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    しおり
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    しおり
    海ふくらむ 


     山ねむる
     山のふもとに海ねむる
     かなしき春の国を旅ゆく

     改札をぬけて待合へ出ると、そんな歌の書かれた額が目にはいった。彼が今しがた降りてきたローカル線の車両は、車窓に薄曇りの海をうつしたまま、のんびりと対向列車を待っている。
     暦の上ではたしかに春であるが、まだまだ気温はひくい時節だ。小さな待合のなかでは達磨ストーブが燃えている。時刻表、バスの時刻表、タクシー会社の名前のはいった日めくり、交通安全を呼びかけるポスター。ぐるりの壁はそれだけでいっぱいになる。額は、とくべつ目をひくようにか、入場口の引き戸の上に掛けられていた。
    「駅長さん、これって誰の歌?」
     やかんの載った達磨ストーブに手をかざしながら、杉元はふり返った。ややあって、事務室から男が顔を出し「あー」と間延びした声をあげる。
    「若山牧水」
     初老の男は「がいいだろ、筆が」と胸をはる。自筆であるらしい。
    「へえ……このへんにゆかりのある人なの」
    「いやまったく」
    「なるほど」
     杉元はふたたび額を見あげる。その字の美質は彼にはわからないが、この歌がえらばれたことには納得がいく。山と海とがゆったりとつながるこの土地の景色にそっくりだからだ。
    「でもさ、なんか、ここがかなしいところみたいじゃん。いいの?」
     彼の遠慮のない問いに、男はふっふっふ、としたり顔でわらった。
    「えんだえんだ。それがシジョウってやつだら」
    「ふむ」
     市場、試乗、至上。ただちに正しい意味を汲みとれず、ようやく「詩情」に行きつく。
    「そういうもんかね」
     詩ではなく歌ではないだろうか、彼はそう思ったが、素直に頷いた。あたたまった手を擦りあわせると、それじゃ、と背を向ける。
    「おめさん観光かね。そんなら切符いるかね」
     入場口の戸に手をかけた彼を男が引きとめる。はさみで穴をあけた切符をひらひらと振った。今どきめずらしい手切りの切符を手もとに残したがる人間もいるのだろう。しばらく考えて、杉元は首をふった。
    「いいよ。俺、観光じゃない。今日からここに住むんだ」
    「へえっ」
     男はさも驚いたというようにのけぞってみせる。バックパック一つを背負った姿は、たしかに身軽な若い旅びとに見えるだろう。けれども現時点での彼の持ちものは、さして大きくもないそのバックパックと、その中身とで全部だ。
     少し待っていろと言われて壁の掲示物を眺めていると、おもてに車が停まる気配がした。待ち合わせをしていた人物が到着したのかもしれない。彼が透明な仕切り板のついた受付を覗きこむと、切符の受け渡し口から「入用があったら相談してみろ」と商工会の電話番号を書きつけたメモを渡された。
     杉元の切符の発駅は東京である。都会からやってきた若者が、なにかしらの事業を始めるものと判断されたらしい。あいにくとその予定はなかったが、彼は礼を言って受けとった。特に秘匿するほどの事情などはなくとも、こういった場面の倣いであれこれと詮索されないのは単純にこのもしい。温暖でかわいたこの土地の気候に似ている、と彼は思う。
     待合を出て、杉元はふり返った。ギャンブレル型の屋根のついた駅舎は、往時はモダンな造りだったのだろう。色あせた水いろのペンキ。たえまなく海風に吹かれつづけて、コンクリートの外壁は風化しはじめている。駅名の看板だけがまあたらしく、まぶしく浮きあがる。三日月型に長く続く砂浜が観光地として注目された時代もあったが、それは半世紀も前のことだ。今ではぽつぽつと漁師が民宿を商うだけだと、杉元は役場の人間に聞いていた。

     駅前で杉元をむかえたのは、空き家バンクを介してやりとりをした役場の担当者だった。引っ越し当日、杉元が単身電車で乗りこむつもりであると知り、駅から新居までの送迎を申し出てくれた親切な青年だ。所属する部署はことなるものの、杉元にとっては春から同僚となる人物でもある。
     青年はカーブの続く山道を慣れた様子で運転しながら、空き家はとても状態がいいこと、購入してあった中古車はすでに敷地内に入庫していること、土地での生活に便利な制度のことなどをよどみない標準語で話した。彼の世代ではもう、土地の言葉を話す者は少ないのだろう。
     なだらかな広い裾野と、変化に富んだ植生をもつ山だ。沖を見はるかす海側の山腹を中心とした区域には、観光で栄えた時代に切り拓かれ、別荘地としてそれなりの風情を漂わせた「一等地」もある。しかし今では住宅地となり、数件の廃墟が時代の遺物然として残るばかりだという。青年の話には、そういったやや自嘲的な閑話も差し挟まれた。
     杉元の新居となる山中の空き家もまた、民家としては築八十年を数える大物である。車を降りた杉元は、清掃されて以前よりも小綺麗になった家屋の前に立った。木造平屋建てのこじんまりとしたたたずまいだ。見学におとずれたさいに割れていた玄関灯はそのままだが、幌を換えれば使えるだろう。
     家のまわりはぐるりと切り拓かれている。境界を訊ねると、庭として使ってよい、と気前のいい返事がかえった。西側にわずかに水平線が覗いている。冬枯れした草地のさなかに、忘れ去られたようにポツンと民家がたたずむさまはものさびしい。先の駅長の言葉を借りれば「詩情がある」とも言えるかもしれない。よほどの閑居をこのむ人間が住んだのか、隣家と呼べるものを麓からの道のりに見つけることはできなかった。不便なく住まわれていたので、頑丈ではあると思います、と青年は申し訳なさそうに付け加えた。

     ご不便があればいつでもどうぞ、と言い置いて青年は帰っていった。まだ日は高い。鍵を使って家のなかに踏みこむと、かすかな黴の匂いと、かわいた古材の甘い匂いがした。がらんとした居間の床板を踏む。清掃は行き届いており、埃が舞うことはないが、どことなく寒々しい。
     杉元は宅配業者に連絡をいれ、営業所止めにした荷物を届けてほしい旨を伝えた。本日中に届けられる、との返答を得る。中身はひとまずの家財道具である。今夜を暖房器具なしで過ごすつもりでいた彼にはありがたい。とりあえずは外気をいれることにして、杉元はバックパックを下ろした。
    「カーテン買わなきゃなあ」
     居間から続く縁側に立ち、ひとりごとを言いながらガラス戸を開ける。重い音がしたが、すんなりとひらいた。開けはなしておいて、上がっていた畳を下ろすと、とたんに部屋らしくなる。畳は古いものだが、今しばらくは使えそうだ。
     続いて台所、風呂場、便所などの水場を確認する。どこも手狭ではあるが、一人住まいの設えとしては充実している。都心であれば鼠のような暮らししか望めない家賃でこれだけの環境が手にはいることは、杉元にとっては驚異的だ。
    「ねずみとかも出んのかな」
     ねずみはいいけど虫はやだなあ。身をすくませながら居間に戻った杉元は、ふと足をとめた。畳の上に、なにか黒いものがうずくまっている。さっきまではなにもなかったはずの場所だ。杉元は思わずあとじさったが、よくよく見れば、それは香箱座りをした猫だった。
    「なんだ。ねこじゃん」
     杉元はほっと息をつく。猫はうすい黄緑いろの目をひらいて、彼の顔をジッと見つめた。
    「えっ、ここの子? んなわけねえか」
     数年前まで人が住んでいたとは聞いていたが、猫付きだとは聞いていない。近づいても逃げない猫の前にしゃがみこみ、杉元はそっと手を伸ばした。
    「よーしよしよし……首輪……ねえな、野良か?」
     顎の下を撫でる杉元の手に、猫は額をすりつけてくる。これほど人慣れしているということは、どこかから逃げてきた飼い猫なのかもしれない。
    「かわいいなー。お前、名前なんていうの。イッパイアッテナか?」
    「ニャー」
    「ニャーかあ。そりゃニャーだよなあ」
     わきの下に手をいれて持ちあげ、腹に鼻さきをうずめて息を吸いこむと、埃っぽい毛布のような匂いと、そしてかすかに潮の香りがした。
    「お前、浜のほうから来たの? すごいね」
     入り江を中心とした麓の集落からは直線ならば5キロに満たない距離だが、イエネコの移動距離としては破格だろう。腹に顔をつけたまま褒めると、猫は後ろ肢をあげて杉元の顔を押しやった。
    「んわ。ごめんごめん」
     うごうごともがいて杉元の手を逃れ、畳に着地する。白足袋をはいたハチワレの雄猫である。猫はせっせと背中をなめ、顔をあらって、ふたたび畳の上へ坐りこんだ。ここに落ちつくつもりだろうか。
    「なんかあげたいけど、今なんにもないんだよ」
     杉元はあぐらをかいて思案する。家財道具が配達されないことには、彼はこの場を動けない。猫はひとつ大あくびをして、うとうとと舟を漕ぎはじめた。
     それを眺めていた杉元もまた、つられるようにして瞼が下がってくる。目的地へ無事たどり着いた安心感からか、移動の疲れが出てきたようだ。不用心であると頭の片隅ではわかっているものの、急激な眠気に抗えない。どうにか立ちあがり、せめて縁側のガラス戸だけは閉めきった。おぼつかない足どりで畳へもどる。そうして猫の隣へ横になると、引きこまれるように寝入ってしまった。



