軍師の生涯 ホメロスには親と呼べるようなものがいない。
この時世そう珍しいことでもないが、魔物に襲われ滅びた集落で一人生き残っていたところをデルカダールの兵に保護された。
運悪く近隣の孤児を収容する施設はどこも満員で行き先がなく、それならばと兵舎内の小間使いとして引き取られた。数えで4つの頃だった。それ以前の、肉親と呼べるものの記憶はなく、親類縁者をたどることもできそうになかったからだ。
仕事、といっても子供にできることなどたかが知れていて、せいぜいが馬に飼葉をやったり水の世話をしたり、といった程度だった。
手が空くと訓練の様子を見様見真似で木剣を振り、あるいは資料室で読めそうな本を探しては少しずつ読んでいた。文字の読み書きは会得した後であったことが幸いした。優れた兵は武にも文にも通じねば、と、当時兵を束ねていた騎士が言っていたのでホメロスもそうすべきだと思ったのだ。
なにしろ、大人など他に知らない。大人になるためにはそうせねばならないと思っていた。
そうこうしているうちに、意欲があるならと騎士見習いに推薦されそれは認められた。
武の力はどこにでもいる子供と大差なかっただろう。むしろ、劣っていたといってもいい。
生まれつきか、あるいは住処を滅ぼされた際に、目に入った魔物の毒が原因か、右側からの攻撃にめっぽう弱かった。
その代わりに、ホメロスの知識は子供だてらに大人も舌を巻くようなものだった。
ホメロスは己の弱点を分かっていた。足りない武力を補うには、知恵を身に着けるしかないと早くに悟っていた。
戦略、戦術の口頭試問など見習いの試験ではせいぜいが、味方の安全と任務の遂行のどちらを優先するかを問う、資質調査程度の意味しかない。それが、担当の学者が面白がって机から身を乗り出し、元々試験内容にはなかった戦場状況を提示して小一時間質問を続けたほどだ。数えで5つの頃だった。
そういった風に育ったものだから、ホメロスは肉親の情というものを知らなかった。
そういうものがあるのだ、という理解に留まって、実感としてはなにひとつ持っていない。一部では彼の事を「知恵の化け物」などと呼ぶ声もあった。齢に見合わぬ理知は、それを持たないものには奇異に映る。
情を解せぬ子供など、可愛げもなにもないと虚仮にされたことは一度や二度ではなかったが、ホメロスはそのような事にかかずらっている余裕はなかった。
ただでさえ華奢な子供の体躯に見習いといえど装備は重く、まずはそれに耐えられるようになることが先決だったからだ。
そんな日々を送っていた、数えで6の時だった。
ホメロスは城に名指しで呼び出された。大国バンデルフォンが滅んだ翌日の事だ。
兵士たちは住民の救出や、未だはびこる魔物の討伐に出かけていて、宿舎には王都の守りを担う最低限の人員しか残されていなかった。
そんな状況で、騎士見習いに何の用途があるというのか。
訝しみながらも、王命であると言われては参じるよりほかに選択肢はない。
深い夜の中、ホメロスは城に向かった。大国が滅んだとあって町はどこかざわついている。よくない傾向だ。見回りの兵士も最低限で、ひとたび何か起これば大きな痛手を受けるだろう。そうしたところで何ができるわけでもないが、自然と足は速くなる。
王城には果たして、大勢の兵士がいた。
その中には数人、デルカダールの兵装ではない鎧を身に着けている者たちがいた。誰も彼もが至る所に傷を負い、壁にもたれ掛かって項垂れている。バンデルフォンの兵だ。痛みに苦しむ呻きと、魔物への怨嗟を零しながら手当てを受けているようだった。
王城に立ち入ったところで、立ち尽くしてしまったホメロスを、顔見知りの門番が玉座へ向かうように指示する。頷いて、ホメロスは急ぎ足で広間を過ぎ、階段を上った。そして玉座の間に至る扉の前に立つ。訝し気な視線を向けてくる騎士たちに一礼をして、大きく深呼吸をした。
ホメロス自身、その視線は最もだと思っている。なぜこんな時に自分が呼ばれたのかなど、まるで見当がついていない。
武の力では大人にまるで及ばない。可能性が万に一つあるとすれば知略の分野だろうが、まさかこんな若輩の知恵が必要であるとも思えなかった。人材が困窮しているならばともかく、軍備にも魔物の対応についても智に優れた学者や軍師がいる。まだ知恵を身に着け始めたばかりの子供には、何もできない。することがない。
それがホメロスの出した結論であったし、結果としてそれは間違っていなかった。
その日王から命ぜられたのは、これからは王城に住み、同い年の少年の面倒を見るということだったのだから。
その少年の名はグレイグといった。
デルカダールでは見かけない菫色の髪と、頼りなげに揺れる緑の瞳。身長だけはホメロスよりもわずかに高いようだった。それ以外は花の都出身らしい、弱々しい印象の子供だった。
滅んだ、バンデルフォンの生き残り。
ホメロスは、この子供の世話係として呼ばれたのだ。騎士見習いとしてですらなく。
そう思うと、城に来た時とは違う意味で足取りが早くなった。
何を期待していたのだろうと、己を恥じる気持ちもあった。所詮は子供だ。子供にしかできないことがあるということか。
とっとと送り届けて、否違う。とっとと与えられた部屋に行って眠ってしまいたかった。
宛がわれた部屋は王城内の一室で、二人で共有するようにとのことだ。相部屋には慣れているが、こんな風に辛気臭い面をした子供と二人きりだなどと、地獄のようだと思った。
後ろから遅れてついてくる足音に、その遅さにまたいら立ちが募ってホメロスは足を止めると後ろを振り返る。
グレイグがひっ、と息を呑んで立ち止まった。きっと射殺すような目をしていたに違いない。
ただでさえ年かさの、ホメロスに対してまだ好意的な騎士見習いからでさえお前の目つきは正直言って悪い部類だからなるべく無表情にはなるなと忠告を受けている身だ。
すこぶる機嫌が悪い今は、目も当てられない状態なのだろう。それでも逃げないだけまだ善しとして、つかつかと歩み寄るとその腕を掴んだ。
幼くもその皮膚と肉の下にある骨の太さが明らかに自分とは違って、ぎり、と奥歯を噛み締める。羨ましい、と思った。
「遅い」
「えっ」
「きみの歩くのを待っていたら朝になる」
返事も返答もろくに聞かずに、ホメロスは歩き出した。その瞬間こそ転びそうになったグレイグだったが、それでも歩幅の差こそあれ、懸命についてきているのはホメロスの腕が後ろに引かれることがなかったので確かだった。
階段を降り、広間に出ると、バンデルフォンの兵士たちの姿はすでになかった。立ち止まろうとするグレイグの腕を無言で引く。止まりかけた足はまた動き出す。
そして、ようやくあてがわれた部屋にやってきた。ドアを開けると、向かって左右にそれぞれベッドがある。間に衝立でも置いておけば、相部屋としてもどうにかなるだろう。騎士団の宿舎に比べて広いことだけが幸いだった。
「入れよ」
「……うん」
促すと、元気のない返事が返ってきた。グレイグはとぼとぼと部屋に入ったものの、その中央に立ってまだ扉のところに立っているホメロスを不安げに見つめる。
「なんだよ」
「きみも、この部屋で暮らすのか?」
さっきの話を聞いてなかったのか、と言いかけて、ホメロスはその言葉をぐっと飲み込んだ。玉座の間での様子を思い返すに、王のホメロスへの指示がまともに耳に入っていたかどうかも怪しい。
青褪めた表情のままじっと床に視線を落として、玉座を降りた王が隣に立っても気づかなかった。
肩を叩かれてようやく、びくりと身を震わせて怯えたような表情で王を見上げ、そして隣で跪いているホメロスにも気が付いたようだった。王から立つように促され、向かい合った時のグレイグの表情は泣きそうに歪んでいた。
自己紹介はなく、名前と城にやってきた経緯を簡単に王から聞かされただけで、ホメロスが一方的に名乗る形になった。
この少年だとて、こんな目つきの悪い見ず知らずの人間と共同生活なんてごめんなのだろう。そう考えてホメロスは鼻で笑って扉を閉めると、部屋の左側に位置するベッドへ足を向ける。
この位置からなら扉がちゃんと見える。もし何かがあった時、咄嗟に反応できなければ困るのだ。
「不満なら自分で王に」
「違う。不満なんかじゃない」
少し驚いて、ホメロスは少年を見た。情けない顔をしていたが、ホメロスの言葉を止めた声には強い意志が感じられた。
「……じゃあ、なに」
ふい、と顔を逸らして、眠る準備をするべく軽鎧を外していく。しばらくの間金具の触れ合う音だけが聞こえていたが、ベッドサイドに手甲を置いたところで、グレイグが声を上げた。
「ありがとうって言いたかったんだ」
「……は?」
そのままの体勢で、ホメロスは固まった。首だけをグレイグに向ける。
胡乱な目で見ていたからだろう。ウソじゃないぞ、と念を押すように言うので、またもホメロスは鼻で笑った。なにに礼を言われたのかがまるで分らない。
「どうでもいい。それよりぼくはもう寝るぞ。明日も訓練がある」
「訓練?」
「この恰好を見て分からないか? 騎士見習いなんだ」
「……おれと同い年だよな?」
そんなに細い体で、と小さくグレイグが呟いたのを、ホメロスは聞き逃さなかった。散々揶揄いのネタにされていることだったから、敏感になっていたということもある。ぎろ、と睨み付けると、まだ手に持っていた装備を乱暴にベッドの上に放ってグレイグの胸ぐらをつかんだ。
「なよっちくて悪かったな。どうせぼくはちびだ」
「え、ち、ちが」
はっきりとものを言わないグレイグに、さらにいら立ちが募る。
まだ子供だから仕方ないとこれまでは自分を宥めていたが、先ほど掴んだグレイグの腕は同じ年にも拘わらずしっかりとしていて、明らかな差を感じずにはいられなかった。それがホメロスの癇に障った。
「なにが違うんだよ!」
「すごいって思っただけだ! おれは」
ホメロスの剣幕に、負けじとばかりグレイグも声を荒げる。だが、不意に息が詰まったように言葉を止め、ぐ、と奥歯を噛みしめた。
「おれは、なんにもできなかった」
じわり、と、緑の瞳から水があふれていく。
人の泣くのを、ホメロスは初めて見た。呆気にとられて、胸ぐらをつかんだ手を思わず放していた。
だが、その手を万力のような力で掴まれる。痛みに顔をしかめたが、グレイグは気にした様子もない。全く気付いていない。緑の瞳はぼうとして、ホメロスを見てはいなかった。どこか遠い場所を見ていた。その縋るように掴まれた腕だけが、ホメロスとグレイグをつないでいた。
「剣の手習いはしてた。いざとなったら、これで母さんを守るんだって思ってた、けど」
へら、と笑いを浮かべる。グレイグの万力じみた手の力は緩んで、けれどホメロスはそれを跳ねのけることができなかった。
「だめだったんだ。守れなかった。それどころか、母さんはおれを、おれを守って、魔物に――」
たべられちゃったんだ、と、告げる声はがらんどうだった。
「たべられながら、逃げろって言った。だからおれは、にげたんだ。だから助かった。けど、ほんとは、母さんは」
「間違ってない」
聞いていられずに思わずホメロスは口をはさんでいた。腕を伸ばして、グレイグを抱きしめる。誰に教わったわけでもないけれど、これを止めるにはそうするしかないと思った。実際、驚いたのかグレイグの言葉は止まっている。
「きみは間違ってない。きみのお母さんの望みは、きみが生きのびることだった」
だからきみを守って魔物に食われた。
ホメロスの言葉に、グレイグが喉の奥で引き攣ったような嗚咽を上げる。
「裏を、いちいち考えるな。きみのようなやつは、そういうのがあわないんだから」
ホメロスは騎士見習いの口頭試問を思い出していた。グレイグが陥った状況と、驚くほどに場面設定が似ていたのだ。だがホメロスは悩まなかった。手傷を負った味方は残して撤退し、次に備えると答えたのだ。後から陰口をいくつか聞いた。これだから親なしはとか、知識ばかりの冷血だとか。
腹は立たなかった。貧相な体の事はともかくとして、それはどうしようもなく事実だったからだ。だから、ホメロスは傷つかなかった。言いたいように言っていればいいと思った。
そして、そういうものだけが起こったことの、言葉の裏を考えていればいい。
残していくことを悔いて悩むような、そういう心のやさしいものは、雁字搦めになるだけだ。
「だけど……」
「過ぎたことを考えたってどうにかできるわけじゃない。きみのお母さんは死んだ。きみは生き残った。なら、次にきみに何ができるかだけを考えろ」
「っ……」
押し殺した嗚咽が聞こえた。肩口に縋るように押し付けられた目の部分から、濡れた感触が伝わってくる。
しばらくの間そうしていたら、嗚咽はいつの間にか止まっていった。しかし代わりに、脱力したように体重を全力で預けてくるではないか。ホメロスは足に力を入れる。
「おい」
重いよ、と声をかけるが返事はない。流石に心配になって背中を叩くと、返事の代わりに安らかな寝息が聞こえてきて、ホメロスは全てを悟った。
こいつ、寝ている。
途端に無性に苛立ちが戻ってきて、本来自分が寝ようとしていた方のベッドにグレイグを押しやった。
情けない泣き顔のまま眠った少年がうまくベッドに乗ったのを見届けて、もう一つのベッドにホメロスは上がる。
随分とらしくないことをした気がして、誰にともなく恥ずかしくて、その日はなかなか寝付けなかった。
それからというもの、グレイグはひたすらホメロスの後ろをついて回っていた。訓練に行くといえば見学を名目に兵舎内の訓練場までついて行き、本を読みに行くといえば城の図書室へ一緒に行って本を読んだ。グレイグは途中で寝てしまうこともままあったが、最初の一度以外ホメロスはグレイグを起こしてきちんと部屋に連れ帰った。
放って帰ったら散々泣かれたあげく、夜中にベッドにまで潜り込んできて窮屈な思いをする羽目になったからだ。
グレイグは頼りない少年だった。卵から孵ったばかりのひな鳥のようにホメロスのあとをついて回り、一部のメイドや貴族の子女からは可愛らしいと評判になっている。
最初の夜以来、グレイグは自らの身に起きたことを語らなかった。代わりにホメロスの事をなにかと聞きたがったが、ホメロスにもこれといって話すようなことはなかったから、グレイグの好きな古い英雄について書かれた本の話をした。
同じ英雄について書かれた本でも今読んでいる伝記よりはよっぽど読みやすいものがある、とかいつまんで説明した。たったそれだけだ。
ホメロスとしては単に、隣で退屈そうにされるのが嫌だっただけでそれ以上の意図はなかったが、それでもグレイグは随分と興味を引かれたようで、満面の笑みでじゃあ次はそれを読んでみるというのだ。
そんな風に、自分の提案が聞き入れられたことのなかったホメロスは、胸の奥がぼうっと熱くなったような気がした。心臓と呼ばれている場所に、暖かい火が灯ったようだった。
ホメロスと同じく騎士見習いになりたいとグレイグが言い出したのは、デルカダールにやってきてからひと月経った頃のことだった。その希望はあっさりと受け入れられ、翌日には試験の場が設けられた。
まるでグレイグがそう言い出すのを待っていたかのようだ。ホメロスはそんな風に思ったが、ただの偶然だろうとその考えを頭の隅に追いやった。
それまでホメロスの後をついて兵舎に出入りしていたので他の兵士たちにも顔を知られていたのは確かだが、試験の場に休憩がてらに見物に来たらしい兵士が大勢いたのにはホメロスも、当のグレイグも驚いていた。
剣術の試験ではグレイグの相手はホメロスがすることになった。
「手加減はしないぞ」
「う、うん」
ホメロスは木剣を構える。遅れてグレイグも、同じように構えを取った。
試験場は兵舎の中庭だ。予備の訓練場として使われることもあって、足場にはタイルが敷き詰められている。見物とはいえ大勢の兵士に囲まれているためか、落ち着かない様子で視線を彷徨わせているグレイグにホメロスは「今はぼくだけを見ていればいい」と言った。木剣とはいえ当たれば当然怪我をする。気を散らせている場合ではないのだから。
そこで、突然一部の兵士が口笛を吹いた。その周りでどっと笑いが起きる。おそらく、頻繁にホメロスを馬鹿にしてくる一団だろう。その度に慇懃無礼な対応で相手の非をあげつらっていたものだが、今はそれもできないから、おおかた冷やかしで来ているに違いない。
案の定、上官がその集団を叱り飛ばしている声が聞こえた。十も年の離れた子供に対して大人げないやつらだ、とホメロスは内心で舌を出す。相対するグレイグはといえば、緊張が最高潮に至ったのか顔を真っ赤にしている。
「おい、大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶ」
どう聞いても大丈夫ではない様子だった。急にぜんまい仕掛けにでもなったように頷きすらもぎこちない。
「もう一回言うけど、手加減なしだからな?」
「やあすまないね、遅れてしまった」
「教官」
審判役になっていたのはホメロスの上官、というよりも、新兵を指導する立場の現役からは引退間近の兵士だ。
温厚そうな老爺ながらに的確な指導が持ち味だが、少々時間に緩いのが珠に疵だ。
「さて、そろそろ始めるかい」
「よろしくお願いします」
「ひゃい!」
元気のよい代わりに締まらないグレイグの返事に、今度こそ中庭は爆笑の渦に呑まれる。
「それじゃあ、はじめ!」
教官は一切笑うことなくただ頷くと、試験の始まりを告げた。
先手を打ったのはホメロスだ。上段から木剣を打ち込む。グレイグは慌てたように木剣を盾代わりにしてその一撃を防いでそのまま後退する。いざ始まってしまえば、周りの雑音はもう気にならない。
距離を詰めて今度は下から切り上げる。これもグレイグは躱す。というよりも、うまくタイミングを合わせてホメロスの攻撃をいなしている。
試験は明らかな決着がつくか、どちらかが降参するまで続く。
そもそもこれが誰のための試験かといえばグレイグのためである。だというのに、まるで仕掛ける気のない様子のグレイグにホメロスは腹を立てた。
そっちがその気なら、と、さらにもう一撃繰り出そうと一歩踏み出す。あ、とグレイグが虚を突かれたような顔をして、木剣を放り出した。
直後、平らなはずの床に着いたはずの足元が不自然に沈む。タイルが欠けて穴が開いていたのだ。そう気が付いたときには遅く、ホメロスは大きく体勢を崩していた。咄嗟に目を閉じて頭を庇う。なんて情けないと思いながら痛みを待ったが、肩をを何かに支えられたような感触だけがあって、ホメロスはゆっくりと目を開けた。
グレイグが心配そうにホメロスを見ている。転びかけたホメロスを支えたのは、木剣を放り出したグレイグの手だった。ほとんど肉刺もないような、年相応の子供の手だ。
「ホメロス、大丈夫か!?」
眉を下げて、ホメロスの身を案じるグレイグに、馬鹿かこいつは。と内心でホメロスは罵った。
