イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    王の肖像/幻の光捧日星が光る無名の死黒い朝明星奇景 一、レスタルム西明星奇景 二、グラレア明星奇景 三、レスタルム明星奇景 四、赤い光十年の昼THE LIGHT BURNINGグラディオラス・アミシティアの日記明星奇景 五、インソムニアノクトくん!幻の光エイゲル博士説いて曰く落日巡歴の朝星を飾る王の間有名な動画子ども科学電話相談室アミシティア譚捧日
     夜中も一時を過ぎると毛布一枚では心もとなくなってきた。だが、標の外で焚き火をするわけにもいかない、山火事になってはたまらない。そう思ってノクティスを抱え込んだ毛布の前の合わせをぎゅっと握り込んで寄せたところへ、ぽんと温かいかたまりが放り込まれた。
    「即席だが」
    「なんだこりゃ、湯たんぽ?」
     温かい。毛布の中へ引き込めば腕の中の空気がふわりと温度を上げた。心なしか、抱えた体もやわらいだように感じる。
    「ガルラの胃袋を乾かして湯を入れて、口を縫ったんだ。最初は乾燥させたのを水で戻して食べられないか実験してみようと思って取っておいたんだが……」
    「はあ、すげえな」
    「思わぬところで役に立った」
     首をひねってイグニスを見上げれば、その目はノクティスにそそがれていた。憂わしげに眉が寄る。この男はこんな顔を何度してきたのだろう。たとえばノクティスが幼い頃郊外で大型のシガイに襲われたとき、まだ自分はそれほど親しくなかった。父が夜半血相をかえて家を出て行ったことのほうが印象深い。
     その頃のことをノクティスに聞いても大した話は返ってこない。傷、残ってるけど、見るか。見たければ。そう言ったノクティスに、イグニスがめずらしく不愉快そうに目をすがめていた。もし同じようなことが起こったらという想定のために尋ねただけのことだったので、いや、いい、とそのときは答えたのだった。イグニスには苦い記憶なのかもしれない。
    「夜食が煮えたらまた呼びにくる。交代だ」
     グラディオラスの返事を待たずにイグニスは標へ戻っていった。温かくなった毛布の中で、抱えた体の位置を今一度直す。
    「よく寝やがる」
     おおよそ八時間前、夕刻、ノクティスが倒れた。そのときからノクティスは眠り続けている。
     ノクティスが倒れるのは、実はそうめずらしいことではない。特にイグニスには慣れっこだ。幼い頃から魔力の影響かたびたび倒れて、ひどいときには数日目を覚まさないこともあったという。十六を過ぎる頃から減ったらしいが、今回もまたそのたぐいだった。
     武器召喚程度のちょっとした力しか借りていない三人には、魔力が減るとかいう感覚はいまいちぴんとこない。レギスからもっと大きい魔力を借りていた王の剣ならわかったのかもしれない。武器召喚はほとんど体の負担にならない。ただそれも、あらゆる種類の武器を無限とも思えるほど召喚してみせるノクティスとは比べるべくもなかったが。つまり、魔力が底をつく、という状態がどういうものでいつ起こるのかは、ノクティスの顔色を注視して予測するしかなかった。そして、今回はその予測が遅かった。
     前夜はホテルに泊まって遅く出たので、みな体調がよく疲れもなかった。それはノクティスも同じだ。ただ、雷神鳥の群れに襲われたため、ノクティスの空中での立ち回りが多かった。だがそれも昼のことだったので夕方にはみな忘れていた。もしかしたらノクティス本人さえ忘れていたのかもしれない。
     林の中、木の枝をよけたノクティスが、イグニスに軽くぶつかったのだった。シャツの袖をまくった腕にノクティスの腕がふれて、体が冷たいぞノクト、とイグニスが言った。えっ、と、初めて気がついたというふうにノクティスがイグニスを見た。小言のひとつも言ってやろうとグラディオラスもノクティスを見た。それより先にプロンプトが、ノクト、顔色やばい。と言った。ノクティス本人はぼんやり立っていた。様子がおかしかった。
     さっき通った標はエレメントが枯れてて……とノクティスがぼそぼそ言った。弁明というのでもない、なんだかほうけた様子だった。イグニスがノクティスの瞳の中を見るように乱暴にも見える動きで頬に手を当て顔を上げさせてすぐ、標に行こう。と声を上げた。まだいける、大丈夫だ、と言って抵抗しようとしたノクティスをさえぎってイグニスは、潮汐と魔力の関係がどうとか、よくわからない話を早口にまくし立てた。そこからはあっという間だった。ノクティスを運べと言われてわけがわからないまま歩み寄るが早いか、ノクティスは表情も変えないまま重力に負けるように膝から崩れ落ちた。すんでのところで支え、プロンプトが地図を見て、最近寄らなかった標に行くとイグニスが告げ、レガリアを駆るうちに日が暮れた。
     イグニスの説明はいつもよりよっぽど不親切でわかりにくかったが、つまり、イオスから月がもっとも遠い日、月に一度くらいノクティスの魔力が著しく衰える日があるらしい。そんな日に魔力を使いすぎた。俺のミスだ、とイグニスは繰り返し言った。
     標に着いてからもイグニスは舌打ちをした。エレメントストーンが標から遠い、だが……と言って、考えるように黙った。そこからも悶着があったが、結局、危ない役は俺がやるとグラディオラスがノクティスを抱いて標の外で寝ずの番となった。エレメントストーンのそばにいれば少しずつ回復していく、待つしかない、と自分が痛いような顔をしてイグニスが言った。
     そして今、夜の二時をまわった。ノクティスは眠りっぱなしだ。さいわい、野獣もシガイも出てこない。
    「グラディオ」
     振り向くと歩み来るイグニスの向こうで、プロンプトが標から手を振っていた。
    「夜食を食ってこい。それで、少し寝ろ」
    「食ったらまた戻るが」
    「プロンプトが加勢してくれる」
     首を伸ばして標を見ると、かたつむりのようにテントから顔だけ出して腹ばいになったプロンプトが狙撃手よろしく銃を構えている。
    「なんだぁ、ありゃ、あそこからシガイでも野獣でも撃ってやろうってことか」
    「ハンドガンでは心もとなくはあるが、プロンプトの的中率はたしかだ。ライフルを学んでおけばよかったとぼやいていたから話を聞いてやってくれ」
     毛布からそっと自分の体だけを引き抜き、ノクティスを地面に横たえる。すぐ入れ替わりにイグニスが毛布へ滑り込んでノクティスを抱き上げた。
    「銃はわからん。ノクトがライフルも使えたんじゃねぇか」
    「ああ。だがノクトは感覚によるところが強すぎて教えるのは下手だからな」
     違いねぇ、と苦笑して、二人を置いて標へ向かった。一歩ごと、トマトとスパイスの香りが強くなって唾が湧いた。サハギンの煮込みだろうか。あれは、どうやるのだか見当もつかないが、レスタルムの屋台で食べるとプロンプトが「いつ飲み込むの」と困り顔を見せることもある噛み応えのあるものが、イグニスに作らせるとふわりと溶ける舌触りになる。どう作るのか聞いたが最後、話が長いので決して聞かない。
     標へ上がるとプロンプトがおかえりー、と間延びした声で言った。
    「寝たのか?」
    「うん、俺最初に寝てイグニスが飯作って、煮えるまで俺が鍋見てイグニスが寝て、だからグラディオも食って寝なよ。俺ノクト見てるから」
     遠いけどね。と少し拗ねたようにプロンプトは言った。じゃあお言葉に甘えて、食って寝るか。そう答えて鍋を開けると、やっぱりどう作るのだかくたくたに煮込まれたサハギンの肝がトマトの中に沈んでいた。
     そうして、食って、寝て、何時間ほど眠ったろうか。低くゆるやかな音にテントの中でぼんやり目が覚めた。もうそろそろ明け方だろうか。テントの中はまだ暗い。
     隣を見ると、プロンプトが横臥したまま、まだテントの隙間から外を見ていた。訓練を受けたのなんか二年にもならないのに、こいつは真面目だ。ノクティスが関わるとほとんど必死だ。俺たちみんなそうだ、とグラディオラスは思った。真の王であるという運命を差し引いても、ノクティスには人を動かす不思議な力がある。なんでもないふつうのやつなのに。
     葉ずれもほとんど聞こえない中、低い旋律が静かに鳴っていた。
    「なんだ?」
     囁くように尋ねると、同じような声で答えが返った。
    「イグニスが歌ってる」
     なんか俺これ聞いたことある、とグラディオラスに向けるでもなくプロンプトが呟いた。グラディオラスは耳をすませた。距離のせいもあるのだろうが、音はきれぎれで、きっとノクティスにだけ聞かせるつもりで歌っている。ほとんど聞こえないくらいの音だ。
     グラディオラスにも聞き覚えがあった。ルシスの古い民謡だ。物悲しい旋律だが、子守唄としても歌われる。子守唄か。あの男はさほど年も変わらないノクティスをいつまでも小さい子供だと思っているのじゃないかというようなときがある。
     あんまりかいがいしくノクティスの世話を焼くイグニスに呆れることもたびたびあるが、たまにグラディオラスは、そんなイグニスを羨ましく感じる。あれほど何もかも捧げるというのはどんな心持ちだろうか。
     父のことを思い出す。レギスの友人たちは、散り散りに、負傷を理由に、あるいは仲を違え、結局クレイラスだけが生涯その側に残った。そして父はレギスを守って死んだという。インソムニアの襲撃後、帝国兵の去った城内を隠れつつ見回った者が言うには、とジャレッドから又聞きしたところによると、父は謁見の間で高所に剣で串刺しに磔になり、レギスはその先の外に繋がる広間で戦った痕跡の中ついえていたらしい。きっとそこからルナフレーナを逃したのだろう。その場にいて生き残った者はいなかったので、何があったかはわからない。だがきっと、父はレギスを守り、逃がして息絶えたはずだ。
     レギスを逃し、しかしその行く先を見届けずに絶命した父は不安ではなかったろうか。命を捧げられたことを誉れに思ったろうか。友情と忠義を全うしたと。
     俺にもいつかそんな日が来るだろうか。グラディオラスは考えた。あれでいて退屈なほど穏やかな日々を愛するノクティスは、それを決して望まないだろうが。もっと冷酷でいてくれればよかったとさえたまに思う。他人のために身を投げ打つのははたして王の振る舞いだろうか。何もかも自分の手で守るのだとばかりに前に出て、こうやって倒れたりする。
     昔話を父にねだってもいつもはぐらかされていたが、レギスも同じくらい、いやもしかしたらノクティス以上に向こう見ずだったはずだ。愚直なほどの喜捨は血筋かもしれない。きっと父も頭が痛かったに違いない。強くならねば。
     何もかも顧みず捧げられたなら、とグラディオラスは思った。そうしてもう一度、目を閉じた。あと少しだけ眠ろう。プロンプトが見ていてくれる。
     イグニスが歌っている。天と地と海とにまします神々よ、捧ぐ声を聞きたもう、みどりごの夜の星、み空にありて……たしかそんな歌詞だった。
     ノクティスが起きたら、夢を見たか聞こう。朝はもうすぐそこだ。
    星が光る
     取った手は燃えていた。帝国首都グラレア、入り組んだ要塞の、こんな設計ではたして用をなすのだろうか、ともかく、大切な弟分たちと無事再会して、張り詰めていた緊張の糸がほんのひと巻きゆるんだような、その後だった。
     思わず掴んだのだった。そのさまが異様で、思わず、考えが働くより先、手が動いて、掴んだ。食べても食べても太らないので、軟弱だ、とからかった細い腕だ。
     突然手を取られた当人は子供のような顔で驚いてぽかんとしていた。グラディオラスの顔がずいぶん険しかったせいもあるだろう。そして、顔を見れば、首から頬にかけてもまた、燃えて……燃えて、という表現が合っているかわからない。キャンプの焚き火が明け方静かに終わろうとしている中にこんな色と光を見たことがある気がする。灰と火に似ていた。ノクティスが。
     武器召喚の力が戻っても湧いて出る魔導兵とシガイの数の前にたった四人の軍隊は劣勢で、そんな中、ノクティスはイグニスもプロンプトも怪我をかばいつつそれなりに戦えていることを確認した上でグラディオラスに、前、たのむ! と叫んで壁を背にして手を振りかざした。その姿を目の端に一瞬とめて言われたとおり前を守るべくノクティスに背を向けたグラディオラスは、指環の力か、と頼もしく思った。
     列車で感情のままに叱責したことは悪かったとも思うが、いつまでも決心がつかずぐずっていたノクティスにはいい薬だったろう。謝る、謝らない、という関係ではない。憎まれ役を買って出ることもときには自分の役割だ。ただ、いつもなら諌めて慰めるイグニスがあの様子だったので、少々失敗したとは思うが。
     ともかく、ノクティスは指環をはめた。王として。そして今、敵を前に、その力を行使しようとしている。俺の王だ。俺たちの。背に守るその気配をグラディオラスは誇らしく思った。
     思ったのだ。指環の魔法で(どういう力だか魔法を使えないグラディオラスには見当もつかないが)あわれに痩せ細りついえた敵の姿にため息をついてノクティスを振り返るまでは。
     手が燃えていた。たよりない首とまだ幼い頬も。灰と火に似ていた。
     絶句した。神々を呼ぶときの眼差しよりももっと、そうだ、禍々しく、そうだ。死に似ていた。……大切な弟分、よわっちい王子、誇らしい王が。
     グラディオラスの目が腕と、首と、頬に走ってまた戻り辿るのを見てノクティスは、何にそんなに驚いているのかようやくわかったようだった。ああ、といつものどうでもよさそうな声で言った。すぐ消えるんだ、これ。なんともない。痛くもねーし。そう言って目を伏せて自分の腕を見た。たぶんノクティスは鏡なんか見ていないので、その灰と火が、死が、首筋と顔にまで及んでいることを知らない。
     長いまつ毛がちいさな弧をえがいてひらき、瞳がグラディオラスをとらえた。……でも、イグニスには言うな。掴まれた手に少し力をこめて握り返しながら、ノクティスが言った。あいつ、心配するから、すぐ。うるさいし。
     なんでもなくなんてないことを、わかっているような言い方だった。……わかっている。当たり前だ。魔法は血だ。レギスの、ノクティスの血の中を魔法と武器が駆け巡っている。そして宿命が。グラディオラスが呆然としているあいだに、ノクティスは手をほどいて「寝るとこあったよな。少し休もうぜ」と言いながらさっさと行ってしまった。
     かつん、と、乱暴に脚に棒が当たった。杖だ。イグニス。当たったのではなく、わざと当てたらしい。この男にはこういう雑なところがある。
    「ノクトは、指環の力を使ったのか」
     答えが是とわかっていてする問いだ。この男は、そういうところがある。裁判官にでもなればいい。
    「……そうだ」
    「肉体は石炭や冷えた溶岩のようか」
     グラディオラスは息をのんだ。あと少しで、ひっ、と、みっともない音が出るところだった。そうか、とイグニスが言った。勝手に納得をするな。俺をおいて。
    「古い文献で読んで、知っていた。指環の魔法が王に何をもたらすのかを」
     イグニスは知っていた。知っていたのか……。顔が赤くなっていなければいいとグラディオラスは思った。強く己を恥じたからだ。それを察してか、俺が知っていればいいと思っていた、とイグニスは言った。俺とお前ではすべきことは違う。目的は同じでも。
     そんな言葉が慰めになったろうか。慰めてもらいたいわけでもない。
    「教えろ、グラディオ。ノクトの肉体は、顔つきは、どんなふうだった」
     ノクティスの耳に届かないような抑えた声で、しかし拒否を許さない調子で、イグニスが問うた。あれを言葉にしろというのか。あんな、得体の知れない正体のわからない理解の及ばない、ただ、ただ苦しみだけは推し量れるおぞましくかわいそうなものを。
     グラディオラスは一度奥歯をぎゅっと音がするほど噛み締めてから、唾を飲んで、腕が、指環をしているほうの腕が。と言った。腕と、たぶんそこから続いて首と右の頬が。燃えていた、お前の言うように、炭や溶岩のようにひび割れ、赤く。
     そうか、と無感動な声でイグニスが言った。いつからイグニスは知っていて何を考えていたんだろうとグラディオラスは思った。
    「跡は残っていないか」
    「ない」
    「では痕跡は長期間の酷使によるものか。陛下や、王の剣の顔にあったような」
     ああ、と相槌のような嘆息のような声をグラディオラスはもらした。レギスや王の剣の精鋭たちの顔の跡と今しがた見たノクティスの燃える灰と火が、線で繋がったからだ。繋がってしまった。その先にある、レギスが日ごと命の色を薄くしていく様子と、その横にいつでも寄り添うように侍っていた父の姿とも。
     指環が王の命を削ることは知っていても、それを支える覚悟をしたつもりでいても、どんなふうに命を削られていくかなんて、考えたことがなかった。愚かだった。
    「グラディオ」
     とイグニスが言った。ノクティスの行った先を、見えない目で見つめていた。足音でわかるのだろう、そういえば昔から耳がいい。
    「ノクトは」
     この男が、ノクト、と言うとき、そこにはいつも特別な色合いがついている。俺もそんなだろうか。ノクト。ノクト。他人からはそんなふうに聞こえるのだろうか。
    「王は、王であるだけで傷を負う。ノクトにはまだ俺たちを頼る強さはない。……だから、守ろう、全身全霊をかけて、盾となり剣となり。俺たちで」
     揺るぎない声で、イグニスが言った。盲いてどうやって守るというのだろう。でも、やるのだろう、この男なら。そして俺もきっと。
     ノクティスの行った先を見るとのろのろと、プロンプトと共に歩いていた。疲れた、しかしようやく少しやわらいで穏やかな顔をしていた。痛々しい痣の残るプロンプトが、笑いながら尻のあたりを(無礼にも)叩いて、よろけながらなにがしか文句を言っている。かわいい弟。たよりない王子。たったひとりの王。
     守ろう、とグラディオラスも言った。イグニスは頷いて、盲人の速さではない歩みでノクティスを追った。
     ノクト。ノクティス。俺がそう呼ぶときも、星が光るように聞こえるのだろうか。
    無名の死
     自分が何者になるか、なんて、ほとんどのやつらは知らずに生まれてくる。ある者は流れに身をまかせ、ある者は否応なく悟り、ある者は自ら掴み取り、ある者は死ぬとき初めて己が何者でもなかったことを知る。ニックス・ウリックがどうだったかというと、身をまかせ、悟り、掴み取り、そして何者でもなく死んだ。その始まりと終わりは、ほとんど誰の目にもふれることはなかった。
     ニックス・ウリックを語るとき、その人生のどこに焦点を当てればいいだろうか。ガラードで穏やかに過ごした少年期か。それが無残に踏みにじられ、ルシスの王に助けられた青年期か。インソムニアへ移住して英雄として名を馳せ、そしてただのニックス・ウリックとして戦い、死んだ、その早い晩年か。
     ニックス・ウリックは何者でもなく生まれ、人生の三分の一ほどの月日を戦士として、英雄として生き、何者でもなく死んだ。では、ノクティス・ルシス・チェラムはどうだろうか。かれははじめから選ばれていた。そして選ばれて死んだ。かれが望むと望まざると。
     二人の幾度かの邂逅について語るとしよう。

    §

     ニックスが故郷を離れインソムニアへ初めて足を踏み入れたのは、かれが二十歳のときだった。母と妹を形ばかり弔ったのち、ルシス王が傭兵を募っているという報せをラジオで聞いて、幾人かでインソムニアを目指して発ち、その行路、途中の町にとどまる者もあり、また一行の目的を聞いて加わる者もあった。
     インソムニアは何もかもが故郷とは違った。こんなに大きな街をふるさととして育つ者がいるということがニックスには不思議に思えた。城はひときわだ。自分を助けたあの王も、その息子も、こんなところで育ったのか。ニックスには想像さえできなかった。ガラードはあたりまえに、夜は暗く、静まり、家々の灯りも消えていた。インソムニアとは何もかもが違った。
    「よう、ニックス」
     手続きを済ませた城の事務窓口でぼんやりしていたニックスの背中に、声がかかった。リベルトだ。同郷人がいてくれるというのは頼もしい。
    「すげえよな」
     そう言ってリベルトは周囲を示すように首をぐるりと回した。ああ、というニックスの気のない反応に不満げに眉を上げてみせる。すげえな、と繕って付け足すようにニックスは言った。ニックスの手にもリベルトの手にも、移民登録証と王の剣の宣誓書がある。この紙切れがこれからを保証してくれる。何もかも失った俺たちを。
    「次は寝ぐら探しだな」
    「さっき、窓口のにいさんから安いところを……」
     そのとき、懐からメモを出したリベルトの言葉は騒がしい足音に遮られた。黒衣の軍人らしき男女が慌ただしく往来する。話に聞いた王都警護隊というやつだろうか。その奥に王の姿が見えた。
    「レギス王だ」
     リベルトに耳打ちすると、リベルトはえっと声を上げて、隊員たちの奥をのぞき見ようと首を伸ばした。いかめしいマントをつけたレギス王が王子らしき子供を抱いて隊員たちに先導されながらニックスたちのすぐそばの扉へ向かって歩を進めていた。こんな場所から出入りすることがあるんだろうか。突然のことに心臓が高鳴った。マントのはためきがスローモーションのように見えた。村を蹂躙した帝国兵たちを常人ならざる力で退け、妹が、と叫ぶニックスに「すまない」と言ってくれた姿をありありと思い出せる。レギス王だ。
     ニックスは衝動を抑えきれず一歩、二歩、進み出た。
    「あの。俺は、レギス王に助けられて王の剣に志願しようとガラードから来て、今日付けで登録されたんだが」
     声をかけた隊員の振り向いた顔は険しかった。いぶかしむ強い眼差しに面食らいつつ、続ける。
    「一言でいいんだ、王に礼と忠誠を伝えたい。いけないか?」
    「今はだめだ」
     隊員が鋭く首を横に振って言った。そのやりとりの間に、王はニックスの前を過ぎようとしていた。隊員の肩越しに一言でもと思って、たたらを踏んだ。レギス王。
     だが、王の顔を見てニックスは、呼びかけようと開いた口をそのままに喉をぎゅっと締めた。
     王の横顔は沈痛だった。そして、抱かれて眠る子供、王子の頬には涙の跡が幾筋も乾いて張り付いていた。一言も発せないまま、王はこちらに気づかずに行ってしまった。
     王の乗ったエレベーターを見送った先ほどの隊員が戻ってきて、早口に言った。
    「旅の途中、ニュースもラジオも聞いていないか」
    「ない」
     そうか、と頷いた隊員が続ける。
    「少し前、ノクティス王子が郊外で、インソムニアにはいないはずのシガイに襲われて重傷を負った。その療養に神凪のいるテネブラエに滞在されていたんだが、今日、帝国がそこを急襲した。どうにか逃れて、今、そのお帰りだったんだ」
    「そりゃあ……」
     とリベルトが言ったが、そのあとに言葉は続かなかった。隊員もただ黙って首を横に振った。
    「……王子は、おいくつで」
    「八つだ。おかわいそうに」
     そういうわけだ、すまんな、これからよろしく頼む。と言って隊員はその場を辞した。ニックスとリベルトは自分たちの汚い身なりには場違いな意匠の凝らされた美しいホールにぽつんと佇んでいた。

    §

     迷子か、と声をかけると不機嫌そうな眼差しでちらりと見上げて、違う、と一言答えたきりかれは黙った。視線の先を追うと王の剣たちの訓練を真剣に見ているので、たしかに迷子ではないらしい。ノクティス王子。まだ声は高く頬も丸い。ニックスがインソムニアへ移ってから三年が経っていた。
    「楽しいかい」
    「べつに」
     城の中心からは離れた王の剣の訓練場にわざわざ忍び込んでおきながら、返答はそっけない。子供の足では遠かったろうに。ニックスはというと、その子供に格好のさぼり場所を奪われている。今日一日は訓練しか予定がないのでさあ昼寝でもしようと場内からは見えない柱と柱の間に向かえば、先客がいた。目が合って驚く猫のように硬直したその子供が王子だと一目見てわかったが知らぬふりをして迷子かと問えば、少し警戒をといて「違う」とだけ答え、鼻先ほどの高さにある礎石に手をかけて訓練を見ていた。柱のたもとの礎石にあぐらをかいたニックスは、まいったな、と頬杖をつき、ノクティスのつむじを見下ろした。
     ニックスは、王の剣となった日を思い出した。あのとき王に抱かれて眠っていた子供だ。あの頃よりどれほど大きくなったのだろうか。よく覚えていない。
    「まめがつぶれそうだな」
     手のひらの、と言うと、ノクティスは瞠目して小さな手を腰の後ろにさっと隠してしまった。妹の世話で子供の扱いは慣れた気でいたが、ずいぶん性格が違うらしい。どうも勝手がわからない。妹がいたのもずいぶん昔のことに感じた。そう遠い過去ではないのに。
    「つぶれると痛いぜ。テープかなんか巻いておきな」
     ノクティスはうつむいて、尖らせた唇の先で、痛かったら休めるかも、とはなから諦めたような調子でぶつぶつ言った。隠した手のひらをそろりと腹の前に出して、開いては閉じ、見つめている。
    「剣の稽古か」
    「全然勝てないんだもん」
     子供だ、とニックスは思った。子供にしか持ち得ない浅はかな大らかさで、先ほどまであんなに警戒していたのをすっかり忘れ、ほんの短い間にもう気を許してしまっている。この子供の中にもあの偉大な王にあるような特別な力があるのだろうか。そうも見えない。だがそれでも、お作法ではない実践の剣の稽古や王になるための勉強をするのだろう。時代は戦火のただ中だ。
    「動物と遊んだことあるかい」
    「うん。アンブラもプライナも、おとなしいけど。あとたまに猫が入ってくるから遊ぶ」
     そのナントカとカントカは、城で動物を飼っているのだろうか。そんな話も聞かないが、まあこれだけ広いのだ、姿を見なくても不思議はない。げんに、王子の姿を見るのはあの日以来だ。王の剣の中には、移民は端っこに追いやってあいつら高みの見物だぜ、などとうそぶく者もいたが。
    「追いかけると捕まえたって思ってもするっと逃げるだろ。あんな感じでまわり込むんだ」
     ノクティスの目が輝いてニックスを見た。
    「くるっと回ったり、飛んだりしてな。相手が捕まえたぞって思った瞬間に隙が出る」
     わかった、やってみる、と言ってノクティスはその場で小さく跳ねた。思わず笑いがこぼれ、
    「まあ、がんばれよ、王子様」
     と言ってすぐ、しまった、と気がついた。王子だと気づかれていないと思っていたノクティスの表情がさっと剥げ落ち、もう帰んないと、と硬い声で言った。ご機嫌を損ねたらしい。
    「送ろうか」
    「いらない」
     そりゃよかった、とニックスは思った。送ろうにもこの広大な城の居住区の場所など知るはずもない。むくれた顔で、ありがとう、と告げ、ノクティスは足早に行ってしまった。俺のガキの頃とはまるで違うな。そう思ってニックスは子供の懸命な歩幅で遠ざかってゆくノクティスの背中をぼんやり見ていた。

    §

     退屈な仕事ほどニックスの懲罰に向いている、と、学校から城までの短い道のり、ノクティスの臨時の運転手を任されたのだった。もちろん、忠誠心を買われてのことでもある。車内はほとんど密室だ、王家に反発を感じる者をそんな役に就かせるわけにはいかない。そのてんニックスは信用されていた。移民仲間からその忠誠心を「新市民」などと揶揄される程度には。
     運転手はなるほど退屈な仕事だった。無口なノクティスと交わした言葉は、かれの降りぎわのやりとりだけ。声変わりの最中の揺らめく声だった。
    「あんた、前に会ったことあったっけ」
    「はあ、まあ、少し、訓練場で。大きくなられましたねぇ」
     ぱっと耳が赤くなったのを自覚してか、必要以上の不機嫌な顔で、その説はどーも、とだけ言ってノクティスは城の通用口に滑るように入っていった。
     王子はいくつになったんだろう、とさほど興味もなくニックスは考えた。妹が生きていたら何歳になるのかを指折り数えるのももうやめた。
     俺はどこに向かうんだろう、となめらかな革のシートに背を預け、車庫へ向けて車を進めながら夢想した。戦争が終わったらどうするのだろう。警護隊に雇ってもらえるだろうか。それともハンターに。ガラードへ戻ろうか。俺はどこへ向かうのだろうか。

