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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    ストリング・クロス1 夕暮れ2 夜更け3 昼下がり※仕様上の都合により、オフライン紙本版と異なる部分があります。
    (1)キャラクター名を漢字表記→カタカナ表記としています。
    (2)一部の難読漢字をひらがな表記としています。
    1 夕暮れ
    「うん、美味しいわ」
     柔らかさを損ねず、旨味を封じ込めた焼き加減……ビュッフェ皿から口に運んだ、ポークカルビの炙りを、私は決まり文句で評した。
     夕方出港、明後日の昼には目的地につく、国内航路の船旅。定期航路の客船で出しているビュッフェということで、とりあえず満腹になれば御の字だろう――と大して期待はしていなかったのだが、これは期待より少し上の味と言ってよかった。
    「スパークリング清酒か……ま、相性は悪くないわね」
     それなりに酒をたしなむ私にとっては物足りないが、口当たりの軽やかさと微炭酸の爽やかさは、軽食にはむしろ丁度いい。
    「さて……船旅といっても」
     ビュッフェ皿を片付けて、レストランスペースを出る。木目を基調とした階段が目を引くエントランスには、出港して間もないせいか、多くの旅客が往来している。
    「丸2日近くも、一体何をすればいいのやら」
     そう。色々と暇つぶしスペースは用意されているとはいえ、ひとりの船旅は結構暇を持て余すのは、目に見えていた。旅慣れてはいるつもりだが、のんびりとした移動手段たる船旅は、ほとんど経験がない。
    「ラウンジ、ねぇ」
     しばらく船内を目的もなく巡っていると、船尾近くにあるラウンジスペースから、軽快な弦楽器の音が漏れ聞こえ始めていた。私は引き寄せられるように、ゆっくりとラウンジの入り口をくぐる。
     聴衆は6割方の埋まり具合といったところで、思ったよりもまばらだった。しかし前方で聴くのも気が引けた私は、最後方の1人掛けソファに腰掛ける。
     クラシックとタンゴを中心とした、10曲ほどの五線譜の世界へ、ぼんやりと浸っているうちに、予定されていたプログラムが全て終わったのか、深々と頭を下げる演奏者。
     心の中で目を細めながら、女性離れした力強さと、女性らしい繊細さ。そして確かな技術が織りなす、弾きっぷりの良さが耳目の印象に残った女性演奏者に、私は拍手を送る。
    「ありがとうございました……まだ少しだけお時間がありますので、お客様でご所望の曲がありましたら、お弾きしますけど、いかがでしょうか?」
     白を基調とした衣装から、スラリと伸びる健康的でつややかな手脚。やや茶色に染めた長い髪を後ろで結んだ、まだ若そうなその名も知らぬ演奏者は、マイクスタンドを引き寄せる。
    「ええっとですね、クラシック以外にも、結構いろんな楽曲をご用意していますよ」
     演奏中の堂々とした弾きっぷりの良さからは信じられないほど、やや猫背気味で自信なさげな雰囲気が漂う様子と、アンコールの要望はなかなか上がってこないため、少し気まずい空気に私も眉をひそめた。
     仕方ない。
     私は記憶の倉庫から、聴き応えがあり、かつ誰もが親しみのありそうな名の通った曲を物色する。
    「情熱大陸」
     ほんの少し間を置いて、私が最後方の席から上げた声は、凛としてきちんとラウンジ内に響いていた。
    「情熱大陸を所望するわ。あなた、弾ける?」
     私が選んだのは、弦楽器でよく演奏される定番曲。ラウンジにいる人で、気づいている人はどれだけいるかは知らないが、あの名も知らぬ演奏者が弾いているのは、ヴァイオリンではなくヴィオラなのだ。伴奏はピアノのみ、プロのヴィオリストの独奏など、そうそう耳にできるものではない。
    「ええ、弾けますよ、譜面はあるはずだけど……ねえ、そっちはある?」
     独り言、伴奏ピアニストへの声かけ、譜面をぱらぱらとめくる音が、ラウンジに響く。お嬢さん、マイクが入りっぱなしだってば。
    「あ、ありました……では、奥の黒いワンピースとショートヘアが素敵な淑女様からのリクエスト、『情熱大陸』で、本日最後の演奏とさせていただきます」
    2 夜更け   