剣術の試験で剣を投げ捨てるなんて言語道断だ。試験放棄とみなされても仕方がない。
教官は何も言わず、ただ結果を告げるためにその手を上げようとしている。それを認識したとたん、ホメロスは声を上げていた。
「……まいった」
「え?」
「おや」
教官の手が止まって、意外そうな目が向けられる。グレイグも驚いたようにホメロスを見ている。
ホメロスはもう一度言った。
「まいった。ぼくの負けです」
「ホメロス……?」
意図を測りかねているといったような表情で、じっと見つめてくるグレイグの手を外させる。
足を捻ったものの、挫いてはいない。ホメロスは教官の立っているところまで歩いていって訴えた。
「教官もご覧の通り、かれはぼくの攻撃を捌ききっていました。それに今ぼくが勝手に転んで、そこに剣を突きつけていれば間違いなくかれの勝ちでした。戦場なら当然そうするべきです。なのにかれはそれをせず、剣を投げ捨ててまでぼくを助けた。……正直甘いと思いますが、けれどその分、民のために働く兵士になるための素質がこのグレイグにはある。ぼくはそう思います」
教官はしばらく、言葉の真意を確かめるようにホメロスを見ていた。
他人をそんな風に評価するのを初めて聞いたのだろう。ホメロス自身も自分がそんなことを言うのを初めて聞いた。他人の粗ならいくらでも見抜けた自分が、そうすることしかできなかった自分が、他人を評価する言葉を口にしている。
やがて、教官はにっこりと満足げに笑んだ。
「よろしい。この試験、グレイグの勝利をもって合格とする!」
見物していた兵士たちからグレイグを祝う声が上がる。あとは戦略や戦術の口頭試問を残すのみだが、本来合否への影響はあってないようなものだから心配はいらないだろう。
グレイグが駆け寄ってきて、くい、とホメロスの服を引っ張った。振り返ると、状況に合わず不安げな表情をしてグレイグは問いかけてくる。
「ほ、本当にいいのかな」
「なにが不満なんだよ。教官も認めてくださったんだぞ」
嬉しいくせに、と、ホメロスは指摘する。表情こそ不安げではあるが声が上ずっていて、不安などよりも嬉しさが勝っているのは明白だった。
「それに、決めたんだろ?」
「……うん」
「で、決めたことに必要だって思ったから兵士になりたいわけだ。じゃあ迷うなよ、いちいち」
グレイグの魘される声にホメロスが夜中起こされたのは一度や二度のことではない。そのたびにホメロスはグレイグの抱き枕になりにベッドを越えていったし、時には夢遊病者のように出歩くグレイグを探しに行ったこともあった。帰り際、グレイグは決まって眠ったまま泣いた。つよくなりたい、と、何度も何度も。
直接語られたわけではないが、だからホメロスはおおよそ理解していた。グレイグの決めたことと、これからしたいこと。その二つはイコールで結びついている。
だがグレイグはそんなことには一切気づいていないのか、大きく頷いた後、もじもじとしながらホメロスに問いかけてきた。
「その、聞いてくれる? おれが決めたこと」
「興味ない」
もう知っているから、とは言わなかった。
「えっ」
「ならワシが聞こうかな」
ホメロスの答えにショックを受けたように固まるグレイグに、審判役をしていた教官がぽん、と肩に手を置いて笑う。突然のことに驚いて腰が引けているグレイグを宥めるように頭をなでて、何やら耳打ちを始めた。
怪しい。
ただ、怯えたように背を丸めていたグレイグが、話を聞いているらしいうちにちらちらとホメロスを見ては、教官に向かって頷いているのを見て、何を話しているのかと気にはなってくる。
やがて一方的な話が終わったらしく、教官はぽんぽんと励ますようにグレイグの肩を叩いて去っていった。結局グレイグは教官に向かっては一言も発していない。
「……何がしたかったんだあの方は」
その背中を見送ってホメロスは呟いた。
「ホメロス」
名前を呼ばれて、ホメロスはグレイグを見た。
グレイグは何かを決心したように、ホメロスを見据えていた。頼りなげに揺れていた緑の瞳は、しっかりとホメロスを捉えている。
「これはおれが言いたいから、言うんだ。聞かなかったことにしてもいいから聞いて」
「……わかった」
雰囲気が変わったグレイグに、思わずホメロスは頷いていた。グレイグは嬉しそうに笑った。屈託のない笑顔だった。
「ホメロスに言われて、考えてたんだ。おれになにができるのかって」
グレイグはそう言って、とつとつと話し始めた。最初は、なにもできる事なんてないと思っていたこと、一方で、やりたいことはちゃんとあったということを。
「守りたいんだ。だから、強くならなきゃって、そう思って」
守るためには力が要る。きっとそれを、故郷の滅びた一件で思い知ったのだろう。一息置いてグレイグはホメロスに向かって拳を突き出した。
「だからおれは騎士になる。騎士になって、みんなを守る! そう決めた!」
「……ふぅん。で、この手はなに」
「えっ!?」
向けられた拳が少し下がる。先ほど雰囲気が変わったと思ったのが嘘のように、グレイグはまた頼りなげに眉をハの字に下げている。
「拳を突き合わせて目標の達成を誓う騎士の儀式だって、さっき……」
「聞いたこともないよ……けど、まあいいか」
呆れてホメロスは溜息を吐いた。そして拳を作って、こつりとグレイグの少し下がった拳に当てる。
「ぼくも、そういうことにしておく」
ホメロスが初めて笑ったその日の事を、そうとは知らず知っているのはたった二人きりだった。
騎士見習いの朝は早い。
陽の登る少し前から起きて、馬の世話や訓練で使う武具の整備を行う。
馬も武具も、自分のものではない。年長の兵士見習いや騎士見習いのものから順に行い、ようやく最後に自分の武具に手を付ける。ホメロスとグレイグの二人は騎士見習いといえどまだ幼い子供であったから、兵士見習いと同じように兵士の武具整備も手伝った。年齢が何よりもものを言う世界だ。
とはいえ二人はまだ子供であったので、子供らしく悪戯にも手を出した。
始まりはグレイグが、やたらとホメロスを揶揄ったりちょっかいをかけてくる兵士の武具に馬糞をこっそり仕掛けたことにあった。
これには流石に好々爺で通していた教官もグレイグを叱るよりほかにない。事の次第には納得してくれたが、それはそれ、これはこれだと硬い拳骨を一発頭に貰っていた。
基本的にホメロスは物静かな子供であった。だからせいぜい何か言われても鋭い舌戦で一次的に相手を黙らせるばかりで、本質的な事態の解決には至ったことがない。
ところがグレイグの馬糞攻撃はどうだ。出会い頭に散々揶揄ってきた兵士が、ホメロスの隣にグレイグがいることが分かると向こうからそそくさと避けていく。
ホメロスは感動した。ああいう手段はほかにもあるのかとグレイグに問いかけた。
イタズラなら任せろ、とグレイグが胸を張って言うので、ホメロスはイタズラに関してはグレイグに師事することになった。それから二人は騎士になるための訓練をこなしながら、悪戯にも精を出した。
一度はメイドを驚かせるはずが王妃を驚かせてしまい、謝罪に行った先でむしろ茶と菓子をごちそうになってしまったり、ホメロスの伸びてきた髪を結うリボンをもらったりしたこともあったが、そういったことは全くの例外的な例外だった。それからは度々、話し相手として王妃の部屋に二人揃って呼ばれることもあったが、最近は床に伏せっていて、あまり機会がない。
大抵は悪戯がばれ、二人揃って罰を言いつけられたこともあったが、それすらも楽しいとホメロスが思えたのは、ひとえにグレイグと一緒だったからだろう。
グレイグは未だに恐ろしいあの日の事を夢に見るらしい。口には一切出さないが、時々泣きはらした目でホメロスを起こし、いっしょに寝てもいいかと許可を求めてくるようになった。
それがいつからか嫌ではなくなって、実地訓練ということでどちらかが城を離れて一人眠る夜はむしろ少し落ち着かないぐらいだ。グレイグには、ひとりでゆっくり寝られてせいせいした、などと言っていたがそれは半分くらいが本当で、半分ぐらいが嘘だった。その度にグレイグが捨てられた子犬のような目をするので、ホメロスはついつい笑ってしまってその度にちょっとした喧嘩になった。
「きみは人間味が増したねえ」
「?」
ある時、不意に教官がぽつりとそう零したので、ホメロスは不思議に感じて隣でベンチに腰かけている教官を見上げた。今は訓練の真っ最中で、グレイグは年の近い見習いと打ち合っているところだ。
なんの脈絡もない教官の言葉にホメロスが首を傾げていると、その視線に気が付いたのか、教官はにっこりと笑って言う。
「もちろん、いい事だよ」
「はあ」
「兵士は人間でなくちゃならない。騎士になるつもりならば猶更だ」
「それは、ぼくが人間ではなかったと」
「そこまでではないよ。ただ彼が来るまできみは、随分と大人らしかった」
「子供は子供らしくなくてはいけませんか」
「まあ、なるべくならね。歳によって経験しておくべきことがあるものだよ」
「……例の馬糞事件とか」
「ああ! あれは傑作だったねえ。まさか彼がああ出るとは」
「……教官はひどくグレイグを叱っておられたと記憶していますが」
「うん。そりゃああれは悪いことだからね。事情がどうあれ。友を想っての事なら、なおさらやり方は考えなければね」
ははは、と教官は笑う。そして、ホメロスの頭をそっと撫でた。
「ホメロス。君は聡い子だ。だからこそ人の心をよく知らなければ。本だけでは学べないことを、彼と共に学ぶんだよ」
教官の目は訓練場に向けられている。ホメロスもそちらを見た。ちょうどグレイグが、相手の木剣を力任せに弾き飛ばしたところだった。
「……ばかぢから」
呟いて、ホメロスはいとおしそうに小さく笑った。
姫がお生まれになった、との話題が城下を席巻したのは、ホメロスが12の頃だった。
町も兵舎もすっかり祝福の気配に満ちて、誰もがどこか浮足立っている。
そんな中ホメロスは、そういった気配に馴染めずに居心地の悪い思いを抱えていた。
だが、それから逃げることもできない。同じ部屋で暮らすグレイグも、例に漏れず浮足立ったような調子だったからだ。
「王妃さま、それで最近体調がよろしくなかったんだな」
「そうだな」
「きっとお可愛らしいんだろうなあ。なっホメロス、そう思うよな!?」
「……そう、かな」
ホメロスは答えながら持っていた本のページを捲る。
グレイグは、多分知らない。
子供がどうやってできるのか。赤ん坊がどうやって創られるのか。
それは生き物ならではの営みだ。なにもおかしいところのない、次代に命をつなぐために行われること。
そうして今ここにホメロスも、グレイグもいる。
けれどホメロスは、そのことを嫌悪していた。考えなければそれでいい。深く考えなければ、何もなかったように流せることだった。けれど、そうさせてはもらえない現状があった。
「なんだよ、ホメロスはそう思わないのか?」
「別に。お生まれになった姫様が可愛かろうがそうでなかろうが、僕らのやることは変わらないだろ」
「そりゃそうだけど」
話に乗ってこないホメロスに、明らかにつまらないという顔をするグレイグ。
この話題を終わらせられるならそれでよかった。だが、部屋の扉がノックされグレイグが返事をすると、扉が開かれ見慣れた顔が現れる。最悪だ。ホメロスは内心でそう思い、けれど顔には出さなかった。
「先輩」
「よう、グレイグ。ホメロスも」
「何かありましたか」
「ちょっと用事を頼まれてくれねえかな、グレイグ。お前向きの用事なんだ」
「俺ですか」
呼ばれて、グレイグは年上の兵士見習いのところへ駆けていく。いやだ、とホメロスは思った。
いかないでくれ、と、助けを求められたらよかった。だが、その男の目が獲物を見るようにホメロスの体を舐め回す。肉を食う獣に、睨まれている。そう感じると、恐怖で体が動かなかった。
「ホメロス、それじゃ俺ちょっと行ってくる」
「ぁ、僕も……!」
この男と二人きりになるのだけはいやだ。そう思ってホメロスは本を放り出してベッドから降りる。だが、次の男の言葉に完全に退路を断たれてしまった。
「悪いなホメロス、お前にもちょっと大事な用があるんだよ」
「……っ」
それは、まっとうな要件ではないでしょう。そう言ってしまえればよかったが、こんなことを、グレイグに知られたくはなかった。子供がどうやって生まれるかもまだ知らない、文字通り子供のグレイグに、こんな汚い欲を持った人間がいることを知らせたくなかった。
ホメロスがそう思っていることをこの男はよく知っていた。
おそらくこの男は、昔からそうだった。ホメロスがまだ10にも満たない頃から、思えば、ここで今からしようとしていることをずっとしたがっていたのだろう。おそらく、その先も。
「……はやく戻って来いよ、グレイグ」
「なんだよ、道草なんてしないって」
「なら、いいよ」
諦めて、ホメロスはグレイグを送り出した。ぱたん、と扉が閉じられる。グレイグと入れ違いに、男が二人の部屋へ土足で踏み込む。
ここが城の中なのが不幸中の幸いだった。男も下手なことはできない。
男と女なら子供が出来るような真似も、声が漏れると厄介だからといってされたことはない。それが、それだけが幸いだった。
ホメロスは自分を男だと思っていた。女だと思ったことはない。愛や恋に性別は関係ないと、以前読んだ本にも書いてあった。だが、この男がホメロスへ向けてくるのは愛や恋などというような、人間が抱く柔らかなものですらない。
ただの、獣の欲を少しでも満たすための歪な矛先だけがそこにある。
「お前も、賢いんだからいい加減学べよ」
「こんなこと、学びたくもない」
「そうか? お前目つきは悪いけどヘタな女より稼げると思うぜ? 紹介してやろうか」
「……さっさと、終わらせてください」
これ以上話を続けていたら耳から腐っていきそうだ、小さな呟きを押しつぶすように、熱い肉塊が唇に押し付けられる。下卑た笑みを浮かべて、男は言った。
「そりゃお前の頑張り次第だな」
用を済ますと、男はさっさと部屋から出ていった。口の中に残された子種を、ホメロスはどこにも吐き出せずに飲み下す。苦しくて堪えていた涙がぼろりと零れたが、これが口の中にあった子種の液ならば、悲惨なことになっていた。そう思えば、これぐらい許せる範囲の事だった。
窓を開け放って、空気の入れ替えをする。あんな男の臭いをこの部屋に少しでも残していたくはない。
そう考えたとたん、自分の体からもその臭いが立ち上っているような気がして吐き気に襲われる。だが、耐えた。そんなことをしては、屈辱に耐えて飲み込んだ意味がない。吐き出したものを掃除するのなんて、なお悪い。最初の頃は上手く飲み下せず零してしまって、自分の服で必死に拭ったものだ。こんな、くだらないことに慣れたくはなかったが、ホメロスは慣れざるを得なかった。
口の中の青臭さを消し去ろうと、小さな中庭にある井戸へと向かう。陽光の降り注ぐその場所は、訓練が休みの日にもグレイグと二人で剣を交わす場所だった。
水は全て洗い流してくれる。時間はかかるけれど。
何十回も口をゆすいで、指で掻き出して、その指も何度も洗って感覚すらも怪しくなってきたころだった。ばたん、と、城内から続く扉が勢いよく開け放たれる。
驚いてそちらを見ると、息を切らせたグレイグがそこに立っていた。ホメロスを見つけると、走ってきて何も言わずに抱きつく。まだ、臭いが残っている気がして身じろぐと、ホメロス、と縋るような声で名前を呼ばれてホメロスは動きを止めた。
「戻ってきたら部屋にいないから、どこに行ったのかと」
「ごめん。ちょっと汚れてさ。洗ってたとこなんだ」
「……びっくりした」
「……うん。ごめん」
抱き返すことはできなかった。まだ、手が汚れている気がしたのだ。これでは、背中を叩くこともできない。
どうしようかと思っていると、グレイグの方から離れてくれたのでホメロスは内心胸を撫で下ろす。グレイグはごしごしと腕で目を擦っていて、ホメロスは小さく吹き出した。
「……泣くなよ」
「し、仕方ないだろ」
不安になると涙が出てしまうのは癖のようなものらしい。分かりやすくていいな、とホメロスは思った。
「そんなじゃ、騎士になった時困るんじゃないか?」
「お、大人になるころには治ってるさ!」
「言ったな?」
「言った!」
「じゃあ、これからは夜中に僕を起こすのもなしだな」
「えっ」
それはこまる、とグレイグが心底困った様子で言うので、ホメロスはまた笑ってしまった。
正直なやつだ。そういうところが好ましくて、ホメロスはグレイグの事を嫌いになれない。
「なら仕方ないな。もうしばらく我慢してやろう」
「そうしてもらえると助かる」
お互いのどこか大人ぶった言い回しに、先ほどまでの鬱屈も忘れて二人して吹き出して腹を抱えて笑った。
「王からペンダントを賜ったって?」
以前と同じ手を使って、男はまた部屋に上がり込んでいた。
下卑た欲に塗れた顔を隠しもせず、どこから聞いたのか振られた話題に、ホメロスは目を伏せる。
「……どうでもいいでしょう」
「どうでもいい、か。まあそうだな」
ほら、咥えろ、と、無遠慮に押し付けられる欲塊に顔をしかめた。咬み千切ってやろうかと思ったこともあるが、実際そうした場合に起こりうる事態を考えると、よほど耐えられなくなった時以外にはない。
観念して、渋々、口を開ける。開ききるかきらないか、というところで押し込まれる青臭さに、非難の声が漏れる。
「どこの生まれとも分からない馬の骨が、よくぞ取り入ったもんだよ」
男はホメロスのそんな声にすらも興奮するらしい。勝手な憶測を腰と共に振り立てて、興奮に顔を紅潮させている。
「根っからの淫売なんだろうなあおまえは! そこらの売女が失敗して身籠りでもしたんだろうさ」
「……っ!」
「はい、そこまで」
見も知らぬ親のことで、そのように言われる謂れなどはなかった。ぎり、と睨み上げたところで、まるで訓練の打ち合いを止める時のような呑気な声が上がる。
突然口から熱が出ていって、ホメロスは咳込んだ。唾液と、陰茎から溢れた先走りが混ざってぽたりと落ちる。ああ、あとで拭いておかなきゃ。などと、現実に追いつかない頭で浮かんだのはそんなことだった。
「なっ……、き、教官!?」
男が驚いたように声を上げる。
咄嗟に敬礼の姿勢を取るが、下穿きをずらした状態では礼も何もあったものではない。
ホメロスは涙交じりの視界で、男の向こうに立っている老爺を見つけた。
「これはどういうことかな、答えたまえ」
「ち、違うんです、これは、こいつが! ホメロスが誘って」
「ふむ。そうなのかね、ホメロス」
ちがう、とホメロスは口を開きかけて、しかし何も言えず俯いた。何を言ったって信じてはもらえないのではと、ふと思ったからだ。この男は最低な部類の人間だがホメロスよりも年上で、だから見習いの中では、偉い。少なくともそういう事になっている。兵士や騎士になってしまえば、実力によって評価される。だが、見習いのうちは年齢がすべてだ。
