草上の朝食(晴天)「うひゃっ」
ばしゃん、という音と共に背中にじんわりと湿った感触が広がった。
「センパ〜イ、背中見てもらっていい? これただの水?」
上方の雨樋から伝ったものだろうというのはすぐにわかったが、それでも背中は自分では見えないので前方で仕上げの点検を行なっている相方に声を掛けた。
「ただの水ではあるが、……結構泥混じりだな」
近づいて水分を含んだ服を検分した僕の相棒がそう言った。
相棒はダンピールなので鼻が利く。もちろん一般的な嗅覚って意味じゃなくて、僕の今かぶったこれがただの雨水なのか、吸血鬼の残した何らかの残留物であるのか、の嗅ぎ分けができるという意味だ。
「うへえ……まいったな……」
「真っ黒だぞ」
「あーあ……」
吸血鬼絡みのものではないことにはほっとしたが、汚れがひどいと聞いてはホッとしてばかりもいられない。なにしろ僕のコスチュームは白なので。どこかの団体に所属してるわけでもないからクリーニング代なんて出ないし、シミなんて残った日には作り直しだって検討しなきゃいけない。
唸りながら背中を気にする僕にパートナーが言った。
「この際白い衣装なんてやめたらどうだ?」
「人の選択にケチつけるのってマナー違反だと思いますよ」
何回目だろうね、この会話。
何度となく僕たちの間で交わされたお約束。
相方だって本気で言っている訳ではないし、僕だって本気になんてしない。気心が知れてからの二人の間で交わされるじゃれ合いみたいなものだった。
ここ数日は雨続きだった。
そして冬の寒さが去りつつあり、日中の空気に春の気配がし始めるこの頃は、こうした依頼が増える。具体的に言えば低級吸血鬼の発生予防。
雨で流れた吸血鬼避けの薬剤を散布したり、おまじない程度の魔除けや罠を設置したりだ。
まだ夏は先のことだとはいえ、陽だまりでの作業はそれなりに体温を上げる。雨樋から受けた水の爆撃は背中ですっかりぬるくなって気持ちが悪い。
吸血鬼退治人なんていうと夜の仕事が多いみたいなイメージを持たれることもあるけど、結構こうした日中の仕事も多いし、まあまあの報酬にもなる。今日は雨樋の掃除もついでに行ったので料金に色を載せてもらえた。
クリーニング代にもならない端数の切り上げ程度だけど、贅沢は言っちゃいけない。次回もどうぞご贔屓に。
移動用のバンに入る前にまず服を脱いだ。座席を汚したくないから。
退治人なんて仕事は、響きは格好いいけれど、地道な汚れ仕事なんかも多くて、バンには退治道具の他にもさまざまな小道具が積んである。
ちょっとした工具や薬箱。洗濯用洗剤なんかも。
「センパーイ、ねえ、漂白剤とかあったっけ?」
お借りした駐車場で脱いだコスチュームを陽に透かした。依頼人の家で、掃除ついでに背中の汚れをホースでざっと落とさせてもらったけど、ばっちりシミが残っちゃってた。さすがに仕事中に悠長に洗濯するわけにはいかなかったのだ。
「あるぞ。その水色のバケツに洗剤と一緒に入ってる」
こんな時のために、庭にあった猫避けのペットボトルを一本分けてもらっていた。もちろん洗って、中の水は詰め替えさせてもらった。これくらいは許されたい。
バケツの中身をどかして、水を張って漂白剤を混ぜ入れた。量がちょっと心許ないけど汚れを中心に漬け込めばいけるだろう。下に着ていたTシャツもズボンも濡れてしまっていたのでついでに脱いだ。パンツ……はさすがに履いておこうかな。万が一職質された時なんかに非常に困ったことになる。
「なあ、その呼び方もうやめないか? 仕事はもう終わりだろう」
「ふひ」
思わず変な笑いが出た。
さっきから言いたそうにしてたのってそんなことだったの?
