仮眠室に安心毛布 部屋に足を踏み入れるとすぐに、閉め切った部屋独特の臭気と湿度を感じた。
待機時に使用する仮眠部屋には先客がいて、すうすうと寝息を立てている。光源を極力排したその部屋でもその目はしっかりとその像を捉えた。
寝息の発生源は常のしかめ面はどこへといった感じに険の抜けた、どことなくあどけない顔を晒していた。首元までしっかりと布団を被り、頭だけが行儀良く枕に収まっている。
柔らかそうな前髪が重力に従っていつもと違うラインでそのどことなく幼さを残した顔を縁取っていた。
その柔和さにどことなくほっとした感じを覚え、思わず見入ってしまってから、人の寝顔をまじまじと見る非礼に気付き半田はようやく目を逸らした。
しかし目を逸らしても、かすかな規則正しい寝息は耳をくすぐったままだ。
それが、親切心だったかくすぐられて湧きあがったいたずらめいた気持ちからだったのか、半田には思い出せないが、さして明確な意思なくその指は動いたのだった。
自分がほとんど無意識でそれを行ったのだと気付いたのは、寝息を立てるそのぽっかりと開いた口に指を置き、その思わぬ柔らかさと熱さに驚いて初めて口呼吸で眠るのは健康に良くないからだなどと言い訳めいた言葉が浮かんだからだった。
自分は一体何をしているんだと我に返り、これ以上おかしなことをする前に本来の目的を遂行しようと自分の寝床を確保するべく目を泳がせた。
「……せんぱい……」
向けた背に届いた声は呼気が主成分で、静まり返ったこの部屋でなければ気付けなかっただろう。
「よくわかったな」
振り返り見たサギョウの目が閉じられたままなのを確認して、湧いた疑問を半田はそのまま口にした。
「……こんなこと……ぼく……に……の……せんぱい……け……」
覚醒しきらない寝起き独特の重だるさを存分に含んだ声には、それでも睡眠を妨げられたという苛立ちはなかった。聞き取りにくいその声のために、開いた距離を半田はまた縮めた。
「せんぱい、となりにきて」
耳を寄せて聞き取った声は、先よりははっきりとしているがまだほとんどが呼吸混じりだった。聞き取った言葉が咄嗟に理解できず、ただただ吹きかけられた呼気が耳から心の内に入り込むような心地がした。
「何を……」
入り込んだ音を反芻し、意味を成すと、今度はそれが心臓の内で破裂した。
「くさくて……ねむれそうになくて……」
覚醒したことで嗅覚を取り戻したのかそんなことを言う。
「せっかくねれてたのに……せきにん……」
サギョウには以前ひどいフレーメン状態に陥った時に鼻をリセットしてもらった恩があったからと、またひとつ言い訳を己の内にこぼしてサギョウの隣の布団に潜り込んだ。
「もっとちかくないとダメです……」
その言い訳を必要とした理由を考える間も無く、もぞもぞと掛け布団ごと寝返りを打ってサギョウが身を寄せてきた。その顔にはいかにも不機嫌であると言うように眉間のしわが刻まれていて、先ほどまでのあどけなさは綺麗さっぱりと消えていたが、理不尽を言い立てて芋虫のようににじり寄ってくる様子はまるで拗ねた子どものようだと半田は思う。
そして布団の隙間からジャージの肩口が覗くのに気付き、わざわざ着替えたのかと思い、この後輩が以前仮眠室で眠るのが難しいとヒヨシにぼやいていたのを思い出した。
すぐに慣れるとあしらわれていたが、その後も本人なりに工夫をしたのだろう。休養を取るのも仕事のうちだ。最初の頃のように慣れない勤務からの寝不足で体調を崩すことも無くなったことも一緒に思い返す。わざわざ着替えを用意してまでしっかりと休養を取ろうと挑んだところを自分は邪魔をしたのだな、と半田は改めて反省をした。
肩口に先に柔らかそうだと思った前髪が自分の肩に触れるのを感じた。
すんすんとまるで犬のように鼻を鳴らした男が満足そうに息をついた。そのままその呼吸がすうすうと規則正しいものに変わっていくのを半田は聞いた。
また胸がぞわぞわと騒ぐ。
果たして自分は眠れるだろうかと不思議に騒ぐ胸を押さえて、そのよく効く夜目でなんの変哲もない天井をただ眺めた。