神の子と灰色の男、何故か交換日記をする「ひー、ふう、みい、よー、いつ、むう、なな」
わざわざ日本の死にかけた言葉で数を数える男がいる。神に愛された音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだ。彼はその音を奏でるためだけに在る繊細な指をピアノ以外のものに触れるために動かしていた。複数の紙が束ねられたその何かは本のようで本ではない。無地の紙の上に印刷された飾りと文字があるためただのノートでもない。これはすなわち日記帳。しかも交換日記というやつだ。
「よくもまぁここまで続いたよ。あいつも律儀なもんだ」
あいつとは、ここ最近カルデアに召喚された新しいサーヴァントのことである。名をアントニオ・サリエリという。名前だけはアマデウスのかつての友人と同じものだ。だが彼の在り方も姿も何もかもかつての彼とは違う。彼自身、自分はサリエリではないと述べたという。このことにアマデウスは如何ともしがたい気持ちを抱いていた。
果たして彼は何者なのだろう? 名称を否定し己を殺すと宣うあの灰色の男は誰だ? そして何より自分が彼に抱く、この感情は何なのだろう?
ぼんやりと暗いような、それでいて暖かいような、悲しいような嬉しいような、明確にするには理解が足りなすぎるこの感情は何か。
といった旨を彼がマスターに告げたところ、渡されたのがこの交換日記であった。『分かり合えないなら語り合えばいいよ!』とかなんとか良い事言っているようでその実何も考えてなさそうな事をマスターは言っていた。そうして今、マスター経由で二人は文章のやり取りをしているという訳だ。
「さて、今日は何を書くかな……」
律儀に続ける彼も彼だが、自堕落なわりにこれを終えられない自分も自分だ。自嘲して口元が歪む。返事を書く前に既に読み終えていたサリエリの頁に再び目を通す。
――5月、吹雪の中にあっては季節の概念などあって無きような物だ。貴様が誰かは知らぬが、あの春を終えた瞬間の緑の輝きを知っているだろうか。
日記の中でサリエリはアマデウスの名前を呼ばない。これは相手が自分だと彼に知られてはサリエリが日記の交換を拒否するだろうというマスターの配慮である。
相手を知らずして行う交換日記とやらに意義はあるのかと思わなくもないが、一理あるのも事実なのでアマデウスはマスターの意向にそのまま乗っかっていた。
ただ問題は一つ。彼に己と悟られないよう、自己を偽ればおのずと書けることが減る。下ネタは当然ダメ、音楽のこともダメ、そうなると自分には殆ど何も残らない。いや、何もというには言い過ぎだが、音楽こそが全てである自分にとって、音楽以外の楽しみなど、下ネタまで封じられてはあまり多く見いだせないのだ。
「おお神よ、憐れなこの僕に救いの手を! ……ああそうか」
ふと思いついてペンを手にした。書き始めればすらすらとペンが進む。先ほどまでの懊悩などまるでなかったかのように順調に頁を埋めたアマデウスは日記を閉じた。あとはマスターに渡すのみである。
「返事が来るまで、曲でも考えようか」
交換日記を置いたアマデウスはいつものようにピアノに向かった。
それからマスターに日記を渡して翌々日、すぐに日記は返ってきた。文字の書き出しはまずクエスチョンマーク。アマデウスの書いた日記に感じた戸惑いがそのまま文章に現れていた。
――金色の湾曲した謎の何かとは何なのだ。その謎の何かは人体にさえ生えるのか?
その戸惑いを目にした瞬間、アマデウスは吹き出し椅子から落ちそうになるほど大笑いした。落ちそうな、ではない。実際に落ちた。それがまた面白くて床を転げまわりげらげらと笑った。
アマデウスが書いたのは以前カルデアに起こった珍事件の粗筋である。宇宙から来たらしい謎のセイバーと幼い剣士との出会いから始まったあの事件。それを脚色もたっぷり加えて語ったのだ。アントニオ・サリエリには理解出来ようもない荒唐無稽な珍事に彼はきっと目を丸くしたことだろう。
そう、彼の知る己を出せないのであれば、彼の知らない今を語ればいいだけのことなのだ。幸いにもこのカルデアという場所は話のネタに事欠かない。遅れて後からやってきた彼には知りようもないことばかりなのだ。
「次は何を書いてやろう。やっぱりあれか、三段重ねキャッスル盛り。それともあのノブノブ鳴く小さな混沌達にしようか」
口角を上げて楽し気にペンを取る。アマデウスはそんな己を自覚していた。しかし何が悪いとも思わない。ほんの僅かに思うことは、どうせなら己だと名乗った上でこうして語らいたかった、ということのみだ。
無理なのは承知の上だ。しかし手を伸ばせば届く位置にあって何もできないというのはなんとももどかしい。
ここまで考えて自問する。本当に自分は彼とどうなりたいのだ?
