スズノネ 鳴らない鈴を、捨てることも出来なくて。
逃げるように――否、逃げる為に、背を向けて走り出す。自分がしてしまった事からも。友人であった彼からも、彼の言葉からも。そして、現実そのものからも。
分かっていた。
そんな事、俺自身が一番よく分かっていた。
でも、それを他人に指摘されるのは、自身で咀嚼するより何倍も堪える。相手が何も悪くないなら、悪いのが俺一人なら、尚更だ。
走った。
奔った。
脇目も振らず、目的地も無いまま、とにかく走った。
長年過ごしてきた裏町の構造は身体が覚えていて、何も考えなくても足は前に進む。何も考えたくなかった。息が切れて、頭が真っ白になる。何もかも忘れて、このまま加速して加速して、どこまでも遠くに行って、そのまま消えて無くなってしまえたら――
「フギャァッ!」
「うわっ!?」
突然足元に現れた何かに足を掬われて、派手に転んだ。
「いっ……てぇ……」
じんじんと痛む腕で体を起こして振り返り、躓いたものが運悪く道端から飛び出してきた野良猫だと気付いた直後、足首辺りに軽い衝撃が走る。野良猫が引っ掻こうとしたものの、脚に巻いた布のおかげで傷にはならなかったようだ。
「ごめん、ごめんな」
「フシャーッ!」
「わかった、わかったよ……俺が悪かったって」
この界隈でよく見かける野良猫で、時々食べ物を分けてやったりもしている奴だ。いつもは餌さえあげれば撫でさせてくれたりもするが、流石に怒っているらしく、手を伸ばしたら猛烈に威嚇されたので引っ込める。そのまま物陰に消えていく野良猫を見送って、俺はごろりと地面に仰向けに転がった。
「分かってるよ……俺が、悪かったんだ」
ぽつりと、呟く。
足を止めたことで思い出したように一気に汗が吹き出し、耳の奥で鼓動がどくどくと音を立てる。荒くなった息が気道を行き来するたびに、焼け付くような痛みが胸に走った。
胸の痛みは、走ったせいだけなのだろうか。
わからない。
もう、何もわからない。
喉の奥で、熱くなった呼吸が引っかかる。
喉だけじゃない、鼻の奥も目も熱くて、込み上げた何かは涙になって溢れ出した。
話したかった。俺だって、話せるものなら話したかったんだ。
でも――どうしても、話せなかった。
くだらない事なら何でも話せるのに、大事な事だけが話せない。処世術として身に付けた笑顔を貼りつけて、陽気な道化や頭も尻も軽い女を演じて、本心を誤魔化し続けて生きてきた。だから、自分の本心を他人に打ち明ける事が、どうしても出来なかった。普段はあんなにぽんぽん出てくる言葉が、本心を語ろうとした途端に喉の奥に引っかかってしまって、感情が言葉にならなくて、どうしても外に出せなかったのだ。
叫びたいほどもどかしくて、どうしようもなく自分自身に腹立たしくて、真っ白になった頭の中に、あいつの言葉だけが木霊する。
あいつに拒絶されたという事実が、こんなにも深く突き刺さって痛むなんて。
あいつに見放されることを恐れていた事に、こんな事態になってからようやく気付いた。そしてそんな自分自身にも、俺は大きな衝撃を受けていた。
誰にも心を許さず、へらへらと笑顔を貼り付けて自分を偽って生きてきた俺にとって、作り物の自分ではなく、素のままで接することの出来る相手が居ることが、どれだけ救いになっていたか。そんな事に、今更気付くなんて。
たぶんあいつは、一旦は手を差し伸べるつもりだったんだ。それを無下に振り払ったのは、紛れもなく俺自身の落ち度でしかなかった。
地面に仰向けになったまま、人気のない狭い路地の両側に聳える傾きかけた家屋の隙間から覗く空を眺めて、一人で涙を流して、どれくらい経っただろう。空の色に夕方の気配が混じり始めた頃になって、ようやく俺は立ち上がった。
「……仕事……準備、しなきゃ」
