ごまかしたカンジョウ「なんだい、これは」
目の前に置かれた汁物と、麺を乗せたザル。
それらを交互に眺めながら、男は疑問に声を上げた。
「蕎麦だ」
みりゃァわかんだろ、とぶっきらぼうに答えるそれは、確かに紛れもなく蕎麦だ。それはわかる。勿論わかっている。今の質問はそういう意味ではない。
これはなんなのか、ではなく、何故ここに蕎麦があるのか、だ。
質問の意図が伝わらなかったのか、それともあえて外して答えているのか。もう一度聞いたところで同じ答えしか返ってこないだろうと思い、男はそのまま口を噤む。
向かいに座る夕神の目の前にも同じように蕎麦が置かれている。
運ばれてくるそれらをじっと眺めれば、器も箸もしっかりとした作りで、どうやら店の物のようだ。出前だろうか、丁寧に薬味まで揃えてあり男はわかりやすく瞠目する。そんな上等なものがどうして、一囚人の面会室でお目に掛かれるというのだろうか。
「んな怪訝な顔をしねェでも、ただの差し入れさァ」
「差し入れ?キミが?」
「俺が差し入れたらおかしいってのかィ?おめェさんだって牛丼だのカツ丼だの差し入れてきたじゃねェか」
確かに彼の冤罪が晴れる前、囚人として過ごしていた一年。相棒刑事として彼の隣に立ち支え、食事が足りないと嘆く彼に幾度となく食事の差し入れをしたのは事実だが、それはあくまでジブンが必要だと思い番轟三としてとった行動であって、彼がそれに習う必要はない筈だ。
…否、そもそも彼が私に何かをする理由は一つもないだろう。
その彼が六年もの間牢に縛られていた理由である私に。
だとしたらこれが最後の晩餐、という事だろうか。最後の食事が蕎麦というのも、彼らしいと言えば彼らしい。
だが恐らくそれもあり得ない。
今現在の私の命は、検察局によって守られるものであるからだ。
それは他ならない夕神の言葉によって。まぁ、一時的なものである事は確かだが、少なくとも今すぐに死刑が下る事はないだろう。
とっとと食えと急かす彼に、仕方なく箸を手に取った。
それを見て夕神も自分の蕎麦に箸を伸ばす。
その動作をじっと見つめる。
はらりと落ちた前髪をうっとおしげに耳に掛ける。その指と、瞳にかかる影。再び蕎麦を掴み直すその箸の持ち方、そばつゆにつけてから口に運び、一息ついてから啜り咀嚼する音。嚥下する喉の動き。
そしてその後に笑みを浮かべた口の端。
「……ジブンが差し入れた時は、そんな顔をしてなかったと思うが」
「あァ…?」
夕神が蕎麦好きというのは知っていた。だから蕎麦だって差し入れたことは何度もある。彼はその度に喜びはしたし、残したことだって一度もなかったが…しかし今のような笑みを浮かべたことはなかった筈だ。そう率直な疑問を口すると、夕神は少し不機嫌に視線を落として言う。
「当たり前じゃねェか、そこらの店の蕎麦とこれが同じ味なわきゃないだろう」
一緒にすんじゃねェ、と言ってもう一口啜る彼の口はまた笑みを浮かべている。
そんなものだろうか。別に男とて味覚が乏しいわけではなかったが、彼の様に全く違うと言い切れる程蕎麦を吟味したことがないのは確かだ。
蕎麦の味は蕎麦の味としか認識したことがない。
水の味が変わらないものと同じように。
納得出来たようなそうでないような。少しだけもやもやとした、言い知れぬ何かを感じながら、蕎麦を見下ろす。箸で持ち上げ、再び下ろす。
何かを忘れているような気がして、口に含むのを躊躇った。
「なんでィ、蕎麦は嫌いか?」
「そんなことは…無いと思うが」
食事自体を好きか嫌いかで考えたことはない。食べられるか、そうでないか、ならともかく。勿論成り代わる相手の好みは把握しているため、成りきるためにそうする事はあれど、基本的に口に出来ないものはない。番轟三だって蕎麦は食べれた筈だ。アレルギーがあるわけでもなく、夕神に差し入れた時だって口にしたのを覚えている。