     すっかり日も暮れて、月明かりをほのかに照らしながら揺れる海面と、澄んだ星空を眺めながら。私は、クラフト紙に包まれた円筒ボトルを軽く斜めに傾け、グラスに菜の花色の液体を少し注ぎ、くいっと呷った。
     強めながら刺々しさのないアルコールの旨味と、ほんのりと広がる麦の甘みが心地いい。
    「うん、美味しいわ」
     幾つものテーブルと椅子が並んでいる、広々とした硝子張りの展望通路。私は椅子にゆるりと腰掛け、持ち込んだお気に入りの麦焼酎を、ちびちびと飲っていた。
     いわゆる晩酌というか寝酒ともいう。寝るにはまだずいぶん早いけど。
    「くはーっ!」
     ――人が静かに呑んでるときに。
     無粋な、明らかに酔っぱらいが発したものとしか言い様がない声の方を向いてみると。
    「うまー、もう1杯いってみよー」
     さすがの私も、あまりの見知った姿との格差に目を丸くする。脇にヴィオラケースを立てかけ、テーブルに左肘で頬杖を突きながら、右手で明らかにウイスキーボトルと思しき瓶を、かなりの急傾斜で傾けていたのは……ほんの2時間ほど前にステージの上にいた、かのヴィオリストの女性だった。
     いやあの。銘柄まではわからないけど、ウイスキーって度数が40以上のものが大半だから。その量と勢いで呑んだら、そのうち記憶なくなるから普通。
    「とても、大人のレディにふさわしい呑みっぷりとは言えないわね、ヴィオリストのお嬢さま」
     酒乱化する前に、さすがに止めた方がいいだろうと思い、私は冷水の入ったグラスを左手に持って席を立ち、彼女の横に移動。口に運ぼうとしていたグラスに、そっと右手でふたをするようにして制止する。
    「ちょっと……あ、あなたはさっきの『情熱大陸』の人」
    「どういう覚え方されてるのよ」
     私は即座にツッコミを入れつつ、右手をグラスから離しながら、斜め向かいの椅子へと腰掛けた。
    「人がどういう呑み方してても勝手でしょ」
    「その通りよ。私が、今日はひとりで呑む気分じゃないから。あなたと呑んだ方が、美味しいお酒が飲めそうだったからね」
     チェイサーをテーブルに置き、私は落ち着いた声色で答える。まだ私が酔い潰れる量には程遠い。
    「あら、ナンパしてるの? 名前も知らないお姉様?」
    「ふふ、そうかもよ? 名前も知らないお嬢さま?」
     二人でクスクスと笑みを浮かべながら、私は彼女からボトルをひったくり、マドラーを手にすると、マドラーを這わせるように、ゆっくりとチェイサーへウイスキーを少し注ぐ。
    「……へえ、いっちょ前にシングルモルトじゃない。浴びるように呑むには、勿体ないシロモノね」
     瓶のラベルをいちべつしながら、私は半ば呆れた声色を発する。慣れていない人はクセの強烈さに顔をしかめる、独特の香りの深さは、まさしくシングルモルト古酒の風格。庶民が呑むにはお高い値段がついている、明らかな高級酒だった。
    「わぁ、なんてきれいなの……」
     シトリンのように華やかな煌めきと、クォーツのように透き通った輝きとが、綺麗にグラスの中で上下に分かれている。私が即興で作って見せたウイスキーフロートに、彼女は感嘆の声を漏らす。
    「お姉様、かなりの酒通ね」
    「まさか。ただの腑抜けた酒好きよ……これだけの高級酒をくれるファンができた暁には、お礼も欠かさないようにして、大事にしておいた方がいいわよ。
     あと、私にも今のところヤガサキ・ソラっていう名前があるから」
     右手に持っていたグラスをテーブルに置きながら、彼女へ名前を先に名乗る。
    「そう、ソラさんね。わたしはカサマイ・ナユリ」
    「素敵な名前ね……ナユリさん、今日はなにか嫌なことでもあったの?」
    「え……なんで、そう思われたのですか?」
     やや目を丸くしながら、真っ直ぐにこちらを見るナユリ。
    「呑み方の激しさから」
     私は再び右手でグラスを持ち、ウイスキーフロート越しにナユリの瞳を眺める。
    「シングルモルトウイスキー特有の強い香りと風味は、私達の文化の味覚としては、伝統的に本来ないものよ。風味を調整したブレンデッドと違って、浴びるように飲めるほど、呑みやすいものではないわ。
     その香りの深さ、味わいの深さは、人が生きることの歓びと苦しみ、その人生の深さを、ぐっと呑み込んで味わい感じるようなもの。そう思っているからね」
     静かに、グラスの中で揺れる二つの色を、目を細めて眺めていた私は、ゆるりと喉に流し込んだ。
    「だから私は、ウイスキーは少しずつ、香りを感じながら噛みしめて呑むのよ」
     ひと口目がほぼストレート、ふた口目がトワイスアップ。その後は水割り……ひとつのグラスで3通りの味わいを楽しみ、グラスをテーブルに置くと同時に、横から何故か拍手が起きる。いやその私、酒飲んだだけで何もしてないんですけど。
    「おぉー、お姉様飲みっぷりといい台詞といい、すっごいカッコイイ。まさに大人の女性だわ」
     ナユリは感心した声を上げる。恐らくナユリよりは多少歳は重ねていると思うが、そこまで感心されるのは……とても、懐かしい感覚を覚えたような気がした。
    「おい、そこの姉ちゃん達よぉ」
     ――人が気分よく呑んでるときに。
     今日はどうにも、ムードが出てきたところで気分を害されるあたり、お日柄が良くないのか、はたまた私の日頃の行いのせいなのか。後者には人生全体で十分すぎるほど心当たりはあるので、まあたぶん後者なのだろうと、心の中で嘆息する。
     酔っぱらいであろうと思しき、私よりひと回りは大きいワイシャツ姿が、こちらのテーブルに迫っていた。
    「ナンパならお断りよ。怪我しないうちにさっさとお部屋へ帰ることね、お兄さん」
     私はスッと立ち上がると、左手を腰に軽く当てながら、ワイシャツ姿とナユリの間に入るように立ち塞がる。
    「用心棒の姉ちゃんに用はねえ。用があるのは奥のお嬢様だ。そっちこそ部屋に帰んな」
     言うや否や、ワイシャツ姿は大雑把なモーションから、いきなり私の顔面を殴ろうと剛拳を繰り出してきた!
     ぱしんっ
    「っ!?」
     腰に当てた左手を振り上げ、腰の入ったフックを私は易々と受け止める。ボクシング熟練者なのか、拳速と圧力は申し分ないけど、この程度の鋭さではね……所詮はアスリートの拳に過ぎない、といったところ。
     とりあえず、いきなり女の顔を殴りつけてくるやからは、問答無用で張り倒してもいいと判断した。
    「とりゃっ」
     私は右手で手刀を作り、ワイシャツ姿の目にバチンと一撃すると同時に、左手をくるりとさせて相手の手首を引っ掴む。
    「あぐっ……」
     右手を手刀から、ワイシャツ姿の右拳の甲へと素早く持って行くと同時に、体を脇に入れ足払いしながら、右拳と右肘を思い切り逆関節に決めて。
    「うっ、い、いて、いてててて!」
     どうんっ
     ワイシャツ姿の大男を、呆気なく床へと捻り倒した!
    「……怪我しないうちに帰れって言ったろ? それとも、海に放り込もうかい?」
     私は、パンプスの踵でワイシャツ姿の水月を軽く踏んで見下ろしながら、私本来の声で、冷酷さをしっかり込めて言い放つ。
    「ひっ……!」
     ワイシャツ姿は小さく悲鳴を上げると、慌てて立ち上がり、展望通路の奥へと走り去っていく。
    「……?」
     男が走り去っていく方向の奥、人影がスッと消えていく一瞬を、私は見逃さなかった。
    「……ただの酔っぱらいじゃないわね。ま、いいか」
     私はいつもの調子に戻り、肩で一息つきながら、ナユリの方へと向き直る。
     彼女はあっという間の出来事を、呆然とした様子で見ていた。
    「……嫌われちゃったかな?」
     私は自嘲気味に言いながら、再び椅子へと腰掛けた。
    「い、いえ……そんな……あ、ありがとうございます。暴漢から、護ってくださって。そうだ、何かお礼を」
     遠慮がちに頭を下げるナユリに、私は軽く頭を横に振る。
    「いいのよ。それより、せっかく美味しいお酒を呑んでいたのに台無しね。呑み直しましょうか……もう少し人目のつく場所で、ね」