自分に言い聞かせて、自宅の方向へと足を向ける。今から身体を洗って着替えれば、丁度良い時間になるだろう。
身体を売るのが金の為なのか、自分の中の虚無を埋める為なのか、今の俺にはわからなかった。
「……いっ、てぇ……クッソ、あの変態野郎……」
三日後の深夜、『仕事』を終えて家路に就いた俺の手には、大きな酒瓶が握られていた。既に半分以上中身が無くなったそれに口をつけ、あおった拍子に足がもつれて傍らの壁に手を突く。女物の着物の裾が千鳥足に絡みつき、歩きづらいことこの上無かった。
あれから三日間、組織の連中とは顔を合わせていない。夜になると花街で幾人もの男の相手をして、その金で酒を飲んでべろべろに酔っぱらっては、日中死んだように眠る生活が続いている。何もかもが面倒だ。男に抱かれている間は、何も考えずに快楽に溺れているだけでいい。前後不覚になるまで酔ってしまえば、あれやこれやと思い悩む必要も無い。
それにしても、今日の相手は最悪だった。部屋に入るやいなや縄で全身を縛り上げられ、長時間の行為を強制されて何度も乱暴に犯されたせいで、心身共にぐったりだ。最中に何度か殴られたので、身体には青痣や縄の痕が残っているし、顔も腫れている感覚がある。これでは当分他の客は取れず、商売上がったりだ。勿論、その分報酬は弾んでもらったのだが。
でも、と、家に向かって歩きながら考える。
今の俺には、手酷く犯されるほうが心地好かった。だから普段なら受けないような、特殊な条件の仕事を受けたのだ。優しくなんかされたくない。人並みに扱われたくない。いっそモノみたいに手荒に使われて、金持ちの慰みの道具として消費されて、滅茶苦茶に壊されてしまいたかった。
「んだよ、ちくしょう……どいつもこいつも……俺が何したってんだよぉ……」
ふらふら歩きながら、酒を喉に流し込む。安酒だけど、味なんかどうだっていい。元々味わって飲むほど飲み慣れている訳でもないし、酔えれば何でも良かった。視界がぐるぐる回り、足元は雲を踏むように覚束ない。妙に身体が軽くて、ふらついて辺りの物にぶつかっても痛みを感じない。
角を曲がって、住処にしている古びた長屋の前に出た。誰かが自分が住む部屋の前に立っているのが視界に入ったが、月には雲がかかり、暗くて誰だかわからない。
微かに首をもたげた警戒心と、何もかもどうでもいいという投げやりな思考が脳内で縺れ合った瞬間、ぐにゃりと足から力が抜けてその場で倒れてしまった。握ったまま横にしてしまった酒瓶から、残りの酒が流れ出してゆく。目の前の景色がぐにゃぐにゃと歪んでゆくのが気持ち悪くて目を閉じると、誰かが近付いてくる足音が聞こえてきた。
「おい」
聞き慣れた声が、頭上から降り注ぐ。目を開くと、いつも通りの仏頂面でこちらを覗き込む少年が居た。
「んー……ココノエかぁ……どしたぁ、こんな時間に」
「こんな時間にどうしたはこっちの台詞だ。散々探したんだぞ、どこほっつき歩いてたんだこの酔っ払い」
「まぁねぇ、お兄ちゃんにも、色々あるんだよぉ……飲まなきゃやってられない時だって……あるんらよぉ……」
「いい加減にしろ。ほら、その瓶寄越せ」
「あんっ、やだぁ……やさしくしてぇ……」
「変な声を出すな! いいからさっさと手を離せ!」
俺が抱えていた瓶が、強引に奪い取られる。それを逆さにして僅かに残っていた酒を捨て、瓶も乱暴に放り投げてから、ココノエは俺に布で包んだ何かを差し出した。
「ほら、忘れ物だ」
「んぁ……?」
包みから出てきたのは、俺が暗殺の際に着けている面頬だった。顔の下半分だけを覆う仮面で、化生の類か肉食獣のような牙の装飾が施されている。言うまでもなく、大事な商売道具だ。
「……お前これ、どこで」
