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    ストリング・クロス1 夕暮れ2 夜更け3 昼下がり4 想いで5 弓をひく6 届け、心に7 聴き届ける1 夕暮れ
    「うん、美味しいわ」
     柔らかさを損ねず、旨味を封じ込めた焼き加減……ビュッフェ皿から口に運んだ、ポークカルビの炙りを、私は決まり文句で評した。
     夕方出港、明後日の昼には目的地につく、国内航路の船旅。定期航路の客船で出しているビュッフェということで、とりあえず満腹になれば御の字だろう――と大して期待はしていなかったのだが、これは期待より少し上の味と言ってよかった。
    「スパークリング清酒か……ま、相性は悪くないわね」
     それなりに酒をたしなむ私にとっては物足りないが、口当たりの軽やかさと微炭酸の爽やかさは、軽食にはむしろ丁度いい。
    「さて……船旅といっても」
     ビュッフェ皿を片付けて、レストランスペースを出る。木目を基調とした階段が目を引くエントランスには、出港して間もないせいか、多くの旅客が往来している。
    「丸二日近くも、一体何をすればいいのやら」
     そう。色々と暇つぶしスペースは用意されているとはいえ、ひとりの船旅は結構暇を持て余すのは、目に見えていた。旅慣れてはいるつもりだが、のんびりとした移動手段たる船旅は、ほとんど経験がない。
    「ラウンジ、ねぇ」
     しばらく船内を目的もなく巡っていると、船尾近くにあるラウンジスペースから、軽快な弦楽器の音が漏れ聞こえ始めていた。私は引き寄せられるように、ゆっくりとラウンジの入り口をくぐる。
     聴衆は6割方の埋まり具合といったところで、思ったよりもまばらだった。しかし前方で聴くのも気が引けた私は、最後方の一人掛けソファに腰掛ける。
     クラシックとタンゴを中心とした、一〇曲ほどの五線譜の世界へ、ぼんやりと浸っているうちに、予定されていたプログラムが全て終わったのか、深々と頭を下げる演奏者。
     心の中で目を細めながら、女性離れした力強さと、女性らしい繊細さ。そして確かな技術が織りなす、弾きっぷりの良さが耳目の印象に残った女性演奏者に、私は拍手を送る。
    「ありがとうございました……まだ少しだけお時間がありますので、お客様でご所望の曲がありましたら、お弾きしますけど、いかがでしょうか?」
     白を基調とした衣装から、スラリと伸びる健康的でつややかな手脚。やや茶色に染めた長い髪を後ろで結んだ、まだ若そうなその名も知らぬ演奏者は、マイクスタンドを引き寄せる。
    「ええっとですね、クラシック以外にも、結構いろんな楽曲をご用意していますよ」
     演奏中の堂々とした弾きっぷりの良さからは信じられないほど、やや猫背気味で自信なさげな雰囲気が漂う様子と、アンコールの要望はなかなか上がってこないため、少し気まずい空気に私も眉をひそめた。
     仕方ない。
     私は記憶の倉庫から、聴き応えがあり、かつ誰もが親しみのありそうな名の通った曲を物色する。
    「情熱大陸」
     ほんの少し間を置いて、私が最後方の席から上げた声は、凛としてきちんとラウンジ内に響いていた。
    「情熱大陸を所望するわ。あなた、弾ける?」
     私が選んだのは、弦楽器でよく演奏される定番曲。ラウンジにいる人で、気づいている人はどれだけいるかは知らないが、あの名も知らぬ演奏者が弾いているのは、ヴァイオリンではなくヴィオラなのだ。伴奏はピアノのみ、プロのヴィオリストの独奏など、そうそう耳にできるものではない。
    「ええ、弾けますよ、譜面はあるはずだけど……ねえ、そっちはある?」
     独り言、伴奏ピアニストへの声かけ、譜面をぱらぱらとめくる音が、ラウンジに響く。お嬢さん、マイクが入りっぱなしだってば。
    「あ、ありました……では、奥の黒いワンピースとショートヘアが素敵な淑女様からのリクエスト、『情熱大陸』で、本日最後の演奏とさせていただきます」
    2 夜更け   