答えないホメロスに、男は得意げになってさらに言い募った。
「何も答えないのがその証拠ですよ!」
「だとしてもね。君がそれを止めるべきだったのではないかな、年長者としては」
ぴしゃりと撥ねつけるように教官は言う。男をひと睨みして、ホメロスの前で膝をついた。
「ホメロス。これだけ聞いておこう。……彼の事を憎からず想っているかい」
「きらい、です」
息を呑む気配がして、ホメロスは男を見上げた。驚いたような顔をしている。
まさか、とでも言いたげな表情に、ホメロスは乾いた笑いを漏らして呟いた。何も意外なところなどない帰結だろうに。そんなことも分からないのだろうかと憐れみながら。
「こんなやつ、死んじまえばいい」
「うん。そうか。……そういうことだそうだよ」
振り返った教官に、男はひっ、と引き攣った声を上げた。
「処分は、追って伝えようか。心構えはしておきたまえ」
「は……」
「返事は?」
「はい!」
「よろしい。出ていきなさい」
醜いものは仕舞っておいき、と、せめてもの温情を聞くか聞かずかして、男は部屋を飛び出していった。
粗暴でいかんね、と言って、教官は男が開けたままにしていたドアを閉めて、ホメロスのところに戻ってきて、また膝をつく。視線の高さを合わせて、ホメロスに語り掛ける。
「ホメロス。つらかったろう」
年老いて痩せた体で、老爺はホメロスを優しく抱きかかえた。幼い子供にするように、頭の後ろを優しく慰撫されて、なぜだかホメロスは泣きたくなった。本当に泣きたかったときなど、もうとっくに過ぎ去ったというのに。
「グレイグには、言わないでください」
最初に出てきたのは、一番知られたくない相手のことだ。
「あいつ、まだなんにも知らないんです。赤ちゃんは鳥が運んでくる、なんて思ってて」
思い出して笑いながら、ホメロスの瞳からは涙が溢れ出ていた。
「だから僕が、こんなことしてたって知ったら、僕の事気持ちわるいって、きっと」
「彼はそんな子ではないと思うがねえ」
老爺はそう言って、ホメロスの背中を撫でた。けれどホメロスは首を振る。きっとグレイグは、分からないながらに、ホメロスが傷ついていることは分かって、手を差し伸べてはくれるだろう。そういう優しい子供だ。けれど、もしもそうではなかったら。万に一つ、嫌悪を露にされたなら。
あの誓いもきっと、なかったことになってしまう。
「そう思われるかもしれないって、それだけで、僕は耐えられない」
だから、汚れてしまったことは知られずにいたかった。そう訴えるホメロスに、老爺はそうかあ、と頷く。
「しかしね、ホメロス。グレイグには礼を言わねばならないよ」
「なぜ、ですか」
「『ホメロスが先輩にいじめられているかもしれません』とね、見覚えのある字でさきほど、ワシの部屋にメモ書きがこれこの通り」
「あいつ……」
「直接聞かなかったのは、きみを気遣ったのかもしれないねえ」
「ここの字とこの字、間違えてる」
「おや、本当だ」
脈絡のないホメロスの言葉に、今気が付いたという風に老爺は驚いてみせる。それがわざとだったとしても、救われた気がしてホメロスはすん、と鼻をすすった。
頭をひと撫でして、老爺はホメロスを放す。
「僕、言います。グレイグにありがとうって」
本当の事は言えないけど、と呟いて、ホメロスは足元を見た。絨毯に落ちた染みはもう、ほとんど乾いて見えなくなっている。
「うん、それがいい」
教官はそう笑って言うと、立ち上がって扉へと向かう。
「ホメロス」
「はい」
「きみは、グレイグに愛されているよ」
「は……」
「家族のように、当然に愛されている。得難い宝だ。それは、誇っていいのだよ」
「……はい」
ホメロスが頷くと、教官はにっ、と子供のような笑顔を見せて外へ出ていった。その代わりに、騒がしい足音が遠くから聞こえてきて、誰がやってきたのかがすぐにわかる。ホメロスは大きく息を吐いた。
「ホメロス!!」
扉が乱暴に開けられると同時、待っていた、恐れていた声で名を呼ばれる。
「……うるさいよ」
出てきた言葉はそんな憎まれ口だった。息を切らせて、心配げに見つめてくるグレイグは、ごめん、と荒い呼吸の合間に言う。
「それに、なんだよあの字。二か所も間違えてさ」
「うぐっ……仕方ないだろ、急いでたんだから!」
「ありがと」
早口で、一息で、呟くように言った。
聞こえただろうか、聞こえなかっただろうか。はたしてその答えは。
「ホメロスーっ!」
「うわぁ!?」
感極まったように飛びかかってきた、親友の行動が答えということでよさそうだ。
吐く息の白さに、いよいよ異国に来たのだなとホメロスは感じた。
隣では文官志望の変わり種の兵士が、寒さに悲鳴を上げている。
呆れてホメロスは溜息を吐いた。それすらも白く染まってやがて中空に散っていく。
「その、よく来ようと思いましたね」
「し、仕方ないでしょう! 文官に転向するためにはこれしか方法が……へっくしゅ!」
「まあ、風邪をひかないようにしてください。僕の分の外套も使われますか? 多少ましな程度でしょうけど」
「君、意外と強いんですねぇ……ありがたく使わせてもらいます」
寒さに震えながら、ホメロスの先輩にあたる兵士は礼を言って外套をさらに羽織った。
「さすがは英知の都クレイモラン。頭の芯から冴え渡りそうな寒……ふぇっくしょん!」
「上手いこと言った気分になるのはいいですが鼻水が凍っていますよ」
そう、ホメロスは今デルカダールから遠く離れた雪国、英知の都クレイモラン王国を訪れていた。グレイグは先月ソルティコへ修行に出され、じきに騎士叙任を受けることになるだろう。ソルティコでの修業は、騎士への登竜門と一部では噂されている。その分指導は厳しいのだろうが、グレイグならばやり遂げるだろうとホメロスは確信していた。
だからそのことに、多少の焦りが生まれたことは事実だ。二人で国を守ると誓い合ったのに、ホメロスはグレイグから出遅れてしまった。
始まりはホメロスが先んじていたのに、膂力ではもうホメロスはグレイグに敵わない。幼い頃からすでにその傾向はあったが、それだけではない。
成長期を迎えたグレイグの育ち具合は毎日共に寝起きしているホメロスでさえ目を瞠るものがあった。
寝ている間に伸びている。骨が痛いとひいひい言いながら、にょきにょきと伸びていった。ホムラの里にある竹という植物も雨季の後にはとてつもない勢いで成長するという。グレイグを見ながら、ホメロスはそんなことを思い出していた。
対してホメロスの成長は至って緩やかで、平均的な身長には届いたもののそれ以降微塵も伸びる様子がない。幼い頃から鍛えてはきたものの、どうしても腕力一辺倒では、ホメロスは他の兵士にやはり一歩及ばなかった。ならばそれ以外で長じたところを作るほかにない。それならばと双剣の扱いを学び、他の兵士に劣らないだけの技術を身に付けたが、肝心のグレイグと訓練で打ち合えば必ず敗北するのはホメロスだった。
試せることは全て試し、もう打つ手なしの状況だった。そこへ、恩師とも呼べる好々爺の教官はホメロスにクレイモランへの遊学の提案をしてくれたのだ。古い時代の書物が数多く収められているという古代図書館には戦術を磨くのに役立つものもあるだろうし、魔法の才があれば、それを伸ばすことで現状を打開できるかもしれない。ホメロスは即座にその話に飛びついた。
現職を辞する予定であるらしく、これぐらいしかしてやれなくてすまないなあ、と申し訳なさげに言われたが、ホメロスは充分なほど良くしてもらったと思っていた。なにしろ、ろくに親の顔も知らないホメロスを、騎士見習いとして受け入れてくれたのだから。
これまでの礼と共に、絶対に騎士になってみせます、と言ったら、それは当然だろう、と老爺は笑った。最高の騎士になるというグレイグと交わした誓いを、恩師はとうに知っていたからだ。
『ゆっくりでもいいのだよ、ホメロス。焦ることはない。きみにはちゃんと、騎士になれるだけの素地があるのだから』
クレイモランへ発つその日、港でかけられた教官の言葉を思い出す。ただの慰めだったのかもしれない。けれどその真意を疑うのは失礼というものだ。ならばせめて、それを信じて前に進まなければ。
「君もなかなかに辛辣ですよねぇ」
港の桟橋を歩きながら、凍った鼻水をそのままに、兵士は明るく笑いながら言った。
「申し訳ありません」
「あ、怒ってるわけではないんですよ。僕が思うに、君のように弁の達者なのが兵士の中にもいないといけないでしょう」
城門まであと少しというところで、兵士は足を止めた。後ろを歩くホメロスを振り返り、苦笑いを浮かべる。
「貴族のやつらは基本的に、我々末端の兵士の事なんて考えてませんからね。先代の時はなかなかひどかったそうですよ。戦略なんてどうでもいい、早く魔物を退治できるならどんな犠牲を払っても、ってね」
だから戦死者は格段に多かった。そう呟いた兵士は、僕の父もそれで死にました、となんでもないことのように言った。
「それに異を唱えたのが我らの王ってわけです。今はほとんど王お一人の一存で兵の運用は決まってますが、現場の側からも声が上がるようになれば、我らが王もやりやすいってもんでしょう」
「私でなくともやれますよ」
とホメロスは笑った。声を上げるだけならば、騎士の位にまで登りつめれば不可能ではない。兵士もそれに同意するように頷いた。
「それは確かに。けど君、誰も見向きもしない戦術書を小さな頃から読み漁ってましたよね。あのろくに整理もされてないぼろぼろの書庫に籠って」
「ええ、まあ……ご存じだったんですか」
「実は僕もあそこの常連でね。教練で一人だけへばっては罰として掃除を……君は必死だったから、気づいてなくても無理はないですが」
これは僕の予想ですけど、と兵士は前置きして言った。
「君が騎士になったなら部下はきっと長生きすると思いますよ……ぶぇっくしょん!」
ランプの灯りが不意に揺らめいた気がして、ホメロスは手元の古文書から顔を上げた。随分夢中になって読んでいたようだ。部屋に持ってきたときには十分な長さのあった芯が、もう終わりかけている。
栞を挟んで表紙を閉じる。ずっと同じ姿勢でいたせいか、体がすっかり固まってしまっていた。
伸びをして窓の外を見る。本を開く前に見たものと変わらない景色があって、ホメロスは溜息を吐いた。
まだ昼間のはずだが、ここ数日は猛吹雪が続いているために昼日中の時間帯でも常に薄暗い。こんな状況では外に出るわけにもいかず、古代図書館から持ち出した古文書数冊が、このところのホメロスの友人だった。
クレイモランにやってきて数カ月が経つ。
寒さは案外気にならない。暑いよりはまだ耐えられるというのがホメロスの実感だ。
以前訓練に同行させてもらいサマディーを訪れた時にはあまりの暑さに閉口したもので、まだそこまで背の伸びていなかった、つまり共寝しても現状よりもまだ暑苦しくない頃のグレイグが慣れない環境で心細くなって一緒に寝てくれと訴えてきても、その時ばかりは断固拒否した。なにしろ暑かった。ただでさえグレイグは体温が高く、眠っているときなど更に体温が上がるのだからとても耐えきれないと判断した上でのことだ。
それに比べてここならば、多少は寒い日もあるからまず断ることはないだろう。そこまで考えて、いや、とホメロスは一人頭を振った。
やつは既に成人したのだから、流石にそんなことはもうないはずだ。
ソルティコへ修行のため発つことが決まっていたその三日前、グレイグは成人の儀式をすることになった。デルカダールでのそれは、一人きりでドラキーを倒すというものだった。
ところがグレイグはその前日の朝から半泣きで、俺一人じゃ無理だホメロスも一緒に行ってくれ、などと情けない事を延々いうものだから、夕方になっていよいよ我慢の限界になったホメロスはそんな泣き言を続けるなら絶交だ、と子供でも言わないような脅しを衆人環視の中でかけてしまった。
言った瞬間後悔した。それが脅しになるだなんて思うのは、ある種自惚れの表れだ。
まずそんなことを成人間近の男二人が言っていること自体恥だが、しかし周囲にいた兵士や兵士見習い、騎士見習いたちは幸か不幸かそうは受け取らなかった。
やれ破局かだの、男になれグレイグだの、囃しているのだか単純に応援しているのだか分からない声援を受けて、半泣きの表情のままグレイグは、やけっぱちのような勢いでホメロスにこう言ったのだ。
『じゃあ、もう泣き言を言わければずっと俺と一緒にいてくれるな!?』
どうにもそれは理屈がおかしい。
と時間の経った今ならば横槍を入れることもできるが、あまりのグレイグの剣幕にホメロスは気圧されてしまい小さな声でああ、と頷くしかできなかった。
結局、グレイグはきちんと翌朝一人で出かけて昼には無傷でドラキーの羽を持ち帰ってきた。異例の速さだという話だった。
それでようやく自信をつけたのか、ソルティコへ行くまでたったの三日ではあったが、一度もグレイグがホメロスのベッドに潜り込んでくることはなかった。
しかし一方でグレイグは、ぎりぎりまでホメロスも一緒にソルティコの修行に行けないかと上官に打診していたようだった。何度一度に行ける人数には制限があると理由を告げられても納得しようとせず、とうとう上官が匙をホメロスに全投げした始末だ。結局月に一度手紙を送るという約束をしてようやく旅立っていった。
ホメロスがクレイモランへ行くことに決めたのはその後だが、デルカダールを経つ前に送った手紙でグレイグにはそのことを伝えてある。
だから問題なく手紙のやり取りは続いている。
ホメロスはランプの芯を交換して、マッチで火をつけた。現状、ホメロスの扱えるメラでは威力と範囲が大きすぎてうっかりすると火事になってしまう。熟達すれば威力の調整もできるようになるそうだが、まだその域には至っていない。マッチの殻を捨てる時、机の上に置いたままになっていた小包が目に留まった。グレイグが送ってきたものだ。
今月頭に届いたのだが、魔法の教練や本に熱中しすぎてホメロスは今し方までその存在を忘れていた。妙なにおいはしないから、食料品の類ではないのだろうが。いい機会だと思い開封する。手紙はいつもの事だが、場違いなやたらと洒落た箱が一緒に入っている。
女が喜びそうな繊細な装飾の施されたそれに、ちくりと胸が痛む。
もしかすると、想い人に送るものを間違えてこちらに送ってしまったのだろうか。そんな思いがふと胸に沸く。そういった話をグレイグから聞くことは一度もなかったが、なにもかもを詳らかにするような年ではもうない。
グレイグはもう成人して数カ月経っているし、ホメロスもあと数日で成人の儀式を行うことになっている。
本来はおそらく違うのだろうが、覚えていないものは仕方がない。デルカダールに拾い上げられたその日が、ホメロスの生まれた日だった。とにかく、グレイグもホメロスもそういうことがあったとしておかしくはない年齢だ。おかしくはないことなのに、そう考えながらなぜか気持ちが沈んでいくのをホメロスは感じていた。馬鹿馬鹿しい、と自分の感傷を一蹴して、ホメロスは小箱を机の端に置いた。
もしもそうならば、早く送り返してやらねばならない。意を決してホメロスは手紙を開く。
『ホメロスへ。
元気にしているか。クレイモランは極寒だと聞くが、俺と違ってお前はあんがい寒いのには強いから、大丈夫だとは思うのだが。先日、ジエーゴどののご子息ゴリアテと手合わせしたが、やはり俺はまだだめだな。まだまだ修行が足りないと実感させられた。
ところで、もうじきお前が成人の儀式をする頃だと思ってそちらの風習を調べてみた。同封したのは、俺が鍛冶で作ったものだ。箱はゴリアテに贈り物をするならこれだと薦められて決めたのだが、お前に送るには随分と愛らしいものになってしまったと送る段になって気が付いた。すまない。気に入ってもらえるといいのだが。』
いつも通りに簡潔な文章を読み終えて、ホメロスは溜息を吐いた。小箱の送り先は間違えてはいなかったらしい。
机の上へ半ば投げやりに置いた箱を、両手で持ち上げて開く。中には、小さな赤い石のついたピアスが一揃い収められていた。
クレイモランでの成人の儀は、伝統的なものと簡略化されたものの二つがある。一つは古くからクレイモランに暮らす民が主として行う、魔法によって町の中央にあるオブジェに光を灯すものと、もう一つはバイキング由来の、自力で耳飾りの穴を開けるものと。
ホメロスはもともとこの地の民ではないため後者で済ませる予定だったが、まさかグレイグからこんな品が贈られてくるなどとは考えるはずもない。
無駄な装飾の一切ないそれは、なるほど、女に送るにはいささか質素に過ぎる。そう認識すると途端にふっと気持ちが軽くなって、なんだそれは、と自問する。親友の、いもしない女に嫉妬したかと思えばそれが勘違いだと分かったとたん気分が好転するなどと。それではまるで。
ホメロスはそこまで考えて、思考を止めた。それ以上考えてはいけないと歯止めがかかった。あんな汚いものになりたくはないと、頭の中で幼い日の自分が叫んでいる。だから、考えてはならない。その気持ちの原因を突き詰めてはならない。取り返しのつかないことになる前に。
そして切り替えた思考に浮かんだのは、こちらに来てから自分で買ったピアスはどうしようかということだった。ホメロスの中では当たり前のように、グレイグから贈られたものを最初に身に着けると決まっていた。そこそこ値段の張るものだったから捨てるのは忍びないので、気分で付け替えればいいかと思い直す。
だが恐らくそんな日は、よほどのことがない限りこないだろう。
吹雪は未だ止む様子がないためいつ出せるかは分からないが、ホメロスはグレイグにあてて手紙を書くことにした。ピアスの礼はせねばならないが、修行中の身の上に特産のウィスキーを贈るわけにもいかない。
デルカダールへ戻ったら一緒に酒でも飲もう、と書くのみにとどめて、それから友人へ装飾品を贈ることについて、ありがたいが、そういうのは好いた相手にするものじゃないのか。ありがたく使わせてもらうが。とそう書いた結果、グレイグからの返事は2カ月ほど滞ることになった。
ホメロスが遊学を終えてデルカダールに戻ったのは、17になる頃だった。
きっかり1年をクレイモランで過ごし、魔法と知恵を磨いたホメロスは、双剣に加えて魔法を駆使して戦うようになった。癒しの術は適性がほとんどなく学ぶことはできなかったが、攻撃と妨害の術には適性があり、それらを重点的に鍛えていったのだ。一部では魔法を使うなんて卑怯だ、などという声も上がったが、魔物との戦いでもそんなことを言っていられるのかというホメロスの言葉に反論できる者はいなかった。それに、魔法を扱う者にはデメリットもある。詠唱中は無防備になるため、1対1では不利な状況に陥りやすい。詠唱を妨害されては魔法など打てるはずもないのだから。ただ、そう説明してやっても魔法を使うことを卑怯だという兵士は少なからずいた。それならばとおのれの呪文をマホトーンで封じ、双剣だけで訓練に出たこともある。