「こないだ任務で政府機関の連中とやり合って、一人殺したろ。そこに落ちてたんだとよ。お前に渡そうにも、家にも居ないし拠点にも来ないしで方々探し回ったぞ。澄介や太治兼にも聞いたけど、しばらく見かけてないって言われるし。お前らしくもない」
表情を変えずにそこまで言ってから、ココノエは僅かに眉をひそめた。
「……本当に、お前らしくもない。軽口叩こうが、仕事はきっちりやる奴だと思ってたのに。お前の甘さに殺されるのは御免だって、俺に言ったのはお前じゃないか」
「あー……うん、手厳しいなぁ」
「あの華族の男の死体が向こうに発見される前に、こっちでこいつを回収してなかったら……」
「……男じゃ、なかった」
何も考えずに、ぽろりと口から言葉が飛び出した。
「あ?」
「死体を、調べたら……女だった。男の格好して、口調や仕草も男の真似してたけど……服の下は、女だった。はは、俺と逆だな」
「……そう、か」
妙に歯切れの悪い返答だったような……と思った瞬間、それどころではない事態がせり上がってきたせいで、微かな違和感は彼方に吹き飛んだ。
「……ちょっと待って、下がってくれ」
「はぁ?」
「……吐きそう……」
「ちょ、おま、ふざけるなよ! せめて道の端でやれ!」
ふざけるなと言いつつ、俺が身体を起こして道の端まで這って移動するのを、着物を掴んで引きずるようにして手伝ってくれる辺り、こいつもなかなかのお人好しだな……などと、ぼんやり思ったところで。
吐いた。
それはもう、盛大に、吐いた。
「おら。全部出しちまえ」
「……すまねぇ……うぇっ」
えずいて咳き込んだ背中を、やや乱暴に擦られる。あらかた胃の中の物を出し尽くし、肩で息をしている間に、心の中にはどす黒い喪失感が広がっていった。
普段から年長者として可愛がっている弟分(と俺が勝手に思っているだけで、ココノエは迷惑そうだったが)の前で、みっともない姿を晒してしまった。本人からも言われたが、面頬を落とした事といい、失態ばかりが続いている。惨めで、情けなくて、すぐにでもどこかに消えてしまいたいくらいだったが、立ち上がる力も残っていない。
ようやく息を整えて顔を上げると、ココノエは地面についた俺の腕を凝視していた。月にかかっていた雲がいつの間にか晴れていたせいで、手首を縄で縛られた跡が鬱血しているのがはっきり見えていることに気付いて、慌てて隠したが流石に誤魔化しきれなかったようだ。俺の腕と顔を交互に見て、ココノエは真剣な表情で口を開いた。
「その腕、それに顔も……お前、まさか」
ついに『副業』の事までバレたか、と一気に血の気が引いてゆく。
まずい。他の奴らはともかく、こいつにだけは知られたくない。本当はあいつにだって花街の事情はまだ早いと思っていたし、ココノエにはあんな場所のこと、ずっと知らないままで――
「拷問でも受けたのか? どこの勢力だ、政府機関か? それともヤクザか?」
――うん。
まあ、普通はそう思うよな。
自分の心が汚れきっていることに落胆しつつ、急いでいつもの軽薄な笑みを顔に貼りつける。
「あー、これは、その……なんだ。ちょっと、色々あったんだけど、そういうんじゃないから安心してくれ。外部にこっちの情報を漏らしたとか、そういう事は一切無いから」
「でも」
「ごめん。ホントごめん。詳しくは言えないけど、本当に心配要らないから。だから、今日はもうここまでにしよう。色々ありがとな」
「おい! お前、何か隠して……」
「ごめん。いつか必ず、今日の事は埋め合わせするから。なんか、旨いもんでも奢るとかさ。だから……今は少し、一人にしてくれ」
「……わかった」
納得はしていないようだったが、知られたくない事情があることだけは伝わったようで、ココノエは渋々引いてくれた。
「少し休め。自分じゃわからないだろうけど、酷い顔だ」
