう、寄り添ってくる。
確かに感じる重みが心地よいのは、この子もまた、私にとっては教え子のようなものだからだろうか。
『私は間違っていたでしょうか』
言いかけて飲み込んだ言葉の代わりに、慈しむよう頭を撫でる。
それだけのことなのに、妙に体が重いのを自覚していた。
「それでも。こんな私にも……少しだけ、悩んでいることがあります」
「それは、僕が聞いても良いこと?」
「ただの世迷い事だ。忘れてください」
「うん。じゃあ、そうする」
くすくすと笑う声と共に、小さな振動が伝わってくる。
自然と笑みがこぼれたのは、こんなふうに寄り添ってくれるひとを、思い出したからか。
「――さよならと。言葉にしたら、何か変わるんでしょうかね」
私にはもう、あまり時間がない。なればそれを、知らせておくべきなのだろうか。
元より半分死んでいるようなものだ、いつ消えても良いと思って日々を過ごしてきた。
私は何も残せないのだ。髪一筋、羽一枚、全てが理に還る。
(けれど、もう少しだけ。この世に留まりたいと思ったのは、あなたが――)
「皮肉なものですね。この胸の痛みすら、生きている証だなんて」
「……そうだね」
答えが返るとは思わずに、声をしたほうへ視線を向ける。
澄んだ黒の瞳は、とても静かに微笑んで、また苦笑した。
――これで、良かったんだろうか。
何時だって。そんな疑問が浮かんでは、目を背ける。
その度に、私たちの歩んできた道は正しかったのだと、自分に言い聞かせた。
そうでなければ、やっていられなかった。そんな毎日だった。
【ニルヴァーナ】
それなのに、今は。まだ呼吸を繰り返せることに、安堵している。