きみのかりものきみのかりもの
5月29日。
新開悠人は、真波山岳と出くわした。
早朝のコンビニエンスストア。
箱根学園の寮から徒歩2分のそこは、ハコガク生にとって最も便利な買い物スポットだ。寮の食堂は21時で閉まってしまう。部活を終えた食べ盛りの高校生がそのまま眠れるわけもなく、このコンビニで夜食を買い込む姿は日常の一部となっている。
しかし今は夜ではない。そもそも真波は寮生でもない。
「あれ、ユートだ」
だから、悠人は少なからず驚いた。遅刻魔、と揶揄されることの多いこの先輩が、こんな早朝からコンビニにいるなんて。
「真波さん、はざす。早いすね」
「おはよ~、早いかな?さっきちょっとだけ走って、お腹空いちゃって」
何か食べたくなっちゃって、と言う真波。悠人に背を向けたのでパンを選ぼうとしていたところ、ちょいちょいと真波に手招きされた。
「あ、ユート、こっち」
悠人は疑問符を浮かべたが、そのまま真波についていく。
「どうしたんです?」
「せっかく会ったし、オレ、奢るよ。何がいい?」
そこは冷蔵庫の前だった。にこにこと笑う真波の顔を見るに、冗談ではなく本気のようだ。とはいえ悠人は真波が冗談を言うところなど見たことがなかったのだが。
真波が自分にそんなことを言うのは意外だったが、さすが後輩と言うべきか、悠人は元々察しが良い方だ。ここで下手に拒み空気を壊すよりも、先輩を立て奢られてやる方が後々利益になることを本能的に理解している。
だから、素直に頭を下げる。
「あざす。オレ、真波さんが先輩で良かったです」
「あはは、そういうのうまいね~ユート。どれがいい?オレは……あれ?」
真波は、話ながら箱根学園の学校指定の鞄の中を何やらごそごそと漁っている。たまにちらちらと覗く鞄の中身はお世辞にも綺麗とは言い難い。
何度か真波の彼女の有無を尋ねられたことを思い出したが、この感じだと彼女はいないだろうなと悠人はぼんやり考えていた。それを真波の許可なく話したことはなかったが。
「おかしいな、財布ない……」
「マジすか」
思わずぽかんと口を開けてしまったが、当の真波は「おかしいな~、入れたと思ったんだけど」とどうにも締まらない口調で喋り続けている。
一分ほど捜索した後、真波は諦めたように笑って肩をすくめた。
「あはは、ごめんユート。財布ない。奢れないや」
「オレはいいですけど、真波さんが困りません?財布ないなら、飲むものも買えないすよ」
「買おうと思ってたんだよねーそれが。まあいいや」
「いやよくないすよ。もう暑いんですから」
確か真波は、今日登りのコースだったはずだ。いくらこの人が山に慣れた天才クライマーとはいえ、喉を潤すものなしで山を登るなんて無茶ができるはずもない。仮にこの人はすると言ったとして、先輩方がそれを許すとも思えない。特に、黒田辺りは。
「今日走るとこ給水所あるし、大丈夫だよ」
「何かあったら困りますよ、真波さんに。うちのエースクライマーなんすから、万一があったらまずいです」
真剣な顔で小銭を差し出す悠人に、真波は小さく微笑んだ。
「……じゃあ、ありがとう。ユート。借りるね」
「あ、いえ、返さなくていいす。オレのお礼ってことで」
「お礼?オレ、ユートに何かしたっけ?」
首を傾げる真波に、悠人はぱちんとウィンクを返した。
「いつもかっこいい走りを見せてくれるお礼、す」
「あはは、やっぱうまいなあ、ユート」
そう言いながら、まんざらでもなさそうに真波は笑った。
※
「で、ユートがオレに買ってくれたんです。優しいですよね、ユート」
「…………」
件の「ユートが買ってくれた」スポーツドリンクを飲む真波に、黒田はどんな顔をしていいのか分からなかった。否、きっと呆れ顔をしているのだろう。
「おっまえなあ……何から突っ込んでいいのかわかんねーが、後輩に奢ってもらうなよ……」
「おかしいですよねえ、オレが奢る予定だったのに」
「まず奢ろうと思う前に財布持ってるかどうか確認しろよ」
「いやあ、財布を忘れてくるなんてまず思わないじゃないですか」
「そうだな、思わねえな。普通。お前はそれをやってんだけどな」