    「味わってというより、結構ガンガン行くんですねビール」
     ナユリはビアグラスをちびちび傾けながら、私を平べったい目で見つめている。酔いはさっきより多少醒めているらしい。
     展望通路から、船内設備の軽飲食スタンドに場所を移すと、お互いシングルソファに対面で腰掛け、くぴくぴと呑み直していた。
    「軽くひと運動した後は、ビールのしゅわしゅわ感が美味しいものよ」
     客船で出しているクラフトビールは、いかにも地ビール然とした濃い赤銅色。口の中に流し込むと、いささか雑味は強いものの、広がる良質な苦みは、気分を良くさせてくれる。
    「お兄さん、同じやつもう1杯。あ、チーズクラッカーも追加」
     私はカウンターの向こうへ、5杯目の追加注文を流す。
    「それわたしにもーっ、おろっ、ピアノステージ始まるじゃないですかっ? おーいっ」
     チェイサーを一気に呷り、ナユリは傍らのヴィオラケースを抱えて立ち上がると、スタンドの入り口にある、スケルトンタイプのグランドピアノに向かう。ナユリのラウンジ演奏時にいた、伴奏の女性ピアニストが、ちょうど演奏に入ろうかというところだった。
    「やめなさい、酒飲みさん」
    「だいじょうぶだいじょうぶ」
     追いかけて制止する私の声なんてどこ吹く風。ナユリは、ピアニストと幾つか談笑しながら言葉を交わす。
    「大丈夫だから、ソラさん。さきほどのお礼に、1曲弾いてさしあげますわ」
     振り向いて私を見つめるナユリの目は、酔っぱらいのそれではなかった。
    「……そう?」
     私は自分の席へと静かに戻る。ヴィオラケースから楽器を取り出し、脇に退かされていた譜面台に楽譜をセット。
     数度軽く息を吸って心と佇まいを整えたナユリは、ピアニストと視線を交わしてお互いにひとつ頷き、スタンド内に2人で『Summer』の旋律を響かせてゆく。