    §

     四度目の邂逅も、車中だった。その頃ニックスはいよいよ英雄ともてはやされていたが、戦場での単独行動を問題視され、門番に運転手に支給品チェックと、罰にはうってつけの退屈な仕事の中の一日だった。ノクティスを城から一人暮らしのマンションへ送る中、長い渋滞に巻き込まれ、ああこれはいよいよ退屈な仕事になるな、と覚悟したとき、後部座席から声がかかった。声の調子からわずかな緊張が感じ取れ、人見知りなんだろうかとニックスは思った。
    「なんです?」
    「知らねえ? ゲームなんだけど」
     ずっとやりたかったんだけど年齢指定あるから、今年やっとできて、なんかあんたらっぽいなって。王の剣。とノクティスは言った。
    「知らんですね。ゲームねぇ、やらないな」
    「おもしれぇのに」
     ふうん、と返すと、こういう話で、こういうところがおもしろくて、とやおら語り出した。何が何やらよくわからない。自分なんかに語るというのは、あまりこういう話をできる友人がいないのだろうか。それもそうか、なにしろ王子だ。遊びまわる性格でもないらしい。そのアサシンなんとかたらいうゲームが、俺たち王の剣に似ているとか言っただろうか。ゲームの中でまで戦いたくはない。戦場に好んで出たいやつがいるのだろうか。こうも戦争が終わらないのならきっといるのだろう。暴力や裏切り、計略がおもしろいのは物語の中だけだ。その現実の苦さを舐めたことのあるやつは希釈された物語をもう楽しめない。
    「シフトさぁ」
     先ほどまで熱っぽくゲームについて(一方的に)語っていたのに聞き流しているうちに話題が移っていた。はっとして、しかし、はあ、と、取り繕うように返す。バックミラーを見るとノクティスは切り出すのをためらうようにうつむいており、間をおいて唇を開いた。
    「あんまうまくいかないっていうか、なんか、五回に一回くらい、ちょっとやばいなって」
     ミラー越しに目が合った。
    「あんた、上手いんだろ」
     それ以上をあからさまに頼むのははばかられるらしかった。はあ、とまた気の抜けた返事が出る。ニックスたち王の剣が借りている魔力の源たる王族に魔法のコツを聞かれるとはおかしな話だ。こんな話聞かれたら多分怒られるんだけど……ともごもごノクティスが言った。それはそうだ、体裁が悪い。秘密裏にということか。
    「シフトねえ」
     ノクティスの気配が期待に満ちた。ニックスは苦笑する。素直な子供だ。育ちがいいというのはこういうことだろうか。そんなことではきっと損をするだろうなとニックスはぼんやり思った。狡猾さを必要とせず、望まれもせず、他人の中にも見ない。それはきっといいことなのだろう。
    「どう失敗するんです。投げたマーカーに届かない感じですか」
    「いや」
     シフトは警護隊にも与えられない、王の剣だけに与えられた特別な力だが、王の剣の中でも苦手な者はいつまでも苦手だ。酔うとか、再出した先で天地を見失い前後不覚になるだとか。戦うためにはやるしかないが。ニックスはたまたま相性がよかった。だから英雄にもなれた。
    「なんつうか、投げてさ、向こう側に行くだろ。そしたら、戻ってこれない感じっていうか。ばらばらになったまんま、時間が止まって、あっやべえ戻んなきゃ、飛んでる最中だった、って思ったら、だいたい行きすぎてんだよな。で、しょうがねぇからもっかい武器召喚してシフトして」
    「えっ? はあ」
     ノクティスの話は、かれがおそらく話し下手だということを差し引いても、理解に難かった。シフトは常人の感覚を超越した技なので、王の剣の中でも訓練はひときわ難しい。やったことのない者にはわかり得ないからだ。ノクティスにそれ以上の説明もできそうもないので、こうなると、いちいち聞いていくしかない。さいわい未だ渋滞のさ中だ、時間はたっぷりある。
    「向こう側って? 投げた先ですか」
    「え? じゃなくて、ばらばらになるじゃんか。武器召喚と一緒だよ。自分が」
     はあ? と思わず声を上げたあとで、あわてて失礼しました、と加えれば、ノクティスが小さく笑った。
    「ええと、それで?」
    「だから、多分気が散ってんだけど、カミサマとかオーサマとかがうるせぇし、そんで、だから飛んでる途中でもっかい武器召喚してもっかいシフトするから、目的地にうまく着けねぇの」
     言っていることの半分もわからない。
    「飛んでる途中でもっかい武器召喚してもっかいシフト?」
    「うん」
    「そんなの、王の剣の誰も、俺もできませんよ」
     そうなの? と単純に驚いたというふうにノクティスが言った。正確には、やろうと思ったこともない。一回シフトするだけで胃の中に鉛を入れられたように疲れと吐き気がこみ上げるし、苦手な者は気絶する。それを繰り返してきたニックスの肉体には魔法痕とか呼ばれる傷跡がもう消えないで増えていく。
    「魔力の底が違うんだろうな。俺じゃあんまり大したことは言えませんよ。レギス陛下に聞いた方がいいんじゃないですか」
     ほとんど語尾にかぶさるように、親父は忙しいから、とぶっきらぼうだが頼りない声でノクティスが答えた。たしかにレギス王は忙しい。戦況が日々悪化するにつれ。テレビやラジオがどの程度真実を伝えるかは知らないが、仲の良い親子だというようなことを聞いた覚えがある。心配を増やしたくないのだろうか。ううん、とニックスは唸った。
    「参考になるんだかわかんねぇですが……」
     ニックスは初めて魔力をもらってシフトしたときを追想した。なんだってできると思えた。いくらだって戦える。夢のような力だった。剣を投げた先、また投げたその先へ飛んでいくのだ。俺の行く先はただ剣が示すものだと思った。そのときは。
     ノクティスはどうなのだろう。いつかレギスのしたように、戦線へ出て戦うのか。そこで誰か俺のような者を助けるだろうか。血と、煙と、土埃、瓦礫、火と肉の臭い、機械兵の死ぬ音、すすり泣き、慟哭、咆哮、そんなものを見聞きするだろうか。
    「俺らは……あんたがたと違って底なしの魔力じゃない、借り物です。だから、戦いの前線で、空中、敵陣の真ん中に打ち付けたマーカーに手が届かなければ、落ちるか、見つかるか、被弾するか、どういう形であれ、死ぬ。確実に」
     ノクティスの唇からわずかな嘆息がもれるのが聞こえた。後部座席から頬の刺青のあたりに痛いほど視線が注がれているのを感じる。
    「シフトの剣先は、錨です。それだけが命を繋ぐ錨。決して離しちゃいけない」
     錨……とノクティスが呟いた。
     剣先は錨。俺たちは嵐に煽られる頼りない小舟。故郷の岸に帰り着く日を夢に見て砕ける波に耐えている。どことも知れない海原のただ中で。
     しばらく、車内に沈黙が降りた。ゆっくりと車が進み出す。雨が降りそうだ。雲が重い。渋滞を抜けて車はようやくなめらかな流れへ滑り出した。
    「ガラードだっけ」
     また唐突に、ノクティスが尋ねた。なぜ知っているのかと片眉を跳ね上げてバックミラー越しに目を合わせれば、テレビで見た。英雄のプロフィール。と答える。
    「そのタトゥー、ガラードの文化? どういう意味があんの?」
     子供のようなあどけなさで尋ねてきた。いや、まだ子供だ。かれは。
    「矢よりも速く」
    「かっけぇ」
    「流れ星だって言うやつもいますけど」
     どっちだよ、とため息まじりにノクティスが笑った。
     この四度目の邂逅が、ニックス・ウリックとノクティス・ルシス・チェラムのもっとも長い会話となった。

    §

     夜明けだった。
     命の灯火が尽きようとする永遠にも思えるそのとき、ニックスは王の気配を感じた。レギスではない。では誰だ。ニックスは目を見張った。眼前に、つい数日前王都を発ったはずの青年の姿があった。いや、姿があったというのは正しくない。それは、たしかな幻・・・・・だった。
     なぜここに、と問うた声はもはや声の体裁をなさなかった。ニックスは自らの肉体が終わろうとしていることを悟った。そして魂も。
     ノクティスの姿は、いつだったか大停電のあと壊れてしまった駅前の大ビジョンのように明滅して、嵐の中の鳥のようにもがきながら浮かんでいた。こことそこで、別の世界の現象のように。魔法だろうか。わからない。
     王子。ニックスは呼びかけた。呼びかけた、つもりだった。もう声はすっかり出ないで息も喉をわずかに揺らすだけだ。王子……いや、ちがう、なぜかれをもうあの細い肩の張りつめた幼いまだ丸い頬の王子ではなく、王だと感じるのだろう。姿は変わらないのに、いつか車に乗せたあの青年ではもはやない。お父上が亡くなったことを伝えてやらなければと思ったが、幻はもう何もかも知っているように見えた。王子、あんた、なぜ。
     そのとき、朝日を透かしたノクティスの姿が一度大きく明滅してその腕をニックスへ伸ばした。助けようとでもいうように。
     気づいた。その手の指に指輪があった。つい今のこの夜明け前、レギスからニックスを経て、ノクティスに渡るべくルナフレーナが持って発った指輪だ。それがすでにかれの手にあるはずはない。ではこのノクティスはいったいいつの・・・ノクティスだというのだ。———未来の?
     ニックスは指輪と、その先にある顔を見つめた。いつかの青年ではない。触れられそうな近さに思える眼差しに、星を見るような距離を感じた。
     ノクティスの瞳にはまるで永劫の深淵を見たというような色があった。指輪の世界で見たくそったれの歴代王どものような。あれが、いつかノクティスの言った、「向こう側」だったんだろうか。「カミサマとかオーサマとかがうるせぇし」。たしかにうるさかったしむかついた。かれはいつでもあんなものを感じていたのか。
     ほんの数秒が何十分にも何時間にも感じられた。王子、とニックスは思った。
     ああ、王子、あんた今、いったいいつのどこにいて、何を見たんだ。あんたもあの王様どもの法廷に立たされたのか。そして、そいつらに認められたんなら、あんたは何を守るため何を捧げる誓いを立てたんだ。
     ニックスは運命に翻弄されるばかりの年若い王子を哀れんで目を細めようとした。だが、それより先、ノクティスの幻が悲しげに眉を寄せた。ニックスは苦笑したくなった。ノクティスがニックスの死をその目に見とめて悲しみをあらわにしたのがわかったからだ。ああ、死ぬのか、俺は。レギス王に助けられ、くそったれの歴代王に猶予をもらった命もここまでか。
     ノクティスが逆回転のフィルムのようなぎこちなさで宙を掻いてもがき、あえぐように二、三度口を開けて、見つめ、瞬間、ガラスの鈴が砕けるような声、いや声ではなかったかもしれない、魔力そのものだろうか、ともかく、何かがあたりに鳴り響いた。何かは、ニックス! と、高らかに名を呼んだ。そして、ほとんど燃え殻になったニックスの指先に、その幻の指先が、触れた。
     いま俺は未来の王子の、いや王の見ているつかのまの過去なのだとそのときニックスは知った。指輪は、クリスタルは王に何を見せ何を背負わせたのだろう。神々と人間のたどる過去と運命のすべてだろうか。こんな青年の骨の浮いたような頼りない肩に。指先に。血と、煙と、土埃、瓦礫、火と肉の臭い……。そんなものを。燃え殻の頬に涙が筋をなして落ちた。
     王子、いや王様、あんたのその細っこい肩に何もかも背負わせるなんて俺だって気が進まねぇんですよ。けど、ああ、なんて言えばいいのかな、俺だって死にたかねぇけど仕方ねぇ。俺は本当はもっと、俺の両手に余らないくらいの小さなものを守っていたかったんだけど。まぁ、けど、悪かねぇよ。悪かねぇ。こうして最期に俺の名前を呼んでくれるやつが、しかも恐れ多くもあんたが、いて、だから……。
     言葉がまとまりなく去来したがどれも声にはならなかった。だが最後に一言だけを許された気がして、うつむきかけた首を持ち上げ、ニックスは割れて砂だらけの唇を開いた。
    「未来へ」
     そのとき、同時に、ニックスの命が世界から滑り落ち、ノクティスの幻は嵐にさらわれるようにかき消え、二人の最後の邂逅は終わった。

    §

     真の王がそのふるさとを発ったのと同じ歳の頃、かつてニックス・ウリックはふるさとを後にして王都へ移り住み、ほどなくして英雄と謳われ戦った。かれが王都を救ったことは逃げ延びた神凪がアコルドの要人に語った断片から伝えられたが、かれの死を見た者はいない。
     だが最期、かれの名前を呼んだ者がいた。そうしてかれは英雄ではなく、ただのニックス・ウリックとして死んだ。亡骸はなく、墓標もない。かれの死はただ王だけが知っている。
    黒い朝
     宿は空いていて人数分、三部屋取れた。ハンター以外で移動する者たちの数が減っているからだ。俺は真ん中の部屋にした。というより、一人になるのを急ぐように手前の部屋にさっさと入られて、一歩でも距離を遠く取りたいとばかりに奥の部屋に入られて、残った真ん中に入るしかなかった。部屋に入り、タバコの焼け跡のついたソファの端に腰を下ろして、ただぼうっとするしかなかった。
     ついさっきゲンティアナに聞かされた言葉が、がんがんと頭の中を反響するみたいだった。真の王。ノクティスは。クリスタルは。力を。……うるさい、黙れと、感情のままに反論したかったが、喉がひりついて唾は粘っこく、声なんか出なかった。
     ノクトは。───名前を心に浮かべただけで、つーんと、強すぎる香辛料を嗅いだときみたいに鼻が痺れて気管が震えた。胸から呼気がせり上がり、目の上に盛り上がった涙がこぼれるというそのとき、東側の部屋から大きな獣みたいな咆哮がした。大げさなくらい、ソファをきしませて俺はびくつく。
     窓ガラスが揺れたんじゃないかと思った。
     その後も二度、三度、怒りを抑えられないというふうに声は吠えて、それから、何かを叩き壊すような音がした。合理性のかたまりというようなかれは、ものを無駄にするのは決して好まなかったのに。俺は怖くなった。かれは小言を言えど怒りをあらわにすることは一度もなかった。それが、今日は違った。
     西側の隣は、薄ら寒いくらいに静かだった。あんまり静かなので俺は、悪趣味だとは思ったが、立ち上がって薄い壁に歩み寄り、片耳をそこにつけた。
     静寂ではなかった。ぶつぶつと抑えた声が聞こえた。聞いたことがある文言だ。たしか、歴史の授業で。
     ルシス王国が創設されたとき、六神の加護への謝意と王家の繁栄を願った、誓約文であり、祈りです。
     歴史の教師はそう言った。俺にはついぞ覚えられなかった。覚える必要があるようには思えなかった。その時も、今も。いや、今はもっと。
     王家を支える祈りだというので、歴史の教師は、ではチェラムくん、とか言ってノクトを指してそれを読ませた。そらんじて読めますか? と聞かれてノクトは、決まり悪そうに、ええ、まあ、とか言って、そのあと、読まなきゃだめですか? とも言った。教師が頷いたのでノクトは仕方ないというへの字口をしてから息を吸い、静かな声で暗唱し、俺たちは皆時間が止まったみたいに聞き惚れた。
     暗唱を終えたノクトはほっとしたように小さな息を吐いていた。恥ずかしいんだろうとそのときは思ったが、今になると、あの祈りをノクトが読んだら魔法とかが働いてしまうのかもしれないと思えた。あんまり深読みしすぎだろうか? それを今、西側の部屋で首からいつも小さなどくろのついた十字の首飾りを下げた男が、感情を抑えるようにして唱えていた。俺はそっと壁から離れた。俺はやっぱり怖くなった。
     東側の部屋からはもう一度吠える声と、壁に頭でもぶつけたような音が響いて、それきり宿は全部静かになった。俺も物音を立ててはいけないように思った。
     イグニスは怒りに吠えていた。グラディオは運命に祈っていた。俺は。じゃあ俺は?
     俺はまた、鼻がつーん、として、胸が膨れて、喉が潰れ、目が盛り上がって、ぼたぼた水をこぼした。眠ろう、と思うのに、脚が動かなかった。靴のかかとが床にこすれて、床板が大げさにぎいーっと軋んだ。それだけだった。
     はやく眠ろう。ベッドで眠れるなんて上等だ。この部屋は窓が北向きで朝日が入らないから明日起きられるかわからないけど。でも南向きだったとして何も変わらないかもしれない。どうせノクトがいなければ世界は真っ黒だから。ノクト。俺は。俺はどうしよう。ノクト。
     俺は友達が死ぬのを待ってたくなんてない。でも俺には吠えることも祈ることもできない。俺がそうしたとして、それが何になるだろう。俺は弱くて、頭も良くない、それにたぶん世界で俺だけの気持ち悪い生まれ方をした人間で……人間だろうか? ともかく、たとえば祈りなんか俺という生き物にはよほど関係ない。
     俺が何だって構わないとかれは言ってくれたけど。魔法の国の王様がそう言うのだから、それは人間から生まれなかった俺にも祝福だろうか。ノクト。ノクト。ノクトがいないと夜が明けない。黒いままなんだ。
     ノクト、俺は。俺は。…………
    明星奇景 一、レスタルム西
     その日私は具合が悪くて一日ずっと臥せっていた。一日といってもいつ始まっていつ終わるのやらわからない上、時計を見る余裕はなかったのでどれほど寝ていてそれが何時だったのかはわからない。
     時計はたまに来るハンターが合わせてくれる。私の家はレスタルムから二マイルほど離れているので(中心部にはもう住むところがない。世界にひとつだけの街のようだと思うし実際にそうなのかもしれなかった)、物資を運んでくれるハンターがついでに時計も狂いがないか見てくれる。私はたいした仕事ができないが、かわりに薬剤の簡単な精製を教えたり、子供たちのためのテキストを作って渡してやる。
     どこまでレスタルムと呼んでいいのかわからないが、そのレスタルムの端に住むようになって四年が経ち、時計の面倒をみてくれるハンターはこの二年同じ顔だ。どうやら私に気があるらしいが私は応える余裕がなくてはぐらかしていた。
     日は闇の中ではじまり、闇の中でおわり、繰り返していた。繰り返していた。繰り返していた。
     そう、それで、臥せっていたのだ。明かりのない毎日の繰り返しにだんだんと気が落ち込むことが増えてきて、伴って体調もおもわしくなく、その日はことさらきつかった。それがピークだとも思えず、もっともっと悪くなるのだと思えた。
     三十歳で死ぬのだろうか。あんまり早くないだろうか。でも同級生はたった二十歳で死んだ子もいたし、ダスカに身を寄せていた暗くなってすぐの頃には、まだほんの子供が死ぬところを見た。自分でなくて良かったと浅ましくも思ったものだ。けれどもどれも悲しかったし怖かった。そして私もとうとう死ぬのだろうか。
     そう思って、足元がそっと濡れていくように恐ろしくて、ベッドに横になったままはっはっと犬のような息をあげて泣いていたのだ。目が痛くなって、閉じて、また開いた。
     私は死んだと思った。だって目を開けたら空が青かった。何時だったのかわからない。今の今まで真っ暗闇だったのだから。ともかく、朝か、昼だった。十年ぶりの。
     私は、ぎゃあーっと叫んで、ひどい声だった、涙があとから溢れてきたけどさっきまでとは違っていた、太陽は暴力みたいに明るいシガイよけの明かり———王都の野球場にあったようなやつだ———よりももっと明るくて、開けたままの窓から差す明かりに私の頬と髪はどんどん熱くなって焼かれるようで、そうだ、私は肌が黒くてビタミンDが欠乏しやすいのでこの十年の間はずっとサプリメントを飲まなきゃならなくてそれがもう必要ないのかもしれなくて、というか、闇が明けた、闇が明けた!
     私が泣きながら痙攣めいてベッドから落ちたのといつものハンターがノックもなしに飛び込んできたのはほとんど同時だった。ハンターの髪は日の光の下で見ると燃えるように赤かった。
     かれに言葉もなくきつくきつく抱きしめられて、きみは私の恋人でもないのに無作法だと思ったが私もまた言葉もなかった。私たちは抱き合っておいおい泣いた。
     私たちは生き延びた。明日転んで死ぬかもしれないが、それでも今日まで生き延びた。朝だ。いや昼だ。わからない。どっちでもいい。毎日きちんとした日記をつけていたのにそれが何時なのかわからないのはとんだ手落ちに思えた。
     戻って、伝えなければ、と思った。きっといるだろうから。同級生だったのだ。かれと仲のいい子だけがノクトと親しげに呼んで、私たちはみんなかれを王子と呼んでいた。もう王子ではない。
     ふるさとに帰って、かれに、生き延びたことを伝えたい。きみは私を覚えているか知らないけれど。朝だ。昼だ。きみのもたらした光だ。
    明星奇景 二、グラレア
     この街にとって東がふかいふかい雪原になったのはかれは生まれてまだ数年で覚えていない頃だった。
     祖父はよく、昔はあんなじゃなかった、とこぼしていた。あんなふうに生き物を拒む雪ではなかった。そう言われてもかれはずっとぴんとこなかった。今はああなんだから仕方ないじゃないか、と思った。年寄りの懐古主義には頷いても反論しても、近頃の若者は、と言われそうでいやだった。
     かれがものごとがわかる年頃になるときには、祖国の政治はすっかり雲行きがあやしくて、戦火はふるさとには及ばないもの終わりは遠く、気候はかれの背が伸びるよりはやく祖父の言う「むかし」と様変わりしていった。
     誰にも言わなかったがかれは祖国が侵略戦争を始め、続けることを恥じていた。祖父や母がニュースを見てどう思うかなんかわからなかったし子供が意見していいようにも思えなくて、そもそもかれの父は公務員だったので、生来の気弱からもかれは何も言うまいと口をつぐんだ。当時好きだった子がガラードが帝国領になるんですって、と嬉しそうに語ったせいでもある。かっこいいやつってのは、ああいうとき、きみは戦争に賛成なのかい、とか意見を交わすのかもしれない。でもかれはできなかった。ひとりひそかに、ひとのふるさとをただそのままにしておかないのはきっと重大な悪だ、と考えていた。
     そういうことを考えて、平均的なニフル人らしく、東の雪原のように白く、日に当たると赤くなる肌を機械いじりで黒くして、育った。将来は戦争とはなるべく関係のないものを作る機械技師になろうと思った。魔導兵はきらいだった。同じクラスの中には死を恐れぬ兵ってのはかっこいいぜと言うやつもいた。
     それから、それからのことは、かれは、あまり話したがらないだろう。まず祖父が死んだ。かれは泣いたが、あとになってから、祖父ははやく死んでよかったと思う、と語ることになる。おかしな伝染病がはやるからだ。
     ある夜、五ブロック先に住んでいた、父のとおい同僚とかなんとかいう人が、そのはやり病にかかって死ぬ。死んだのだろうか? よくわからない。
     ある夜、友達からメールが来て、このまま戦況が厳しくなるようなら俺は高校卒業と同時に軍に入って魔導兵に志願するつもりだ、あれは志願してもなれるらしい、と書いてある。かれは本当はやめろと言いたかったが友情が壊れるのを恐れて、もう決めたのか? とだけ返信する。
     ある夜、家の上を仰々しい揚陸艇が何隻も飛んでいき、それより少ない数が戻ってくる。ほどなく祖国は敵国(祖国が言うところの)の首都を占領したのだとニュースで知る。
     ある夜、夜がくるのがはやい。あまりにもはやい。
     ある夜、軍属らしき数人が訪ねてきて何事かと身構えるが、家の厳重な施錠と食料の備蓄、身の守り方、武器になるもの、それから何やら恐ろしい覚悟の持ち方について聞かされる。たとえ家族や友人でも、とかれらは言った。意味がわからない。
     ある夜、父からもう帰れないと連絡がある。電話をうけた母は泣いていた。かれは途方に暮れる。
     ある夜、隣家から叫び声が聞こえる。母と抱き合って震え、その後二人で家の中で武器になるものを探した。何と戦うための武器なのかはわからない。
     ある夜、街の中心のほうからずっと小さな爆発音のようなものが聞こえている。きっと敵が攻めてきたんだと友達からメールが来る。幸い電気は供給されているので連絡を取ることはできる。
     ある夜、友達からメールの返事が来なくなる。かれは胃の上あたりにぽかんと大きな穴があいたような心持ちになる。
     ある夜、夜が明けなくなる。母がおろおろしていたのでかれは手当たり次第に検索して、あやしげな掲示板に敵国(もはや敵も味方も一体誰の了見だったのか)の神話が書かれているのを見つける。信じがたかったがルシスが魔法の国というのはかれも知っていた。母は、どうしてこんな国になってしまったのだろう、私たち大人がどうして止められなかったんだ、あなたたち子供に何も残してやれないなんて、と言って拳を噛みながら悔しそうに震える声で言う。かれは何も言えない。
     ある夜、もうずっと夜だ。
     ある夜、一軒ずつ戸を叩く音が聞こえる。元傭兵だと言った。生存者を基地まで集める、護衛すると言ってかれらを揚陸艇に乗せた。一般人は入れないはずの基地はがらんどうだった。生存者、という言葉が、わるい夢のように頭の中を巡った。生存者たち、を前に傭兵たちは、安全な街(今のところ、とかれらは付け加えた)まで避難させるので数人ずつ揚陸艇に乗せる、と説明した。母が後ずさったのでかれは、母さん、と呼びかけた。生まれ育った街を捨てるなんてできない、どんなありさまでも、あの人がどうなったかもわからないのに、と叫ぶような声で母は言った。母はかれの前で泣くことはあってもこんなふうに取り乱すことはそれまでなかった。傭兵たちは憐れむような目でかれの母を見た。これまで何十人も何百人もそういうものを見てきたというような目だった。母の叫びは幾人かの頑なな者たちの起爆剤になってしまったようで、そうだ、ここを離れることはできない、と声が上がった。かれはうろたえて母と傭兵たちを何度も交互に見た。リーダーらしい傭兵が避難したいものは出ろ、誰にも責めさせない、と強い声で言った。母より少し年下くらいの女だった。半分より多いくらいの人数がのろのろと進み出た。駆け出す者もいた。女が、どうする、と今一度聞いた。残ると言った者たちの中から出る者がさらにいた。かれは立ち尽くしていた。女がかれを見て、どうするんだ、と聞いた。かれは気圧されて、口の中がからからで、母の方を見たかったがきっと母は何も言ってくれなくて、ぼくは、と言ってから一度唾を飲んで、強そうな女はそれを待ってくれていた、ぼくは、母を置いていけないし、年寄りもいる、面倒をみてやらないと、だから、ぼくは、その仕事をする。かれはそう言った。わかったと女が言った。かれは仕事をできるような年ではまだないのに笑わなかった。また来る、食料や何かを持ってくるから分配しろ、それはあんたの仕事だ。他の誰にもやらせるな。責任を持ってやるんだ。まわりにも聞こえるようにそう言ってくれた。かれは涙目になりながら何度も頷いた。それからその広い基地がかれらのすみかとなった。
     ある夜、いつものように夜だった。
     ある夜、また夜だった。
     ある夜、かれは仕事を奪われそうになったが毅然として全うした。
     ある夜、まだルシスをして敵国と言う年寄りにかれはうんざりしたが黙っていた。
     ある夜、まだ電気の供給は止まらないので、ちらちらと灯る揚陸艇の誘導灯をこんな中にあっても美しいとかれは思った。
     ある夜、一人死んだ。みなで弔った。
     ある夜、かれにもささやかな将来の夢があったことを思い出して少し泣いた。
     ある夜、同じ年頃の女とくちづけをする。それだけだったが胸がどきどきした。
     ある夜、ルシスの神話が掲示板で語られるのをひそかに見る。
     ある夜、母が……。…………。
     ある夜。
     ある夜。
     ある夜。
     ある夜。