    「……は、」
     畳に大の字になった状態で目がさめる。玄関のほうから、彼を呼ばう若い男の声が聞こえてくる。宅配業者だ。
    「は……はーい!」
     大声で返事をしながら飛びおきると、腹のあたりから何かがもろっと畳へ落ちた。ひとつかぶりを振り、グルンと文句を垂れる。猫だ。いつのまにか腹の上へ移動したらしい。暖房器具のない部屋で、マウンテンパーカを着こんだままの杉元はひとつきりの熱源である。あわてて玄関へとまろび出る杉元を尻目に、猫はふたたび丸くなった。

     家財道具といっても、ほとんどはこの家にもとあったものでこと足りてしまった。ストーブ、小型の冷蔵庫、洗濯機などの家電がひと揃い。スマートフォンの電波がじゅうぶんに届くことは確認済みなので、天気予報を見るためだけに使うテレビは買うのをやめた。ほかにかさばるものといえば布団くらいで、あとは調理器具などのこまごましたものと、仕事道具が一式。軽トラックにちょうどよくおさまるほどの量である。
     それでもひととおりの場所を決め、設置しおわると、すでに窓の外は暗くなりはじめていた。ずいぶん夢中になっていたようだ。ひと息ついたとたん、彼はひどく空腹であることに気がついた。みがいた水屋箪笥の上で、納戸で発見した古いラジオが鳴っている。昼間のうちなめらかに受信していた地域放送局の番組は、時おりノイズが入り混じるようになっていた。

    〈明日の――潮――――時7分、満――刻は――――す。――は大潮――ります。〉

     とぎれとぎれに潮汐情報を読みあげるラジオにしばらく耳をかたむけ、時報を確認してから切る。うなぞこにあるかのような静けさのなか、さざ波に似たノイズが耳の奥に残った。
    「おーい、ねこちゃん。麓まで下りるけど送ってやろうか?」
     居間に向かって声をかける。彼が作業をしているあいだ、猫は興味深くそれを見守り、時おり邪魔をしながらまとわりついていたが、今はストーブの前で伸びきっている。杉元は暑くなって脱ぎすてたマウンテンパーカを拾って、かたわらにしゃがみこんだ。ん? と寝顔を覗きこむ。猫はだんまりを決めこんで、うるさそうに尾をひと振りした。
    「ふむ。じゃあなんか買ってくっか。これ消しちゃうけど我慢しろよ」
     杉元はひょいと猫をまたいで、ストーブの消火スイッチを押す。こちらは看過できない問題であったらしく、不満げに頭が持ちあがる。居間をあとにする彼の背中を見るともなく見送る猫のひげに、パチパチと静電気がはじけた。

     さしあたっての生活必需品を買いこみ、それらを抱えて帰宅するころには、杉元はすっかり疲れはてていた。日はとっぷりと暮れている。街灯の少ない山道を漕ぎなれた彼とあっても、知らない道となればそうもいかない。時おり小さなけものに横切られるなどの困難もあり、ようやくたどり着いた我が家の窓から漏れる灯りに、彼はほとんど泣きだしそうになった。居間の照明を消し忘れていたのだった。明日は何をさしおいてもまず、玄関灯を修理せねばなるまい。
    「ただいまー……、あれっ」
     両腕に荷物を抱えてもたもたと玄関の扉を開けると、上がり框に猫がつくねんとして坐っていた。居間から伸びた灯りのなかで、三角の耳がぴんと動く。
    「やだあ。待っててくれたのお」
     思わず甘ったれた声を出して、杉元はしゃがみこんだ。足もとに大小こもごもの荷物がなだれたが、猫は動じない。家主の帰宅を確認すると、役目は果たしたとばかりにくるりと向きを変えて歩き去った。
    「うーん、クールだぜ」
     杉元は荷物を玄関わきへ押しやり、猫用の食事と人間用の食事とを探りだした。誰に見とがめられることもない、買ってきたものの整理は明日でもいいだろう。猫を追って、居間へとしけこんだ。
    「お前、成猫だよね? いろいろありすぎてわかんなくてさ」
     ホームセンターのペット用品売り場で選んできた魚の缶詰を開ける。それを目の前へ差しだされた猫は、慎重に鼻さきを近づけて匂いをかいでいたが、やがてふいとそっぽを向いた。
    「えっ。食わない? マジで?」
     杉元はうろたえる。日中何かを口にしている様子は見られなかったので、腹は減っているはずなのだが。家を空けているあいだに鼠でも捕まえたのだろうか。ありえない話ではないなと杉元は思う。ヘッドライトの先を横切った小動物のなかには、ノウサギやタヌキに加え、ノネズミもいた。
    「やっぱいんのかあ、ねずみ」
     一人納得して、彼は自分の食事に取りかかる。スーパーで値引きされていた弁当だ。家を出た時点では、もとからあったコンロの試用ついでに自炊をしようと考えていた。しかし、小暗い山道をおっかなびっくり下りきったとき、彼の気力はすっかり萎えていた。
     猫は食事に完全に興味をうしない、早々にストーブの前で丸くなる。
    「……あ。灯油買ってくんの忘れたな」
     彼はスマートフォンを取りだし、明日の天気を確認する。朝から快晴だ。きっと夜は冷えこむだろう。明日の予定をたてながら弁当をつつく彼の、初めての夜が更けていく。山のふもとに海ねむる街にて過ごす、記念すべき初めての夜だ。

     電気を消すと、あお白い月あかりがぼんやりと室内を照らした。
    「お前、帰んなくていいの? 心配されてない?」
     当然のように布団のなかに潜りこんできたハチワレ猫に、杉元は布団のなかの半ぶんのスペースを占拠されている。猫は器用に頭だけを布団の外に出して、すぐに寝息をたてはじめた。
    「いいんだけどさ。かわいいし……」
     寝室として使うことにした六畳間のガラス戸には、カーテンの代わりとしてひとまず段ボールを立てかけてある。すき間から月の光がこうこうと差しこんでくる。近く満月だろう。腕の重みをかけないよう、杉元は慎重に猫を抱く。やわらかい毛皮の感触に誘われるようにして、眠気はすぐにおとずれた。



     潮の香り。ふと鼻さきをくすぐったあわい香りで、杉元は目をさました。ぼんやりと薄目をあけて、そうだ、寝床が変わったのだ、と思いだす。外ではさかんに鳥が鳴きかわしているが、部屋のなかはまだ薄あおい。
    「……んん……?」
     なんとなく、布団のなかが狭い気がする。そうだ、猫。猫がいたんだった。腕を動かして布団のなかをさぐる。と、ぼんやりとした弾力のあるものが、腕の内側を押しあげた。
     なんだ。へんだ。夢寐の裡から抜けだせずにいる杉元を、ふいに強烈な違和感が襲った。腕のなかにいるものが、もぞもぞと身じろいだのである。杉元は、自分の腕が小さくやわらかなけものではなく、きわめて大きな得体のしれない物体を抱いていることに気がついた。
     一瞬にして目が冴え、全身の産毛がぞわっと逆だつ。彼は飛びすさると同時に、盛大に布団を跳ねあげた。
    「は……ああ!?」
     そこにあったのは「裸体」だった。胎児のように丸まってねむる、薄あおい光のなかで蝋のように白い、青いくらい白い、裸の……おとこ。
     腹の底がつめたくなり、背中にいやな汗が噴きだしてくる。彼はひと言も発することができず、ただ尻をついたままじりじりと後退した。
     どういう、ことだろう。これはなんだろう。俺、なんかしたっけ。なんかって何? 寝起きの杉元の頭のなかはクエスチョンマークで埋まる。彼には学生であった時分に一度きり、酔いどれて同じような状況におちいった前科がある。しかしそれ以降は記憶をなくすような飲みかたはしていないし、そもそも昨夜は酒など一滴も口にしていない。
    「……ん、」
     布団を剥がされたことに気づいてか、見知らぬ男が目をさました。ゆっくりと首をもたげて、ガラス戸に張りついた杉元を見る。
    「おい」
    「ヒッ」
    「寒い」
     眉間にしわを寄せて杉元をにらむ。それはそうだろう。三月初めの早朝である。いや、しかし、そうではない。問題はそこではない。
    「おま、だ、誰だよお前!」
     凄みのある声にやや怖気づいたものの、彼はあらん限りの気力と声とをふり絞って叫んだ。背中をぴったりと張りつけたままなので、迫力はうすい。
    「尾形だ」
    「……へっ?」
    「名前。昨日も言っただろ」
     男は布団の上に起きあがり、あくびを噛みころす。整った顎髭を撫で、髪をかきあげるようなしぐさをした。
    「昨日……?」
     杉元は混乱する。やはり、昨夜遅くになにかがあったのだろうか。裸の男と共寝をするような、翌朝記憶をなくしているような、なにかとは?
     必死で記憶をたどる杉元を眺めていた男が、おもむろに動いた。拳に握った両手を顔の横まで持ちあげて「ニャー」と言う。なにをふざけているのかと杉元は憤怒しかけたが、真正面から見つめてくる男のまなざしにふとよぎるものがあり、さっと顔いろを変えた。
     いくら思い返してみたところで、昨晩ここへ一緒に寝たのは猫である。猫と共寝をした布団に、翌朝寝ていたのはこの男で、男は昨日すでに名乗ったと言い、昨日杉元が名前を訊いたのは猫で、猫のかわりに寝ていた男が「ニャー」と言う。いや、そんな。まさか。杉元は頬を引きつらせて、男の鼻さきに指を突きつけた。
    「ば……化け猫……?」
    「まあ、そんなところだ」
     男は杉元の指さきについと顔を寄せる。条件反射であるかのように指さきのにおいをかぐと、満足げに目を閉じ、はね飛ばされた布団にくるまって寝ころんだ。
    「マジかよ、初めて見た……って、なるわけねえだろうが!」
     杉元の手が空を切る。
    「出てけよ不審者。通報すんぞ」
    「うるせえなあねみいんだよ、ほっとけ……」
     男の眉間に皺が寄る。あまりに堂々とした居直りぶりに、杉元は言葉を失う。
    「三日もすりゃ猫に戻っから……」
    「はあ? んなわけ、おい寝んなコラッ」
     頭の先まで布団にうずまってしまった男は、その後杉元が突いてもどやしつけても反応をみせず、こんこんと眠りつづけたのだった。