     ――心地よいテンポの、染み渡るように穏やかな旋律。夏の豊かな自然の移ろいが、時間を優しく刻んでゆくような感覚――

     弾き終わると、ぽつぽつといたスタンド内のお客から、拍手が起きる。ナユリも勝手に演奏して良かったのかは知らないけど、まあそこはナユリが後ほど責任を取るでしょう、と冷淡なことを思う私。
     ナユリは軽く一礼してから、再びソファへと戻ってきた。
    「ありがとう、ナユリさん。素敵な『Summer』だったわ」
     私は拍手をしながら彼女を出迎える。ヴィオラの優しい音域だからこそ活きる、心に沁みるような演奏だったのではと思う。
     空になっていた彼女のビアグラスが下げられ、新たに赤銅色が満たされたグラスが運ばれてきた。
    「……この客船で、いつもヴィオラは弾いているの?」
    「いえ。このフェリー会社の仕事は、ありがたいことに定期的に頂戴しているけど、今回はこの一便だけの仕事よ。
     ……決まった地方だけで仕事したくない理由があって、ね」
     ピアノ演奏の背景音楽が流れ始める中、ナユリはそう言うと、ビアグラスをやや急角度に傾けてビールを呷る。
    「毎日演奏するお仕事も、充実はしているけど……普段、生演奏の音楽を聴く機会に恵まれない人々に、ひとりでも多く演奏を聴いて欲しいし。もっと大きなチャンスとか、掴めるといいんですけどね」
     少し残った赤銅色を見つめながら、ナユリはしんみりとした表情を見せた。
    「チャンスはよく逃げるものだけど、晩酌は逃げないわよ。
     チャンスが来たら、逃がさないように全力でとっ捕まえにいくことね。晩酌は、チャンスをとっ捕まえてからでも、楽しめるのだから……
     これ、呑兵衛な世捨て人からの受け売り」
     右手に持ったグラスを軽く上に掲げ、私は優しく微笑んだのだった。

     ――あなた、相当人を殺してるみたい。ちょっと救いようがないわね。
     ――それでも、助けてあげたい? 受けた愛情は心に刻まれても、与えた愛情は何も残らないとしても。
     ――わかった。助けてあげる。そして、簡単には死なないような丈夫な命も与えてあげる。ただし……