     すっかり日も暮れて、月明かりをほのかに照らしながら揺れる海面と、澄んだ星空を眺めながら。私は、クラフト紙に包まれた円筒ボトルを軽く斜めに傾け、グラスに菜の花色の液体を少し注ぎ、くいっと呷った。
     強めながら刺々しさのないアルコールの旨味と、ほんのりと広がる麦の甘みが心地いい。
    「うん、美味しいわ」
     幾つものテーブルと椅子が並んでいる、広々とした硝子張りの展望通路。私は椅子にゆるりと腰掛け、持ち込んだお気に入りの麦焼酎を、ちびちびと飲っていた。
     いわゆる晩酌というか寝酒ともいう。寝るにはまだずいぶん早いけど。
    「くはーっ!」
     ――人が静かに呑んでるときに。
     無粋な、明らかに酔っぱらいが発したものとしか言い様がない声の方を向いてみると。
    「うまー、もう一杯いってみよー」
     さすがの私も、あまりの見知った姿との格差に目を丸くする。脇にヴィオラケースを立てかけ、テーブルに左肘で頬杖を突きながら、右手で明らかにウイスキーボトルと思しき瓶を、かなりの急傾斜で傾けていたのは……ほんの二時間ほど前にステージの上にいた、かのヴィオリストの女性だった。
     いやあの。銘柄まではわからないけど、ウイスキーって度数が40以上のものが大半だから。その量と勢いで呑んだら、そのうち記憶なくなるから普通。
    「とても、大人のレディに相応しい呑みっぷりとは言えないわね、ヴィオリストのお嬢さま」
     酒乱化する前に、さすがに止めた方がいいだろうと思い、私は冷水の入ったグラスを左手に持って席を立ち、彼女の横に移動。口に運ぼうとしていたグラスに、そっと右手で蓋をするようにして制止する。
    「ちょっと……あ、貴女はさっきの『情熱大陸』の人」
    「どういう覚え方されてるのよ」
     私は即座にツッコミを入れつつ、右手をグラスから離しながら、斜め向かいの椅子へと腰掛けた。
    「人がどういう呑み方してても勝手でしょ」
    「その通りよ。私が、今日はひとりで呑む気分じゃないから。貴女と呑んだ方が、美味しいお酒が飲めそうだったからね」
     チェイサーをテーブルに置き、私は落ち着いた声色で答える。まだ私が酔い潰れる量には程遠い。
    「あら、ナンパしてるの? 名前も知らないお姉様?」
    「ふふ、そうかもよ? 名前も知らないお嬢さま?」
     二人でクスクスと笑みを浮かべながら、私は彼女からボトルをひったくり、マドラーを手にすると、マドラーを這わせるように、ゆっくりとチェイサーへウイスキーを少し注ぐ。
    「……へえ、いっちょ前にシングルモルトじゃない。浴びるように呑むには、勿体ないシロモノね」
     瓶のラベルを一瞥しながら、私は半ば呆れた声色を発する。慣れていない人は癖の強烈さに顔をしかめる、独特の香りの深さは、まさしくシングルモルト古酒の風格。庶民が呑むにはお高い値段がついている、明らかな高級酒だった。
    「わぁ、なんてきれいなの……」
     シトリンのように華やかな煌めきと、クォーツのように透き通った輝きとが、綺麗にグラスの中で上下に分かれている。私が即興で作って見せたウイスキーフロートに、彼女は感嘆の声を漏らす。
    「お姉様、かなりの酒通ね」
    「まさか。ただの腑抜けた酒好きよ……これだけの高級酒をくれるファンができた暁には、お礼も欠かさないようにして、大事にしておいた方がいいわよ。
     あと、私にも今のところ矢ヶ崎空良(やがさき そら)っていう名前があるから」
     右手に持っていたグラスをテーブルに置きながら、彼女へ名前を先に名乗る。
    「そう、ソラさんね。わたしは笠舞那岼(かさまい なゆり)」
    「素敵な名前ね……ナユリさん、今日はなにか嫌なことでもあったの?」
    「え……なんで、そう思われたのですか?」
     やや目を丸くしながら、真っ直ぐにこちらを見るナユリ。
    「呑み方の激しさから」
     私は再び右手でグラスを持ち、ウイスキーフロート越しにナユリの瞳を眺める。
    「シングルモルトウイスキー特有の強い香りと風味は、私達の文化の味覚としては、伝統的に本来ないものよ。風味を調整したブレンデッドと違って、浴びるように飲めるほど、呑みやすいものではないわ。
     その香りの深さ、味わいの深さは、人が生きることの歓びと苦しみ、その人生の深さを、ぐっと呑み込んで味わい感じるようなもの。そう思っているからね」
     静かに、グラスの中で揺れる二つの色を、目を細めて眺めていた私は、ゆるりと喉に流し込んだ。
    「だから私は、ウイスキーは少しずつ、香りを感じながら噛みしめて呑むのよ」
     ひと口目がほぼストレート、ふた口目がトワイスアップ。その後は水割り……ひとつのグラスで三通りの味わいを楽しみ、グラスをテーブルに置くと同時に、横から何故か拍手が起きる。いやその私、酒飲んだだけで何もしてないんですけど。
    「おぉー、お姉様飲みっぷりといい台詞といい、すっごいカッコイイ。まさに大人の女性だわ」
     ナユリは感心した声を上げる。恐らくナユリよりは多少歳は重ねていると思うが、そこまで感心されるのは……とても、懐かしい感覚を覚えたような気がした。
    「おい、そこの姉ちゃん達よぉ」
     ――人が気分よく呑んでるときに。
     今日はどうにも、ムードが出てきたところで気分を害されるあたり、お日柄が良くないのか、はたまた私の日頃の行いのせいなのか。後者には人生全体で十分すぎるほど心当たりはあるので、まあたぶん後者なのだろうと、心の中で嘆息する。
     酔っぱらいであろうと思しき、私よりひと回りは大きいワイシャツ姿が、こちらのテーブルに迫っていた。
    「ナンパならお断りよ。怪我しないうちにさっさとお部屋へ帰ることね、お兄さん」
     私はスッと立ち上がると、左手を腰に軽く当てながら、ワイシャツ姿とナユリの間に入るように立ち塞がる。
    「用心棒の姉ちゃんに用はねえ。用があるのは奥のお嬢様だ。そっちこそ部屋に帰んな」
     言うや否や、ワイシャツ姿は大雑把なモーションから、いきなり私の顔面を殴ろうと剛拳を繰り出してきた!
     ぱしんっ
    「っ!?」
     腰に当てた左手を振り上げ、腰の入ったフックを私は易々と受け止める。ボクシング熟練者なのか、拳速と圧力は申し分ないけど、この程度の鋭さではね……所詮はアスリートの拳に過ぎない、といったところ。
     とりあえず、いきなり女の顔を殴りつけてくる族は、問答無用で張り倒してもいいと判断した。
    「とりゃっ」
     私は右手で手刀を作り、ワイシャツ姿の目にバチンと一撃すると同時に、左手をくるりとさせて相手の手首を引っ掴む。
    「あぐっ……」
     右手を手刀から、ワイシャツ姿の右拳の甲へと素早く持って行くと同時に、体を脇に入れ足払いしながら、右拳と右肘を思い切り逆関節に決めて。
    「うっ、い、いて、いてててて!」
     どうんっ
     ワイシャツ姿の大男を、呆気なく床へと捻り倒した!
    「……怪我しないうちに帰れって言ったろ? それとも、海に放り込もうかい?」
     私は、パンプスの踵でワイシャツ姿の水月を軽く踏んで見下ろしながら、私本来の声で、冷酷さをしっかり込めて言い放つ。
    「ひっ……!」
     ワイシャツ姿は小さく悲鳴を上げると、慌てて立ち上がり、展望通路の奥へと走り去っていく。
    「……?」
     男が走り去っていく方向の奥、人影がスッと消えていく一瞬を、私は見逃さなかった。
    「……ただの酔っぱらいじゃないわね。ま、いいか」
     私はいつもの調子に戻り、肩で一息つきながら、ナユリの方へと向き直る。
     彼女はあっという間の出来事を、呆然とした様子で見ていた。
    「……嫌われちゃったかな?」
     私は自嘲気味に言いながら、再び椅子へと腰掛けた。
    「い、いえ……そんな……あ、ありがとうございます。暴漢から、護ってくださって。そうだ、何かお礼を」
     遠慮がちに頭を下げるナユリに、私は軽く頭を横に振る。
    「いいのよ。それより、せっかく美味しいお酒を呑んでいたのに台無しね。呑み直しましょうか……もう少し人目のつく場所で、ね」

    「味わってというより、結構ガンガン行くんですねビール」
     ナユリはビアグラスをちびちび傾けながら、私を平べったい目で見つめている。酔いはさっきより多少醒めているらしい。
     展望通路から、船内設備の軽飲食スタンドに場所を移すと、お互いシングルソファに対面で腰掛け、くぴくぴと呑み直していた。
    「軽くひと運動した後は、ビールのしゅわしゅわ感が美味しいものよ」
     客船で出しているクラフトビールは、いかにも地ビール然とした濃い赤銅色。口の中に流し込むと、いささか雑味は強いものの、広がる良質な苦みは、気分を良くさせてくれる。
    「お兄さん、同じやつもう一杯。あ、チーズクラッカーも追加」
     私はカウンターの向こうへ、五杯目の追加注文を流す。
    「それわたしにもーっ、おろっ、ピアノステージ始まるじゃないですかっ? おーいっ」
     チェイサーを一気に呷り、ナユリは傍らのヴィオラケースを抱えて立ち上がると、スタンドの入り口にある、スケルトンタイプのグランドピアノに向かう。ナユリのラウンジ演奏時にいた、伴奏の女性ピアニストが、ちょうど演奏に入ろうかというところだった。
    「やめなさい、酒飲みさん」
    「だいじょうぶだいじょうぶ」
     追いかけて制止する私の声なんてどこ吹く風。ナユリは、ピアニストと幾つか談笑しながら言葉を交わす。
    「大丈夫だから、ソラさん。さきほどのお礼に、一曲弾いてさしあげますわ」
     振り向いて私を見つめるナユリの目は、酔っぱらいのそれではなかった。
    「……そう?」
     私は自分の席へと静かに戻る。ヴィオラケースから楽器を取り出し、脇に退かされていた譜面台に楽譜をセット。
     数度軽く息を吸って心と佇まいを整えたナユリは、ピアニストと視線を交わしてお互いにひとつ頷き、スタンド内に二人で『Summer』の旋律を響かせてゆく。

