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    気づけばここは「うず」の中1 それは歓迎することができない2 それは思い当たることのない3 それは理解の及ばない4 それは変わることのない5 それは変わるかもしれない1 それは歓迎することができない もとより自分は他人の視線を嫌う方で、なるべく目立たないよう心がけて生きてきた。中学や高校の頃と言えばまた話は変わってくるけれど、今はとにかく人との関わりを避けて背景の一部になれるよう努めている。自分を守るための手段の一つとして。
     誰かに振り回されるのも、誰かを振り回すのも、疲れる。ただそれだけの理由。人付き合いが嫌いというよりは、他のことに力を注ぐために無関心でいるだけだ。
     だからこそ、このときに感じたのは間違いなく〝嫌な予感〟だった。

     コンビニで目的の商品を見つけて手に取る、なんてことのない当たり前の動作もふと止まる。この瞬間に背後に感じた視線はそれほどに強烈なもので、思わず天井を仰ぎ見た。
     視線の主が誰かは想像がつく。ほんの数秒前にこちらの目に留まった彼女に違いない。そのときは彼女もまだ気付いていない様子だったから咄嗟に目を逸らし、わざわざしゃがみ込んでまで売り場に集中したのだけれど。その僅かな時間の中で彼女も気付いてしまったらしい。はっきり言って不運でしかない。

     しかし暫く経ってもコンビニの自動ドアが開く気配はない。それがどうしても気になってしまい恐る恐る視線の根源を振り返って、視界に飛び込んできた光景に思わずびくっと肩が跳ねた。
     コンビニの大窓にぺたりとくっつき、目を見開いて大きな丸い瞳をキラキラと輝かせながらこちらをじいっと見つめてくる彼女——ほんの少し雰囲気が変わっているが、ここまで来て見間違えるはずもない。
     去年の夏にただ一度、僅かな時間を過ごした間柄。それなのに終ぞ忘れることはできなかった、そんな女の子。
     名前も知らない『後輩』が、そこにいた。

     夏の休日、ひとときの現実逃避から最寄りの駅という日常へ帰ってきたときに出会った、迷子の中学生。去年出会った彼女はそんな子だった。
     半べそをかいて駅の入口のど真ん中で呆然と立ち尽くしていた彼女にうっかりぶつかりそうになって、これまたうっかり救いの手を差し伸べてしまった。彼女は歓喜して道を訪ねてきて、仕方なくそれを聞いてみればなんと目的地は俺の母校である高校。受験を控える中学三年生として一人で志望校の説明会に向かう、彼女にとってはほんのちょっと特別な日だったようで。
     僅か十五分程度、駅から高校の正門まで一緒に歩きながら他愛もない母校の話をした。彼女と俺の関係はたったそれだけ。普通に考えて、顔まで覚えるなんてあり得ないだろう。すぐに上書きされて消えてなくなるはずの記憶……と、そう思いたいところだったのだが、どうしてか未だに思い出せる。交わした会話も、相手の表情も何もかも、はっきりと。
     それはどうやら、目を輝かせている彼女の方もある程度は同じらしい。



     見なかったことにしよう。
     咄嗟にそう思って商品棚の方へ向き直る。最早確認すらしないくらい日常のことなのに真剣に悩むふりをしてまで、彼女の目線を意識しないようにしてみた。
     全く気付かない様子を見せれば勘違いだと思ってくれるだろうか。いや、ああ、店の奥の方へ逃げればよかったのか。またもやスピーディーな後悔をした。
     その思いつきが後悔となった理由は、動こうとした瞬間に特徴的な入店音が控えめに店内へ響き渡ったからである。続けざまにコツ、とローファーの靴底が硬質なコンビニの床に当たる音まで聞こえてきて、視界に入れずとも逃げられないことを悟った。
     彼女が背後に迫ってくるまでに色々な考えが巡った。数秒の間に導き出された答えは、一度気付かれてしまったら店内を逃げ回ったところで遅かれ早かれ捕まるのではないか、ということだった。後悔すらも無駄のようだ。
     背後に立った彼女は、暫くその場に立ち尽くして。やがて口を開き、あのときから変わらない、活き活きとした声をかけてきた。

    「あ、あの……!」

     感激しているのか、彼女の声は少し震えている。振り返ってしまえば最早言い逃れはできない。覚悟を決めて背後を見上げ、苦しい微笑みを返した。

    「はっ、はい……」

     返事をすれば彼女は更に感激した様子で、一層嬉しそうな笑顔を浮かべた。思わず目を細めてしまうほど眩しい笑顔に、こちらはと言えばより気まずくなって縮こまる。
     彼女はというとそんな俺の様子は意にも介さず、相変わらずハキハキとした声で言葉を続けていく。

    「あのときのお兄さんですよね! お久しぶりですっ」

     確信したと言わんばかりの断定的な口調での挨拶、そしてご丁寧にぴっちりと角度を決めた会釈まで。ここまでされてしまえば言い逃れは不可能だった。
     絞り出した返事は、図らずも疲れが滲んだような声音になってしまった。いや実際にこの一瞬に相応の疲労を感じていたから、妥当なものだったと言えるだろうか。
     嫌な予感がどんどん強くなる。今この瞬間、俺の孤独で平凡な日常は終わりを告げようとしていた。

    「……どうも」


    ***


    「あのときは本当にありがとうございました!」

     感激した様子を隠しきれない『後輩』は、そう言いながら再び洗練されたお辞儀をした。彼女よりは社会人に近いはずの自分の同級生にも、ここまで礼儀正しい人間は居ないのではないだろうか——そう思えるほどのお手本のようなお辞儀だった。
     それを見せつけられて『先輩』として黙っている訳にもいかず、慌ててその場に立ち上がって軽く頭を下げる。彼女に比べたら誰の模範にもならないが、形式的でも常識くらいは持ち合わせていますというアピールにはなっただろうか。

    「ど、どういたしまして」

     たったそれだけの会話で、後輩の彼女は朗らかな笑顔をぱあっと咲かせた。とにかくずっとお礼が言いたかった、という願いが叶って喜んでいるように見えた。たった一度下手な道案内をしただけで、その別れ際にも数え切れないほど礼を言ってくれたというのに。再会をここまで喜ぶに至る彼女の気持ちはよくわからなかった。
     その答えは、他でもない彼女自身が自らの口で語ってくれた。

    「お礼も何もできなくてごめんなさい。あっ、よかったら今なにか奢らせてもらえませんか?」
    「えっ!? いやいいよ、そんな大したことは——」
    「もしかしてそのミントのやつ買うんですか? 私はお茶買いに来たので、一緒にお会計しますっ。ちょっと待っててください!」

     彼女は返事を聞くこともなく、先程まで俺が凝視していた商品棚からミントタブレットの四角いプラケースを一つ手に取り、走りこそしないが風を巻き上げんばかりの勢いで店内後方の飲み物売り場へ去っていった。その様子に想わず「あっ、ああぁ……」などと意味のない声が出て、手ぶらだった左手は空気を掴む。
     彼女が持っていったのは、俺がこのコンビニに入った目的である商品に違いない。しかしあの道案内の礼として奢ってもらうようなものでもない。寧ろ礼なんてする必要はどこにもない——と、言いたいことは山程あったが、ペットボトルの緑茶を手に眩しい笑顔で戻ってきた彼女に告げることは叶わなかった。
     後輩の彼女はといえば、絵に描いたような明るい笑顔を絶やさないまま一度確認をとり、俺がうっかり頷いてしまうとレジに直行した。スムーズに会計を済ませ、少し混み合い始めた店内を縫うように抜ける。俺も彼女に手招きされて慌てて店の外に出れば、自動ドアから少し離れた位置での立ち話に持ち込まれてしまった。

     逃げられない。いや、やろうと思えば逃げられるだろうけれど、彼女の笑顔を見るとどうしても良心が邪魔をする。これほどに自分の善良な心を憎んだことはない。
     目の前の男が心の中で繰り広げるそんな葛藤も露知らず、後輩の彼女は買ったばかりのミントタブレットを手渡してきた。少しの間迷って目を泳がせるも、結局彼女の笑顔に押し負けて受け取ってしまった。
     暖かく日の長い季節とはいえ、辺りは次第に夕焼け色に染まってきていた。学校帰りらしい後輩の彼女は、よく見なくてもわかるくらい見慣れた制服を身に着けている。まさか本当に我が母校に進学するとは——そんなことを考えた瞬間、まるで思考を読むかのように彼女は語り始めた。