    「ひっ」
     小さく悲鳴を上げて。私は跳ねるように、ベッドから上体を起こした。
     また、嫌な夢を見た。
     夢の先の結末もよくわかっている。それでも……
    「ふぅ……少し呑みすぎたせい、か」
     額にかいた大粒の汗を袖で拭いながら、私は小さな窓の外を眺める。揺れる濃い黒と、揺るぎなき薄い黒。単調な風景でしかないのだが、客船の1等客室にいる……その事実が、妙に心を落ち着かせてくれた。
     再び枕へと頭を沈める。今度の眠りは深かった。
    3 昼下がり
    「あら、こんにちは。お仕事はいいのかしら?」
     透き通り始めた青空と薄雲は、まさに秋の空。真っ昼間の展望デッキで、白いトートバッグを片手に、黒いヴィオラケースを背負ったナユリは、海を眺めていた。
    「あらソラさん、こんにちは。入出港前と、夕方前にスタンドで少し弾いて。あとは夜のラウンジ演奏の契約ですから、この時間はフリーってやつです」
     赤いカットソーに白のカジュアルパンツ。ラフな格好のナユリは、秋の日差しのように穏やかな笑顔を浮かべる。
    「楽器の練習は、少ししますけどね」
    「そうなの? なら、昼酒は御法度かしら?」
     小さなボトルを右手に掲げて、軽くウインクする私。
    「あは、昼酒ってぜいたく感があっていいですね。ちょっと憧れ。少しなら付き合いますよ」
     ナユリは満足そうな、眺める側が心地良い笑顔を振りまく。
     海上の風は穏やかだが、船が航行する風圧のせいで、展望デッキはやや強めの風が常に吹いている。風の弱い場所を探し、2人で船の壁際までゆくと、ナユリはバッグを足許に置いた。
     乗客はちょうどランチタイムに入る頃合い。展望デッキに他の乗客は見当たらなかった。
    「透き通った色のお酒ですね」
     独り呑みするつもりだったので、ひとつしか持って来ていなかったミニグラスに、私は澄んだ山吹色を少し注ぐ。
    「爽やかな昼下がりに呑むには、最適の逸品よ。お先にどうぞ」
    「あら、なら頂いちゃいます」
     ナユリはグラスを軽く傾け、少し口に含むと――昨夜の様子からだいたい予想してたけど、この娘は無類の酒豪ね――そこから一気に中身をあおった。
    「ぷはっ、美味しい。ウイスキーですね、それもすごく若いっていうか、軽やかだけど味はしっかりしてる、爽やかな後味っていうか」
    「グレーンウイスキーだからね。こんな秋晴れの日に呑むには最高でしょ?」
     私はナユリからグラスを受け取り、逆に彼女へボトルを渡す。そして、ナユリが今度はグラスへと国産グレーンウイスキーを注いでゆく……ってこら、なみなみと遠慮なく入れないの。
    「さ、ぐい~っと」
     言われなくてもぐいっと呑むわよ……と、私は心の中で苦笑しながら、グラスをやや急角度で傾ける。
    「うん、美味しいわ」
    「さすがいい飲みっぷりですね……っと、そうだ、せっかく展望デッキに来たのだし」
     ポンと軽く手を合わせたナユリは、トートバッグを再び手に持って、ヴィオラケースを背負ったまま強風をものともせず、展望デッキの前方の端まで歩いていく。展望デッキ前方からは、客船の船首部分と、広々とした海と空が広がっていた。さすがは船の最上階というだけはある眺め。
    「ソラさん、タイタニックごっこ!」
    「展望デッキで?」
     私は呆れた声を上げる。展望デッキの安全柵の一角に捕まってタイタニックごっこなど、見ようによっては頭の悪い人以外の何者でもない気がする。
    「いいの、大事なのは雰囲気よ雰囲気!」
    「……はいはい、わかったわよ」
     背負っていたヴィオラケースを降ろし、手荷物とともに風の死角になる場所に置いてから、展望デッキの安全柵ギリギリまで体を寄せるナユリ。その後ろへと私は回り込み、胴を両側から軽く掴む。そして、ナユリは思いっきり両手を広げて十字ポーズ。
     ――うっ!
     十字ポーズで空気抵抗が一気に増したうえ、ナユリが足を踏ん張るのをやめたせいか、両手には一気に負荷がかかる。たまらず全身で踏ん張り、両手には思わず力が入る。
     握力は人並み以上にはある私でも、ほとんど指が食い込まないほどナユリの胴は硬かった。艶やかな肌と滑らかなボディラインからは想像できないほど、ものすごい筋肉質。腹筋なんてスポーツ選手並みに割れてるんじゃないのこの娘?
    「これよーこれ! きもちいいー!」
     満足そうな笑顔で叫ぶナユリ。ごめんナユリさん、支える私はちょっと……じゃなくて、かなりつらみ。
    「ありがとー、もういいわ!」
     ナユリは十字ポーズをやめると、私は彼女の身体を支える苦行から解放される。
    「あー、意外としんどいわ支えるの。ナユリさん、貴女けっこう筋肉質じゃない?」
    「ふふふ、そうだと思います。毎日鍛えてますもの。
     ヴィオラはですね、人の声に近い音域の楽器なんですよ。なので、ヴァイオリンと比べて、音が届きにくい楽器でもあるんです……それでも、その音と魅力を伝えたい。理想的なフォームを揺るぎなく保つ体幹は、私にとってとても大切なものです」
     弾いている姿勢の美しさ、そこから生み出される弾きっぷりの良さ……彼女の回答に、私は思わず目を細めた。
     風の強い展望デッキ前方から、風の死角となる後方デッキへと並んで移動すると、ナユリはトートバッグから譜面を取り出した。
    「さて、少しは練習もしないと。今回のお仕事が終わってもすぐ、次のお仕事がありますから……タイタニックごっこにお付き合いしてくれて、さらになんですが、曲の練習にも少し付き合ってくださいな」
     そう言うと、ナユリは譜面を開いて私に両手で渡そうとする。
    「譜面台ないですし、そもそも譜面台では風で飛んじゃうので、ソラさん楽譜開けて持っててください」
    「人間譜面台……あなた、考えることがほとほとユニークね」
     私は、タイタニックごっこの時以上の呆れ顔を披露する。といっても、ヒマなので断る気にもならず、また理由も思いつかず、おとなしく楽譜持ちをやる。
    「お酒のお礼に、練習とはいえ心を込めて弾きますから……映画のタイタニックといえば主題歌『My Hart Will Go On』ですが、私がさらに好きな曲はこっちの方」
     ナユリは、私が彼女へ見えるように手に持つ、リングファイルに綴じられた楽譜をパラパラとめくり、ケースからヴィオラと弓を取り出すと、慣れた手つきで演奏の準備を整える。そして、ポケットからスマートフォンを取り出して操作し、再びポケットへ。
     数度、静かに呼吸を整えるナユリ。練習とはいえ、その真剣さがしっかり伝わってくる。ナユリの表情は変わらず穏やかだが、目の奥の力強さが変わった。スマートフォンからほのかに前奏が流れてくる。