     ――心地よいテンポの、染み渡るように穏やかな旋律。夏の豊かな自然の移ろいが、時間を優しく刻んでゆくような感覚――

     弾き終わると、ぽつぽつといたスタンド内のお客から、拍手が起きる。ナユリも勝手に演奏して良かったのかは知らないけど、まあそこはナユリが後ほど責任を取るでしょう、と冷淡なことを思う私。
     ナユリは軽く一礼してから、再びソファへと戻ってきた。
    「ありがとう、ナユリさん。素敵な『Summer』だったわ」
     私は拍手をしながら彼女を出迎える。ヴィオラの優しい音域だからこそ活きる、心に沁みるような演奏だったのではと思う。
     空になっていた彼女のビアグラスが下げられ、新たに赤銅色が満たされたグラスが運ばれてきた。
    「……この客船で、いつもヴィオラは弾いているの?」
    「いえ。このフェリー会社の仕事は、ありがたいことに定期的に頂戴しているけど、今回はこの一便だけの仕事よ。
     ……決まった地方だけで仕事したくない理由があって、ね」
     ピアノ演奏の背景音楽が流れ始める中、ナユリはそう言うと、ビアグラスをやや急角度に傾けてビールを呷る。
    「毎日演奏するお仕事も、充実はしているけど……普段、生演奏の音楽を聴く機会に恵まれない人々に、ひとりでも多く演奏を聴いて欲しいし。もっと大きなチャンスとか、掴めるといいんですけどね」
     少し残った赤銅色を見つめながら、ナユリはしんみりとした表情を見せた。
    「チャンスはよく逃げるものだけど、晩酌は逃げないわよ。
     チャンスが来たら、逃がさないように全力でとっ捕まえにいくことね。晩酌は、チャンスをとっ捕まえてからでも、楽しめるのだから……
     これ、呑兵衛な世捨て人からの受け売り」
     右手に持ったグラスを軽く上に掲げ、私は優しく微笑んだのだった。

     ――あなた、相当人を殺してるみたい。ちょっと救いようがないわね。
     ――それでも、助けてあげたい? 受けた愛情は心に刻まれても、与えた愛情は何も残らないとしても。
     ――わかった。助けてあげる。そして、簡単には死なないような丈夫な命も与えてあげる。ただし……

    「ひっ」
     小さく悲鳴を上げて。私は跳ねるように、ベッドから上体を起こした。
     また、嫌な夢を見た。
     夢の先の結末もよくわかっている。それでも……
    「ふぅ……少し呑みすぎたせい、か」
     額にかいた大粒の汗を袖で拭いながら、私は小さな窓の外を眺める。揺れる濃い黒と、揺るぎなき薄い黒。単調な風景でしかないのだが、客船の一等客室にいる……その事実が、妙に心を落ち着かせてくれた。
     再び枕へと頭を沈める。今度の眠りは深かった。
     3 昼下がり
    「あら、こんにちは。お仕事はいいのかしら?」
     透き通り始めた青空と薄雲は、まさに秋の空。真っ昼間の展望デッキで、白いトートバッグを片手に、黒いヴィオラケースを背負ったナユリは、海を眺めていた。
    「あらソラさん、こんにちは。入出港前と、夕方前にスタンドで少し弾いて。あとは夜のラウンジ演奏の契約ですから、この時間はフリーってやつです」
     赤いカットソーに白のカジュアルパンツ。ラフな格好のナユリは、秋の日差しのように穏やかな笑顔を浮かべる。
    「楽器の練習は、少ししますけどね」
    「そうなの? なら、昼酒は御法度かしら?」
     小さなボトルを右手に掲げて、軽くウインクする私。
    「あは、昼酒ってぜいたく感があっていいですね。ちょっと憧れ。少しなら付き合いますよ」
     ナユリは満足そうな、眺める側が心地良い笑顔を振りまく。
     海上の風は穏やかだが、船が航行する風圧のせいで、展望デッキはやや強めの風が常に吹いている。風の弱い場所を探し、2人で船の壁際までゆくと、ナユリはバッグを足許に置いた。
     乗客はちょうどランチタイムに入る頃合い。展望デッキに他の乗客は見当たらなかった。
    「透き通った色のお酒ですね」
     独り呑みするつもりだったので、ひとつしか持って来ていなかったミニグラスに、私は澄んだ山吹色を少し注ぐ。
    「爽やかな昼下がりに呑むには、最適の逸品よ。お先にどうぞ」
    「あら、なら頂いちゃいます」
     ナユリはグラスを軽く傾け、少し口に含むと――昨夜の様子からだいたい予想してたけど、この娘は無類の酒豪ね――そこから一気に中身をあおった。
    「ぷはっ、美味しい。ウイスキーですね、それもすごく若いっていうか、軽やかだけど味はしっかりしてる、爽やかな後味っていうか」
    「グレーンウイスキーだからね。こんな秋晴れの日に呑むには最高でしょ?」
     私はナユリからグラスを受け取り、逆に彼女へボトルを渡す。そして、ナユリが今度はグラスへと国産グレーンウイスキーを注いでゆく……ってこら、なみなみと遠慮なく入れないの。
    「さ、ぐい~っと」
     言われなくてもぐいっと呑むわよ……と、私は心の中で苦笑しながら、グラスをやや急角度で傾ける。
    「うん、美味しいわ」
    「さすがいい飲みっぷりですね……っと、そうだ、せっかく展望デッキに来たのだし」
     ポンと軽く手を合わせたナユリは、トートバッグを再び手に持って、ヴィオラケースを背負ったまま強風をものともせず、展望デッキの前方の端まで歩いていく。展望デッキ前方からは、客船の船首部分と、広々とした海と空が広がっていた。さすがは船の最上階というだけはある眺め。
    「ソラさん、タイタニックごっこ!」
    「展望デッキで?」
     私は呆れた声を上げる。展望デッキの安全柵の一角に捕まってタイタニックごっこなど、見ようによっては頭の悪い人以外の何者でもない気がする。
    「いいの、大事なのは雰囲気よ雰囲気!」
    「……はいはい、わかったわよ」
     背負っていたヴィオラケースを降ろし、手荷物とともに風の死角になる場所に置いてから、展望デッキの安全柵ギリギリまで体を寄せるナユリ。その後ろへと私は回り込み、胴を両側から軽く掴む。そして、ナユリは思いっきり両手を広げて十字ポーズ。
     ――うっ!
     十字ポーズで空気抵抗が一気に増したうえ、ナユリが足を踏ん張るのをやめたせいか、両手には一気に負荷がかかる。たまらず全身で踏ん張り、両手には思わず力が入る。
     握力は人並み以上にはある私でも、ほとんど指が食い込まないほどナユリの胴は硬かった。艶やかな肌と滑らかなボディラインからは想像できないほど、ものすごい筋肉質。腹筋なんてスポーツ選手並みに割れてるんじゃないのこの娘?
    「これよーこれ! きもちいいー!」
     満足そうな笑顔で叫ぶナユリ。ごめんナユリさん、支える私はちょっと……じゃなくて、かなりつらみ。
    「ありがとー、もういいわ!」
     ナユリは十字ポーズをやめると、私は彼女の身体を支える苦行から解放される。
    「あー、意外としんどいわ支えるの。ナユリさん、貴女けっこう筋肉質じゃない?」
    「ふふふ、そうだと思います。毎日鍛えてますもの。
     ヴィオラはですね、人の声に近い音域の楽器なんですよ。なので、ヴァイオリンと比べて、音が届きにくい楽器でもあるんです……それでも、その音と魅力を伝えたい。理想的なフォームを揺るぎなく保つ体幹は、私にとってとても大切なものです」
     弾いている姿勢の美しさ、そこから生み出される弾きっぷりの良さ……彼女の回答に、私は思わず目を細めた。
     風の強い展望デッキ前方から、風の死角となる後方デッキへと並んで移動すると、ナユリはトートバッグから譜面を取り出した。
    「さて、少しは練習もしないと。今回のお仕事が終わってもすぐ、次のお仕事がありますから……タイタニックごっこにお付き合いしてくれて、さらになんですが、曲の練習にも少し付き合ってくださいな」
     そう言うと、ナユリは譜面を開いて私に両手で渡そうとする。
    「譜面台ないですし、そもそも譜面台では風で飛んじゃうので、ソラさん楽譜開けて持っててください」
    「人間譜面台……あなた、考えることがほとほとユニークね」
     私は、タイタニックごっこの時以上の呆れ顔を披露する。といっても、ヒマなので断る気にもならず、また理由も思いつかず、おとなしく楽譜持ちをやる。
    「お酒のお礼に、練習とはいえ心を込めて弾きますから……映画のタイタニックといえば主題歌『My Hart Will Go On』ですが、私がさらに好きな曲はこっちの方」
     ナユリは、私が彼女へ見えるように手に持つ、リングファイルに綴じられた楽譜をパラパラとめくり、ケースからヴィオラと弓を取り出すと、慣れた手つきで演奏の準備を整える。そして、ポケットからスマートフォンを取り出して操作し、再びポケットへ。
     数度、静かに呼吸を整えるナユリ。練習とはいえ、その真剣さがしっかり伝わってくる。ナユリの表情は変わらず穏やかだが、目の奥の力強さが変わった。スマートフォンからほのかに前奏が流れてくる。