    「あのときお兄さんに会えたお陰で、無事に進路が決まったんです。本当に感謝してます」
    「そんな大げさな……というか、本当に角為かどなし高で良かったの」
    「大げさなんかじゃないですよ! 素敵な学校ですっ、選んでよかったです!」
    「そ、そう。なら良かった……えっと、合格おめでとう」
    「ありがとうございますっ!」

     母校に通う後輩となった彼女はえへへ、と照れたように笑った。あまりにも眩しくて、目を細めなければ直視は難しい。
     彼女に奢ってもらったミントタブレットを上着のポケットへ突っ込んでいると、目の前でニコニコしている彼女が突然ハッとして顔を青く染めた。何かをしでかした様子だが、こちらに思い当たる節はなく首を傾げる。すると彼女は慌てて深く頭を下げ、またすぐに見上げてきた。

    「名乗りもしないでごめんなさい! 私、平形円郁ひらかたまどかっていいます」

     ここまで来てしまえば礼儀正しさは満点合格だろう。少々押しが強いのは困りものだが。
     しかし彼女の次の言葉で、そうやって彼女を観察するような余裕は消え失せてしまった。

    「お兄さんのお名前もお聞きしていいですか?」
    「えっ!? あ、え、……っと」

     平形と名乗った後輩は、食い入るようにじいっと見つめてくる。絶対に答えてほしいと眼力で訴えられて、思わず後退りした。
     名前を知ってどうする気なのだろう。まさかまた会いに来るつもりだとでも言う気だろうか。今どきの女子高生は、相手が学校をとっくに卒業している先輩であっても友達になりたいと考えるのだろうか?
     正直なところ、孤独で平凡な日常をこれ以上崩されたくはない。とはいえ『名乗られておいて名乗り返さない』というのはどう考えても失礼だ。またしても良心に敗北して、自然と口が開いてしまった。

    「あ……安立。安立珠己あだちたまき、です」

     あっさりと、そして正直に、丁寧にフルネームで。こんな風に名乗るつもりは更々なかったのに、結局彼女につられてこうなった。
     気恥ずかしくなり目を逸らし、頭を掻く。そうして逸らした視界の端にも、彼女の笑顔が花開くのが見てとれた。

    「安立先輩ですね!」
    「せ、先輩はちょっとなんか、むず痒いな……」
    「そうですか? じゃあ安立さんって呼びます!」
    「う、うん」

     一番懸念していた『先輩呼び』だけは既でなんとか回避して、ホッと胸を撫で下ろす。と、そうして安堵したのも束の間、強烈な後悔が脳裏を過ぎって冷や汗が垂れ流れた。

    ——しまった。名前を教えるのが一番まずいじゃないか。
     彼女は今や角為高の、俺の母校の生徒。そこには当然俺のことを知っている人間が教師をはじめとしてそれなりにいる。そういう人に少し名前を尋ねるだけでも彼女には恐らく〝知られて〟しまうだろう。それは困る。
     ……困る?
     いや。この子に知られたところで困るようなことが起こるだろうか。たかが高校一年生、社会への影響力なんて大したものではないはず。
     寧ろすべてを知ってくれれば、俺に今後会いたいとも思わなくなるはず——

    「急に呼び止めちゃって迷惑でしたよね。すみません! でもどうしてもお話ししたくて……」
    「……いや。それより、そろそろ帰ったほうがいいんじゃない?」
    「えっ?」
    「もうじき暗くなるよ。家、遠いんでしょ」

     そう言って目線を空へ促してやれば、嬉しそうにそわついていた彼女もあっと声を上げた。ゆっくりと夜色に変わっていく空模様は彼女の眼中にはなかったらしい。
     彼女は慌てて手に持っていたペットボトルの緑茶をかばんに放り込んだ。

    「もう電車乗らなきゃ……ごめんなさい、私帰ります!」
    「うん、気をつけて」

     これで最後だと思えば、幾らか気が楽だ。焦った様子で背を向けた後輩にふと微笑みを向けて、控えめに手をひらひらと振った。
     ぱたぱたと駆け出した彼女は、しかしふと立ち止まって振り返る。そして、この日一番の満面の笑みを浮かべ、こちらへと手を振り返した。

    「またお話ししましょうっ!」

     溌剌とした元気な声でそう言い残し、平形円郁は瞬く間に去っていった。それはもう文字通りの一瞬、風を切るような凄まじい速さで。

     体育会系なのだろうけれど、あれほどとは。その脚力や瞬発力がどれほど競技に発揮されているのかには一抹の興味が湧いた。逆に言えばそれ以外のことに興味は特に持てなかった。
     宣言通りに今はハンドボール部に入っているんだろうか。というかそれだけで進学先を決めてしまうなんて……相当やりたかったんだな。
     彼女はああ言っていたけれど、もう会うことはきっとない。最近は電車で遠出することもないから駅には行かないし、行きつけのこのコンビニだって角為高や駅からは少し距離がある。今日ここに彼女が来たのは単なる偶然でしかないだろうから。

     彼女と出会ったあの頃よりは過ごしやすい。そんな日常は、ポケットにすっかり馴染んだミントタブレットと同じように、変わることなく消費されていくはずだ。
    2 それは思い当たることのない「安立さん、こんにちはっ!」
    「……こんにちは」

     おかしい。明らかにおかしい。
     再会から半年、長かった日は短くなり冬の訪れを感じ始める頃。角為高のちょっと変わったデザインの冬服を着ている平形さんが、あれから何度目かもわからない挨拶の言葉をかけてきている。
     場所はもちろん例のコンビニ。駅や角為高からは少し距離があり、彼女の通学路にはなり得ないはずの場所。会うことになる曜日は大体決まっていて、俺は大学の講義からの帰り道、彼女にとっては部活が休みの日の寄り道……らしい。
     彼女が意図的に俺に会いに来たりしない限り、そもそも俺たちに接点はない。それでも何回も会っているということは、つまり、そういうことだ。
     そういうことだから、おかしい。

    「大学のお話、今日も聞かせてもらえませんかっ!」

     彼女は溌剌とした声でそう言いながら、商品棚から手に取ったミントタブレットをこちらに見せる。ミントタブレットはすっかりと定番のお礼アイテムになり、結局今日も彼女の手にあるそれは俺のポケットに押し込まれる運命となっている。
     俺はそれを喜んで素直に受け取っている——ように、彼女の目に映っているわけもないだろう。確かに俺がここに来る目的は大抵ミントタブレットで、彼女のお礼があろうがなかろうが購入することは変わらない。しかし、望んでいるわけでもない彼女との会話を受け入れてまで奢ってもらおうなどとは一瞬たりとも思わないし、正直言ってしまえば交流の有無を問わず受け取りたくない。年下の女子にたかるみたいで胸が痛む。
     だったら一度拒否して彼女と別れた後に自分で買おうと思い至り、実際そのようにしたことがある。すると彼女はどうやらその様子をしっかり見ていたようで、次に会ったときから「どうしても奢りたい」と言って聞かなくなった。執念を感じて若干引いてしまった。

     平形円郁という女子高生は相当な頑固者だ。礼に値するような話はできないと何度聞かせても、会話して〝大学生の雰囲気〟を感じるだけで価値があるなどと宣ってこの行為を辞めようとはしない。全く意味がわからない。
     そうは言っても年下の子から貰ってばかりでは気が引けるので、こちらから先手を打ってペットボトルの緑茶を奢り返すのも定番になりつつあった。たまにお菓子をつけることもある。そういったよくわからない交流が、月に一度ほどの頻度で発生していた。
     そして、今日も概ね変化はなく。

    「そう言われてもなぁ……もうだいたい話したでしょ」
    「そんなあ! ちょっとだけでも!」

     学部の話、環境の話、入試の話……その辺りはあらかた話してしまったけれど、依然として食い下がってくる。渋っているとミントタブレットの会計を手早く済ませて、強引に握らせてきた。やたらキラキラした眼差しというおまけ付きで。
     その手にお茶とチョコ菓子を一つ握らせ返してやると、彼女はむうっとしながらも素直に受け取る。彼女は甘いものが大好物のようで、一緒に渡されてしまうと拒みきれないらしい。
     外に出て、自動ドアから少し離れた位置に二人で立つ。相変わらず変な関係だと思ってはいても口には出さず、代わりに助け船を出した。