     ある夜。
     遠くのビルが輝いていた。誘導灯の赤ではなかった。白かった。ガラスが光っていた。かれは駆け出す。かれは青年になっていた。
     ビルの東が輝いている。東は生き物を拒むふかいふかい雪原、かれらの神ではなかったが神殺しの罰のように厳しい雪、東、東は、忘れていたが、思い出した、昇るのだ、東から。
     夜ではなかった。もう夜ではなかった!
     かれは窓にへばりついて、泣きながらそれが昇るのを見た。ガラスに鼻水がついたのもそのままに、また駆け出して、夜明けだ! とみなに知らせた。
     頑なな者が、ルシスが攻めてくる、と震えて叫んだ。かれは自分がばかやろうと怒鳴りつけたのを自分の声を聞いてから気づいた。誰かに怒鳴るのは初めてのことだった。首のうしろがかっかっと熱かった。どうするの、と一度くちづけをした女が聞いた。頑なな者たちは震えている。
     かれは、踵を返して、みたび駆け出す。日はさっきより高くなっていた。かれは自分の血が燃える音を聞いた。彼は駆けた。
     ルシスへ行く。その首都へ。きっとルシスの王はそこにいる。かれは働いたこともなければ国民投票に行くこともないまま戦争の一端にも関わることなく大人になったが、それでもひとりのニフル人として、祖国の罪を王に詫びようと心に決めた。そして頑なな者たちの心をほどいて助けてくれと王に頼む。きっとそうする。かれは自分はこのために今日まで生きたのだとさえ思った。ルシスへ行く! 王に会いに!
     かれは駆ける。東へ行く。雪原をこえて。
    明星奇景 三、レスタルム
     同じ年頃のハンターの女に、べらぼうに強いのがいた。何度か大型のシガイの討伐で一緒になって、武器は棒術くらいしか使わないのにあんまり強いので俺ははじめは自信を折られ、そのうち彼女を尊敬するようになった。あんた強いな、と言うと臆面もなく、うん、と答えるところも好ましかった。
     シガイ狩りには大抵数人のチームが組まれ、一定のルールがあった。離れないこと。離れた者は視認できる範囲までしか助けに追わないこと。シガイに呑まれた者は助けないこと。逃げるときは自分が助かることだけを考えること。そのほかにもいくつか。
     そうしたルールは、王都出身だという者たちがシガイの発生源をつきとめようと探索に繰り出しては資料をあたって、シガイは生き物のなれのはてだということが周知され、自然発生的に決められていったものだ。シガイは、元は野を駆ける獣や、顔なじみの炭鉱夫、誰かの飼い犬、友人や親きょうだいかもしれなかった。考えないのが一番だ。そういうことをどうしても受け入れられない者たちもいた。ハンターの多くは慣れた生業ゆえか、騒ぐ者も少なく、あっさりしたものだった。少なくとも見た目上は。
     シガイ調査にあたっていた王都出身の者たちは、身のこなしがお上品で、洗練されてるって言えばいいのか、やっぱり違うねえとか含みをもたせて言うやつもいたし、しかし減らず口を黙らせて余りあるほど強かった。
     くだんのべらぼうに強い女も、王都の出だった。いつも背筋が伸びていたので、いいとこのお嬢さんだったんだろうなと思った。それにしては強いが。
     ある日、遠征先で標の焚き火を囲んで湿っぽく身の上話になったときがあった。チームは八人、年長が二人、まだ幼いと言っていいような若いのが三人、そこそこ経験を積んだのが三人、うち女が三人で男が五人で、俺と、べらぼうに強いのもいた。もう意味のない国の境目を持ち出すなら、王都出のやつが二人、ダスカが一人、ビストアラから来たのが一人、レスタルムが二人、テネブラエが一人、オルティシエが一人。それぞれに泥の匂いがしてきそうな身の上話があった。線路を百キロも歩いて辿ってきたやつもいたし、エンジンの切れたちゃちなゴムボートを数人で押しながら泳いできたというやつもいた。
     王都はさほど広くないと思っていたが、王都出の二人は暮らしてきた環境はずいぶん違うらしかった。階級差があるのかもと俺は思った。べらぼうな女の方は聞く一方でたいして語らなかったのでわからなかった。
     誰かが、神話の絵本があるよね、と言った。子供向けだけど、あれを読むと乗り切ってやろうって気になるよ。何人かが頷いたが、女の顔は少しこわばったように見え、俺は好奇心から、あんた王都の出なら神話に詳しかったりしないのか、と少し意地悪に水を向けたが、それを受けて俺に向けられた女の目にたじろいだ。鋭く、静かで、強かった。
     真の王は、と女が言った。その声がいやにうやうやしかったので俺たちはすっと静かになった。クリスタルに選ばれた真の王は、歴代王と神々の力を得て戻り、騎士たちの助けのもと二千年の闇を払う。未来のために。
     そう語る女の目もまたずっと先の未来を見ているようだった。炎が反射して琥珀色の瞳が赤にも黒にも見えた。みながそうだったが、悲しみや苦しみをいやというほど味わってなお今日を明日へ繋ごうとする者の目だった。だがそれよりももっと深淵にいるようにも見えた。
     世界を救って、その先は? 誰かが聞いた。女が答えた。誰も知らない。俺には嘘に聞こえた。女は何か知っているように思えたが、また誰かの身の上話に流れていった。
     俺は、俺の身の上話は、あんまりおもしろくないのでしなかった。ありきたりな話だ。ダスカの湿地帯を遊び場に育った。腕っ節が強かったので十八の頃にハンターになった。幼なじみの似たようなやつと大抵二人で組んで稼いで、一年も経たないうちに夜が明けなくなって、いろいろあって俺がそいつを殺した。ありきたりな話だ。俺は生きているので今のところハッピーエンディングへの道を進んでいる。よかったな。
     誰ともなく寝ようと言い出してそれぞれが寝袋を出し、横になった。上着を脱いで寝袋に入る女の背中一面に大きな鳥の刺青があるのがちらりと見えた。立派なものだったが誇示して歩かないのは不思議に思えた。
     寝袋に鼻先まで埋めて、夜が明けたら、と俺は思った。夜が明けたら、それこそハッピーエンディングだ。神話の通り。今は明かりの数が限られるので、工事ができる範囲が限られる。資材や食料の運搬もだ。必ずハンターを最低二人は伴わなくては動けない。植物や動物も育ちが悪いので何もかも誰もかもがあえぎながらなんとか暮らしている。日が昇るだけで何もかもよくなるだろうと思えた。待ち遠しいな、と舌の先にほんの少し声を乗せて、つぶやいた。待ち遠しい。誰にも等しく。
     それからもそういう遠征を何度もやって、宿の主人がハンターには特別だと言って少し多めにわけてくれる酒をちびちび大事に飲んで、たまに誰かと慰め合うように身の上話をして、眠り、起き、小さな集落に身を寄せ、レスタルムに戻り、また出て戦った。いつか女が言った、未来のために、という言葉を思う日が幾度かあった。
     あるとき、岩にしたたかぶつけて肩を痛めたので少し長めに休もうとレスタルムに戻ったとき、べらぼうな女もまた同じ宿にいた。俺が宿に入ったとき、年長の男とちょうど話を終えたようだったが、その相手の男が不死将軍と名高い元軍人だったので驚いた。深刻そうな面持ちだが親しげだった。
     よう、と声をかけると、ああ、と女が答えた。あの晩とはうってかわって、年相応の顔をしているように思えた。今の、不死将軍だろう。いつかチームを組んでみたいな。俺が言うと少し笑った。強いよ。笑っちゃうくらい。だろうな。
     酒に誘うと、今日はどうかな、とにえきらない返事だった。今日は、起きていないといけないんだ。ずっと。悪いね。そう言って行ってしまった。しばらく留まるから飲みたくなったら誘ってくれと部屋の番号を伝えておいた。
     宿からはちらほらとハンターと行商人の出入りがあり、窓からそれを見下ろしながら俺はひとりで飲んでいたが、肩が痛くなってきたので酔いをさますことにした。明日の予定のない日は酒を過ごしがちだ。ハンター業に休みはほとんどないので、こんな日も久しぶりだが。もし夜が明けたら暇になるんだろうか。けれどもそれより得るもののほうが多いだろう。
     部屋が蒸すので、屋上に出ることにした。たいして変わらないかもしれないが、少しはましだろう。どくん、どくん、と酒でまわりのよくなった心臓が動くたび、肩にかるく痛みが走る。ゆったりした足取りで屋上への階段をのぼった。レスタルムの建物は背が高い。うっかり裸足で出てきてしまったことに自分の足元を見て初めて気づいて少し笑った。
     屋上に出ると人影があった。べらぼうな女だ、と気づいた瞬間に、景色が変わった。何が起こったのかわからなかった。目がくらんで痛かった。殴られたりぶつけたりして痛いのとは違う。目の中が痛い。奥が。あっと思ったとき、鳥肌が立って全身の毛が逆立った。夜明けだ。朝日だ。今、闇が終わった!
     全身を喜びが駆け巡るのを感じた。この瞬間に屋上に出たことを運命のように感じた。俺は駆け出して女と喜びを分け合おうと思ったが、そのとき、女が血を吐くような声で叫んだ。胸をかきむしるようにして泣いていた。べらぼうに強かったがいつも上品な立ち振る舞いだった女が、裏返った声で汚い罵り言葉を一度吐いて、声を上げ、泣いていた。俺はぽかんとしてそれを見ていた。
     日が昇れば、失ったものは戻らないが、きっと何もかもうまくいくと俺は思った。だが、女はそのとき何かとても大事なものを失ったように、身をよじり、髪を掴み、朝日に身を乗り出すようにして割れた声を上げて泣いていた。裸足で出てきたので女を気づかせることなく部屋に戻れる、と思ったが、足は動かなかった。
     王都へ行ってみたい、と俺は思った。このべらぼうに強い女が育った場所を見てみたい。王様の御目通りはかなうだろうか。無理かな。でもきっと行こう。そう思った。
    明星奇景 四、赤い光
     タフなやつ。正直なやつ。飢えたやつ。そういうやつだけを招き入れるよう決めていた。つまり、逆に言えば、芯のないやつ。嘘をつくやつ。拗ねたやつ。そういうやつらの面倒はみない。それがアラネアのルールだ。

     アラネアはずっと強かった。動くのが大好きで物心つく頃にはそこらを飛び回っていたし、他の子がみなやるような機械いじりには大した興味が湧かなかった。学校では自分よりよっぽど体格のいい子より秀でていた。
     授業の一環で剣術(の真似ごとだ、今思えば)をやったときには、雷に打たれたような心地だった。これだ。何だろう。剣じゃない。でも雷だ。剣よりもっといいものがある気がする。じゃあこの雷は何? アラネアはびりびり痺れる夢見心地で考えた。まだ少女だった。雷に打たれたように髪の毛が逆立ったし、炎に焼かれたように肌は熱く、氷にのまれたように息が震えた。
     求めていたのは戦いだった。戦いの中こそが、自分の生きる場所だった。さいわい世界は暴力の時代だった。祖国への忠誠心を自分の中に探すのは実に難しかったが、そのぶん、傭兵はうってつけの商売だった。気がつけば隊長のポジションを得ていたし、気がつけばアラネア隊は最強のひとつに数えられ、気がつけば隊は拡大し、気がつけば祖国の軍に隊ごと引き抜かれ、気がつけばいりもしない准将たらいう称号を与えられていた。
     そして、気がつけば王の御前会議に呼ばれるようになり、気がつけばあの男にあやしげな術をたまわり、気がつけば祖国は破滅し、気がつけば世界もまた破滅しようとしていた。気がつけば。少女だった頃からそれは一瞬のまばたきのようだった。
     世界中が夜になるなんて、いったい、誰が考えたろうか。
    「……あの男は」
     ぽつりとつぶやくと、窓の外を眺めていた(ろくな眺めではないだろうに、何が楽しいのか知れない)男が眉を上げて振り向いた。声に出すつもりのないつぶやきだった。しかし聞かれた以上、アラネアは続けた。
    「あの男は、いったいいつからいたんだろうね」
    「誰ですか」
     妙に調子よく抑揚の強い喋り方をする男を、座ったまま目だけを向けてアラネアは見た。右腕だ。ビッグス。ウェッジと共に長くついてきてくれた。頼みもしないのに。いや、一度くらい頼んだこともあっただろうか。
    「アーデン・イズニア。元宰相」
    「ああ」
     あいつねえ、とビッグスは言ってさして考えているふうでもなく格好だけ首をひねった。
    「あたしが会議に呼ばれるようになる頃には、もういたんだよね。いけすかなかったんで、仲良くしないようにと思ってたんだけど」
    「お嬢の仲良しなんか俺らの他にいましたっけ?」
     茶化した軽口にアラネアは目を細めてみせたが、たしかに、ビッグスの言うとおりだ。正規軍には仲良くしたいやつはほとんどいなかった。政治の舵取りもあやしかったので、アラネアは何年も辞めどきを考えていたくらいだった。
    「前にね、あの魔導兵の小僧がいるでしょ。あいつが夜になる前にグラレアで拾ってきたっていう資料を、一緒に見てやったんですけど」
    「うん」
     プロンプト。少し前に隊の部下で機械に詳しいやつを紹介してやった。あんた、ルシス育ちのわりに機械に強いもんだね、血かね。と言ってやったら、うーん、血って、試験管生まれにもあると思う? でも遺伝子は人間だもんなあ、と、とぼけた顔で抜かすので、ついつい笑ってしまった。関係はあるかもしれないしないかもしれない。ニフル人だって機械に弱いやつはいる。アラネアのように。
    「ずいぶん古いところに名前があったんですよ。アーデン・イズニア」
    「古いって?」
     アラネアは足を組んで座り直し、体ごとビッグスに向いた。ビッグスは腕を組んだまま肩をすくめた。
    「俺が生まれるちょっと前ですね」
    「はあ?」
     あんたいくつだっけ、あたしのふたつ上か。はあ? およそ大人らしくない言葉遣いで、アラネアは言った。
    「そう、お嬢のはるか二歳上」
    「ほざきな」
     いたずらっぽく、少し嬉しそうに、ビッグスが笑う。はあ……と今度はため息まじりに、アラネアは三度言った。
    「なんて?」
    「魔導兵の開発を提案したとかなんとかですね。内容からしてそんなに若造のできる提案とも思えない」
    「あたしさ、あんた、いくつに見える?」
     唐突な質問にビッグスは目を丸くした。本当はさほど驚いていないように見える。戦場を生きる場とする者たちはそんなものだ。心が動いているふりをしないとどんどん死んでゆく。感じなくもなってゆく。
    「いくつって、まあ、年どおりに見えますけど。相変わらずお美しいですけどね。美しさの種類が娘っこだった頃とはずいぶん変わりましたなあ」
     しょうがない、という顔でアラネアは笑った。かわいい部下だ。こいつらはこういうことを本当に思っていて言うのだから始末に負えない。いつも愛を伝えられた母のように受け止めてやる。ありがと。いいえ、本当ですからね。あっそう。
    「そう、変わるもんよね、人間ってのは。変わる」
    「お嬢は、会議にはどれくらい参加してたんでしたっけ」
     話を察したビッグスが水を向けた。理解が早くて助かる。
    「六年くらいかしらね。六年経ちゃ変わる。誰だって」
    「ええ」
     相槌をうつビッグスの眼差しが鋭くなった。
    「誰だって……」
     ゆるくかぶりを振りながらアラネアは言った。変わらないやつがいた。腹の底の見えない、ふにゃふにゃと芯のない、言葉のどれもが舌先の嘘と思える、たまにぞっとするくらいいじけた目つきの、やつ。アーデン。アーデン・イズニア。
     かしゃん、と、ガラス玉のこすれ合うような音と共に、手元に武器を呼び出した。美しい槍。赤い光と共にアラネアの手の中におさまる。生まれた時から持っていたように。
    「……その、あやしい力もご健在で?」
    「ご健在よ。滞りなく」
     武器召喚。いつだか、アーデンが、きみ強いねえ、もっと強くしてあげるよ、とアラネアの手を取り与えた力だ。抗う隙はなかった。魔導兵のような気味悪い肉体になったらと危惧したが力を得た以外何もなかった。それ以来、アラネアの槍は赤い光と共に呼び出せば応えて現れる。武器召喚。武器召喚は、ルシスの力だ。王家の。あいつが?
    「王様は……」
     槍をしまった。赤い光がはじけて消える。
    「……どうしているのかしらね。今頃」
     かつて蒼白の顔でグラレアの基地から出てきた若い三人の姿を思い出す。揚陸艇でひとまずカエムまで送ってやって、そのあと自分たちだけ舞い戻り、ニフル市民を助けにまわった。その往復の間に明けていいはずの夜は明けなかった。ほんのひととき日が差したように思ったが、それ以来、二度と明けない。
     絶望には慣れていた。ときに自分がそれをもたらす使者だったからだ。また、目をかけていた部下が死の淵で絶望に絡め取られるのも見た。見送った。目を見て頷いてやっても母のように抱いてやっても役に立たないことがあった。それでも、戦いは運命だった。荒れ狂う雷の、燃え盛る炎の、凍てつく氷の中でしか生きていけなかった。平穏は心を蝕んだ。暴力の時代こそが自分の生きるべき時だった。
     だが、だからといって、こんなものを誰が望んだろうか。
     明けない夜。日の光を知らない子供たち。泣いても泣いても尽きることのない涙。ばけものの闊歩する大地。誰が望んだ。
     戦いたい者だけが戦うべきなのだ。平穏に殺されない者たちは平穏を貪れ。私が戦いを食い尽くす。
     アラネアは胸の中に奔流を感じた。アラネアは、心の中に戦いを糧とする竜を飼っている。いつでも唸り、吠えている。この竜が、闇を食えればいいものを、その力はない。誰にもない。ただ一人、あのかわいい顔の王子様をのぞいて。
     王子様。いいえ、王様。かわいそうに。どんな運命かなんて知らない。けれど、わかる。かれを愛する者たちの顔を見れば。絶望が追いすがりしがみつくのを振り払い蹴り落とし、耐えて進むかれらの顔を。
    「山の嶺がね」
     先ほどまでと同じように何が楽しいのか窓の外を眺めに戻ったビッグスが言った。アラネアも顔を上げる。外は暗い。もうすぐ別隊でシガイ狩りに行っていたウェッジも帰ってくるだろう。ねぎらってやろう。
    「なんだか、産毛が生えたように見えるんですよ。私の間違いじゃなきゃ」
     アラネアは息を吐いて少し開いた唇をそのままに、窓の外、遠くへ視線を投げた。山の嶺。闇の中でなお生きようともがく木々が黒々と青い。それが、赤ん坊の頬に生えた産毛のように輝いている。少しずつ。十年見なかった景色だ。今。
     誰かの絶望を越え、死を越え、今、ついに。
     手のひらにそっと力をこめた。赤い光。赤い光……。光は、呼んでも、来なかった。アラネアは、少女のような顔で、ああ、と小さくつぶやいた。
     ウェッジの足音が聞こえた。急いている。戻ったばかりで悪いが、すぐに揚陸艇を出してもらわなければ。インソムニアへ向かう。夜の帳を切り裂いて。
    十年の昼
     落ち着いたか、という問いかけと共に、ぴたりとまるで見えているかのように適切な距離で立ち止まりこちらを見据えた(見えてはいないのだが)男の顔をグラディオラスは見上げた。
    「落ち着くかよ」
     そうだな、とイグニスはほとんど息だけの声で静かに答えた。
     落ち着くはずがない。昨日、戦いを終え、精魂尽き果ててほとんど茫然自失といっていい状態で動けずにぐずぐずと王都に留まっていた自分たちを迎えに来たのは、アラネアの揚陸艇だった。この赤い機体は日の光の中で見るとそういえばこんな色だった、とレスタルムに向かうその船の中でプロンプトがぽつりと言ったが、スチリフでは一行を離れていたグラディオラスはこの船を夜の中でしか見たことがなかった。赤は赤だろうと思ったが、黙っていた。皆疲れていた。
     アラネアは、船を降りて自分たちの姿を見とめた瞬間唇を引き結んで、休もう、船で寝るといい、と言ったきり、次に「着いたよ」と言うまで、何も言わなかった。皆疲れていたが、結局誰も寝なかった。
     寝ておけばよかった、と思ったのは、街に入ってすぐ大勢に取り囲まれてからだ。王様は、朝が、神話の、ついに! 誰もが口々にそんなことを言った。人だかりの向こうでコルが済まなそうな顔で目配せを送ってきた。興奮する群衆が三人を待ち構えて押し寄せるのを止められなかったのだろう。
     王様はどちらにおられるのですか!
     誰かが言った。それを皮切りに大勢が王を呼んだ。
     ああ、とグラディオラスは思った。知らないのだ。知らないのだ、神話のゆく先を。俺たちが言わなかった、闇の中の今日を、明日を、一日でも生き延びる希望をかがやく灯火にしておくために。朝を待つ心を濁らせないために。王の帰還を待ちつづけた人々が今、王のもたらした朝を喜び、こんなにも輝く笑顔で、あるいは涙して、王がその姿を見せてくれるのを待っている。ああ。ああ、告げねば、この民に、王の不在を。
    「王は……」
    「王は身罷られた」
     絞り出したグラディオラスの声をさえぎって、左隣の男が告げた。右隣からは息をのむ音が聞こえた。群衆の喧騒がさざ波のように引いていく。
    「王は身罷られた」
     もう一度、感情を抑えた声で、イグニスが言った。グラディオラスは脳天を金槌で殴られたような眩暈を感じた。
    「王は、命を賭し、魂を賭し、二千年にわたる禍根を慈悲をもって眠らせ、闇を払った。我々はその遺志を継ぎ、繋げ、未来を築かねばならない」
     ほうぼうから悲鳴と雄たけびが上がった。悲嘆と歓喜が竜巻のように群衆の中でうねった。イグニスの短い演説の間、グラディオラスは、頭を金槌で殴られつづけていた。王は。くそったれ。命を賭し。今死ね。魂を賭し。死ね、何が盾だ。二千年にわたる。いいや、生きねば。禍根を。守らねば。慈悲をもって。ノクトが守ったのだから。眠らせ……。俺は。
     右隣からは、耐えきれず小さな悲鳴と共に嗚咽するのが聞こえた。右隣も、左隣も見ることはできなかった。自分が扇動した民衆の喧騒をよそに、感情をコントロールするためにか、イグニスは細く震えた息を吐いていた。グラディオラスは相変わらずただ呆然として、がつん、がつん、と頭が痛むのを感じていた。
     どうやって宿に入ったのだかよく覚えていないが、タルコットが手配してくれていたという宿はずいぶんきれいにしつらえられていた。部屋は四つ用意されていた。ひとつは誰も使わなかった。
     それが、昨日の話だ。目が覚めたら昼をまわっていた。ドアにメモが挟まっていて、食堂に食事を用意してあります。今日は誰も来ないよう言ってありますのでよく休んでください。何かあればいつでも呼んでください。と几帳面だが書き終わりの跳ねる字で書いてあった。青春期を闇の中で生きて今では立派なハンターになったタルコットは、お優しいところが好きなんです、僕もああいう人になりたいとずっと思ってました。といつだか、王への憧れを話してくれた。そう語ったとおり、優しい男に育ったと思う。優しさというのは得ようと思って一朝一夕に得られるものではない。そんなことを思いながら、メモを眺めつつ、食堂へ向かった。
     そして少しスープと果物を摂り、うなだれて座していたところに、身なりを整えたイグニスがやってきて、落ち着いたか、と言ったのだった。ひげもあたって髪もいつも通りのイグニスを見て、自分が何もかも起きたときのままの格好なのをようやく思い出した。
     落ち着いたか。落ち着くかよ。そうだな。
     「そうだな」と本当に思っているのだかどうだか、イグニスはあんまりいつも通りだった。いや、そもそも、イグニスがいつも通りでなかったことがあったかどうかも思い出せない。失明したときでさえ。
     イグニスならわかるのかも知れない、とグラディオラスは思った。この賢者なら。そう思って尋ねた。
    「俺はどうすればいい」
    「知るか」
     間をおかず、にべもない答えが返ってきた。
    「なんだ、なんでお前はなんだってそう、あいつ以外には勝手にしろみたいな言い方をしやがるんだ」
    「勝手にしろと思っているからだ」
     そうかよ、と言うしかなかった。呆れる。呆れたものだ。俺の人生相談は無視か、こんなくそったれな朝、いやもう昼だ、十年ぶりの明るい昼だってのに。
    「お前はほとんど挫折らしい挫折をしたことがないからな」
     はあ、と気の抜けた声が出た。いつもこうだ。頭が良すぎるのだか、話題が飛ぶ。全く関係のない作業をしている最中にレシピを思いついたりする。
    「だからお前は、悲しみや苦しみの処し方をはかりかねるのだろう。力に、生まれに、多く恵まれ努めたからこそ己と向き合うことが少なかったから」
     かと思えば、こうだ。恐れなど知らぬといわんばかりに、斬り込んでくる。無遠慮だ。
    「……お前だって相当に優秀だろう、ずっと。目のことはあれだが……挫折なんか、したか」
     お前が初めて挑戦することを一回でやりおおせなかったのを見たことがない、俺は。そう言った声が思うよりぼやいたふうになってグラディオラスは少し悔しくなった。賢者とか軍師とか呼ばれるこの友は、印象よりよほど負けん気が強く、なにごとも突き詰めて追求するのを楽しんでいるところがあった。失明してもなお、だ。
    「六歳だ」
     ろくさい、とばかみたいにグラディオラスは復唱した。また脈絡を見失ったからだ。こいつこんなに不親切だったかしらんとぼんやり思う。
    「最初の挫折は六歳、ひどい無力感と自己嫌悪、罪悪感をいだいた。今思い出しても苦々しい」
     にがにがしい、と大人みたいな顔で言う六歳のイグニスは想像にやすかった。そういう子供だった。いつも隣にいた、出来も性質もふつう———かつて自分が理想をのぞむあまりえがいていたよりもふつう、だった、子供に比べれば。
    「最悪の材料で取引をもちかけて、結果、不敬はなはだしく、失言をまねいた。———いうことをきけないのなら、ノクトなんてもうきらいだよ、と」
    「それが挫折?」
    「火がついたように泣いてな。それはもうかわいそうで、ああこの子はいつも寂しさをこらえているのだったと、泣かれた後で思い出したんだ。なんてことを言ってしまったんだとすぐ後悔して、俺も泣けてきて、しかし侍女が飛んできてどうしたと聞くものだから責任を取って解任となったらどうしようと俺は焦った。焦ったので、愚策の結果であることを正直に打ち明けた。その後三日は嫌っていないことを念押しして聞かれたので、反省の時間はありすぎるほどあった。苦々しい」
     それが挫折……とグラディオラスは同じことを繰り返して言った。どうも頭が鈍っている。泣きながら眠ったせいかも知れない。
    「グラディオ」
     見えていない目をたしかにこちらに向けて呼びかける声は静かだった。見つめ返す。
    「同じ年頃の子供にさりげなく知識をひけらかすより、対等に扱ってくれる大人たちとチェスを打つより、読書にのめりこむより、なぜこんなふつうの子と共に過ごすのがこんなに楽しくかけがえないのだろう、なぜこの子が悲しむとこんなに胸が締め付けられるのだろうと何度も己に問いかけた。何度も」
     声は穏やかだ。まるでいつも通りのイグニスだ。いつも通り、本人の言うところの「べつに普通」の。
    「愛していたんだ、ただ。誰よりも愛していた。だからこそ、この日を迎える覚悟は、ずっとずっとできていた。この子より一日でも長く生きようと決めていたから」
     いつも通りの声でイグニスはそう言った。言った後で、昨日と同じように、少し震える息を吐いた。
    「グラディオ、おまえは」
     遠くで金槌の音が聞こえた。昼が明るくなって手元が確かだから工事を進めているのだろう。これから動き出した世界のためにすべきことは山のようにある。
    「悲しみ方を探すといい、これから。俺はこの先、生きて、生きて、水のように薄めた一杯のコーヒーを十年かけて飲むように、この悲しみを味わう。そうすると決めていた」
     六歳かそこらから決めていたのだろうか。この男ならあり得る。聞いてみたい気もしたが、肺は生きるのに最低限しか動きたくないと決め込んだように静かで、声を出すだけの空気を送り出そうとはしてくれなかった。
    「お前には、大仕事だろうがな。がんばれ」
     また、他人事だ勝手にしろというような調子で、イグニスは言った。
    「プロンプトは夜通し泣いていてうるさかった」
     そう言い置いて行ってしまった。
     金槌が、かーん、かーん、と、鳴り響いていた。明るい昼だった。
    THE LIGHT BURNING
     なんと無力なのだろうか、とイグニスは思って頼りなく腰掛けた椅子から浮いた自分の膝を見た。十歳にもなってまだ膝の出るトラウザーズを履いていることがばかみたいに思えた。だが、ノクティスと遊んでいると膝が擦り切れるためだ。仕方ない。ノクティスと遊んでいると……それは遠い日のように思えた。考え出すと呼吸が浅くなり涙が瞳に表面張力を保って揺らめき、視界がぼやけてくる。さっきはこぼれて眼鏡を汚した。二度同じことをするわけにはいかない。イグニスは顔を上げて目の前の扉を見た。
     ノクティスの寝室だ。哀れんだような顔で自分を見た看護師に出ていなさいと言われたので、廊下のすみに椅子を出して扉が開くのを待っている。足早に出入りする医師や看護師は勤務の途中だ。医師たちは入れ替わり昼夜張り付きでノクティスを診ている。荷物を持ってため息をつきながらのったりした足取りで出てくる者に声をかけなければいけない。
     自分だけ外に追いやられてノクティスの容態を聞けないのは自分が子供だからだ。腹立たしさと悲しさがこみ上げてまた涙が出そうだった。看護師に痛ましげな顔をされたのも気に食わなかった。聞き分けない子供みたいに椅子を揺らしてがたがた鳴らしたかった。決してそうしない自分がかえって愚かにも思えた。
    「ノクト……」
     本当は大声で叫びたいと思いつつぽつりと名前を呼んだら、しかしそれだけで、堰を切ったように涙がこぼれた。前を向いて行儀よく両手を膝の上で握りしめたまま、こんなところ大人に見られたら面倒なことになるのに、と思いながらイグニスは泣いた。現実の血も喧騒も死と喪失の恐怖も、どんな本で読んだものとも違っていた。
     何日も前から、蛍を見に行くんだと嬉しげに何度も語ってくれた。イグニスもくればいいのにと。護衛がつくと言え、ずいぶん久しぶりの親子の時間の予定だった。レギス様とゆっくりしておいでよ、お話ししたいこといっぱいあるだろう、と言えば照れ臭そうに体をよじって笑っていた。それがその日の朝になってレギスが行けなくなったと侍女から聞かされて、そっか、お仕事? と、なんでもないふうに訊ねる声はかたく、澄ましたように後ろ手に鉤にして組んだ指先は白くなっていて、イグニスはその低い温度を想像した。眉を下げて、よくよく慰めてやってくれというようにイグニスに目配せした侍女が下がったあとにノクティスは、ベッドに身を投げ出し枕に突っ伏してわあっとくぐもった声を上げて一度握りこぶしでベッドを叩いて、それきりしばらくうつ伏せにそのままだった。近頃のノクティスは泣かない方法を身につけつつあった。イグニスは待っていた。しばらくして枕から顔だけを横向きにして、イグニスやっぱり来ない? とノクティスは訊ねたが、イグニスはもう家庭教師との約束をしてしまっていた。言葉はなくただ困ったふうに下がったイグニスの眉と口角を見て、やはり同じように、そっか、とノクティスは言った。イグニスはそっと、ベッドを揺らさないようにノクティスのすぐそばに腰掛け、蛍がどんなだったかよく見てきて帰ったら教えて、見たことがないから。と髪を梳いて言ってやると、近頃たまにやるように、赤ちゃんみたい! とか言って嫌がる様子もなく、されるままにノクティスは、うん、と小さく頷いた。一昨日のことだった。
     大怪我をして戻って来たのは、夜中だったらしい。どうして自分を誰も叩き起こしてくれなかったのだろうとイグニスは思った。ノクティスがシガイに襲われて、たまに乱暴な遊びをしてくれるいつもの護衛たちとノクティスもイグニスも好きだった侍女と合わせて三人ともと、車で移動するときいつも別の車で先導して降りぎわには自分たちの真似事の敬礼にきちんとした敬礼とたまにいたずらっぽくウインクを返してくれる顔なじみの護衛たちも二人死んで、警護隊とレギスが夜中に出て行ってノクティスを助けて戻って来たという、それを全部、いつもの時間に起きて朝の準備を全部済ませた後に聞かされた。どうして、誰も自分を夜中のそのときに叩き起こして、帰りを待たせてくれなかったのだろう。イグニスが子供だからだ。賢いからノクティスの側付きに選ばれたのに、誰もが期待した以上の働きだと誉めてくれるのに、君は大人以上だなと言うのに、誰も、誰一人イグニスを叩き起こして知らせてくれなかった。ノクティスの心配をさせてくれなかった。
     ノクティスが真の王に選ばれたとレギスから聞かされたときのことをよく覚えている。つい二年前だ。レギスは、君はノクティスを本当に大切に思っていてくれているから、知っておくべきだ、と前置きして、その大変な神託のことを教えてくれた。イグニスはレギスが自分を信頼に足ると思ってくれたこと、自分が仕えるのが神話に語られる王であることをこの上ない誉れに感じたが、レギスの声音から、それが決して輝かしい話ではないことを察して瞠目した。レギスの声はときおりこらえるように震えていた。テレビでは恐ろしいニュースもいつも平板な声で読まれるのに、大人の声がそんなふうに揺らめくのを聞くのは初めてのことだった。
     レギスが寄せてくれた信頼にどう応えるべきかイグニスは逡巡したが、いつも心に決めていることを言葉にするだけだった。必ずお支えします、とイグニスは高らかに答えた。しかしイグニスの手を取ってレギスは、だが必ず自分を省みると約束してくれ、と噛んで含めるように告げた。いつか必ずつらい選択を迫られるときがあの子には、そしてそのとき君があの子の側にいてくれるのなら、君にもきっと来る。私にあったように、いや、もしかすると私が重ねてきたよりもよほどつらい決断をするときが。そのときもしノクティスのために君が傷つくことがあればあの子は喜ばないだろう。私もね。
     だから約束してくれイグニス、とレギスは繰り返して言った。だが、王に嘘はつけないのでイグニスは黙っていた。レギスは困ったように微笑んだ。
     ノクティスのためにどうして自らの身を捨てられないことがあろうか。だってノクティスが背中にいるとき、イグニスは何ひとつ怖くないのに。蛇も、雷も、警護隊のひときわ大きな仏頂面の人に食ってかかることも、ときにはレギスさえも。何も怖くない。ノクティスのことが好きだから。かるがもの弟のように後ろをついてきて、ときに自分の手を引いて駆け出すあの子のことが。かれを守ろうと思うとき、イグニスは何も怖くなかった。だから約束はできなかった。
     何も怖くなかったのに、とイグニスは思った。なのに誰も自分を起こして何が起こったか教えて心配させてくれなかったし、ノクティスの寝室から締め出して、何もさせてくれない。血も、死も、喪失の予感の恐ろしさも、どんな本で読んだのとも違っていた。突然降ってきてイグニスを打ちのめした。ノクトが死んでしまったらどうしよう。
     とうとうイグニスは首を折って泣き出した。声は出さなかった。ただ涙があとから流れてきて顔をべしゃべしゃにした。鼻当てのところが濡れて眼鏡が滑り落ちそうだったが、膝の上の握りこぶしをほどけなくて直せなかった。眼鏡のレンズは結局汚れてしまった。締め出されるのも、感情を御せないのも、何もかも自分が子供だからだ。いまいましい。
     しばらくそうしていたら、扉が開いて医師が一人滑り出るように部屋を出て、イグニスの方へ歩み寄ってきた。靴を見て誰だかわかったが顔は上げられなかった。彼女はイグニスの側へそっと跪いて目を合わせてくれた。
    「イグニス」
     医師が呼んだ。そういえば彼女にも自分たちと同じ年頃の子がいると言っていたろうか。死んだ侍女と友人だったはずだ。半年に一度の健康診断でいつもノクティスと共に彼女に診てもらうのだ。ノクティスが一人では怖がるし退屈するから。
    「一人でずっと待っていたの」
     いつもイグニスにも大人に接するのと同じように話す彼女がこのときは労わるようにそっとイグニスの握りこぶしに手を置いて問いかけた。イグニスもまたいつもの子供らしくない生意気な(という自覚はある)言葉は口にのぼらず、ただ頷くだけだった。
     そう、と言って彼女は小さく頷いた。置かれた手のひらから石のような緊張が少しだけ砕けてぱらぱらと落ちていくようだった。
    「ノクトは……」
     問いかける自分の声があんまりか細くみっともなくてイグニスは驚いた。実際より賢くみせようとか卑しいことは思わなかったが、どうせ子供だとかばかだとか思われるのはきらいだった。なのに今はそんな風だ。だが医師は笑わずに、まっすぐイグニスの目を見て答えた。
    「良いとは言えません。重症ですし目も覚まされない。でも死ぬことはない。……死ぬことはありません」
     医学的にはね、魔法のことはわからないけれど……と付け足した声は頼りなかったが、彼女の答えはそれでも事実だけを述べようという意志に満ちていてその誠実さにイグニスは胸を打たれた。
    「もうすぐ陛下がおいでになります。一足先にノクティス王子のお顔を見に行きましょう」
    「いいんですか」
     いいんですか、と言ったつもりだった。なのに声は胸の中で渦を巻いてしゃくり上げて、声のかわりに溺れたような息と涙がまたたくさん出ただけだった。
     医師は少し悲しげに目を細めてイグニスを見た。この人も友人を亡くしたばかりなのに、とイグニスは思った。でも大人だから、医師だから、たくさんの死を見てきた人だから、平気なのだろうか。悲しさや恐ろしさを抑えることができるのだろうか。今こんなにも恐ろしいのは、これがイグニスにとって初めて間近に接する死だからだろうか。どうしよう。ノクティスが死んでしまったら。
     行きましょう、と囁くように言って、イグニスの手を取って医師は部屋へ向かった。大人に手を引かれて歩くのはいつ以来かイグニスは思い出せなかった。今はそれを恥だとは感じなかった。
     音がしないように医師は扉を開けて———よく磨かれて油をさした蝶番はどう開けようとほとんど音は鳴らないが———出てきたときと同じようにそっと部屋に入った。イグニスの手を取ったまま。医師がイグニスを連れていることに気づいた看護師の男がすぐに扉を支えてくれて、イグニスと目が合うと小さく頷いてノクティスのベッドを目で示した。ノクティスはほとんどベッドの中に埋まるようにして眠っていた。うつ伏せだった。透明な袋がふたつと赤い袋からチューブが伸びて繋がっていた。下の方にはベッドの中から違うチューブがもう一本出て、尿だろうか、袋の中に溜まっていた。
     ノクト、と呼んだ声はほとんど空気を揺らさずに舌の上で跳ねただけで、怖くなってイグニスは医師の手を強く握った。
    「背中を大きくお怪我されてね」
     医師が言った。でも、庇われて致命傷には至らなかった。そう言った横顔をイグニスは見上げた。目のふちが少し赤かった。庇ったのは誰だろう。車で行ったから、ノクティスの隣にはきっと侍女が座っていたはずだ。彼女が庇ったのだろうか。守って、死んだのだろうか。ノクティスは優しいから、それを知ったらとても悲しむに違いない。
     お顔を見て、声をかけてあげて。こういうとき、声は聞こえているから。医師がそう言って、離した手でイグニスの背を押した。
     ベッドの脇に歩み寄り、顔を覗き込むように背中を少し曲げて、ノクティスがいつまでも起きないときによくするようにだ、だがいつもと違うのはベッドに手をついて揺らしてはいけないように思ったから汗をかいた手を両方とも腹のところに握り込んでいた、イグニスは小さな声で、ノクト、と呼んだ。視界の端で、ベッドの向こう側にいる看護師がそのやりとり(一方的な)に労しげに眉を寄せたのが見えた。ノクト。もう一度呼んだ。イグニス以外誰も口をきかなかった。
     ノクト。ノクト。起きたら、約束した……蛍がどんなだったか、……あと、ずっと見たいって言ってた蝶の図鑑の題名がわかったから図書室から取ってくる、きのう、家庭教師からきいたなぞなぞと……、中庭で追いかけっこ……、…………。
     最後まで言えずに、いや、スピーチみたいに言うことを最後まで決めてなどいなかったが、もっと何か言ってやりたいと思うのに、イグニスはベッドに顔を伏せて泣き出した。さみしがる犬みたいな声だと自分で思った。きっと眼鏡が曲がってしまう。まぶたがレンズについているから、めちゃくちゃに汚れてもしまっているだろう。自分がまだ十歳なのが腹立たしかった。レギスが来るまえに、泣きやんで、いつも通りの自分でいなければ、と思った。
     怖いことはひとつしかない、とイグニスは思った。ノクティスを喪うこと。それだけ。

