【Let me see you smiling】
どうしたら、君が、笑ってくれるだろうかと
ただ、そう思ったものだから
ふわり、と。吹いた冬風が森の木々を揺らし、枝葉が雨音のようなさざめきを鳴らす、そんなある日の午後のこと。
空はまだ夕暮れには遠く、青々とした色で、穏やかに世界を見守っている。
そんな空から降り注ぐ陽光は、冬とは言え暖かく、まるで春の足音のようで。
ひらひらと降る白雪が光を反射しては煌めき、時折小鳥が囀り、花弁が舞う、静かな静かな森の中――
輪になるようにぐるりと座ってひそひそ話をしている男女の姿が、三人分。
「――要するに。シリア様は、この冬の最中に“花を降らせたい”、と?」
何処か呆れたような声音で、けれども優しさを滲ませた苦笑を浮かべて己の主人へと問いかけたのは、
三人のうちの一人、黒髪の男性だ。
緋色の瞳を細めて溜め息をついてみせた従者、
紅鳳凰の青年――
紅華は、
胡座を掻いた己の膝を支えに頬杖をつき、目の前の男性を見やる。
伺い見るような動作につられてか。朱色の髪紐で軽く束ねた黒髪からは、束ね忘れた髪の数本が、
青年の纏う白の羽織に色を添えて、艶光り。
「……ざっくばらんに言えば、そうなるか。
いや、何も花でなくとも良い、聖が少しでも、笑ってくれるのであるのなら」
紅華の問いに答えたのは、問いかけられた男、
青銀色の髪を三つ編みに結わえた神獣シルヴェリアル=ウルフの青年――
一色 凛。
紫青の瞳をゆうるりと緩めた青年は、名を呼んだ相手を思い描いたのだろうか、柔らかな笑みを溢した。
空気に溶けるようなその微笑は、何処までも、優しく……森の守護者として、
『死神』と称された青年にその翳りは既にない。
過去には血に濡れて、怪我の絶えなかった彼の指先が、四葉のクローバーの葉を撫でて、青年はまた、笑みを深めるばかり。
そんな主を見て嬉しそうに笑った最後の一人、……黒髪の少女は、ぱちん、と手を叩いて見せた。
まるで何かを思いついたような少女の仕草に、二人の青年の視線は彼女へと向けられて。
小首を傾げた狼の青年と、怪訝そうに眉を寄せる紅鳳凰の青年の対称的な視線を受けた少女
――
白雪は、静かに口を開く。
「花が無いなら作ればようございましょう?
シリア様、冬だからと言って花吹雪が舞わぬ道理はございませぬ」
楽しげな声音と共に浮かんだ笑顔は、声色と同じくして悪戯な、実に彼女らしい微笑み。
傾げた首の角度を更に深めて見せた凛の隣では、「また面倒事を言い出した」とでも言いたげな、
苦笑いの表情を浮かべた紅華が、溜め息を重ねる。
―― 隙あらば面倒事から抜け出して、自分だって、“彼”に会いに行こうと思っていたのだけれども。
そんな紅華の思惑などはさておいて、目の前で悪戯を考えあう二人は、実に楽しげで。
思わず遠い、遠い昔を思い出した紅華は、ゆるゆるとその面影を振り払うように首を振り、
また、今日何度目かの溜め息を重ねる。
「仕方がありませんねぇ。シリア様の願いとあらば、束の間の“魔法”をお教え致しましょう」
そうして彼が告げた言葉は甘やかに、穏やかに―― 優しい笑みと共に。
そんな紅華の珍しい笑みを見た凛と白雪は、互いに一度顔を見合わせるものの、
ただ、嬉しそうに笑って、……彼へと頷いてみせる。
空から降る雪は、はらはらと、風と共に舞い遊ぶ。
地へと降りれば形を保てずに溶け消えるそれは、どこまでも白く、穢れなく ――
四神が見守るこの美しい世界に、清廉な彩りを添えるばかり。
◇ ◇ ◇
そうして彼らの家族が集う駄菓子屋さんの縁側で、三人による紙で出来た花作りが始まった。
書き損じた書類に、広告に、包装紙等々を集めて、折って。
折り紙の要領で折られ生く花が、色とりどりに、縁側の床に並べられていく。
赤、青、黄色。床を埋め尽くしていくその花は、けして生花ではないけれども、
鮮やかな色彩を花開かせて、まるで花畑のようであるものだから。
そんな珍しい光景(と、何時もながらの三人組)に思わず赤髪の青年と灰髪の青年が足を止めたのは、
自然なことだった。
「紅さんに白雪ちゃん、シリアさんまで集まっとるなんてなぁ。今度は一体、何しとるん?」
常に微笑みを湛えている灰髪の青年、
陽炎が不思議そうに首を傾げて問いかけると、
その隣ではしゃがみこんだ青年、
紅蓮が、紙製の花を一輪手に取って、眺めやる。