……自分は彼に何を思っているのだろうか。
続きを書き終えてアマデウスはページを閉じた。自分の心の結論は先送りにして、今は深く考えたくなかった。
それからしばらく二人のやり取りは更に続いていった。アマデウスが大げさに語る数々の出来事にサリエリは素直に驚嘆して見せた。彼の実直な返答を見る度に、かつてアマデウスと交遊を深めた彼が戻って来たような心地であった。そう、アマデウスは気付かないフリをしていたがすでに答えは出ていたのだ。
アマデウスはサリエリに懐かしさと親しみを抱いていた。とりわけ特別な古い友人への愛情、望郷の念と自身の終焉に対する悔恨。その全てをサリエリはアマデウスに思い出させていたのだ。
だがそれが正しいことなのかアマデウスには判じ切れなかった。人として正しいかなどあまり考えたことのない彼である。だが彼なりの誠意というものがある。果たして、あの自分をサリエリではないと告げる男に対して抱くこの感情は、誤った感情ではないと言えるのだろうか?
「ああ、……あいつのピアノが聴けたらなぁ」
言葉で語るよりもそれが最も早い。アマデウスにとって音楽が全てだ。そしてサリエリにとってもそうだと信じている。彼の音さえ聞けば、音楽に全てを捧げた彼の心の音が聴けるというのに。
もどかしい。あまりにもどかしい。しかし手がないわけではない。しかしそれをすればこのやり取りすら終わるだろう。あまりにも呆気ない方法で僅かなつながりさえ消えるだろう。
だが、それでも、アマデウスはペンを手にした。
「始めはLa……」
交換日記の上に五線譜を引いた。引いた線の上から音符を落とし込んでいく。音は軽やかに、指は跳ねて美しい音に変わる。アマデウスは音の中でサリエリに問いかけた。お前は何者なのか。何を思い今自己を否定するのか。そして自分を前にして何を求めるのか。悶々とアマデウスの身の内に残っていた疑問を全て音符に叩きこんだ。後から沸いてくる感情のままペンを動かし、これが書き終わるまでそう時間はかからなかった。
出来上がった曲は、いつもながら素晴らしいものだ。さすが自分と自分を褒めたたえる。そしてこれだけ素晴らしい曲を書けば彼なら日記の相手が誰か気付くことだろう。己とやり取りした相手が誰か知るだろう、そして……。
「……やめよう」
アマデウスは日記を閉じた。閉じた日記を見下ろして、破り捨てようと手が動く。
結局破ることはできずに、そのまま机の引き出しにしまった。
もうなんだか何もする気になれない。ベッドの上に身を投げだし目を閉じる。何かやらなければならない事があったような気がしていたが構うことはない。寝てしまおう。寝て起きてマスターに朝の挨拶をしたら、さっさと交換日記を返してしまおう。それで終わりだ。
そろそろ潮時だ。あまりにも長々とくだらない時間を続けてしまっていた。あの男の真実が見えたからといってどうだというのか。己が何をしてやれるでもない。あの男のために死んでやるつもりもない。それはあの男が本物かどうかなど一切関係のないことだ。
明かりを落とせばすぐに部屋は暗くなる。窓のない部屋には月明りも星も見えない。そもそも外は猛吹雪だ。カルデアの堅牢な壁ごしでも耳の良いアマデウスの元には微かに吹雪の音が聞こえていた。
吹雪の音を音階に変えてみる。案外悪くない音楽だ。アマデウスは吹きすさぶ風と雪の音を子守歌に気付けば眠りの中へと落ちていた。
●
眠ったアマデウスが目覚めたのは朝、ではない。四半刻程度過ぎただけの、寝入った直後だ。アマデウスの鋭敏な耳が部屋の中の異常を感じとった。目を開いてもどうせ暗闇を見通せない。アマデウスは目を閉じたまま耳を澄ませて音の主の動きを探った。
音の主は一人。痩せ型の男だ。鉄の擦れ合う音がする。相手は武装している。霊体化したところで間に合わないほど近く、アマデウスの部屋の中に入り込んできている。