結果として、魔法を使うのが卑怯だという言い分は通らなくなった。そんなものがなくとも、現状でホメロスに敵うものがほとんどいなかったからだ。力で抑え込もうとすれば正面から応じるかのように見せ、一瞬後にはするりとすり抜けて背後を取られるし、双剣相手に手数では話にならない。柔よく剛を制す、という言葉を体現したかのようなホメロスの戦いぶりは、兵士見習いとなったものの、力で劣っていた者たちの憧れとなっている。最近では実戦でも見習いばかりの班を率い、大量発生したキラーパンサーの討伐を軽微な損害で成功させたばかりだ。しかもその損害というのが、帰り際初めての勝利に浮足立った見習いが川で足を滑らせてしこたま腰を打ちつけただけだというのだから笑い話である。
「すっかり評判ですよ、君」
ホメロスと同時期にクレイモランへと遊学していた元兵士が、どこか自分のことのように誇らしげに言った。すっかりできあがった赤ら顔に、ホメロスは苦笑する。無事に文官への転向を認められ、その祝いだということで呼び出された酒場で聞かされるのは城内での自分の評判だった。
「それは、どうも」
少し照れながら、ホメロスは酒杯を傾ける。
「グレイグの次は君じゃないかって専らの噂ですよ。僕もそう思いますけどね!」
「やはりあいつの騎士叙任は確定ですか」
「定員1名枠の臨時受け入れですからね。まず間違いないでしょう。……っと、これ僕が言ったってのは内緒にしててくださいね」
ほとんど公然の秘密ですけど、と声を潜めて言う文官に、ホメロスは頷く。城下の酒場は人が多くざわついていて、同じ席同士の話がどうにか聞こえる程度なのだが、どこで誰が話を聞いているか分からない。
「それにしても、君たちの存在には何かしら運命的なものを感じますよ、僕は」
「運命ですか」
「笑いたければ笑っていいですよ。今日も僕は些細な事では怒りませんからね!」
「ははは」
「あっ本当に笑うなんて……」
心底ショックを受けた様子で机の上を指で弄りまわす文官に、ホメロスは摘みの皿を差し出した。すると途端に機嫌が直ったようで、また話を始めだす。
「我が国の紋章、双頭の鷲は、建国者デルカン、ダール兄弟を表しているんですよ。それは君もご存知ですよね」
「それは、当然です」
ホメロスが頷くと、文官は嬉しそうにうんうん、と言って話を続ける。
「よろしい。そしてね、兄デルカンは智に優れ、弟のダールは武に優れていたといいます。なんだか君たちに似ていませんか」
「後年、デルカンは圧政を敷き、それを憂いたダールに討たれたと何かの本で読」
「あーっ、そこはいいんです。そこは省きましょう! 君たちはまだ若いんですからそんな後のことまで気にしなくていいんですよ!」
慌てたようにフォローを入れる文官に、ホメロスは小さく噴き出した。そして、小さく息を吐く。
「……グレイグはともかく、私などを建国の祖に例えては罰が当たります」
「デルカダールは、厳密にはその源流を辿れないのですよ」
「?」
「他国から逃れてきた兄弟が興した国。それがこの国です。出自の分からないものをどこぞの馬の骨だとか言って馬鹿にする方が、よっぽど不敬ってもんですよ」
君は次からそう言ってやればいいんです、と、文官は言って手の中の盃をぐいっと飲み干した。
「そんな機会があるかどうか」
「あるに決まってんでしょう。君は騎士になるんですから」
苦笑いしながら首を振るホメロスに、文官は力強くそう断言して、次の酒を飲むために給仕を呼んだ。
グレイグがデルカダールへ戻ってくる。ホメロスがそれを知ったのは、グレイグが送ってきた手紙でのことだった。驚いて書いてある内容をよく見れば、手紙を届け屋に渡すのが出立の3日前だという。到着までほとんど間がない。
実際、ホメロスのもとに手紙が届いたのは昼時を少し過ぎたつい今しがた、グレイグの到着予定は手紙によれば今日の夕方である。同じ船に乗って戻ってきたということも充分に考えられる。
届け屋が死にそうな顔でひいひい言っていたのはそのためだったのかもしれない。旅先での手紙の送り手よりも手紙が後に着くということは稀にあることだが、そこは届け屋のプライドが許さなかったのか。
手間賃を追加で払ってやるべきだった。届け屋もそれ一本で生業にしているものなどほとんどいないのだから、ある程度余裕をもって依頼するのが礼儀というものだろうに。
「ホメロス!」
自室から出たホメロスを呼び止める声がかかり、ホメロスはそちらを向くと同時にその場で跪く。声だけでそれが誰なのかはすぐに分かっていた。
体重の軽い足音がホメロスの前で止まり、ホメロスは顔を上げる。
「そういうの、私好きじゃないわ」
ホメロスを呼んだ少女――マルティナはむう、と不満げに唇を尖らせた。
生まれて間もなく母である王妃を亡くしたお転婆の向きが強いこの姫は、グレイグやホメロスを年の離れた兄のように慕ってくれている。
光栄なことではあるが、それゆえにか、二人や兵士たちに傅かれる事をあまり好いてはいない。その分け隔てのなさと屈託のなさで兵士内では愛されているが、しかしいつまでもそのままでは今後に差し支える。
「姫様。いかがなさいましたか」
「あ、そうだった! ねえホメロス知ってる? 今日グレイグが戻ってくるそうよ!」
不満を呈された姿勢はそのままホメロスが尋ねると、マルティナはいま不満げにしていたのも忘れたように、興奮した様子でホメロスを呼び止めたわけを話した。
「今日の夕方、戻ってくるんですって!」
「ええ、そのようですね」
驚いた様子を見せないホメロスに、マルティナは目を丸くする。
「おどろかないのね?」
「先ほど手紙が届いたものですから」
「今日帰ってくるのに?」
「ええ、おかしなやつです」
「ホント。グレイグったらホメロスのこと大好きなのね」
そう言って嬉しそうに笑うマルティナに、ホメロスは思わず真顔になっていた。
「どうしたのホメロス。ヘンなカオ」
「いえ、グレイグが哀れになりまして」
同世代の友人を大好きであると評されるとは。仮にそれが事実であるとしたって、ホメロスならばそんなことが他人に気づかれてでもいようものなら恥ずかしさのあまり憤死する。だが、よくよく考えてみればそう見られても仕方ない節は多々あったような気がしてくる。
しかしマルティナには理解しがたい感想だったらしく、自分の言葉の論拠を疑われていると思ったのか、さらに言葉を足す。
「でも、すぐ帰ってくるのにわざわざ手紙を出すなんて、よっぽどそのことを知らせたかったとしか思えないわ。私もさっきまで知らなかったのよ」
「そうなのですか」
こくり、とマルティナは頷いた。
「私が知ったのは、おとうさまにジエーゴさまから書簡で報告があったのを聞いたから。私もグレイグからの手紙を待ってたけど来なかったし、きっとホメロスしかもらっていないのね」
マルティナ姫は無邪気にグレイグやホメロスを慕ってみせるが、他方の貴族や騎士からすれば、次代の女王に近付く男など排除しておきたいところだろう。
個人的に親密であればあるほど、当たりはきつくなる。いくら家族同然の扱いが長いとはいえ、実際のところは血のつながりのない他人だ。不用意な接触は疑念を生みかねない。そう思って、出立前マルティナ姫様にも手紙を送った方がいいだろうかと悩むグレイグを止めたのはホメロスだった。まさか、そのことでマルティナ姫を悲しませる羽目になるとは思っていなかったのだ。
「私だって、手紙のやり取りをしてみたいのに」
「……もし私でも構わなければ、姫様にお手紙を差し上げましょうか」
寂しげに呟くマルティナに、ホメロスは一つ提案をする。
その提案に少し驚いたように瞳を瞬かせて、マルティナは小さな声で問いかけた。
「いいの? ほんとうに?」
「もちろん。さすがに毎回とはお約束できませんが」
「やったぁ!」
ぴょん、と跳びはねて子供らしく喜びを表現するマルティナに、ホメロスは微笑んでもう一つ約束を重ねた。
「遠征などで同じ地域に赴くことがあれば、グレイグにも手紙を書かせましょう。私の手紙と一緒にお届けします。……これは、その時までやつには内緒ですよ?」
「ええ、私たち二人の秘密ね。ありがとうホメロス!」
悪戯を計画する子供じみた表情を浮かべたホメロスに、マルティナもはしゃいで笑う。
と、その時だった。遠くから若いメイドがマルティナを探す声が聞こえて、マルティナはあっ、と小さく声を上げる。
「そろそろ行かなきゃ。……あのね、グレイグが帰ってきたら私、大事なお役目をするんですって。その練習をするの」
いきなりだなんてお父様もムチャを言うわよね、と、ぷうと頬を膨らませたかと思うと、ホメロスに向かってマルティナは満面の笑みを向けた。
「ホメロスも絶対見に来てね。私、がんばるから!」
「ええ、勿論」
頷いたホメロスに、マルティナは満足そうに頷きを返すと、くるりと踵を返して駆けていった。
その後姿が見えなくなってから、ようやくホメロスは立ち上がる。やはり今日、グレイグは騎士に叙任されることになるのだろう。首から下げたペンダントを、鎧の上からなぞった。この差が開くのは、グレイグがソルティコへの修行に出ると決まったその時から確定されたようなものだったが、やはり目の当たりにするともどかしいものがあった。本当に追いつけるのかと不安になる。並び立っていけるのか、本当は無理なのではとおのれを疑う心が顔を出す。ホメロスは弱気を振り払うように首を振る。たとえそれが無理だったとして、なんだというのだ。やるべきことを、おのれにできることを果たして国を守る。それが第一だ。たとえ、共に最強の騎士になるという誓いを果たせなかったとしても。
「だめだな、弱気になっては」
おのれを窘めるように声に出せば、不安はひとまず鳴りを潜める。代わりに思い浮かべるのは、久しぶりに再会する友のことだ。
およそ2年ぶりの再会になる。久しぶりに逢う友はどう成長しているだろう。手紙でのやり取りから見るに、心身ともに鍛えられていることは想像に難くないが。
「会えるのが楽しみだよ、グレイグ」
そして日の暮れかけた夕刻、城の扉が音を立てて開かれる。
外開きのそれは開ききってからようやく、ひとりの男を吐き出した。
招かれていた城下の者や、貴族の子女、兵士の中でもその男と同じ隊に属することの多かった重装兵が、歓声でもって彼を迎える。ホメロスもその群衆の中に紛れて、拍手を送る。
恵まれた体躯。誰もが見上げざるを得ない長身に釣り合いの取れた、鍛え上げられた肉体は、まさしく騎士と呼ばれるに相応しい威容を持っていた。
これが、あのグレイグか?
ホメロスは内心で驚いていた。その感情は言葉になる代わりに、感嘆の溜息として漏れた。
見違えたとはこういうことをいうのだろう。ソルティコへ発つ前の情けなさなどまるで拭い去って、偉丈夫然とした風格を備え、歩みを進める。視線は揺らぐことなく、前だけを向いている。
その先では王が待っている。マルティナ姫も、儀礼剣を携えて王のそばで今か今かとグレイグを待ちかまえている。
「ただいま戻りました、王よ」
「うむ、よくぞ戻った。随分と立派になったな」
王の御前に跪き、グレイグは頭を垂れて帰城の報告をする。その声は2年前に比べると随分低くなっており、聞き惚れたようにうっとりしている妙齢の婦人もいた。
「おとうさま、これを」
「うむ」
マルティナ姫が張り切った様子で儀礼剣を父王に差し出すと、王は剣を掲げ、首打ちの儀式を行った。
「これによりグレイグを、わがデルカダールの騎士と任ずる」
「はっ」
「多くの者を守護し、また無辜の民を襲う魔物を掃うための刃としてのみその力を揮うのだ。ゆめゆめ、それらを奪うために使ってはならぬぞ」
「はっ、承知いたしました」
力強いグレイグの応えに、王は首肯すると起立するよう促す。従ってグレイグは立ち上がった。再度促され、集まった観衆を振り向いたグレイグは驚いたように一瞬眉を上げた。目が合った、ような気がホメロスはしたが、これだけの大人数の中でおのれを見つけられたとは思えなかった。それでも、おめでとう、と声には出さず唇の形だけで告げる。
「皆、新たなる騎士に祝福を!」
王の言葉に、一斉に歓声と祝福の声が上がった。この後王やマルティナは私室へと戻り、新任の騎士を取り囲んでの賑やかな輪が広がるのが通例だ。
しかしホメロスは、その輪の中には入らなかった。なにしろグレイグが騎士に昇進しても部屋は変わらず同室のままであるというのだ。散々もみくちゃにされた後に戻ってきたグレイグを揶揄いながら、改めて祝おうと思っていた。
だが。
「ホメロス!」
耳慣れない友の声に呼び止められ、驚いてホメロスは振り返った。
自分を取り囲む人の輪を、ちょっと済まない、といって割り裂きながら、のしのしという擬音が似合いそうな勢いでグレイグがホメロス目掛けて歩いてきている。
薄情だと思われたのだろうか。そういうつもりではなかったのだが。ホメロスは小さく笑って、握手の手を差し伸べた。しかしグレイグはその手を握り返すことはなく。
「……!?」
その代わりとでもいうように、がっちりとホメロスを抱きしめた。
先ほどまでグレイグを囲むようにできていた輪を構成していた婦人の一人が、まあ、と嬉しそうな声を上げる。重装兵たちはやっぱりな、とでも言いたげに肩をすくめている。
「おいどうした、なんなんだ」
「すまん、懐かしかったものでついな」
「だからってお前……」
突然抱きしめられて、どうにかホメロスはその拘束から逃れようとするが叶わない
不思議そうにしている城下の者に、重装兵がやつらは古い友人同士で、などと解説をしているのがホメロスの耳に入る。ああ道理で、と暖かい視線が向けられる。友人なら仕方ないで済ませていいのか。それでいいのか城下の民よ。ゆるすぎないか。ホメロスは内心で問うが、答えなど返ってくるはずもなかった。
「……本っ当に、こういうところだけは変わらない」
「ホメロス?」
大きなため息の後、ぽつりと呟いたホメロスの名を不思議そうに呼ぶ声の響きは、低さこそ変わりはしたがよく知る男のものだった。正直なところ、ホメロスは立派に成長したグレイグを見て勝手に引け目を感じていた。なにもかもを、置いていかれた気がしたのだ。
だが何も、この男の持ちうるものはそこまで変わっていないらしい。
この真正直さがこの男の取り柄だ。変わったのは、ほんの少しだけでもその表面を覆い隠すことができるようになったというところか。それが分かれば十分だ。ホメロスはぎろりとグレイグを睨み上げた。
「……懐かしいのは私も同じだが、お前の今の仕事は民からの祝福を受ける事だろう。職務放棄するな、ほら放せ」
「……わ、分かった」
気圧されたように頷いて、グレイグはようやくホメロスを解放する。
力任せに抱きしめられたせいで、その腕の回っていた箇所がじんじんと痛むような気がして、ホメロスは腕を擦った。
「俺は先に部屋に戻っている。……あとで、クレイモランの酒でも飲みながら話そう。美味いぞ」
「ああ!」
「じゃあ行ってこい、騎士様」
まるで、昼間のマルティナ姫がしていたような顔でグレイグが頷くものだから、ホメロスはグレイグの背中を思いきり叩いて、人の輪の方へと押しやったのだった。
「つけてくれているのだな」
部屋に戻ってくるなり、荷物をソファへと放ってグレイグはホメロスの耳朶に手を伸ばした。成人の儀式の折に、グレイグから贈られたピアスがそこには埋まっている。
「ん……まあ、折角だからな。しかし、本当にどういうつもりかと思ったぞ。送り先を間違えたのかと」
「手紙を読まなかったのか?」
少しだけそれに触れて、グレイグはすぐに手を退ける。小包をようやく開いたその時のことを思い出して、ホメロスは笑った。
「読んだとも。だからちゃんと返事も送っただろう。だがな、考えてもみろ。手紙を開くより先にどうしてもあの箱が目に入るだろう?」
「それは確かに」
「読むのには勇気が要ったよ。ひとの恋文を覗き見る趣味はないからな」
「こ、」
「ん?」
「……いや。うん、そうだな。それはよくない、な」
「だろう? まあ、結果としてはいつも通りのお前からの手紙だったわけでそれは良かったが」
そんな話から始まって、手紙には書ききれなかったことやお互い離れている間にどう過ごしていたかを語り合った。
机の上に置いたウィスキーの中身は3分の1ほど減っている。雪国の酒は濃度が濃く、少量でもかなりの酩酊感があるのでちびちびやるぐらいで丁度良い。
「しかし本当に育ったなグレイグ。どれだけ伸びたんだ?」
「自分では今一つ分からんな……。でかくなったとはあちらでもさんざん言われたが、それよりも、ホメロス。お前は……」
じい、とグレイグがホメロスを見る。その視線にはどことなく覚えがあって、ああこいつもひとをそういう目で見るようになったのか、とぼんやりホメロスは思った。おそらくは酔いのせいなのだろうが。
「その、綺麗になった、な」
「蹴り潰すぞ」
案の定予想した通りの言葉にホメロスはお決まりの台詞をかえした。
「!?」
「なんてな。まあそれは言われ慣れたよ俺も」
ぎょっとした様子で目をかっ開いたグレイグに、ホメロスはからからと笑ってみせる。
クレイモランから戻った頃、つまり魔法を戦闘に積極的に取り入れるようになってからだ。魔力を溜めやすくするという意味もあって、魔法の師からの勧めもありこれまで背中の上あたりで切るようにしていた髪を伸ばし始めたホメロスを揶揄うために、口さがない奴らが散々言っていたのと、なかなかに不思議な事ではあるが、それを純粋な称賛の意図で使うものと。
前者は、本当に反吐が出そうになるほど下種な揶揄い付きだ。
やれそのお綺麗な容姿を使って上官に取り入るつもりだのなんだの。それで出世できるなら誰も苦労はしないし、そもそもその言い分はホメロスを貶すようでいて、その実上官を節穴だと言っているようなものだ。色で落ちるような俗物だと。鼻で笑いながらホメロスはそう言った。その間に変化していったグレイグの表情に気づかなかったのは、完璧にホメロスの落ち度だ。
「ホメロス」
「うん?」
がっ、と両肩を勢いよく掴まれる。今度はホメロスが驚いてグレイグを見る番だった。真剣な緑の瞳がホメロスを捉える。
「どこのどいつだ」
「なに、が」
「お前を。その容姿を揶揄いの種にしたのは誰だ」
獣のように低い唸りを聞いた気がして、ホメロスは眉根を寄せる。
こいつ素面のように見えてもしや相当酔っているのでは、と思い至った。ホメロスの手元の酒杯にはまだ半分以上残っているが、グレイグの側に置かれた酒杯はすでに空だ。なによりまるで力加減ができていない。みしり、と骨が軋んだ気がして、ホメロスはグレイグの手を外そうとした。だが外れない。力の差は歴然だった。