最初の頃も、目上の人だし、普通に半田さんとか、弟弟子でもあるしセンパイ、とか呼んでた。でも堅苦しいからやめてほしいって請われて、じゃあ、桃さんでって話になった。
でも「とうさん」って呼びかける響きは、知らない人が聞くとまず「父さん」に変換されてしまう。これは仕方のないことだ。
依頼人の前で呼んでぎょっとされたりを三度ほど繰り返したところで僕たちは人前でのその呼び方を封印した。以来人前では半田さん、とかセンパイって無難に呼んでる。
桃、っていう名前を、正直にいえば僕だって、呼びにくい響きだなって思った。
だけどその由来を聞いたら僕も大好きな名前になった。好きな人の名前だからなおさらっていうのもあるのかもだ。
♢
「失敗したなあ、ごめん。こんなんじゃどこにも入れないですね」
元々雨樋掃除なんて予定にはなかったのもあるけど、うっかり着替えを積むのを忘れてしまったのでパン一でバスタオル一枚を肩から巻いただけの情けない格好なのだ。
せっかくの遠出だしどこかでご飯食べようって約束してたのにな。パンツ一丁じゃどこにも入れない。
「謝ることじゃない」
ついでに言えば、帰り道は僕が運転する約束だったのに、優しいこの人はそれも不問にしてくれるらしい。
今日の依頼先は、車で一時間もかからないところだけど、まあまあの山の中だった。
ホームページも開設しているので、こうやってたまに遠方から依頼が来ることもある。新横浜はハンター激戦区で、顧客の取り合い状態だ。だからあまりにも遠方じゃなければこうして引き受けることもある。遠方でも依頼料次第ではお受けしたりも。滅多には来ないけど。
実際、ハンターだけで食べていけるのは一握りで、副業を行う者も少なくない。
僕らは、といえばまあまあそこそこやっていけてるのかな。
少なくとも副業はしないで済んでる。自転車操業までは行かないけど贅沢な暮らしには程遠い、ってレベルで。
電卓を唸りながら叩いている時には、大人しく公務員目指しとけば良かったかな、なんて思う時もある。今日だって、有料道路は使わなくて済むように早めに出発したくらいには清貧な生活を送っている。
それでも退治人の中では僕らは覚えのめでたい方だ。
桃さんはあの真祖の血族のロナルドさんとの対決でそれなりに名を馳せているし、その相棒の僕はといえば、人的殺傷能力はないとはいえ、見た目はまあまあ派手な獲物を使うことで一部には知られている。
まあ今日みたいな依頼には必要ないから持ってきてはいても出番はないし、むしろ一般の方には物騒に映るから、よっぽどの有事の時以外には隠しているけど。
警察にも許可だの講習だのって定期的に通わなくちゃいけないんだ。でも、おかげで吸対の人たちとは顔見知りだし、何かあった時にお声がけをいただくこともある。
おかげでってわけではないけど、僕の制服が白なのは、吸対の隊服を模している。何故なら僕は吸対を目指していた時期があるからだ。──なんて噂があるらしくて、それをネタに桃さんが僕をからかうのがお約束になってる。
吸対の人にも言われたことがあるんだけど、僕の狙撃の腕はあっちの中でも争えるほどなんだって。お世辞かもしれないけど、あっちへ進む道もひょっとしたらあったのかもな、なんて考えなくもない。
正直に言えば、僕は元々吸対を目指していた。
まあ、でもこの人に出逢っちゃったからね。
この人に出会って、僕の進路はまっすぐに退治人になったし、いいなとは思いはしても、今では吸対に入ろうとは微塵も思わない。そのくらいにはこの生活が気に入ってる。
白い色と長めの丈のデザインを選んだのは、過去の憧れの職への未練も多少はあったのかもしれない。あんまり意識はしてなかったけど、深層心理とそんなのがないとは言い切れない。でも今となってはこうしてコンビを組めたこの人の、神父さんみたいな衣装と対の修道女みたいでペア感があっていいかなって心の底から思ってる。結果オーライってやつだ。
僕が退治人を目指した訳を、この人は知らない。僕もわざわざ言うつもりはない。だからこそのからかいだ。別に絶対的に秘密にしたい訳じゃないから、どうしてもって言われたらいつでも答えるんだけど、優しいこの人は秘密の気配を感じ取ればずかずかと踏み行ったりはしてこない。本人はこんなにも開けっぴろげな質なのにな。
憧れていた人とコンビを組むことができて、僕の人生の第一目標は叶ってしまった。
憧れは消えてなくなったけど、代わりに生まれた親愛は、いつの間にか恋情にとすり替わってた。あるいは元からそうだったのかも。
気のせいじゃないかって流すこともできたけど、そうしたくはないって正直な気持ちの方を、僕は選択した。せっかくの自由業なんだから、全部が自由だっていいよなってそんな気持ちで。桃さんも僕を好いてくれた理由はわからないけど、嬉しいって気持ちで素直に受け取って、仕事上のパートナーは晴れて私生活でもそうなって、僕らは自由にどこにでも行ける。そのはずだ。