「そう言えば昨日、委員長にも忘れ物とかないの気をつけなさいよ、って言われてたんだった。委員長、オレが財布忘れるの読んでたんですかね?エスパーかな」
「かもしれねえな。それか探偵。つってもお前の場合状況証拠ガバガバ過ぎてすぐバレんだろ、特に幼馴染にはな」
「あはは、委員長すごいや」
他愛もない話で休憩時間を過ごす。太陽は頂上を過ぎているが、まだ心地よい昼間の風が吹いている。真波は眩し気に目を細めた。
「まあ……お前が先輩らしいことをしようとした、つうことはいいことだけどな」
「いいことなんですか?あ、でも確かに、黒田さん、よくしてますよね。いいことだからですか?」
自分の名前を出されて、黒田はわずかに困惑した様子だったが、ただ自分を例に出しただけだろうと思い、言葉を続けた。
「今はオレはいんだよ。別にオレはそういう意味でやってんじゃねえし。お前がすることに意味があるっつーか、お前がしようと思ったことが大事ってことだよ」
「へ~」
「他人事か、なんだよその相槌」
「いやあ、なんでオレなんだろうなあって思って」
先輩と言うなら、真波も黒田も共に悠人の先輩だ。もちろん学年は違うし、悠人としても一つしか変わらない自分の方がもしかしたら話しかけやすいかもしれない、ということくらいは分かる。だけど黒田が、オレがすることに意味がある、とまで言う理由は真波にははっきりと分からなかった。
(オレが先輩らしくない態度だから、とかかなあ。まあよく言われるけど)
おおよそそんなところだろうかと真波が辺りをつけたが、黒田の口から出た言葉は、やや違っていた。そしてそれは、真波をわずかに驚かせる。
「そりゃお前は、悠人にとって負けられねえ強いクライマーの先輩だからだろ」
そんなことを、黒田は当たり前のような顔をして言う。
「……クライマー、ですか?」
もちろん、事実真波はクライマーなのだけれど、それが黒田の口から出ることは想像していなかった。
「そ。お前は気づいてねえかもしんねえけど、アイツはお前のこと、相当強いクライマーだって意識してる。闘志みなぎらせて、おまえみたいな強い奴を倒してえ、ってな。後輩らしくなくて生意気で可愛くはねえが、悪くはねえだろ。箱根学園(うち)のチネンとしちゃ」
黒田はにやりと笑うと、空いたペットボトルをゴミ箱に捨てる。
「……強い、オレが、クライマーとして」
「そりゃそうだろ。山神を継ぐ13番、新たな山神。昨年イ―――、……ともかく、うちのエースクライマーなんだ。ま、意識しねえわけがねえわな。むしろよく人を見て分析してやがる、と言ってもいい」
黒田が言いかけてやめた言葉は大方理解はした。しかし、それを口にはしなかった。
「だからこそ、お前が自分から後輩に声かけて、飲み物一つでも奢ってやろうって気遣ったことは、悠人の奴にとっちゃ嬉しいんじゃねえのってことだよ。お前、普段から後輩になんて興味ありませんって感じに見えるからな」
「そんなことないですよ」
それだけは違うと真波は主張したかった。確かに、「先輩らしい」ことは何もしていないかもしれないけれど―――少なくとも、後輩ができるのは真波には嬉しかった。そしてそのうちの一人がクライマーであることも。新開の身内であるというのは最初こそ驚きはしたけれど、数週間もいればもう意識するようなことでもなくなっていた。彼が自分と同じ山が好きなクライマーであることの方が、真波にとっては関心があって。
「オレに言うなって。オレは知ってるっつの」黒田はそう言って、真波の横にどかりと腰かけた。風つめてえな、と呟く黒田の横顔を、真波は見つめる。
「オレや塔一郎、拓斗はお前の先輩だし、なんだかんだお前とも付き合いなげーしな。けどチネンは違うだろ。まだお前と会ってたった二か月なんだ。お前愛想はいいくせにいつもふらふらしてて掴みどころねえから、自分になんて興味ねえし覚えられてない―――って思われてんじゃねえか」
(……そうなんだ)
そう言う風に見られていたことを初めて知った。興味がない。そんなつもりは全くなかったけれど、後輩の反応を思い返すとじわじわと心当たりのようなものがないでもなかった。