     ――最初は、緩やかな波打ち際のような入り。途中から、翻弄される巨船の如く激しく。そして伸びやかで静かな、心を打つ旋律へ――

    「初めて生の楽器で聴いたわ。劇中曲『Hard to Starboard』ね。編曲もお見事」
     私は両手に譜面を持つので拍手はできないが、それを聞いてナユリは充分だったのだろう。満足そうで得意げな微笑を浮かべながら、弓先をスッと天へ向けた。
    「いい曲ですよね。聴き応えのある曲で、一度弾いてみたかったんですよねー。結構前から練習してきたんですよ」
    「それはいいけど、ナユリさん」
     ツッコむべきかどうするべきか。私は一瞬だけ逡巡したが、意を決してコンマ数秒。私は平べったい目をしてナユリを見る。
    「客船の上でタイタニックの曲弾くは不吉極まりないでしょ。この船沈める気?」
    「うっ……!」
     姿勢を硬直させたまま、軽く背をのけぞり、呻き声を漏らすナユリ。さすがにこの感想は予想していなかったらしい。
    「そ、そういうわけじゃないですけどっ……そ、そう、次の曲も練習しないと」
     ナユリは再びスマートフォンを操作し、楽譜をめくる。彼女の頬にひと筋の汗が流れているのを、私はもちろん見逃さなかった。
     やや動揺した様子から、すぐに平静さを取り戻して弓を構えるナユリ。

     ――ゆったりと情緒的な入りから、ほのかな軽快さを感じる旋律。そして、心が激しく揺れ動く様のような、力強いハイピッチへ――

    「……どうです? コルサコフの名曲『シェエラザード』の第一楽章より」
    「……うん、お見事だったわ……」
    「どうしたんです、すっごい呆れを通り越したような顔……あ、あまりお気に召さなかったかしら……」
     ナユリはかなり心配そうな、眉間にしわを寄せた、真剣に動揺した表情を見せる。いや演奏はすごく良かったと思うのだけど。
    「太平洋戦争の末期に沈められた、豪華客船の弥勒丸……史実では阿波丸だけど、その阿波丸事件をモチーフに書かれた、ある名作ノベルが……」
    「えっ……ま、まさか」
     ナユリの声が完全に裏返る。
    「……はい、そのまさか。
     タイトルは『シェエラザード』よ」
     …………………………………………
     展望デッキに、風と波の音だけが数秒響く。
    「……やっぱりこの船、沈めたいんだ」
    「ち、ち、違います! た、たまたま偶然です! そもそも、クラシックの名曲と同じ名前だなんて、ネット検索したときにほら、すごく紛らわしいじゃないですか!」
    「ツッコミのポイントそこ!?」
     正直なところ、かなり取るに足らない話題のようにも思うのだが、ナユリは頬をぶんむくれさせて私に詰め寄る。
    「ふふふっ……」
     自分でツッコミした結果で何だが、私は途中からやたら可笑しくなり、吹き出しながらナユリの詰め寄りを巧みにかわす。
    「もう、そんなに笑わないでくださいよぉ、そもそもソラさんが変なこと言うからでしょ」
     釣られて笑い始めるナユリを見て、私も安堵感に包まれたような感覚を覚える。
     刹那。
    「あれっ……?」
     急速に私の視界は、ぐるりと変な方向に回り始める。遠くでナユリの慌てて叫ぶ声を聞いた気がしながら、意識は暗転していった――

    「ひっ」
     私は小さな悲鳴を上げ、目を覚ました。
    「あ、よかった! 気がついたのね」
     視界には天井と照明。そしてナユリが覗き込むように、横から視界へと入ってきた。
    「あれ、私、展望デッキで……」
    「いきなり気を失っちゃうから、心臓凍るかと思ったわ。とりあえずあなたのお部屋に運んだのだけど、すぐに意識が戻ってよかった」
     ナユリは、冷えたタオルを私の額にのせながら、心配そうに説明してくれた。
    「反射性の失神で、前触れもなくたまに起こすのよ。だいたいは数分から20分ぐらいで回復するけど……持病ってやつね。って、ここ私の部屋!?」
     最後が裏返り気味の声を上げる私。
    「だって……私のお部屋に連れ込めるわけがないでしょう?」
     ナユリは複雑な表情をすると、おもむろに掛け布団の上から……私の股間をふた叩きする。いや待ってそこはちょっと。
     叩かれると痛いの急所は。
    「ソラさん、まさか貴方、男の人だったなんて……」
    「…………」
     完全に凍りつく私。
     ……仕方ない。私はナユリから視線をやや逸らし、天井を見上げたままで開き直る。
    「……そうよ。別に隠しているわけではないからいいけど、私の性別は男。世に言う女装男子っていえばそうかもしれないけど、お風呂以外はちゃんと女性生活してるわよ」
     さすがに共同浴場の女湯に入るのは無理があるので、個室トイレとシャワー付きの1等客室を取っているのだが、そこまで説明する気にもなれなかった。
    「うーん、深くは聞かないけど、わけあり人生なんでしょうね、ソラさんも……」
     ナユリも視線を外す。いささか気まずい空気がどんよりと部屋を満たしてゆく中、ナユリは部屋の片隅に、さまよわせていた視線を止めた。
    「あら、ソラさんも楽器やるの?」
     そう言うと、私の部屋の隅に置かれていた、かなり大きめの長方形手提げバッグへと歩み寄る。
    「まあ、ぬいぐるみまで。私もお気に入りキャラのぬいぐるみ、ケースに付けてますけど。みんな考えることは一緒なんですね、ふふ……?」
     ナユリはバッグの持ち手に下げてある、小さな熊のぬいぐるみを手に取ると、そこで動きを止めた。
    「やだ、あちこち汚れてるの……?」
    「ちょっと、ナユリさん……」
     また意識が不鮮明で、ベッドから起き上がれない私は、代わりに不機嫌そうな声を上げる。あまり他人のものに……私の古傷に勝手に触らないでくれるかしら?
    「あ、ご、ごめんなさい、勝手に触っちゃだめですよね……」
     彼女に悪気がないのは分かっているのだ。なんとか話題を変えようとしているのだろう。
    「……それね、楽器じゃないのよ……開けてごらんなさい」
     その気遣いを感じたからこそ、少し逡巡して……諦めたように私は声を掛けた。
     ナユリも何か感じ取ったのか、無言でケースの固定具を外し、中を覗く。
    「えっ……なにこれ……?」
     自分の知識にはない、得体の知れないものを見たときの、お手本みたいな反応を示すナユリ。
    「コンパウンドボウって言ってね」
     ここは誤魔化した説明はしない方がいいだろう。
    「強力な機械弓よ。外国では趣味で猟をする人が、動物ハンティングに使うことが大半だけど」
     私は意を決して、そのひと言で、ナユリから得た全てを失っても仕方ないと達観して、ストレートに中身の正体と用途を告げた。
    「それで、私は幾人もの人間を暗殺した」