    §

     それだけだった。
     だから、その恐ろしさに耐えかねて、ご無事で、なんて、叶い得ない願いが口をついて出た。死の冠を戴きに行くノクティスは自分を愚かだと思ったろうか。だがもし叶うならと思ったのだ。叶うはずもないとわかってはいたが。くそったれの六神にそんな慈悲があるはずもない。ノクティスが無事でいられるのなら何にかえても、と願うだけなら簡単だったが、かわりになる持ち物なんかひとつもなかった。もしあったとしてそれをかわりにしたら、ノクティスは優しいから、きっと深く悲しんだろう。
     世界でひとつだけの恐怖は、あっけなくやってきてイグニスの横っ面を張り倒して去って行った。あたりまえのように。ノクティスが死んだらどうしよう、とずっと考えていた。どうもなかった。自分は生きて、飯を食って、寝て、働いて、暮らさなければいけない。ただ愛するものがいないだけだった。
     愛するものがいない暮らしを、初めてその恐怖の片鱗を舐めた頃から二十余年、イグニスはずっと想像して覚悟をしていたつもりだったが、どの想像とも違っていた。これまで読んだどんなに悲しい物語とも、身の毛のよだつニュースとも。
     死はただ静かで、凶猛で、一片の慈悲もなかった。

    §

     というだけでは終わらなかった。
     ノクティスが死んだのでノクティスに注ぐつもりだった愛情がずいぶん余ってそれをこれからの長い人生にうまいこと分配してやりくりしていこうと思っていたところに、おおよそ一年後、正確には三八一日経った日だったが、崩れた玉座の足元にうずくまるものがあった。
     謁見の間もこれ以上崩落しそうなところは修復して、まあ何か別の用途に使えるようにすべきだろうそろそろ頃合いだと、グラディオラスとプロンプトと三人で弔いを兼ねて確認すべく足を運んだのだった。何かに導かれたかそのときを狙ったのか、どちらにせよ思い返すとイグニスは六神に悪態をつきそうになって、信仰の篤いグラディオラスの機嫌を損ねるのも面倒なのでそのたび黙っている。ともかく、謁見の間に向かったのだった。うずくまるものがあった。何かが深々と刺さった跡のある(とプロンプトが言った)玉座の下に。
     もちろんイグニスには見えなかった。グラディオラスが突然歩みを止めて、プロンプトがえっと声を上げたきり黙って、イグニスが耳を澄ますと、かつて聞き慣れた寝息が聞こえていた。なぜわかるのかと聞かれてもわかるのだから仕方ない。十七年と一日聞いたのだ。鼻に抜ける音と呼吸のリズムに癖があった。十年聞かなくて、そのあと最後に聞いたときは幼い頃から変わらないものだと思った。立派な王になっても変わらずかわいい弟だった。
     恐ろしくて名前を口に出せなかった。だが震える声で、いるのか、と聞いた。わかんない、なんで、えっ、でも、ええっ、とプロンプトが上ずった声で答えた。グラディオラスが声もなく一人地面を蹴って駆け出した。段飛ばしに階段を駆け上がる靴音のあと、息を飲む音が聞こえた。そして震えてその名を呼ぶ声が。イグニスも駆けた。瓦礫につまずいてよろけたところをプロンプトが起こして、そのまま引きずるように玉座まで連れられた。プロンプトはもう多分泣いていた。
     十七年聞いた寝息だった。十七年と、十年空いて、一日。イグニスはほとんど転ぶように膝をついてその息の聞こえるところへ手を伸ばして触れた。王として戻ってきた日の、最後のキャンプの夜に、レギスによく似た面差しになったとグラディオラスが言うので、いいかと断って触れて確かめたその輪郭だった。触れられたノクティスはくすぐったそうに笑っていた。幼い頃からお互い許した距離が嬉しかった。もう意地を張って照れたりはしないのだと思うと寂しかった。今指先に触れたのは、そのノクティスの顔だった。変わらない耳の形と、もう幼い丸い稜線ではない頬、少し硬くて張りのある髪。色はどうだろうか。変わらないのだろうか。肩に触れると服でなく肌だった。
    「裸なのか」
     問うと、初めて気づいたようにグラディオラスがあっと言って、上着を脱いでノクティスを包んだ。ためらうように、傷が……と言った。
    「なかったはずだ。こんな傷。ひでえ傷が……」
     そのとき、触れていた手のひらの中でまつ毛が動いた。
    「ノクト!」
     プロンプトが叫んだ。
     グラディオラスが掛けた上着の、袖だろうか、落ちる音がして、ノクティスに触れたままのイグニスの腕の隙間をすり抜けるように、手のひらがイグニスの顔に触れた。ノクティスの手だった。その瞬間、視界に光が差した。目の前に世界が現れた。もう一度。———世界が。ノクティスの顔が。眼差しがあった。失われたものたちが。
    「やめろ!」
     イグニスは叫んで、目の前の手首を掴んだ。プロンプトが驚いて身を引いた。
    「やめてくれ、魔法を、命を、こんなことに」
     喉がビルの間を通り抜ける冷たい風のようにひゅうひゅうと鳴った。
    「戻ってきたのか、ノクト、それともまた行ってしまうのか」
     ノクティスの手はゆるやかに離れていった。目眩がした。十年ぼんやりと光の輪郭しか捉えなかった目に、右だけ、それもにじむようではあるが、世界が形をなしている。世界が。ノクティスが。
    「俺のことはいい。いいんだ。こんなことに力を使うより、一日でもいい、長くいてくれ、頼む。本当にお前なのか。ノクト、どうか、お前、本当に」
     問いかけは文章のていをなさなかった。聞きたいことが山ほどあるのに。お前なのか、ともう一度問うた。ノクティスの唇がふっと柔らかく弧をえがいて笑った。俺、とほとんど息だけで、喉も揺らさずに言った。枯れた声だ。だが、たしかにノクティスの声だった。
    「ボーナスステージってやつ? いろいろ……ちょっと違うし、めんどいけど……コーローショー、みてぇな……」
     頼りない声で言いながらまた目を閉じたので、三人して同時にけたたましく名を呼んだ。ノクティスの肩が揺れる。笑ったらしい。うるさい、と唇の動きだけで言った。
    「へーき」
     目を閉じたまま言う。ひどくかすれてはいても、穏やかな声だった。
    「もっと時間かかるとこだいぶ急いだから……疲れて……でも、へーき……」
     わけがわからねぇ、どういうことだ、と動揺しきった声でグラディオラスが言った。プロンプトも頷いた。ノクト、と促してイグニスが呼んだ。ゆっくりと、息を吸い、吐いて、ノクティスが言った。
    「生きるから」

    §

     というのが、三日前だった。
     実にめまぐるしい三日だった。グラディオラスがノクティスを抱えてほとんど走るようにかつての自室へ運んでやって、ベッドカバーは埃だらけだったが剥がしてしまえば問題なかった、イグニスはまた見えるようになった目の、片目だけの距離感を測りかねてかえって盲目だったときより何度も蹴つまずいて、プロンプトは二分に一回はーだかあーだか裏返った奇声を上げて、ノクティスは唇を湿らすくらいの白湯を飲んだら眠ってしまった。寝間着を着せてやって、そのとき見えた胸を切り裂いたような大きな傷に三人とも息を飲んで、プロンプトは少し涙して、イグニスは寝間着の袖を通してやるときに、右の中指を中心として広がる内出血のような、ケロイドのような傷も見た。手のひらと手の甲の両側手首までに及ぶ、指環のような傷跡だった。
     それで、これがいったいどういう奇跡か三人で話したが、まったく要領を得ない実りない話し合いだった。それもそうだ、自分たちには神々の声も何も聞こえないのだから。
     沈黙が下りて、だが誰もそこから離れられなかった。目を離したらノクティスが消えてしまうのではないかと思えたからだ。離れがたかった。
     しかし、ほどなくして、三人の電話が一斉に鳴った。仕事がある。自分たちは今、復興の中核を担う存在だ。仕方ないのでイグニスが時間を決めて、誰か一人が必ずノクティスの側で寝ずの番をできるように采配した。
     仕事に向かってまずイグニスは、資料を読み上げてくれる秘書に罷免を申し渡さなくてはならなかった。かれはそのぶん三人のうち一人がいない穴をよく埋めてくれたが。だが、理由を問われて、目が見えるようになったので、と言うイグニスにきょとんとしたかれは、失明しておられましたよね? とあたりまえの疑問を投げかけ、王が甦ったと宣言するわけにいかないのでイグニスは、奇跡というのは起こるものだ、という、間抜けきわまる返答をした。はあ、と納得のいかない顔で首をひねる罷免されたばかりの元秘書を見て(見て!)イグニスは、とにかく早急にノクティスがいることを確かにせねばならない、と決意した。でもまあ見えるようになったんならなによりですけど、と元秘書は言った。
     それで、それから三日交代で寝ずの番をしたが、三日、ノクティスは目を覚まさなかった。
     三人が三日ぶりに揃ってまた実りない話し合いになろうかというとき、はらへった、とよろよろの声が言った。三日ぶりに。十年ぶりよりましだとイグニスは思った。その声に弾かれたように立ち上がったグラディオラスは椅子を壊した。プロンプトはぎゃっと叫んだあとまた泣いていた。
     めまぐるしい三日だった。
    「だりい」
     そう言ってノクティスは、食べるだけで体力を使い果たしたというように、またベッドに倒れた。ヘッドボードに背中を預けてイグニスにゆるい粥をひな鳥のごとく口に突っ込まれては飲み込むのを、むかしのように甘やかすなとも何とも言わず、グラディオラスは凝視していた。プロンプトは落ち着かない様子で右足に体重をかけ、左足に変え、また右足に、とそわそわし通しだった。三人とも、目を離したり声を出したり、何かほんのちょっとしたまずい行動で魔法がとけてノクティスがかき消えてしまうのではないかと怯えていた。
    「うまかった」
    「そうか」
     プロンプトが差し出した手に粥の器を渡したイグニスの手は、震えていた。イグニスはベッドの脇に寄せた椅子に座したまま、片方の手のひらを反対の親指で揉むように押した。震えが止まらない。三人ともひどく緊張していた。
    「あのさあ」
     ノクティスが口を開いた。三日前よりずいぶんましな声になった。頬もばら色だ。もしかするとこんなに血色がいいのは一度も見たことがないかも知れない。ルシスの王は魔法に命を食われるが、もう六神の干渉がないということなのだろうか。
    「なんでお前らそんななの。俺、生きるって言ったよな」
    「わかんねぇだろう、そんなの!」
     グラディオラスの声で窓が割れるのでは、という勢いだった。ノクティスが大の字に寝たまま、目だけを動かして、ベッドの脇、天井まで続く窓を背にして立つグラディオラスを見上げた。わかんねぇだろう……と今度はひどく頼りない声で、もう一度言った。
    「……説明してくれ。どういうことなのか」
    「それ、今度じゃだめか? ややこしいんだよ」
     つうか、めんどい、と息をついて言うノクティスだけがまったくなんでもない様子だった。グラディオラスの眉間のしわが深くなる。顎にも力が入っていて歯ぎしりが聞こえてくるようだ。歯が割れるのじゃないだろうか。
    「あのさあ!」
     プロンプトが大きく息を吸って、裏返った声でやはりほとんど叫ぶように言った。それから、ノクティスと目が合うと、途端に勢いを失って眉を下げ、訴えかけるような手のひらだけが宙を掻いた。
    「俺らさ……安心していいの。二度も、嫌だよ」
     そう言うとまたくたびれた下まぶたにみるみる涙が盛り上がってこぼれた。十年の間はかれが泣くところを見なかった。強くなったものだと何度も思わされた。使命も家柄も何もない、ただノクティスを思う心ひとつで何度倒れてもそのたび何度でも立ち上がった男だ。もしかすると俺たちの誰よりも強かったのかも知れない。
     いいよ、とノクティスが言った。許すような声だった。グラディオラスとプロンプトの肩から力が抜けて、グラディオラスは顔を仰いて震える息を深く吐いた。プロンプトはようやく笑った。イグニスだけがうつむいていた。
    「イグニス」
     呼ばれて、ノクティスを見た。
    「なんだよ、お前、黙っちゃって」
     上掛けを肩まで上げてやらなければ、と思ったが腕が上がらなかった。視界はぼやけているが昔の眼鏡も遮光グラスも合わないので外している。どこへ行けば眼鏡が手に入るだろう。職人が見つかるだろうか。
    「昨日はよく喋ったくせにな」
    「三日前だ」
     そうなの? ときょとんとしてノクティスが言った。
    「三日寝ていた。生きた心地がしなかった」
     怒ったようなぶっきらぼうな調子になった。ノクティスは眉を上げて口角を下げた。どうでもいいことを謝るように。
    「生きろよ。俺生きてんだから」
     お前がいなくてどーすんだよ、と言うあんまり軽い言いように、かっと熱いものが胸にこみ上げた。やはり怒っているのかも知れない。何にだろうか。わからない。ノクティスに小言を言っても怒りを感じることはついぞなかった。イグニース、と間延びした声でまた呼ばれる。
    「言いたいことがあんなら言えって」
     グラディオラスとプロンプトは今や勝手に落ち着いて二人の様子を静観しているようだった。さっきまではお前たちの方がよほどうろたえていたくせに。言いたいこと……とイグニスは復唱した。言いたいことありますっていう顔してるけど。ノクティスが言った。
     イグニスは、逡巡して、手のひらを頼りなく膝の上で組んだまま、目だけを動かしてぐるりを見渡したあとで、ゆっくり背を折った。顔が上掛けにつく。やっぱり埃臭い、陽に当てなければ。顔はすっかりベッドに埋まってしまった。まるで十歳のとき、この同じベッドにしたのをまるきりなぞるように。見たことのないイグニスの様子に驚いたグラディオラスがおい、と小さく声をかけた。
    「お前を愛している」
     ベッドに顔を突っ伏したままイグニスが言った。くぐもってはいたが、誰の耳にも届いた。
    「お前を愛している」
     同じことをもう一度言う。今度は震えていた。
    「俺だけのものにしたい愛ではない。ただお前が生きて、……生きて、食べ、笑い、それを……、…………」
     とうとう伏せた背中も震えだして声は途切れた。沈黙の中、グラディオラスが気まずげに身じろいだ衣擦れの音と、プロンプトの鼻をすする音が妙に大きく聞こえた。
     本当に、まるで十歳のときにしたのと同じようだった。蛍の話をしてほしかった。読みたいと言っていた本を読ませてやって、知らないことを教えて、共に遊び、笑いたかった。あのあと、ノクティスが療養にテネブラエへ発ったあとも、戻ったらしてやろうと思うことをせっせと集めていたのだった。テネブラエからの帰還もまた悲劇になってしまったので、そのほとんどが立ち消えになってしまったが。だが話を聞くうちに、初めて食べる菓子がおいしかったと戻ってから初めて笑顔がこぼれたので、それを再現しようと躍起になった。アンブラが手帳を携えて来たときには二人で見送った。小さな尾が見えなくなるまで。
     レスタルムで頭痛に苦しむノクティスを寝かせたときも。オルティシエでは自分が何もしてやれなくなったことによほど絶望した。それでも同じように、いつも目が覚めたらどう声をかけて何をしてやろうと思ってイグニスはノクティスの目覚めを待った。どの朝も。
     最後のキャンプでも話したいことが山ほどあった。そんな時間はなかった。自分の人生が続くことがむなしかった。死にも、生にも同様に慈悲はなかった。ノクティスが死んだら壊れてしまうと思っていたものの何ひとつも壊れなかった。そのことが悲しかった。救われた世界の夜は更け、朝が巡り、ただ愛するもののために何をしてやろうと考えて迎える朝がイグニスに訪れないだけのことだった。
     それがどうだろう。今もしかして自分は壊れたのではなかろうか。かわいい弟のような王子を運命のように思って、慈しんでやって、それが自分の目指すもののすぐ側、未来の先にあり、ときにままならないことさえ楽しく、そして過酷な運命に翻弄されかれを喪って深い悲しみの永劫の浜辺を歩いてなお、神託も死の予感も唯一恐ろしかった死そのものさえ壊せなかった自分が今、粉々になったように思える。愛するものの帰還によって。それはこれまで読んだどんな本にも書いていない感情だった。
    「……イグニス。顔見せろ」
    「嫌だ。断る」
     抗議するようにノクティスの手が上掛けを叩いた。イグニスの頭なり肩なりを叩きたかったが届かなかったらしい。イグニスが大きく一息吸って言葉を継いだ。
    「言っておくがグラディオとプロンプトも同じ思いだぞ」
    「巻き込むんじゃねぇよ!」
     今度は高らかにノクティスの笑い声が響いた。だがすぐに咳にかわり、身を乗り出した仲間たちに心配ないというように片手を挙げてみせる。伏せていた顔を結局思わず上げてしまった。鼻の頭が赤いかも知れない。泣き顔を見せるなんていつぶりだろう。
    「知ってるよ」
     知ってる、とノクティスが繰り返して言った。唇はゆるい弧をえがいている。晴れがましいような顔だった。ただいとしいと、そう思えた。弟で、友で、王だった。このいとしさを前に壊れない心があるだろうか。ノクティスがきょうだいの、友人たちの、かれの民の顔を見た。
    「俺も、お前らのこと好きだよ」
    グラディオラス・アミシティアの日記
    〈七六六・一〇・二九〉
    亡骸を見られなかったのでいつまでもこうなのかもしれない。己を見つめ直すためにもここに心情を記したい。
    〈七六七・八・三〇〉
    帰ってきた。信じられない。


    「二年で二日しか書いてないじゃねぇか」
    「人の日記を勝手に見るとは感心しねぇな」
     グラディオラス・アミシティアはそう言って王を殴ったが彼ほど王を殴った男はルシスの歴史上存在しない。
    明星奇景 五、インソムニア
     インソムニアを囲う障壁(魔法ではなく、物理的な壁だ。魔法障壁はもはや存在しないし、現王にも作る力はないと公言されていた。もっとも、今や必要なかったが)は闇の十年の間に相当に傷み、ところどころ大きく崩れていた。新時代の開かれた街としてすべて撤去すべきだという声もあり、また、それ自体美しく激動の時代を司る歴史的遺産なので修復し保存すべきという声もあった。人々にはそれよりも前にすべきことが山積みだったので、たびたび市民の議論の種になってはそのたび結論は出ず、立ち消えになっていたが。ともかく、インソムニアの壁は、崩れてはいるものの変わらずそびえていた。
     そしてその壁のもはや遺構と化したかつての検問所をこわごわくぐる者がいた。以下、かれを《訪問者》と呼ぶ。この先は、それに出くわした者たちの証言となる。

    §

     まず、資材輸送の大型トラックが壁直前でへそを曲げ、トラックの腹の下にもぐって修理していた男と、運転手の女がかれと出会った。フードを目深にかぶった訪問者はかれらの声高な口論(と言っても、かれらにとっては日常的な言葉遊びのようなものだ)にびくつき、かれらの横を通るのをためらった。辺りを見回しているのを見、女がかれに声をかけた。女が言うには「取るものも取らず避難してくる者たちはかつてはよく見たが、夜が明けてからこっち、あんなにずたぼろの身なりのやつは見たことがない。哀れに思った」とのことだ。
     道を塞いで悪いね、車の横を通っていってくれ、けど中心地まではまだだいぶあるよ、この脚だけ見えてる能無しがどうにかこの子を修理しちまうまで待っててくれるんなら乗せてってやってもいいけど。女は訪問者にそう声をかけた。訪問者は怯えた様子で沈黙したので彼女は、これは聾者なのかと首をかしげた。あいにく手話は話せない。
     だが、相棒が車の下から声をかけたのに反応したので、違うことがわかった。あんた、そのブーツ、帝国製だろう。雪の中でもすべらないってやつだ。そう言いながら、車の下から這い出した。
     そのときの訪問者の表情を、何と言えばいいのか、と女は言った。絶望。相棒が言った。ああ、それだ。絶望。かれは、絶望したように見えました。
     絶望した訪問者は、肩を落とし、一年も誰とも言葉を交わさなかったようなしゃがれた声で(男曰く、まだ年若い青年だったがまるで年寄りの声に聞こえた)、そうです。ニフルハイム、グラレアから来ました。と言った。懺悔のような声だった。
     二人は、かれが一体何にそんなに絶望したのかわからなかった。そうか、そりゃ遠くから来たね。いつ発ったんだ? まだ列車は復旧してないだろ。だよな? ああ、材木屋がニフルハイムの出だろ、まだまだ帰れないってぼやいてたもの。あんた、まさか歩いてきたんじゃないよね、一年がかりなんかで。んなわけねぇだろ。まあいい、乗っていきなよ、今直ったからさ。すぐ出られるぜ。やっと? うるせえな。そんなふうにぽんぽん言い合うのを、訪問者は立ち尽くして聞いていた。頭が追いつかないというようなふうだった。
     二人は訪問者から、曰く、「ずっと着替えていないのだか知らないが、どぶのような臭いがした」ので、持っていた古着をやり、かれの着ていた服(男は「あんなもんもう服じゃねぇ、ボロ切れだ」と言った)を高架の端からはるか下に捨てた。それでもまだかれは臭ったので、女は車中でずっと、落ち着く場所に着いたらまず体を洗えと長々語った。訪問者はまだ理解が及ばないというような顔で、居心地悪そうにトラックに揺られていた。
     女は言う。どこまで行くのと聞いたら、お城までって言うから、そこまではこの車の図体じゃ入れないからいちばん近いところで落としてやる、そっからはまた誰かに助けてもらいな、って言ったんです。男が続ける。お城までって言ったとき、そいつ、こう歯をぎゅーっと噛み締めてね、泣いてたんですよ。どうしたんだろうと思ったけどね、まあ、誰でもいろいろあったでしょ、大変な時代だから。若いのに気の毒だなと思いましたけどね。
     そうして、トラックの二人は、訪問者を下ろしてやって果物をひとつ持たせてやり、手を振って別れた。訪問者はためらうようにおずおずと手を振ったという。
     その先はほんの短い邂逅ばかりだが、ほとんどの者がかれをよく覚えていた。引用する。

    §

     臭かったんでよく覚えてますよ。ガルラみたいな臭いがしたな。道を聞かれて。お城はどっちって言うんで、見えるだろって指したら、泣きそうな顔でため息ついて。どうしたんだろうね。見えるけど、でっかいから、歩いても歩いても近くならんぜ。どっかで車の荷台に乗っけてもらいな、って言ったら、うんうんって頷いて、お辞儀して行っちまった。ですよ。その子がどうしたんです?