     ――最初は、緩やかな波打ち際のような入り。途中から、翻弄される巨船の如く激しく。そして伸びやかで静かな、心を打つ旋律へ――

    「初めて生の楽器で聴いたわ。劇中曲『Hard to Starboard』ね。編曲もお見事」
     私は両手に譜面を持つので拍手はできないが、それを聞いてナユリは充分だったのだろう。満足そうで得意げな微笑を浮かべながら、弓先をスッと天へ向けた。
    「いい曲ですよね。聴き応えのある曲で、一度弾いてみたかったんですよねー。結構前から練習してきたんですよ」
    「それはいいけど、ナユリさん」
     ツッコむべきかどうするべきか。私は一瞬だけ逡巡したが、意を決してコンマ数秒。私は平べったい目をしてナユリを見る。
    「客船の上でタイタニックの曲弾くは不吉極まりないでしょ。この船沈める気?」
    「うっ……!」
     姿勢を硬直させたまま、軽く背をのけぞり、呻き声を漏らすナユリ。さすがにこの感想は予想していなかったらしい。
    「そ、そういうわけじゃないですけどっ……そ、そう、次の曲も練習しないと」
     ナユリは再びスマートフォンを操作し、楽譜をめくる。彼女の頬にひと筋の汗が流れているのを、私はもちろん見逃さなかった。
     やや動揺した様子から、すぐに平静さを取り戻して弓を構えるナユリ。