♢
運転中の桃さんの代わりにこれからのスケジュールを確認していたら、大きなくしゃみが出てしまった。
少量とはいえ、漂白剤を使ったので窓は軽く開けてある。そのせいで車窓から吹き込む風に体温を奪われてしまったみたいだ。少しぞくぞくとする。風邪でも引いたらことだ。貧乏暇なしだっていうのに。
「大丈夫か? ちょっと休憩しよう」
まだ全然山の中だった。車を止められるようなところはいくらでもあった。
私有地のおそれは十分にあるけど、緊急事態だから許されたいと僕らは少し開けた空き地に車を停めた。
車から降りると、外の日差しが暖かく、冷え切った体をじんわりと温めてくれた。
季節はちょうど春から夏へと切り替わるところで、日差しはまだそこまでキツくない。
ちいちいとけたたましい程の鳴き声がして、鳥の群れが飛んで行った。声を追うと木々の間に抜けるような青空が見える。仕事柄、夜動くことが多いので久しぶりにじっくりと見る晴天が沁みた。
「天気が良くて気持ちいいですね」
「ああ、弁当でも持ってきたらよかったな」
「本当だ。最高のピクニックになったのに」
ゴム手袋を嵌めて制服の水を固く絞った。濯ぎの水はないから塩素の匂いがすごい。乾かしたらちょっとはマシになるだろうか。皺を叩いて伸ばして、若草色の(先輩曰くセロリ色の)バンの屋根に広げて干した。
「乾くといいんだけど……」
雲一つない晴天に期待を込めて、被っていたタオルを肩から落として地面に敷いた。
「携帯食詰んどいて良かったですね」
「そうだな。何が起こるかわからんな」
その上でもそもそとせめてもの腹の足しにと詰んであった保存食を食べた。あと二年は賞味期限があったのにな、なんて考えてしまうのは、すっかり身についてしまった節制癖だ。
パンツこそ履いてるけど裸のまんまの僕と、方や服をしっかり着込んだ人。僕は有名な名画をふと思い起こした。あの人たちなんで裸だったんだろうな。
「桃さんも座る? 眺めがいいよ」
広げたタオルの上をぽんぽんと手で叩いて桃さんを隣に招いた。桃さんはタオルの上は狭いからと立ったままだ。
「今日の予定は夕方からだったか?」
僕の誘いに首を横に振って断った桃さんは次のスケジュールのことで頭がいっぱいみたいだった。仕事のこととなると真面目な人は、少しばかりオンオフの切り替えがうまくない。この人が箍を外すのは吸血鬼ロナルド絡みの時くらいだ。
「うん、事務所に相談の予約が一件入ってたから……」
約束の時間と、移動時間、食事や身支度の時間から逆算して二時間くらいならなんとかなりそうって結論を出した。数時間で乾くとは思わないけど、何もしないよりはマシだ。
「せいぜい日光を吸収します」
そう言って僕はごろんと横になった。
「おい、汚れるだろう」
「気持ちいいよ、桃さんもやったら?」
せっかく誘ってあげたのに桃さんは乗ってこなかった。僕と違ってせっかく黒い服なんだから汚れなんて気にしなくていいだろうに。
「子供の時以来だ、こんなの」
柔らかい草のクッションと土の匂いを感じて、泥汚れなんてものともしなかったあの頃を思い出す。小さいバッタが目の端を横切っていった。ここならゴビーへのお土産も見繕えるかな。
「のどかだな……」
鳥の囀りと、時折木々を渡る風がさやさやと音を奏でていった。
「ねえ、桃さん、誰も見てないよ」
少しばかりリラックスしたようなその声に押されて、懲りずに僕はまた桃さんを誘った。一人で堪能するにはあまりにもったい。
「……俺が見てる」
「明るいところで見る僕はどう?」
桃さんの、木漏れ日にさらされた僕の肌を見る目に色が乗っているのに、気づいてしまった。気づいたら、もうだめだった。つい今さっきまで童心に戻った気持ちでいたのに。これだから、大人っていうのは。
手を伸ばして桃さんのズボンの裾をちょいちょいと引っ張った。
今度は逆らわずに腰を下ろした桃さんの、届くようになった腕を引いた。
「先輩の服は、やっぱり夜の方が映えるね」
青空のフレームに収まった桃さんの禁欲的な神父衣装は、どことなく場違いに見えた。
さらに腕を引くと、抵抗なく桃さんの体が僕に覆いかぶさってきた。
夜見る時にはハチミツ色のその瞳は、日光の下ではお月様の色になる。見えなくなるのが勿体無くて、それが完全に隠れてしまうまで見守った。
こんな外で、この人なら軽く合わせるだけで終わるだろうと思っていた口づけは、存外深いものになった。僕がねだらなくても与えられるそれに夢中になって貪った。
世界が終わるまでこうしていられたらいいのに、なんて刹那的な感想が浮かぶのは何故だろう。
こんなにも幸せなのに。
合わさった唇から水音が漏れる。素肌を制服の固い布地がゴワゴワとした感触を残して撫でていく。敏感なところをそれに撫でられて肌が粟立った。こんな表でこんな風に煽られたらまずいとわかっているのに、もっと触れてほしいと思ってしまうのを止められないでいた。