すれ違いはご愛嬌で 俺が主の初期刀として顕現してから数月が経った。最初は手探りだった本丸の運営も随分と軌道に乗ってきて、少しずつ刀剣男士の数も増えてきた。その日俺は珍しくも近侍も内番も遠征や出陣さえない完全な休日で、ぽかぽかとした春の陽気に浮かれながら縁側に座って爪を整えていたのだった。暑すぎない心地の良さだけをもたらす日差しを受けて、鼻歌交じりに作業に集中していた俺が周囲への気配感知を疎かにしていたのは言うなれば必然のことで。
「──加州」
「うわああぁっ!?」
すぐ後ろから聞こえた呼びかけに思わず叫び声をあげて振り向くと驚いたように目を見開いた主が不自然な位置で手を止めていて、多分俺の肩にでもとん、と呼びかけるつもりだったのだろう。ぱち、と目を瞬かせた主は俺の手元を見やって何をしていたのかを察してか少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん、邪魔した?」
「え、いやっううん、全然! 大丈夫!」
「そう?」
主の言葉にはっと自分の手元を見てよれたところがないことを確認する。よしよし、平気そうだ。
所在を迷うように小さく足をずらした主に気付いてぱっと俺の隣にひとり分の空きを作れば主は「座ってもいい?」と尋ねてきた。もちろん拒否などするはずもなく肯定の返事とともに大きく頷くと静かな所作で主は俺の隣にそっと腰掛ける。
「主、お仕事は?」
「さっき午前中に出てた部隊の報告聞き終わったとこ。加州は……今日一日オフだったっけ」
それなら今日の近侍に突然邪魔をされることもなさそうだ、なんて考えながら主の問いかけにこくりと頷いた。せっかくこうやって話しかけにきてくれるなんて珍しいのに肝心の俺はまだ爪紅のあしらいの途中で何とも中途半端な姿なのがややいただけないが、主と他愛のない話ができるのは嬉しくてやっぱり少し浮かれてしまう。
中庭をちらりと見やって「お花見したいな」と何ということもなく呟くと主は「いいな」と笑って「明日弁当作ってみんなでやろうか」と言葉を紡ぐ。
ちょっと分かってない、と主に見えないように口を尖らせた。確かにみんなでのお花見も楽しいだろうけど、俺は主とふたりきりでしてみたいのだ。まあ今この瞬間も遠からず「お花見」なのだろうけど、お茶もお菓子もないので及第点はあげられない。
そうひとりごちながら中途半端に放置された爪紅をもう一度さしいれ始める。ふっと広がった独特の香料の匂いに主の顔を見るが特に嫌そうな表情もしなかったので、たぶん大丈夫なんだろう。
「……加州のマニキュアっていつも塗りなおさなきゃいけないの」
「んーん、手入れしたら元に戻るよ。内番とかで剥がれちゃったら直さなきゃ駄目だけど、基本的には俺の初期装備? っていうか初期装飾だから」
「へー……」
尋ねた割に薄い反応を返してくる主をちらと見やれば目があった主が慌てたように「ああいや、」と口を開く。そんなつもりではなかったのだけれど、ちょっと拗ねたのが悟られたのだろうか。
「顕現した時も手入れ終わりもしてるのにな、と思ったから。……今はなんか、剥がれたりとか?」
「ううん、ただのさし直し。この間主が万屋連れてってくれたでしょ」
その時に見つけた爪紅の色が可愛くて、本丸への備品とは別にこっそり買っていたものだった。今度こそむらなく塗り終えて、ふーっと軽く指先に息を吹きかける。ふと顔を上げれば主が不思議そうな顔でこちらを見つめていて、思わず首を傾げてしまった。
「なに?」
「んー……やっぱり好きなんだなと思って」
あまり答えになっていない答えにさらに首を傾げれば、主は言葉に迷うようにくる、と視線を宙に向けていくらか選んでいるようだった。
「──乱がさ」
「うん」
「女の子の格好が好きっていうのは分かるんだけど……、加州はちょっとそういうのとは違うだろ?」
「ああ……まあ、そうかも?」
「でもその、そういうおしゃれ? は好きなんだなと思って。ああいや、良いとか悪いとかいう話じゃないんだけど」
「え、だって……可愛いでしょ?」
当然のつもりでそう言えば主がきょとんと目を瞬かせたので少し焦って「えっ可愛いよね!? 女の人のお洒落!?」そう言い募ると、少々勢いに押されながらも合点がいったように主はこくと頷いた。美的感覚のズレでもあるのかとらしくもなく一瞬動揺してしまった。
「ちょっとでも主に可愛いって思ってもらえたら、かわいがってくれるかなぁって」
だから、まあ確かに乱のとはちょっと動機が違うかもしれない。俺が可愛くしていたいのは可愛くしていることが好き、ということが第一の動機というわけではなく主に可愛いと思ってもらえることが嬉しいのであって────あれ?