興味深げに花を眺める青年の金色の瞳に映るのは、紙で出来ているとはいえ精巧な薔薇の花。
思わず楽しげに笑った紅蓮は、花を下敷きにしないように注意を払って、その場にて腰を落とした。
「凛ちゃんったら、一体何処で折り紙なんて覚えたんだよ」
「聖が書類に夢中で構ってくれなかった折りに、少々」
「ふふ。これは少々ってレベルじゃないよねー、凛さんは折り紙もお上手なんだ」
ひょこり。そんな擬音が付きそうなくらいに可愛らしく、朗らかな声と共に縁側へと顔だけを覗かせたのは、
紫の髪を流したままの少年、
吹雪。
けれども、くすくすと楽しげに笑う少年は、覗いてくるだけで姿を見せずに、笑うばかりであり。
その理由に何となくではあるが思いあたった凛が緩やかな動作で吹雪を手招けば、
少年はぱっと満面の笑みを浮かべて、満開の花畑の傍へと駆け寄った。
ぱたぱた、ぱた。たくさんの花々を踏まぬように気を付けながらも、
ちょこん、と凛と紅蓮の間にて座った吹雪が、一枚の紙をさも自然と手に取る。
かさり。また一枚と少年の手により花開きゆくそれは、また人が増えれば、
また一輪と数を増し、彼らを取り巻くように、少しずつ、けれども確実に、増えて行く。
相変わらず不器用だ、と紅蓮をからかうのは、緑髪の髪をポニーテールに結わえた彼の姉。
そんな二人を見守る薄茶色の髪を持つ父親は「微笑ましいね」、だなんて、隣の陽炎へと語りかける。
気が付けば紅華にべったりと背中から張り付いているトラブルメーカーな銀狼の少女、
鮮花は、
つまらない、と言いながらも、紅華に教わるがままに紙を折り、―― ビリリ、と一枚無駄にして、
暫しの間、紅華を沈黙させて。
そんなお馴染みの顔触れが他愛ない談笑を交わしながらの折り紙教室は、
恋心を知った元死神が“彼”の笑顔を作りたいがために始まったのだけれども ――
(―― どうやら、また。幸せの時を貰ったのは、俺の方で、あるらしい)
紙に自然の温もりなどはなくとも、目の前に広がる平穏たる光景に瞳を細めていた元・森の守護者は、
―― 緩めた瞳の奥に、確かな幸せの色を灯していて。
絶望でも、失望でもない ―― 神たる存在が、慈しむかのような凛の眼差しに気付いた彼の妹、鮮花が、
くい、と青年の髪を指引く。
青銀の髪が揺らめき、光を反射して紫へと色を変える頃、少女に返る兄からの視線は柔らかく、とても、優しい表情。
「兄上、楽しい?」
「楽しい、―― いや。嬉しい、だろうかな」
ふと浮かんだ問いかけを妹が告げると、一寸考える素振りを見せた兄は、答えを一度訂正するものの。
「私はきっと、今、とても幸せであるのだろう」
ふわり。青年が続けた静かな言葉と共に、空気に溶ける笑みは、どこまでも、優しく。
「そっか」。そんな兄に対して素っ気ない返事を告げた鮮花は、
声色に反して小さくちいさく笑って、折り終わった花を一輪、床へと置く。
不器用な彼女が形作った少し歪つなその花は、何者にも染められない、真っ白の、花弁を広げていた。
◇ ◇ ◇
そうして、時刻は夕暮れへと、過ぎて。
カツ、カツ、カツ――……。
居候先の部屋へと続く廊下を、のんびりとした歩調で、凛が歩く。
相変わらずにブーツが響かせる靴音へ、時折誰かからの視線が向けられれば、ふわり、と、
青年は優しく笑みを返して見せて。
(約二年の間。楽しかった同居生活の中に。意外にも、此処で顔見知りの者が増えたものだ)
そんなことを青年は思いながら、帰路を歩む。
とはいっても、青年の手には大量の紙製の花。
それを抱き抱えるかのように歩む彼が、しかも何処か楽しげな雰囲気を纏えば。彼を知らぬ人だって、
思わず視線を向けてしまうものなのだけれども。
森に住んでいた頃は、自分が人と関わるなどとは思わなかったし、そのつもりなんて微塵にもなかった筈だ。
恨んで、憎んで。ただ一人だけを尊んで、思い出として抱え居ればそれで良かった自分が
―― こんな道を辿るとはと思えば、青年の笑みも、深まり。
はたり、と。青年の歩みと共に揺れる白のマントは、穢れなく、優雅に。
その端を、つい、と。引っ張られたかのように思った凛が、足を止め、振り返る、と。
「……あの、何ですか。その大量の紙の、花っぽいもの」
振り返った先、青年の後ろにて。
青年のマントの端をぎゅっと掴み、もう片方の手で青年の腕の中のものを指差す少女 ――