    「じゃあ、平形さんが聞きたいことを質問してよ。できる範囲で答えるから」

     やりとり自体は普遍的と言えないだろうけれど、一年生のうちから進学を見据えている真面目な後輩を思えば突き放すようなことは避けたかった。特に彼女の環境——兄や姉はおらず一人っ子、両親はスポーツ推薦で大学へ行っていてあまり参考にならないらしい——では、進路に不安を抱くのも仕方ないかもしれない。そんなところに『自分にとって理想的な大学生活を送っている先輩』が現れたとなっては、話を聞きたいと思うのもわかる……と思うことにしておく。
     実際の彼女の思惑がどうなのかはわからないが、いつぞや彼女が慌てて取り繕うように語ったその事情が真実であるという前提で自分も振る舞うことにしていた。
     不安だと言う割に聞きたいテーマがはっきりとしていないのは、やはり怪しさ満点ではある。見て見ぬ振りするのも優しさかもしれない。

     こちらからの問いかけに、彼女は暫く悩んだ様子だった。そしてやっと思いついたらしく、パッと笑顔を向けてきた。相変わらず表情がコロコロと変わる子だ。

    「あ、安立さんはその、講義がないときには何をされてますかっ?」
    「んん?」

     大学のことを聞きたいんじゃなかったんだろうか、と俺が怪訝な顔をする。すると平形さんの表情は慌てた様子に切り替わって、絞り出すように理由を語り始めた。

    「あっ、遊んだりする余裕とかどのくらいあるのかなぁって思って! えっと、その、お勉強ばっかりじゃ身がもたないですしっ、安立さんはどんな息抜きをしてらっしゃるのかなーとか……!」
    「ああ、そういうこと」

     確かに、私生活となると高校までの暮らしから変わった部分は多い。そういう点も不安に思うところはあるのだろう。相変わらず息苦しい実家暮らしの自分にできるアドバイスなんて、たかが知れているけれど。

    「やってることと言えば……バイトくらいかなあ」
    「バイト! いいなあ、私もはやくやりたいです」
    「角為は校則で禁止だもんね。ああでも結構いたよ、こっそりやってる子」
    「えぇっ、それってだめなんじゃ……?」
    「……平形さん、本当に真面目だよね」

     角為は校則がそれなりに厳しかったが、教師の目がないところでは遊んでいる子も多かった。とはいえ進学校故かまだ常識的な範囲であり、事件になったりするようなことは殆どなく平和だ。教師たちも目くじら立てて罰則を与えたりすることはなかった。
     そんなことを思い出しながら、目の前の後輩の姿を少し観察してみる。思い出せる限りの校則と照らし合わせても、違反にあたる部分は一つもなさそうだった。模範的な優等生というか、遊び心なく生真面目というか。学校から少し離れてもこうなのだから、校内ではもっとしっかりしているのではないかとさえ思う。
     当の本人はきょとんとして、ルールは守るのが当たり前では、と言いたげな顔を向けてくる。その気持ちもわからなくはないが、少しくらい自由を求めてもいいだろうに、なんて無駄な心配を寄せてしまう。

    「大学生なんて、高校までに比べたら全然暇だよ。あー、いや……友達と遊んだりサークルに入るならやること尽きないと思うけど」
    「安立さんはお友達と遊んだりされないんですか?」
    「……まあ、うん。一人が好きだから、友達自体そんなに……」

     微妙に痛いところを突かれ、思わず苦笑いを零した。こんなところまで正直者にならなくても良かった気がする、とまた後悔した。
     彼女との交流は後悔ばっかりだ。それだけ俺は自分に自信が持てていないんだろう、実感する度に少し暗い気持ちになる。だから彼女への苦手意識も拭えない。
     俺が目線を地面に落としている間、彼女は何かを考え込んでいたようだ。友達が少ない先輩をどう励まそうか悩んでいるのだろうか、そんな必要はないというのに。
     しかし、こちらの顔を覗き込んで彼女が放った言葉は、励ましとは微妙に違う問いかけだった。

    「私のことはお友達に数えてくれますか」

     思わず瞬きをして、その場に固まってしまう。想定外の言葉は意味を理解するのに時間がかかった。一体どういう意図の質問なのか、まるでわからなかった。
     異様に感じたのは彼女の言葉の内容だけじゃない。なんというか彼女の表情が、うまく表現できないけれど……いつもと違って見える。こんな顔をする子だっただろうか。妙に甘く優しげで、それでいて期待を込めるような。
     どう返すべきか。すっかり混乱してしまって、曖昧な答えしか出せなかった。

    「えー……うーん……後輩、かな……」
    「えぇ~、先輩って呼ばせてくれないのに?」
    「それは呼ばれ慣れてなくてムズムズするから……!」

     少し不満げな反応が返ってきたが、それと同時に平形さんの表情も変わった。比較的いつも通りの無邪気な顔だ。目にすればなんだかホッとしてしまう。
     暗くなるから早く帰った方がいいよ、と半ば強引に今日の会話を終了に持ち込んでみる。すると平形さんは、渋々といった様子ではあったが礼を言って頭を下げ、礼儀正しくコンビニ前を去っていった——途中、何度かこちらを振り返りながら。

     結局、今日も流されっぱなしだったように思う。疲れて嫌になるというほどではないが、溜め息が出てしまうのは抑えられそうにない。
     一体俺はどうしたらいいんだろう。このまま彼女の要望に応え続けるべきだろうか。それを避けたいと直感している自分がいるのは明らかなのだけれど。
     〝お人好し〟の皮を被って振る舞うのもここまで。と、そう気軽に告げてしまった方が楽になれるのかもしれない。その瞬間に彼女がどんな顔をするかはわかってしまうし、心苦しくはなるが。それとも無理にでもここへ来る時間をずらしてしまおうか……いや、時間をずらしたところで彼女は張り込んででも会いに来ると既にわかっている。だったら別のコンビニに、と考えるけれどどこも遠い。結局利便性に負けてしまう。俺が来ない間、頑固な彼女はずっとここに張り込むんだろうし。

     そもそも。
     やはり、彼女の本来の目的は大学の話などではなく——
     いや、駄目だ。それを考えるのは真面目に頑張っている彼女に失礼だろう。第一、そんな思惑はどこにも感じられない訳だし。

     これは結局、次も無理やり奢られて、奢り返して。意味があるのかどうかもわからない交流が重ねられることになる予感がする。
     こうして葛藤するのも毎回のこと。その度に『次こそ逃げよう』と考えて、こうして逃げられずじまいに終わる。彼女を目の前にすると己の良心にどうしても勝てなくなってしまう。
     つまるところ無駄な足掻きだ。さっさと気持ちを切り替えたくて、貰ったばかりのミントタブレットを開封し、白いそれらを幾つか口へ放り込んだ。



    ——そんな思惑はどこにも感じられない?
     本当にそう言えるだろうか。怪しい気がしてきた。
     そこへ考え至った瞬間、形容し難い不安を感じて奥歯でミントタブレットを噛み締めた。黒いパッケージに謳われる通りの強い清涼感が刺さるような刺激に変わって、舌の上に燻る熱を冷たさで上書きしていく。
     味はいつもと変わらない。しかし、気分を変えることはできなかった。
     スッと鼻を突き抜けていく強いミントの香りでも誤魔化せない何かが、胸の中にあった。
    3 それは理解の及ばない 時間の流れはあっという間だった。勉強が思ったよりも楽しかったり、アルバイトに打ち込めているというのも理由だろう。気がつけば大学四年生、それも学部卒業を目前に控えた三月になっていた。
     昨年、秋の暮れに大学院入試を無事に乗り越えてからは平穏な日々。運転免許もとったし、中古ではあるものの自分の車も持てた。新しい趣味のお陰で息苦しさからも少し解放されて、これまでの人生観が覆るような順風満帆な生活だと言えた。
     件の後輩のことも、あまり気にすることなくここまで来れた。内心では色々と不安ではあったけれど、今の所全て杞憂に終わっている。

     件の後輩、平形円郁はというと。自分があの疑惑を抱き始めた頃から、少しずつ会う頻度が減っていた。月に一度は話しかけてきていたのが、次の年には季節に一度になった。そして彼女が高校三年生となった今年度に入ってからは、梅雨の頃に会話をしたきり半年以上見かけてすらいない。
     当然だと思った。あれほど意気込んでいた大学受験のシーズン、忙しくないはずがない。考えていると自分の大学受験の記憶が蘇ってきて胃が痛むので、今まではなるべく考えないようにしていた。
     卒業式も終わって、一般ならそろそろ合格発表の頃だったっけ。まあ、彼女くらいの優等生ならしくじることもないか。