「それは……ちょっとショックですねえ。オレ、後輩可愛いなって思ってるんだけど」
「んだよ、ショックとか、可愛いとこあんじゃねえか」
おら、とにやついた黒田に肩を小突かれる。真波も、黒田の隣に腰を下ろした。
「オレ、もっと後輩に優しくしようかなあ」
「しろしろ。ついでに先輩にも優しくしとくといいんじゃねえか?遅刻をしねえとか、遅刻をしねえとか、遅刻をしねえとか」
「うーん、考えときます」
呑気か、と言って黒田は立ち上がる。休憩終わりの合図だった。真波もそれに習う。
「あと一週。いや二週は行くだろ」
「はい。三週でもいいですよ」
「さすがに今日は二週でやめとけ。オレもいろいろあんだよ」
わずかに苦い顔で黒田はそう口にし、ロードバイクにまたがる。
「残念だなあ、せっかく山に来たのに」
そう言いながら、真波もヘルメットをかぶり直した。
「それ以上行きてえなら他の奴に頼むんだな。オレは今日は二週までって決めてんだよ。それ終わったら、別コース行くんだよ」
そう言い放ち、飛び出して行く黒田の後を真波は追う。
(黒田さんと来たいんだけど、なあ。……他の人、誘ってまで、行かなくてもいいや)
その言葉は、力強くペダルを踏み込む力に変わった。
※
部活が終わった後の部室。
「悠人」
「なんすか」
「ほら」
いきなり黒田に何かを押し付けられる。
ちゃり、と鳴った音に悠人が手を開くと、そこには100円玉と10円玉2枚。
「どうしたんすか急に。オレを飼いならしたいならちょっと安すぎますよ?」
「ちげーよオレは牧場主か。このタイミングでボケんのかよ。お前、真波に飲みモン買ってやったんだろ。その分だよ」
朝のことを思い出す。確かにそれはそうだった。悠人は真波にお金は確かに貸した。だけど、そのお金を返すのが黒田だというのはおかしくないだろうか。真波からも取り立てて徴収するつもりはなかったから、どちらでもよくはあるのだが。あげたと言ったものは、「あげた」のだ。
「いやもらえないすよ、黒田さんには」
「オレがいいんだからいんだよ。あいつはあれだ、また今度同じことが起きねえとも限らねえし、またお前巻き込まれるかもしれねえからな。詫びみたいなもんだ」
「はあ……」
「もちろん、ホントはあいつにぜってー忘れんなって厳しく言うのが一番いいが、あいつの場合言ったところで絶対の保証できねえからな。走りは知っての通り、凄まじいが、日常的にはどうしてもムラがある。叱って蹴り飛ばせば直るってもんでもねえからな。その分はアシストのオレがフォローする。ま、そういうことだ」
悠人は少しの間「そうすか」とうまく返せずぽかんとしていたが、やがて感慨深そうに
「真波さんて、……不思議な人すよね」とぽつりと呟く。
悠人の言葉に、黒田は「あ?」と首だけを悠人の方に向け、すぐに頷いた。
「まあ、そりゃな。不思議チャンって言われてただけある。ま、最初に不思議チャンって言ったのは、オレじゃなくて荒北さんつう先輩だけどな」
「知ってます、去年兄貴と一緒に走ってましたよね」
「そ。黒髪の目つき悪い人な」
黒田は財布を鞄にしまい込む。悠人もありがたく小銭をしまった。
「あの人、何を考えているんだろうなって思います。わっかんないんすよね」
「たりめーだろ。あの天然の考えが分かる奴なんて誰もいねーよ。オレらもな。チネンに分かってたまるかっつの」
悠人は、思わずぱちくりと目を見開いた。
「意外すね。黒田さんがそんなこと言うなんて。や、それとも真波さんが言わせてるんですかね?」
「んだそれ。真波なんかに発言コントロールされるほど弱かねえよ。それともそんなに頼りねえってことか」
「いえ、まさか。黒田さん結構親しみやすいなってことすよ」
「……真波や葦木場も大概だけど、おまえも大概だな。唐突?間とかねえの?」
「良く言われます。距離が近いって。いやー改めて言われると、照れちゃいますよね」
「それ褒められてんのか?オレが突っ込んでいいやつか、それ?」
褒められてるってことだと思ってます、とやんわり受け流しながら、悠人は思う。
(……これが、エースクライマーの実力ってやつなのか?)
