春心竿をさす 奇しくもその日はエイプリルフール。
この日の新横浜警察署の浮き足立ちっぷりったらすごかった。
僕はといえば、その中で苦虫を噛み潰していたような顔をしていたと思う。自分じゃ見えないけど多分。
ことの発端は毎度の如くの吸血鬼だ。
本当にもう嫌になるな。
吸血鬼対策課ヒヨシ隊のエースこと半田桃と、一緒にパトロール中だった嵐の新人・ケイ カンタロウ。
あらゆる意味でのツートップがその毒牙にかかったと入電があった時には皆青ざめたものだった。
あの二人が揃っていてむざむざとやられるなんて、と。
――で、今はといえばその時の緊張を返して欲しい。そんな気持ちでいっぱいだ。
「おもしろくねえな……」
我ながら地獄から這い上がってきたような声が漏れてしまう。
署内に漂う期待に満ちた空気が目に見えるようなこの有様故ゆえにだ。
「ですよね? モエギさん」
「俺を巻き込むな」
モエギさんに同意を求めたら冷たくあしらわれた。
なんでだよ、あんた絶対こっち側だろ。
この甘ったるい熱気に包まれた空気は、半田先輩とカンタロウさんが被害に遭あった、その術の性質のために発生していた。
今晩現れた恐るべき吸血鬼の、『人と目が合ったら歯が浮くような口説き文句がツルツルっと口から漏れ出してしまう』という恐るべき能力に今まさに我が署が機能不全に陥っているのだ。
本当に恐るべき能力だなあ。はあ、あ。
その恐るべき吸血鬼の名乗り名は『吸血鬼ロマンティックが止まらない』。調書を作成するタイピングの指も重くさせるような恐ろしさだ。うんざりするわ。
もう朝日が昇るタイミングで、ホシの追跡は本日は時間切れ。
一般市民への聞き込みは今から副隊長とモエギさんが向かう。僕は元々非番で待機予定だったから、このまま詰所に居続けだ。
さてと、と、僕は調書を取らなねばならない調査対象に向き合った。
向き合った、が。
「う……あ、君の瞳はギラギラと輝いてまるで灼熱の火のようだ。俺の、う……こ、心まで焦がして焼け尽くされてしまう……う、う、うぅ……!」
「きゃーっ!」
不明瞭な唸り声混じりの渋面の歯の浮くような口説き文句でも女性は嬉しいものなんだろうかと、思わず観察モードに入ってしまう。
どこから聞きつけてきたのか、普段はここに顔を出さない一般職員や昼番の隊員が入れ替わり立ち替わり様子を覗きに来た。そのほとんどが女性で、ここぞとばかりにイケメンの口説き文句を楽しんでいる。
今やここはちょっとしたアミューズメントパーク、もしくは擬似ホストクラブだ。
しかしきっとかかったのが僕なら、ああはならなかっただろうなっていうのが先の発言に繋がった。
ていうか、カンタロウさんもイケメン枠なんだな。そうだよな、奇行がなければあの人だって十分に偉丈夫って感じだ。
そのカンタロウさんに目を向けると、こっちは数人の女性に囲まれている。あれ? 意外とカンタロウさんの方がモテるのか?
「あ、ばば、本っ官、のお、あな、貴女の香水の香りが本官の……」
「うん、それで? それで?」
「包み込んで離さない、この香りはいつまでも記憶に残り続けて本官は貴女がいない寂しさに胸が押しつぶされそうになることでしょおおうおうおう」
「うーん、六十点」
「掛かりがちょっと甘いんじゃない?」
「ほら、抵抗しないで身を任せな?」
あ、違うな。
しばらく観察していて僕は気がついた。これ単におもちゃにされてるんだわ。
そんなわけで流石にちょっと可哀想になってきた。
先輩の方はどうなったかと、振り返ると先輩の顔色があまり良くないのに気がついた。
思ってもみないお世辞っていうのも嘘に入るものなのかな。口先ではキザなセリフを繰り出しているけど、表情は甘やかさとは程遠い。
「ぐ……ほ、細い手足が折れてしまいそうなくらい華奢な貴女の……う、グアア……本官は……本官は……‼︎ もう‼︎ 耐えられないでありまあああああすっっっっっ‼︎」
「あ、こら! 職務放棄‼︎」
先輩に気を取られているうちに、今度はもう一人の職場放棄が板につきすぎた後輩が場に耐えかねて、ドアを壊さん勢いで出て行ってしまった。現場監督不行き届きだ。だからツジタさんって誰だよ。
「あー、みなさん、そろそろ解散してください、お仕事中でしょう? 戻ってくださあい」
女子職員のブーイングを聴きながら、割り込んだ。この上先輩にまで人事不省になられたら困る。
と。
文字通りに間に入った僕の背中にずしっと重みがかかった。
背後には半田先輩しかいないのだから、それが先輩によるものだと頭はとっさに判断できたけど、不意な接触にはやっぱり驚く。自分より上背も厚みもある体格の人間に縋すがり付くようにされると圧迫感がすごい。