     謎の闖入者に起きぬけからすっかり消耗させられた杉元は、新居でむかえる初めての朝をほとんど上の空で過ごしていた。古いコンロが正常に機能したのは不幸中の幸いだろう。煙や火が出たとしても、彼はおそらく気がつかない。
     上の空でつくった朝食を上の空で食べ、上の空で外へ出て、昨夜ホームセンターで手にいれた材料で玄関灯の修理をしていたときだった。
    「おーい、なんか鳴ってんぞ」
     開けはなしていた玄関の奥から、男ののんきな声が呼ぶ。無心にそちらへと顔を向けた杉元の耳に、聞きなれた音がかすかに届いた。
    「……あ! 電話!」
     意識を引きもどされた杉元は大急ぎで脚立から降り、どたどたと廊下を走って寝室へ飛びこむ。と同時に、音はとぎれた。
    「あああ……」
     時刻は十時をまわっている。今日は月曜だ。四月からの新しい職場に連絡をいれる段取りになっていたことを、彼は失念していたのだった。
    「それ、なんだ」
     畳にくずおれた杉元の手にあるスマートフォンを、男がまじまじと見つめている。
    「何って……なに? スマホじゃん」
     うろんな目を向ける杉元に、男は首をかたむけて「ふうん」と発したきり黙りこんだ。
    「……お前、いつ出てくわけ」
     布団にあぐらをかく裸の男を、杉元はじっとりとにらみあげる。
    「三日もすりゃ猫に戻ると言ったはずだが」
    「誰が信じるんだよそんなの」
    「そう言われてもな。そうとしか言えん」
     男は泰然としている。思いえがいていた平和な田舎暮らし、その初日に早くも暗雲が立ちこめはじめ、杉元は頭をかかえた。
    「くっそお……昼飯食ったら出てけよ」
    「なんだ、優しいな」
    「違えよ、怖えの! すげー怖えの、刺激したくないの」
    「飯はいらん。食ったことない」
     男はものうげに目をこすったあと、髪をかきあげるような例のしぐさをした。
    「はっ?」
     聞き捨てならないことを言われた杉元の声が裏がえる。
    「ものを食ったことがない。たぶん食えないと思う」
    「いや意味わかんない。怖い怖い、やめて」
     杉元は男から可能なかぎり距離を取り、電話したらつくるからな! と宣言して、その場に正座をした。深呼吸をして落ちつきを取りもどしたのち、スマートフォンの着信履歴からリダイヤルする。
    「――あ、どうも恐れいりますー。すみません、地域環境課の――」
     うって変わってほがらかな好青年を演じはじめる杉元の背後で、裸の男――尾形は「なるほど、電話かそれ」とつぶやいた。

     ひと月後から上司となる人物との電話を終えて、杉元は台所に立っている。その背後から男がのっそりと近づいて、手もとを覗きこんだ。
    「おい、……えっ、何。その服どっから出てきたの」
     ふり返った杉元の手が止まる。素っ裸で台所にはいるなと叱ってやろうとしたのだが、男は白いワイシャツに黒のスラックスという、ごくまっとうないでたちで佇んでいた。杉元の持ちものに似ているが、どちらもあきらかにかたちが違う。
    「さあ。どこだろうな」
     尾形は唇の端を持ちあげて、からかうように首をかたむける。
    「腹たつな……」
    「はっは。天井裏だ。持ってかれないようにいつも隠してある」
     不愉快もあらわな杉元の顔に尾形は声をあげて笑い、意外にもあっさりと種あかしをした。拍子抜けした杉元は「そうかよ」と受け流しかけたが、小さな引っかかりをおぼえて眉間に皺を寄せる。
    「いつも?」
    「いつも。俺にとっちゃ、お前のほうが侵入者なんだがな」
     尾形は流し台にもたれて、杉元をはすに見あげた。シャツは厚みのある体格にはやや小さいらしく、ボタンをあけた襟もとから鎖骨がのぞく。
    「どういうことお……?」
     杉元は包丁をにぎったまま、困惑満面に眉を下げる。
     ぼんやりと顎髭を撫ぜながら、男がぽつりぽつりと語ったところによれば、話の大筋はこうだ。尾形はふだんはハチワレ猫の姿をしているが、おおむね月に二度の周期で、三、四日ほどのあいだのみ人間の男の姿となる。それがなぜかは自身にもわからない。コントロール(尾形は、狙いすまして、と表現した)できるものでもないので、自身はなはだ迷惑している。その間、裸でどこへでも寝るわけにもいかないので、襤褸をかき集めて人の来ない物置のようなところで寝ていたが、数年前からはこの空き家を利用するようになった。現在着ている服は、ここが空き家になった時分、室内に残されていた古着を拝借したものである、とのことだ。
    「ええ……じゃあお前、今までどうやってはいってたの。鍵かかってんのに」
     話のあいだも作業を続けていた杉元の手もとに、二人ぶんのかんたんな昼食ができあがる。
    「勝手口のドア、揺らすと開くぞ」
    「マジかよ。修理しなきゃ」
    「するな。はいれなくなる」
    「いやはいんなよ、人んちだぞ」
     軽口をたたきながら彼は居間へと食器をはこび、食卓をととのえると、たん、と手をあわせた。点けっぱなしのラジオから時報が流れる。十一時だ。昼食には少し早い時間だが、外出の予定のできた彼にはちょうどよい。
    「おら食え。さっさと食え。そして出ていけ」
     流し台にもたれたまま動かない尾形に向かって、杉元は睨みをきかせる。猫ならばともかく、人間のかたちをしたものに留守を任せるのは不安だ。ふつうならば逆なのだが、それが顔をあわせて数時間の、しかも限りなく素行に問題のある人間となれば話は別である。
    「食えねえっつってんのによ……」
     尾形はしばらく唇をとがらせていたが、しぶしぶといった様子で食卓についた。
    「箸ねえから、お前はフォークな」
     献立は、昨夜仕入れてきた筑前煮と握り飯、パックの納豆、これだけは杉元がつくった玉子焼きに、インスタントの味噌汁。玉子焼きはいびつなかたちをしているが、ひとまず焦げてはいない。それらを前にして、尾形はぼんやりと考えこんでいる。再度せっつかれてようやく味噌汁のはいった椀を取り、そろりと口をつけた。
    「どうよ」
    「……わからん。味がしねえ」
    「はあー? 馬鹿舌かよ。風邪引いてんじゃねえの」
     裸でなんか寝るからだ、と杉元はいいがかりをつける。衝撃はよほどのものだったのだろう。
     尾形はしばらくのあいだ膳を眺めまわしていたが、結局は味噌汁をひと舐めしたきりで寝室へともどっていった。手をつけられなかった献立を片づけるのは晩の杉元の役目である。杉元は憤懣やるかたなくそれらを冷蔵庫へしまいこむと、あわただしく出かける準備に取りかかった。