    「ひっ」
     ナユリはしばらく沈黙した後、彼女の操る弓(ヴィオラ)とは対極の存在たる私の操る弓(コンパウンドボウ)を、小さな悲鳴とともに慌ててケースへと戻した。
    「……びっくりしたでしょ?」
    「びっくりしたというか」
     ナユリは少し泣いた声で立ち上がり、ベッドの横にある椅子へと、居住まいを正すように座った。
    「ソラさんは女装、というか男性であることをやめようとしていたり、それでいて変な武器を持ってたり、しかも、あの呑兵衛で優しくて、私の心に寄り添ってくれるソラさんは実は人殺し? ほんの数分で一気に色々ありすぎて、もうわたし、わけがわかりません」
     そりゃそうかもしれない。いくらなんでも展開が急すぎて、仮にこれが架空の物語だとしたら、私は作者に盛大なクレームをつけているところである。
    「うーん、どこから話そう……」
     私は天井から視線を外さぬまま、泣いている、いや泣いてくれているナユリのために、きちんと話そうと思った。
     人は、想いを正確に伝えることができる、言葉という魔法を操れるだけ、あるいは幸運な生き物なのかもしれないが、裏を返せば、言葉にしなければその想いを正確に伝えられない、不便な生き物だと、つくづく思う。
     言葉にして伝える、刻と手段すら失ってしまう前に。
     私は想い人へ伝える、その刻と手段すら突然失うことを経験したのだから――
    4 想いで
     ――標的は、大きく仰け反ると同時に、数歩後ろへとふらつき……音を立てて仰向けに倒れた。
    「手応えのないターゲットだったな。さて、引き続きおとなしく海にも沈んでてくださいよ」
     私はコンパウンドボウを手際よくケースに収納すると、物陰から出て、倒れている今回のターゲットへ、面白くもなさそうに歩み寄る。
     矢を引き抜き、血は丁寧に拭き取る。ロープでぐるぐる巻きにして、錘をつけて、海にドボン。広くて大きい海さん、また汚してしまって申し訳ないけど、これも仕事だから勘弁、勘弁。
    「呑んだ。ラーメン屋で〆して帰る」
    「わかった。終電には間に合ったな」
     仕事専用の直線型ガラケーを取り出し、ひとこと告げると、電話の向こうの声もひとことだけ。
     仕事完了の報告を済ませると、私は夜も更けきった港を後にした。

     私はショットグラスを一気に呷ると、こトン、とカウンターへグラスを置いた。
    「うん、美味しい」
    「電気ブランを、ショットグラスで一気に飲る。この店でそんな呑み方するのは、ソラくんぐらいだよ」
     マスターの冷やかしはいつものことだった。
    「サンダーショットっていう呑み方でね。そういう呑み方を出してるバーが昔あったのサ」
    「酒に弱い奴ぁ、すぐにぶっ倒れる呑み方だよ。ほれ、口直しはコイツだろ?」
     ひと仕事を済ますと、必ず寄っては酔っていく、いきつけのバー。他にお客はいなくなった閉店間際にしか来ない、この常連客の呑むパターンを熟知しているマスターは、きらきらした黄金色の上にふわふわの白泡を載せた、店自慢のビールをすぐに出してくれた。
    「ご明察」
     私はにっこり微笑むと、ビールを口から流し込む。ほんのりとした苦さが実に心地よかった。
     そう、忘れてはいけない。私を一番心地よくしてくれる、きらきらロマンティックな、ここのライブバーにしかないものを。
    「あら、こんばんは。また呑んでますね?」
    「呑んでますよ。酒場ですから呑まないと。イトエさんのお給金に化けないから」
     隣の席にすぅっと入り込んできたのは、ピアノステージで背景音楽を弾いていた、バーの契約ピアニストだった。
    「まあっ、それならぶっ倒れるまで呑んでいただかないと困ります……なんてね、冗談。ほどほどにしておいてくださいね。今日ご用意している曲はこんな感じですけど、どれをお弾きしましょうか?」
    「そうだねぇ……」
     差し出されたハガキサイズのカードには、一〇曲ほどの曲タイトルが、箇条書きに並べられている。クラシック、ジャズ、JPOP、歌謡曲とジャンルも様々。よくもまあ毎回違うラインナップを並べられるな、と感心するしかない。
    「じゃあ……」
     私は、曲目カードから上から二番目、ショパンの夜想曲第二〇番を指差そうとする。ノンフィクション体験記『戦場のピアニスト』の要所で登場する、物語の代表曲。
     そういえばこれ、映画にもなってたな……と思った刹那。
     視界は、馴染みのバーではなくなった。
     強烈な頭痛とともに、視界から現実の風景は消え失せ、私の視界に映るのは……
    「うっ、うわああああああああああああああああああああああああああ……ッ」
     頭を抱えてカウンターへと倒れ込む私に、イトエは両肩を掴んでゆすり、必死に何かを耳元で叫んでくれている気はするのだが、私の脳には届かない。
     幾つもの光景が、フラッシュ画像のように脳内再生され、しばらくして……私の景色は、カウンター木地のダークブラウン一色へと戻ってきた――

    「心的外傷後ストレス障害」
    「そう。私はPTSDになっていたのだけど、それを深酒で誤魔化してた」
     ナユリがポツリとつぶやいた言葉に、私はそっと答えた。
    「深酒だけではないでしょう? こころが大きく傷ついていた貴方にとって、イトエさんと、彼女の音はもうひとつの、ううん、きっとより大きな救いだったのでしょう?」
     音楽には魔法のような力がきっとある――演奏者としての信念が伝わる、ナユリの静かな言葉だった。やはり、彼女に話してよかった。
    「そう。きっとそうだった」