そう思っていることは紛れもなく本心だけれど、それを肝心のそう思ってほしい相手に直接言うのはかなり恥ずかしいことなのでは。
多分今の台詞を安定にでも聞かれていたら「それ自分で言う?」とものすごく呆れられていた。いやでも別に事実だし隠すようなことでもないし。しかし今ふと気付いたけれどそういえば主は俺を普通に褒めることはあっても「可愛い」と褒めたことはあんまり無かったような。えっまさか俺可愛くない? 可愛くないと思われていたとすると今の言い分はとても図々しく聞こえやしなかったか。
ひゅ、と思わず息を呑んで勢いよく主を振り向く。
「い、今のっ!」
「──かわいい」
「なしっ……、────え?」
ぽつり、とまるで零れ落ちたかのような主の呟きに俺が目を見開けば、自分でさえ驚いたのか主はぱっと口元に手をやった。当惑したように二、三度瞬いた主はじっと彼を見つめる俺と目を合わせるとすっと表情を改める。何か口を開くかもしれない主の言葉を遮りたくなくて口を閉じることしかできない俺といくらかの間見つめ合うと、主は不意にふわりと甘やかに微笑んだ。
そんな、主の心の底から穏やかな緩んだ眦を見るのなんて初めてで、体温が一気に上がるような感覚を覚えてきゅうっと胸の奥が苦しくなる。
「かわいいな、加州」
いやだ。ただでさえ今のあんたの目に映る俺はひどくみっともない顔をしているのに。そんなに優しい声で呼ばれたら、俺は。
耳まで赤く染まっているだろう自分の顔を見られたくなくて、主から目を逸らして俯いた俺はそっと震える唇を開く。
「あの、さ……あるじ、」
「なに?」
「なまえで、呼んで」
「?」
「……加州、じゃなくて、その」
「きよみつ?」
優しい暖かさを含んだ主の声はとんでもなく甘ったるく聴こえて、俺にはちいさく頷くことがやっとだった。ふ、と静かに笑みを零したらしい主の腕が視界の隅でそっと上がって思わず体を固くすれば、ぽすりと細やかな重みが頭の上に乗っかって数秒遅れてから撫でられたのだと理解する。
どういう反応を返していいか分からず固まる俺をそのままにいつも短刀たちにするような仕草で何度かぽんぽんと手を動かした主はひとしきり撫でて満足したのか、うんうんと頷いてからすっくりと立ち上がった。隠したかったのも忘れてつられて顔を上げれば主はどこか嬉しそうに微笑んでさらりと俺の前髪を梳いてから。
「もうすぐ昼飯の時間だから、清光」
冷めないうちに来いよ。なんて言い置いて広間の方へと歩いて行ってしまった。
置いていかれた形になった俺は主の足音が遠ざかって聞こえなくなってからもしばらく、そのままの格好で呆然としたあと。不意に我に返ってぶり返した頰の熱に目元を手の甲で覆って廊下に後ろから倒れ込む。
──なにあの笑い方、とか、名前で呼ばれた、とか、手あったかかった、とか。いろいろ言いたいことはあるけど。
「かわ、いいって、……〜〜〜〜〜っ」
かわいい、って言われた。
うれしい。顕現して今まででいちばん。ああいやでも。主の初期刀に選んでもらった時もおなじくらい嬉しかったかもしれないから、それとおなじくらい、ほかの何物とも比べられないくらい。
「ずるいよ……」
嬉しいはずなのにどうにも悔しいようななんともむず痒い心持ちに、情けなくも緩む頰を抑えられないまま広間の方へと向かうわけにもいかず、俺は偶然ここを通りがかった安定に「うわっ何やってんの」と引き気味に声を掛けられるまで頰の熱を持て余し続けていたのだった。