    §

     ああ、はい、乗せてあげました。痩せててかわいそうだったな。どこから来たんだか。ダスカオレンジを持ってたから、そんなに大事そうに持ってたんじゃぬくまっちゃうよ、食べどきなんじゃないの、今食べてもいいけどあたしの車に汁をこぼさないでよ、って言ったら、ああとかなんとか言って食べ始めたんだけど、皮を剥くのが下手で笑っちゃった。いや、手が震えてたのかな。怪我とかのせいだとしたら笑っちゃって悪かったですね。ほんとにね、あたしの弟よりまだ若いかなっていうくらいだったけど、痩せてて、夜明けの前の頃を思い出してせつなくなりましたよ。オレンジ食べながら泣いてた。おいしい? って聞いたら、おいしい、って言って。

    §

     ええ、道を聞かれましたね。あの子、ニフルハイムの子なんでしょう、きっと。色がうんと白くて髪の色も雪のようでしたから。私はカルタナティカから参りましたから、昔はニフル人はよく見たんですよ。今はもういろんな人がいろんなところにいますけどね。寒いところからおいでなのねって言ったら、こう、びくっとしましてね、ニフル人は迫害されていないのですか、って聞くんですよ。いいえ、って言いましたよ。王様が許しませんよって。

    §

     そうです、おばあさんが声を上げたんでね、その子が急に膝をついたんで具合が悪いんじゃないかって。だから寄ってって声をかけたんです。そしたら、僕の服を見てわかったんでしょうね、お城の人ですか、って。まあ、下っ端だけどね。そうだよって言ったら、おいおい泣きながら、グラレアから来ました、戦争がまだ続いていると思っている人たちがいます、かれらを助けてください、ここまで来るのに、ニフル人だとばれるのが恐ろしくて誰にも声をかけることができなくて、こんなに時間がかかってしまったから、もう死んでしまったかもしれない。途中、ルシスの王様はもういないという噂を聞きました。嘘ですよね、きっと助けてくれると思ってここまで来たのに。って。泣きながらそう言うんですよ。くそ、思い出したらまた泣けてきたな。僕はどう言ってやればいいのかって思って。だって、ついこないだまで王様は死んでたんだ。あの子がもうちょっと早く着いてたら王様はいないって言わなきゃならなかった。でも今はいる。けど遅くなってよかったななんて言えないでしょ。そしたら、とんでもない人が通りかかったもんで。

    §

     いや、別に、抜け出したわけじゃないけど。視察だよ、視察。歩き回って現地を見るってのが大事なのは、旅んときによーくわかっただろ。え? うるせえな。読んだって、書類は。チェックしろよ。だから、それで、俺の話してたから。聞いてやって、礼言って。え? 別に、普通だけど。真似してねぇよ。だから、来てくれて、生きててくれてありがとなって、そんだけ。そんだけだよ。

    §

     以上が聞き取りの結果である。書類を添付する。


    《出張記録》
    ノクティス・ルシス・チェラム
    火急。グラレア及び周辺都市の生存者救出、保護を目的とする。
    保護の後はオルティシエに避難させる。アコルドとの交渉については別紙参照のこと。
    医師二〜三名、ニフルハイム出身のハンター経験者三〜五名を募る。
    以下を同伴する。
    プロンプト・アージェンタム
    アラネア・ハイウィンド
    ノクトくん!《ハンマーヘッド 快晴》
    ノクトくん! こんにちは♪ おとといキミを見かけてから、すっかり、キミが、頭から離れないヨ(笑)まいった! 今日もキミは飛び回ってて、元気で、ビックリしちゃう(汗)ボクは一日キャビンでゴロゴロ……ノクトくんが、側にいてくれたら、元気になっちゃうんだけどな(笑)ナンチャッテ!

    《ランガウィータ 快晴》
    ノクトくん、おはよう! 今日は、すっごい泥だらけだったね(笑)モーテルの人に怒られなかった? 泥んこで、何してきたのかな。ボクは、オヂサンだから、ついていけないカモ。。。ガクッ(笑)

    《ガーディナ渡船場 快晴》
    ノクトくん元気かな? 聞くまでもないよね♪ 釣りにはしゃいでるところを、見て笑ってたの、ボクだけじゃなかったよ(笑)マッサージされてたのは、ちょっとビックリしちゃったケド。。。(汗)

    《ガーディナ渡船場 雨》
    ノクトくん、おはよう。昨日は、高級ホテルに、泊まってたんだね。お金は、大丈夫なのかな!?お兄さん……じゃないよネ、お友達なのかな? メガネの人と、こわ〜いタトゥーの人が、なんだか怒ってたみたいだから心配だヨ(汗)

    《ガーディナ渡船場 雨》
    ノクトくん、おはよう。ボクもホテルに泊まってみようカナ? と思ったけど、値段を見たら、目が、飛び出ちゃったよ(笑)今日は会えなくて、寂しいな。

    《チョコボポスト・ウィズ 雷雨》
    ノクトくん! もう会えないのかな〜と、思っていたから、とっても嬉しいヨ! こんなに偶然が重なるなんて、運命感じちゃうナ♪ ナンチャッテ(笑)雷ゴロゴロなのに出かけるのは、心配だよ(汗)気をつけてね!

    《レストストップ・カーテス 快晴》
    ノクトくん、また会えたね! すごい偶然♪ この辺りは、風景が壮大で、見とれちゃうよネ。ボクはキミにも見とれてるケド。。。ハハハ(笑)お友達とは、仲直り、したのカナ? 仲良しで妬けちゃうけど、仲良きことは美しきかなだネ。

    《レスタルム 曇り》
    ノクトくん! ここでも会えちゃうなんて……ボクがビックリして、立ち止まったら、キミもこっちを見たから、ドキドキしちゃったヨ! こわ〜いタトゥーのお兄さんとも目が合ったから、逃げちゃった(笑)頭が痛いって言っていたけど、とても心配です(汗)

    《レスタルム 快晴》
    ノクトくん、おはよう。キミが、かわいい女の子と歩いてたとこ、見ちゃったヨ(汗)妹みたいなコなのかな? だといいケド。。。

    《オールド・レスタ 雨》
    ノクトくん! また会えたね♪ 今日は、メガネのお兄さんと目が合ったから、またビビっちゃった(笑)ちょっと、怖いけど、二人ともキミを心配しているのカナ? ダイナーで話してるのが聞こえちゃったけど(盗み聞きじゃナイよ!)、キャンプしてるの!? 大丈夫なのカナ(汗)あと、なんとボクもオルティシエが目的地! 嬉しい偶然だネ。運命カモ!?(笑)いや。。。本気(マジ)でネ! ナンチャッテ。

    《ガーディナ渡船場 曇り》
    ノクトくん、元気カナ。ボクは、やっと、オルティシエ行きの船に乗せてもらえることに、なりましたヨ! 実は客船じゃないんだけど。。。(汗)でも、こうなったら絶対にオルティシエには行ってやると、思っていたから、良かったヨ。ノクトくんは、今、何してるのかな?

    《オルティシエ 快晴》
    ノクトくん! ここでもやっぱり会えたね♪ オルティシエは人が多くてインソムニアみたいだね(汗)人混みで、近くには、行けなかったヨ。ノクトくんはインソムニアに行ったことは、あるカナ? ボクはインソムニアで、エンジニアをやっていたんだよ♪ エンジニアって、知っているカナ?

    《オルティシエ 快晴》
    ノクトくーん!! オルティシエ、とっても物価が、高いです!(泣)ノクトくんは、大丈夫?

    《オルティシエ 雨》
    ノクトくん。ボクは、すっかり、ヘトヘトだよ。ノクトくんは、大丈夫なのかな。とっても心配です。避難船を待っている時、メガネの人を見かけたけど、キミを探していたんじゃないかと思いました。うーん。。。

    《オルティシエ 曇り》
    ノクトくん。一日待って、やっと、避難船に乗れることに、なりました。泣きそう(泣)せっかく来たのに、また戻るんだなあ。。。ボクも、インソムニアに戻った方がいいのか、悩んじゃってるヨ(汗)ノクトくんは、大丈夫ですか?

    《ガーディナ渡船場 曇り》
    ノクトくん! 今日、キミの噂をしてる人を見かけたヨ! 坊主頭の、こわ〜いオジサン!(汗)でも、キミが無事だって言っていたから、安心した(ホッ)ところで、ノクトくんのお友達は、怖い人が多いネ。。。オヂサン、ビビっちゃうヨ。

    《ガーディナ渡船場 曇り》
    ノクトくん、元気してるカナ? ボクや、オルティシエから避難してきた人たちは、ホテルのロビーに寝かせてもらっていたんだけど、レスタルムまで、車に乗せてもらえることになったヨ。レスタルムは蒸し暑いからナァ。。。ムムム。でも贅沢は言えないよネ。ファイト♪

    《レスタルム 曇り》
    ノクトくん♪ 会えなくって、寂しい! でもオヂサンは頑張ってるよ〜。インソムニアでやってたような仕事は、ないけど、機械には詳しいので(エッヘン)工場の仕事をもらったヨ。ボスの女の人が怖いケド。。。(笑)

    《レスタルム 曇り》
    ノクトくん、元気かな? 毎日、変な天気で、体調は崩してないか、心配してるヨ。

    《レスタルム おそらく曇り》
    ノクトくん! ボクは元気です。ちょっと痩せたヨ(笑)カッコよくなっちゃったカモ。。。ムフフ♪

    《レスタルム おそらく曇り》
    ノクトくん! 今日はビックリ! 前にキミと歩いていた、かわいい女の子が、レスタルムでお店を始めたみたい! たくましいなあ〜(汗)

    《レスタルム おそらく曇り》
    ノクトくん(泣)オヂサン、怪我をしちゃいました。。。大したことないんだけどネ! でも痛いヨ〜。ノクトくんのコト思い出して、頑張るヨ♪

    《レスタルム おそらく曇り》
    ノクトくん、おはよう! と言っても、夜だけどネ(笑)今日は、見張りの当番♪ エンジニア時代の夜更かしが、こんなところで役に立つとは。。。ムニャムニャ。





    「どうやって正気保ってます?」
     唐突な問いだった。二、三度まばたいて瞠目する。訊ねた女の目のまわりは落ちくぼんで暗く、癒えない疲れをありありと漂わせていた。焚き火を挟んで向かい合った女の頬が火に照らされて赤い。今日は深夜の(といってもいつでも闇の中だが)見張り番だ。シガイの襲来があれば、仮眠を取っているハンターたちに知らせることになっている。戦えない市民が交代でやっている。街を守るためだ。
    「ええと、正気っていうと……」
    「あなたはいつも明るくて助かるって皆が」
     そう言うと女は一度目を閉じて鼻をすすった。自分よりも十くらい年下だろうか。やつれた顔つきでなければ、もっと若く見えたかも知れない。女の頼りないくらい細い足首を覆うブーツの紐は容易にほどけないよう何重にも結ばれている。もっと華奢な靴を履く人生だったのだろう、きっと。あるいはこんなブーツにも短いスカートなんかを身につけて楽しげに街を歩いたのかも知れない。
     女がバリケードの向こう、暗闇の先に視線を投げたのでつられてそちらを見た。何もない。闇だ。ちらちらと舞う闇のかけら(黒色粒子というらしい)が目についたので、虚空を見るのはやめて女の横顔に眼差しを戻した。女は変わらず闇を見つめている。その横顔、耳の横、奥歯の付け根がぎゅっと緊張したのが見えた。
    「……私も笑いたい」
     絞り出すように女が言った。それから喉から小さなねずみが絞め殺されるような音を出した。ごめん、と小さな声で言って、闇を見つめて開いたままの目から涙をこぼし、隠すように指先で拭った。
    「生きていたいのに……」
     のに、死にたい、だろうか。もう死にたい。そんな言葉を何人から聞いたろう。他愛ない会話で持ち直して思いとどまった者も、結局死に救いを求めた者も、生きようとしたのに死に選ばれた者もいた。ハンターをやっている者たちは強い心を持っているように見えた。それもそうだ、この絶望的な状況で人の役に立つ力があるというのは大きな生きる理由になる。大変なのは守られる者だ。無力感に苛まれる。状況から目を逸らせる時もない。同じような者たちの暮らしを守る小さな仕事をしながらなんとか日々を繋ぐしかない。いつ終わるともわからないこの闇の中で。
    「僕は……」
     ためらいがちな声に女が顔を上げた。黒い目が涙に濡れて光っている。その瞳にやや気圧されてまた沈黙してしまう。
    「ごめんなさい、こんな質問」
    「いや」
     すまなそうに女が俯いたので咄嗟にかぶりを振った。言葉を探して両手で膝を擦る。昔は膝の骨なんて触れなかった。もっと太っていたからだ。そのうちダイエットしなきゃなあなどと思っていたが、こんな状況で痩せるなんて思いもしなかった。
    「……その。僕は旅行者だったんだよね」
     女が首を傾げた。額から落ちた髪が濡れた頬にひと筋張り付く。
    「こんな話をするのは初めてなんだけど。その、なんだ。仕事を辞めてさ、インソムニアからオルティシエまで予定のない気ままな旅をしようって、一大決心」
     女が前歯を少し見せて微笑んだ。その旅路を想像したのだろう。
    「その途中で、ちょっと、いいなって子を見かけてさ。あの子たちも旅行者だったのかな。や、気持ち悪いよねおじさんが」
    「ううん。いいじゃん」
     嘘を感じないどこかうっとりした声で女が言った。秘めた話をする緊張からか手のひらに汗をかいている。
    「どんな子?」
    「その……若い男の子で、かっこよくて。僕は、そのなんだ、一方的に見かけてちょっとラッキーっていう感じだけだったんだけど。行き先が同じだったみたいでこう、たびたび見かけてさ」
     頬に薄い微笑みを掃いたまま女が小さく何度も頷いた。
    「かれが、出会った人に親切にしてるとこをよく見かけてさ」
    「かっこいい」
     そうなんだ、と答えた声がちょっと上ずっていて、いかにも奥手な中年で自分でいやになった。小さく咳払いして続ける。初めて人に明かすほとんど恥といっていい話なのに、興が乗ってきてしまっている。
    「だからその、僕は、その子をちょっと見てられるだけでわりとハッピーでね。その日のことを心の中でかれに話しかけて……」
     やだぁ、と言って女が笑った。揶揄する響きではない。つられて笑う。女は膝の上に組んだ手とその上に胸を乗せて、いまや乗り出すようにして聞いている。
    「今日はこんなことがあったけどそっちはどんな一日だったかな? とかいって」
     女が目を細めた。みっともない中年男の、こんな話を楽しげに聞いてくれている。
    「今もそうしてる。今もね」
     焚き火が爆ぜてひときわ大きな音がした。
    「旅を始めてちょっとしたらインソムニアがあれで……帰る場所がなくなっちゃってさ。仕方ないから現実逃避みたいに旅してたけど……オルティシエに着いたらまたすぐあんなことになっちゃったでしょ。かれもオルティシエにいて、無事だったらしいけど、その後はどうなったのかわからないんだ」
     そんな人ばっかりだと思うけど、と呟くと、じっとこちらを見つめて聞いていた女が膝の上で組んだ手を強く握りしめた。爪が白くなる。その眼差しを感じながら焚き火を見つめた。火は生き物のようにうねっている。インソムニアに暮らしていた頃は生活能力はないに等しいものだったが、この暮らしになってから火の熾し方も覚えた。食材は乏しいが、料理もだいぶんましになった。
    「でも今も、今日はこんな日だったよ、君は元気かなって」
     遠目に見たかれの楽しげな顔を、海風に揺れる長い前髪を思い出す。連れに呼ばれているのを盗み聞いて名前だけは知っている。ちょっとした変質者かな。でも見つめていただけだ。気づかれませんようにと思って。いや、気づいてほしい気持ちもあった。でもただ見つめていることが楽しかった。
    「かれに語りかけていられる自分でいたくて」
     草原を見つめるような静かな面持ちになった女の目から涙が落ちた。今度は拭いもしなかった。落ちるにまかせて、足元の砂利を小さく濡らした。
    「僕には、きっと星みたいな人なんだ。今も」
    「また会えるといいね」
     苦笑して首を横に振る。
    「見つめてるだけでよかったから」
     そうだった、と言って女が笑った。
     また見つめる日がはたして来るだろうか。夜が明ける日が。かれは今も生きているだろうか?


     ノクトくん。今、何してるのかな。





    《インソムニア 快晴》
    ノクトくん!! 今日は、本当に、ビックリしたよ(汗)生き返った王様が、復興の指揮を取るからって聞いて、ボクも急いでインソムニアに来たんだケド……キミが王様だったなんて、どういうコト!? ビックリしすぎて、腰が抜けちゃったけど(トホホ。。。)、オヂサン頑張っちゃうヨ!マ、腰は抜けちゃってるんだケド……





     王が短いスピーチを終え、群衆が鬨の声よろしく上げた歓声がおさまるまで、男は尻餅をついていた。後ろに立っていた女が声をかけたが呆然と数度頷くだけで、誰かが手を貸そうとする前に王が群衆の中に歩を進めたのでその手もまた引っ込んでしまった。
     とその時、王が男に気づいた。悪い、と言いながら人を避けて歩み寄り、砕けたアスファルトに座ったままの男に痛々しい傷のある右手を差し伸べた。後ろで上背のある護衛らしき長髪の男がやれやれといった風に肩をすくめ、顔に傷のある眼鏡の男が注視している。そばかすの男が王様ったら優しい、とか言ってひやかした。

     王の手はたしかにかれに差し伸べられていた。そして王が言った。旧知の友に言うように。

    「あれ? あんた、会ったことあったっけ?」




    ノクトくん!!!!!!!!!!!!
    幻の光別れの物語展によせて

     ものわかりのいいような顔をしてイグニスは、あるじのいない寝床に向かって祝いの言葉を呟いた。そうしながら、自分をぶん殴ってやりたかった。きっとルナフレーナ様の隣で……、何を信じてそんな言葉が出たものか。死してなお存在が続くとイグニスが信じたことは一度もなかった。魔法の国の王様だとしても。歴代王たちの英霊の気配を感じてさえなお。その英霊たちの宿る指環を以って命を賭したあの瞬間を経てからはいっそう。
     死してなお続くというならノクティスの命があんなにたびたび脅かされる必要はなかった。生きて進み続ける苦しみを、愛するものたちを奪われる悲しみを味わうことも。それを経てなお続くのだというなら、それは拷問だ。いったい誰が許してその拷問を与えるというのだろう。神々だろうか。
     そうして日ごと降っては薄く積もる雪を手のひらで払うように、胸につかえる思いを払いたくて、冷たく埃っぽいノクティスのかつての私室にぽつねんと置かれたベッドに、言葉をかけたのだった。お前は立派な王になると……。ばかみたいだった。だって信じていないのだから。
     グラディオラスは信心深いしロマンチストだから、胸中でノクティスに語りかけて指針を新たにすることもあるだろう。プロンプトは、幼い頃もしたというように、己を鼓舞するためにそうするだろう。だが俺は。イグニスは、死は存在の終焉だと信じていたし、そうでなければあんまりノクティスがかわいそうだった。たとえそのどこか、ルシスの神話では星の魂とか生命の潮流とか呼ばれる場所でルナフレーナと結ばれていたとしても。ノクティスが神や神話と血を共にする、境界をまたぐ者なのだと幼い頃から見て知っていても、生きてこそだという思いは決して消せなかった。
     ———末長く、お幸せに。聞こえのいい祝いの言葉を言い終えて、声はまるで穏やかだった、けれど心はちっとも休まらなかった。だってノクティスはいないのだから。誰よりかわいく、手がかかり、優しく、高潔だった弟が。友が。王が。イグニスは片方にノクティスを乗せた天秤に何だってかけられた。あれでいていつも公正無私だったノクティスとは違って。イグニスはただの人間だからだ。俗物だ。
     あるじのいない部屋は、何もかも十年前と同じなのに、まるでがらんどうだった。ぐるりへ顔を向ける。光の方向でだいたいのものの位置は掴めた。何も変わらない。ただがらんどうだった。
     扉を閉めてしまうとわからない、扉の下の蝶番の傍には、ノクティスが五つのときに貼ったシールがきっとそのまま残っている。誰も掃除のときに剥がそうとしなかったのだ。新しく入った者も古株から由来を聞いて、見つけてはくすくす笑っていた。当のノクティスはすっかり忘れていたのでなぜ皆が笑うのか首をかしげていたが。理由を話してやったら耳まで赤くして、話してやったのは十四歳のときだった、剥がすと言ったが、侍従たちが思い出を奪わないでくれと言い募るので折れたのだった。思い出を、と訴えた者の中にはつい前の年に入った者もいたが、ノクティスは気づいていなかった。
     上掛けをめくったベッドの裏には蓄光シールを貼った即席のプラネタリウムがある。先に体が大きくなったイグニスは十歳でベッドの下には潜れなくなった。ノクティスは十三歳まで入れたが、十一歳のときには「もう入れない」とうそぶいていた。
     城を出て一人暮らしを始めてからも城に戻ったときは手に取って、そのたび懐かしいとこぼした子供向けの魚の図鑑は本棚に。普段着る用のないレギスからのお下がりの一張羅と若々しいマントはクローゼットの奥に。ノクティスのための紋章が彫刻された金細工と貴石のブローチは鍵付きの引き出しに。いつ城に戻ってもいいように大切なものはそのままに、ベッドや衣服はいつでも手入れされていた。今はもうすべてが埃だらけだ。
     手触りは思い出せる、とイグニスは思った。目はもう見ることはできないが、指はきっといつまでも覚えている。図鑑の角が折れたページのこと、ブローチの石のカッティングのこと。いつか全部手入れをして、そして、もう着ることはないと知りながらひそかに十年持っていたノクティスの婚礼衣装をおさめる場所を探してやろう。いつか。
     そう心に決めてイグニスは、住む者のない部屋を辞した。

    §

     というのを閃くように思い出して、黒歴史というやつだ、とイグニスは思った。
     一夜きりの雪が降ったのだった。局地的なにわか雨のように。局地も局地、インソムニアの王城の中に・・降った。夜半、寒さに震えてイグニスは目を覚ました。四季の変化の激しくないインソムニアだが日が長くなると共に気温が上がりつつあったので、上掛けを薄くしたばかりだった。まさか窓を開け放していたんだろうかとぼんやり思案したとき、まぶたにぴしゃりと何かが当たって、弾かれるように目を開いた。暗闇の中に白く舞うものがあった。
     星だ。そう思った。いや違う。雪だった。跳ね起きて、枕元の眼鏡を取った。眼鏡は回復した視力の扱いにかえって難儀していたところに、帝国製の機械を扱える技師があつらえてくれたものだ。二十年くらい前のものだろうと技師が語ったガラス加工機械の技術はイグニスを唸らせ、医療機器を再現したいのだという技師の言葉に一も二もなく頷いてすぐさま人材を募った。技師の肌も髪も、やはりアラネアやプロンプトと同じく抜けるように白かった。雪の国、とイグニスは思った。あのときは見ることはできなかった。
     雪だった。部屋の中に降っていた。雪だとわかった途端体が寒さに気づいたように、腕と腹の筋肉がぎゅっと震えて縮こまった。十一年前も列車でこんな目に遭ったな、とイグニスは思ってハンガーからガウンを引ったくり、それは大した防寒にはならなかった、さらにベッドから上掛けを剥がし、室内履きにつま先を突っ込んだ。着替えたほうがいいのかどうか、あるいは走る必要があるなら別の靴を。そう思ったとき、扉がけたたましく叩かれた。
     考えている暇はないと、上掛けを丸めて抱え扉を開けると、ノクティスがいた。グラディオラスとプロンプトも、それぞれ当座の寝床にしている部屋からちょうど出てくるところだった。イグニスだけはかつて城に私室を持ったことがあったが、そうでない二人も荒れた自宅を片付けるより拠点を共にしたほうが復興の捗がゆくだろうと城に住むことを決めたのは、一年少し前だった。プロンプトが、ノクトのそばにいたいしね、と言ったのだった。皆同じ思いだった。ノクティスは城のどこにもいないのに。———いなかったのに。
    「シヴァか」
     問うと、青い唇を引き結んだノクティスが頷いた。首元がいかにも寒々しく、開けっ放しのガウンの襟を閉じてベルトを結んでやる。
    「夢に来た」
     夢に来る、とはなんともおかしな言い回しだ。だがノクティスは幼い頃からたびたびそういう言い方をした。夢に来た。夢にいる。夢から出て行った。かつて、ノクティスのそういう話をとにかくまっすぐ聞いてやって、レギスからカーバンクルの由来を聞いて、過去の王たちの記録を書庫から引っ張り出して、イグニスなりに神々と魔力と夢の関係を推論したことがある。ノクティスの夢を見ることがかなわない以上、どうあっても推論にすぎなかったが。イグニスがオルティシエでプライナに見せられたものと同じ類のものなら、潜在意識の見せる夢というよりは、啓示というほうが正しいだろう。闇の十年の間イグニスが繰り返し見たのは、その啓示の焼き直しの記憶だ。特別な夢はあのオルティシエの一度きりだった。イグニスはただの人間だからだ。
    「どこだ?」
     グラディオラスが聞いた。プロンプトは手のひらを脇の下に挟んで跳ねていたが、顔は真剣そのものだった。
    「上!」
     言うなり、ノクティスが駆け出した。
    「だからどこだって!」
    「転ぶなよ、ノクト!」
     イグニスとグラディオラスの声が重なった。プロンプトがノクティスの横に並んでその横顔を覗き込むようにして駆けた。四人の室内履きのぺたぺたいう音が間抜けに響いた。石造りの床に雪が融けて足を取られそうだった。誰が拭くと思っているんだ、と詮ないことをイグニスは考えた。
    「クリスタルの間!」
     叫んだノクティスの腕を取って止まらせると、ノクティスの右の履き物だけが脱げて前へ滑って行った。振り向いたプロンプトが拾って戻り、ノクティスの足元に落としてやる。
    「なら、直通の階段がある。こっちだ」
     踵を返して先導すると、ノクティスが後ろで、はあ? と声を上げた。
    「なにそれ、知らねえ」
    「非常時の通路だからな、知る者は限られていた。それに、レギス様も俺も、お前をクリスタルから離しておきたかったので教えなかった」
     へえ、と他人事のようにノクティスが言った。先ほどより冷静になったようだった。というより、半分夢の世界にいた意識が、完全にこちらの世界に戻ったように見えた。闇の中、神影島から現れて以来、そして神々の慈悲とやらで戻ってからも、ノクティスの目の色には時折人間でないものがよぎることがあって、それを垣間見るたびイグニスは、神は一度ならずかれを奪うのかと怒りと共に背筋が冷えたものだった。朝起こすときためらって静かな寝顔を十分も二十分も眺めずにいられるようになったのは、二ヶ月経って今ようやくだ。
    「さみぃね」
     まつ毛に雪を張り付けて、鼻を赤くしたプロンプトが言った。たしかにその通りだ。壁に同化するような小さな扉をひとつ、狭い廊下の先の扉をひとつ、たどりついた階段にまでずっと雪が降りどおしだった。雪は、雲も空もないのに空間から唐突に現れて降っていた。
    「誰が拭くと思っているんだ」
     今度は声に出た。
    「俺がやるさ」
     しんがりについたグラディオラスが言った。
    「お前にはお前しかできない仕事があるだろう」
    「そっくりそのままお返しするぜ」
    「全員でやればすぐ終わるんじゃない?」
     状況に似合わない気の抜けた会話に、もっと気の抜けた王の一声が終止符を打った。
    「別にいいだろ、濡れたまんまでも。でも、普通の雪じゃねぇから、うまくいけば全部消えてくれるかもな」
     かもだけど、かも。という投げっぱなしのノクティスの言葉にも、今はため息を返すだけにしておいた。室内履きの革から水が滲みてきて冷たい。あとで風呂を沸かそう、皆凍えている。いや、待て、こんな中迎えられる彼女・・のほうがよほど冷え切っているのじゃないか? とにかく、風呂だ、暖かいタオルと着替え、それからスープ。頭の中で算段を立て、腕の中の上掛けを抱えなおした。
    「イグニス、なあ、なんだそれ」
     すぐ後ろを追って昇ってくるノクティスが問うた。
    「ベッドの上掛けだ。俺のもので悪いが」
     なんで? とノクティスがさらに問う。雪に濡れないように上掛けをなるべく小さくして抱え込む。
    「お前が戻ってきたとき、俺は見えていなかったが、一糸まとわぬ姿だった。もし今回もそうなら大ごとだし、お前だって本意ではないだろう」
     ノクティスが裏返った声を上げて、言葉にならないことをごにゃごにゃ言っている間に、最上階に着いた。やばい、しんどい、と息まじりにプロンプトが呟くのを聞いて肩越しに振り返ると、脇腹を押さえてはいたが言葉と裏腹に緊張した面持ちだった。それもそうだろう。ノクティスは何も説明しないが、皆、予感している。帰還を。初めて会うあの人を。
     扉に手をかける。
    「開かないな」
     見れば、壁のあちこちにひびが入り、扉の枠は歪んでしまっていた。
    「そうか。クリスタルが奪われたのだものな……」
    「壊していいもんなら、俺が開けるが」
     グラディオラスの言葉に、頼む、と返して脇によける。進み出て、壁に手をついたグラディオラスが、確かめるように足の裏で二度、三度、かるく扉に触れた。挙げた脚のほうだけ室内履きを脱いだグラディオラスに、怪我すんなよ、とノクティスが声をかける。おう、と短く答えたグラディオラスが、体勢を整え、息を吸い、構え、蹴り抜くと大仰な音を立てて扉は向こうへ倒れた。
    「うーわ……」
     プロンプトの声は扉の末路と、開いた先のいっそうの雪、その両方へ向けられたようだった。
    「すげえな、こりゃ」
    「急ごう」
     廊下に出ると、あちこちに襲撃の跡が生々しく残り、打ち捨てられたまま朽ちた遺体もそのままだった。帝国兵も警護隊も。骨になっているものもあったし、まだ息があっていずれシガイになったのだろう、鎧だけが残されたものもあった。
     城に住みだしてから、すべての階を見てまわったわけではなかった。城は広く、自分たちには時間も、余裕もなかった。城は資料を漁り、人を招き、ものごとを決め、当座の暮らしを送るのに都合がよかっただけだ。それに、そこにはもういないノクティスのそばにもいることができた。およそ一年が経ってノクティスが戻ってからは当然ここはかれの生家なので、暮らし続けるのは普通のことだった。
     だが、この十年誰にも顧みられることのなかった朽ちた肉体の下で、自分たちは眠り、飲み、食い、過ごしていたわけだ。闇の十年の間に倫理観も感情もずいぶん鈍くなったものだったが、さすがに堪えるものがあった。イグニスの後ろでノクティスがああ、と息をついた。
    「どうにかしてやらねぇと」
    「ああ。暇を見て弔おう」
     ノクティスの言葉に答えてイグニスは言った。暇を見て、というのが、薄情なようだが今できる精一杯だ。ノクティスを見ると痛ましげに眉を寄せていた。誰の悲しみも己の悲しみのように悲しむ。それがノクティスだ。肩を叩いてやると、頷いて歩み出した。
     クリスタルの間の扉は開け放たれていた。扉どころか、天井も壁も。帝国はずいぶん乱暴に奪っていったようだ。クリスタルは今もグラレアに置かれたままだ。誰も取りに行けない。ノクティスが行かないことには、まだそこに魔法の力が働いているのか、たんなる巨石に成り果てたのか、ただの人間が触っても何事もないものか、何もわからない。だがグラレアへの交通網は絶えたままだ。いずれ、とイグニスは思う。眼鏡を作ってくれた技師のように、役立てたい技術が眠っている土地でもあるだろう。ニフルハイムへ望郷の念を募らせる者も、あるいはあらたに移り住みたい者もいるだろう。いずれ。いずれだ。
     いっそう吹雪くクリスタルの間の中へ、ノクティスが進み出た。ガウンの裾が煽られてはためく。三人は後ろからそれを見つめた。
    「ゲンティアナ」
     ノクティスが呼びかけると、聞き取ることもままならない声があたりに響いた。シヴァだ。ノクティスが静かに笑う。
    「ああ。どうもな」
     一歩、もう一歩進み出る。神と言葉を交わすノクティスに、イグニスの背はまた冷えた。いいや、また奪われるということはない。むしろ今は与えられようとしているのだ。彼女をもう一度。神が人に抱いた稀有な、かけがえない友情のもとに。二千年にわたる禍根の最後の生贄への神々のせめてもの精算だ。
     吹雪の中心、かつてクリスタルが安置されていた場所に、ノクティスが手を伸ばした。その刹那、どう表せばいいものか———吹雪が形をなして同じく手を伸ばした。逆回しの映像のようだった。そうして、四方から氷の砕けるような音が響いたかと思うと、彼女がそこにいた。ルナフレーナが、ノクティスの手を取って。
    「ルーナ」
     彼女が声なく微笑んだ。隣でプロンプトが息をのむのが聞こえた。イグニスもまた瞠目した。グラディオラスは寒さのせいでなく震えていた。
     何もかも十年前、オルティシエで見た彼女のままだった。その面差し、頬の張り、濡れた髪、破れて血の滲んだ白いドレスも。違うのは頬にさした赤みと開いたまぶただった。そのまぶたが震え、一度閉じ、二度閉じ、揺れて、下のまつ毛の先にみるみる涙が膨らんで今にも落ちそうなのに耐えていた。
    「お会いしたかった……」
     俺も、と答えたノクティスの声は声にならずに口元の空気を揺らすばかりだった。吹雪はいつの間にかやんでいた。二人が取り合った手を強く握ったのが、指先を白くしたのでわかった。
    「話したいこと、いっぱいある」
     ノクティスが震える声で言った。ルナフレーナが頷き、そのまま顔を伏せて、目を閉じ、こらえるように息をつめてから、かぶりを振って、とうとう声を上げて泣いた。いつでも気丈に背筋の伸びていたあの慈しみ深い神凪のこんな姿をいったい誰が見ただろうか。自分たちが見ていいものとも思えなかった。ノクティスは抱きしめるでもなく、両の手を取り合ったまま、額を合わせるように体を寄せて、おそらくやはり泣いていた。かれらは引き剥がされて離れていた半身だった。
     プロンプトは声を出さないように口を押さえてしゃくり上げていた。グラディオラスは今にも跪きたいという敬虔な顔をしてまっすぐ立っていた。イグニスはというと、上掛けを抱えて、突っ立っていた。
     長い息を吐く。そして、黒歴史というやつだ、と思った。死んだノクティスの寝床に向かって、死んだルナフレーナとの結婚を祝う言葉を述べた。恥ずかしい真似をしたものだ。けれどもあのときはそうでもしないと耐えられなかった。ノクティスが恥ずかしがるのでなかなか進まなかった婚礼衣装のあつらえも、晩餐会のために教えたワルツも、誇るべき王妃にかけるべく用意していた言葉も、何もかも幻になってしまったのだから。だがもう違う。黒歴史万歳だ。ひとつところに留まっていたのなら、それは恥ずべき過去にはなってくれない。俺たちは歩き出した。歩き出したんだ。
    「お寒いでしょう、ひとまずこんなもので申し訳ないが、どうぞこれを」
     歩み寄り上掛けを差し出すと、イグニスを見てルナフレーナは、ああ、と声を上げた。旧知の友を見る眼差しだった。それからグラディオラスとプロンプトを順に見た。初めて会うのによく知っていた。お互いに。ルナフレーナが息をついて微笑んだ。春の雪の中に花がほころぶようだった。
     忙しくなる、とイグニスは思った。喜びと共に。