「食欲が湧かねぇのかい」
そうなのだろうか。
止まった手の理由を考えてみても答えが出せず、他の話題を振ってみる事にした。
「そういえばキミ、弁護席に立ったんだって?」
「……なんで知ってやがる」
「熱狂的なキミのファンが教えてくれたのだよ」
知られていることに純粋に驚いているのだろう。少しだけ伸びた前髪の向こうの瞳が、ぱちりと瞬く。読み取れる感情は…恥ずかしい、だろうか?知られたくなかったというよりは、話すつもりもなかった、という想定外の驚きも含まれているように見える。
「『法曹界のユガミが冤罪釈放、奇跡の逆転劇!』大々的に取り上げられていたからね、牢の中でもキミの噂は良く聞くよ」
彼の冤罪事件は検察関係者で知らぬものは居ないだろう。一年たった今でも、特にこの牢の中ではその話題で持ちきりだ。奇跡の逆転劇であり、検察側の汚点であり、法の暗黒時代の終幕であり、…まだ見ぬ暗黒への一歩であり。
記事前面に押し出されたのは伝説の弁護士の逆転劇。夕神の冤罪が晴れた、という所で終わる新聞一面は犯人の名前だけが欠如している。
おそらく検事局長の指示だろう。懸命な情報操作だ。
…まぁしかしそんな指示などなくても、名前は載らない。
当然だ。自分も知らないものが、載るはずもない。
「口の軽ィ看守もいたもンだな…しょっぴいてやろうか」
「勘弁してくれよ、ジブンもそのファンの一人なのだから」
実際の所、彼は今でも監視されているようなものだ。
冤罪とはいえ故意に隠蔽した罪は軽くない。法曹界に不信を与えたという点で、検察関係者から目をつけられている。純粋に喜んでいる人間も中には居るが、それもほんの一部であろう。それは彼も自覚している所で、なにがファンだと鼻で笑いながら、見透かすように視線を向ける。
それから諦めたようにぽつりと零し始めた彼の言葉に耳を傾けた。
「どうしても無罪にしてもらわにゃァなんねェ奴がいてなァ…」
どうやら、知人が疑われた裁判でどうしても無罪判決が必要だったのだが、頼んだ弁護士が半人前でどうにも見てられなかったのだと。
「あぁ、なるほど。希月クンか」
「…チッ、そもそもあいつに弁護を頼んだわけじゃなかったんだがなァ」
苦々しく顔を歪ませた彼に、その時の状況がありありと目に浮かぶようだと、男は思った。今回もきっと冷や冷やの逆転劇だったのだろう。
見てみたかったものだ、彼が弁護席に立つ姿とは…一体どんなものだろうか。
「しかしそれでも無罪判決をとったんだろう?才能があるんじゃないかい、いっそ検事を辞めて弁護士に転職…」
「俺は検事をやめるつもりなんざねェ!」
だん!と大きく机を叩きつけ睨みつけるその眼光は、久々に見る検事の顔そのもので。わざとらしく両手を挙げて驚きながら、あぁ、そうだねと無言で同意する。
…その追い詰める時の表情に、無意識の内にぞくりと心臓が高鳴った。
キミは検事の姿の方がよっぽど向いている。
「それにしてもキミがそうまでして無罪にしたい相手が居るなんてね」
彼がそうまで肩入れする相手がそれ程居るとは思えず再び首を捻れば、夕神の視線が少しだけ寂し気に逸らされる。
「…食わせる前に無くすわけにはいかなかったんだよ」
彼がか細く零した声を、逃さずに耳が拾う。
食わせる前に…その言葉を繰り返したとき、ある記憶が男の頭を過った。
「ユガミくん!差し入れを持ってきたよ!」
夕神の視界を白が覆う。喧しい声が小さな面会室を埋め尽くして反響するのを、げんなりとした表情で眺めながら、大きなため息をつく。
「声が、うるせぇ」