「そーだなぁ、可愛くしてないと男引っ掛けられねえもんな」
「そういう問題じゃ……はぁ、もういい。さっさと家入って寝ろ。じゃあな」
「ん。おやすみ」
ふらつきながらも何とか立ち上がり、ココノエの後姿を見送ってから自宅に入る。履物を放り出して帯を解くと、一気に呼吸が楽になったと同時にどっと疲れが押し寄せて、そのまま床に寝転がった。
布団を出すのも面倒だし、他人の体液が付いた身体のまま布団に入るのも気持ちが悪い。床の上で身体を丸めると、髪や着物からはさっき寝た男が吸っていた煙草の匂いがした。
ああ、嫌だな。あいつが吸ってる煙草の匂いは嫌いじゃないけど、他の男のは鬱陶しいだけだ。
不意に心臓がぎゅっと縮むような絶望感が押し寄せてきて、涙が溢れ出した。
俺、なんでこんな事してるんだろう。どうして、こんな。どこで間違えてしまったんだろう。いや、そもそも最初から間違っていたんだろうか。
借金を抱えて毎晩違う男に身体を売って、生き別れの妹を殺して、唯一の友人とは喧嘩別れ、挙げ句酒に溺れて人前で醜態を晒して。情けなくて、みっともなくて、消えて無くなってしまいたい。
いっその事死んでしまえば、楽になれるのかな。
隠し持っていた拳銃を取り出し、撃鉄を起こして銃口を額に押し付ける。あとは引金を引くだけだ。それだけで、簡単に全てを終わりに出来る。
単純明快なその動作が――何故か、出来なかった。
引金に掛かった指が、動かない。
何度か深呼吸して引金を引こうとしたが、たったそれだけが、どうしても出来ない。
「……っは……!」
拳銃を傍らに放り出して、声を殺してすすり泣く。生きる事に絶望しているくせに、死ぬ勇気すら無い自分が不甲斐無くて、ただただ惨めだった。
『――まあ、死にたくなったら言えよ』
ふと、あの時あいつが言った言葉が脳裏を過った。
『――そしたら、全部燃やしてやるから』
物騒極まりない言葉が、今は唯一の救いに思えた。
ああ――今なら、その言葉にすがり付いても良いだろうか。もう、足掻くことを諦めてしまっても良いだろうか。
諦めた俺を、一握りの灰に変えて、終わらせてくれるだろうか。
どうせなら知らない男の煙草の匂いなんかを纏ったまま死ぬより、せめて最後に纏う匂いはあいつの煙草のほうが良い。
泣き疲れたせいか、泥のような倦怠感で朦朧とする中、起きたらきちんと身体を洗ってから着替えよう……と考えながら目を閉じ、俺は意識を手放した。
窓から射し込む光で目を覚ますと、辺りはすっかり明るくなっていた。節々が痛んで悲鳴を上げる身体を無理矢理引きずり起こし、念入りに行水を済ませて服を着替える。食欲は無かったが、申し訳程度に残っていた冷や飯を食べて、温かい茶を飲んでようやく人心地がついたところで、独り膝を抱えて考えた。
昨晩は衝動的に死のうとしたが、本当に死にたいのか自分でもよくわからなくなっていた。頭の中がぐちゃぐちゃで、これからどうすればいいのか、未だに整理がつかない。
やはり、一度きちんとあいつに会って話そう。そうでないと、このままではでは駄目だ。何がどう駄目なのかはよくわからないが、とにかく駄目だと思う。今の状況を一人で抱えきれなくなってしまっている俺が、頼れる相手はあいつしか居ないんだから。
話せるだろうか。いや、話さなければならない。
そうは思っても、足許が崩れて何処までも落ちていくような、底知れない恐怖は有った。まだ間に合うかもしれない、と漠然と思ってはいたけれど、もしももう手遅れだったとしたら? 今度こそ本当に、完全に拒絶されてしまったら? これまで互いに、一定以上相手の事情に踏み込まないのが暗黙の了解だったのに、それを破ってしまったら、これまでと同じような関係ではいられなくなるんじゃないか?