     ――大粒の涙を流しながら呼吸を整え、さらにしばらくして、私は平静を取り戻した。
    「もう大丈夫、誰もソラを傷つけませんから。大丈夫だから、大丈夫だから」
     イトエは、ふわりと優しく包み込むように、後ろから私を抱き留めてささやく。
    「相変わらず、ずいぶんと深刻なようだな」
     マスターは、氷をたっぷりと入れた炭酸水に、ぎゅぅと豪快にレモンを搾ると、私の前へと差し出してくれた。
    「ありがとう……もう、大丈夫」
     私は、差し出された炭酸水に口をつける。レモンの香りが、ほのかに精神を落ち着かせてくれた。
     人を殺し続けるうちに、いつの間にか負っていた、心的外傷後ストレス障害。ひと仕事終えてバーに来て深酒をすると、最近は定期的にフラッシュバックの発作を起こすようになっていた。
    「……マスター、わたし弾きますね」
     イトエは意を決した口調で、ゆっくりとグランドピアノへと向かう。
    「こころが傷ついたソラだけのために」
     私の方へと向き直ると、イトエはそっと微笑んだ。
    「いまから弾くのは、モーツァルトのきらきら星変奏曲KV二六五、ショパンの夜想曲第二〇番。ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番、嬰ハ短調作品二十七の二……私のとっておきの三曲。クローズドですけど、マスター、構いませんよね?」
    「構わないがイトエ。立て続けではぶっ倒れるのはイトエのほうだぞ」
     閉店時間は過ぎ、丸一日仕事で演奏しているイトエは、一日の疲労もピークのはずだった。それでも、イトエは首を横に振る。
    「たとえわたしが倒れても構わないわ。ソラさんを想う私の心と私の音だけを、感じながら聴いていて欲しいの。私以外、なにも考えないで聴いていて……傷ついたこころが癒えるように、ありったけの心を込めるから」
     
     ――傷ついた心を癒すにふさわしい、時空の壁を越えて愛され続ける静かな旋律が、夜も更けたバーを柔らかく満たしてゆく――

     イトエに言われたとおり、頭の中を空っぽにして、旋律だけに耳を傾け、弾く姿だけを見て。イトエが私のためだけに弾いてくれた三つの曲は、心にピンを打ち込むような演奏だった――

    「イトエ……雪原絃英(ゆきはら いとえ)。それ、雪原絃英さんじゃない?」
     ナユリは、ハッと思い出したかのように、教えてはいないイトエのフルネームを言い当てた。
    「去年、雪原イトエさんとわたしは一度だけ、レストランの演奏会で一緒に仕事したことがあるの。幾人ものピアニストと仕事をしたけど、ピアノにとって完全別物といってもいいクラシックとジャズにポップス……どれを弾いても超一流。メトネルの『主題と変奏』なんて激レアピアノ曲までさらりと弾きこなす、レパートリーの広さは雪原さんぐらいだった。わたしも印象に残ってるわ。違う?」
     ややまくし立てるように、ナユリは身を乗り出す。繋がらなかった糸が繋がったような感覚なのだろう。
    「ご明察。イトエの名字は雪原。雪原イトエ」
    「やっぱりそうね。わたしと違って超清楚って感じがする人だったなぁ……あ、わたしは清楚って言われるの大嫌いな人だからね……んー、プライベートのことまでは、あんまし聞いてなかったわね……ん?」
     軽く握った右手を口元に当て、独り言を混ぜながら、想いでの倉庫で探し物をするナユリ。
    「確かイトエさん、二年前……今からだと三年前か、交通事故で生死の境を彷徨ったって言ってたような……
     意識不明になって、助からないかもって重症だったらしいけど、奇跡的に意識が戻って、怪我も回復して、むしろ事故前よりピアノがめきめき巧くなったとか、そんなこと言ってたわ」
     ナユリの話を聞いて、私は涙が思わず出そうになるほど、嬉しさで心が満たされていた。
    「ナユリさん、このお話には続きがあるの。むしろ、核心部分みたいな、続きが」

     ――イトエの演奏が終わってすぐ、窓越しから夜の街並みを洗う、自然と無機質の織りなす合奏が聞こえてきた。
    「雨か。ここ最近は降り方も激しいな……おいソラくん、タクシー呼ぶなら今のうちだぞ」
     マスターはグラスを拭く手を止めぬまま、窓の外を見る。
    「マスター、わたしが車で送っていきます。ソラさんの住んでるマンション、帰り道の途中にありますから」
     譜面などを片付けてピアノを離れたイトエが、マスターに声を掛けた。
    「おう、そうか。どうするソラくん?」
     私は、心臓の奥がほのかに痒くなるような感覚と、全身が心地よく、頭の中をマッサージされているような、ほんわかと痺れるようにくすぐったい感覚に浸っていて、ぼーっとした意識でマスターの声を認識する。加えて発作の影響か、珍しくアルコールが激しく回っていた。
    「うん……おねがいする」
     生返事同然で言葉を返す。ひと言ふた言、マスターとイトエのやりとりが聞こえた後、イトエに手を引かれ、一緒の傘に入りながら店を出たのは覚えている。
     次に気がついたときは、私はイトエの車の助手席に座っていた。
    「わたしね、ふと思うことがあるんですよ」
     桜色を基調としたシートに包まれ、木目のハンドルを握ったまま、イトエは視線を前から逸らさずに話し始める。
    「ピアノにせよ他の楽器にせよ、わたしのようなプロとしてお仕事をもらえたり、リサイタルをできるのは確かに一握りだけど、それでも世の中には、数えるのも気が遠くなるほどの演奏者がいるのに」
     雨足が弱くなってきたのか、イトエの静かな声と、ワイパーの正確なリズムを刻む音だけが車内に響く。
    「なんで敢えて、わたしの演奏だけを聴きたいとおっしゃる人がいるのだろう、って……他にも巧い人、表現の豊かな人、たくさんいるはずなのに」
    「……うん。それはね、イトエさん」
     まるで自白剤でも大量に飲んだかのような、気の緩んだ意識のなか、私は彼女の疑問に答えようとする。
    「技術の巧さ、表現の豊かさ、好きな曲や楽器とのマッチング、音楽へ取り組む姿勢や人生の歩み、容姿や人柄……特定の演奏者を敢えて聴きに行きたいと思う理由は、多くの要素があると思うけど、いずれかひとつの理由ではないものだと思う」
     イトエは静かに聞いている。次の言葉を待っているのだろう。
    「それらすべてを含めて、自然とのみ込めてしまう感覚……男とか女とか愛とか好きとか、そういう次元とは全く異質なものだけど……うーん、言葉にするのは難しい」
    「……そうなんだ。そういう不思議なものなのですね」
     彼女の目を細めて少し頷いたような仕草が、ぼんやりとした視界に映った気がした。
    「なんで、ソラはお酒が好きなの?」
    「……おいしいから」
    「でしょう? それと同じで、理屈だけで説明するのは、無粋なことなのかもしれませんね。少し分かったような気がします」
     車の中の時間が、少し止まったような感覚を覚える。イトエとは、かれこれ知ってから二年ぐらいになるはずだが、二人だけで濃密な時間を過ごすのは、初めてのような気もする。
    「……ソラ、これ差し上げます。お守り代わりと思ってくださいな」
     右手のハンドルは離さぬまま、イトエは左手を助手席へ伸ばす。その手には、小さな熊のぬいぐるみが握られている。イトエが愛用するバッグに、つけられていたものだった。
    「……ありがとう、イトエさん」
     やはり意識が不鮮明な私は、それはイトエさんの大切なものだから、と遠慮する常識的な反応すらすることができずに、彼女に操られる人形のごとく、熊のぬいぐるみを受け取った。
    「……ふふ。さんづけはよしてくださいな、ソラ。わたしの一番大切な人」
     意識が、みるみるうちに張っていったと思った刹那。
    「きゃあっ!」
     ――交差点。信号無視で右手から突っ込んできた、大型ウイングトラックが視界に入った瞬間、身体に強い衝撃を感じて、そのまま意識は暗転した。