     ――ゆったりと情緒的な入りから、ほのかな軽快さを感じる旋律。そして、心が激しく揺れ動く様のような、力強いハイピッチへ――

    「……どうです? コルサコフの名曲『シェエラザード』の第1楽章より」
    「……うん、お見事だったわ……」
    「どうしたんです、すっごい呆れを通り越したような顔……あ、あまりお気に召さなかったかしら……」
     ナユリはかなり心配そうな、眉間にしわを寄せた、真剣に動揺した表情を見せる。いや演奏はすごく良かったと思うのだけど。
    「太平洋戦争の末期に沈められた、豪華客船の弥勒丸……史実では阿波丸だけど、その阿波丸事件をモチーフに書かれた、ある名作ノベルが……」
    「えっ……ま、まさか」
     ナユリの声が完全に裏返る。
    「……はい、そのまさか。
     タイトルは『シェエラザード』よ」
     …………………………………………
     展望デッキに、風と波の音だけが数秒響く。
    「……やっぱりこの船、沈めたいんだ」
    「ち、ち、違います! た、たまたま偶然です! そもそも、クラシックの名曲と同じ名前だなんて、ネット検索したときにほら、すごく紛らわしいじゃないですか!」
    「ツッコミのポイントそこ!?」
     正直なところ、かなり取るに足らない話題のようにも思うのだが、ナユリは頬をぶんむくれさせて私に詰め寄る。
    「ふふふっ……」
     自分でツッコミした結果で何だが、私は途中からやたら可笑しくなり、吹き出しながらナユリの詰め寄りを巧みにかわす。
    「もう、そんなに笑わないでくださいよぉ、そもそもソラさんが変なこと言うからでしょ」
     釣られて笑い始めるナユリを見て、私も安堵感に包まれたような感覚を覚える。
     刹那。
    「あれっ……?」
     急速に私の視界は、ぐるりと変な方向に回り始める。遠くでナユリの慌てて叫ぶ声を聞いた気がしながら、意識は暗転していった――

    「ひっ」
     私は小さな悲鳴を上げ、目を覚ました。
    「あ、よかった! 気がついたのね」
     視界には天井と照明。そしてナユリが覗き込むように、横から視界へと入ってきた。
    「あれ、私、展望デッキで……」
    「いきなり気を失っちゃうから、心臓凍るかと思ったわ。とりあえずあなたのお部屋に運んだのだけど、すぐに意識が戻ってよかった」
     ナユリは、冷えたタオルを私の額にのせながら、心配そうに説明してくれた。
    「反射性の失神で、前触れもなくたまに起こすのよ。だいたいは数分から20分ぐらいで回復するけど……持病ってやつね。って、ここ私の部屋!?」
     最後が裏返り気味の声を上げる私。
    「だって……私のお部屋に連れ込めるわけがないでしょう?」
     ナユリは複雑な表情をすると、おもむろに掛け布団の上から……私の股間をふた叩きする。いや待ってそこはちょっと。
     叩かれると痛いの急所は。
    「ソラさん、まさか貴方、男の人だったなんて……」
    「…………」
     完全に凍りつく私。
     ……仕方ない。私はナユリから視線をやや逸らし、天井を見上げたままで開き直る。
    「……そうよ。別に隠しているわけではないからいいけど、私の性別は男。世に言う女装男子っていえばそうかもしれないけど、お風呂以外はちゃんと女性生活してるわよ」
     さすがに共同浴場の女湯に入るのは無理があるので、個室トイレとシャワー付きの1等客室を取っているのだが、そこまで説明する気にもなれなかった。
    「うーん、深くは聞かないけど、わけあり人生なんでしょうね、ソラさんも……」
     ナユリも視線を外す。いささか気まずい空気がどんよりと部屋を満たしてゆく中、ナユリは部屋の片隅に、さまよわせていた視線を止めた。
    「あら、ソラさんも楽器やるの?」
     そう言うと、私の部屋の隅に置かれていた、かなり大きめの長方形手提げバッグへと歩み寄る。
    「まあ、ぬいぐるみまで。私もお気に入りキャラのぬいぐるみ、ケースに付けてますけど。みんな考えることは一緒なんですね、ふふ……?」
     ナユリはバッグの持ち手に下げてある、小さな熊のぬいぐるみを手に取ると、そこで動きを止めた。
    「やだ、あちこち汚れてるの……?」
    「ちょっと、ナユリさん……」
     また意識が不鮮明で、ベッドから起き上がれない私は、代わりに不機嫌そうな声を上げる。あまり他人のものに……私の古傷に勝手に触らないでくれるかしら?
    「あ、ご、ごめんなさい、勝手に触っちゃだめですよね……」
     彼女に悪気がないのは分かっているのだ。なんとか話題を変えようとしているのだろう。
    「……それね、楽器じゃないのよ……開けてごらんなさい」
     その気遣いを感じたからこそ、少し逡巡して……諦めたように私は声を掛けた。
     ナユリも何か感じ取ったのか、無言でケースの固定具を外し、中を覗く。
    「えっ……なにこれ……?」
     自分の知識にはない、得体の知れないものを見たときの、お手本みたいな反応を示すナユリ。
    「コンパウンドボウって言ってね」
     ここは誤魔化した説明はしない方がいいだろう。
    「強力な機械弓よ。外国では趣味で猟をする人が、動物ハンティングに使うことが大半だけど」
     私は意を決して、そのひと言で、ナユリから得た全てを失っても仕方ないと達観して、ストレートに中身の正体と用途を告げた。
    「それで、私は幾人もの人間を暗殺した」