    §

     それからひと月、イグニスは「忙しくなるぞ」と言い通しだった。はじめは嬉しげに同意した旧友たちも面倒になったのかいずれ返事をしなくなった。いつだか、調味料について熱っぽく語ったら遠巻きに見られたのを思い出す。ルナフレーナだけがいつまでも「そうですね」とにこやかに答えてくれたが、ルナフレーナが答えてくれなくなる日をイグニスは恐れたほうがいいのかも知れなかった。ルナフレーナの暮らしの手はずを整えて、王に続いての神凪の帰還の報を打ってからは、政治に精通しどこへでも交渉へ出て行こうという意気のルナフレーナの返答は「もう忙しいですよ」と変わったので、たしかに、イグニスは恐れるべきだった。
     だが、本当に忙しくなったのはそのもう少し先だった。各地でインフラ整備のための情報収集にあたっているプロンプトがある日、どこ言っても聞かれるんだよね。結婚式はやらないんですかって。と言ったのだった。
     誰の? と聞いたのは当のノクティスだった。プロンプトは大げさに非難するような驚いた顔をして、それで、忙しくなったのはそれからだ。二人に近い面々は日が経つごとにあらゆる場面で、結婚式はやらないのか、と尋ねられることが多くなりはぐらかしていたが、とうとうある日、ひそかに街に下りたノクティス当人が市民たちにそう尋ねられ、そんなことをしている状況じゃないだろうと答えたら、こてんぱんに言い負かされて帰ってきたのだ。われわれの復興のともし火になるべきはそれのみだ、今こそ、と。グラディオラスに稽古で手も足も出ず負かされて帰ってきた日でもあんなに虚脱していたことはない。とぼとぼと近づいてきて、どうしようイグニス、と言う様子は昔広間の絵に傷をつけたときなんかとちっとも変わらなかった。
     そうして結婚式をやることになった。謁見の間の壁に空いた大穴はそのままでいいだろう陽が入る、装飾はノクティスが生まれたときに作られた紋章旗をそのまま使えばいい、あとは花を少し、インソムニアの街頭ビジョンとニフルハイム製の携帯ビジョンを改造したものが各地に出回っているというのでそれ用のカメラが一台入る、あとはラジオの中継にリポーターが一人小声で喋るそうだ、謁見の間で宣誓の儀式をして大階段から広場に出たら市民が待っているのでそれぞれスピーチをしたらそれで終わりだ、全体になるべく簡素に、ノクトの婚礼衣装はそのまま残っているのでフィッティングさえすればいい、ルナフレーナ様のドレスは……俺が作る、形は覚えているから、女性物の服を作るのは初めてのことだがまあなんとかなるだろう、ルナフレーナ様採寸やら何やら諸々ご無礼を働きますが先に謝罪しておきます、お許しを。という具合に。
     めまぐるしかったが充実していたし、イグニスはそれまで以上に「忙しくなるぞ」と言っては不興をかった。
     それから、式の前日の朝になってノクティスが、今度は踊りを覚える必要はないよな? とこわごわ聞いてきた。式の後にシドやコルを呼んで食事の席を設けるが、そこで誰か興に乗ればありえないともかぎらない、と答えると大ムカデに会ったような顔をした。俺よりもグラディオに教わるべきだと追いやったら、あんなにでかい花嫁がどこにいるんだよ、とかぶつぶつ言いながら出て行った。
     それよりもっと遅くになって、夕方やってきたのはルナフレーナだ。何も心配はないとすっかり気が大きくなってしまっていたのですが、もしや宴席で踊ることはあるのでしょうか……と言う瞳は雄弁に語っていた。どうかいいやと言ってくれと。やはりグラディオラスのもとに追いやった。ノクティスが踊れないのは腹に一物持つ者たちの集まるパーティーの類から遠ざけられて覚える必要がなかったせいだが、十六の頃から神凪の務めに駆け回っていたルナフレーナが踊れるはずもまたなかった。
     付け焼き刃の稽古を終えたルナフレーナは夕食の後に、グラディオラスさんは驚くほどいい匂いがいたしました、と耳打ちしてきた。今思えば兄は朴念仁だったのですね、とも。イグニスは、レイヴスがルナフレーナの亡骸に向けて言った言葉を教えてやろうかどうか逡巡した。いや、もしかしたらルナフレーナは聞いていたかも知れない。告げるにしても、明日でいいだろう、きっと。束の間道を共にした傑士を思い起こしてイグニスはその妹に笑みを向けた。
     前夜は、誰もが胸を高鳴らせながら、穏やかだった。
     式のことは何を語ろう。概ね計画通りだった。ノクティスとルナフレーナは儀式の前に玉座で二人きり、まどろむように寄り添っていた。遠巻きに見ていると、ラジオのレポーターが抑えた声で、神聖ですね、と呟いた。振り向くと、彼女の眼差しはイグニスでなく、玉座へまっすぐ畏怖するように向いていた。イグニスも玉座へ向き直る。たしかに神聖だった。だがこれは、神のくびきに繋がれた血が初めて人間になる儀式でもある。血を絶やすための結婚だ。死ではなく結婚を以って血を絶やす。今日はそれを祝う日だ。
    「祝おう」
     イグニスが言うと、レポーターは玉座の二人に見とれたようにため息をついた。
     玉座から立ち上がり階段を降りてくる二人に歩み寄る。
    「ここで人と会うの、やっぱなしな。エッケン」
     ノクティスが言うので首をかしげて促すと、先ほどまでの神聖な様子はどこへやら、ノクティスは肩をすくめてみせた。
    「ここで親父に会うの嫌いだったけどさ、遠くて、なんかよくないだろ。俺はもっと近くで顔見て話したい。椅子も硬くて冷てぇしさ。親父、尻寒くなかったのかな?」
     聞きながら、イグニスもルナフレーナも笑いが漏れた。
    「止めたって、お前はそうするだろう。今だって勝手に街に下りて市民と話してくる。お前の即位も、この結婚式も、その賜物だ」
     お尻が寒くていらしたかどうか、後でレギス様にお尋ねしましょう、とルナフレーナが言った。ノクティスとルナフレーナだけが笑う、二人にしかわからない類の時にどぎつい(死や神にかかわる内容のせいだ。グラディオラスは聞くたび卒倒しそうな顔をしている)いつもの冗談かと思ったが、イグニスにはわからなかった。
    「そろそろだ。準備は?」
     肩にカメラを担いだ青年を連れて、グラディオラスとプロンプトが寄ってきた。
    「メテオ・パブリッシングの者です」
     青年は頬を紅潮させて王と神凪に握手を求めた。
    「テレビ放送も始めたのか?」
     そうなんです、と答えて青年は若々しい一礼をしてレポーターのほうへ足早に駆けていった。タルコットと同い年くらいだろうか。青春期を闇の十年の中に過ごした世代だ。よく生き残ってくれたものだ。
    「お前が撮るんじゃないのか」
    「いやあ、そうしたかったんですけど、俺は今日、王様の騎士ですから」
     プロンプトはそう言って真似ごとの敬礼をすると、王様と王妃様の、と言い直した。ルナフレーナが帰還した日、プロンプトは何かくしゃくしゃの封筒を少ない私物の中から持ってきて、ルナフレーナと何やら話し込んでいた。始めから終わりまで泣きながら。個人的な話だと思い聞かなかったので何を話していたかはわからない。ひときわ高い声でプロンプトが、二人が俺を人間にした、と言った以外は。
    「始めよう」
     そう言ってイグニスがレポーターとカメラマンに片手を挙げると、二人は遠くから頷き返した。イグニスは玉座に背を向けて立ち、プロンプトはそれより少し下がって旗を掲げ、グラディオラスは剣を捧げ持ち玉座に向かって跪いた。そしてノクティスとルナフレーナはその中心に向かい合って。
    「プロンプト。服、ちゃんと着れたな」
     ノクティスが唇をほとんど動かさずに言った。プロンプトは片方の眉を吊り上げただけで取り合わなかった。式が決まってから懸命にジョギングしていたことは秘密にしておいてやろう、とイグニスは考えた。
     この服にはもう二度と袖を通さないものとイグニスも思っていた。王の剣の衣装。これに身を包んで、王として死ににゆくノクティスを見送った。だがあの日とは違う。日は高く、晴れ渡り、誰もがあのカメラマンの青年のように頬を赤くして喜んでいる。レポーターが状況を伝え始めた抑えた声がさざめきのように聞こえた。
    「星にまします神々の御名の下に」
     イグニスの声がアーチをえがく広間の天井に反響した。ノクティスの眼差しが静謐なものに変わってルナフレーナを見つめた。ルナフレーナもまたノクティスを。
    「ここに婚礼の宣誓を為す。旗が、書が、剣が立ち会い見届けよう。あなたがたは互いを妻とし、夫とし、そして旗を、書を、剣を握る手となる。誓え。そうして星と聖石の祝福を請え」
     二人が手を取り合った。彼女が戻った日と同じように。
    「ノクティス・ルシス・チェラム。あなたを私の夫とする」
    「ルナフレーナ・ノックス・フルーレ。あなたを私の妻とする」
     そのとき、その場にいた全員が息をのんだ。二人を除いて。手を取り合った二人を光が包んでいた。むしろ、二人そのものが発光しているようにも見えた。雪のように。稲妻のように。あるいは流星。あるいは水面。あるいは火。そしてあるいは、イグニスたちにも分け与えられた魔法の片鱗が発露するとき、武器を呼び出し空間を超える、命が砕けるあのきらめきのように。
     これは神々と星の祝福か、王たちの福音か、あるいは魔法の断末魔だろうか。レポーターの伝える声が聞こえる。カメラのレンズが身じろぎもせずにこちらを捉えている。人々は見るだろうか。聞くだろうか。魔法の国の血の鎖に終わりを告げる、この無二の美しい、神々と魔法の最後の顕現、幻の光を。
     光は次第に鈍くなり、鱗粉のように静かに散ってただ消えた。あとには人間が残った。もはや神の奴隷ではないノクティスとルナフレーナが。たしかなこの世の光が。
     人々は見ただろうか、聞いただろうか。幻の光を。
    エイゲル博士説いて曰く
    「はっはーなるほど君ってやつはなかなか繊細な感性の持ち主なんだなあいやわかってた、わかってたよ、これはね長らくいろんなハンターくんたちにも言ってたことなんだけどね、繊細さってのは何も恥ずべき特徴じゃないんだよ知性ある生き物が身を守るために身につけたアラームってやつさ、これがなかなかハンターくんたちには受け入れられにくくてねえ、肉体の強さを求めると自分の弱さを許せないっていうの? 厳密には弱さじゃないんだけどね、痛みにいち早く気づいて対処するってのは命を守る最善最速の方法だからね、そこを履き違えちゃいけない! あと弱い個体のいない群れは早く滅びるからね、そこんとこ注意だ、で、なんだっけ? そうそう、そうだ、君の話だった。端的に言うとね、君のその反応は心的外傷後ストレス障害だ。知ってる? ああ、知ってる。さすがにインテリだね、話が早い。トラウマ、ってやつだね、君は深く傷ついた。深く傷ついたんだ」
     一体いつ息継ぎをしているのだか、サニア・エイゲルはまずそこまでほとんど一息に、グラディオラスに一切の口を挟ませることなくまくし立てた。そして手元の汗をかいたグラスからエーギルが隠し味とかいう誰かさんが聞いたら飛び上がって逃げそうなカクテルをひと口飲み、あのなサニア、と口を開こうとしたグラディオラスの口をまた閉じさせる勢いで話を続けた(実際グラディオラスは一言も発せなかった)。
    「でだ、君には行動療法が合っていると私は思う。うん、そう思うね。アンガーコントロールっていうのは知ってる? 君は軍人だから似たような訓練はやるか、爆発音に対する反応を抑える訓練とかね。行動を繰り返すことで対象への反応をコントロールするってやつだ。経験があるならなおさら結構、つまり私の提案はこうだ、君が王様を喪った過去の経験によって恐怖や躊躇にとらわれる瞬間がある、その心的外傷を回復するにはつまり、私の提案は、ああ同じことを二回言っちゃったね、結論にたどり着くまでに回り道をするって癖があるのは自覚してるんだ、で、つまりね、王様がたしかに生きている・・・・・・・・・ってことを強制的に身体に認識させればいいんだ。だからね、毎日、王様にハグをすべきだ、君は。それが君の行動療法。処方箋いる?」
     はあ!? という大声にバーの客の何人かが振り返った。バーテンは大したもので眉ひとつ動かさなかった。王様にハグ? 毎日? それをどうやって説明して行動に移すってんだ、とグラディオラスは思ったが、サニアはもう、王様が生き返ったっていうのもさ、生物的にも物理的にもあらゆる天地の法則に反してるよね、そもそも魔法って体内のどこで生成されてる力なのか君、何か知ってる? 一度採血させてもらえないかな?人助けだと思ってさあ、と次の議題に夢中だった。
     不思議だ、とグラディオラスは思った。不思議だ。サニアが、そのグラディオラスのトラウマによる「繊細な」反応についての話を、そのかん口を挟まずに最後まで聞いてくれたことが。
     近年のサニアは、学者としてますます才名を馳せ、比例して、興味のあることがらへのお喋りがますます絶えない。立て板に水どころではない、滝のようだ。サニアと議論を交わす(受ける、ではなく交わす、だ)ことができる自負があったグラディオラスも、最近は押されがちだ。
    「王家の血は」
     グラディオラスが言うと、一転、サニアはぴたりと黙った。前言撤回だ。話を聞いてくれたのは別に不思議ではない。興味のある話への彼女の好奇心はそれこそ水の尽きぬ滝のようで、それは尊敬に値する。その興味を引ける話ができているのなら光栄だ。
    「王家だけのものだ。何にも転用はできないし、させない。それもノクトで絶える。実験はなしだ」
     なるほど、だねえ、と頷いて、サニアは何やらぶつぶつと考えながら呟いた。
     王家の血は絶える。本来、少し前に絶えたのだ、一度は。ノクティスが死んで。
     だがノクティスが甦って、次いでルナフレーナも戻り、かれらはそれを神々の慈悲めいた気まぐれだと皮肉っぽい説明をしたきりだったが、ともかく、自分たちは喜んだ。大いに。それから今さらルシスに王はいらないだろうと固辞するノクティスが市民たちに押し切られる形で王位につき(インソムニアではデモまで起きた。忙しいのに)、そして、しばらくしてからノクティスが公務の合間、「王家は絶える」と言いに来た。
     王家は絶える。ルナフレーナとは子供を作らない。そもそも、試みても自分たちの肉体はもうそれ用・・・ではないので子を成さないだろう。そうしたいとも思わない。ただ共に生きようと思う。ついては、自分たちの死あるいは退位ののち共和制へ移行するよう取り計らってほしい。
     そういうことを、訥々と、相変わらずの口下手ぶりで、しかし真摯に告げに来た。
     イグニスの返事は早かった。わかった、そのようにしよう。考える。と言って、言葉通りまさしくすぐに忙しなく考えているようだった。いつも通りだ。一にも二にもノクティスがあり、ノクティスのための最善を常に考える。もちろん、それは自分も同じだ。グラディオラスと、イグニス、プロンプト、自分たち三人の魂の真ん中には、太い杭のように、ノクティスという存在が刺さっている。誰の手を以ってしても抜けないだろう。もはや魂の半分なのだから。だが、グラディオラスとイグニスのありようは違う。
     グラディオラスはそのとき、ノクティスとルナフレーナの決断に少なからず衝撃を受けていた。アミシティアが代々仕えてきた王家が絶えることへの動揺だ。代々仕えたのはスキエンティアも同じだろうが、イグニスは王家よりスキエンティアよりノクティス個人を優先するきらいがある。立場上も、個人としてもだ。グラディオラスはむしろ、王としてのノクティス、盾としての己を優先させてきた。立場上も、個人としても。そのことはかつてたびたびグラディオラスを苦しめたが、それでも家にも己にも誇りがあった。
     闇の十年の間に、いまだ記憶に鮮やかな出来事があった。出来事それ自体は大したことのないものだったが。王の剣の衣装ができあがってすぐ———グラディオラスは王を迎えるときに王の剣の衣装を着ることに最初は強く反対した。造反者を生んだ組織だという思いが拭えなかったためだ———プロンプトが十年前の旅立ちの前とちょうど同じように、緊張する、こんな服、と言うので、衣装に負けねえようにそれなりの立ち居振る舞いを教えといてやろうか、王の騎士らしいやつを。と言ったのだった。親切心だった。
     だがプロンプトは、うーん、と首をひねってから、いいや。と言った。いいや。俺、ノクトの部下じゃなくて、友達だからさ。グラディオにしか、イグニスにしかできないことがあるみたいにさ、俺はずっと絶対ノクトの友達でいないと。俺の場所、そこだから。そう言った。
     なんてことのないやりとりだ。なんてことのない。だが、なぜか記憶に残った。そうしてそれからノクティスが死んで、亡骸は玉座になく、ただ死んだということだけがわかって、ああ、行ってしまった、と思った。その後でふと思い出されたのだ。プロンプトは、友達だからさ、と言った。では俺は何だったのだろう。ノクト。ノクティス。俺は一体お前の何だった。盾か、ではなぜ王は一人自分を残して逝った。友か、ではなぜかれが震える脚で立つとき寄り添って手を貸さなかった。俺は誰だ。俺は。
     ノクティスがクリスタルに呑まれてから、死んでから、そして今甦ったのちも、自問している。答えは出ない。きっかけはたしかにノクティスが死んだときだったように思う。そのとき濁流のごとく押し寄せた感情に呑まれてそれ以来溺れ続けている。かれは帰ってきたのに。つまりそれが、サニアの言うところの、心的外傷後ストレス障害、というやつなのだろう。
    「おっと、もうこんな時間だ」
     サニアの声でグラディオラスは物思いから引き戻された。時計を見るとまだ九時だった。
    「まだ宵の口だぜ」
    「明日早いんだ、四時から調査でね、朝にしか観測できないんだから」
     ご苦労だな、と言うと、ご苦労だよ! とサニアが答えた。つい笑う。
    「まあ、しばらくは引き続きインソムニアでフィールドワークだ、王様にも会うよ明後日か? 明々後日だったかな、まあいいや、それじゃ、お先に失礼!」
     言うが早いかサニアはとっとと荷物を持って席を立ってしまった。バーテンに早口でタバスコを使ったカクテルが良かったと言いながら言い終わらないうちに店を出た。慌ただしいのは何年経っても変わらない。
    「王様にハグ、ね」
     サニアの提案を思い返してグラディオラスは一人笑った。せっかくの提案に悪いが、そのセラピーはできそうにない。恐れながら陛下、かくかくしかじかでついては毎日ハグさせてくれ、なんて、ぞっとしない。無理だ。無理無理。