    「ちょっと街まで出てくるけど、変な真似すんじゃねえぞ」
     見送りをするつもりなのか、玄関口で靴を履いている杉元の背後に尾形が立った。寝室からは出てきたが、この家から出ていくつもりはないようだ。玄関に尾形の靴の用意はない。そればかりか、この時節に靴下も履かず裸足でいる。
     杉元は立ちあがると、服を着ていればそれなりに見える男の立ち姿をしげしげと見つめた。今日の杉元は同じような黒のスーツを身につけているが、かたちはよほど現代的なものだ。尾形のそれは、どちらかといえば喪服を思わせる。というよりも、おそらくは喪服として使われていたものだろう。
     ポケットに手を突っこんで立っていた尾形が、首をかたむけて杉元を見る。いってきますを言う仲ではない。そもそも、仲と言えるものがこの男とのあいだにない。杉元は気まずい雰囲気を断ちきるようにして踵を返すと、勢いよく磨りガラスのはいった引き戸をあけた。
    「……なあ。ほんとに三日も俺んちにいんの……?」
     戸口で顔だけをふり向かせた杉元が、うらめしそうに上がり框の尾形を見あげる。昨夜そこで彼を迎えたのが猫であったことを鑑みれば、その消沈ぶりもいたしかたない。尾形はため息をつき、「しょうがねえだろ」と額をおさえた。
    「俺だって好きでお前といるんじゃねえ。取って食やしねえよ心配すんな」
     そう言って不遜に顎を上げる。
    「くそー、よくわかんねえけど悔しい」
     あらためて家のなかに向きなおると、杉元は靴音も高く尾形に詰め寄った。
    「いいか、ぜったいなんにもさわんなよ。なんかしてたら即通報だかんな、わかったか! いってきます!」
    「おう行ってこい、帰ってこなくてもいいぞ」
    「言ってろバーカ!」
     半ばやけになって、杉元はけたたましく扉を閉めた。就業の日に先だって、これから新しい職場に挨拶に向かう。想像とはまるきり違う、賑やかな門出だった。



    「チッ、まだいるよ」
    「舌うちすんなよ。傷つくだろ」
     宵になって帰宅した杉元を出迎えたのは、修理したばかりの玄関灯の灯りと、白黒の陰気な男である。
    「ていうかお前、待ってなくていいから。なんでそこだけねこちゃんなんだよ」
     上がり框に腰かけて革靴の紐をほどく。慣れない靴をようやく脱いだ解放感から、杉元はその場に大の字に寝ころんだ。
    「酒の匂いがする」
    「ああ? ……あー、周りが飲んでたからだろ」
     上司となる人物に誘われて断りきれず、数人がかりで居酒屋に連れこまれたものの、車のある彼はひたすら素面で聞き役に徹するほかなかった。匂いだけで酔っぱらった気分だぜ、と杉元はかぶりを振る。酒豪揃いが自慢であるらしい土地の人間は、匂いたつような強い地酒をこのむ。
    「うーん、駄目だ。ねみい。寝る」
     杉元はよろよろと起きあがると、上着を脱ぎながらまっすぐに寝室へと向かった。

     寝入りばな、奇妙な夢をみていた杉元は衣ずれの音を聞いて目をさました。夢うつつのなか、ぼんやりと浮かびあがる輪郭に焦点があわない。
    「オイ……」
    「ん……」
    「人間でもはいってくんのかよ」
     冷えた空気とともに布団のなかへ侵入してきたのは、例によって尾形である。杉元はとっさに身を引いたが、今夜は裸ではないようだ。目が慣れてくると、うすい浴衣らしきものを着ているのがわかった。こちらも拝借したものなのだろう。
    「……寒いから……」
     裸足で板敷きを歩きまわっていた奴が何を言うか。そう思ったものの、なぜか言いかえす気にはなれずに、杉元は黙った。
    「ジュモクイ? って、なんだ」
     枕の下に狭くるしくおさまった尾形が、藪から棒に訊ねた。昼間の電話でのやりとりを聞きとったのだろう。
    「読んで字のごとくだよ。木のお医者さん」
    「……ああ。樹木、医、か」
     尾形は得心したように頷く。
    「医者って面じゃねえなア」
     しかし、すぐに疑いのまなこを向けてくる。
    「うるせえな、わかってるっつの。もともとは伐り倒すほうの仕事してたんだ」
    「へえ。その傷もそれでこさえたのか」
     月あかりのなか、尾形が自分の顔の上を指ですっとなぞる。杉元の、よくよく見れば端整な顔だちは、稲妻がはしったような傷痕の印象が先だってしまうためあまり気づかれない。
    「そんなとこ。怪我して入院してるとき、そういう資格があんの思いだして、向いてるかもなと思って。……昔から、森のなかにいると落ちつくんだ。なんでかはわかんないんだけど。……なんでお前にこんな話してんのかもわかんないけど」
     化け猫うんぬんを差しおいても、尾形は奇妙な男だ。にわかには受けいれがたい状況にもかかわらず、杉元が尾形を叩きだせないでいるのは、知らないはずのこの男にどこか人なつかしいものを感じとったせいでもある。
     考えこむ杉元をよそに、尾形はあくびをしながら寝がえりをうった。あお白いうなじを眺めるうち、杉元もふたたび眠くなる。外で猫が喧嘩をしている。春であるなあ、と杉元は思う。
    「なあ、化け猫にも発情期とかあんの?」
     なにげなく口をついて出た問いに、杉元は自分で赤くなった。
    「あってほしいのか?」
     しばらくしてふり返った尾形が怪訝な顔で訊いてくる。
    「そ、そういうわけじゃないけど……」
    「何赤くなってんだ。気色わりいな」
    「うっせっ」
     暗がりでもわかるほどに赤いのだろうか。杉元は勢いよく寝がえりをうち、頭から布団をかぶった。

     転居したての三日間は、想像以上にあわただしく過ぎた。四日目の朝、目ざめた杉元の横に尾形はおらず、かわりに彼は布団のなかで浴衣と猫が丸まっているのを発見することになる。
     かくして「三日もすりゃ猫に戻る」という尾形のばかげた言い分と、それ以上に信じがたいその現象の存在を、彼は認めざるを得なくなったのだった。



    「だから、食わねえっての」
     二人ぶんの食事が用意された卓を前に、尾形がうんざりと肩を落とした。
    「なんでそんな食わそうとすんだ」
     夜の食卓には、杉元が職場の人間に毎日のように持たされる野菜をとりどりに煮こんだカレーが載っている。
    「だって……逆になんで食わないのお……?」
     このやりとりも、すでに板に付いて久しい。彼らが出会った春から季節は流れ、うみべの街は夏の盛りだ。
    「好きなもんなら食うの? お前の好きなもんってなんなのよ」
     杉元といるあいだ、頑として何をも口にしない尾形に彼は業を煮やしている。野菜も煮る。肉も煮る。けれど、尾形が杉元の供するものを口にしたのは、出会った日に捨て鉢に用意されたインスタントの味噌汁、そのひと舐めが最初で最後である。
    「…………」
     杉元の問いに、尾形はなんともいえない顔をして黙りこんだ。
    「何、どした」
    「んや……今なんか、思いだしかけた気がする」
     尾形は額に手をやり、しきりと首をひねる。
    「ふうん? あ、そういやさ」
     一人で食べはじめた杉元は、ひと口めをあわただしく麦茶で流しこんだ。
    「お前が人間になんのってさ、大潮のときなんじゃねえ?」
     スプーンを握ったまま身を乗りだしてくる杉元の顔を、尾形はぼんやりと見つめかえす。
    「大潮……」
    「そうそう。被ってる気すんだよな。まあ新月と満月ってことなんだけど、またいで三、四日ってなると、大潮のがしっくりくるだろ」
     杉元は持論を披露する。この土地にきてからというもの、日に何度も目にするようになった潮汐情報は、彼の生活に溶けこみはじめていた。
    「当たり?」
     まだどこか上の空の尾形は、ゆっくりと首をふった。
    「知らん。考えたことなかった」
    「えー、なんだよ」
     秘密にしてんだと思ってたのに、と杉元は唇をとがらせる。春からこっち、この猫男にかんすることにかぎって、彼の知識はいっこうに充実しない。
    「俺にだってわからんことだらけだ。化けて出られるようになってから、まだ十年もたってない」
    「そうなの?」
     突如として舞いこんできた新情報に、杉元は目を見ひらく。
    「たぶんな。時間の感覚もあいまいだし、ネコになったりヒトになったりでそれどころじゃねえよ」
     尾形は早々に話を切りあげて、畳に肘をついて寝ころんだ。春から変わらず、陰気な喪服姿である。
    「……お前ってさ。ねこが化けてんの? 人間が化けてんの?」
     うとうととまどろみはじめる尾形に、杉元がおそるおそるといった調子でたずねる。
    「さあ。どっちだと思う?」
     尾形は薄目をあけてニヤーとわらう。知らないのか、はぐらかすつもりなのかはわからない。
     そのとき、ドンと家を揺るがすような轟音がして、杉元は盛大にびくついた。
    「ぎゃっ何……あ、花火か!」
     盆も近づく七月の終わり。うみべの街では毎年、大潮にあわせて夏祭が催される。規模は大きくはないが、祭のおわりがけに饗される打ち上げ花火を見に、市内からも大勢の人間がおとずれる一大行事だ。
     杉元は職場の広報で知っていたが、夏枯れのすすむ季節の雑務に追われて失念していた。とたんに思いだし、花火だ花火だ、と浮き足だつ。
    「庭でたら見えるかも!」
    「…………」
     食べかけの皿もそのままに、縁側から庭へと飛びだしていく彼の後ろ姿を、尾形はもの言いたげに見つめた。