「おい」
「教えてくれ。ベリドか、アルグナか、ジルオもそうだった。タデロもだ。ホメロス、他にいるか」
グレイグの挙げた名は昔から、ホメロスの容姿をネタに揶揄ってきた面々だ。実際それで間違いはないが、肯定するのは躊躇われた。素面の時ならまだしも、少なくとも今は。昔ならばともかく、ホメロスはもうそういった輩の実力行使には負けないだけの力を身に着けているから、揶揄われたところでどうということはないのだ。グレイグは知らないことだが。それになによりも、騎士になったばかりの友を同朋殺しにすることはできない。
「落ちつけグレイグ!」
「へぶっ」
ばしん、と手近にあったなにかで顔を引っぱたいた。衝撃で肩を掴んでいた腕が外れる。よし。これで正気に戻ればいいが、戻らなければどうにかして落ち着かせるしかない。
「……ん……?」
よくよく見れば、ホメロスが引っ掴んだのは随分と薄っぺらい本だった。
おのれの薦めた本以外全く読もうとはしなかったグレイグが自発的に本を読むようになったとは、とホメロスは一瞬感動したが、表紙に書かれた文字を認識した途端その波はすうっと引いていった。品性下劣な類の本だった。勢いよく投げ捨てる。愕然としながらもグレイグの視線がその本を追う。そんなにそれが大事か。
「グレイグ」
想定していたよりも低い声が出た。ホメロスはそんなおのれに驚いていたが、しかしそれ以上になぜだか腸が煮えくり返るような気分だった。
「お前がそういう年頃で、そういう妄想の類が好きな事はよく分かった。理解もしてやる。だがな」
まだ中身の残っている酒杯の中身をホメロスは一気に飲み干す。とっとと眠ってしまいたい。
かんっ、と音の立つように空になった酒杯を机の上に置いて、ホメロスはグレイグを見下した。文字通り、冷たい目で見下ろした。
「もう寝ろ」
それだけ言い残してホメロスはおのれのベッドに潜り込む。
一瞬遅れてグレイグが勢いよく立ち上がった。
「違う、そうじゃないホメロス! 話を聞いてくれ!」
「うるさい話なら明日聞いてやる!」
再会の夜はそうして更けていった。
なお翌日、昨夜起こったことについては双方ともがうっすらとしか覚えていなかったため深刻な事態には至らなかった。
ホメロスは昨夜の宣言通り、グレイグが持っている本についてはそういう趣味もあるだろうと理解は示してみて見ぬふりをすると約束したし、グレイグの方も、酒に酔った勢いで例の本と現実を混同してしまったと正直に告白した。それにより、二人の友情は瓦解を避けた形になった。
ただ、とある新人騎士が複数名の兵士を相手取り、魔物相手でも見せないであろう鬼気迫る表情で数日にわたって訓練を行ったことは、しばらくの間兵士間での語り草になったという。
肩口に剣先が三度当てられる。
儀礼用のものではあるが、武器として振るえば切れる鋭さも持っている剣は、今朝方教会での祝福を施されている。
清涼な気配が放たれているようにホメロスは感じた。
「これにより、ホメロスをわがデルカダールの騎士と任ずる」
「はっ」
「魔物との戦いは決して易くはない。だが、おぬしの高めた智の力は必ず兵を、ひいては民を守るであろう。兵は民の子であり、親である。決して無為に失わぬよう心してくれ」
王の言葉を胸に刻む。一人一人違うといわれている騎士叙任の際の言葉は、今後のその騎士の役割を暗に示すものであった。
ホメロスに求められるのは、つまりそういうものだ。不満はない。あるはずもない。
むしろ、おのれの鍛え上げた能力を認めてもらえたようで、誇らしいとすら思えた。
「はっ。このホメロス、誠心誠意努めて参ります」
「うむ」
王が頷き、ホメロスに立ち上がって後ろを振り向くよう促す。
ホメロスは、その通りにした。その通りにしたところで、ぴしりとアストロンでもかけられたかのように固まった。隣で王が、満足げに笑ったのだけははっきりと認識できた。
「皆、新たなる騎士に祝福を!」
王の言葉を受けて、うおおおお、と野太い歓声が上がる。おかしい。先ほどホメロスがあそこを歩いてきた時には、兵士はほんの数名、ホメロスが受け持っていた班のメンバーだけで、あとは貴族と城下町の住民がほとんどだったはずだ。
それが、貴族や城下町の住民の後ろに鎧の集団がいる。
いつの間に増えたのだ。ホメロスがただただ驚いていると、元兵士の文官が兵士に混ざって歓声を上げながら拳を振り上げているのが見えた。
なるほど。ホメロスは納得する。
元兵士ならば友人知人の兵士を連れてくることも不可能ではない。ないが、中には城下の見回りを任されていた兵士もいるようだ。そこはあとできっちり問いただす必要がある。
「兵の上に立つ者は慕われていなくてはならぬ。ホメロスよ。わが国の兵を頼むぞ」
「がんばってね、ホメロス!」
ホメロスの背を優しく叩いて、王は私室に戻っていった。マルティナ姫も王の真似をして、しかし手が届かぬ関係上腰のあたりをぺし、と叩いてその後を追う。
むず痒いような気持ちだ。ホメロスは言葉が見つからず、深く礼をして二人を見送った。
ホメロスは先日19になった。実質グレイグと入れ替わりのような形でソルティコへの修行が決まり、あっという間の今日である。
グレイグから遅れること1年での騎士叙任は、もともと予定されていたことであったことを最近になってホメロスは知った。
修行先の師であり、ソルティコ領主のジエーゴから聞かされたのだ。
その年の候補はグレイグとホメロスの二人であったが、先に成人したためグレイグを優先したのだと。
だがそのおかげで、ホメロスは1年という短期間で修行を終えることになった。
知識面は全く問題ないということで、そちらの修練に関しては免除されたのだ。
その分、毎日みっちり実地訓練漬けであやうく大樹に還るところだった。だがこれをグレイグも乗り越えたのだと思えば、途中で投げ出すことなどできるはずもない。そんな思いが常にホメロスの胸にはあった。
そのグレイグはこの場にはいない。兵士たちはそろって、グレイグが今朝方魔物の討伐に駆り出されたことをホメロスに話した。友人の騎士叙任に立ち会えないであろうことを悔しがっていた、とも聞かされた。
騎士ともなれば部下の兵を率いて魔物の討伐に出ることもあるし、大規模な討伐戦ともなれば他の騎士と合同で策を練り指揮をとるものだ。そうそう暇なものでもない。
一兵卒であったホメロスが、グレイグの騎士叙任を見届けることができたのとは事情が違うのだ。
ホメロスは笑いながら、分かっているよ、と答える。むしろそのような状況でこちらを優先するような友人など願い下げだ、とも。そんなホメロスの応えに、兵士たちは一同にほっとしたようなそぶりを見せた。
ようやく肩を並べられる。求められる役割は違っても、いや、違えばこそ、この国を守るため共に尽くすのだ。
それはホメロスの嘘偽りない本心だ。
偽りのない本心のはずだった。
遠雷にホメロスは窓の外を見た。付近の空には低い雲は見当たらないが、じきに一雨来るのかもしれない。
このところ急に天候の崩れることが多くなっている。
幼い頃グレイグと共に読んだ物語には、魔物の王が現れる時決まって空がにわかに掻き曇る描写があったものだが。
そんなことを何とはなしに思い出しながら、ホメロスは手元の書類に目を落とした。
各国の王が集まる四大国会議を狙った魔物の襲撃。それに関する報告書だ。夜半、勇者の生まれ変わりだというユグノア王子を狙って発生したものであり、王に同行していたマルティナ姫はユグノア王妃エレノアに人質として連れ去られ、行方は半年経っても未だに杳として知れない。
その場にはグレイグも居合わせ、魔物の蔓延る城内で単身王の命を救い、魔物の大群を率いていた大型の魔物を撃退した。
その武勲の結果、グレイグは将軍になった。若干20歳という極めて異例の昇格だ。
当初グレイグは将軍職の拝命を頑なに固辞していた。
マルティナ姫がついぞ見つからなかったことをひどく悔やみ、そのような資格は自分にはないと言っていたのだ。
しかし王は、大国2国が魔物によって滅び、人々の心に魔物への恐怖が根付こうとしている今、それを掃うための光が必要だ、とそう言ってグレイグを説き伏せた。もしも悔やむ気持ちがあるのなら、あえてその重石を担ってはくれぬか、と。
もとより、自責の念が強くあったグレイグは、王の言葉に頷くよりほかになかったのだろう。
それにしても強引なやり方だ。あれでは逃げ場などあったものではないし、ともすれば本来通りの名誉ではなく、汚名を引き受けたとも見ることができる。
事実そのような声は一部の貴族からも溢れ出て、そのたびにグレイグは軍議でひたすら耐えるように黙している。
戦い方も変わった。
拙いながらも部下を率い、共に戦うという姿勢を持ち続けていた騎士は、単騎で敵の中央に突っ込み、圧倒的な武力で中核を担う魔物を討つようになった。部下の兵の出る幕などほとんどない。
せいぜい頭を失って散り散りに逃げ去るものを討ち漏らさぬよう、周辺を固める程度。運がよければ交戦すらせずに町へ戻る兵もいるという。運がいいと喜ぶ兵もいれば、おのれの力不足が不甲斐ないと嘆く古参の兵もいる。グレイグの率いる隊はそのような状態で、士気の二極化が著しい。
こんな在り方を王は望んでいたのだろうか。
無辜の民を襲う魔物を掃うための刃。かつてグレイグが、騎士叙任の際に王から贈られていた言葉を思い返す。
確かに今のグレイグは、王が望み命じるままに魔物を切り裂く刃そのものだ。
刃はおのれの限界など分からぬ。
振るわれるがままに振るわれる。刃毀れしていようが、持ち主が手入れをしなければそのままだ。
まぎれもない人であるくせ、意志もたぬ剣のように、治りきっていない怪我をそのままに命が下ればそれに従って前線へ赴く。
一昨日の夜もそれが原因で付き合いの長い部下に止められ騒ぎになり、ホメロスがラリホーをかけて昏倒させたばかりだ。眠ったグレイグの眉間には深く刻まれた皺が寄っていて、かつての太陽のような明るさをもう見ることはできないのだろうなとホメロスは思った。相当無理が祟っていたようだから今晩までは起きてこないだろう。
おかげでホメロスは今日を含めて三日間の謹慎の身となっていたが、友を死なせるぐらいならこの程度安いものである。
だが、このままではいかに頑強な男といえどいずれ折れてしまう。
それが分からぬ王であるとはホメロスも思っていない。
思ってはいないが、だからこそ不審だ。
グレイグばかりに命じられる出動に他の騎士たちから不満の声も出始めている。なぜグレイグだけが。俺たちの存在を王はお忘れなのでは。ホメロスに談判しに来た騎士もいた。実際ホメロスは軍議において一定の発言を認められ、その戦略が起用されたことも多々ある。
だが、どれほど他の騎士にも討伐を任せるべきと提案しても、それが受け入れられるのはグレイグがすでに別件で城にいない場合に限られた。ひどい時など、ルーラ使いをグレイグの遠征先へ送って遠征先からさらに遠方へ進軍させることすらあった。碌な休息もなしにだ。その際のグレイグ隊の損耗はひどいものだった。初めてまともに魔物と交戦した兵士もいたという。死者が3割、負傷者のうち半数は二度と戦場に立つことのできない傷を負った。
これではまるで、グレイグもろとも兵を使い潰そうとでもしているかのようだ。
「将軍は大丈夫なんですかね」
内心を読み取ったかのような呟きにホメロスは報告書から顔を上げた。
未だ一部にしか提供されていないそれを、やっと書き写しが終わったとホメロスの元へ持ってきた文官が、苦虫を噛み潰したような表情をして椅子に座っている。
「……少なくとも、今日までは」
「明日以降が問題ですね。王もこのところずっと寝ずに政務を片付けておられるし、全く見てられませんよ……」
重い沈黙が落ちる。部屋の片側はきれいに片付けられて、あるのは中身の入っていない箪笥と本棚とベッドだけだ。グレイグはもうこの部屋には戻らない。将軍となった際に個室を与えられたためだ。とはいっても、ずっと遠征に出ずっぱりでまともに自室で過ごすことはなかっただろう。今だってホメロスによって睡眠状態に叩き落とされ、ひたすら眠っているだけなのだ。
「……ここで嘆いていてもしょうがないですよね。できることをやるしかない」
文官が不意にそう呟いて立ち上がった。ホメロスも見送りのため立ち上がる。それを制して、文官は扉に手をかけた。
「いつか、君も将軍も、幼い頃のように笑えるようになるといいですね」
「……ええ。本当に」
果たしてその日は来るのだろうか。今はそのようにはどうにも考えられずに、ホメロスは曖昧に笑った。
日の暮れた夕刻のことだった。
あとしばらくで謹慎も解ける頃だ。軍議に戻るべく身支度を整えるホメロスの部屋に、無遠慮なノックの音が響く。どうやらもうグレイグは目を覚ましたらしい。どうぞ、と応えると、寸分の間も空けず扉が開かれた。
将軍への就任と同時に王から賜った漆黒の重鎧が、男の歩みに合わせてがしゃりと音を立てる。
ホメロスは振り返らず、装備を整えながら声をかけた。
「まだお休みになっておられた方がよろしいのでは、将軍」
「そんな暇はない」
巌のように低く、重い声の応えに、ようやくホメロスは振り返る。
険しい顔をしたグレイグがそこに立っていた。大方、自室の前に控えていた兵に事の次第を聞いたのだろう。間違っても礼を言いにきたという雰囲気ではない。
「俺の邪魔をしてくれるな、ホメロス」
止まるわけには行かないんだ、と苦しげに訴えるグレイグに、ホメロスは嘲笑を浮かべた。
「邪魔? ……なるほど、オレのしたことは邪魔だったか。お前が気持ちよく死ぬために?」
「なんだと」
グレイグの表情が変わった。分かりやすく眉がつり上がる。
「王命に従って死ぬのは楽だろうな。ただただ魔物を屠り続けた挙句に討ち死にか。いいだろう。非業の死を遂げた英雄として語り継がれるのがお望みならオレが面白可笑しく書き残しておいてやる。何か、遺言はあるか?」
「ホメロスッ!」
「っぐ」
激昂したグレイグに胸ぐらを掴み上げられ、壁に押しつけられる。苦鳴が漏れたが、グレイグは全くそのことには気づかずに、昏い緑でホメロスを睨みつけた。手負いの獣のような、荒んだ目だった。
「……取り消せ」
獣が唸る。
このまま喉笛を食い破られて死ぬおのれを一瞬夢想して、しかしホメロスは敢えて笑い飛ばした。
「ハハッ……なにをだ? 生憎すべて本心だが」
「ホメロス! お前っ!」
「死に急いでいるお前に責められる謂れはないぞ!」
咎められるように名前を呼ばれ、たまらずホメロスは叫んでいた。
「怪我もまともに治っていない体で戦線に立つだと? 馬鹿なことを! 自分ひとりで国を守っているつもりか。無茶をするお前について行ったばかりに、何人の兵が犠牲になったと思ってる!」
それは、グレイグばかりの責ではない。ホメロスだってそれは分かっている。だが、最終的に進退を判断するのは兵を率いる頭である、騎士や将軍だけなのだ。兵が信じてついて行くのは、結局のところ戦場では上官以外にはあり得ない。
ホメロスが言ったことを、グレイグとて分かっていないはずがない。負った責任の重さに視野が狭くなっていただけなのだろう。捨て鉢になっているままの方があるいは、グレイグ自身の心は傷つかずに済んだかもしれない。
だが、そんなグレイグの姿をホメロスは見ていたくはなかった。体ごと死んでゆくぐらいなら、心に傷を負ってでも生きていてくれた方が何倍もましだった。
「お前は、人の心を照らすための光になったんだろう。……なら、それを翳らせるな。部下を不安にさせるな。無暗に死なせるような真似を、お前自身が死ぬような無茶をするな。王の仰ったように、光がなければ人は生きていけないんだ」
「……ホメロス」
毒気を失った獣がそこにいる。途方に暮れたようにホメロスの名前を呼ぶ。
緑の瞳に害意はなく、よく知るヒトの、ホメロスの友がそこにいた。
魔物の蔓延るユグノア城から王を救い出したグレイグだからこそ、希望の象徴として相応しい。
その理屈を否定するつもりはホメロスにはない。
だが、グレイグが光だというならば。人々の希望だというならば。
それは決して潰えてはならないもののはずだ。
「単騎での戦力はお前に劣るかもしれないが、オレたちよりも経歴が長く練度の高い兵を育ててきた他の騎士だっている。……それともなんだ。他の奴らは頼りにならないとでも?」
ホメロスの言葉に、ぎょっとしたようにグレイグは目をむく。
「いや、間違ってもそのようなことは」
「ないだろう?」
「……ああ」
頷きを返したグレイグに、ホメロスは小さく笑って腕を叩いた。力がほとんど入っていないとはいえ、胸元を掴まれたままでは格好がつかない。慌てたようにグレイグは手を離し、ホメロスは服の乱れを整えた。
「すまないホメロス。ひどいことを言った」
「気にするな。お前の、周りを巻き込む迷惑かつ緩慢な自害の邪魔をしたのは事実だ」
「……ひどい言われようだ」
「だがオレにはそう見えたよ。あとで副官のヘラルドに謝っておけ。このところの連戦や無茶のせいで相当胃を痛めている」
そう言って、ホメロスは横を通りがけにグレイグの肩を叩いた。
「ホメロス、どこへ」
「もうじき謹慎も解けることだ。これまでお前に手柄を持っていかれていた騎士たちはもちろんだが、私も前線へ出られるよう、改めて王に進言しようと思ってな」
扉を開けると、グレイグの副官が立っていた。
目礼に目礼で返し、ホメロスはおのれを追って出てきたグレイグを振り返ってにやりと笑う。
「今回の顛末を考えれば妥当だろう。いかに勇猛といえど将軍一人に何もかも任せていては先が見えている」
それに、とホメロスは呟いた。グレイグが不思議そうな顔をしてホメロスを見る。
「お前が今後無茶をしないということに関して、私に一切の信用はないからな」
また何かあればラリホーを見舞ってやる、踵を返し、そう言って会議室へとホメロスは歩き出す。背後から、お願いいたします、とグレイグの副官が代わりに答えた声が届き、次いで勘弁してくれ、と情けないグレイグの声が上がったのが聞こえたが、それはお前の努力次第だとホメロスは笑い飛ばした。
交戦開始から四刻半。とうとうギガンテスの巨体が力尽き、棍棒を手放して崩れ落ちる。ずしん、と地を揺らす音と同時に高く上がった土煙に、ホメロスの後方に控えていた兵たちは歓声を上げた。
どうにか勝てた。負傷者は少なくはない、が、死者はいない。上々だ。
しかし今の王は、それを善しとはしないだろう。何しろ時間がかかってしまった。現場に赴き、入念に下調べを行った上での討伐だ。兵糧には余裕があるが、単に物資や金銭だけの問題ではない。
城に帰還し、報告書を認めながらホメロスは考える。
最近の王は、否、ユグノア崩壊から、やはり王は変わった。マルティナ姫を喪ったことが、魔物への憎悪を駆り立てる要因となったのか。