     と、そんなことを考えながら最寄りのコンビニへ歩いていた。最近はわざわざあの店舗でミントタブレットを買うことも少なくなって、こうして向かうのも約二週間ぶりだった。車を持ってもここへ行くのに歩きなのは健康に配慮しただけで、特に他意はない。
     少しずつ春めいてきたというのに、今日はなんだか冷える。コートを着てくるべきだったかなと手を擦りながら、無駄に広々としたコンビニの駐車場に足を踏み入れる。落としていた目線を上げ、入り口の自動ドアを見据え——そこでやっと、ドアの隣でひとり立っている人物の姿が目に入った。
     それと同時にその人物もまた、こちらに気付いて顔を上げた。

    「あ……安立さんっ!」

     噂をした、という訳ではないが。なんとなく考えていたことが彼女を呼び寄せたのだろうか、くらいのことは思ってしまった。
     こちらに気付くなり表情を明るくして声を上げ、目を輝かせて駆け寄ってくる彼女。件の頑固者で押しが強い後輩、平形円郁に違いない。髪が伸びて雰囲気はまた少し変わっているけれど、どうしても記憶から消えてくれないその笑顔を見間違うはずはない。
     何かを両手で握りしめたまま、平形さんは目の前まで駆け寄ってきた。そしてやけに嬉しそうな声で話しかけてきた。

    「おひさしぶりです!」
    「あ、う、うん。久しぶり」

     思わず挙動不審になったのは、目の前で見る彼女がずっと大人っぽく見えたからだ。勢い余ったのか妙に距離が近いのもまた困惑を誘った。少なくとも、出会ったあの日のような幼気はどこにも感じられなかった。
     何かを意識した訳ではないけれど、変化に気圧されてしまった。

    「去年の梅雨以来ですね。お元気でした?」

     雰囲気は変わっていても、溌剌とした元気な声は相変わらずだ。それを聞いてなんだかホッとしている自分がいた。

    「まあ、うん。そちらも変わらないようでよかった」

     ありきたりな返事をすれば、彼女は不思議と顔を綻ばせる。こちらからはぎこちなくとも精一杯に微笑みを返して、暫くの無言。
     なんだ、なんだろうこれは。二人での会話ってこんな感じだっただろうか。自信が持てない。平形さんはホットレモネードらしきペットボトルを握りしめてもじもじしているし、一体これは——

    「聞いてください! 私、安立さんと同じ大学に受かりましたっ!」
    「へ!? えっ、あ、そ、そうなんだ? おめでとう」
    「えへ、ありがとうございます」

     なるほどそれを伝えにきたのか、とやっと納得がいって、ついぎこちなくなってしまった態度をなんとか抑えて冷静さを取り戻す。それから瞬間的に不安が舞い戻ってきた。
     同じ大学? 流石にそれは想定外だった。いや偏差値的には普通のところで特に難しくもないし、お勧めできないという訳ではないけれど。これまで彼女に話したのも参考程度のことばかりで、無闇に自分の通う大学を推したつもりはない。
     それでも彼女は選んだというのか。俺以外の勧めや、何か本人の揺るぎない決断があってのことであってほしい。これでもし俺の影響だとしたら、かなり申し訳ない気持ちになってしまう。
     成人したとはいえ、自分はまだ社会に出たことがない学生身分。他人の人生の大事なステップに責任を背負えるような立場ではないのだから。

    「……あの、安立さん」
    「はっ、ハイ……」

     最早何を言われてもギクッと固まってしまう。不安に視界を曇らせている間に、平形さんの表情はまた変わっていた。表情がわかりやすくコロコロと変わるのは彼女の人の良さの現れだとは思うが、今この状況、このときにおいては、その顔だけは歓迎できそうもなかった。
     彼女は少し俯いて、暫く何かを言い淀む。彼女の手は寒さ故か真っ赤になっていた。

    「あ、えっと……こ、今度また、二人でお話しできますか?」
    「えっ」
    「安立さんがお暇なときでいいので……どこかで会えないでしょうか」

     不安に押し潰されそうな顔。自信を失った顔。そんな中でも、揺るがない真剣さは伝わってきた。平形さんは『もう一度チャンスがほしい』と言いたげな様子で、こちらの目の奥を覗き込んでくる。それを目の当たりにして冷や汗が垂れた。
     逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。これはあからさまにまずい展開だと思えたからだ。あのとき感じた形容し難い不安が、二倍にも三倍にも膨れ上がって帰ってきていた。
     まさかあの下衆な予感が当たってしまうのか。それだけは否定したかったのに。いやまだ、まだ疑う余地はある。勘違いならとことん彼女に失礼だ。

     落ち着こう。これまで通り大学生活の話を聞きたいだけなのかもしれない。目前に控えて物凄く不安なことがあって、それを相談できるのが俺しかいない可能性も十分にある。
     彼女とは知り合って三年以上になったが、知らないことのほうが断然多い——かと言って自ら向かっていくほどの興味も持てず、追い詰められてから想像力を働かせるしかない。
     くだらない早とちりで他人をがっかりさせたくはない。ただそれだけだった。

    「い……いいよ。昼過ぎ、二時半頃ならいつでも。またここで?」

     いつも通りの笑顔を貼り付けてなんとか絞り出した返答に、彼女はパッと顔を上げて目を丸く輝かせた。それからまたもじもじとして、遠慮がちに微笑んで提案を挟み込んできた。

    「よかったら駅前の公園とかで……だめですか?」
    「う、うん、わかった……」

    ——まずいのでは。
     後悔しても、もう手遅れだ。


    ***


     三日後。その日は平日で、駅前の人通りも多くはなかった。そうでなくとも駅前の公園はいつも人が殆ど居ない。花壇と木々とベンチ以外に何もなく、住宅地に近い訳でもなく、絶妙に狭い。単なる地元民の待ち合わせスポットでしかなかった。
     今朝は部屋のカレンダーを見て、丁度今日は入学式のひと月前か、なんてことを考えた。狙ったつもりはなかった、今日が偶然暇だっただけで。
     自分が提示した時間より三十分も早く着いてしまったが、公園には既に人影があった。今日はそれなりに暖かいとはいえ心配になる——三日前のあのとき、彼女は寒空の下ホットレモネード一本を握りしめて一時間も突っ立っていたらしい。それだけでなく、数日前から同じように待ちぼうけしていたとか。コンビニの店長さんが後々教えてくれた。
     平形円郁という人間は色々とおかしい。何が彼女を衝き動かすのか、見当もつかない……と、胸を張って開き直れるくらいの馬鹿でありたかった。

     遠巻きから遠慮がちに手を振るだけで、そわそわと落ち着きのない平形さんはこちらへ気付いて表情を明るくする。彼女の所作の一つ一つがいつもよりぎこちなく見えるのは、俺の気の所為ではなさそうだった。
     長話になるかもしれないと思い、閑散とした公園内のベンチに座る前に自販機で飲み物を買った。自分用にはしばらくぶりの缶コーヒーを選び、彼女にはいつもの緑茶を選ぶ。最初にコンビニで再会したときに彼女が買っていたから緑茶にしているが、ジュースでなくていいのだろうかとふと考えた。何を奢っても受け取ってくれるのは彼女の優しさかもしれない。
     背後にいた平形さんに緑茶のペットボトルを渡すと、彼女は少し遠慮がちに受け取った。

    「なんだかすみません」
    「別に、気にしないで」

     そんな会話もどこかぎくしゃくとして、落ち着かない空気のまま並んでベンチへ腰掛けた。
     少しの無言の間。その中で彼女はずっと手元のペットボトルを見つめていて、意識して見ている訳でもないこちらの視界にも緊張の面持ちが見てとれる。
     これはやはり、とぼんやり考えながら遠くの空を見てコーヒーの缶を開ける。何を言われても気をしっかり保つためにブラックにしたものの、飲みきれるかどうかは正直不安なところだった。
     やがて平形さんはひとつ深呼吸をして、落ち着いた声音で話し始めた。