     打上数は多くはないものの、海岸沖に泊めた船から打ちあげられるらしい花火はじゅうぶんに迫力がある。西側の庭に出ると、木々を越えてはるか上まで打ちあがった花火が視界いっぱいにひろがった。
    「すげー……」
     間近に見る花火の大きさに、杉元は先ほどから口をひらいたままだ。
    「きれーだなあ」
    「そうだな」
     ひとりごとのような杉元の言葉に、遅れて出てきた尾形が相槌をうつ。足もとのサンダルは杉元が買いあたえたものである。
    「あ、なあまだ夜店――」
     出てっかな。そう続くはずだった言葉は、彼の口のなかにとどまった。
    「……あれ?」
     ふり向いた先には誰もいない。つい今しがたまで、肩ごしに尾形の気配を感じていたのだが。
    「尾形?」
     立ちつくす杉元の後ろで、赤い尺玉が次々とひらいた。



    「おい、車出せ」
     煙のごとく立ち消えた翌日、尾形はなにごともなかったかのような顔をして現れた。
    「何よいきなり。ていうかお前、昨日いつ帰ったの」
    「いいもん見せてやる」
     杉元の問いには答えずに、尾形は背中を向けた。前庭へ突っこんである車へと近づき、ひょいと助手席へ乗りこむ。鍵はいつでも開けはなしてある。大都市に住んでいる時分に身についた杉元の用心深さは、ここへきてすっかりゆるみきっていた。
     仕事柄、大物を運ぶこともある杉元の愛車は軽トラックだ。これまでにも何度か、彼は用向きに尾形をともなったことがある。ただし、猫の姿の尾形をだ。なぜか助手席よりも荷台に乗りたがるので、しかたなく好きにさせるのだが、目的地に到着したときにはきまって姿を消していた。道中のどこかで降りるのだろうが、危ないからやめろといくら言いきかせても当人はそしらぬ顔である。おおよそ、ていのいい移動手段として使われているのだろう。
     人間の尾形をはこぶのは初めてのことだ。シートベルトを着けさせるのに難儀したが、どうにかなだめすかした。今はおとなしくシートにおさまっている。案内されるまま進むうちに舗装された道は途絶え、がたがたと尻を跳ねさせながら、山道を奥まっていった。
    「ここらで止めてくれ」
    「ん、」
     梢のなか、ややひらけた場所で車は停まる。慎重に進んだので時間はかかったが、公道であれば十分ほどの距離である。車外へ出て伸びをする杉元の頭上に、蝉しぐれがいっさんに降りそそいだ。
    「こっからは歩きだ」
    「ええ……こんなとこ行くのお? 俺サンダルなんだけど」
     先へ立ってふり返る尾形の向こうに、ひどく草生してはいるが、たよりなく石を積んだ階段が続いているのがわかる。尾形が無言で自分の足もとを指さす。こちらもサンダル履きだ。杉元はしかたなく、先を行く尾形の背を追った。石段は奥まるにつれゆるく婉曲していくらしく、先までは見通せない。
    「なんなんだよ、いいもんって」
    「行きゃわかる」
    「もー」
     集まってくる藪蚊を払いながら石段を上りつめると、蓬々たる夏草のあいだに、古ぼけた小屋がぽつんと建っていた。ここが目的地なのだろうか。簡素な板造りの、小屋と称するにふさわしい家屋である。あたりは葉のつやつやとした常緑広葉樹の多い林相で、ひんやりとして居心地がいい。
    「ちょっ、待って、いいの? はいっていいのこれ?」
     建てつけの悪くなった戸をこじあけて屋内へはいっていく尾形に、杉元は一人うろたえた。
    「いい。誰もいない」
    「だから、お前ね、誰もいないってのは勝手にはいっていいってことじゃ……」
     あとを追って小屋のなかへ踏みこんだ杉元は、ぽかんとして室内を見わたした。
    「何ここ? 史料館?」
     北側に一つきりある窓からのぼんやりとした光に、こまかな埃がちらちらとひかる。室内は外側から見た印象よりも広い。壁の三面に棚が作りつけられており、なかにはあらゆるものが詰めこまれている。
    「なんか、いやにまとまりがねえな……」
     服飾品のようなすぐにそれとわかるものから、錆びついた金属のかたまりのようなよくわからないもの、そういったものが説明書きもなく、連綿とただ置いてある。なにかおおきな動物の頭蓋骨が、ひっそりと杉元を見つめかえした。
     几帳面におさまってはいるが、まるで統一性がない。その上、こわれた農具のようなかさの張るものはごたごたと床に置いてある。それでもどことなく「史料館」といえるような風情がただようのは、それらがみな一様に古いものであるとわかるからだ。
    「あ、もしかして前までお前が寝てたとこ?」
    「……そうだ」
     うえー、こんなとこでよく寝てたな、と杉元は顔をしかめた。歩くたびに、足もとから埃がたちのぼる。ポケットに手を突っこんだ尾形が、部屋の中央でたたずんでいる。そばへ立つと、すっと腕を上げてなにかを指さした。指さきは窓のある北側の壁をさしている。棚のない一面だ。
    「あれが俺」
     逆光になって見えにくいが、そこには一つきり、なにかが展示されている。
    「……えっ」
     銃だった。釘かなにかを打ちつけて固定してあるのか、銃身は壁に沿って長々と伸びている。
    「なにあれ。猟銃?」
    「いや……、違うと思う」
     床にあるものをどかせばそばまで寄れるのだが、どことなく近づきがたい気配がただよってくる。室内はいつからか、奇妙に静まりかえっている。蝉たちはどうしたのだろう。杉元は知らず息をのみ、隣に立つ男の横顔を窺い見た。
    「じゃあ何に使うんだよ」
    「戦争」
     ――戦争。その言葉がなぜか、にわかに杉元の胸を騒がせた。
    「なに……どういうこと?」
     尾形は答えない。ただ、まばたきもせず、壁に磔にされたものを見ている。
    「お前、ねこちゃんじゃなくて兵隊さんだったの」
    「……さあ」
     ふと肩の力をぬいて、尾形はうつむいた。
    「それか、つ……つくもがみ? みたいな?」
    「さあな。俺にもよくわからん。わからんが、俺はここから離れられない」
     尾形は肩をすくめ、あっさりと踵をかえした。小屋を出ていこうとする背中を杉元はあわてて追いかける。その耳に、いつのまにか蝉しぐれがもどっていた。
    「どっか行こうとしても、ある程度離れるとここに戻される。西はお前んちのあるあたりが境いめだ」
    「へえ……あっ。だから急にいなくなったのか」
     昨夜、花火を見ていたのは家の西側の草地である。尾形は杉元の背後で「境いめ」となる一線を踏み、一瞬にしてここへ「戻された」のだろう。驚きもなく受けとめてしまう自身の順応ぶりに、杉元は苦笑した。
    「あれ? じゃあお前、浜のほうまでは下りらんない?」
     このあたりからでは、どの方角からも浜には遠い。それでは、尾形のまとうあわい潮の香りは、いったいどんな理由によるものなのか。先に立って石段を降りていた杉元は、返事がないことを妙に思ってふり返った。
     汗のういた額に木漏れ日がちらちらとまたたく。蝉しぐれのなか、彼は立ちつくした。すぐ後ろにいたはずの尾形が、またしても消えている。
     混乱する杉元の足もとに、ふいに何かがぶつかった。彼は驚いて飛びあがる。おそるおそる視線をおろすと、猫だった。やや後ろに、尾形の着ていた服が折り重なってしおれている。尾形であるところの猫は、杉元を見あげてひと声鳴いた。大潮が過ぎたのだった。



    「ビンゴじゃん」
    「らしいな」
     八月初めの週末。暮れがたになって、尾形は猫の姿で現れた。翌朝、杉元と人間の姿になった尾形とは、布団のなかで寝ぼけまなこのまま頷きあう。やはり、大潮の周期で間違いなさそうだ。
     例によって裸の尾形は、のっそりと布団をぬけだしていく。朝がた、裸のまま猫のていで胸もとへすり寄られることにだけは、さすがの杉元も慣れない。