いずこかの村で、町で、魔物に手を焼いているという話が届けば即座に兵を向ける。その事自体に否やはない。放置するよりよほど良いし、結果として民は守られる。
ホメロスが起こした将軍昏倒事件以降、王がグレイグ一人きりに討伐を任せることはなくなり、軍全体の空気としてはおおむね良好だ。適度に手柄を得られることで騎士たちも誇りを取り戻し、かつてよりも戦果が上がってさえいる。
だが、その代わりとばかりに兵の犠牲を厭わない。囮によって討伐が容易く叶うならば一小隊が全滅しても構わぬ。炎を吐く敵が相手であれば味方を盾にして進め。と。
犠牲を回避するよりも、いち早く魔物を殺せと王は言う。
姫を喪った悲しみがそうさせているのだと、そう理屈づけるのは容易い。そうして納得してしまった方が、身のためにはいいとホメロスも分かっている。
実際、現状の軍議の場において、王の言葉を否定する者はいない。そういった者もいたにはいたが、皆何かしらの罪状で投獄されてしまった。ホメロスが幼かったころ、騎士見習いの口頭試問を担当した学者もその一人だ。現在はかなりの高齢だが、獄中で抗議の意を示して断食を敢行しているという。
残っているのは、王に阿るばかりの貴族と、現場で指示を変えられる騎士の面々だけだ。
どの騎士だとて同じだろうが、ホメロスは特に、それを諾々と受け入れるわけにはいかなかった。
騎士として任じられた役割は、兵と民とを護ることだ。無為に喪わせることではない。
だが、それを命じているのは紛れもなく王だった。
守れと命じた兵を、勝利のためならば切り捨てろと。
それならばと、ホメロスは可能な限り、王の望むような形での魔物の討伐を行ってきた。
王の求めている迅速な勝利は当然として、一人たりと兵を死なせぬことは意地のようなものだった。無理だと言われようが、無理を可能にするための智謀だと開き直り、実際にその無理を成し遂げてきた。
その結果が、ようやく実った。
今回の遠征から帰還してすぐ、報告のため赴いた玉座で王直々に言い渡された。将軍として、軍師として、その力を使えと。
ようやくグレイグと肩を並べられる。そのことに高揚する心のどこかで、やはり何かが妙だと警鐘を鳴らしている。王の気配が、人ならぬ何かを潜めているように思えてならなかったのだ。
思い出して、背筋を冷たいものが走る。
人払いのなされた玉座の間にて、傅くホメロスに王は珍しく語り掛けてきた。
曰く、グレイグがお前のことを随分と褒め称えていた。先の討伐戦で死傷者の出なかったのはホメロスの策のおかげだと言っていた。兵からの信頼も篤い。心強いことだ。と。
王の口から聞かされる友からの称賛と、それを受けての評価は、どこか面映ゆい。いいえ私の策など、とホメロスは謙遜する。
皆の力があってこそのものです、と、そう言って玉座に座す王をふり仰いだ。
王は目の前に立っていた。
気配ひとつ動かず、音ひとつ立てず。その手を、ホメロスに翳していた。
それを目にした途端に寒気が走り、咄嗟に剣の柄に手を伸ばしかけて、止める。そこに今、剣はない。いや、それ以前に、騎士が王に剣を向けるなどあっていいことではない。だが。
だがその気配は、寒気は、強力な魔物の放つ気にあてられたのと同様の、あるいはそれ以上の感覚だった。
王よ、と、絞り出した声は酷く掠れている。
いかがなされましたか、と、ホメロスはようやっとのことで問いかけた。王は笑った。静かに、確かに嗤ったのだ。なに、つい昔を思い出してな、と言って王は手を下ろす。
いい大人に頭を撫でるなど、するものではないか。すまぬなホメロス、忘れよ。
そう言って王は、ホメロスに玉座の間から下がるよう命じた。
背を向けた王からは、もう魔物の気配など感じられず、しかしそれ以上の問答は許されなかった。
「――ロス、ホメロス」
「……ん……?」
肩を揺さぶられてホメロスは瞼を開けた。部屋が明るい。先ほどまでまだ夜だったはず、と、呆けた頭で考えて、一瞬で頭は覚醒した。明るくなっているならつまり朝だ。慌てて立ち上がると何かに思い切り頭をぶつけた。
「ぃ――っ」
痛みに上げかけた悲鳴を押し殺して、ホメロスは痛む頭を押さえた。椅子へ逆戻りだ。とんでもなく硬いものにぶつけたようだが、自室の机周辺にそのようなものを置いた覚えもなく、そういえば何か声がしたような、と、横を見る。
グレイグがいた。今日は鎧姿ではなく平服だ。今日は休暇のようだが、後ろ手に何かを隠し持ち、整えた顎鬚のあたりを手で擦っているので、ホメロスは事の次第を悟った。
「すまない、グレイグ」
「いや、俺も悪かった。今のは完全に油断していた」
神妙な顔で言うグレイグに、思わず笑いが漏れる。
「怒っていいところだぞ。報告書の作成中にうたた寝する騎士など」
どうやら考え事をしている間に眠ってしまったらしい。当然、報告書もまだ途中だ。机の上にある用紙は余白を多く残している。
「……大丈夫かホメロス」
顔色が悪い、と、心配げな顔をしてグレイグは言う。そんなにひどい顔をしているのだろうか。ホメロスは苦笑して、握ったままだった羽ペンを机に置いた。既にインクは乾ききっている。
「まあ、今回もなかなかに厳しい戦いだったからな。多少の疲れもあるさ」
「ならば今日は休め。お前もよく俺に言うだろう。適度な休息は大切だと」
「私がそう言ったのはお前が馬車馬のように働きすぎるからだ。付き合う部下の身にもなってみろ」
あれ以来無謀ともいえる頻度での出撃はしなくなったグレイグだが、それでもその精力的な働きは畏怖と尊敬の対象だ。魔物と相対すれば戦神のごとく、先頭に立って戦うのには変わりはない。
だが現在の、部下と共に人馬一体の群となって猛進する様は元々得意としていたやり方だ。傍から見ていて痛快なほどの進撃は新兵たちの憧れであるし、その旗下に至ることはある種の名誉じみて語られる。実際、グレイグ隊は頑健でなければ務まらぬというのが通説だ。
それはなぜか。
要は、休日だというのに訓練場に現れる上司を尻目に、のほほんと休むことのできる部下がいるか、という話である。
グレイグのそれは趣味と実益を兼ねたものであり、余暇の過ごし方の一つであることをホメロスは知っているが、付き合いの短い部下たちはそれが分からない。
自分達だけが休むわけにいかぬと予定されていた休みにも休まず訓練を行う始末だった。グレイグはそれを士気が高くてなによりと思っていたようだが、誰もが年中無休で動けるわけではない。
終いには戦場でもないのに死者が出るぞとホメロスからも副官からも脅しかけて、ようやく休日のうちは訓練をほどほどにさせることに成功した。あくまでも、ほどほどである。皆無ではない。
とはいえそういうこともあって、グレイグの下で働くことは兵士皆の憧れなのだ。
誰もがそうなれるわけではなく、そうなろうとして容易くなれるものでもなく。
同じような性質を持った者たちだけが、戦場でその背を預かることができる。
ただひたすらに、ひたむきに邁進できる強さは、ホメロスにはなかった。どこまでいっても、疑心の捨てきれない性質ゆえのことだ。
おのれの主に対してですらそうなのだから、そのほどが知れるというものである。
「休むとしてもこれを書き終えてからだな。あと……どこぞの将軍様が溜め込んでいる書類が山ほどあるそうだな?」
「うっ」
見えていたのか、とグレイグが唸る。見えていなくても後ろ手に持ったものが何であるかなど、少し考えればわかるというものだ。グレイグが歩みを進めるたび何度も見ていた光景である。分からない方がどうかしている。ホメロスは手を突き出した。
「とっとと出してくれ。そちらを先に済ませる」
「いや、俺のは」
固辞しようとするグレイグに、ホメロスは一つ舌打ちをして顔を作った。軍議で栓のないことばかり言う貴族を黙らせるためには効果的な、冷ややかな笑みだ。
「いつ部下から提出を受けた書類だ? 俺が遠征に行った日か? 二日前か? まさかもっと前だなどとは言わないだろうな?」
内心を言葉に表すのはグレイグの最も苦手とするところだ。私的な手紙のやり取りですら、どう記したらいいか分からぬのだという。事実と結果が重要視される戦績報告ならまた違うだろうとホメロスは思うのだが、それはそれで起こったことに対する分析をどうしたものかグレイグは今一つよく分からないらしい。部下が分析して上げてきた報告も、読んだらなるほど、と納得してしまって不足している点を見つけることができないのだという。
ホメロスの指摘に、グレイグはむう、と唸った。図星だ。苦渋の決断と言わんばかりに顔をしかめて、紙束を差し出してきた。ざっと50枚はあるだろうか。
「……すまん。確認を頼む」
「分かればいいんだ。……しかし溜め込んだな」
「俺も分からないなりにやろうとはしたんだ。今後はお前に頼ってばかりもいられんだろう」
「何を今更。やっと対等な立場になるのだから猶更気にせずこちらに回せ」
終わったら部屋に持って行く、と受け取った報告書に目を通しながらホメロスは言った。
早速魔物の生息地域と名前の綴りが間違っているのを見付けてしまって顔をしかめていたところで、グレイグに呼ばれる。
「ホメロス」
「なんだ」
「何か心配事があるのではないのか」
ぴた、と羽ペンを握った手が止まる。
「寝台に入らず寝入るなど、お前らしくもない」
昨夜の、玉座の間での一件が頭を過った。このところずっと感じていた王への違和感を、あれが決定的にした。だがそれを言ってどうなるだろうか。グレイグは王を信頼している。ホメロスのことも、信頼はしてくれているだろう。だがその比重は、王に対するものが圧倒的に大きい。それは騎士として当然のことであって、だからこそ、ホメロスはグレイグにおのれの懸念を訴える気にはならなかった。
昨夜感じた違和感以外の確たる証拠もないままに打ち明けたところで、グレイグはただただ戸惑うだけだろう。人を疑うことに慣れていない男だ。
そういった役割は、人を疑っても、良心の痛むところのない人間が担えばいい。そうだな、とホメロスは呟いた。
「……しいて言えば」
「ああ」
「お前の副官が、またお前の無茶に胃を痛めていると小耳に挟んだ事とかな」
「なっ……!? いや、あれはだな……!」
「勿論、部下の身を案じてのことだろうとも。だがせめて特攻をかけるにしても一言相談してからにしたらどうだ?」
お前の副官に何度となく泣きつかれる私の身にもなってくれ、とホメロスが笑いながら言えば、グレイグは思い当たる節がいったいいくつあったのか、肩を落として大息を吐いた。
「なんというか、つくづく本当にすまんな……詫びに何か甘いものでも買ってこよう」
「ああ、それはいいな。期待しておく」
そして、何事もなかったかのように日々は過ぎていく。
ユグノアの陥落から暫く経ち魔物の出現がようやく落ち着いてきたのか、城まで討伐の依頼が届くことも減りつつあった。最近では専ら、訓練として遠方に出るぐらいで死傷者の多くなるような案件もない。そのためか王も、一時期の苛烈さが比較的穏やかになり、あの違和感はやはり勘違いであったのかと思うほどだ。
しかしそれはあくまで一時期と比較してのことであって、やはり様子がおかしい事には違いがないのだが。
そんな中ホメロスの将軍職就任はいよいよ明日に迫り、これまで住んでいた部屋から出ることとなった。
今グレイグの居室となっている部屋から廊下を挟んで真向かいにある場所がこれからの住処だという。
ホメロス自身はそれほど私物の多くないつもりでいたが、荷運びと整頓をしているうちに日が暮れ夜になっていた。
お一人では大変でしょうと手伝いを申し出てくれた部下もいたにはいたのだが、些事に付き合わせるのもよくないと思い断ってしまった。悲しそうな顔をされたが、たとえ部下といえどもあまり私物に触れられたくはない。グレイグとは違って、人に見られては困るような疚しいものがあるわけでもないのだが。
燭台に火を灯す。今ではメラの加減にも慣れたもので、小火騒ぎを起こす心配もない。
人心地ついて息を吐いたちょうどその時、部屋の扉がノックされた。外から、ホメロスさま、と呼び掛けられる。
ひどく平坦な聞き覚えのない声だった。不審に思って、どうした、と問う。扉の向こうで声は、王がお呼びです、すぐに玉座の間へお越しください、とだけ言った。それ以上は何も聞こえてこない。言うだけ言って去っていったのか。
「……」
机の上に置いた白紙の束の一枚に二言三言書き込んでから、ホメロスは普段使いの双剣を装備し、懐に短剣を二本忍ばせた。破邪の祝福を受けた、一度きりの使い捨てだ。
何をやっているのだか、と、おのれの行動にホメロスは自嘲する。
最早今の王を信じられなくなっていることは、平常の武器に加え護身用の短剣までも手に取った事で明らかだ。おのれの信ずる王の前に、隠し武器を持参する必要がどこにある。
何事もなければそれでいい。何事もなければ、それを抜く機会も振るう機会もないのだ。あの非道な指示の数々も、最愛の娘を喪ったが故の、一時の乱心であればそれでいい。善くはないが、王も人だ。いつか時間が解決してくれるのだろう。そんな楽観を信じられれば楽だったろうに、ホメロスはその猜疑の強い性質であるがゆえ、信じることはできなかった。
部屋を出る。廊下には誰もおらず、城全体が深い眠りにでも落ちているかのように静まり返っていた。
先ほどの声はなんだったのか。立ち去る足音すらも聞こえなかったが。
少しだけ立ち止まって、ホメロスは廊下の向こうの部屋を見た。だがすぐに玉座の間に向かって歩き出す。靴底が絨毯を踏みつける。ざわりと足元が何かに引きずられるような心地がして、足を速める。大広間にも人っ子一人おらず、夜間であろうと誰かしらは警備に当たっているはずだが、立ち番の兵の姿も見えない。もしや魔物の襲撃だろうか。それにしては異様な程に静かだ。
階段を上り二階へと上がる。やはり誰もいない。足を進める。足元が、ただの床と絨毯であるはずなのにずぶずぶと沈んでいくかのような感覚があった。魔法で惑わされているのか。そう思って歩きながらマヌーハを唱えるが、変化はない。気味の悪い思いをしながら玉座の間へとたどり着く。扉を押し開け、中に入ると、いつもと同じように、玉座に座す王が見えた。進み出て帯剣を解き、跪く。足元の沈むような感覚はもうない。
「王命に応じ、只今参上いたしました」
「夜分遅くに呼び立ててすまぬな――顔を上げよ、ホメロス」
「はっ」
促され顔を上げた。王はまだ、玉座に座っている。禍々しい魔の気配を、最早隠すことすらせずに。
「とうとう明日には将軍だな。働きに期待しておるぞ」
「――有難き幸せです」
しかしそれは、本来の王から賜っていればの話だ。
「だが、ホメロスよ。ひとつ気になることがある。お主は……」
玉座から立ち上がり、王はホメロスを見下ろした。温かみの欠片たりとない、かつてホメロスが王と仰いだ人物のそれと似つかぬ、しかし外見だけは同じ目で。
「戦事に、随分と時間をかけておったな。わしの命じたことよりも、雑兵を優先したか」
いつ指摘を受けるかと思っていたが、今ここで、ようやく取り沙汰されるとは。
ホメロスは笑みを浮かべた。やはりこれは、王ではない。
「――お言葉ですが、王よ。お忘れですか」
王の姿をした何かはぴくり、と眉を上げた。外面は確かに王そのもの。
だがその中身はまるで別物だ。比べる事すら非礼に値する。
「私は、兵を無為に喪わぬよう――兵と民とを守るため、騎士に任ぜられたのです」
ホメロスは目を伏せた。胸に手を当て、王に忠誠を誓う騎士の姿を演じる。
その奥にはこの誇りの根源がある。友と交わした国を守るという誓いが、ホメロスにとってすべての原動だ。
「いかに王命といえど、誇るべきその使命を捨てることなどできましょうか」
ホメロスの言葉に、答えは返ってこなかった。
ただ言葉の代わりとでも言うかのように高まる魔力の圧を感じたホメロスは胸元の短剣に手を触れ、そして抜き放った。
眼前にまで迫っていたドルマが、その刃に触れて霧散する。役割を果たした短剣もホメロスの手の中でぼろぼろと崩れ、それを見届けるより先に柄を放り傍らの双剣を抜いた。大理石の上を柄が転がり、音を立てる。
驚愕の表情が、揺らめき憤怒に変わっていく。
「わしに逆らうか、ホメロス」
「我が王の振りをするのはこの辺りで止してもらおう。……魔物風情が不敬だ」
怒りに打ち震える王の真似事をするなにかに、ホメロスは吐き捨てた。すると、人にあるまじき魔の気配を放ちながら、それは口の端をにい、と上げて嗤う。
背筋にぞわり、と怖気が走った。双剣の柄を握りなおし、対峙する。気圧されては負けだ。
「このわしを、魔物と言ったか。……甘く見るでないわ! 我は魔導士ウルノーガ。いずれ魔王となるものだ」
「なるほど。ユグノア王子を悪魔の子としたのはそういうことか」
王の姿をした魔導士に剣の切先を向け、ホメロスは呟いた。
「よほど勇者が恐ろしいと見える」
「分かったところでもう遅い」
「な……ッ!?」
突如、ぐにゃり、と。足元が泥のように溶けた。ここに来るまで何度か感じた違和感が、現実となってホメロスに襲い掛かる。どのような仕掛けか、足首まで床に沈み込んでいる。これでは嬲り殺しに遭うより他になく、ぎり、とホメロスは奥歯を喰い締めた。
「大人しく我が麾下に加われ。弱き者よ。そうすれば命は助けてやろう」
「誰が――!」
飛来したドルマを剣で切り払い、ホメロスはウルノーガを睨み付ける。だが、今度は腕が床に引き寄せられ、ホメロスは剣を取り落として膝をつく。
ずぶずぶと見えない泥濘に沈んだ場所から、とてつもなく恐ろしいものが這い上がってくる。そんな気配に、ホメロスは恐怖した。
「ぐ……っ、くそ、殺せ……っ!」
「そうはいかぬ。……よく見れば、随分と奥に秘めたものがあるではないか」
ウルノーガは嗤って、王の掌でホメロスの頭を掴む。目は手の腹で塞がれ、芯まで凍っているかのような冷気にあてられ、歯がかちかちと音を立てた。そういうことにでもしておかなければ、赦しを乞いそうになるおのれがいる。
この胸の奥にあるのは、誇りだけだと、それ以外にあるはずはないと、ホメロスは叫ぼうとして、――できなかった。
「どれ、解放してやろう。……恐れることはない。「それ」は当然の感情だ」
優しげに、ウルノーガが呟いたその直後。
ばちり、と。ホメロスの瞳の奥で何かが弾けた。
その感情に、覚えがなかったといえば嘘になる。
幼い頃、出会ったあの日に掴んだ腕の、その奥にあった芯の太さ。
頼りない目をした、同い年だという少年にあって、自分にないもの。
それは、ホメロスの欲しかったものだ。
骨の太い生きものは大きく育つという。その時点ですでに、ホメロスはその少年に負けることを決定づけられていた。
どうしようもなく不平等で、理不尽な差だった。
「あいつさえいなければ、こんな気持ちになることもなかったんだ」