勝負を挑んでも本気で登ってはくれなかったことを思い出しながら。
「ちなみにこれ、真波に言うなよ。あいつに言ってねえから」
真波に頼まれたわけでもないのに払うなんて、黒田も相当忙しい先輩だな。悠人はそう思った。
※
「黒田さん」
「どうした、真波」
「ユートに、お金払ったってほんとですか?」
真波の言葉に、黒田は苦い顔をする。ちゃんと言っておいたのに。
「あんにゃろ、話したのかよ」
「ううん、違う。ユートは何も言ってない。オレが聞いちゃった。廊下で」
そういやあの時その場にユート以外の人間もいた。さすがに全員にまで口止めはしなかったし、その必要性も感じていなかった。
「黒田さんいい先輩だよな、尊敬する、って言ってたよ」
「そーかよ……」
黒田は複雑だった。後輩にそう前向きな評価されるのは嬉しくないわけではない。それが正しい評価だと思えるかはともかく、悪い気はしない。それでも真波には隠しておきたかった。ばれたくなかったのだ。
(……なんで、って、……なんとなく、だよ、んなの)
「明日、黒田さんにお金返すねオレ」
「いらねえって。オレが勝手に悠人に渡したンだよ。オレの奢りってことにしとけ」
「でも」
まただ、と思う。真波が、どこか黒田に気を遣っている。
(東堂さんや荒北さんには、素直に奢られてただろうが)
何も思わないわけではない。そこに、壁を感じると言っても誤りではない。この可愛くない天然の後輩は、しかしそのくせ、黒田に対しても容赦がないくせに、時折しおらしくなる。去年、自分より一つ上の先輩に対してもっと親し気な、悪く言えば馴れ馴れしい口をきいていたのを見ているのだから、猶更だ。
黒田が個人的に好かれていないだけというのなら、仕方ない。かつて黒田も真波を嫌っていた。それを差し置いてこの後輩が自分という先輩を慕わなければおかしいなどと主張する気にはなれない。だけど、それならせめて、嫌いでも構わないから、自然体ではいてほしい。自らの前で、妙に真波が自由を奪われるようなことにだけはなってほしくない。黒田はそう思う。
それがせめて、罪滅ぼしのようなものだと思う。恨んでしまったことだけではない。……この後輩のことを、いつの間にか意識して、男同士にも関わらず妙な感情を抱いてしまった、自分に対しての。
「忘れたの、オレです」
「……言ったろ、さっき。お前が。後輩に優しくしてえって。それ、オレもだからな」
真波が、目を見開いた。はあと黒田は大きくため息を吐く。
「お前が悠人に奢りてえのと同じでな、オレも悠人やお前に奢りてえしかっこつけてえんだよ。先輩だからな」
おら、と黒田が、手に持ったスチール缶を真波の頬に押し付けた。
「く、うぁぇ、つめたっ」
「みかんソーダ。いるならやるよ」
いるなら、と言うが、それは既に真波の手の中にある。真波はまじまじとそれを見つめ、こくんと頷いた。
「いります」
「そ。じゃ、明日な。遅刻すんじゃねえぞ」
「黒田さん」
「あ?なんだよ」
真波が、名前を呼んだ。
すっかり陽の落ちた部室のカーテンが、わずかに揺れる。真波は口を開いた。
「今日、何日か知ってます?」
「……今更かよ、もう夜だぞ。29日だろ」
「ですよねえ」
へら、と笑う真波に、黒田は首を傾げる。真波の態度の意味は理解はできないが、機嫌を悪くしているわけではなさそうだ。この感じだと、悠人の例えで少しは分かってくれたようだ。
「お前ももう帰れ。実家だろ」
「はい。そうします。おやすみなさい」
「おう」
手をひらひらと振って、部室の前で別れる。真波がLOOKに乗って学園を離れていく背中を見送り、小さく息を吐いた。そして気づく。
「……やべえ、自分で飲もうとしてたのに勢いで真波にやっちまったじゃねえか……」
部誌のお供にするため、また黒田が飲み物を買いに走ったのは別の話。
※
「おい真波」
次の朝。黒田にいきなり呼び止められた。