それなら、いっそ――
勢いよく頭を振って、立ち上がった。一人でこうしていても、埒が明かない。とにかく会って話さないと、何も変わらない。
出掛ける為に身支度をし始めたところで、改めて明るい所で昨晩の傷を確認すると、縄の痕も殴られた痕も、くっきりと青紫色の痣や擦り傷になってしまっていた。鏡を覗き込むと、顔にも大きな痣が残っている。このザマでは、ココノエが訝しむのも無理はない。おまけに泣いたせいで目も腫れていて、酷い有り様だった。
大きく溜息をついて、手足に布を巻いていく。首から下は衣服で隠れるが、顔だけはどうしようもない。日中に面頬を着けて歩き回る訳にもいかないし、何か聞かれたら、その時は潔く打ち明けるしかないだろう。
動く度にあちこちが軋む身体で、どうにか着替えを済ませて外に出た。
足取りは決して軽いとはいえないものの、一歩ずつ先へと進みながら、何から切り出そうかと考える。まずは先日のことを謝って、それから。どこから話すべきか。洗いざらい打ち明けるならば、事の発端……自分の出自については既に一部伝えてはいるが、改めてそこから始めるべきか。
結局さっぱり考えが纏まらないまま、あいつの家の前まで来てしまった。いつもと変わらない風景に安堵しつつ、もうどうにでもなれと、大きく深呼吸してから軽く戸を叩いて声を掛ける。
「……御免ください」
しん、と家の中は静まり返っている。恐る恐る戸に手を掛けると、玄関には鍵が掛かっていた。
「留守、か……」
溜息をついて、玄関の横に座り込む。どうせ他に行く宛も無いし、あの出不精がそう長時間家を空けるとも思えない。そのうち帰ってくるだろう。
俯いて、膝に置いた手をぼんやり見つめながら、ココノエには悪い事をしたな、と考える。あちこち探し回った上に、長時間待たせてしまったのだろう。後で何か旨いものでも買ってやろう、あいつは何が好きだったかな……と、考えていたところで。
こちらに向かってくる足音が、聞こえてきた。
俯いたまま目だけ動かしてみると、見慣れた足が見える。俺の姿には気付いているだろうに、そのまま玄関の前で足は止まった。お互い無言のまま、鍵を開ける音、そして引き戸を開けるからからという音が響き、あいつは中に入って――戸を、締めなかった。
「……入らないんですかい?」
ぽつりと、声が聞こえる。
顔を上げて振り返ると、あいつは玄関の上がりかまちに、こちらに背を向けて立っていた。
「入らないなら、戸は締めておいてくだせぇ。……まあ、入るなら入るで、締めて欲しいですけど」
それだけ言い残して、奥へと消えていく。俺は少し躊躇ってから立ち上がり、中に入って戸を締めた。
部屋に上がると、あいつはこちらに背を向けて座り、ちょうど煙草に火を点けたところだった。ふわりとたなびく煙はいつも通りの匂いで、たったそれだけが、最後にここに来てから四日しか経っていないのに、泣きたくなるくらい懐かしい。
気持ちを落ち着けようと大きく息を吸ってから、その場に座って、相変わらず向こうを向いたままの背中に声を掛けた。
「その……こないだは、ごめん。それで……ちゃんと、話そうと、思ったんだけど……俺、やっぱりダメだな。冗談とか、くだらない事なら沢山話せるのに……真面目な話しようとすると、全然話せなくて」
早くも支離滅裂になりかけているが、この際構うものか。
「でも……もう、限界なんだ。これ以上、一人で抱えきれなくなって、それで、だから……聞くだけでいいから、聞いてくれ。上手く話せるかわからない、けど。お前以外に、話せる相手なんか、居ないんだ」
沈黙。
暗に続けろという意味だと解釈して、俺は再び口を開く。
「……俺のお袋は花街の娼婦で、父親はわからないって話、前にしたよな。俺が生まれた直後に、お袋を捨てて居なくなった事しか知らないって。それに関係する話なんだけど……」
そこからは、思いつくままに、ぽつぽつと言葉にしていった。