目の前に立った子供が、恨み言を吐き出すのをホメロスは見ていた。
覚えのある感情だった。なぜならそれは、かつて確かにホメロス自身が抱いたものでもあったからだ。
「だが、あいつがいたから得られたものもあった」
あれだけ本を読んでおきながら、知識を蓄えておきながら、終ぞそれらのどこからも得ることのできなかったもの。
心臓の位置で燃え続ける小さな篝火のような想いは、グレイグに出会うまでなかったものだ。グレイグと出会って初めて、ホメロスの中に生まれたものだった。火は種がなければ生まれはしない。ありもしない種に火を灯すことは叶わず、しかし切欠ひとつなしに火が燃える事もまたない。
未だに、その名前は判然としない。だが、それを大切にしたいと、ずっと持っていたいと感じる程度には心地のいいものだった。
「お前も知っているだろう」
「それがなんだって言うんだ!」
ホメロスの言葉に反発するその声は怒りに震えていた。ぎらぎらと敵意をむき出しにした金の目が、ホメロスを睨み付ける。おのれひとりで生きていけるつもりの、幼い日の自分自身が憤っている。
「そんなものがあったところで、僕は負ける。あんな弱虫に、僕は負けるんだ。ただ僕よりも体が大きくて、力が強くて、たったそれだけで!」
幼い時分の姿をしたおのれの吐く言葉は、どうしようもなく嫉妬と怒りに塗れていた。
これ以上付き合うだけ無駄だと踵を返して立ち去ろうとするその背中に、僕はお前なんだぞ、と、呪詛じみた声が投げつけられた。
振り返る。
幼い日の怒りが、ホメロスをじっと睨み付けている。
この夢をホメロスが見るのは何度目だろうか。その度に、もう片をつけたはずの古い感情が揺さぶられる。
恵まれた体格への羨望は未だに拭い去れていないにしても、生まれ持ったものを後から変えられるはずもない。そう割り切って既に折り合いをつけたことだ。その代わりに知恵を蓄え、磨いてきた。
ホメロスがそうであったように、グレイグとて血の滲むような努力をしてきている。あれが浴しているのは、易々と得られた栄光でも、名誉でもない。
ホメロスは溜息を吐いた。
「そうして憤ったところで、現実は変わらない。……弱音や恨み言など、吐いている暇はないはずだろう」
本当にやつに負けたくないのならば、と、呟いた声は誰に聞かせるためのものだったか。
一転、幼い頃のホメロスが笑った。引き攣ったような不気味な笑みだった。
「そうやって見て見ぬ振りをするわけか。賢いじゃないか」
「なに……?」
「考えれば憎くなるだけだものな。ずうっと僕のことを慕っていたくせに、もうお前の助けは要らないだなんて」
僕たちの価値なんてその程度だ、と、自嘲の笑みを浮かべるおのれの過去に、ホメロスは心臓を掴まれたような思いだった。そんなことはない、あいつはそんな風に言ったりはしていないと、否定の言葉を紡ごうとして、しかしその先を考えてしまった。二の句を告げずに押し黙る。
確かに今は、違う。今はまだ、頼られることもある。
だが、グレイグはまったくの馬鹿ではない。奮闘のあとが見えた書類は、以前よりもまだ自力で改善点の見出されていたものであった。要は、経験不足であるというだけのこと。慣れてさえしまえば、もとより勘のいいグレイグのことだ。さしたる不便もなく仕事を成せるようになるだろう。
「僕らの助けなどなくたって、いずれあいつは一人で立てるようになるよ」
「そんなことは分かっている」
「そうかな?」
ころころとよく表情の変わる子供だ。かつての自分自身の姿をして、しかしその一方で浮かべる表情は、ひどく大人びている。老成している、と言ってもいい。何もかも分かっているとでも言いたげな表情に、ひどく腹が立った。
「お前は、あいつのことをずうっと弱い子供のままだと思ってるんだよ。放っておけない奴だものな。危なっかしくて、守ってやらなきゃって思うよな?」
何の話だ、と笑い飛ばすことができなかった。少なからず持ち続けていた思いを、引きずり出されるかのようだ。沈黙を貫くよりほかにないホメロスをどう思ったのか。かつての姿のホメロスは、歩み寄ってきて下からホメロスの顔を覗き込んだ。
「ああ、違うか。思い込もうとしてたんだ。誰にも認められて、武勇を讃えられる強いあいつが、僕たちのことだけは頼りにするなんて! ……誇らしいよなあ!」
それは確かにホメロスが、心のどこかで思っていたことであった。恥ずべき感情だ。劣等感の裏返しに得る優越など、碌なものではない。身を以て知っている。いつか、ホメロスを欲の捌け口にしたあの卑劣漢が、子種と共に吐き出したのと似たような感情だ。
そう思い至って、ぞわり、と鳥肌が立った。満足げに子供は嗤う。
「……本当にひとりで立っていられないのはだれだろうな?」
黙れ、とホメロスは叫んでいた。その瞬間過去の姿をした幻影は掻き消え、あとには、暗闇に取り残されたホメロスだけが残った。
ホメロスが将軍として、デルカダールの軍師として命ぜられてから半年が経つ。
強力な魔物の出現には一定の波があるようで、現在は小康状態といったところだ。兵は日々教練に励み、様々な地形や気候に対応するため時折遠征を行う。ただそれには船や兵糧、各種備品の手配などが必要となり、軍師としてホメロスは多忙な日々を送っていた。
兵種の不足状況、練度の把握は欠かせないものであるし、ホメロスがクレイモランへ行ってから定期的に行われるようになった、魔法適性のある兵士の遊学についても該当者を選定し進めていかねばならない。机の上に山と積まれた書類を片付けながら、ホメロスは一方で違うことを考えていた。
部屋の隅に目をやれば、光を放つような純白の軽鎧が鎧立てに掛けられている。
勤務中ではあるが、書類を認める仕事には過分だ。ホメロスはあの鎧を好きにはなれなかった。
あれは王からの賜り物である。
同時に将軍の証でもあり身につけぬわけにもいかない。
たとえそれが、王の姿をした魔導士によって与えられたものであろうと。
あの夜。一人で玉座に赴き体験した出来事の前後の記憶がひどくあやふやだった。
目の奥で何かが弾けたような感覚に、たとえ命があったとしても両目を失ったかと思ったが、目覚めてみれば表面上はなんの変哲もない日常が続いていた。
机の上に部屋を出る直前書き残しておいたメモはなく、部屋の隅にはいつの間にか白い鎧が収められていた。
否、いつの間にかではない。確かにホメロスは、事の起こった翌日に王から直接その鎧を賜った。
だが、その時王がどのような言葉を語り、傍にやってきたグレイグが顔をほころばせながら言った何かが思い出せない。緊張のせいなのか。しかし、それを思い出そうとすると心が奇妙にざわめくのだ。あの夢の中で幼い自分自身が喚いた怒りに誘引されたかのように。
しかしそれ以外に関しては何ら変わりのない日々が続いていて、得体のしれない気味の悪さだけが残る。
あるとすればあの夢こそが、最も大きな変化だ。忌々しい、おのれの恥部を暴き立てるような夢を、あれからずっと見続けている。眠るのが恐ろしいとまでは思いはしないが、決して気持ちのいいものではない。気づけば山のようにやってくる仕事に没頭し、ほとんど眠らずに朝を迎えることが増えている。
恐れることはない、と、あの日魔導士はホメロスに向かって言った。あれは、あの夢のことを言っていたのだろう。
現時点で退かせる手段は得られておらず、表向きは騎士として従うより他にない。あくまで従っているふりをして策を練り、いつかは倒さねばならない。しかし、その糸口すらも未だ掴めずにいる。
クレイモランから古今東西で使われている魔法について書かれた書物を取り寄せてもみたが、結果は空振りだ。何一つ手掛かりになるようなものはない。
かの地に伝わる氷の魔女についての伝承もあたった。伝説だろうがなんだろうが、使える可能性があるのならばなんだろうと構わなかった。だが、魔女が人に乗り移りその本人に成り代わる術を使ったこともあるという記述こそ見つかったものの、それを外部から破る術があったか否かは書かれていなかった。
いずれにせよ、まずはその体が王のものであるか否か、というところからはっきりさせねばならない。王の体であれば追い出す必要がある。仮にそうでなく、ただ王に成り代わっているだけであれば、討伐にあたることも可能だろう。しかしその前に王の無事を確認せねば、事にあたることもできない。
現時点ではあらゆる情報が足りず、下手に動けばより悪い方向に事態がいきかねない。
従って今ホメロスにできることは、可能な限り兵の練度を上げ、魔導士の手から王を取り戻すための方策を探ることだけだった。
ふう、と息を吐く。ひと通りの書類を片付け終わって、羽ペンをペン立てに置いたちょうどその時、ドアがノックされた。
誰だ、と声をかける前に、ホメロス、俺だ、と来客が自分から名乗ったので開いているぞ、とホメロスは応じる。頭の中で子供が何かを叫んだ。恐らくは怨嗟の声だった。
「すまんホメロス、仕事中だったか」
「構わんさ、ちょうど一区切りついたところだ」
扉を開けたグレイグは、以前のように書類を持っていた。ホメロスとは対照的に、職務中は何があろうと常に鎧を着こんでいる。だから、だろうか。扉を開けたグレイグは、ホメロスを見て少し驚いたように目を開いた。
「鎧を着ていないのか」
案の定、僅かながら咎めるような声音で尋ねられ、ホメロスは肩をすくめて笑う。
「書類仕事をするのにあれではな。インクが撥ねでもして汚れては敵わんだろう」
「なるほど、確かに……」
グレイグは素直な男だった。ホメロスの言葉に、部屋の隅で輝いている真新しい鎧に目を向ける。
「俺の鎧と同じ造りのはずだが、美しいものだな」
「まだ賜って間もないからな。そうそう汚れたりはしないさ」
前線での活躍目覚ましいグレイグの鎧には、所々に小さな傷が付いている。修繕にも出しているはずだが、それもそう頻繁にできることでもない。
対して、ホメロスの鎧には未だ傷ひとつない。同じ形でありながら、得た月日の差がありありとそこには表れている。
「ん……? まあ、それもそうだが、それだけではなくだ」
ホメロスの言葉はグレイグの意図に合わなかったらしい。少しだけ首を傾げ、言葉を探すように黙してから、俯いた。どうやら上手い言い回しが見つからなかったらしい。上げた顔に浮かぶ表情は多少、気まずげだ。
「その、お前にぴったりの色だと、そう思ってな」
「それはどうも」
あの色が表すのは穢れなき純粋、無垢、そういったあたりの意味合いだ。疑心に塗れたおのれのどこが、それに似合うというのだろうか。ホメロスは皮肉に思いながらも笑う。
だが、そう思っているのならば、グレイグの中でホメロスはそのような存在に違いない。それでいい。この男は人々の光だ。人を疑う心の影を、暗闇を覗き込むことなどなくて構わない。
「……それよりもホメロス、また顔色が悪いぞ。眠れていないのか」
グレイグが手を伸ばす。その皮手袋越しの掌が、頬に触れようとしたその時だ。どこかから、声が響いた。
――オレの内心にも気づかないなんて――
子供の声では、ない。
――こいつはもう、オレのことなんてどうでもいいんじゃないのか?――
ぱしん、と乾いた音がした。
グレイグが目を丸くしてホメロスを見ている。伸ばされたその手は、ホメロスに触れる直前で止まっていた。
掌がひりひりと痛む。その感覚と、グレイグの触れることなく中空に留まった手が、つい今しがたのおのれの行動を何よりも知らしめている。今のは、なんだ。ホメロスは愕然とした。
グレイグはただこちらを気遣っただけのはずだ。眠っていないのも事実で、だから心配して手を伸ばした、それだけだ。なのに、それを見て頭に浮かんだ言葉はまるで真逆だった。どこかで子供が笑っている。それみたことか、と、ホメロスを嗤っている。やっぱりお前は、友ですら信じられないにんげんなのだ、と。
「……すまない、グレイグ。どうやら疲れているらしい」
「いや、その……俺の方こそ、悪かった」
取り繕うようにホメロスは呟いた。何も悪いところなどないというのに、グレイグも謝罪の言葉を口にするので、ホメロスは小さく笑ってしまった。そして代わりに、手を差し出す。
「書類は受け取っておこう。一休みしたらすぐに取り掛かる」
「……いや。いい」
グレイグは、眉を顰めて首を振った。今度はホメロスが目を丸くする番だった。
「いつまでもお前に甘えていてはいかんだろう」
「……そう、か」
「ああ」
ゆっくり休んでくれ、と、そう言い残してグレイグは部屋を出ていく。
ホメロスはただその背中を見送ることしかできない。まるで足に根でも生えたかのように、その場から動くことができなかった。ひどく、疲れていた。思えば数日眠っていないのだ。無理もなかった。
意識が落ちる。薄闇がひたひたと意識を浚っていく。
その、境界の間際。
ほら、もう必要なくなった。と、どこかで楽しそうに子供が嗤った。
『私は狂っている。日の経つごとに、正気の面が薄れていくのが分かる。
友の姿を目にする度、湧き上がる感情をどうにか抑えるので精一杯だ。
この怒りは正当なものではない。そうであるはずがない。だというのに』
一冊の、白紙ばかりの帳面に書き連ねていた言葉がぴたりと止まる。金色の瞳は僅かな間、手元をぼう、と見つめて、そして今書いたばかりの一枚を破り取った。歪な断面を残して、あっけなく切り離されたそれを無感動に眺める。
なんと無意味なことをしているのだろう、と、おのれのしていた事だというのにおかしくてたまらない。
正当でない怒りなどあるものか。どのような想いにも、それぞれに理由があるものだ。
それを、正気ではない、などと。そんな風に考えるから、正気ではいられなくなっていく。
認めてしまえればこんなにも楽だった。負の感情と呼ばわれるものすべて、認めてしまえばひどく気が楽になった。
グレイグが憎い。あいつは決して悪くなどない。
ただ、ただ同じ時代に生まれ、隣を歩こうと差し伸べられる手が、それがどうしようもなく息苦しい。こちらの歩幅などお構いなしに先を歩きながら、それでも手を離そうとはしない男の手がなくなってしまわぬようにと、焦燥する存在にも気づこうとすらしない。
おのれを顧みない相手を、なぜ憎むべきでないと考えてしまうのだろう。
ホメロスには分からなかった。
あるいは、この在り方を未だ拒むおのれにならば分かっているのかもしれない。
だが、ひとが良心と呼ぶであろう、負の感情を切り捨てようと足掻くもうひとりは、今のようにあっけなく、切り取ってしまえる帳面の一項程度にしかもう存在を確保することができず、意識の薄闇において対峙しても、何も語ろうとはしない。後生大事に、今にも消えそうな胸の中の灯を守ってうずくまっている。
あの、憎いはずの男の名を呼んで。
なんと哀れな存在であろうか。結局のところ、何かに依ってしか立つことのできぬ、弱いものだったのだ。
騎士という生き方に、友との誓いに、それによって与えられる愛情に。
そんなものに縋って生きていくのは苦しいだけだ。
恐れる必要などない。ホメロスを教え導いたあの言葉は真実であった。
怒りと憎しみとは、認めてさえしまえばひどく心地よかった。
ホメロスは瞼を閉じる。手の中にある紙片に焔が生まれ、揺らめきながら灰となる様を描く。
容易くそれは現実となり、あとには、歪に破り取られた帳面が残っているだけだった。
目を覚ますと、書いていたはずの文面がすっかり消え失せているのにホメロスは気が付いた。
また、だ。
仕事とは全く関係のない私的な文書であったことだけが幸いだったが、しかしあるいは、そうでなければ、ついに疲労が極限に達したのだろうかと笑って済ませることもできただろう。
だが、このところ異常に関することにだけ、この現象が起きている。
異常というのはホメロスの、心の内で起こる現象についての事だ。激しい怒りと、憎しみとが、決まった契機で頭をもたげる。最初はその程度だった。だが日々を過ごすうち、徐々に、おのれの記憶が少しずつ変化していることに気が付いた。怒りにも憎しみにも、どれだけ理不尽であろうと何らか原因のあることが当然で、それを探ろうとした。
覚えのない記憶がその根底にはあった。
おのれの記憶に、覚えがないというのもおかしな話である。正確に言うならば、覚えのあるはずの記憶と齟齬が生じている。
記憶とは人間の根源だ。積み重ねてきたそれらによって、人の心というものは造り出される。構築されていく。希望を見続けたものは希望を信じ、愛を得たものは愛を信じる。そのようにして、人間の核ともいうべき人格は形成される。
本来あるはずの記憶と、湧き上がる感情の根拠となる記憶とが異なっているということは、統一性が保てぬということである。途方もない苦痛であった。
ホメロスは感じた怒りとその根底にあったもの、実際におのれが覚えている記憶とを書きとめた。
そうすることで、どれもこれも、実際にあったことの一部だけを切り取り抜き去って、救いであった部分がなかったことになっているのだと、気が付いた。怖気が走った。これはまさしく、人間のこころを作り変えるための所業だ。
それだけではない。そうして記憶を書きとめた紙が、いつの間にか消えている。ある時は魔術の炎によって灰になり、ある時は刃物で切り刻まれ、残骸だけがホメロスの元には残った。
それが、おのれ自身の手によるものだと、ホメロスは薄々感づいていた。魔力を消費しているのだ。今も、確かに書いていたはずの一項は破られ、跡形も残ってはいない。だが、戦闘で魔法を使った後のような僅かな消耗感と、指に残った黒い灰がその証拠だ。
正しい記憶を留めておくことも叶わなくなる。今はまだ、違うと気付くことができる。我に返り、本来あるべきおのれに立ち帰ることができる。しかしいずれは、戻れなくなるのだろう。
クレイモランで読んだ本の事を思い出す。魔物の成り立ちについて触れた、禁書指定のかかったそれを最後まで読むことはできなかった。途中から封印が施されていたからだ。だがそこには、恐るべき内容が書いてあった。当時のおのれは何も思わなかったが、身に迫ってみればこれほど恐ろしいことはない。
人は魔物になりうる。
憎しみや、怒りや、嫉妬といった、負の思いに捕らわれ続けた人間はやがて魔物となる。人の姿をそのまま保つものもいれば、獣の形に姿を変えるものもいる。しかしそうしたものは、自然発生した魔物とは異なる姿を持つという。
ゆえに殖えることはなく、魔物に変じるほどに求めた何かを得るためだけに行動するのだ。
ホメロスの内側に湧き出した感情は、そうした類のものだ。いずれ人を魔物に変える毒だった。
部屋の隅で純白の鎧が光る。帳面の上で握った手が、ぐしゃりと紙を巻き込む。どろりと凝りかけた心を責めるように、あるいは際立たせようとするかのように、ひたすらに白いそれを見ていたくなくて、ホメロスは部屋を出た。