端的にそれを告げると、あぁ!すまないね!と大して変わらないボリュームで返され、耳を塞いだ。その瞬間に漂ってきた香りに、夕神は顔をあげてそれをみた。
「……蕎麦?」
「あぁ!好きだと言っていただろう?大盛にしてもらったからたんと食べてくれたまえ!」
どうやら好物を前にして機嫌を良くしたようだ。吊り上がった眉がほんの少し下がったのを確認して、番はほっと胸を撫で下ろした。
事件の打ち合わせの前に腹ごしらえと、番も向かいに座って箸を手に取る。足を組んで柄悪く食事を取る破落戸のようなイメージを持たれる夕神だが、実際は礼節わきまえた青年である。食事に際してもいただきます、を忘れたことはないし、箸の持ち方も、口に運ぶ所作も、とても綺麗で美しい。
それをこっそり眺め見るのが番の日課となりつつあった。
今日もそんな彼の様子を眺めていると、一口目で箸が止まったのを見てどうしたのかと番は首を傾げた。
「どうかしたのかい?」
「…いや、なんでもねェ」
そういいながらも蕎麦汁を手に持ったまま目を伏せた夕神に、番は何かあったのだろうかと自分の蕎麦汁を確認してみるが、特に変わった様子はない。
「気に入らなかったかい?」
「そうじゃねェ、ただちぃと思い出しちまっただけさァ」
牢に入れられる前にはよく通っていたという蕎麦屋の話を聞く。
中でもそれはそれは一等気に入りの蕎麦なのだと、夕神は得意気に語った。
「…へぇ、そんなにおいしい蕎麦ならジブンも食べてみたいものだ!」
「まだあるかはわからねェがなァ、もう六年も前の話だ」
時の流れは早く、そしてとても残酷である。
あの味が食えねェのが残念だと零す彼に、思い付きを口にする。
「それだけ美味しい蕎麦ならば簡単に潰れたりするものか!ユガミくんが社会復帰出来たら一緒に食べようじゃないか!」
約束だ!と夕神の手を取りぶんぶんと振り回しながら番は笑った。
それは冤罪の証拠も、再審の申請もない。
出所の可能性などなかった時の話だ。
ふと蘇った記憶に眼前で火花がぱちりと弾けた。
手にした箸、蕎麦の下のザル、蕎麦汁の器の底。
その至る所に刻まれた、内舘庵という名を指でそっとなぞる。
「…うち…たて…?」
この名には聞き覚えがある。
そう、これは彼が言っていた蕎麦屋の名前だ。
繋がる事象。瞬きの間に次々とパズルのピースが合わさっていく。
だが本当にそれだけの為に…?
一緒に食べる約束の為だけに、弁護士席に立ってまで無罪判決を取ったというのか。
「なに驚いた顔してやがンだ、おめェさんが言ったこったろう?それだけ美味ェ蕎麦だった、だから今もここにある」
その言葉に引き寄せられるようにして、蕎麦をすくい上げる。
そばつゆに沈ませ、口に含み一息に啜った瞬間、驚きに目を見開いた。
「…ッ」
……蕎麦とはこんな味だったろうか。
味覚も嗅覚も触覚も何もかも違う。まるでこの一瞬で舌根を引き抜かれ、味覚が変えられたかのように広がった味わいに、男は思わず言葉を詰まらせた。
「うめェか?」
頷いて呟く。
「これが…キミの気に入りの味か」
まじまじと視線を落としながら咀嚼する男に、夕神はおかしそうに笑っていいやァと首を横に振る。
「まだまだ半人前の味さァ」
おめェさんとおんなじでなァ、と続けた夕神に、なんのことかと男は首を傾げる。
対する夕神はどこか満足げな様子で、猛禽類のような瞳を柔らかくしながら男をじっと見据えて言う。
「でも、いずれは一人前になる」
再び蕎麦を啜り出した夕神を見つめながら、男はいつの間にか交わされた約束の延長に気づく。その口元が知らぬ間に弧を描いた。
半人前が一人前になったその時、再び夕神と蕎麦を食べる日が来るのだろうか。
続いて男も二口目を啜る。
口に広がる味は、やはり今までに食べた蕎麦のどれよりもおいしかった。