どうしたんだろうと真波は首を傾げる。
「ほら」
ビニール袋をずいと突き出されて、今度こそ混乱する。なんだろう、これは、と。
「お前、何で言わなかったんだよ。昨日誕生日だって」
「あれ?……言ってませんでしたっけ?」
去年声を掛けられたり色々ものをもらったから言っていたつもりでいたのだけれど、そこでふと思い出す。
もしかして、話したのはインターハイのゼッケンが揃った時だったかもしれない。ここにいない先輩四人と、泉田と自分だけの空間。その時黒田は、そう言えば何をしていたのだろうか。思い出せない。
「聞いてねえよ。少なくともオレはな。塔一郎に、真波も誕生日だからかな?いつもより調子が良かったねとか言われて知ったんだよ、昨日寝る前に」
泉田が知っているということは、おそらくそうなのだろう。
(ああそっか、オレ、この人と一緒にインターハイ、走っていないんだっけ)
考えてみれば当然の話だ。インターハイに参加したのは6人だけで、その中に黒田はいなかった。自分が予選で勝ったからだ。
さすがにこれは、黒田から天然だとどつかれても文句は言えない。そのくらい―――何故だか真波は、それを「当たり前」のように思っていた。
(オレ、黒田さんと、一緒にインターハイを何回も走ったっぽい気持ちだった。誕生日も、黒田さんがそこにいるような気がしてたんだ。話したつもりで。だから、昨日も、知ってるんだと思って。そう言えば、何も貰ってもなかったのに)
「オレ、昨日のジュース、誕生日プレゼントなのかと思ってました」
本当に真波はそう思っていた。黒田が、誕生日だからくれたのだろう。それを恥ずかしいのか理由は分からないけど、言わなかっただけなのかと。
「んなわけねーだろ、味気なさすぎだろ。いや、コンビニ菓子な時点でそんな変わんねーけど……まあちっとは高えからいいだろ」
「えー、値段で決めちゃうんですか?」
「ちげーよ普段は。時間なかったんだから仕方ねえだろ、ったく」
(……オレ、なんでそう思っちゃったんだろう)
期待した。黒田に。それに今、真波は気づく。
黒田に全て話している気でいた。伝わっている気でいた。プレゼントも、もらったつもりでいた。本当は違ったのに。
黒田は真波と別れるまで、そのことを知らなかったし、去年はそもそもその場にすらいなかった。黒田は―――真波をまだ知らない。そして、真波も。
(あれ―――何だろう、この気持ち)
「洒落たとこ行く時間はなかったからコンビニ菓子だが、腹の足し程度にはなンだろ」
「…………」
黒田の言う通り、ビニール袋の中には棒状のスナック菓子やイチゴ味のチョコレートなどがいくつか入っている。
「いらねえなら誰かにやるなり好きにしてくれ」
「いらないわけないじゃないですか。嬉しいです。全部食べます。オレ、プレゼント貰うの、すごく、嬉しいです」
そう、するりと声が出た。黒田は「そりゃわりィな」と小さく呟き。「つっても、練習の後くらいにしとけよ」とだけ言って、どこか気まずそうにポケットに手を入れた。
「ったく、そんな嬉しいつうなら、来年はもっとちゃんとしたの用意すっから、ちゃんと言っとけよ」
「……来年?黒田さん、来年いないんじゃ……」
「いんだよそういうこまけえことは」
細かいも何も事実では、と真波は思う。黒田は鼻の下を軽く擦った。まさかとは思うけれど。
「留年するの?」
こう言った時の黒田の何とも言えない顔ときたら、真波の夢に出そうだった。
「しねーよ!するか!んなに遅刻もサボりもしてねえし成績だって悪かねえよ!インハイの時でも、練習でも、暇な時間ありゃ見に来ることくらいあんだろ。東堂さんや新開さんだって、たまに顔見せにくんだろ」
さすがにそうだろう。黒田は確かに成績もいいし、本人の印象以上に授業態度もちゃんとしている。
「その時だけですか?他は来ないの?」