    §

    「やあーっ王様、見違えちゃって、立派なもんだね、お元気そうで何より! どう? いやいや元気そうだ、そうそう、環境報告のレポートだけどね、一足先にあのメガネのかれに渡したからね、ちょーっと分厚くなっちゃったから要点だけでも結構、かるーく目、通しといて。なかなかおもしろいもんに仕上がったからさ、おもしろいってのは学術的見地からね。生態系の保持と回復への糸口も見えてきたってとこだね、この先に乞うご期待だよ。あっ、あーそうだ、そういえば、アミシティアくんの行動療法には協力してくれてる? 私は心理学者じゃないけどね、そういうことに苦しめられるハンターくんたちは少なからず見てきたわけだ、だから経験上、君みたいなタイプには行動療法が合ってるっていう自信はある。もちろん安易なタイプ分けじゃない、行動の反射なんかの統計に基づいてるよ、あいにく最新のデータじゃないけどね、ま、どうかな、ハグは順調?」
     サニアの謁見に向かう時間が諸般の事情(主にイグニスがサニアの弁に口を挟めなかったことによる)で予定より早まったせいで、本来予定されていた謁見の場である執務室へ移動中だった王とその盾に早々追いつき、結果、謁見の場が渡り廊下の隅っことなり本来同席しないはずだった盾が巻き込まれることとなったのは、まこと不運と言うほかない。
     そして、
    「ハグ?」
     どうにかというふうに、ノクティスが言った。それを受けて、サニアはこれ以上ひらけないというくらいに目と口を開いてみせ、
    「まさか、あーなんてこった!」
     と言ったあと大きく息を吸い(サニアも息継ぎをするのだなとグラディオラスは思った)、ことの顛末を洗いざらい、サニアの主観的意見と学術的見地とやらと交えつつ、ノクティスにぶちまけた。グラディオラスはというと、ぼんやり大木のように立ち尽くすしかなかった。口を挟めば状況が悪化することだけはわかっていたからだ。それから、この話を公にされるのはグラディオラスにとっては恥ずべきことだが、ノクティスがそれを決して笑わないということも。
    「……ハグ」
     聞き終えて、数分前と同じせりふをノクティスは言った。それからグラディオラスへ向き直った。お前の話を聞こう、というふうに。グラディオラスは天を仰ぎ、観念し、息をついてから言った。
    「……ハグは、あくまでサニアの提案だ。それを必ずしろって話じゃない」
     サニアが口を開こうとするのを人差し指を立てて留めた。待てをくらった犬のようにサニアは口をつぐむ。上出来だ。これが軍人のコミュニケーションというやつだ。
    「俺の問題なんだ」
     静かに言った。ノクティスはグラディオラスをひたと見つめている。にぶい青の虹彩は静謐な泉のようだ。勝気な青年だった頃から、いやそのずっと前、優しいばかりの少年だったときも、そこには王たる者しか持ち得ない光があった。今も。
    「サニアに話したのは、いわば与太話だ。与太話たってもちろん嘘じゃあないが、お前のせいだとか、お前に何かしてほしいとか、そういうのじゃ」
    「グラディオ」
     さえぎってノクティスが呼んだ。瞬間、気圧される。声は静かで、穏やかだ。ノクティスは続ける。
    「お前の問題だ。……グラディオ。なら、お前はどうしたい。何をしたい」
     そう言って、またグラディオラスを見つめた。少しだけ目を細めて。真実しか許さないという目つきだ。この目は、王として帰還して初めてノクティスが手に入れたものだった。二十歳の頃には持ち得なかった。
    「俺は……」
     逡巡して言い淀んだ。何を言うべきか。真実を? 真実とは何だ? 俺は、誰だ。俺は。
    「俺は、……お前の……お前に、お前が許すなら、……忠誠を誓いたい。永遠の忠誠を、跪いて」
    「俺が許さないと思うのか」
     ノクティスの語気がわずかに強くなった。とっさにかぶりを振る。友情を疑うわけでない。信頼を疑うわけでない。ただ。
    「お前を守れなかった。俺は」
     声がみっともなく震えた。視界が歪む。だめだ、それだけは、ノクティスの前では何があっても泣くまいと決めて生きてきたのだ。だめだ。
    「グラディオ」
     ノクティスがふたたび呼んだ。手を取られる。温かい。生きている。生きている手のひらだ。
    「守ってくれただろ。いつでも。お前より俺を守ったやつなんていない」
     喉から不随意の唸り声が出た。だめだと思うのに、熱い涙があとから頬を転げ落ちた。耐えきれず手のひらで顔を覆う。すぐに手のひらがびしょびしょになった。涙を止めようと長い息を吐くのにきれぎれになって震えた。
    「跪く必要なんてないだろ。お前は俺の盾だ。ずっと」
     ノクティスの言葉は福音だった。その福音に押し流されるように、いつか押し寄せた濁流が、また渦を巻いて引いてゆく。呑まれる。感情のコントロールが利かない。だがもう溺れない。きっともう永遠に。俺はもう二度と溺れない、この言葉があるかぎり。
     グラディオラスは子供のように何度も頷いた。安心したように、ノクティスの手がするりと離れた。
    「で、なんだっけ、ハグ? ハグセラピーか?」
     笑った声でノクティスが言った。サニアが短く相槌をうつのが聞こえる。顔を覆った指の隙間から見える午後の陽が眩しい。
    「ん」
     短く言われて顔を上げると、ノクティスが両手を広げて、どうだと言わんばかりの顔をしていた。苦笑する。息を吸い、咳払いをし、
    「では、恐れながら、陛下」
     抱きしめた。
     もう軟弱だとからかうことはしないが、相変わらず太らない、華奢な体だ。生きている体だ。背にまわした手のひらに、鼓動が伝わる。この頼りない肉体に高潔な比類なき魂が宿っている。
     一度は消えたその肉体も魂も、王と王妃の言うところの「慈悲めいた気まぐれ」によって、こうして帰ってきた。どんな運命を課されてもなお、六神を厚く信仰するグラディオラスは天に唾することはできず、それもまた苦しかった。そうした苦しみが今、ほどけて消えてゆくようだった。
     腕がひとまわりしてしまいそうなこの体は生きている。俺に永遠の忠誠を許して。
     かつてふざけてじゃれ合うようなことはあっても、こんなふうに抱きしめるのは初めてだった。離しがたく感じた。これが俺の王。最後の王。真の王だ。
     あら、という微笑みの混ざる呟きと、聞き慣れた部下たちのブーツの音が聞こえたのは同時だった。そして即座に身を離そうと思ったが、ノクティスを引き剥がすわけにいかないので、またグラディオラスは立ち尽くすだけだった。大木のように。
     あーっ、と部下の一人が叫んだ。何があーっだ。いつも何かと大騒ぎするあいつは、ニフルハイムの北端の小さな村から来たやつだ。レスタルム出身のやつと、生まれた土地で得意な気候が違うとかで暑いだ寒いだ言ってよく張り合っている。
    「あーっ! 王様! 隊長! あーっ、あーっ! あっ王妃様! ああーっ!」
     まるでいかがわしいものを見たように、あーっあーっと部下が叫び続けるので、グラディオラスは、殴ろう、と思った。今は両陛下の御前なので、のちほど。のちほど殴る。
     胸のあたりで空気が揺れてノクティスが笑っているのがわかった。体を離す。
    「失礼を、ルナフレーナ様」
     先ほど、あら、と言ったのと同じ調子でルナフレーナは、いいえ、と答えた。木漏れ日のような微笑みだ。命と引き換えに人を癒し続けたこの人には、俺のちんけな傷も何もかもお見通しかもしれない。
    「なんだよ、あーって。浮気現場でも見たみてぇに」
     笑いながらノクティスが言った。部下は先ほどよりいくぶんおとなしい声で、まだ、あーっあーっと騒いでいる。
    「有能なやつを雇ったつもりだったんだが、すまん」
    「王はあまねく民のものですから、浮気ではありませんねえ」
    「それ、貞操観念的に、やばくないか?」
     ルナフレーナとノクティスのやりとりは、冗談だか本気だかわからないときがしばしばある。こないだなど、広間の大理石の床の模様が死後の世界の風景に似ているとか言って二人でくずおれんばかりに大笑いしていたが、まったく笑えない。その冗談で笑えるやつは神を除けば世界にかれら二人しかいないんじゃないか。二人まとめて叱り飛ばせばよかったと今になって思うが、時すでに遅しだ。
    「ご挨拶が遅れました、エイゲル博士。よければ今晩食事にご招待したいのですけれど」
    「ああ、残念、今日はインソムニアのフィールドワーク最終日ってことでお城に寄ったんで門のとこに荷物を預けててもう夜の船に乗るんです、また半年、いや一年後かな、まあちょっとしたら経過を見にこっちに来ますから、そのときは予定をばっちり空けておきますからね、お願いします、あっ食事に伺う服ってこんなでも大丈夫かしら?」
     もちろん、とルナフレーナが力強く頷いて言った。やっぱりサニアは息継ぎをしない、とグラディオラスは思った。
    「門まで送ろう」
     短く礼と別れの挨拶を言ったサニアはもう踵を返して歩き出した。せっかちなことだ。さて、サニアを送る前にちょっとした一仕事、とグラディオラスはすいと視線を部下たちへ向けた。瞬間、部下たちは一斉に気をつけをして口をつぐんだ。人差し指を立てるまでもない。これが軍人のやり方だ。のちほど殴るが。
    「では、両陛下、失礼」
    「おう」
    「息災をとお伝えください」
     微笑み、一礼して、場を辞した。午後の陽は夕刻にさしかかって色を変えはじめている。美しい午後だ。毎日、日ごと、陽が照る日も陰る日も、昼も夜も、おしなべてかけがえなく美しい。
     グラディオラスに比べ歩幅の狭いサニアにはすぐ追いついた。歩調を緩め、並んで歩く。
    「いい日だね」
     サニアが言った。
    「いい日だ」
     グラディオラスは答えた。いい日だ。今日もまた、かけがえなく。
    落日
    「ノクト」
     中庭の片隅に腰掛けた背中に声をかけて振り向いた顔はまるで、まだ十かそこら、寂しさを隠すすべをすっかり覚えて、度重なる襲撃から内気さを増し、心を開くやり方を忘れてしまった頃のようだった。面差しは、神々に奪われた十年と少しの間にすっかり精悍になったというのに。その変化の道筋を垣間見ることはできなかった。もちろん、側にいてもイグニスには見ようもなかったが。
     ともかく、不意を突かれたように振り向いた顔は、所在ない子供のようだった。陰り始めた陽の中では、王の慈悲で戻った片目もちらつくように見えにくい。
    「どうした」
     問うと、はっとしたように身じろいで、いや……とノクティスは呟いた。花壇のふち、ノクティスの隣、狭い空間に寄り添うように腰を下ろす。
    「いいのかよ、さぼってて」
    「呼びに来たんだ。早めにな。雑談くらいの時間はある」
    「さすがイグニス」
     笑って言う目元にはわずかにしわが寄った。十余年前にはなかったものだ。レギスによく似てきた。だが、父親の眼差しに常にあった深い悲しみと怒りはない。かつてこの青い目にあった焦燥も歯がゆさもない。だが、瞳はしばしばノクティスであってノクティスでなかった。神に深く触れたせいなのかも知れない。それが今は、帰れない子供のようだ。
    「どうしたんだ」
    「何が?」
     イグニスは小さく息をついた。笑ったと思ったのか、ノクティスは眉を寄せる。
    「昔よりは隠すのが上手くなった。お前と話して不安になる者はいないだろう、王らしくなったものだ。だが、俺の前では無意味だし、必要もない」
     ノクティスも息をついて、諦めたように笑いまじりの声で、あっそ、と言って頭を垂れた。
    「十年ってさ……」
     うなだれて折れた首の骨が浮き出ているのをイグニスは見た。太らせなければ、と思う。ノクティスは戻り、民衆に押し切られるように即位して、それから絶え間なく激務だ。
    「俺には、終わらないけど一瞬みたいで、夢っぽくって」
    「悪夢か」
    「超悪夢」
     ノクティスが頭を上げて、中庭の向こう、低い陽にかかる雲を見た。隣からは長い前髪に隠れてうかがい知れない。口元はぽかんと表情が削げ落ちている。
    「戻ってきたときはさ、その、今回じゃなくて、前の。ときは、十年ってマジかよとは思ったけど、俺が全部やってやるって、待ってろって思ってたからさ、そんなんどーでもよかったんだけど。それで俺は終わりだってわかってたしさ。でも、今、こうやって、戻って来れて、なんつーか、放り出されたみてーな……」
     感情を抑えるようにこわばって強かった声はだんだんと細く小さくなった。
    「俺だけ、ないんだ、十年」
     からっぽみてぇ、と言った唇は少し震えてきつく結ばれた。
     イグニスは手を伸ばして、ノクティスの目にかかる前髪をよけてやった。予期していたわけでもないだろうに、驚きもしなかった。ノクティスもイグニスに目を向ける。目玉に涙が薄く張って揺らめいていた。
    「ルナフレーナ様には」
    「言わねえ。ルーナも、同じだし。言わなくてもわかってる」
     そうだな、と小さく答え、イグニスは胸を締め付けられるように悲しみを感じた。
    「イグニス。俺って人間なのかな」
    「そうでなかったらそんな感情を持つか? あの無慈悲な神々を思い出してみろ」
     力の抜けたような顔でノクティスが笑った。だな、と言って目を伏せる。長いまつ毛が頬に影を落とした。
    「十年の始めの頃、皆そんな思いだった」
     ノクティスの瞳がふたたびイグニスを捉える。ずっと同じ眼差しだ。知らないことを教えてやるのを聞くとき、不服げに小言を聞くとき、ノクティスは幼い頃から、ただ言葉だけをそのまま、しかし聞き漏らすまいとイグニスを見て耳を傾ける。ときには、いや、しばしば、途中で「お前がわかっているならいい」と聞くのを放り出していたが。ポケットに入れっぱなしの辞書のような扱いだ。もちろんイグニスもそのポケットから転がり出るつもりは毛頭なかったが。
    「世界が日々変貌して、危うくなり、何が起こっているかもわからない。世界から自分だけが置いて行かれるような、走っても走っても追いつかないような恐ろしさと虚しさを誰もが感じていた。いずれ慣れたが。そんな世界に慣れゆくこともまた苦しかった」
     ノクティスの眉が悲しげに寄った。その眉間を親指で押してやると苦笑しながらイグニスの手を押しのける。
    「今もきっと、多くを失って立ち尽くして、新しい世界へ追いつけないと感じる者が多くいるだろう。まるで過去がからっぽだったように」
     背をゆるく曲げて、ノクティスと視線の高さを合わせた。
    「お前だけではない」
     ノクティスは唇を少し尖らせて、子供のような顔をした。本当に変わらない、と思うとイグニスの頬はつい笑みを形どる。
    「お前もそういうの思うの?」
    「いや。俺はもっと悪い。俺は……お前がいなければ全部同じだからな」
     はあ? とノクティスが裏返った声を上げた。イグニスは肩をすくめる。
    「だから、お前がいない間も、健やかに過ごしていたが。虚しさを感じこそすれ呆然とはしない。ただ人生が日々を全うし遠い死を目指すものになっただけだ。目標がある」
    「最悪かよ」
    「悪いと言っただろ」
     あっそう、と今度は呆れたようにノクティスが言った。しばし沈黙して、どこかふてくされたような様子で口を開く。
    「……じゃあ、お前、俺より先に死ぬの?」
    「いや」
     即座に否定する。それについてはずっと決めていたからだ。幼い頃から、ずっと。
    「これは理想的な予定だが、お前の死は今度も必ず見届ける。必ずだ。それから、まわりの誰も困らないように整理をして、手筈を整え、ただの一日も余計な日のないよう、ただしその時点でルナフレーナ様がご存命ならそれも最期まで見届け、お前の他人に見られては困る恥ずかしいものを処分してやって、全て終えて俺は死ぬ」
     恥ずかしいものって何だよ、とイグニスを肘で突いて憤慨したようにノクティスが言った。
    「思い出させていいのか? お前が十二歳のとき、新年に……」
    「やめ、やめ、聞きたくない」
     イグニスは声を上げて笑った。話しているうちに陽は地平線の奥へと消えた。まだその名残が化学反応を起こした炎のように薄い赤と青とに輝いている。石畳を踵で擦って立ち上がる。
    「さて。休憩は終わりだ」
     手を差し出してやると遠慮なく体重をのせてノクティスは立ち上がった。顔の半分がイグニスの陰になり、片目が深い藍に、もう片方は薄い水色に光っている。
    「ノクト」
     呼ぶと、わずかに仰いて真っ直ぐに見据えられる。呼べば眼差しが答える。いつだって当たり前にあったが、いつだって当たり前ではなかった。かけがえないものだった。今はよほど。
    「お前の十年は、俺たちの十年だ。俺たちはいつもお前を思っていた。十年の間には俺たちのあの短い旅と同じように苦しみも喜びもあった。その中心にはいつもお前があった。俺たちが共にいるときも離れているときも。いつもお前があった」
     ノクティスの頬の筋肉がわずかに緊張するのが見えた。泣くのをこらえるように。誰よりも優しい、とイグニスは思う。
    「だから、もしお前がまた虚しさを感じることがあれば、グラディオの傷を、プロンプトの写真を見せてもらうといい。あるいは俺の料理を。グラディオの数ある浮名の話でもいいが……」
    「それ、俺、関係あるか?」
     眉を下げてノクティスが笑った。イグニスも微笑む。背を軽く押し、道を促してやる。穏やかな夜の影にまぎれ始めた回廊を歩み出す。
    「知らないのか? あいつが女性と別れる理由の半分はお前だぞ」
     嘘だろ、と言ったノクティスの笑い声が回廊の石に響いた。風が中庭の木々を揺らしていった。灯りをつけない回廊に二人の影は溶けた。
     日が昇り、陰り、落ちる。いつだって当たり前だった。いつだって当たり前ではなかった。こうして歩くのだろうとイグニスは思った。何千回、何万回、日が昇り落ちるその先まできっと。
    巡歴の朝FFXV発売一周年に寄せて

     ほとんど金切声のような叫び声を上げて子供がすぐ傍を駆けていった。後ろ、行く先を視線で追えば、きょうだいだろうか、いや、夜の闇にまぎれてわからなかったが灯りの下に入れば肌の色が違うのがわかった、きょうだいではない、だが屈託なく仲の良い様子で、姉のような子に弟のような子がじゃれついてそれだけで楽しくてたまらないという様子で笑っていた。
     前へ向き直る。おかしな日だった。朝、誰も起こしに来なかった。隣のぬくもりがないのは一昨日からだ。アコルドへ行っている。昼頃、今日中に戻ります、とメッセージがあった。夜の船旅は心配なので明日で構わない、待っている、と返信すると、必ず今日中に、と頑なな返事だった。何かあるのかと尋ねても、もう船に乗ったのか、返信はなかった。

    §

     そう、それで、朝、誰も起こしに来なかったのだ。昨日、道路整備と配電にあたっている者たちを招いた会議で、早急にと言った案件があったのではないか。自分の采配が必要なはずだった。お飾りのような椅子に座っている自覚はあったが、一応威光というものがあるのか、自分が右へと言えば右へ動く。誰もが。そうさせる資格があるのかどうか、気後れするところもあった。時計を見るといつもの朝食の時間を一時間も過ぎていた。朝食は会議も兼ねる。なぜ誰も起こしに来なかったのだろう。急がねば。
     そう思って食堂へ向かうと、がらんどうだった。いつもの面々はおらず、テーブルにはタブレット端末と飲みさしのコーヒーカップがひとつあるきりだった。ノクティスはぽかんとして食堂の入り口で立ち尽くした。
    「起きたのか。早いな」
     声がして、目を向けると、イグニスがまくった袖を直しながらキッチンから出てくるところだった。かつて食堂とキッチンをつなぐ仰々しい扉があったのを、襲撃の際に火事場泥棒を試みた者がいたようで扉が傷んで(レギスが気に入っていた皿が割られたのにイグニスは憤慨していた)、見苦しいし使いづらいと言ってイグニスが取り払い、街のどこやらへ資源としてまわしたので今はずいぶん風通しが良い。扉を撤去するときにはノクティスには確認のようにおざなりな許可を求められただけだった。お前がそうしたいんなら、とノクティスは答えた。そう答えることを見越されていた。
    「パンを焼くか」
    「あ、うん」
     キッチンへ戻ったイグニスを追って、しかし所在なく、先ほどと同じようにノクティスはキッチンと食堂の境にぼんやり立った。今日の朝食会議はないのだろうか。激務の中にもかかわらず、一日に一度くらい国王夫妻に食事を作りたいのだとほとんど懇願に近くぼやいたイグニスによって始められた習慣だ。
    「エーギル……」
     みずみずしい葉をイグニスが手に取ったのを見て、ついノクティスは呟いた。手を止めず、仕方ないというような顔でイグニスが笑う。
    「味覚が変わったと言ってなかったか? もう食べられるんだろう」
    「少しでいい、少しで」
     片面だけ焼いたパンにガルラのハムと毛長羊のチーズ、エーギル、バターでソテーしたアルスト茸を挟んだサンドイッチだ。皿を手渡され、コーヒーのポットを手にしたイグニスに促されて席につく。ノクティスのカップにコーヒーを注いだイグニスは自分のカップを持ってまたキッチンへ戻った。キッチンへ届くように、ノクティスは椅子から背中を反らせて声を張る。
    「イグニス、今日」
    「俺はもう行くが、ノクト」
     面食らってノクティスは、えっ、と間抜けな声を上げた。
    「一人の朝食を摂らせてすまない。だが市場へ行かなければ」
     市場は、この数ヶ月でインソムニアに戻ってきた、いや、もたらされたと言ったほうがいいだろうか、インソムニアはすっかり新しい街になりつつあるのだから。かつてレスタルムの市場に店を出していた者たちが各都市と農場を巡るようになった。ときには食料以外の物資や情報、人間も積んで。
     だが市場へ行くのはイグニスの仕事ではない。どうしてもノクティスとルナフレーナに食事を出したいという懇願は、朝食会議で決着がついたはずだ。ほかの食事と城で働く者たちの食事、買い出しはほかの者の仕事になった。あたりまえだ。政治のできる者は少ない。イグニスはその少ないうちの一人だ。
    「八時までには戻ってきてくれ」
     どこから? と尋ねる前にイグニスはさっさと行ってしまった。仕方なくサンドイッチにかぶりつく。一人の食事は味気なくて嫌いだ。腹が減って泣きたくなるまで父親を待った食卓を思い出す。そのたび料理人や侍従たちに慰められた。もちろんイグニスにも。そういうとき、イグニスは侍従たちの食堂で食事を摂ってからノクティスの元に戻ってきて、ノクティスがまだスープに手もつけていないのを見てはっとしたような顔をした。イグニスはもう食べないのに、一緒に食べよう、と言ってノクティスの横に座ってノクティスが食べるのを見ていた。イグニスが来られない時は、ほかの侍従や、ときには料理長が同じように座って気を紛らす話をしてくれた。
     今日はどうして誰もいないのだろう、とノクティスは考えた。グラディオラスもプロンプトもインソムニアに戻っているはずだ。タルコットも昨日戻ったと聞いたから呼んでやればよかったのに。廊下で誰かに会ったら聞こう、とノクティスは思ってパンの間から滑り落ちたアルスト茸を指でつまんで口に放り込んだ。

    §

     だが廊下でも誰にも会わなかった。変な夢を見ているような気分だった。いつもは、多くないが、夜勤から休憩に戻った警護隊や新しい王の剣たち、まだ整理しきらない古い書類に唸っている事務方の者たちに行き合うものだが。幼い頃見た夢の迷宮のようだ。あれはあまり嬉しくなかった。カーバンクルに会えるのは良かったが。
     仕方がないので執務室へ向かい、デスクに積まれた書類に全部サインをしてしまい、気が付いたら昼過ぎだった。誰も昼飯に呼びに来ない。ならば栄養がどうとか口うるさい幼馴染の目から隠してあるカップヌードルを食おうと本棚の裏を漁り、カップヌードルを手に食堂へ向かう道すがら、やっと今日二人目の人間に遭遇した。
    「おう」
    「陛下」
     工事の人員の采配にあたってくれている、イチネリスで勤めていた者だ。四十がらみの女だが、肩のあたりなどノクティスよりたくましい。
    「なんで今日誰もいないんだ?」
    「えっ? 皆寝てるんじゃあないですか」
     眉を寄せて聞き返すと、私も寝ます、とだけ言って行ってしまった。なんなのだろう。わかっていないのはお前だけだとでもいうような顔だった。寝ている? なぜ?

    §

     そしてまた一人の食卓でカップヌードルを啜り、汁を全部飲むとプロンプトが騒ぐんだよなあ、とかつての風景に思いを馳せていたら、ルナフレーナからメッセージが入った。今日中に戻ります。夜の船旅はまだ危ないだろ。急がないから明日でいいよ。待ってる。いえ、今日中に必ず。なんで? それきりやりとりは途絶えた。なんなんだ。やっぱりわかっていないのはお前だけだというふうだ。

    §

     また執務室へ戻って、必要な書類には全部サインをしてしまったのでぼんやり椅子に座っていたが、昨日会議をした者たちに電話をかけよう、と思い立って、それはとても良い思いつきのように感じ、勢い立ち上がったままノクティスは電話をかけた。だがその勢いを削ぐように、十コール待っても相手は出なかった。十二コール目でようやく答えた。寝ぼけ声だった。
    「もしもし、俺、ノクティスだけど」
     電話口の向こうで、えっ、はあ、えっ、王様? あっ昨日はどうも、えっ何ですか?どうかしましたか、とがさがさいううるさい音と共に慌てた声が答えた。がさがさいうのは毛布だろうか。やっぱり寝ていたのか。
    「いや、何って、どうなったかと思って。昨日の話」
     ははは、陛下、と電話の向こうで若い声が笑った。わかっていないのはお前だけだというふうに。今日は休みですよ。それじゃ。それだけ言って切れてしまった。
     はあ? と通信の切れた画面を見て、ノクティスは思わず声を上げた。はあ、とか言うと、グラディオラスが良い顔をしないのだった。威厳がどうとか言って。ノクティスだって年を取った気もなく年を取ったものだが。十年すっぽり抜け落ちているわりには。
    「休みだぁ?」
     休みなんかあるのだろうか。毎日誰かが働いていないと今この世界は回らない。世界の負った深い傷を癒すには。住むところ、食べるもの、いつでもどこでも足りていない。誰かが誰かを助けてやらねば成り立たない。休みなんかあるのだろうか。
     ノクティスは、沈黙して、みたびぼんやり立ち尽くした。わかっていないのは俺だけなのだろうか。

    §

     ぼんやり立ち尽くしていたら、日が傾いていた。景色が違うように思えて窓辺に寄ると、見間違いでなく確かに違っていた。夕暮れ、いち早く陰になるビルの谷間にいつもよりよほど多くちらちらと灯りが揺れていた。インソムニアは電気系統が複雑で、まだ送電の済んでいない建物が多くある。あんなに多くの灯りがともるはずはない。誘われるようにノクティスは城外へ出た。
     城の広場には警護隊や王の剣の面々がちらほらとおり、手には思い思いにろうそくやランタン、懐中電灯があった。携帯端末のフラッシュライトをつけている者もあった。陛下ぁ、と手を振られ、振り返す。ずいぶん浮かれているように見えた。何なのだろう。俺だけがわかっていない。
     街へ出ると、裸電球や今はもう使わないシガイ避けライトが街灯にかかっていたりまだ撤去されない車の上に乗っていたり、城の窓から見えた灯りはこれだった。かつて商業施設だった、今は肩を寄せ合うように人の住む雑居ビルの路地へ向かう。窓に、屋上の手すりに、壊れた看板に、非常階段の下に、ろうそくにランタンに懐中電灯、コードの繋がった裸電球に本当なら家の中にあるべきテーブルランプ、エンジンに繋がって小刻みに揺れるシガイ避けライト、付けっぱなしの車のハザード、充電器に吊るされた携帯端末のフラッシュライト……俺だけがわかっていない。
     すぐ傍を子供たちが駆けて行った。きょうだいではない。もう子供は寝床へ向かってもいい時間なのに。八時までに戻れと言われていたんだった、と思い出したが、ノクティスはその場を動けなかった。今日はいったいどういう日なのだろう。やっぱり自分だけがおかしな夢路に迷い込んでしまったのだろうか。
     そのとき、脚にどんと後ろから衝撃があった。肩越しに見ると、前を見ずに走り回っていたらしい子供が小さな声でごめんなさい、とおずおず言った。大丈夫だと言ってやるとほっとしたように額から力が抜けた。
    「家、帰らなくていいのか。もう暗いだろ」
    「今日はっ! ずっと起きてていいんだよっ!」
     興奮した高い声で子供が答えた。ノクティスは眉を寄せる。本当に俺だけがわかっていない。
    「今日はおまつりの日だから! 朝のおまつり!」
     ノクティスが聞き返す前に、興奮を抑えきれないという様子で子供はまた駆けて行ってしまった。取り残される。朝のお祭り?
     耳をすますと、広い道のほうから誰かが指笛を吹くのが聞こえた。次いで歓声も。いくつもの灯りを繋いで唸るエンジンの横を抜けて、人一人ようやく通れる路地へ滑り込む。路地の向こう側に視界が開けると、波のように音楽が押し寄せた。幾人かが、スカートの裾を翻して回るテネブラエの踊りと、足を揃えて跳ねるニフルハイムの踊りを、ガラードの音楽に合わせてめちゃくちゃに踊っていた。それを囲んで囃し立て、指笛を吹き、そして誰かが叫んだ。夜明けに!
     続くように鳥のような雄叫びを上げる者があり、酒瓶を打ち合う者があり、輪から離れて寄り添って口づけをする者があり、踊り損なって地面へ身を投げ出した者を助け起こしながら笑う者があった。
     ノクティスは路地を、ビルの窓と屋上を振り向いて仰いた。それからもう一度踊る者たちを。思い出にふけるように寄り添う者たちを。すれ違いながら酒瓶を打ち合わせ、小さな声で労わるように、夜明けに、と囁きあう者たちを。
     ノクティスだけがわかっていなかった。
     こめかみをぎゅっと手のひらで押さえられたように感じて、ノクティスは踵を返して駆け出した。戻ろう。城へ。家へ。八時までにと、今日中にと言われていたから。こめかみがじんじんとした。
     駆け抜ける道にいくつもの灯りがあった。踊り歌う者たちがあった。夜更かしを許されてはしゃぐ子供たちがあった。寄り添い語り合う者たちがあった。ノクティスの知らぬ間に失われ、ノクティスの手によってどうにか世界に繋ぎとめられ、そうして少しずつ戻りゆくものたちが。今日という夜の、次の特別な朝を待っていた。ノクティスだけがわかっていなかった。
     城の広場に戻ると、子供の遊びみたいに広場にはキャンプ用のテントが張られていた。懐かしい折りたたみの椅子も。そのまわりにはコールマンのランタン。そのかたわら、城の中から出してきたらしいテーブルに料理を並べていたイグニスがノクティスの姿を見とめて呼んだ。
    「どうした。走ってきたのか?」
    「イグニス」
     走ったせいだけでなく、ノクティスの声は震えた。走って乱れた髪をイグニスの指が直した。
    「今日……」
    「すまない」
     イグニスが、今初めて気づいたというふうにはっとして言った。
    「お前は知らないのだった。そうか。そうだった」
    「今日、だったのか?」
     そうだ、と薄い笑みを唇にえがいてイグニスが告げた。お前が命を賭した日だった。そう語るイグニスの目の中にも、新しい眼鏡のレンズにも、ランタンの灯火が揺れて光っていた。
    「お前が戻る少し前、昨年だ、俺たちはとても祝う気になどなれなかったが、インソムニアに戻った、移り住んだ者たちが誰ともなく始めた。昼は皆休み、日が暮れたら灯りをともし、子供たちもその日だけは夜中じゅう起きて、皆で朝日を待った。そうする者たちを見て、これがお前の成したことかと、俺たちは初めて本当に知ったように思う」
     お前はその後戻ってきたから知らないのだったな、すまなかった、とイグニスは言って、街じゅうにともる灯を見せるようにノクティスに視線で街を示した。
    「あれからまた一年だ。お前を喪った長い一年から、もう一年が経った。そしてきっと、百年先も続くだろう」
     ちぐはぐに様々な強さと色の灯りがともるその上にいつの間にか月と星々が昇っていた。まばたきをするとにじんだ。城門の外に車が停まるのが見えた。車中、灯りに照らされて色素の薄い長い髪が揺れている。今日中にと言っていたよりもっと早かった。間もなく皆も来る、とイグニスが言った。
     ノクティスは胸を絞られるように感じた。この思いを何と呼ぶだろう。街の灯を見たときの思いを。この広場で父を待って迎えたときの思いを。腕のぬくもりさえ覚える間のなかった母の宝石箱を全部ひっくり返したような星空を見たとき。見上げるような巨大な動物に驚いたとき。茂みの陰に小さな生き物を見つけたとき。あどけない子供の笑う顔。波間の光。葉ずれの音。初めて嗅ぐ草の匂い。コーヒーの湯気。恋人たちのひそひそ笑い。壁の落書き。剣先のきらめき。友の足音を聞きながらどこまでも歩いたとき。ただ一人死の河の向こうまで共に旅をした運命の人に見つめられたとき。そしてあのキャンプの夜の。見ることのなかった朝の。この思いをいったい何と呼ぶだろう。その全てを守りたかった思いを。
     ノクティスだけがわかっていなかった。自分が与えたものを。そしてそれに返されたものを。この夜を、次の特別な朝を待ち祝うその思いを。
     朝を待とう、皆で、とイグニスが言った。
     朝を待とう。嬉しげに駆け寄ってくるルナフレーナを抱きしめて、これから来るグラディオラスの肩を、プロンプトの腕を叩いてやって、他には誰が来るのだろうか、そこらをうろついている警護隊や王の剣も寄るだろうか、乾杯をして、イグニスの料理を食べ、皆で朝を待とう。
     今年も、来年も、きっと百年先もまた巡る朝を。
    星を飾る
     イグニスは警護隊の訓練の日程を動かせないか打診したようだが(ノクティスはどうでもいいと思ったが)、なにしろ団体訓練だ、にべもなく却下された。ノクティスの、公務としてはまだたった三度目のパーティーに日程が重なっていたのだ。驕りではなくイグニスは、俺がいなくて一体どうする、と思ったし、警護隊の上官にもそう訴えた。軍人の前にその訴えは響かなかったが。俺のほかに誰がノクティスを装わせ、挨拶すべき人物とその名前に近況を耳打ちしてやって、最適なタイミングで下がらせるというのだ。ということをなるべく憐憫を誘う調子で朗々と語ったが、収穫は、話が長すぎる、という顔をされたくらいだった。イグニスはその週末、泥だらけで山中のサバイバル訓練に参加せねばならなかった。
     ではイグニスの叔父である大スキエンティアにバトンを、ともいかず、大スキエンティアはレギスの外遊に帯同していた、特にノクティスが城を離れてマンション暮らしを始めてからはイグニスほどには勝手を知らぬ侍女に侍従、メイドたちが束になってパーティーに臨むわけにもいかない、もう少しでイグニスが融通のきかない上官を(イグニスにとっては、だ)呪う言葉を口にしようというところで、手を挙げたのがグラディオラスだった。
    「盛装も王家の装いもわかってる。俺でいいだろ。まあ、イグニスみたいにやれるかはわからねぇが」
     と言って。