散葉ちかるが、訝しげに凛へと問いかける。
「ちかるか。悪いが今日は、紅茶の時間に付き合えぬ。先約があるんだ」
「何を今更。そんなの、凛さんに関しては何時ものことでしょうに」
「そうか? まあ、私で彼女達の退屈が凌げるのであれば、容易いことだ」
「いやー……そういう問題じゃ、ってそうじゃなくてですねー」
やんわりと微笑んだ青年と、何処か呆れ気味な少女と。
そんないつも通りのやりとりを遮って、少女が一輪、紙の花を手に取る。
器用に、綿密に折られたその花は、どうやら薔薇であるらしい。
青い紙を使用して折られた薔薇を、両手で掬うように持った彼女が、小さく、笑う。
「綺麗なものですね。折り紙の薔薇、ですか?」
「あぁ。それは恐らく紅華の作だな。……あいつには折り紙でも敵わなかった」
「まぁ、紅凰様の……、いやむしろ、あの嫌味な人がこれを折っている所を想像出来ないんです、が。可笑しくて」
「……まぁ、確かに。似合わんが」
あの人いっつも意地悪ばかりするから嫌いです。
そんな風に、唇を尖らして拗ねてみせる少女へ、凛が、あれもたぶん愛情の一種だから、なんて笑って。
そうして。青年は僅かに身を屈めると、少女との距離を縮め ―― 何事か、囁いて。
思わぬ相手の行動に身を固めた少女が、揺らいだ風を感じて顔を上げれば、間近に微笑む青年と、目が合う。
「何をなさったんです?」
「束の間の魔法をかけたのさ、―― 詳しいことは、また何れ空中庭園で、紅茶と共に」
それまでちゃんと、元気で居るんだぞ。
そんな言葉を少女に残した青年は、マントを翻し、再び歩みを進める。
「相変わらず、目立つ人ですこと。……あら?」
そんな青年の背中を苦笑と共に見送った少女は、ふと、掌の中に咲く青い薔薇に気付く。
紙とは違うしっとりとした質感は、まさしく生花と同じもの。
けれども自然にはありえない薔薇の青さが、先程の製花であることを告げている。
一体どのような術を使ったのか。
知的好奇心に誘われた少女は、今日の午後の予定は森にしよう、と、足を向けた。
目指すはいつも不機嫌そうな、けれどもけして適当にあしらうわけではない、……彼の、場所だ。
◇ ◇ ◇
「紅凰様! 紅凰様! 教えてくださいな!」
「また邪魔者が……人が漸く時間を作って、鬼ごっこにでも興じようと思った矢先に」
「邪魔者だなんて酷い! って鬼ごっこ……? 紅凰様が、鬼ごっこ……ですって……だめですよ、殺生沙汰は」
「相変わらず煩い小娘ですねぇ。
……で、何用ですか。ちかる、手早く済まして頂きたいのですが。俺は忙しいのですよ」
「これは、何ですか! あなた様が創られたと、凛さんが!」
「青い薔薇? あぁ、昼間の……なに、ちょっとした魔法ですよ。名に体を与えただけです、では失礼し……」
「あぁ! わかりません! 今のじゃちかるはわかりません!」
「ああもう! わかったから人の髪を引っ張るな!
……要するに。紙で作った器に名を与え、束の間錯覚をさせるための、まじないを施した。それだけです」
「おまじない? そんなもの、何処にも……」
「よく見て御覧なさい。名前が書いてあるでしょう?
名とは言わば呪い。我等のように器を用意すれば、仮初の『命』を与えることが出来る。
といっても……その器はただの紙、もって数時間ですがね」
「あら。それじゃあ、この薔薇は、紙に戻ってしまうんです?」
「紙のほうにだって存在がある。互いに互いを拒絶してしまえば、終わりですよ」
「紅凰様の仰ってることは、難しくてちかるにはわかりません」
「それはそれは。やっぱりちかるはお馬鹿さんですねー」
「……いま、すごく、バカにされた気がしま……あら?
じゃああの腕一杯の紙の花々も。結局は紙に戻るんじゃ」
「束の間の魔法と言ったでしょう? もちろん、夜には紙に戻りますよ。
いやぁ、その時の秘書官様のご機嫌は如何の程でしょうかねぇ」
「紅凰様、なんだか、楽しそうですね……」
「我が主が。あんなにも幸せそうに笑うお姿を見るのは、昔では考えられぬこと。嬉しい反面、つまらぬものですよ」
「まぁ、どうせ。紙に戻って、怒られたって。シリア様にとってはその全てが、……嬉しいのでしょうけれど、ね」
【Let me see you smiling】
ねぇ? きみは笑ってくれるかな、怒ってくれるのかな。
(それは彼が。再び『死神』としての道を歩み始める、少し前のお話)