    「なあなあ、ツクモガミってさ、物を百年使うと霊が宿っちゃうから九十九年で捨てたり売ったりしたのが起源らしいぜ。九十九って書いてツクモ」
     駅前に、市内の図書館の分館がある。そこではめぼしい資料が見つからなかったため、わざわざ申請して取り寄せてもらった数冊の本を前に、杉元はうなった。インターネットで情報を拾えない尾形のためでもあったのだが、当の尾形はほとんど興味をしめさない。
    「……へーえ。百年ねえ」
    「百年ももつもんかね。鍋とか楽器とか描いてあるけど……」
     室町時代に描かれたという、手や脚や顔のついた古道具たちの絵を杉元は指でなぞる。
    「俺は百だ」
    「んあ?」
    「百之助。尾形百之助」
     座布団にうつぶせていた尾形が、顔だけをこちらへ向けてニヤリとわらう。
    「お前、下の名前あったの?」
    「今思いだした」
    「ええ?」
    「というか、お前が来るまで苗字も知らなかったな。お前のアホ面を見たら急に思いだしたんだ」
    「アホって言うなよ腹たつな」
     目尻を吊りあげる杉元に「そこかよ」と呆れたのち、尾形は半身を乗りだして本を手にとった。寝そべったまま気のない様子でぱらぱらとめくり、すぐに放りだす。
    「なんでもいいけどよ、違うと思うぜ」
    「えー……? じゃあいったいなんだっつうのよ」
    「なんだって構わんね」
     ごろりと背中を向け、午睡をむさぼりはじめる尾形を眺めて、杉元はため息とともに本を閉じた。釈然としないが、尾形本人にその気がないのならばしょうがない。今の生活が気にいっているのだとしたら、無理に思いだしたいものでもないだろう。そう思いなおした彼は、食事のあと片づけに取りかかった。買い足した箸はいまだ使われず、まあたらしいままだ。

     夏になってもはいってくるのかよ、と思わないでもなかったが、なぜだか尾形がそばにいても暑いと感じることはなかった。むしろ不思議とひんやりしていて、熱帯夜にはありがたいくらいだ。
     尾形は汗もかかない。風呂にはいるのを見たためしがないが、なぜか汚れるということもない。髭も、髪も伸びない。あきらかに生体としての機能をもたないものと同衾しているという事実は、たびたび杉元の肝を冷やしたが、今ではほとんど意識にものぼらなくなってしまった。慣れというものは恐ろしいな、と杉元は思う。
    「杉元よ」
    「んー」
     まどろみのなかで名前を呼ばれ、彼はぼんやりと返事をした。
    「盆だろ。郷に帰らんでいいのか」
    「……んー」
     彼の職場にはそもそも盆休みというものがないため、世の人の動きからは切り離されている。しかし彼の場合は、たとえ年末年始であろうともそういった話題とは限りなく無縁だ。
    「家、もうないしなあ……きっと知らない人の家が建ってる」
    「……ふうん」
     多くを語ろうとはしない杉元に、尾形もまた多くを訊かず、新月の暗い夜を過ごした。大潮はまだ数日続く。明日の朝目をさましても尾形が人間のままでいることが、今夜の杉元にはやさしい。網戸ごしに風が吹きこみ、マツヨイグサの花の香りが甘く匂った。





     尾形の様子がおかしい、と杉元が気づいたのは、真夏の暑さもようやくやわらいだころだった。
     盆を過ぎたあたりから妙にぼんやりしていることが多くなり、朝、布団から離れることを億劫がるようになった。猫のようにいつも寝ている。猫のときも、人間のときも寝ている。そしてなにより、人間の姿でいる時間が極端に短くなったのだ。
    「なんだよ、鉄砲も夏バテすんのか?」
     新月、あるいは満月のあいだの一日に満たない時間に限られるようになった変態は、およそ布団の上で終始する。それも日すがら寝込んでいるので、かたちだけはかろうじて人の姿をたもっているというような風情だ。あお白い額を団扇であおいでやると、重たげに瞼をあげ、数度まばたきをしただけでまた寝入ってしまった。
     水であったりくだものの汁であったり、ときには酒であったり、液状のものであれば気まぐれに舐めてみたりするようにもなっていたので、杉元はそれらのものをときどき唇にさしてやる。ことごとく反応はうすい。職場でもらった西瓜糖を指にとって与えてみたが、飲みこまないのでただ唇が赤くなっただけだった。

     台風の季節である。杉元も尾形にばかり構ってはいられない。
     沿岸部の環境林や公園などの潮害に加え、風で折れたり倒れたりした樹木の報告はあとをたたず、杉元は文字どおり走りまわっていた。自宅に帰ることもままならないような日々が続き、帰れば泥のようにねむって、また朝早くに出ていく。
     そのころから、帰っても尾形の姿が見えないことがたびたびあった。たいていは猫の姿をして居間や寝室で寝ているので、そちこちでその姿を見ることになるのだが、杉元が家にいない以上は確認する手だてはない。そういったときは史料館にもどっているのかもしれないし、すれちがいに出ていったのかもしれない。
     しかし、どう見ても立ち歩けるような状態ではなかったことが気にかかる。眠りに落ちるまでの数分間のあいだ、杉元は一人の寝床で、騒乱の日々が過ぎることをただただ願った。



     長びいた台風シーズンをようやく脱し、おだやかな秋の晴天が続いていた。ある日の夕方、森林のパトロールにあたっていた杉元は、記憶をたよりに一人で史料館へと赴いた。ラジオの潮汐情報によれば大潮の二日目だが、尾形はまだ現れていない。
    「尾形ー。尾形やあい」
     ひそめた声で名を呼びつつ、がたつく扉をこじあける。
    「尾形あー……あれ?」
     室内の色あいは夏から変わらず、時代からとり残されたように白茶けている。整然と造りつけられた棚の多さも変わらない。しかし、ある不一致によって、様相は一変していた。
    「少なくなってる……?」
     杉元は部屋の中央に立ちつくし、ぐるりを見わたしてみる。棚の内外の展示品が、目に見えて減っているのだ。杉元を見つめかえした頭蓋骨もない。床に置かれていた農機具もない。尾形の銃も、ない。近づいて見ると、壁に釘のあとだけが残っている。
     妙な胸騒ぎをおぼえて、杉元は足早に小屋を出た。早くも暮れはじめた帰りみち、草むらのあちこちで、ほのあおいヨメナの花がひかっていた。

     行方をくらましていた尾形は、次の大潮の期間が迫るころになってふらりと現れた。縁側から畳にあげられて、すぐに丸くなってしまう。
     満月の夜を、杉元は猫の姿のままの尾形と過ごした。やわらかい毛並みはそのままに、冷えてこわばった小さな身体を胸に抱く。尾形、と呼ぶとほんの少し瞼をあげ、尻尾の先をふるわせた。聞こえているぞ、ということだろうか。
     それからの数日間を、尾形はやはりいなくなったり、また現れたりをくり返しながらこんこんと眠り続けた。どこかへ出かけているのではなく、猫の姿をたもつことも難しくなってきたのかもしれないと考え、杉元は外出の予定をできるだけつくらずにおいた。ただの夏バテだと軽んじて、仕事に没頭していたことが今になって悔やまれる。いつのまにか、白黒の猫と白黒の男の存在は、彼のなかに深く根をはっていた。





     師走にはいり、うみべの街は急激に冷えこんできた。温暖なこの土地も、冬は大雪の降る厳寒地になる。暗い雲が低くたちこめ、雷鳴とともにみぞれ混じりの雨が降る日も増えてきた。
     冬の嵐が吹き荒れる夜、彼はランタンの灯りをたよりに家じゅうの雨戸をたてている。沖の方角からたえず聞こえるものが、雷鳴ではなく海鳴りだと気づいたのは宵の口だった。夜半から広く停電している。稲光りと雷鳴。秋口の台風とちがって、雷をともなう嵐はこの季節の風物詩ともいえる。
     残るは寝室の雨戸だけだ。彼が寝室にはいると、あおい稲光りが音もなく室内を照らした。そのとき、カーテンのひらいたガラス戸を背にして立つ何者かの影が、正面にくっきりと浮かびあがった。
    「ひえっ、だ、誰だコラア!」
     雷鳴とともに、彼は喉を無理やりにひらいて叫び、手にしていたランタンを突きだした。白いライトに、白いマントのようなものがぼんやりと浮かびあがる。フードのなかに奥まっている白い貌。その、特徴的な目のかたち。
    「なんだよ、尾形じゃん……」
     彼は脱力して頭垂れた。
    「……えっ。尾形? あれ? なんで?」
     しかし、その出現の不自然さに気づいて顔をあげる。タイミングがあわない。次の大潮はまだ先だ。
    「なにそのかっこ……あっ、てめえ土足」
     上から下へとランタンをうごかした彼は、その足もとが濡れた革靴を履いていることを見とがめた。足もとだけではない。灰白色のマント、濃紺のズボン、そして肩に背負った銃。男の身にまとうすべてからしきりと水が滴っては、畳に吸いこまれてゆく。雨に降られたというよりは、まるで海を泳いできたかのような――
    「冬だ」
    「へっ」
     尾形と思われる男は、唐突に口をひらいた。
    「俺は一年じゅう冬の国で死んだ」
     稲光り。雷鳴。かなり近い。 
    「……思いだした。思いだしたぞお、杉元佐一」
     尾形は低くざらついた声で彼の名を呼ぶ。海鳴りのようだと彼は思う。尾形はゆったりと窓辺から離れ、彼の顔の傷を指ししめした。
    「不死身の杉元」
     ランタンの灯りのなかで、口もとがエタリとわらった。腕を持ちあげたことでマントが引きつれ、フードが落ちる。
     杉元は目を見ひらいた。灯りに照らされた顔はたしかに尾形のものだが、面だちが一変しているのだ。丸みのあった頬の肉は削げ、坊主頭だった髪が伸びて、額に落ちかかっている。そしてなにより、顎から頬にかけて刻まれたなまなましい縫合痕に、彼の目は釘づけになった。
    「なに……? ふじみ? 何それ? お前のそれ、何……?」
     じりじりとあとじさった彼は、背後の襖へと追いつめられる。頭に被っていたタオルが肩を滑って、畳へ落ちた。
    「おぼえていると、いったくせに」
     尾形の指さきが彼の顔の上をゆらりと移動する。氷嚢をあてられたかのような冷気とともに、潮の香りが濃密に漂う。額の左端を撫ぜられている、と気づくのにしばらくかかった。身体がうごかない。硬直した手からランタンが転げ落ち、やつれた尾形の顔に濃い陰影をつくったのち、フツと消えた。
    「わすれないといったくせに」
     くらやみのなかから、低く抑揚のない声がする。杉元には、その言葉が何をさすものかわからない。
    「なん……だよ、忘れてんのはお前だろ? 俺は、忘れてることなんか」
     まばたきのように、稲光りが差しこんだ。一瞬のことだった。まばたきよりも短いその一瞬のあいだに、尾形は杉元の前からかき消えていた。
    「おい、」
     伸ばした手が空を切る。彼は、自分の声で目をさました。すぐには状況をつかめずに、天井に向かって伸ばされた手をぼんやりと眺める。夢、だったのだ。
     カーテンのすき間から朝ぼらけのうす明かりが差しこんでいる。嵐はすっかりおさまっているらしく、雷はおろか、雨の音も聞こえない。枕もとに置いていたランタンを点けると、いつもどおりの寝室の風景が照らされた。普段と違うところがあるとすれば、夢のなかに漂っていた濃い潮の香りがまだ残っていることだ。
     杉元は身を起こし、ランタンを持ちあげた。尾形の立っていた窓際の畳が、うす明かりにもぐっしょりと濡れているのが質感で知れる。潮の香りは、まちがいなくそこにあった。