    「……安立さんと初めて駅前でお会いしたのも、もう三年以上前なんですね」
    「ああ……うん」

     我ながら適当な相槌を打っているなと思うが、きちんと彼女の言葉は聞き入れている。今は自然体を装った方が彼女もやりやすいのではないか、と思ったから——いや、本音を言えばどんな姿勢で聞くべきかわからないからだ。
     この三年、彼女に関しては不思議なことしかなかった。結局あの高校で俺のことを調べた訳でもないようだし、その割に俺個人に興味がないといった様子でもなかったし。『わからない』だらけで慣れることもなく、自分がとるべき立場すら定まらないままでいる。それももうじき解決するのだろうか。
     とにかく肩の力を抜くことに努めて、彼女がぽつりぽつりと話すのをじっとして聞き続けた。

    「私、あのときのことはまだ覚えてます。あのとき、私……本当に泣きそうで。後悔してたんです、独りでここに来たこと」

     後悔なら俺だってしたよ。そう考えても口には出さず、黙って耳を傾けた。

    「でも。安立さんが声をかけてくれて、来てみてよかったって思いました。だから角為高に行くことにしたんです」
    「……ハンドボールは?」
    「それもすっごく楽しかったです! 最後の県大会では二位だったんですよっ、私も頑張りました!」
    「そ、そっか」

     部活がとても楽しかったらしいことは、突然活力に満ちた彼女の声を聞けば恐らく誰だってわかるだろう。
     見るからに活発で運動神経の良さそうな平形さんを見れば、相応の活躍ができたのではと想像がつく。よかった、青春らしい思い出はあの高校でもちゃんと作れたらしい。自分には縁がなかったからどうしても不安だった。
     平形さんは一呼吸置いてから、にこやかに笑いかけてきた。

    「安立さんにはとてもお世話になりました。お陰で素敵な高校生活でした。今までで一番楽しかったです」

     落ち着いてきたのか、彼女は先程までのような慎重な声とは打って変わってすらすらと述べる。しかしその内容は難解だった。
     どうしてそこに俺がいるんだろう。彼女の口から出る俺の名字が、どうして特別な響きを纏っているんだろう。その理由だけは察してやれなかった。
     どうして、彼女はそんなことを言うんだろう。

    「あなたを想い続ける三年間は、とても楽しかった」

     噛み締めるようにそう言って、平形さんは立ち上がった。

    「高校ではいろんなことがありました。友達はたくさんできたし、思い出だって数え切れないほどあります。だけど……この気持ちは、無くならなかったんです」

     そして俺の前に立ち、真っ直ぐに目を見つめてきた。言葉の続きは全てわかっていた。でも、何もわからなかった。
    ——どうして、俺はずっと逃げられなかったんだろう。

    「安立さん。私、あなたのことが好きです。……付き合ってください!」

     決意と、少しの恥じらいを灯した顔つきで、彼女はそう言い切って。
     迷いなくこちらへと、手を差し伸べた。


    ***


     彼女のことは何も知らない。
     いや、『何も』は言い過ぎだった。少ししか知らない。
     でも。少なくとも、彼女が自ら話すこと以上の情報に踏み込むことはない。
     興味がない。
     それは、つまり——

     俺はただ、どうすればいいのかさえわからなかっただけだった。
     このときは、まだ。

    「っ……ええと」

     曖昧な第一声に、目の前の彼女はハッとして身を乗り出した。当然だろう、今彼女が期待しているのは告白の返事なのだから。
     覚悟の宿った眼差しを向けられて、それに応えられないのが心苦しくなる。

    「少し待ってほしいんだけど」
    「は、はいっ」

     平形さんは一気に緊張を募らせたようで、固唾を呑んでこちらを食い入るように見つめてくる。
     さて、どう伝えたものか。困り果てて頭を掻くと、その動作がどういった感情の現れかを自分なりに解釈したらしい彼女は表情を険しくした。それでも目の前を動く気がない様子を見るに、どんな返事であっても受け止めるつもりなのだろう。
     そんな姿勢を見せられては、用意していた答えが彼女の懸念するようなものでなくとも言いづらくなってしまう。ふうと溜め息をつきながら缶コーヒーを握り直し、頭の中を整理しながら口を開いた。

    「えーと……分かってるとは思うけど。俺はもう成人してて、平形さんはまだ高校生なんだよ。卒業式が終わっても、今月いっぱいは社会的には子どもとして扱われる部分がある」
    「は、はい……」

     少し説教臭くなってしまった。自戒しつつ平形さんの様子を伺うと、差し出していた手を引っ込め、見るからにしょぼくれて肩を落としている。叱られていると思っているらしい。
     なんともやりづらい。自分自身のコミュニケーション能力の低さに嫌気が差す。それでも、前もってきちんと考えてきたことだから。誤魔化さずに伝えたかった。

    「だからね。付き合うにしても、色々と安心できないというか。お互いにリスクがあると思うんだ。それがどうしても不安で」
    「……はい?」

     濁すような伝え方を避けることができなかった。何故なら〝リスク〟というのは大抵のケースでは年上かつ男性の俺が被る前提のもので、彼女は深く考えたこともなかっただろうから。
     重い。三つ下の女子高生と付き合うということはあまりにも重い。要するにこれは保身に走っているだけ。
     格好がつかなくても、堅実に。俺はそんな生き方がしたい。

    「そういうことだから……返事は四月まで待ってほしい」

     平形さんにとって、それは肯定にほど近いものに聞こえただろう。
     きょとんとしていた彼女は次第に目を見開いて、再会したあの日以上に瞳をキラキラと輝かせた。この僅かな時間の中で感情を大きく上下させた彼女は、口をぱくぱくさせてその場に固まってしまっている。
     なんとか落ち着かせてあげたくて、必死になって笑顔を浮かべてみせた。

    「ど、どうしてもね、心配で。きっと平形さんのご両親も反対すると思うし。それに——」

     それに。その先の言葉は喉に詰まってしまって出てこなかった。
     これは伝えるべきなのかどうか、まだ決断できない。自分の中での結論も出ていない。そんな曖昧なものをぶつけて彼女の心にわだかまりを残したくはない。

    「——いや、うん。とにかく、入学式くらいまで待ってくれないかな……?」
    「はいっ!」

     今や平形さんは満面の笑みで、結局未開封の緑茶入りペットボトルを潰しかねないほどの力で握りしめていた。
     未だ解けない疑問は多いものの、ひとまずなんとかなった。そう感じてホッと息をつき、コーヒーを一口飲む。

    「あのっ! お暇でしたら今から一緒にお出かけしませんか?」
    「んぐっ!?」

     完全に油断していたせいで、彼女の唐突な一言に思わずコーヒーを噴き出しそうになった。既のところで口を押さえたが、ドッと鼓動を速めた心臓はしばらく落ち着きそうにない。

    「ちょっとお茶するだけでいいので! ええと、あっちの方に確か喫茶店があって……そこでもう少しお話ししたいです」

     どうしてそんなにぐいぐい来るんだ。なんなんだこの子は。
     自分とは真逆の性格すぎて全く予想ができない。恋愛的な意味でなく人間として付き合っていくのもかなり難しそうだ。
     それだっていうのに、ああ、またその目か。一点の曇りもなく真剣そのもので、純な期待が込められていて。沈みかかっていたはずの良心に強く訴えかけてくる——彼女は無自覚だろうけど。

    「わ、わ、わかったよ、うん……話すだけ、なら」

     ブラックコーヒーを一気に飲み干す程度じゃ、正気を保つには足りないかもしれない。
    4 それは変わることのない 彼と並んで歩くのは出会ったあの日以来で、なんだか緊張してしまう。そういった雰囲気にしたのは自分なのにどうしても胸を張れなくて、ちょっと情けない気持ちになる。
     よく考えたら彼はコーヒーを飲んだばかりで喉なんて渇いていないはずなのに、というか私もお茶を奢ってもらったのに、喫茶店に誘うなんて不自然だった。道すがら『お茶は後でちゃんと頂きます』と弁明したら、気にしないでと苦笑いを返された。

     彼——安立さんは、優しい。でも私が彼を好きになった理由はそれじゃない。
     正直なところ、理由なんて自分でもよくわかっていない。殆ど一目惚れだったと思う。でも自分の好みの顔や体型なんてわからないし、安立さん自身もとにかく普通でどこにでも居そうな人だし。容姿以外のところに一目惚れなんてあり得るのかすらもわからないまま、思い切ったことをしてしまった。
     とにかく彼は優しい。でも、お父さんやお母さんがくれる優しさや、友達と分かち合う優しさとは少し違った。なんだか裏がありそうで、時折彼は後ろめたそうな顔をした。それがずっと気になって忘れられないんだと思う。
     優しくしてもらえたから好きになったけど、優しいから好きな訳じゃない。