    §

     結論から言えば、パーティーはつつがなく終わった。アイロンのきいたシャツに不似合いな大きな擦り傷を頬と腕に作って訓練から戻ったイグニスが顔なじみの侍従に聞けば、ノクティスは大柄なグラディオラスに侍られて実に見栄えし、挨拶もそつなく、来客には陶然とため息を漏らす者もいたと。
     警護隊員には洗礼といえる同じ訓練を前の年に終えていたグラディオラスが祝ってやるというので、めずらしくノクティスを伴わずにイグニスはアミシティア邸へ向かった。ノクティスはプロンプトと遊びに出ている。訓練の間没収されていたスマートフォンから戻った旨を送れば、「おつかれ」とあっさりした一言が返ってきただけだった。パーティーの首尾を聞けば、そちらも「まあまあ」の一言のみ。遅れて、「グラディオに礼言っといて」とあった。装いにも政治的な付き合いにも無頓着なノクティスに聞くよりも、詳細は、グラディオラスに聞いた方がいいだろう。
     アミシティア邸ではジャレッドが準備している最中の料理の香りが鼻をくすぐった。タルコットがはにかみながら挨拶に現れ、これから似た家柄の子女たちとの交流会に赴くというイリスと後日お茶でもと約束をして、食前酒を開ける頃、イグニスは「パーティーはどうだった」とようやく訊ねた。
     グラディオラスは、問題なかったぜ、と軽い調子で答えてスマートフォンからアルバムを選択してイグニスに差し出し、スワイプして勝手に見るよう指で示した。
    「隠し撮りのように見えるが」
    「あいつ、カメラ向けると構えるだろ。メイドに頼んでおいたんだよ」
     中にはほとんどぶれてはいるが、パンツ一枚で写るものもあった。ノクティスは幼い頃から人に囲まれて暮らしている。世話をされるのには慣れきって、裸を見られるのも、棚の中を探られるのも、別段気にせず「どうもな」で終わる。照れ屋だが、一般的な基準とはきっと少し違うのだろう。
     十数枚の写真をスワイプし終わって、イグニスは、ふむ、と言って眼鏡のつるを撫でた。
    「問題ない」
     とまず言った。そうしてひとつ息継ぎをし、
    「どう見られるか、というのは、装うことにおいてひとつ重要なファクターだ。ことグラディオ、お前にとってはそのようだ、お前は常に女性の……いや、女性だけではないな、女性からは魅力的に、男性からは頼もしく見られるように気を配っている、他者からの視線を強く意識した実にお前らしい装いだ、たとえばこのブローチ、俺ならこれはこのレースの襟には合わせない。タイも、そうだな、光沢のないものにしただろう。ここにアメジストブラックを持ってきたのは気が利いてるが、……華美だ。シルクのレース襟、ベルベットのタイにこのノット、このブローチに……アメジストブラックのパイピングのジャケット。華美だ。ノクトはあまり装うとかなり派手になるんだ、本人が喜ばないし不用意に目立つので俺はそうしない。ただ、実に美しい。実にな。お前がノクトに何を望んでいるかよくわかるな」
     とほとんど一息に言った。グラディオラスは絶句し、赤面し、言い返すべきことが何もなかった。ただ、二度とイグニスの仕事に手を出すまいと思った。

    §

     そんな記憶が、忘れてしまえればいいものを、仔細に思い出された。あの後イグニスが勝手に自分のスマートフォンに送信して保存した写真をプロンプトに見せてプロンプトが大騒ぎしたのも、追い打ちのように恥ずかしかった。グラディオラスはノクティスほどではなかったが友情の前には照れが勝つことがたびたびあって、あのときも、うるせぇな、とか言ったきり黙ってしまった。ノクティスは同級の女子学生たちがよくやったようにプロンプトにまできゃあきゃあ言われることにふてくされていた。
     だが、プロンプトが騒ぐのも仕方なかった。グラディオラスが今になっても忘れられないのも。記念だ、と言ってイグニスが写真をレギスにもこっそり見せたのも。グラディオラスが着飾ってやったノクティスは、本当に美しかったのだ。いつにも増して。
     今も。
     イグニスが会議に出向いた先で嵐に見舞われて、倒木で帰路が塞がれて帰りが明日夕刻の予定になった。若き国王陛下は今日の夜、市民たちの前に立たねばならなかった。平服で城下に抜け出すのがお得意の王ではあるが、公的なときはそれなりの装いをしてもらわなければならない。そういうわけで、二度とイグニスの仕事に手を出すまいと誓ったグラディオラスに、またもお鉢がまわってきた。お前には実績があるとぬけぬけと言ったのはイグニスだった。
     ノクティスは、昔もお前がやってくれたの、あったよな。と言って、思い出すようにふっと笑って、それだけだった。あとはグラディオラスのするままにされている。あれを着て、これを脱げ、ボタンは留めてやる、というのにあー、とか、おー、とか、間の抜けた返事をしながら従うばかりだ。傅かれるのに慣れた人だ。いや、そのために生まれた。

    §

    「プロンプトがよく言うだろ。『尊い』とかいう」
     ふとグラディオラスが言った。ノクティスの首元のリボンを結んで整えながら。ノクティスは、イグニスから服を着せられたり靴紐を結ばれたりするのには慣れすぎるくらい慣れていたが、グラディオラスからされるとほんのりと照れくささを感じた。いつかもこうして盛装させられた。そのときのグラディオラスは、ノクティスが呆れるくらい大真面目に取り組んでいた。今もかな。ノクティスは思った。
    「ああ」
    「実際、お前は尊いよ。尊くて、美しい」
     続いてこぼれたグラディオラスの言葉に、ノクティスはあんぐり口を開いた。グラディオラスはというと、真面目顔でノクティスの襟元を整えている。こいつは何を言っているんだ。
    「お前な……俺は、あれだ、女子じゃねーんだぞ、その、お前がナンパするような」
    「女子」
     言葉尻をとらえてグラディオラスが笑った。
    「女子たぁ……」
     初心だな、とか、ガキだな、とか続くのだろうと思いきや、グラディオラスはそっと微笑んで黙った。ノクティスが日の光の下に戻って以来、グラディオラスはこうやって、十年を失ったノクティスが子供っぽいところを残すのを妙に慈しむような素振りを見せる。袖を整えてやろうと腰を曲げてうつむいたグラディオラスの結んだ髪の生え際をノクティスは見た。ブルネットの髪に、少し白いものが混じっている。早いな、とノクティスは思った。ノクティスのいない十年と、その後の間、きっと苦労が多かったのだろう。
     実際のところ、ノクティスは今も昔も初心だったしガキだった。思春期の頃にも人より相当希薄だった性欲や恋情は、十年と死と再生を経たらすっかり本当に消えてしまった。ルナフレーナも同様だ。二人して、生命として機能しなくなった部分がいくつかあった。生きているだけ有り余るほど幸福だったが。なにしろ二人にとっては人間として生きること自体初めてだ。そのことを明かせば友人たちはきっと悲しむだろうと二人ともわかっていたから、世継ぎを作らないことなどを、ぼんやり伝えただけだった。
     ただ、失ったもののぶん昔のように照れて身をよじるようなこともなく、グラディオラスの歯の浮く言葉も呆れはするがただ素直に嬉しく感じた。
    「お前って、なんか、たまに、俺に夢見てるよな」
     揶揄するでなくノクティスが言った。
    「夢じゃねぇだろ」
     憮然として反論したグラディオラスも、はからずも子供っぽかった。昔と変わらずに。ノクティスは笑う。
    「夢じゃねぇよ」
     グラディオラスが繰り返して言った。大きく一歩下がり、画家が作品を確かめるように、ノクティスの頭から足までを見て、うん、と頷いた。
    「立派だぜ」
     言われて、ノクティスはくるりと半回転して大鏡を見た。鏡の中でグラディオラスはまだノクティスを見つめている。イグニスがやるより派手だな、とノクティスは思った。だが、たしかにグラディオラスが言うように、立派な王様に見えた。
    「どーも」
     いつもの軽い調子で礼を言うと、鏡の中で目が合った。グラディオラスの厚い唇がきれいに弧をえがいて笑みを形作る。
    「立派だぜ、俺が昔っから夢に見たみたいにな」
    「今日、お前、どーしたの?」
     飽きもせず情熱的・・・な言葉を綴るグラディオラスに、ノクティスは大げさに呆れてみせた。グラディオラスが、いたずらを咎められたように声を出して笑った。深くため息をつきながら言う。
    「不向きな仕事を仰せつかったもんでな。気負った」
     弱みを見せるのが嫌いな男が、素直なことだ。ノクティスは眉を上げた。グラディオラスはこの頃、もう自分たちに神の落とした運命はないのだというノクティスの言葉をようやく信じて、やっと肩の力が抜けたように見える。ノクティスが戻ってからしばらくの間、いつまたノクティスが消えてしまうのかと他の誰よりも戦々恐々としていつも緊張していたようだった。誇り高い盾だ。
    「なあ、尊くて美しいって、何? プロンプトの言うやつも、俺、いっつもわかんねーんだよな」
     鏡からグラディオラスに向き直って、ノクティスが聞くと、グラディオラスは笑った。年長者のする、いつもの少し意地悪で優しいやり方で。
    「お前は、わかんなくていいんだよ。いつだって思われる方なんだから」
     首をかしげてノクティスが、ふうん? と言った。
    「さて、市民たちに美しき王様を見せてやらないとな」
     そう言ってグラディオラスがノクティスを促した。

     たぶん、明日また、イグニスからはうるさい講評・・をもらうだろう。楽しみにしておいてやる、とグラディオラスは思った。かかってきやがれだ。
    王の間 いやあ、無理ですねえ、俺は陛下とは違いますんで。と間延びした調子で言われた言葉に、「陛下」という呼び名に少し不満げに鼻をふんと小さく鳴らして、ノクティスは首を傾げた。
    「せっかく出てきたのにな」
    「出てきた、ってさ、ノクトん中どうなってんの? 部屋とおんなじでやっぱ汚いわけ?」
     答えずにノクティスは目を細め顎を仰けるようにしてハンガーに釣り下がったスーツを見た。つややかなブルーブラックの細身のスーツだ。俺しわくちゃにしそう、と眉を下げて言ったプロンプトにノクティスが、じゃあしまっといてやるよ。俺ん中。と応えてそれきり魔法召喚のお呼びがかからずじまいだった。十二年になる。ノクティスの結婚式で着るはずだった。
    「試しに着るだけ着てみろよ」
    「いや、無理、ほんとに、ここで止まるよねズボンが」
     ここ、と言ってプロンプトが太腿の中ほどを指すのを、はあ? と言ってノクティスが覗き込んだ。わからないという顔だ。
    「だからねえ、俺は陛下とは違って、太るんですよ。太るの」
    「わかんねえけど、ラーメンやめろよ」
     無理でしょうよぉ、と高い声で言ってプロンプトは、腹の周りを両手の平で二度、三度確かめるように(あるいはこすって消えないかとでもいうように)なぞって往復させた。
    「まあ、いいけど、別に。太りたきゃ太ればいいよな」
    「太りたいわけではないんですけど」
     はあ、とまたノクティスはわからないというふうに呟いた。王の威厳はない。今はただの友人同士だ。
     思い返せば、そもそも子供時代にダイエットしたのもプロンプトの自己満足だ。ノクティスはきっと気にしなかったろう。プロンプトがただ、かれの綺羅星にふさわしいと思える己になりたかった。それだけだ。
    「でも、まあ、最近俺思うんですけど」
     午後の光が明るく差す中に吊るされたスーツをプロンプトも目を細めて見た。視界にまつ毛の影が入って淡い金色の縁どりがつく。スーツにはしわひとつない。
     インソムニアに戻った後、プロンプトは、無人の自宅も訪れたが、もともと冷たくしんとした家はいっそう冷えて、引き出しに入れていた服も埃だらけで、中にはねずみの死んでいた棚もあった。父と母の行方は知れなかった。自分を愛しはしなかったが父と母になってくれた人たちだった。何を片付ける気にもならずに結局そのまま放っている。
    「俺、太ったり年とったり、かなり人間ぽいよねって」
    「だな」
     どうでもいいことのようにノクティスが答えた。プロンプトはその横顔を見る。鼻梁が陽をうけて山の稜線のように輝いている。ノクティスも顔を横へ向いてプロンプトを見た。眩しいな、とプロンプトは思ってとっさに目をすがめる。
    「そのうちハゲるかな?」
     ノクティスの目が、プロンプトの目から、額へ移り、そしてまた目へ戻った。口元は一文字だが下まぶたがいたずらっぽく少し笑っている。忌まわしい男の顔を思い出す。生物学上の父。愛しもせず、父にもならず、ただ作った。数えきれないほどの俺たち・・・を。あの男の額はじつに秀でて……、いた。
    「……人間っぽいねえ」
    「人間だからな」
     こともなげに言われてプロンプトはため息と共に笑った。そうだね、と囁くように答えるとノクティスがまた小さく鼻を鳴らした。
     昨日作られたようにつやめくスーツはしわひとつなかった。王の中に守られていた。午後の光に照らされている。
    有名な動画FFXV発売二周年に寄せて

    「どうも。フロース・フラーテルです」
    「どうも」
     眼鏡が鼻の先からずり落ちたのを感じながら、フロースは握手した。汗をかいている。眼鏡が落ちたのはそのせいだ。それに、この眼鏡は重すぎた。デザイン重視で選んだよそいきの眼鏡だ。いつもの眼鏡は鞄に雑に放り込むせいで傷だらけだし、いつでも汚れていて、つるも曲がっている。よそいきの眼鏡を鼻に押し込んで鞄の紐を肩にかけ直すと、それを待って、つい今握手を交わしたオクリース女史が微笑んだ。
    「フラーテル博士。会議にご参加くださるのは初めてですね」
     頷くとまた眼鏡が落ちてきた。
    「ええ。その、光栄です。とても」
    「緊張なさってます?」
     オクリースがいたずらっぽく笑って言った。フロースは赤面しそうになったが、オクリースにちっともからかう気がないのを見て取って、むしろ彼女はそんな会話でフロースの緊張をほぐそうとしているようだった、息をついた。
    「ええ、まあ、その、すごく。夢でしたから」
    「嬉しいです」
     オクリースは人懐っこい笑みを見せた。フロースから見れば、とろけるように見えた。頬にそばかすが星座をえがく健康そうな風貌は、フロースとはまるで逆だ。緊張はそのせいもある。フロースは、今日はいくらかましだがいつも髪はぼさぼさで、汚い眼鏡で、歩きやすさしかない靴に、白衣を引っ掛けて風呂に一週間入らないこともある。それだけ研究に没頭できるのは彼女にとって誇りでもあったが。
    「会議の後にはパーティーもあります。お話したい研究者の方もいらっしゃるでしょう。ご迷惑でなければ、ぜひ仲だちさせてください」
     本当に、まるで逆だとフロースは思った。オクリースが促して会場の奥へ進みながら二人は続ける。
    「あの、助かります。私は人付き合いが、というか、取っ掛かりがあまり得意でなくて。ネムス博士から、その、以前聞きました。あなたがパーティーで仲だちしてくださってとても助かったと」
    「嬉しいわ、でも、ネムス博士の功績あってこそです。かれと話したい人は多かった。ネムス博士の生体義肢の技術は素晴らしいですね、本当に」
    「とても、その……勉強なさっているんですね」
     見下したように聞こえたろうか、と、言ってすぐフロースはやや後悔した。人付き合いがうまくないというのはこういうところだ。それが白い嘘でも、嘘をついたり、ごまかしたり、察したり、そういうことがうまくできない。
    「ええ。私はみなさんのように研究者たり得る力はありませんから、こうして会議を存続させ、仲だちをし、倫理を共有するためには勉強が必要です。私自身、もともとこの財団を継ぐつもりはありませんでしたから、余計に」
    「そうなんですか」
     フロースは驚いた。オクリースは若くしてやり手の運営者という印象が強かった。幼い頃から志していたのだろうと思っていた。
    「母は彼女の親たち、さらにその親たちに憧れてエンジニアになりましたが、私は反発しました。選択肢を与えられていないように感じたのです。しかし物ごとを学ぶにつれ、かれらの、特に曽祖父の成したことの大きさとその重要性に気づき、……遠回りをしましたね。必要な迂路だったとも思いますが」
     そうですか、とフロースは言った。もっと気の利いた相槌をできればよかったが。せめてその声音からフロースが感じるものがあったということが伝わればいい。
    「私のような、図々しい人間が必要だと思ったんです。この世界には」
     一転してあっけらかんとした口調に、フロースは目を丸くした。
    「学者のみなさんはパーティーとか、あまりそういうことがお得意でないでしょう。うちの家系は代々、よく言えば物怖じしない、図々しい性格なんです。横のつながりを作るお手伝いをしたくて」
    「つながりは研究の暴走を食い止める堤防にもなります」
     ええ、と言ってオクリースは力強く頷いた。途中、インカムをつけたスタッフから書類を受け取り、フロースへ渡す。
    「進行表はお手元にありますか」
    「ああ、あるけど、助かります。メモだらけにしてしまって」
     オクリースは目を細めて笑った。笑うと眉が橋のように曲線をえがく。
    「では、私はここで。発表を楽しみにしています。また後ほど」
     ありがとうございます、と言って頷くとまた眼鏡がずり落ちた。オリークスも会釈して去る。フロースは席を探して腰を下ろし、一息ついた。おかげで緊張がほぐれた気がする。前の方の席から顔見知りの研究者が手を振ってきたが、お互いすっかり動けない場所に陣取ってしまっていて、苦笑しつつ身振りでまた後で、と伝え合った。フロースには初めての参加となったが、記念すべき百回大会だ。人が多い。ほどなくして照明が落ち、映像が始まった。
     この映像は、毎年行われるこの会議の冒頭で、毎回流れる。会議に参加しない者でも動画サイトで見ることができる。有名な動画だ。映像の不鮮明さに時代を感じた。映るのは、白い肌に、昔はそばかすだったのだろう、しみがぽつぽつと浮かぶ、額の広くなった白い髪に丸い体、丸い面立ちの好々爺といった風情の老人だ。老人は穏やかに語り始める。
    『どうも、みなさん。少し私の話をさせてください。私は、七三六年、グラレア市に生まれました。生まれた、という表現が正しいかわかりません。作られたと言った方がよいでしょうか。私はある人物の細胞から培養されたクローンの人造人間です。私がかれの何体目のクローンかわかりません。私の元となった人物の行く末は知りません。私を産んだ母も父も存在しません。しかし私は、私を生命であると信じて生きてきました。今もそうです。自分が人工的に造られた人間であるとは夢にも思わず、そんなことをいったい誰が想像するでしょうか、知らずに生きた短い二十年の間も、知ってからのそれよりずっと長い今までの間も。私には生命があり、考え感じる機能があり、愛する者たちがあり、愛してくれる者たちがありました。私は戦争を見、混乱を見ました。そのただ中を生きました。アイデンティティと、人権と、我が事にも他人事にも、考え、感じなければならない時が、数えきれないほどありました。これと同じバーコードを持つ私の生物学上のきょうだいたちは、あるいは私そのものは、兵器として使われ、身分を持たないまま百万とも二百万とも言われる数が死んでゆきました。正確な数はわかりません。数える者がいなかったためです。誰がマッチの燃え殻を数えるでしょうか。私もまた、知らずにかれらを死に至らしめました。そういう時代だったのです。二度と繰り返されてはならない時代だったのです。私の名前はプロンプト・アージェンタム。本当の名前はわかりません。ただ私の法律上の父と母が、友人が、家族が呼ぶこの名が私のかけがえない名前です。兵器として作られ、人間として生きました。みなさん。科学を志すみなさん。母となり父となるみなさん。隣人となるみなさん。誰かの子である、市民であるみなさん。絵を描き、歌い、踊り、演じ、物語を書くみなさん。あるいは私のように、父もなく母もなく名前を持たず、それでもただ人間であるみなさん。どうぞ、どうか、よりよい未来を作ってください。では、どうも。さようなら』
     老人は、そばかすの中にしわを寄せ、人懐っこい笑みを見せ、手を振った。画面が暗転して字幕が浮かぶ。───この映像は、かつて唯一の生きた人造人間であったアージェンタム氏の子供たちによって撮影された。かれと同様に製造された人造人間たちは、四百年戦争の激化した最後の十年にわたり、兵器として大量生産され、消耗品的に使われた。かれだけがその運命を逃れた───
     照明が上がった。スクリーンが音を立てて巻き上げられていく。リマスターしない古い映像なのでまだスクリーンが必要なのだ。フロースが眩しさに目をしばたいていると、壇上の中央に快活な歩幅で女性が歩み出ていった。オクリースだ。オクリース・アージェンタム。
    「おなじみの映像をご覧いただきました。数奇な人生を歩んだ曽祖父は親しみ深く、明るく、慈しみのある人でした。かれを直接知る人がいなくなるずっと先まで、アージェンタム財団がこの世界ロボット・アンドロイド会議とその信念を支えていけることを願います。それでは、ご挨拶はなるべく短めに───……」
     オクリースの麦畑のような明るい髪が照明を受けて眩しかった。映像のその人、プロンプト・アージェンタムもかつてはあのような髪をしていたのだろうか。きっとそばかすは同じようにあったろう。二十歳の若者は戦争のさ中、どうやって自分が人造人間であると知り、受け入れたのだろう。
     この映像は、動画サイトで誰でも見られる。この会議では毎回流れる。つまり最低百回はここで見られたということだ。ロボットやアンドロイド、人工知能の研究者たちを、今一度倫理に向き合わせるために。
     プロンプト・アージェンタム。人間として生きた人。どんな人生だったろう。戦争の後、「闇の十年」として語られる(いまだ科学的に解明されない)大災害の災禍の復興につとめた最後の王政に尽くしたという。そんな激流の中にいたとは思えない穏やかな風貌だった。
     フロースは、物思いから身を起こし、最初の発表者の上がった壇上を見た。フロースの登壇は休憩を挟んでしばらく後だ。休憩の間に必ず水を飲んでトイレに行かねば───……。
     さて、今年も会議はつつがなく始まった。
     冒頭で必ず流れる映像は動画サイトで誰でも見られる。会議の信念を、百年の間、支えている。
    子ども科学電話相談室 ラジオをつけると番組はもう始まっていた。アナウンサーのよく通る声と学者のこもる声、それからたどたどしい子供の高い声。今回は何の相談だろう。素朴な疑問に科学や歴史の答えがあるのだという物珍しさも手伝ってすっかりこのラジオ番組のファンになってしまった。職場でもたびたび話題にのぼる。
    『昔お日様が出なかったときがあるのはしっていますか』
    『はい』
     子供の返事は語尾が消え入るように頼りない。愛らしさに思わず鼻から笑いの息が漏れる。何歳だろう。アナウンサーと学者はゆっくりした調子で続ける。
    『よくしってるね。実際はお日様が出なかったのではなくて、黒色粒子、言えるかな?』
    『こくしょくりゅうし』
    『そうです。黒色粒子っていう小さい粒がそこらじゅうにいっぱいいて、日の光をじゃましてたんです』
    『おうさまは、こく……く……』
    『黒色粒子』
    『ゆうしを、どうしてどけましたか』
     なるほど今回は気候の話か。今日は焼けつくように照っている。もう日の出も早いので空気はほとんど煮えている。夕立が降らないだろうか。
    『それはねえ、今のわたしたちの科学ではわからないんです』
     黒色粒子ね、習ったな、何だっけ? わたしも呟く。こくしょくりゅうし。
    『はい……』
     子供の返事はいよいよ頼りない。期待した回答ではなかったろうか。学者は続ける。
    『王様は魔法でどけた、って言われていますね。でもそれが本当に魔法だったのか、何か発明してどけたのか、どちらも証明できないんですね』
    『しょうめいってなんですか』
    『あっ、えーとね、うーん、何て言えばいいのかな』
     ああ、何だろう? とおそらくラジオの向こう側では首をひねっているのだろう、学者の懸命な声に笑ってしまう。わたしもしょうめい、と呟いて手元の端末で辞書を引く。理由や根拠を明らかにして事柄が真実であることや判断・推理などが正しいことを明らかにすること。なるほど。なるほど?
    『本当のことだ、って皆がわかること、ですかね』
     アナウンサーが助け舟を出す。
    『そうです、うん、本当だってわかること』
    『大丈夫かな?』
    『だいじょうぶです』
     大丈夫らしい。本当かな。
    『ありがとう。だからねえ、王様が本当に魔法使いだったか。それは、わからないんですね』
    『はい……』
     質問はどうやら天候の話ではなかったらしい。魔法、魔法か。わたしたちの歴史において「魔法」というのはちょっと奇妙な位置付けだ。神話や民話に妙に人間が絡みつき、近代の終末期、王政時代の公文書にまで「魔法」なる文字が刻まれている。まことしやかに。
    『だから、それがわかるまでは、あなたの好きなほうを本当だって想像してみるといいですよ。それとも、いっぱい勉強して、あなたがそれを本当だってしょうめいする人になるといいかもしれないですね』
    『はい』
     ひときわ高く子供の声が響いた。子供時代を思い出す。私も信じていた。夜明けの日の伝説。翌朝の枕元に置かれるプレゼントを心待ちにしていた。
    『わかったかな?』
    『わかった』
     わかったらしい。本当かな。
    『よかった。じゃあ、ありがとうございました』
    『あぃがとうございました』
     ふにゃふにゃの声で子供が礼を言った。本当にわかったのかしら。でも、この子が将来学者にでもなればおもしろいだろうな。なったとして、それを知るすべもないけれど。
    『王様が本当に魔法使いだったか、という質問でした。わからないんですねえ』
    『そうなんです。当時も十分に科学は発達していたはずなのに、魔法だ、って記録されてるのはそれなりの理由があると考えてるんですけどね。研究はこれからなので、本当に証明してもらえたら嬉しいですね』
    『そうですねえ。ちょうど明日は夜明けのお祭りの日ですね。みなさんも、魔法はあるかな? って考えてみるのも楽しいかもしれません』
    「えっ、もう明日?」
     大きな声が出た。首をひねってカレンダーを覗き込む。日の経つことのなんとまあ早いこと。
    『はい。僕もお祝いします』
    『歴史の先生にお伺いしました。では次のおともだち』
     ラジオは次の質問者へ移っていった。さて、夜明けの日が明日なら今日のうちに済ませておかねばならないことが山ほどある……
    アミシティア譚
     誰かが王に問うた。王は聖石の中で何をしておられたのですか。王は答える。力を求めた。王よ、王は聖石の中で何か見られたのですか。王は一度舌で唇を湿し、まぶたを下ろし、開け、それからゆっくりと問いに答えた。
    「二千年を見た。神々と人々の二千年の営みを。選ばれ、生きて、死に、繋いだ人々を。そして同様に王たちを」
     王よ。質問者はそれきり絶句して慟哭をこらえた。
     王は続けた。
     百十三人の王たちの宿命を見た。はじめに選ばれ兄弟を屠った王。民を守った王。治世に努めた王。他国を侵した王。強権をふるった王。死を恐れ泣いた王。夫を膝に抱き子に託し死んだ王。妻を喪い敵を呪った王。民を殺した王。異国を救った王。誰も愛さなかった王。誰をも愛したため心を引き裂かれた王。私を愛し育てた王。王になれなかった王。
     王は青年のような唇と、王たる精悍な頬と、そして二千年の遥かをたたえた眼差しを優しく質問者へ向けて言った。
    「その誰もが血を呪い、血に祝福され、ときに囲まれ、ときに独りで、生き、死んだ」
     それを見た。そう言って質問者を待った。
     ……王よ。わななく声で質問者が言った。王よ。私はあなたをその二千年ごと護る。神と、民と、国と、血と、寿ぎと、呪詛と、あなたの魂を。
     質問者の眼差しが射るように王を見た。王はその無礼を咎めず言った。許そう、アミシティアの鳥よ。二千年を護れ。




     その問答はまことの盾と呼ばれた鳥の墓に刻まれている。今よりはるか昔のことである。
    bare_yama Link Message Mute
    2019/01/28 21:50:10

    王の肖像/幻の光

    人気作品アーカイブ入り (2019/01/29)

    his portraitists/the sacred sacrifices

    FF15の小説Web再録です。
    #FF15 #FFXIV #ノクティス

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