     その日を境に、とうとう尾形はぱったりと消息を絶った。夢のなかでその姿がかき消える一瞬まえ、杉元が稲光のなかに垣間見たのは、泣きだす寸前の子どものようにゆがんだ顔だった。



     年が明けて間もないころ、杉元はあの物置のような史料館がとり壊されることを知った。麓の浜近い立地に、あらためて市営の郷土史料館として建てなおされるという話だ。あわせて、ごたごたと雑多に詰めこまれていた史料は整理され、この街の漁と古い土着信仰の歴史に沿った展示内容に一新される。
    「土着信仰?」
    「ああ、知らんか。知らんわなあ」
     問いかえした彼に、市の担当者はのんびりとわらった。
     このあたりは古くから、複数の潮流が入り交じって複雑な流れを形成する海域である。大潮のあと潮が引くと、浜にはたびたび国籍も年代もわからないめずらしいものが流れついていた。潮の流れに乗って旅をしてきたのであろうそれらのものを、土地の人間たちは神の依ったものとして祠を建てて祀ったのだという。
     しかし時代の移りかわりとともに潮目が変わったのか、浜に出どころの知れないものが流れつくことはほとんどなくなった。信仰は少しずつ忘れられ、祠の世話人も末代を迎えて、ついに去年の夏の祭祀をもって祠を閉じることがきまった。あの、花火の日である。後日、保管されていたごたごたは一つずつ「みたまぬき」をされて、どこかへと運ばれていったのだそうだ。
     つまり、杉元が史料館と思いこんでいたあの家屋は、土地の信仰で寄り神とされていたものの保管庫だったのだ。その本体ともいえる施設は近くに建っていたらしき祠のほうで、尾形があの家屋を拠点としてしか存在できなかったのも、そこに祠があったからなのだろう。
     あれが俺、と指をさした尾形の横顔が思いだされて、杉元は唇をかんだ。なるほど、ツクモガミだなんて、見当違いもはなはだしい。尾形の銃も、タマシイをぬかれてしまったのだろうか。
     黙りこむ彼の様子をどう受けとったか、実はな、と担当者は声をひそめた。住人を募集するさいにあえて伝えることはなかったが、杉元が現在住んでいるあの家は、祠を最後まで世話していた人間が住んでいた家なのだという。まあ、祟られるようなことはないだろうから、と男は苦笑いで締めくくった。

     尾形が姿を消してから、季節を二つ越した。夏になり、麓にささやかな史料館が完成した。完成式典を終えてしばらくたち、人の引いた今日になって、杉元はふらりとそこをおとずれた。大潮の日をえらんで出なおそうかという考えがふとよぎったが、実行はしなかった。
     ひととおり見て回ったが、あの銃の展示はなかった。当然である。発見されたときにはおおいに物議をかもしたにちがいない。きっといちばんにタマシイをぬかれて、相応の場所へはこばれていっただろう。
    「お前、神様じゃなくなっちゃったから消えちまったのかよ」
     史料館を出た杉元は、浜から突きだした堤防の先に立ち、誰にともなく呟いた。はるか沖を小型船がゆったりと横ぎっていく。
     むなしさをおぼえ、帰るか、と踵を返したそのとき、堤防の向こうの端から誰かがこちらへ歩いてくるのが見えた。跳ねまわるウミネコをよけながら軽い足どりで近づいてくる。
     白い肌に黒髪、なで肩で厚みのある上半身をまっすぐに伸ばし、ポケットに手を突っこんだそのかたち。服装こそ違うものの、その貌を見まちごうはずもない。人なつかしい男。杉元は照りつける日差しも忘れ、その場に立ちつくした。
    「なに? その服のセンス……」
     男が目の前までやってきても、彼は動けなかった。混乱からぬけだせないまま、ようやくそれだけの言葉がこぼれ出る。
    「しょうがねえだろ。これしかなかったんだよ」
     涼しくてなかなかいいぞ、と感想をよこしてくる。男は柄ものの開襟シャツに、ハーフパンツ――おそらくは水着――姿である。抹香くさい喪服から着かえるには、いささか派手すぎる。
     おおかた、民家の軒先にでも干してあったのだろう。すっ裸で縄をかけられるよりはいいかもしれないが、いや、よくないが、いやしかし。杉元はぐったりとうなだれた。
    「ちょっと……待って。銃は?」
    「知らん。急に大挙して押し寄せてきて、担いでいっちまった」
     尾形は肩をすくめる。文字どおり一心同体であった尾形と銃だが、もはや彼らは切り離されたべつべつのものだ。物と、タマシイとにわかれてしまった。そろりと顔をあげた杉元は、あらためて男の姿をまじまじと見つめる。ではどうして、この男は今、かたちをとどめているのだろう。大潮でもないのに。杉元の家のなかでも、ないのに。
     男はまるでなにごともなかったかのように、首をかたむけて杉元を見かえす。……尾形だ。どこからどう見ても。ただ、彼の見なれた坊主頭に丸い頬をした尾形ではない。あの嵐の夜に、杉元の夢のなかへあらわれた尾形である。今は夏の日差しのなか、ひとすじの髪が頬の縫いあとに影をつくった。
    「ねえ、お前さ……、なんで言ってくんなかったの」
     杉元は目を伏せ、ずっと胸にわだかまっていたものを吐露した。稲光りのなかで最後に垣間見た尾形の顔を、彼は忘れられなかった。なぜ、そうまで弱りきる前に助けをもとめてくれなかったのか。ものいわぬ樹木ではないのに。尾形が弱りはじめた初秋のころ、あの小屋にはすでに手がはいっていたにちがいないのだ。
    「何が起こってんのかわかってりゃ言ったさ」
     杉元の横にならんだ尾形は、ため息をついてしゃがみこむ。堤防の端にはりついてひからびたヒトデを海へ投げこんだ。
    「今までどこにいたんだよ」
     杉元も同じようにしゃがみこみ、ひからびた海藻を海へ投げこむ。
    「わからん」
     ひからびたヒトデと海藻が、水面に所在なさげに漂った。
    「さっきまで猫だったし、猫んなったのだって今しがただ。その前は……暗かった」
    「なにそれ」
    「暗かったんだよ。だがお前がいるな、と思って」
     尾形は隣の杉元を見る。
    「思ったら、猫になってた」
     おわり、というように、尾形はひらいた両手をあげる。
    「ぜーんぜん、わっかんねえ」
     杉元は背後に尻餅をついてぶすくれた。
    「お前が気にするこっちゃねえだろう。……俺は根に持つたちじゃねえんだ」
     髪をかきあげた尾形がふり返る。知ってるだろ、と顔を覗きこまれた杉元は、知らねえよ、と唇をとがらせた。