     お店に入って、店員さんに案内された席にぎこちなく向かい合って座る。安立さんはメニューを見るでもなく無言の苦笑いになった。突然の誘いで困らせてしまったのはわかっているけど、もうひと押しする時間がどうしても欲しかった。
     フラれる覚悟はしてきた。でもその前に、今までの想いを全て彼に伝えてしまいたかったから。この気持ちを抱えたまま大人になりたくない、なんて身勝手な理由で。
     結果がどうなろうとも、その前にチャンスがあるならありのままの気持ちを知ってほしくてたまらなかった。

     何も注文しないで座っているのも流石にまずいと思って、ソフトクリームを注文してみた。安立さんも気を遣ってくれたみたいでコーヒーゼリーを頼んでいた。コーヒー、好きなのかな。これから先に知る機会があったら嬉しいな、なんてささやかな希望を抱いてしまった。
     安立さんは気まずそうだった。私が言い出したんだから、私から声をかけなくては。まだ少し緊張が解れないけど、思い切って気になっていたことを尋ねてみた。

    「あのっ、安立さんは今月いっぱいで大学卒業でしたよね」
    「え? あー……春からは大学院に行きます」
    「へっ、そ、そうだったんですか?」

     そういえば、安立さんにこれまで卒業後のことを全然聞いてこなかった。私が高校卒業するときに告白すると最初から決めていたし、そのときはまだ彼も大学生のはずだからチャンスはある……なんて、そんなことばかり考えていて後のことはすっかり抜け落ちていた。
     大学院生。すごい、カッコいい。そんな単純な気持ちが彼にも伝わってしまったのか、安立さんは少し照れくさそうに縮こまった。
     それにこれは私にとって思いがけない幸運。まさか同じ学校に一緒に通えるなんて、夢にも思わなかった。

    「じゃあこれからは学内でも会えますねっ!」
    「いやあ……結構広いしどうかなぁ」
    「あっ……そうですよね、あはは」

    ——やっちゃった。今のは絶対呆れられた。そもそも大学は勉強しに行くところで、そこで会えるかどうかなんて全く関係ないのに。あからさまに浮かれてた。
     会話も一瞬で途切れちゃうし。タイミングよく店員さんが持ってきてくれたソフトクリームの甘さに救われるなんて、いかにも子どもみたいでちょっとへこたれてしまう。
     ついさっき『世間的にはまだ子ども』だと彼に言われたことを思い出した。やっぱり彼に私は釣り合わないんだ、と悔しさが湧き上がってくる。

     いや。釣り合わなくたっていい。彼がそれを咎めないなら、私は私のままでいたい。
     ちゃんと言わなくちゃ。

    「……私、安立さんに助けてもらったあの日のこと、まだ覚えてるって話しましたよね」
    「う、うん」

     急に独り言みたいに話し始めてしまったから、安立さんは少し困惑した様子だった。申し訳ない気持ちになったけど、決意が揺らいでしまう前に吐き出したかった。

    「私、実は。あの日まで誰も好きになったことがなかったんです」

     ゆっくりと溶け始めたソフトクリームから目を離し、目の前に座る彼の顔を真っ直ぐに見つめる。安立さんは数度瞬きをして、ぽかんとした顔になった。何を考えているのかはよくわからなかった。

    「もちろん家族や友達のことは好きです。でも、その……恋愛的な意味で誰かを好きになれなくて。ずっと、恋愛そのものに憧れるばっかりでした」

     話していると、色々な思い出が蘇ってくる。友達は皆、家族や友達に向ける〝好き〟とは違う想いを誰かに抱いていた。皆の表情はどこか甘酸っぱくて、羨ましかった。

    「でもあの日、安立さんに助けてもらって、ほんの少しの時間を一緒に過ごしただけで。びっくりしちゃうくらいドキドキして、恋しくなって、忘れられなくて——少しでも近くにいたい、って思っちゃって。それで進路を決めちゃったんです」

     友達は誰も行かない、家からずっと遠い場所。そんなところにも飛び込んでみたくなるくらい、あのときの私は冷静じゃなかった。それもいつか終わってしまうんじゃないかと思っていたけど、熱っぽさは消えないまま三年が過ぎた。
     今もずっと気持ちは膨らみ続けて、わけが分からなくなってしまいそう。

    「もしかして、大学もそれで決めたの?」

     そう尋ねた安立さんの表情は不安そうに見える。ちょっとだけ前のめりなのを見るに気にしているのかもしれない。一度頷いてから、彼の不安を解くための事実を並べていく。

    「もちろん学部は自分の興味で決めましたよ。学費が厳しかったので入試頑張りました!」
    「えっ……つまり特待生?」
    「はいっ!」

     だから何も心配いりません、と精一杯の笑顔で伝えてみる。すると安立さんは更に引きつった顔になってしまった。ちょっと必死過ぎたのかも。
     それでも彼はすぐにぎこちない笑顔を取り戻してくれた。

    「すごいね、平形さん。本当に」

     褒められちゃった。
     ここが喫茶店じゃなかったら小躍りしてしまいそうなくらい、体中がうずうずして仕方ない。お礼の言葉を告げてから、溶けかけのソフトクリームで熱い気持ちをなんとか冷静にしていく。
     どうしよう。先生や家族に褒められるより、ずっと嬉しい。



     私の気持ちを彼がどう受け止めたのかは結局わからないまま、大した会話もできずに手元の器は空になった。安立さんのコーヒーゼリーもいつの間にかなくなっていて、食べているところを見る余裕すらなかったことに気付く。
     自然とお店を出る流れになって、先を行く安立さんに慌ててついていく。また奢られるわけにはいかないと思っていたのに、彼に『学費の話をされたあとに割り勘なんてできない』と必死な顔で言われてご馳走になってしまった。

     そそくさと解散に運びたがる安立さんをなんとか引き留め、連絡先を交換した。これで返事をもらう準備は整った。
     今度こそと言わんばかりに別れの言葉を残して、安立さんは背を向けて歩き出す。その姿にハッとして、胸の中に溜まっていた迷いを捨てて声をかけた。

    「あ、あのっ!」
    「……まだ何か?」

     流石にいい顔はされなかった。振り返った安立さんの目には戸惑いが浮かんでいる。
     それに怯んでいる場合ではなかった。彼は優しいけど、絶対に連絡をくれるとは限らない。このまま何事もなかったかのように終わらせられてしまうかもしれない。そんな不安が過ぎった瞬間、もう一つの言えずにいたことも全て話してしまいたくなった。
     それが結果を変えるとは思っていない。でも、全部の気持ちを彼に知ってほしい。

    「安立さんも……出会ったあの日のこと、ちゃんと覚えてくれてるんですよね」

     今まで何度も会って話していたんだから、彼だって出会った夏の日のこともぼんやりとなら覚えているかもしれない。今日まではそのくらいの考えだった。
     過去形なのは、今日の彼の言葉に僅かな希望が見えたから——彼はきっとあの日のことを全部、覚えてくれている。

    「だって私、ハンドボールの話はあれきりしてないですから」
    「——っ!」

     安立さんの顔を見て、希望は確信に変わった。
     印象的だっただけだよ、なんて言われるかなと思っていたけど。彼は何も言わずに、目を見開いて立ち尽くしていた。

    「安立さんにとって、あのときの私はただの迷子だったかもしれないですけど。でも……私にとっては大切な日なんです。覚えていてくれて、とても嬉しかったです」

     私のことを覚えてくれているから嬉しいのではない。
     あの日のことを、ほんの僅かなひとときを覚えてくれているから嬉しいんだ。

    「今日はありがとうございました」

     振り回してしまってごめんなさい。そんな意味も込めて、頭を下げた。
     精一杯に笑いかけても、彼は少しだけ目を細めるだけだった。
    5 それは変わるかもしれない 恋は気の迷い。最初にそう言い始めたのが誰かは知らないけれど、これほど腑に落ちる言葉もないと思っている。一目惚れなんて尚更だ、そんなものは感情のバグでしかない。或いは生殖本能——性欲の言い訳に過ぎないだろう。
     他人へ向けた得体の知れない想いに振り回されて、本来の自分を見失う。些細なことに一喜一憂して、ときに心身へ無駄な傷を負う。それは本当に価値のあることなのか、全く想像がつかない。
     自分の人生には無くても構わない。寧ろ無いほうがきっと平和だ。そうやって意識の中心から遠ざけてきた。
     決意にも満たない、消極的な姿勢。敗因があるとするならそこに違いない。