     目を開いたような気はしたが、目を覚ました感覚はなかった。
     仰向け姿で天井を見た気になっている視界は、文字通りの真っ暗だった。
     フワリ……と音もなく、右手側に人影が突然現れる。翡翠色を基調とした見たこともない、しかし東洋的な荘厳さを秘めた衣をまとった、女とも男ともつかない容姿端麗な人影が、そこにはいた。
     ――誰だ?
    「あなた、相当人を殺してるみたい。ちょっと救いようがないわね」
     私の額にそっと手を当てながら、脳の中に直接聞こえてきたその声は、果てしなく冷酷さが込められた、天使のごとき優美な声。唇は全く動いていなかった。
     いやまて。空気の振動に頼らず、声や音を人に伝えることなどできるのだろうか?
     いったい何者だと誰何しようとしても、私の身体は瞬きひとつもできなかった。
     怖い。
     死の恐怖など、ほとんど感じるヒマがない修羅場を、数多くぐり抜けてきたはずなのに、異様に怖かったのを覚えている。
     ――神。
     ふと頭を掠めたのは、その言葉だった。
     すっ
     額に伸びていた手が離れ、そのまま私の唇に、人差し指が軽く触れる。
    「イトエさんは……? あんたは、誰だ……」
     ようやく唇を動かすことができた。
    「我は、世の人から伎芸天と呼ばれる者」
     やはり唇は動かぬまま。空気の振動もなく、その声は聞こえてくる。
     伎芸天……天部にその名を連ねる、器楽の神。それがこの人物の正体のようだった。本当かどうかは知るよしもないが。
    「貴方たち二人は、人の移動機械の事故に巻き込まれたようね。今まさに、生死の境を彷徨っている最中……生へと転ぶより、死へと転ぶ見込みが、いささか高いかしらね」
     再び伎芸天は、その掌を私の額へと押し当てた。
    「さて、罪深き人の子よ。自らの死を突きつけられて、今何を思う?」
     しばし、空間は張り詰めたような静寂が支配する。
     先の言葉を紡いだのは、伎芸天だった。
    「――ふむ。自分の命より、かの娘の命が助かる方を先に思うか……重ねてきた罪の深さにしては、殊勝な心ね」
     伎芸天は、目を僅かに細めたような気もしたが、その彫像みたいな表情は変わらない。人の心――つまり頭の中の思考――を、掌を額に触れただけで読み取ることができるのだろうか?
    「たとえ自らの命が断たれても。それでも、助けてあげたい? 受けた愛情は心に刻まれても、与えた愛情は何も残らないとしても?」
     抑揚の効いていない甘美な声で、私に問いかける伎芸天。
     いま、人生の間違いなく最大の岐路に立ち、そして魂の誇りを試されている……私は瞬時にそのことを悟り、しばらく躊躇するが……意を決して。
     顎をわずかに軽く、縦へと動かす。
     それだけしか身体が動かなかったのだが、伎芸天にはそれで充分なようだった。
    「――わかった。助けてあげる。器楽の神として、かの娘にはさらなる天賦の才も与えてあげる……そして、貴方にも簡単には死なないような、丈夫な命も与えてあげる。ただし」
     伎芸天が、わずかに口元を歪めたような気がした、と思った刹那。
    「いかなる素晴らしい音楽を聴いても。どんなに美しい景色を見ても。此の世で最も美味なる物を口にしても。
     貴方は今後の人生、もう何も感じることはできない。
     命あるうちに、二度と人の世が生み出す感動を覚えることなく、ただ生物として生きているだけの存在として、惨めに寿命を全うするの。
     そして貴方の寿命が尽きたとき、かの娘の寿命も同時に尽きる。だから貴方は、かの娘を想う限り、モノクロームの人生から死んで逃げることも許されない。
     かの娘の人生と、貴方の人生とは、永遠に再び交差することはなく、無理に交差しようと求めれば、より重い罪が下るだろう。かの娘の人生から、貴方はいなかったことになる……それが、かの娘を救う代わりに、貴方の受けるべき報い」
     紡ぎ出された言葉は、死をも生ぬるいと感じさせるほど残酷な、死の宣告だった。
    「もう一度だけ聞いてあげる。どうする?」
     伎芸天の表情は変わらず、その声の冷淡さも変わらず。

     そして私は――

    「こうやって、生きてる」
     船室の天井をじっと見つめたまま、私は静かに、噛みしめるように口を開いた。
    「……伎芸天が消えてしばらくすると、私は病室の天井を、今みたいに見上げていたわ。
     命は助かったけど、当然あちこち痛めていてね。半年後に退院するとき、病院の待合エントランスでひと言交わして。私がイトエを見た、それが最後」
    「……雪原さん、ソラさんに気づかなかったんですか? 本当に?」
     聞いてナユリは目を丸くした。そりゃそうだろう。伎芸天の話の下りなど、ただの夢か妄想を見ただけに過ぎない、と思うのが普通なのだから。

     ――病院エントランスのソファに座り、薬が処方されるのを待っていると、横に女性が一人座ってきた。エントランスは、受付待ちの患者や付添人で溢れている。かなりの数があるソファや椅子も、大部分が埋まってしまっていた。
    「……」
     横に座っていたのはイトエだった。同じく薬の処方待ちらしい。
     とさっ
     手に持っていた小さなカバンを、私はわざと床に落とした。
     確かめてみたかったのだ。伎芸天の言葉を。
    「あ、すいません」
     足へ軽く当たったカバンに、イトエは視線を落とす。とっさに私はカバンを拾い上げると、ファスナーに付けていた小さな熊のぬいぐるみが、ちょこんと揺れた。
    「いえ。お気になさらず」
     見慣れた穏やかな表情。
     しかし、社交辞令の言葉とその視線は、まさに知らない他人を見るそれだった――