花街で出会った、東桜院薫という人物のこと。薫は女だけど、政府機関に属する名家の跡取りという立場上、男として育てられたこと。俺は薫と会う時はいつも女装していたので、薫は俺を女だと思って、友達になろうとしたこと。
薫は、自分の父親が花街の女を孕ませた腹違いの兄が居ることを知って、その兄を探していたこと。そして……その兄とは俺なのではないかと勘づいたものの、言い出せなかったこと。
「……言える訳、ないだろ。こんな……女の格好して、花街で男に抱かれて金貰ってる男が、お前が探してる兄貴だなんて……どうしても、言えなかったんだよ……」
そして――政府機関との抗争の最中、敵同士として薫と出会ってしまったこと。交戦中に面頬が外れ、薫に正体を知られると同時に、驚いて動きを止めた彼女に深手を負わせてしまい……最後に自分達が兄妹であることを知らせた上で、止めを刺したこと。
「……本当は、殺すつもりはなかったんだ。せいぜい軽く怪我でもさせて、撤退させるつもりで……なのに、俺……」
事故だった。全ての巡り合わせが悪い方向に進んで、転がり落ちた果てがこれだ。普段なら絶対に手を抜かず、相手が女子供だろうと容赦なく殺してきた俺が、変な気を起こしたのがそもそもの間違いだった。たとえ友人だろうと兄妹だろうと、最初から殺すつもりで居れば、こんなに思い悩んだりせずに済んだのに。
薫と知り合って、初めて表の世界のことを知った。花街で生まれ、母親を亡くして以降は暗殺者として組織に育てられ――そして、母親が男に騙されて押し付けられた借金の為に、男と寝るようになって。そんな俺に、真っ当な世界で生きてきた薫は、眩しくて、眩し過ぎて、憎らしいくらい羨ましかった。
もし、もしも、自分に違う人生が有ったら、と一瞬でも考えてしまった自分が呪わしい。そんなあり得たかもしれない別の人生を思ったところで、今の俺の人生が変わるはずないのに。
でも、いや、だからこそ、薫には幸せになって欲しかったんだ。男として生きる事に、疑問を感じていない訳ではない様子だったが、それでも大金持ちの家で何不自由なく暮らしていけるなら。こんな薄暗い世界とは無縁の、明るく華やかな世界で生きていてくれるなら――それでいいと、思っていたのに。
その薫を、俺自身の手で殺してしまった。
「俺……もう、どうしたらいいかわからないんだよ。こんな事、お前に言ってもどうにもならない事くらい、分かってる。でも、俺一人じゃ苦しくて……話したら、楽になれるかなって、そう思ったんだ。俺は、自分が楽になる為に、お前を利用しようとしてるんだ。だから……そんな俺を、許さないでくれ」
身じろぎ一つしない背中に、尚も言いつのる。
「でも、お前の事を信頼してるのは本当だ。こんな事、お前にしか話せなかった。それだけは、信じてくれ。……信じてくれ、なんて、今更どの面下げてって話だけど……」
頭の中で、一つの言葉が像を結んだ。
「……コ……」
何を言おうとしてる。そんな事を言って、何になる。
「……スズヒコ」
それでも、この言葉を伝えるなら、今しか無いと、そう思った。
「俺の、本当の名前。鈴比古っていうんだ。お袋がつけてくれた名前だけど、組織に入る時に捨てさせられて……今は、俺一人の記憶の中にしか無い名前。だから何だって話だけど……お前の事を信頼してるから、教えておく」
お前は、覚えていてくれるかな。
「……俺さ、もう疲れちまったんだ」
俺が居なくなっても、俺の事を、覚えていてくれるかな。
「いっそ消えて無くなったら、楽になれるのかなって、そう思うんだ」
俺は、狡い。
どこまでも、狡い。
「なあ、澄介。お前、前に言ってくれたよな。死にたくなったら言えって。全部燃やしてやるって」
自分で死ぬだけの度胸も無いくせに。
跡形も無く消えて、楽になりたいくせに――せめてこいつの記憶の片隅に、ほんの少しだけでも残っていられれば、なんて考えている。
「――俺を、殺してくれるか?」
こんな俺を、許さないでくれ。