     最早ただの儀式でしかない入学式は終わり、感慨も何もなく足早に会場を出た。あと二年。それでやっと学生という身分から解放される。あの家を出て自由になれる——そう思えば多少は気分が良かった。
     とはいえ今はそれより気にしなくてはいけないことがある。ひと気の少ない場所へ向かい、マナーモードにしていた端末をポケットから取り出した。すぐさま通知画面を開き、何も届いていないことを確かめる。

     あれから一ヶ月、彼女から連絡はない。約束通り律儀に待っているのだろう。あれだけ押しが強かったのに連絡先を交換してから一度もやり取りがないことを思うと、どこまでも誠実で真面目な子だと感じる。
     どうしても躊躇ってしまう。しかしここまで来てしまったからには逃げ出す訳にもいかない。最初のやり取りとなる一文をどうするかを篤と考え込んでしまう辺り、真面目なのは自分も大概だと思わざるを得ない。
     悩み抜いて絞り出したメッセージへの返信は瞬く間に届いた。待ち構えていたと言わんばかりだ。数度のやり取りの後、このまま会場近くで待ち合わせることになった。

     伝える言葉は既に決まっている。が、それでも気は重い。
     どれだけ考えても、これが答えでいいのかはわからないままだった。



     スーツ姿の彼女——平形さんは、一ヶ月という短い時間の中でも更に大人びたように見えた。着ているものがそうさせる部分もあるだろうが、もう彼女は〝子ども〟と呼ぶべき身分ではなくなったのだという認識の変化も影響しているのかもしれない。
     近くで記念撮影をしていたグループが立ち去って、周囲に人の目は感じなくなった。ちらほらと人の影は見えるが、その誰もがこちらを気にする素振りは見せない。今ここで話してしまっても問題はないだろう。目の前の彼女もその気らしく、緊張と期待の込められた視線をこちらへと向けてきた。
     もう怯んでもいられない。彼女に倣って、素直にならなくては。

    「早速で悪いけど、返事……してもいい?」
    「は、はいっ!」

    ——ああ、手が震える。どうして俺がこうも緊張しなくてはいけないのかわからないが、なってしまうものは仕方がない。
     一度、二度の深呼吸。目の前で固唾を呑んでいる平形さんもそれに追従してきた。お互い様ということか。
     この空気感を早く終わらせるためにも。まずは結論から。

    「俺でいいなら、付き合おう」

     固くなっていた目の前の彼女の表情は、次第に感激の色を宿していく。何かを言おうとして、うまく言葉にできない様子でいる。
     いよいよ形になった感謝の想いが彼女の口から溢れそうになる、その直前。悪いとはわかっていながらも、遮るように言葉を吐き出した。

    「でも」
    「——っ?」
    「その前に、一つわかっておいてほしいことがある」

     平形さんはびくりとして、こちらへ差し出しかけた手をすっと引っ込めた。俺の顔を見て何かを感じたのか、喜びに満ちていた表情を次第に曇らせていく。
     なるべく真摯に伝えたくて、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。付きまとう暗雲は晴らせず、鬱々とした面持ちになってしまったと思う。どれもこれも、拭いきれない劣等感故だ。

    「……俺は、まだ誰かを好きになったことがない。恋なんてしたこともない」

     たった二十二年の人生を振り返る。そのどこにも、憧れや愛しさから成る慕情はなかった。
     嫌いだから恋愛をしないのではない。気持ちを抱く段階にすら行けないから、しない。自分の中にないものだから、否定することしかできないでいる。考えることも挑戦することも放棄したまま、無駄だと思い込むことで自分の人間性を保とうとしている。
     恋に溺れる人々を見下すような態度しかとれずにいた。そんな自分を変えたいという思いは常にあった。恋心を原動力にここまで来た平形さんは、俺にとっては模範そのものだ。それだけでも彼女は得難い存在だと言える。
     だからこそ負い目を感じてしまって、伝える覚悟はとっくに済んだ言葉を乗せる声も情けなく震えてしまう。

    「平形さんのことも、まだ。今後恋愛的に好きになれるかどうかも、正直わからない……平形さんの気持ちに応えられるとは言い難いかもしれない」

     なんとも薄情な話だ。彼女が想いを寄せてくれていることには気付いていたのに、ずっとそのことを意識すらしていたのに。結局俺は彼女を想うことができない。
     でも、これは彼女に限った話ではない。どうすれば恋ができるのかもわからない今、その中で僅かな手がかりを見出した今。彼女の手を振り払うのは惜しいと感じた。

    「それでも。忘れられないのは、確かだから」

     〝あの日〟の記憶。手がかりはたったそれだけ。
     三年以上も燃え尽きなかった彼女の想いに、薄れない記憶だけの自分が釣り合うとは思っていない。
     本当に些細な出来事。長いこと煩わしいとさえ思っていた記憶。
     けれどもそこから何かが始まったなら。動き出したなら。
     きっと、かけがえのない思い出に変わる。

     ふと笑ってみせれば、平形さんは透き通った目で見つめ返してくる。真剣で、どこか不思議そうな表情をしていた。
     言葉が足りないのは承知の上だけど、くどくど語る気にもなれない。これ以上は自己嫌悪が暴走してしまいそうで、それこそ彼女は聞きたくもないだろうし。
     相も変わらず真っ直ぐな、丸く輝くきれいな瞳。どこにでも居そうな普通の顔立ちの、元気な女の子。俺はこんな子に初恋がしてみたかったのかもしれない。

    「……こんな俺で本当にいいなら。ぜひ、よろしくお願いします」

     ひと月前にはとれなかった手を迎えに行くように、ゆっくりと手を差し伸べた。やっと素直になれた気がして、自然と口元は綻んだ。
     平形さんは差し出された手を暫く見つめ、少しの間何かを考えるように目を伏せて——やがて柔らかな笑顔を浮かべて、握手に応じた。
     初めて直に握った彼女の手は、不思議なほどにあたたかく感じた。


    ***


     平形さんなら受け入れてくれるんじゃないかと思ったよ、なんて言ってみたら「そんな理由じゃ諦めませんから」と彼女は胸を張った。この子なら俺がどんな醜態を晒しても笑顔でいてくれそうだけど、それはそれでどうなんだろう。
     付き合うことになったとはいえ、不安が尽きることはない——寧ろ増えていく。これからは確実に彼女と話す機会も会う機会も多くなる。一緒にする事柄だって、今までとは比べ物にならないほどの選択肢が生まれる。どれもこれも不安の種だった。
     幾ら自分を変えて人間性を向上させたいと思っていても、いきなり恋人をつくるのはハードルが高すぎたかもしれない。相手も恋愛初心者な分、ほんの僅かには気が楽になっていると思うものの。

     いけない。考えすぎると胃痛が止まらなくなる。この円満な雰囲気の中なんだ、なるべく暗い顔はしたくない。
     そうこう考えているうちに握っていた手は離れた。平形さんは照れ笑いになってすいと目線を逸した。不意に湧き上がった気恥ずかしさは伝播して、意味もなく遠い空を見る他なかった。
     気まずさすら感じる空気の中、どうやって場を保たせるか考えあぐねていると。予想外の不安げな声で平形さんはぽつりと零した。

    「本当は少し迷いました」

     ふと見れば彼女は心苦しそうな表情をしている。あれほどの歓喜から一転して現れた後ろめたそうな面持ちに、思わずぱちくりと瞬きをする。やっぱり不満だっただろうか、と重たい気持ちが湧いて出る。
     平形さんは地面に目線を落としつつも、表情の理由を簡潔に語ってくれた。

    「安立さんが私のために無理をしてるんじゃないかって思って。……好きでもない人と付き合うって、嫌じゃないですか?」

     言われてみれば最もな疑問だと思った。好意を抱けるかどうかもわからない相手と付き合える人間は、世間的には少数派なのかもしれない。
     得体の知れない相手が近づくことを許容できる人間はそういない。恋人関係というのは精神的にも肉体的にも距離が縮まる間柄な訳で、尚更相手を選ぶことになる。だからこそ獲得するのは簡単ではないものだ。

