自惚れ鏡に葱坊主 言うほどセロリじゃないよなあ。
視界に入り込む緑をつまみ上げてそんなことを思った。
最近散髪に行きそびれていた。伸びてしまった前髪が瞼にかかって鬱陶しい。
いっそ前髪をあげてしまおうかと思った時にふと、いつも半分前髪をあげた自分の先輩や上司の顔がチラついた。同じ部隊の三人とも前髪をあげているので、僕までそうしてしまうのってなんか絵面がやだなってまず思った。
あと、僕みたいなぼんやり顔の童顔が前髪を上げてもなんとも締まらないのだ。
ヒヨシ隊長も童顔だけど、ああいう顔面がキラキラした人は話が別だ。何したって似合うんだから。ほんと世の中って不公平だ。
オールバックじゃなくて半田先輩みたいに片側だけあげることも考えたけど、それこそ意識しているみたいだし、なんだかしっくりこないのには違いなかった。
「おお、なんじゃサギョウ。色気づいたか」
鏡の前で前髪をあげたり下ろしたりしながら唸っていたらヒヨシ隊長に声をかけられた。
「なんですかそれ」
「後ろから見とったらまるでモテを意識し始めた中学生みてゃーじゃわ」
「いつから見てたんだちくしょう」
まあ、トイレの鏡の前なんて公共スペースで見たかも何もないもんだ。でも中学生はひどいと思う。
「前髪が伸びて鬱陶しいんですよ」
「後ろの方もでゃーぶもっさりしとるぞ。次の休みに切ってこい。公務員は身だしなみも大事じゃぞ」
「はあ」
身だしなみが大事だという上司の首元に思わず目が行く。ゆるっと締めたネクタイと第一ボタンを開けたシャツ。僕も入隊始めの頃は、きっちりとボタンを閉めてネクタイもかっちり締めていた。でもこの上司の、「堅苦しいし息が詰まる」と言う一言で戸惑いながらもやめてしまった経緯がある。
まだ入ってそんなに年月が経ったわけじゃないっていうのもあるけど、入隊したばかりの時の緊張感は未だに記憶鮮明だ。
「しょっぱなからセロリだったよな……」
「なんじゃおみゃーまだやっとったのか」
もっさりしているなんて言われて余計に気になって、再び鏡と睨めっこしている間にヒヨシ隊長が手洗いに戻って来てしまった。
「で半田が何じゃって?」
「僕はあの人の名前なんて一言も口に出していませんが」
思わず漏れた独り言を聞かれた気まずさと、独り言の内容を瞬時に解析された気まずさの気まずさの度合いはどっちが上だろうか。
「お前がセロリと言ったら半田、半田がセロリと言ったらお前……ってことはにゃーな。あいつのセロリはそのものずばりのセロリの事もあるわ」
ヒヨシ隊長は一人で納得して去って行った。休憩時間をトイレなんかで潰してる僕と違ってお忙しいんだろう。
「いっそ丸坊主にしちゃおうかな」
それなら隊の誰とも被らないし。セロリだなんだと言われることも無くなるだろう。そう、セロリだ。
初めて入った隊の詰所は薄暗くてひどく狭かった。
今じゃ普通にリラックスできる部屋だし薄暗さなんて感じない。初めての時の印象は何だったんだろうって考えて気がついた。あの時は緊張のあまり視界が狭くなっていたんだなって。
それほどまでに初日は緊張していた。
配属が決まる前からヒヨシ隊長やヒナイチ副隊長のことは当然知っていたし、そんな人たちの隊に配属されたという緊張と、その中に個人的な憧れの対象であった半田桃さんがいるっていう緊張とで挟み潰されて、あの日の僕はといえば息をするのも精一杯の有り様だった。
挨拶の時も、場に飲まれないように、足の裏に力を入れて慣れない革靴でリノリウムの床を踏み締めた。そうでもしないと気が遠くなってしまいそうだった。そんな緊張感まで鮮明に思い出せる。
あの時かけられた第一声も。
「見事なセロリ色だな」
何のことだか瞬時には理解できなかった。
僕の方を見てうんうんとうなづきながら矯ためつ眇すがめつ僕を見る視線を追って、どうやら僕の髪色のことを言っているんだと気がついた。僕はといえば御愛想笑いで返すのが精一杯だったけど, 僕の様子を見かねて冗談を言ってくれたんだな、って気がついて、その心遣いに心が震えた。あの時の気持ちだって未だに。
……それが冗談なんかじゃなくて、あの人なりの本気の賛辞だったのだと気づいて、僕の憧れの気持ちが崩れ去るまでにはそうはかからなかったけど。だからあの時愛想笑いで済ませたのは結果的には正解だったっていうのはまた別の話だ。
髪を剃ってしまうという思いつきは、自分の中で本気の割合が増えてきてほぼ確定事項になった。
そうしてその勢いのまま散髪を予約した。
……のだけど、それこそ大きな鏡の前に座ってまさに髪を切る直前で、僕の口をついて出たのは「整えてください」と、ただそれだけだったのだった。
直前になってそれをやめたのは、急にセロリから葱坊主になった僕を見たら、僕の大事な相棒が混乱するのではないかと思い至ったからだった。
混乱はしないまでも、頭に掴まるところがなくなったら彼も困るだろうし、あの重みが消えてしまうのは僕も寂しい。
あとひとつ、あの人が僕に構う理由が消えるから——なんていう理解不能な理由がちらりとよぎったような気もしたけど、瞬時にそれは撃ち消したのでそれはもう最初から無かったということです。
だって本当に、憧れの気持ちなんてとっくに消え去ってるっていうのに、何でこんな感傷めいた気持ちになるのか、僕にはまったくわかんないんだよ。
浮かない顔をした鏡の中の自分に言い訳めいた弁解をしたい気持ちになった訳なんて。