ずしりとした重みは僕の肩に置かれた先輩の手で、そのまま僕の背を引き寄せるように力が込められた。僕の後頭部に先輩の頭部が触れている感触がする。自分より小さい人間に隠れようとするんじゃない。というか、あんまり近付かれて自分でも認知できないようなところに顔を寄せられるのはあまり気分のいいものじゃない。汗臭かったりしたらどうしようかとか考えてしまって落ち着かないし、先輩相手にこんなことを考える自分にも落ち着かない。
なんとか引き剥がせないかと腰をかがめてみたり体を捻ってみたりしたが無駄だった。
「ありがとうサギョウ、今日もセロリ色の髪色が美しいな」
「はいはい」
おまけに口説き文句の対象が僕に移ってしまった。
「若草のようなお前の香りが俺の……」
「うがー‼︎」
気にしていた臭いに触れられて今度こそと振り払った。しかし、他にギャラリーがいる狭い部屋のため暴れるわけにもいかず、せいぜい身を離せた程度だった。すぐに捕まったかと思うと今度は正面から向き合う形になってしまった。
「助けてくれて本当に感謝している。
お前の美しいセロリ色が視界に飛び込んできた時俺の胸は感動に満たされた」
「いや、別に助けたわけじゃ……」
結果的に助けたような形になったのは事実だが、本気の助けってわけじゃない。
それよりもこの茶番に盛大に巻き込まれそうな気配をなんとかしてほしい。
「お前の黒曜石のような瞳に俺をもっと映してくれ。
お前の視界に俺が映っていると思うと俺の心は今のこの季節のように暖かく浮き立つんだ」
「うぎゃっ」
勘弁してくれ、真剣な表情の圧がすごい。
逃げたいのに今度こそ逃すものかという力で肩に手を回されて逃げられない。
おまけに真正面から視線を捉えてくる視線はさっきまでと打って変わってどこか熱を帯びたものになっていた。催眠のかかりが時間経過とともに強くなってきたのかもしれない。
正面からの視線に耐えられず顔ごと目を逸らすと、頬に手を添えられて上向かされてしまった。おまけに片手を外したものだからもう片方の手はさらに僕を深く抱き込む形になってしまっている。
「今このとき、お前以外をこの視界に入れたくない……腕の中に収めた体温がこんなにも離れ難い気持ちにさせるとは……」
熱を込めた表情を浮かべて整った顔に正面からうっとりとした囁き声を吹き込まれる破壊力ってすげえな。
「きゃ~……♡」
「百点でたわ……」
ギャラリーのみなさまの黄色の悲鳴が桃色の吐息に変わって評点も鰻登りだ。これがなかったらうっかり口説かれてしまっていたかもしれない。正直ちょっとドキドキしてしまったからな。みなさん正気を保ってくれてどうもありがとう。でももういい加減にしてください。
「解散‼︎ 解散してください!
仕事に! 戻って‼︎」
「お前の声は張り上げてもはちみつのような甘さを残しているな……なあ、サギョウ、その甘い声で俺の名前を呼んではくれないか」
「あんたは! 正気に! 戻れええ‼︎」
人払いを果たした詰所でそのまま調書を埋め始めることにした。取調室に移動する間にも誰かにかちあうと面倒なので。
どうも術は視界に入れたものに発動するようなので、先輩には手で目隠しをしてもらっっている。正直言ってちょっと間抜けな絵面だ。
「手が疲れて外したくなったら、声をかけてくださいね。視界から外れますから」
「すまん、サギョウ。不甲斐なかったな」
両手で顔を覆っているので表情は判らないけど、声はどことなしにぐったりと疲れている。
「まあ、あんたがやり込められてるってあまり見れない光景見せてもらったんで」
何に対して謝られているのだろうと、最初は思って、衆人の中口説かれる姿を見られたことかと思い至ってそう答えた。
見せ物になったのは確かに面白くはないが、女性たちに囲まれて心にもないセリフを言わされていた時の先輩のしおしお顔を思い出せば溜飲を下げられる程度のものだ。
苦手な嘘を不本意にもたくさんつく羽目に陥った自分が、という気持ちもあるのかもしれないとも思った。変に真面目な人だからな。
「まあ、日付も変わってたし、今日はエイプリルフールですよ先輩。
今日あんたが言ったことは全部ノーカンってことで……」
だから僕から一つ助け舟を出してあげた。余計な世話かもしれないけど。
「俺は、嘘が苦手だ……」
「承知してますよ」
嘘で知恵熱を出すほどに、嘘に対して禁忌の感情を抱いている人だということは。
「嘘じゃないことを嘘のままにするのも落ち着かん」
難儀な人だなあ、と思う。
その難儀な人が、ぽつりぽつりと口を開いて言う。
「さっき、お前に言った言葉は……全部素直な気持ちから出たものだ」
嘘が苦手な人の真実の言葉の重みは如何ほどだろう。
「他の人たちに言ったような、無理矢理引き摺り出された言葉じゃなかった」
顔を見られない状態でそんなことを言うのは狡いな、と思った。
「……そうなんですか」
「そうだ」
唯一感情を読み取れる耳が桜の花のように色づくのを見ながら、僕はといえば、さっき吹き込まれた言葉のどれが嘘ではない嘘なんだろうとぼんやりと思い返していた。