     ただ自分の場合はというと、他人と関わった経験があまりにも少なすぎて、とりわけ同年代の異性相手となると義務教育時代の微かな記憶しかなくて。恋人同士の距離感に対して自分がどういった感情を得るのかすら、全く想像がつかない。
     そんな中で唯一期待できることは。真面目で礼儀正しいこの平形円郁という女性に対して、人間性を許容しきれず嫌悪感を抱く可能性は低いのではないかということだった——価値観は大きく違うし、理解できないことも多いけれど。
     まあ、その辺はどうにか埋められる溝なんじゃないか。なんとなくそんな気がする。

    「嫌かどうかすらもわからない、かな。やってみないことには、なんとも」
    「なるほど……! チャレンジ精神ですねっ!」

     平形さんはいつものキラキラした目に戻った。今ならわかる、これは憧れと尊敬の目だ。彼女は『そんなところが好き』と無言で訴えていたんだ、以前からずっと。この目だけで。
     眩しさに目を細めるのも何度目かわからない。いつか自分が彼女の光に潰されてしまいそうで、ちょっとだけ恐ろしい気持ちになった。
     照れくさいだけの無言の間。今までも自然な関係とは言えなかったけれど、少し会話が途切れるだけでもぎくしゃくしてしまう。空気感に耐えきれなくなって、咄嗟に提案を打ち出した。

    「あ、あの、さ。よかったら、敬語はやめてくれない?」
    「えっ? でも……」

     平形さんはそわそわしたかと思ったら、急にしおしおと肩を落として小さくなった。この反応は見たことがある。まだ彼女が高校生だった三月に、そのことを指摘したときと同じだ。年下であることが悩みなのかもしれない。表情がわかりやすくてとても助かる。
     たった三、四年の差なんていずれは誤差に変わる。ひとつ上の学年でもずっと大人に見えたりするのは学生のうちだけだろうし、何よりも〝上に見られる〟ということを意識するだけでむず痒くてかなわない。先輩と呼ばれたくないのはそういう理由だった。

    「ええと。この前は仕方なくああ言っただけで、なるべく対等な関係がいいなって思っててさ。せめて言葉遣いだけでも。だめかな」
    「わっ、わかりま……わかった!」

     意気込んで身を乗り出し、胸の前に両手でギュッと拳をつくってまで敬語を取り払った彼女の姿はなんだか微笑ましく思えた。こちらから年下扱いするのも対等な関係を築く妨げになってしまうだろうけど、妹っぽい感じがする、なんてことをふと考えてしまった。
     何かを考える仕草をしたあと、平形さんは唐突にビシッと挙手をした。姿勢の良さに思わず狼狽えたのも束の間、彼女は勇ましい笑顔を浮かべた。

    「じゃあ私からも提案!」

     あ、嫌な予感がする。
     早速敬語の外れた彼女は、こちらが唾を飲むのを見てにやりと笑った。いかにも何かとんでもないことを言い出しそうな顔に見えて、この一瞬の間に色々な未来を予想してしまう。
     平形さんは一歩前に出てずいと迫ってくる。感情をすぐに映し出す彼女の瞳はどこか艶めいている。なんなんだその距離感は、一体どういうつもりなんだその顔つきは。あからさまにもじもじとして、頬まで赤く染めて、ほんの少し唇を尖らせて。
     恋人って急にそういう感じになるのか、それに応えるのはちょっと難しいというか、いや普通に無理というか、できれば段階を踏んでほしいというか、ええと、まずは手を繋ぐくらいのところから——!

    「これからは名前で呼び合いませんか?」
    「なっ……ま、え?」

     名前。下の名前、か。なんだ、よかった。
     名前で呼ぶくらいなら友達同士でだってすることだろうに、どうしてそんな顔をするのか。『とうとう言っちゃった』と言わんばかりの真っ赤な照れ顔に対して、俺は拍子抜けせざるを得なかった。

    「ずっと呼んでみたくて……三年前から夢だったの。ねっ、お願いします!」
    「えーと……俺は呼ばれても構わないけど、俺から呼ぶのは好きでもないくせに馴れ馴れしいとか思わない?」
    「全っ然思わない! 寧ろ呼ばれたいんですっ」

     変な勘違いをしたことが申し訳なくなるくらいの清い目で見つめられて、これは今名前を呼ぶことを求められているんだろうと察する他なかった。
     彼女にとってはこれが恋人の第一歩なのだろうし、名前だったらちゃんと覚えているから応えられないものでもないし。要するに呼べばいいだけだから、特別な行動も伴わない。とても簡単だ。
     簡単、なはず、なんだけど。

    「……っ、……」
    「あ、私の下の名前覚えてます?」
    「おっ、覚えてる。覚えてるから、ちょっと待って……」

     自分の心臓の音が聞こえるなんて久しぶりかもしれない。顔が熱くて、立っている感覚すらも曖昧になってくる。
     名前を呼ぶだけなのに、何がそんなに恥ずかしいんだ。ちゃん付けなんてしてあげたらきっと喜んでくれるだろうと、頭の中でもわかっているはずなのに。そう、頭の中ではわかっていて、言葉として組み立てることができる。つまりこうだ、『まど——やっぱり無理かもしれない。
     変な汗が出る。それもそうだ、よく考えてみたら……最後に異性の名前を口にしたのなんて、幼稚園の頃辺りじゃないか。
     友達なんていない。耐性もゼロ。そんな自分には、簡単なはずの第一歩すらも大きな壁で。

    「……ま、円郁、ちゃん……?」

     やっと絞り出せたそれは、震えていて不格好な、消え入るような声だった。
     それでも目の前に迫った彼女は、耳に届いた瞬間から次第に瞳をキラキラさせて、念願叶った歓喜を全身から溢れさせた。

    「はいっ! えっと、私からも呼びますねっ。た……珠己くん!」
    「う、うん……あと、あの、敬語……」
    「あっ」

     慣れないのはお互い様。そうして開き直るには難しく、結局曖昧な雰囲気のまま。
     ひと月前のあの日と似たような喫茶店に入るまでにもなんだかもだもだとして、手を繋いで歩いたりすることもなくその日は終了した。



     帰宅後、真っ先に彼女の連絡先の表示名を『円郁ちゃん』に書き換え、少しでも早く慣れるべく何度も頭の中で彼女の名前を唱えた。風呂の中でも、眠る前も。
     切りそびれて長いままだった前髪をやっと切ろうと思った。気になるような埃も臭いもないけれど、なんとなく部屋の掃除をした。ちゃんとした服を今度買いに行こう、見た目の印象も人付き合いには大事だし。ファッションには詳しくないけど、幸い調べる手段はたくさんある。

     全ては己の人間性を高めるため、少しでも社交的な人になるため。そのための努力に過ぎない。
     今のところは。


    — 了 —
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    2021/02/23 22:19:31

    気づけばここは「うず」の中

    お付き合いに至るまで。
    【きっとそこには「えん」があった】の続きですが単体でもだいたい読める、はず。

    ***

    「Drops」は現代モノ男女恋愛メインのオムニバスっぽい一次創作です。

    ##Drops #創作男女

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    • お守り強気になれない女たちが、見た目通りだったりそうじゃなかったりする話。
      一応百合。恋愛的な描写はほぼありません。でも割とそういうつもりで書いています。

      「第3回Fediverseワンドロワンライ」にて、お題「刺青」「勘違い」で参加した作品……を、更に数時間かけてとりあえず書きたかったところをまとめた感じのものです。完成品といえばそうかもしれない。

      #創作百合
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    • 20214ハッカとイチゴのバレンタインデー(1年目)
      多分そのうち文になる

      ##Drops #創作男女
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    • きっとそこには「えん」があった珠己と円郁、出会いの話。
      忘れるはずだった日、忘れたくない日。

      ***

      「Drops」は現代モノ男女恋愛メインのオムニバスっぽい一次創作です。

      ##Drops #創作男女
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    • 110211/02(いい鬼の日)に描いたらくがきメブキ

      ##異世界の窓  #創作
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    • あまいものをひとつ※微すけべ

      4年くらい前に書いた和ファンタジー創作BL(メブ玄)の小話
      色狂いの術士盗賊鬼 × 寡黙剣士耳しっぽ獣人
      なんとなく上げる気になったのであげちゃう

      ##異世界の窓  #創作BL
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