    「ひっ」
     ナユリはしばらく沈黙した後、彼女の操る弓とは対極の存在たる私の操る弓を、小さな悲鳴とともに慌ててケースへと戻した。
    「……びっくりしたでしょ?」
    「びっくりしたというか」
     ナユリは少し泣いた声で立ち上がり、ベッドの横にある椅子へと、居住まいを正すように座った。
    「ソラさんは女装、というか男性であることをやめようとしていたり、それでいて変な武器を持ってたり、しかも、あの呑兵衛で優しくて、私の心に寄り添ってくれるソラさんは実は人殺し? ほんの数分で一気に色々ありすぎて、もうわたし、わけがわかりません」
     そりゃそうかもしれない。いくらなんでも展開が急すぎて、仮にこれが架空の物語だとしたら、私は作者に盛大なクレームをつけているところである。
    「うーん、どこから話そう……」
     私は天井から視線を外さぬまま、泣いている、いや泣いてくれているナユリのために、きちんと話そうと思った。
     人は、想いを正確に伝えることができる、言葉という魔法を操れるだけ、あるいは幸運な生き物なのかもしれないが、裏を返せば、言葉にしなければその想いを正確に伝えられない、不便な生き物だと、つくづく思う。
     言葉にして伝える、刻と手段すら失ってしまう前に。
     私は想い人へ伝える、その刻と手段すら突然失うことを経験したのだから――

    (ソラの想い出と、男として生きることを捨てた、明かされる秘密。そしてナユリの秘密とさらなる急展開を経て、物語は最終章へ……続きはオフライン版または電子書籍版で!)

    -------------------------------
    ※この物語はフィクションです
    ※例外として、楽曲名については実在するものを想定して引用しています
    ※特定の性別・価値観・思想・行為について、差別的な意図や考えは全くない作品であることをここに宣言します
    haruhaku Link Message Mute
    Mar 30, 2019 11:58:22 AM

    ストリング・クロス

    "音楽とお酒が彩る、少し大人なロマンティック・ライトノベル"

    現代ファンタジー作品です。
    全体的にはロマンチック系なのですが、主人公の"再生の物語"でもあり、ヒロインが"夢に挑む物語"でもあります。

    音楽を取り扱う作品としてはレアな、弾き手(歌い手)主人公ではなく、"聴き手の一人称"による作品となっています。

    ヒロインが操る、物語のメイン楽器はヴィオラです。ただしピアノも若干登場します。
    ヴァイオリンではなく、ヴィオラをメインは極めて珍しいと思います。
    (ヴィオラとは、ヴァイオリンと形はほぼ同じで、ワンサイズ程度大きい弦楽器です)

    物語の雰囲気を彩るものとして、お酒も多く登場します。

    物語の流れを締めるため、バトルファンタジー要素も含まれた、緩急のきちんとした作品です。
    (バトルシーンは、前半部分はほとんど含まれません)

    老若男女を問わず、楽しんでいただける作品かと思います。

    完成版の試し読みとして、物語の前半部分を掲載しています。
    完成版は約4万字の中編ライトノベルとなります。

    続きはオフライン紙本版・PDF電子書籍版にてお読みいただけます。
    ※オフライン紙本版は、現在通販準備中です。
    ※BOOTH自家通販・架空ストアでの頒布を予定しています

    作=悠川 白水
    イラスト=みやび(サークル 梟の栞)

    #オリジナル #創作 #オリキャラ #ファンタジー #ライトノベル #一次創作 #楽器 #エンタメ #ヴィオラ #音楽 #ピアノ #ウイスキー #恋愛

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