「はあ?他の時に来いつうのかよ。知らねえよ今言われても。大学生はヒマとは聞くけど、言ったこともねえのにどうなるかなんざ分かんねえのに適当言えるかよ」
(あ)
まただ。真波はまた、思っていた。黒田なら、卒業してもまたすぐに来るような。ずっと今までもここにいて、真波の話を聞いていて、これからもずっと聞いてくれるような。
そんなわけはない。そんなはずもない。今までのことは黒田は知らないし、これからも真波の知らないことを黒田は沢山持つことが。
(嫌だなあ、それ、オレも、―――――そこ、いたいのに)
ああそうか、と噛みしめるように思う。
真波は黒田という男のことが、どうやら好きらしい、と。
「……んな顔すんなよ」
ごつんと額を小突かれる。自分がどんな顔をしていたのかはよくわからない。
「冗談だよ、暇だし来んだろそのうち。一応今んとこ、志望大学も関東だしな。受かりゃだけどま、そりゃなんとかすりゃいんだよ、オレがな」
(暇なときは、嫌だな)
暇なときをただ待つなんて、嫌だと思った。黒田がただ、来年の誕生日に「もしかして」来てくれる可能性を何の約束もなくただ信じて待つなんて、真波にはできないと思った。できそうになかった。
自覚してしまうと、心の底から言葉と感情が溢れだす。
(あ、そうか、オレは、来年の誕生日も、ずっと)
「……お前聞いてんのか?」
「あ、はは、はい」
自分の思考を振り払うように、へらりと笑う。黒田はため息をつき、ぼそりと呟いた。
「オレだってな、……お前に、」
その、わずかな短い呟きで、ああ、と察した。うっすらと、理解できてしまった。きっとこの人も、オレのことが好きなんだ、と。
それはただの直感のようなもので、しかし気づいた途端どくどくと脈打ち出した心臓が、その予感を激しく告げている。
(本当に?)
「……とにかく、来年は用意しといてやる。今年はしょぼかったからな。だからな、お前も来年までには財布忘れるとかそういうの直して、い」
いい子にしておけよ、そう言いかけた唇を塞いだ。間違いかもしれない、気のせいかもしれない、その気持ちは、より強い気持ちに上書きされる。
(オレ、黒田さんに知ってほしい)
(今までも。これからも。いつまで、とかは分かんないけど)
(暇じゃなくて、空いた時じゃなくて、いつでも、オレのとこいてよ)
「黒田さん」
「……は、……な、」
「じゃあ、来年、恋人として、もっとすごいのください。オレ、待ってます」
―――ちゃんといい子で待ってますから。オレ。
一気に口にして、我に返った。じわじわと頬が熱くなり、へらへらと真波の顔は浮ついた笑顔を形作るしかできない。
(キスしちゃった……)
どうしようかなと思うが、どうしようもない。目の前の黒田の顔がみるみる赤くなるのを見ていると、不思議に冷静になれた。とりあえず、嫌がられたり、拒まれた様子はないことに安心するのが精いっぱいだ。
「――――お、めえなあ!」
しばしの沈黙の後、自らを落ち着かせるようにはあ、と大きく息を吐いた黒田は、赤らんだ顔を隠すように怒鳴った。
「そういうのは、先に言えよ!許可くらい取れっつの!どんだけ自由なんだよ、さんがく!コラ!」
弾かれたように笑いながら素早く逃げ回る真波を追いかけ、黒田は走り出す。
二人が再開するまで、あと10分。
~~~~
「……ての、お前覚えてんのか?」
「えーと、あー、なんかありましたねえ、そういうの」
「やっぱ覚えてねえじゃねえか、結局オレだけかよ……!」
「今思い出しました。雪成さん、じゃあ今年はもっとすごいのくれるんですか?」
「都合いい頭してんな山岳、おら」
「わあ全然痛くない。手抜いてます?」
「たりめーだ。痛くしてどうすんだよ。可愛がってんだからな」
「あはは雪成さん優しいな~。で、何くれるんですか?」
「何だと思うんだよ」
「それオレが決めちゃっていいの?」
「そりゃ、そうだろ。お前の誕生日だからな」
「そっか。じゃあね、オレ、」