行く当てもなく、けれど誰も人目に付かない場所へ行きたかった。誰かに出会えば友の話題になる。そうなれば、憎くもないはずの友を憎まねばならなくなる。そんなことはご免だった。これ以上記憶を、おのれを組み立ててきた友との生涯を、何ものにも踏みにじられたくはなかった。たとえそれが、おのれの心の奥深くに隠し持っていた薄暗く、否定すべき感情であったとしても。
幸いにして誰にも出会うことはなかった。行きついたのは、城の片隅にひっそりと設けられた図書室だ。
鍵はかかっていない。扉を押し開ければ、かび臭い匂いが鼻をつく。その奥まで踏み入って、ホメロスは座り込んだ。
この場所の記憶はまだ安全だった。
まだ何一つ、汚れてはいない。怒りも憎しみも、まだこの奥深くまでは入ってこられない。
ああ、だがどうだっただろう。出会った頃、グレイグに向かって抱いた感情は確か、苛立ちと嫉妬ではなかったか。
そう思い出して、乾いた笑いが漏れる。早晩、こうなる定めだったのかもしれない。
その感情はとうの昔にホメロスの中に根を張って、どうにか隠れていただけだったのだ。
胸に灯された火は足元まで照らしはしなかった。振り切っていたつもりで、心底からそうできてはいなかったということなのだろう。
何とはなしに、手近にあった本を手に取る。
表紙だけを見て読む気が失せた。大樹信仰の根強い地域で記された子供向けの絵物語だ。
いつか命が失われても、大樹がある限りまた新たに生を受けられる。
その葉一枚一枚が、人の命と繋がっているという内容であった。
では、果たしてこの命の葉はどうなるのだろう。もはや魔に堕ちることを約束されたような、この命は。
魔物の命は大樹には還らない。
魔物には魔物の循環があって、人には人の循環があるということだろうか。では、人が魔に堕ちたのならばその葉はどこへいくのだろうか。堕ちた瞬間に落ちるのか、人の手によって討たれた時に落ちるのか。答えの出ないことを考えながら、ホメロスはまた、手近な本を手に取る。古びたその装丁には見覚えがあった。懐かしさに目を細める。
英雄王の伝記だ。幼い頃のグレイグが、好きだと言っていたものだった。
幼い子供が読むような平易な内容のそれを、成長してからも度々読んでいた。よほど気に入っていたのか、これが一番好きなんだと、少し拗ねるような顔で言っていたのを覚えている。表紙を開く。
一度読めば覚えられるぐらいに簡単な寓話だ。夢と希望と、愛と友情に満ち溢れた世界のものがたり。最後のページに、本とは異なる材質の紙が挟まっていた。比較的新しいもののようだ。本の表紙からはみ出さないように、しかしいささか乱雑に折りたたまれたそれを広げると、汚い子供の字でこう書いてあった。
『これはおれのだいじなほんです ふるくなってもすてないでください すてるときはおれにください』
「……名前を書いてなければ分からんではないか」
ホメロスにはこれが誰の書いたものか分かった。それは記憶のあるがゆえのことだ。その記憶に、怒りも憎しみも介在してはおらず、ただ懐かしさだけが去来する。
その紙に友の名前を書き足して、何も書かれていない一部だけを、ほんの端だけを破った。折り目を正して元通りの位置にはさむ。長年誰の目にも触れていないのは明らかで、ここならば、憎しみに支配されていないおのれを残しておけるかもしれないと思ったのだ。
あの男は魔物に手心など加えない。だが、友の姿をしたものを切り伏せて、平常でいられるほどに図太くはない。だからこれは、保険のつもりだ。魔物となったおのれを討った英雄は、決して間違っていなかったのだと、いつかこの本が伝えてくれるだろう。
何年、何十年先になるかは分からないが。
「いい加減に手放したらどうだ」
そう、大人になった僕が、僕を見下ろして言う。
いつの間にか僕は、明けない夜の中にいた。
冷たく凍えそうなこの場所で、たったひとつ、この手の中に抱えた炎だけが、僕を守ってくれていた。
小さな、けれどあたたかな炎だった。絶対に捨ててはならないものだと、僕は誰よりも知っていた。その理由は、分からない。
ほんの少し前までは、確かに覚えていたはずなのに。
僕はいつの間にか、この大切なものの由来を思い出せなくなっていた。
どこからきたものなのだろう。とても大切な、大事な誰かが、この炎を灯してくれた。そんな気がするのに。
僕は、大人になった僕を見上げた。これが何だか知っているのかと、僕は尋ねた。
大人になった僕は憐れむように僕を見る。
忘れてしまった僕を責めるように、あるいは、悔いているかのように。
「後生大事に持っていたって、焼け爛れてしまうだけだろう」
僕の問いには答えずに、労るように彼は、いつかの未来の僕は、僕のぎゅうと炎を握りしめていた手を、溶かすように解いていく。
開いた手のひらは、言葉通りひどくどろどろに焼けて爛れて、それを理解したとたん、ひどく痛み始めた。炎が消えそうに揺らめく。このまま手放してしまえば、この痛みも消えて楽になるのだろうか。
そのまま僕は、大人になった僕と一緒にぼう、と炎が弱くなっていくのを見ていた。
手で覆っても、もう炎は今にも消えそうにちろちろと光るだけで、大人の僕はそれを見て、寂しげに、満足げに笑う。
これでいい、と大人の僕が言う。僕は、手のひらの上でさらに小さくなっていく炎を見た。忘れてはいけないもの。忘れなければいけなかったもの。どこかで、誰かに名前を呼ばれたような気がして、僕は、本当に愚かなことにそれを持ち上げて、呑み込んだ。じゅう、と焦げるような音がして、僕の体が内側から焼けていく。炎は、僕の体を贄にしてまた燃え始めた。大きく、灯してもらった篝火よりもさらに大きく。
めらめらと、ぱちぱちと、音を立ててからだを灼く熱に僕は笑う。大人の僕は、呆然として僕を見ている。
「恐ろしくないのか」
愕然と、自失の顔で僕が言う。僕よりもっと知識を貯めて、知恵を身に付けて立派になった僕は、僕がなぜそうするのか全く分からない様子で、炎とひとつになった僕を見る。
そう、僕は炎になった。僕をずっと温めてくれていたものとひとつになった。これは今までの僕を作ったものだ。それなら、消えるときは一緒に消えるべきだった。
この炎をうしなった僕は、ずっとひとりぼっちだと思っていたいつかの子供でしかない。
そうなることは僕にとって、なにより恐ろしかったはずなのに。
炎の立ち昇る腕を伸ばす。これは僕たちのものだ。触れればきっと思い出すはずだ。そうして僕は、あの日僕の胸に灯った尊き明かりを、大人になった僕にも思い出してほしかった。
けれど、醜いものを見たかのように僕は後ずさる。毒蜂が湧き出た茂みを忌避する瞳で、僕は闇の中へずるりと姿を消す。そして僕はまた一人になった。
だけどもう寂しくも恐ろしくも、寒くもなかった。
この身は炎となって、あかあかと、先の見えない闇をわずかに照らし出しているのだから。
夢を見る。
ホメロスは繰り返し夢を見る。
よほど悔しかったのだ。苦しかったのだ。誇らしさも、負けじと進もうとすることも、あの男が与える何もかもがホメロスを惨めにさせた。
なぜか。
もうあの男は長い間こちらのことなど見てもいない。一人だけ先へ進んで、そして振り返りもせずに、誰もいない隣に顔を向ける事すらせずに、共にあろうと、綺麗事を吐く。
もううんざりだった。遙か後ろを歩いていることを気取られぬよう声を張り上げるのも、追いつこうと走り続けるのも。頂に立てるのはいつだって一人きりだ。それを――二人で、共になどと。
前しか見えていないのは誰だ。後ろを顧みることひとつしないのはだれだ。そうやって、友と呼ばれ、共に行こうと言われながら、背中を追うことしかできない惨めさを知りもせずに。
あの男が帰還したあの日。あれが最も顕著な出来事だった。門を開き、赤い絨毯を踏みしめ歩むその足が、ホメロスの前で止まることはなかった。差し出した手を見えなかったかのように、事実見えていなかったのだとしても。眉ひとつ動かさず、視線ひとつ寄越さず。まるで「いないもの」のように素通りして。王から騎士に任じられる。
群衆が叫んでいる。歓喜に沸いている。
新しい騎士の誕生に、誰も、だれもこの惨めな兵士には目もくれない。
あの頃からだ。あの頃からすべて始まった。
ホメロスにとっての苦しみは、憎しみは、あの日新たに芽生えたのだ。
長い間そう思うことを避けてきた。
ずっと、ずっと、そう考えることは罪深い事だと奥底に仕舞い込んできた。
あの男の体躯が羨ましい。幼い頃からずっとそう思っていた。骨のふとい、大器となることを約束された体がずっと羨ましかった。比較すれば瞭然の違いに、屈託なく掛けられた慰めがどんな言葉だったのか、思い出すこともおぞましい。
素直な性質が妬ましい。ひたすらに王を信じ、その命に邁進する姿はまさしく騎士の鑑だ。猜疑に塗れ、主すらも疑ってかかるおのれとはわけが違う。なぜそんなにも他者を信じられる。なぜ。なぜ。
なぜオレはあの男のように在れない。
有り体にいえば、ホメロスは責め続けることに疲れてしまったのだ。
望むようになれないおのれを責め続けながら、それでも追いすがろうとすることに疲れてしまった。
いつか魔導士は言った。恐れることはない、と。それは当前の感情だと。
その「当然」が魔の者の道理であるならば。
それを心地よく思ってしまった段で、もはや人ではなかったのかもしれない。
夜半。
静まり返った城内を金髪の幽鬼が歩く。
軍師ホメロス。昼日中の姿とは打って変わって、その表情は明らかに生気を欠いていた。もとより溌剌という言葉とは縁遠い人物である。だが、将軍となるだけの能力と、その職務を全うできるだけの生命力を持っていた。
それらが今の彼からはごっそりと欠けている。
見るものが見ればぎょっとして彼を自室へ連行しただろう。日々ろくに眠りもせずに働き詰めであることは、城内の者なら最早だれもが知っていた。だが、奇異なことに、城内には人の影形ひとつなく静まり返っている。
それに対して、疑問を浮かべる様子もなく幽鬼は歩く。
階段を上る。どこからか冷ややかな風が吹き、広間に立てられた燭台の炎を全て消し去った。
光源の一切が消え去り、しかしそれにも頓着せず足を進める。帯剣はしていない。
いつか玉座の間において、王を偽る魔導士と対峙した時の警戒はない。
そしてその場所にたどり着く。手を触れるか触れないか、その間際に扉が、待ち受けていたかのようにずず、と開く。
「おぬしの王は、ここにはおらぬぞ」
荘厳な響きの声がホメロスを迎える。それを耳に受けて、ここに来てようやく、ホメロスは表情を浮かべた。
それは帰る場所を見つけた幼子のようでもあった。玉座の間に進み入り、そして王の前に跪く。
音もなく閉じた扉は退路を断ったに等しいが、しかしホメロスの表情は変わらなかった。憧憬。信奉。おさなき者がすぐれた者に向けて抱く感情全てをないまぜにした面持ちで、ホメロスは歌うように告げる。
「いいえ。我が王はここにおわします貴方様。ウルノーガ様をおいてほかにおりませぬ」
「ほう」
軍師の心変わりをどう思ったか、デルカダール王の形をした魔導士は階段を降り、ホメロスの前に立った。
「おおよそ一年か」
ウルノーガがぽつりと呟く。ホメロスは金の瞳をぱち、と瞬かせて、直後おのれの至らなさを恥じるように俯いた。 およそ一年ほど前、この場で何があったか憶えていられないような蒙昧な頭をしていない。
「その節は大変なご無礼を」
「よい。忠心の篤いことはよく分かっておる」
寛大な魔導士の、王の言葉にホメロスは小さく安堵の息を漏らした。胸を満たす感情を肯定してくれた初めての存在に、無礼な振る舞いを赦されたのだ。更に魔導士は続ける。
「その行いはいかにも理想の騎士だ」
驚いたようにホメロスは顔を上げた。
「盲目に仕える事のみが正義か? 愚昧な王に付き従えば兵は死ぬ。ひいては国も衰える。それを諌める事もまた臣下の役割ではないか、ホメロス」
王が、ウルノーガが。「我が王」がホメロスを見下ろし、その行いを称賛する。その表情は柔らかく、それでいて厳しく。いつかの、優劣もなにもなかった頃の、父とも仰いだ王の表情だ。
「おぬしは立派な騎士だ」
その言葉は毒であった。あまりにも甘い劇物だった。なぜなら、ホメロスの最も欲しかったものの形をしていた。
ずっと餓えていた。ずっと餓え続けていたような気がしていた。
ただの一度たりとて与えられなかったはずの肯定と称賛を一度に投げ与えられ、そうなれば、いかに猜疑の強いはずの男だとてひとたまりもない。
本当にそうであったのかは最早ホメロス自身にすらも分からない。
ただ確かなのは、この魔導士に対して猜疑の牙は鑢かけられ、無害なものとなってしまったということだけだ。
本当に、一度たりと、そのようなものが与えられなかったのだろうか。だがホメロスの頭脳は蒙昧ではない。
だから、記憶にないのならば、ただの一度もありえなかったということだ。
「どうか」
震える声でホメロスは言った。
「どうか私をお使いください、ウルノーガ様。我が王よ」
それは心からの懇願であった。幼い頃から仕え続けた王を想い、その身を案じた軍師の姿はどこにもない。騎士としての矜持も誇りも剥ぎ取られ、ただ根幹に抱えた闇を肥大させられ、剥き出しにした一人の男がそこにいた。
ウルノーガは手を翳す。心酔を隠しもしないひとりの人間に、その頭に触れるか触れないかの高さに。
やがて闇が生まれる。
跪いたホメロスの全身を取り巻き、覆い、無秩序にその体をまさぐっては染み入る。強制的に注がれる魔の力に、鮮烈な闇の力に、漏れた息は恍惚の色を帯びていた。
熱を逃がすように獣じみて口を開ける。感情が凪ぐ。どこかで燃えていた炎が悲鳴を上げ、どこへなりと消える。そんな感覚を得て、ホメロスは笑みを浮かべた。
そうして、薄っすらと開いた瞳は生来の金ではなく、魔性の赤に染まっている。
「苦しくはないか」
精神が闇に属したといえど未だ純然たる人の身だ。
心優しきホメロスの王は、そう言って一配下でしかない男の身を案じるような言葉を向ける。
だがホメロスは何一つ苦しいところなどなかった。体の奥深いどこかで、ヒトの禍々しいと形容する力が確かに息づいていることだけがはっきりと理解できて、吐息交じりにいいえ、と応えた。
「そうか。ならばよい。……今後もわしの忠臣として仕えることを許そう。頼りにしておるぞ、ホメロスよ」
「この後はどのように」
「これまで通り」
「よろしいのですか」
ホメロスの問いに、王はにやり、と笑う。
「人は望みを絶たれて魔に堕ちる。そうなれば我らの配下となるものだ。存分に育め。……その供物として、あの英雄を使おうではないか」
惨たらしく命を絶たれる様を観せてやろう。
祖国の為に並び立つ一翼は疾うに堕ちたことを知り、残った片翼が折られる様は人々の心に灯った希望を堕とすに相応しい。
王が愉し気に語るその様をホメロスは思い描く。思い描こうとして、惨めたらしく命乞いをするあの男の姿も、無様に膝をつく姿も描けないことに気が付いた。民衆を背に庇い、傷を負っても退かず、ひたすらに盾となるその姿ばかりが目に浮かぶ。そうしてやがて、自身が自身の墓標となったように立ち尽くしたまま命を落とすのだ。
おのれの頭の中ですら、その死に様は理想とどこまでも遠い。
「御心のままに」
「生かそうとは思わぬか」
頭を垂れたホメロスに、王が問いかける。
生かして此の方へ引き入れることができれば、多大な戦力であることは想像に難くなく、だが、決してそうはならないだろう。そう思ったのはあるいは嫉心の表れか。ホメロスは、首を振った。
「やつは光でありますゆえ」
易々こちらへは下りますまい。
「そうか」
ホメロスの応えに、愉快気に王は笑った。
どこか遠くで声がする。
青い草の匂いが間近にあって、ホメロスはおのれの行動を振り返ろうとした。
眠っているような暇はない。なぜなら――なぜなら、なんだっただろう。
記憶が曖昧であった。その上体が酷く重い。まだ若い頃、前線で友と並び剣を振るっていた頃。下手を打っておおこんぼうに投げ飛ばされた直後のような。しかしそれは、そんなに昔のことだっただろうか。
意識は薄闇をたゆたい、今にも沈んでいきそうだった。
ぼう、とどこかで火が灯る。それはいつか失ってしまったような、闇の中に消えてしまったような記憶がある。
そう思考して、ようやく、おのれの状況を把握した。記憶が遡る。頭の働きは未だ衰えていないらしい。だが、その記憶が本来のものかどうかまでは分からない。しかし、それでも。
勇者が現れてから起こったことまで記憶を違えてはいないだろう。
魔導士の手先として振る舞っていた姿を。勇者の育った村を焼き、友に魔女を差し向け。そして主と仰いだ魔導士によって闇のオーブを与えられ、今その力でもって勇者一行に挑み敗れたことも。
それら全て真実だ。
まさしく魔の者の所業であった。違わず弱き心ゆえ、魔の誘惑に負けたのだ。
おのれの不甲斐なさを転嫁して友を憎む身勝手を是とした思考に。それを肯定する言葉に。
身に覚えのある魔の力が近づいてくる。がしゃり、と重鎧の音が聞こえた。グレイグが来ているのだろうか。ウルノーガを引き連れて。意識が現実へとたち戻る。まだ体は動かない。
悪魔の手先は勇者ではなく、ホメロスであったと訴える、凛々しく成長した姫の言葉も真実だ。
そうだ、その通りだ。そしてその主は、ウルノーガは、王の姿を借りて今ここにいる。それをどうにかして伝えねばならない。だが、どうやって。
魔に堕ちた者の明かす真実を、誰が信じるというのか。
呻きが漏れる。長々と語れるほどの体力はない。
信じられぬといった様子で、しかし確信を持って、友が問いかけてくる。それに応えられるなら、きっとこんな事にはなっていなかっただろう。
歯を食いしばる。体を起こす。それだけのことが苦痛だった。腕が挫け、這いずるようにして足元へ寄る。ウルノーガからは冷ややかな視線が注がれ、その後ろで友が、険しい顔をしてこちらを見ている。
この魔導士は甘言をこそ吐くが、甘い相手ではない。それが分かっていて、ホメロスは手を伸ばす。
助けを乞う。魔に落ちた者が縋る先など知れている。
軍師の最期がこれかと、嘲うならば笑え。これが、魔物に下った愚かな男の末路だと。
そしてその瞬間は、いやにゆっくりとして見えた。
長剣が迷いなく切り上げられ、首を切り裂いていくのを間近で見た。見えていたが、動けなかった。
剣圧で体が持ち上がる。操り手が変わっても剛剣の腕は健在ということであれば、この王の体は。
はく、と口が動く。呼吸の行き場が無く、魔導士が何かを言っているのも聞こえない。そして騎士は、片翼となった騎士は果たして、驚愕一色を浮かべていた。ああ。ずいぶんと久しぶりに目があったような気すらする。ぐらりと体が傾ぐ、手を伸ばす。手を伸ばす。僅かでも疑念を、この王に対する疑問を。
どうか、私の代わりに。