武装して人の部屋へ侵入しておいて、何もしないということもあるまい。最悪は座に還ることになるだろう。意味の不明な襲撃がこの召喚の終わりかと思うと何ともやるせない。せめて不審な者の存在をマスターに知らせるべきか。だが最弱争いをしているような自分の貧弱な霊基で何が出来るだろうか。
アマデウスがしたくもない最後の覚悟を決めていた間も、侵入者は少しづつアマデウスが横たわる傍へと接近していた。その足音はやや乱れている。さ迷うように、惑うようにじわじわと距離をつめては時折止まる。部屋の様子を探っているのかと思えばそうではない。ただ足を止めているだけなのだ。その足音はまるで迷子が不安にかられて後ろを振り返るようだ。感情的な足音がようやくアマデウスの寝台にまで到達した。
接近した後でも侵入者は何をするでもなく、ただアマデウスを見下ろしていた。うっすらと熱を感じる。もしかすると侵入者は光を灯しているのかもしれない。では相手にはこちらの挙動は丸見えだ。こっそりと闇に隠れて何かをすることも出来ない。侵入者がよりいっそう近づいてくる。手がアマデウスの髪に触れた。これから殺す相手を嬲る趣味があるのか、その手はアマデウスの長い髪を掬いあげて指から零した。鋭く尖った指先が、次はアマデウスの肩へと触れる。肩から首筋へ、首から顎へ、頬へ、爪先が擦れて頬に痛みが走った。
獣のような熱い吐息がかかる。顔が近づいている。自分がこれから殺す者を前にして、侵入者は高ぶりから声を零した。
「……アマデウス」
それは聞き覚えのある声だった。アマデウスは思わず閉じていた目を開いて侵入者の姿を捉えた。
「サリエリ……?」
その名を口にしてしまった直後に、アマデウスは自分が過ちを犯したことを知った。己の名を耳にした途端、サリエリの霊基が変容した。外装が燃え上がり角は伸びて、覆面はひび割れ獣の様相を呈していた。
獣か、いや、これは違う。この姿は、この姿こそが死神だ。アマデウスの死の幻想と共に語られてきた、死神が眼前に顕現したのだ。
死神が雄叫びを上げた。悲鳴のような叫び声が部屋の内外へと響く。抜かれた刃がでたらめに振り回されて周囲を破壊する。アマデウスは身を起こし死神の刃を防ごうと構えた。寝台も切り裂かれて中の繊維と綿がまき散らされる。彼の愛用していたピアノも譜面台も悉く破壊されていく。机もまた破壊されて、引き出しの中にあったものが宙を舞った。
破壊の衝撃で引きちぎられた日記の頁が舞い踊る。死神はその姿を見て動きを止めた。攻撃を止めたわけではないことはアマデウスには分かっていた。よりいっそう激しい爆発の前兆を感じて彼は破壊された寝台を盾にして部屋の隅へと逃げた。
死神はすぐには破壊を再開させなかった。落ちた日記の頁を抓み上げてしげしげと読んでいる。ああ、まずいと思った時には遅い。頁を読んでその意味を理解した後、死神とアマデウスの目が合った。
アマデウスは息が止まるような錯覚に陥った。死神は惑いをまるでなかったかのように一息でアマデウスへと距離をつめた。一か八かで放った魔術の光も全て正面から薙ぎ払われてしまう。すぐ背後の壁に叩きつけられ、死神の手に握られた刃が赤く煌いた。
最後の時を想起させられ、反射的に顔を背け目を閉じた。その直後に激しく刃を撃ち付ける音がして、アマデウスは恐る恐る閉じた目を開いた。自分の顔の真横に刃が突き刺さっていた。しかし、自分は無事だ。死神は手の平を天に向けながら立ち尽くしていた。茫然と自身の手を見つめているようだった。
「我は……私は……」
アマデウスは声を発することも出来ず、壁に背を預けたまま死神の動向を見守った。死神はひどく打ちひしがれていた。その理由がアマデウスにはさっぱり理解できない。救いを求めるように彼に視線が向けられた。だが、アマデウスには何も返すものがなかった。
死神が再び吠えた。がむしゃらに辺りを攻撃し、破壊しつくした。最後に放った無差別な攻撃の余波を受けて、アマデウスは今度こそ自分は死んだと感じた。痛みはあまりにあっけなく、アマデウスの身体をつらぬいていた。