    「ほこら?」
     日差しを避けて移動した駅舎のベンチで、尾形は駅長の供した麦茶を飲んでいる。断るのも不自然なので自分が飲んでやるつもりでいたところ、すました顔であたりまえに口をつけたので、杉元は仰天した。
    「うん。あの小屋のそばにあったらしいんだけど……知らねえの?」
    「……あった気もする。つっても、500メートルは離れてるぞ」
    「そうなの?」
    「ほこらってあれか? 山の」
     箒を持って待合の掃除をしていた駅長が、横から口をはさむ。
    「小父さん、知ってんの」
     杉元は被っていた帽子のつばを上げ、目を丸くする。
    「ちびのころ浜からあれまで歩かされてよ。烏帽子なんかのっけられて」
     拳にした手を制帽の上へかかげて、男はおどけた。今に続く夏の大潮の祭祀だが、昔は前日に稚児行列があったのだそうだ。しかし、保管庫の存在は誰も知らなかったと言う。祠と保管庫が離れているのは、まず祠が先に建ち、のちに保管庫が必要になったため、祠のそばに手ごろな場所を確保できなかったのだろう。
    「そんでもあれ、もうないだら。大宮さんに帰らっしったで」
    「大宮さん? そこの?」
     駅長は頷く。大宮とは、入り江を臨む地区に古くからある大社のことだ。地元の人間たちのあいだでは、正式な名称よりも「大宮さん」の通名のほうがよく知られている。
    「祠だ屋敷神だ閉じるときは、お祈りして、本社に返すもんだからな」
     そう言うと、駅長は事務室へもどっていった。電車が到着し、乗客がまばらに降りてくる。そういえば、と杉元は思案した。以前、公園をつくる仕事に携わったさい、彼は同じような場面に立ちあったことがある。そこに祀られていたのは稲荷だったので、近場の稲荷神社から神職の者が来て、祠を閉じるためのかんたんな儀がとりおこなわれた。祭儀じたいは滞りなくおこなわれたが、祠の解体をする段階になって、想定外の問題が持ちあがった。
    「――あっ!?」
     突然すっとんきょうな声をあげた杉元に、尾形が肩をびくつかせる。
    「どうした」
    「いや……、待って」
     杉元は口もとをおさえて、記憶をたぐり寄せた。切符を切り終えた駅長が奥へ引っ込もうとしたところを呼びとめる。
    「小父さん、あのさ。あの祠の材って、大宮さんとこの木使ってなかった?」
     呼びとめられた駅長は怪訝な目をして、なんで知っとんだそんなこと、と訊きかえした。
     その昔、大社の神木が落雷に遭った。すでに大樹であった神木は、胴に亀裂をはしらせながらもどうにか持ちこたえたが、一部分は枯れこんで剥がれ落ちてしまった。扱いに困っていたところ、偶然にも寄りあいで持ちあがっていた祠の建立の話に陽の目があたる。土地の者たちはそれを思し召しとして、剥がれた神木の材で祠を建てた。それを、稚児行列の子どもたちは昔話として聞かされていたのだった。
    「やっぱり……」
    「おい、話がまるで見えんぞ」
     やりとりを見守っていた尾形が杉元を小突く。
    「おれ、去年あそこのご神木の補修したんだよ」
     杉元は麦茶をひといきに干すと、おおげさに咳ばらいをする。一つの仮説が、彼のなかにできあがっていた。
     先の稲荷の場合、祠の材にはやはり、本社の鎮守から引かれた木が使われていた。前年に落雷があり、立ち枯れたヒノキを伐り倒したものだった。そこで祠の解体後、材の処理をどうするのかという話になり、結局は例外的に神社側に引きとってもらったのだ。
     大型の台風が引きもきらずおとずれていた秋口、強風や雨の重みで損傷した樹木を補修するため、杉元は東奔西走していた。個人宅の庭木から天然記念物まで、依頼は多岐にわたったが、そのなかには大宮の境内にそびえるイブキの古木も含まれていた。
     樹齢二千年に届くかというイブキは、台風の直撃を受けるより以前から、すでに根の大部分が腐敗していた。葉のつく枝はほとんど残っていなかったため、台風でそれらの枝が損傷したことは、弱った古木にとっては命とりになっただろう。若い樹木医が駆けつけたところで、かろうじて生きている根を保護するほかに打つ手はなかった。
     しかし春になって、杉元のもとに嬉しい報告が舞いこんだ。白骨化した幹の根もとから、多数の彦生えが出たのである。土をいれ替えた場所を掘ってみると、ほそい新根が無数に伸びひろがっていた。これからまた、数百年の時間をかけて大樹に成長するのだろう。
    「……つまり?」
     尾形は眉根を寄せる。
    「だからあ、お前が戻ってこれた上になんかパワーアップしてんのって、俺のおかげなんじゃねえ? っていう」
    「なんでだよ」
    「いや、だってよ」
     しらけた目をする尾形に、杉元は自信たっぷりに見得を切る。
    「タマはぬかれるわ祠はなくなるわ、あげくに大本のご神木は弱りきってて、それで消えかかってたんでしょお前」
    「…………」
     尾形は釈然としない面もちで、なにごとか思いめぐらしている。
    「……猫」
    「ん?」
    「さっき、猫んなったとき、ジンジャにいた」
     いかにも気にいらないといった様子の尾形に反して、杉元の顔はニンマリと笑みくずれた。要するに、よるべなく浮き草になっていた尾形をとらえたのは、祠の本体――つまりはイブキの古木だったのだ、というのが彼の見立てなのである。古木が寿命をむかえていればそのまま消えていたところを自分の施しによって助かったのだから、俺のおかげ、というわけだ。
     信仰を忘れられた祠から、人足の絶えない氏神のふところにやどりをうつしたとあれば、たしかに何かと力がつきそうではある。古木の根が弱ったのは、神社職員たちが近年パワースポットとして大々的に売りだしていたためでもあるのだが。
    「ひゃくちゃんよお。俺がいてよかったなあ?」
    「ひゃくちゃんて呼ぶな」
     頬をつつきまわしてくる杉元の手を尾形の手がはたき落とす。
    「俺に会いたくて出てきちゃったの? けっこうかわいいとこあんのねお前」
    「うるせえな。ぶちぬくぞ」
    「もう鉄砲ねえじゃん。……あ」
     子どもじみた攻防をしていた杉元の動きが止まる。
    「鉄砲っていや、あのさ……もしかしたら、地域文化財センターにあるかも」
     待合に人のいないことを確認してから、彼は小声で切りだした。
    「なんだそれ?」
    「市内にそういうとこがあんの。このへんの、いろんな古いもんが集められてきて、地元の歴史に関係あればそこで保管される。可能性があるっちゃある、くらいだけど……行ってみるか?」
     杉元は尾形の顔を覗きこむ。尾形はしばらく考えこんでいたが、やがて目を伏せて「いい」と首をふった。
    「あれはもう俺じゃない」
     静かな声色で、しかしはっきりと尾形は言いきった。
    「でも、一つっきりの持ちもんじゃねえの」
     杉元の言葉に、尾形はやや身を引いて腕をひろげる。この服を見ろ、ということらしい。
    「いやそれは盗品っつんだ。ったく、ほんと変わんねえなそのネコババ癖」
     小声で咎めたてる杉元に、尾形が「おや」という顔をした。
    「なんだよ」
    「いいや?」
     尾形は麦茶を干して立ちあがった。杉元の手から汲出しを奪うと、どこか楽しげな足どりで改札へ向かい、事務室の奥を覗いて礼を言っている。ぞんがいに社交好きな一面もあるのだろうか。尾形が自分の家以外の場所になじんでいるところも、自分以外の人間と言葉をかわすところも、杉元にとっては新鮮な光景である。
    「おい、行くぞ」
     ぼんやりとその姿を目で追っていた杉元をベンチに残して、尾形はついと待合を出ていく。
    「行くって、どこに」
     杉元は入場口で立ちどまり、おもての明るさに目を細めた。白くかわいた通りに逃げ水がいくつもひかっている。先に立つ尾形が日差しのなかでふり向いて、ニヤリとわらった。
    「腹が減った。なんかつくれ」
     そう言うと、浜に向かって歩きだす。堤防の手前に杉元の軽トラックが停まっている。
    「えっ……今うち缶詰しかないんだけど」
     彼はほとんど忘れかけていたが、買いだしのついで、というていで立ちよったのだ。思わずその背中へと叫ぶと、尾形はわずかにのけぞった。
    「もう猫ちゃんでもねえぞ」
     笑い声で叫びかえしてくる。杉元は「ああもう」とひとりごちて、首をあおのかせた。駅長の額が目にはいる。とりあえず街へ出て、服を買って、尾形を着がえさせて、借りてきた服をこっそり返そう。あたりでなにか食べものも手にいれて、そうして家に帰ろう。二人だか、一人と一匹だかで。
     彼は帽子を被りなおすと、影のなかから踏みだした。かなしき春の国は、夏を盛りに色めきたっている。山がふくらむ。海がふくらむ。堤防から、ウミネコがいっせいに飛びたった。

     
    んもれ Link Message Mute
    2018/09/26 0:27:48

    海ふくらむ

    ばけねこの尾形と樹木医のサイチくんが出会う話です。
    カップリング要素はほぼないですが杉尾ランドの人間が書いているので杉尾っぽいです。モブがしゃべります。

    #金カム  #ゴールデンカムイ  #杉尾

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