    「そして、私は何も感じなかった。これは哀しいことなのだと認識できているはずなのに、悲しみの感情すら湧いてこない……それだけで充分、察しはついたのよ。伎芸天の言葉は本当なのだと。
     ……もう、人生諦めて世捨て人になろうってね。男らしくとか、男として生きることにすらうんざりした、ということ。私の昔話は、これでおしまい」
     私は、ゆっくりと上体を起こす。昔話をしているうちに、朦朧気味だった意識もしっかり戻っていた。
    「無理しちゃダメですよ」
    「……もう大丈夫。ありがとう、ナユリさん。
     反射性の失神、これ伎芸天の呪いに強く抗おうとしたときに起きるみたいで、ね。PTSDも完治して、怪我前より病気も一切しない身体には確かになったけど、とんだオマケをつけてくれたわ」
     冷水の入ったペットボトルを手に、ベッドの側へと寄るナユリ。私は冷水を右手に受け取ると、栓を開けてひとくち飲んだ。
    「うん、美味しいわ」
     私は、ナユリも既に聞いたことがあるであろう、口癖のような台詞を呟く。
    「……なんてね。実は嘘。
     今の私は、美味しいと感嘆することも、音楽で感動を覚えることも、もはやできないのだから」
    「でも、きっと美味しいものであり、そして素敵な演奏なのだろうと……儚くも、しかし強い意志をもって信じようとしている」
     私の言葉に、ナユリは静かな言葉を続けた。
    「……わたしはヴァイオリンもヴィオラも弾けますが、本格的にヴァイオリンを始めたのが十六歳。ヴィオラの習得を始めたのが、大学生になってから……ソラさんほど壮絶ではないですが、わたしもちょっとだけ色々ありましてね、人生挫折を味わってるんですよ」
     それを聞いて、今度は私が目を丸くする番だった。演奏者にとって、それはちょっとどころの挫折ではない。
     楽器は大抵が幼少期から英才教育、というのが一般的なのだと思うのだが、ナユリの弦楽器のキャリアは十年そこそこでしかない、ということなのだ。
     少々の天才程度の才能なら、致命的ともいえるそのハンデ。ナユリはそれを跳ね返すほどの、類い稀なる音楽センスの塊なのだろうが……同時に、ナユリがどれほどの壮絶な努力を重ねてこの場にいるのか、察するに余りあった。
     ピピッ、ピピッ
    「あ、もうこんな時間」
     ナユリのスマートフォンから、通知アラームが鳴る。
    「スタンド演奏の準備に行かないと……スタンドでの演奏が終わったら、そのままラウンジ演奏の準備にも入ってしまいますので……」
    「私はもう大丈夫。もう少し休んでから、あとでビールでも片手に聴かせてもらうわ……といっても、こんなお話した後だし。私に聴く資格あるかしらね」
     スマートフォンをしまい、壁に立てかけてあったヴィオラケースを背負うと、ナユリは再び私の方を振り向いた。
    「演奏を聴いてくださるということは、限られた人生の時間の中で、その時間の一部をわたしのために頂戴している、ということに他なりません。
     聴いてくださることへの感謝の気持ちだけは、決して忘れないようにしています……待っていますね、ソラさん」
    「ありがとう、ナユリさん」
     ナユリは私の言葉に、えもいわれぬ表情をして軽くひとつ頷くと、ドアノブに手を掛け、部屋を退出しようとする。
    「わたしとソラさん、似たもの同士かもしれないですね」
     ドアを開けながら、振り向いてナユリは少し悪戯っぽく微笑んだ。

     ラウンジは、昨晩より明らかに聴衆は多かった。わずかに満席まではいかないが、九割程度は席も埋まっているだろうか。
     軽食スタンドで、夕方前にこなしたミニコンサートはクラシックが三曲。ラウンジ演奏のプログラムは、前夜と同じ一〇曲だった。
     うち五曲は同じだが、残りは別の曲目へと入れ替えている。五線譜の世界へ、再びぼんやりと浸る。
     ――はて。
     昨晩の演奏よりも、ナユリの演奏はより研ぎ澄まされているのは、気のせいだろうか?
     最後の曲、フォーレの『夢のあとに』を弾き終わると、ラウンジは大きな拍手に満たされた。右手を胸元に当て、ゆるりと一礼するナユリ。
     最後方の席から見るその景色を、私は穏やかな気持ちで見ることができた。
     演奏が終わり、ラウンジの出入り口は笑顔の人々で溢れかえる。ナユリに声だけは掛けようと、ラウンジのソファから動かず、他の聴衆が退出するのを静かに待っていた私だったが――
    「……ん?」
     ナユリと最後に話していた男性二人。ナユリと話す片方の小柄なダークスーツは知らないが、その後ろに控える、もう片方のガタイが大きい男には見覚えがあった。
    「確か、昨晩の酔っぱらい……仕方ないわね」
     私は実にメンドクサそうな嘆息をつきながら、ソファから立ち上がると、早足でナユリの方へと向かう。
    「ナユリ様、どうかお聞き分けください」
    「いやよ、どうせわたしを弓弾き人形ぐらいにしか思っていない人のところなんか嫁がない!」
     ……様とか嫁ぐとか、なんか途方もなくメンドクサさが漂う単語が聞こえてくる。ナユリも年頃だろうし、彼女は伴侶に選ばれるのではなく、伴侶を選ぶことができる器量良しだとは思うが……それはともかく、これは普通の会話じゃないわね、と眉をひそめる私。
    「……貴女は先にここを出た方がいいわ。ここは私が何とかします。五分を過ぎても私かナユリさんが戻らないようでしたら、船員さんに助けを求めてください」
     私は先に、戸惑うばかりの伴奏者のもとへ行き小声で囁く。伴奏者はすいません、と少し申し訳なさそうにラウンジから退出する。
    「痴話喧嘩なら船降りてからやったら?」
     両腕を組み、仁王立ちになりながら横から大きな声を上げる。ダークスーツの敵意剥き出しの視線と、ナユリのすがるような視線が私に集まる。
    「部外者のくせに、首突っ込まないでもらえませんかね?」
    「部内者ごときが、偉そうな口叩いてんじゃないわよタコ頭」
     ダークスーツの言葉に、私も真っ正面から応戦する。
    「私はナユリさんのファンですけどね、知識の浅そうなファンを部外者呼ばわり邪魔者扱い、疲れている出演者のことはまるで考えず、自分だけ楽しめればオッケーで労いの言葉も礼儀もない……あーあ、これだからマニアは困るのよね。『すべてのジャンルはマニアが潰す』っていう格言知らないの?」
     敢えて一気に、責めるようにダークスーツへ言葉の猛射を浴びせる私。メンドクサそうな人が来たと思われればしめたもの、さっさと退散するだろうと思われた。
     が。
    「うるさい女ですね……僕はナユリ様のファンとかそういうのではないんですよ。もちろん口説いているわけでもありません。真面目なお話をしているので、ちょっと黙っていてくれませんかね?」
     やや無雑作感のある黒いマッシュショートヘアをした、歌劇団の男役のような美丈夫の、視線と口調に込められているのは、呆れと怒り。
     ――引いてはいけない。
     私の直感は、そう告げていた。
    「この人、両親同士が決めた婚約相手の、相手方のお家の秘書さんなんですよ……わたしに嫁ぐ気がなくて、幾度も話し合いを持ちましたが平行線で……ももう何年も断り続けているので、無理やり連れに来たんです」
     ナユリは少し怯えたような口調で、私の背中の後ろにそっと身を隠そうとする。こら勝手に私を楯にしないの。別に構わないけど。
     しかし、ナユリが転々と全国各地の仕事を受けているのは、そういう事情だったのかと少し察しはついた。
    「ナユリさんが逃げ回るほど本気で嫌がってるなら、無理やりは良くないんじゃない? そんな結婚はお互いに不幸だわ。
     結婚するもしないも、最後の決め手は本人の意志よ。女性にとって、結婚だけが人生ではないでしょう?」
     私は左手を腰に当て、敢えて少し呆れたように返す。とはいっても、中身は独身男の私に、結婚やその先に待つであろう出産や子育ての苦労と尊さが、分かっているはずもないのだが。
    「そ、そんなこと僕だってわかってます。ただ、我が主人の望むところ、それを果たすのが僕の務めです……相手があばずれとはいえ、正直女性に手荒なマネはしたくないんですが」
     ダークスーツは、上着の内側に手を伸ばす。ちょっとちょっと、こんな場所で殺しはプロの仕事じゃないわよそれ。
     びゅっ
     有無を言わさず、ダークスーツの右腕が伸びる!
     ぱしんっ
    「なかなか仕事熱心なことだけど、ナユリさんの目の前で血はダメよ、絶対」
     蛇のように伸びてきた右腕を、私は左手を伸ばして難なく引っ掴む。掴んだ腕先、ダークスーツの手には、鉄串のような針状の得物が、鈍い光を放っている。
    「……っ! 何者!?」
     命のやりとりは慣れている私のこと。涼しい顔で、震えるダークスーツの右腕を掴んだまま、私は右手の親指を立て、ラウンジの大時計を差してみせる。
    「深夜三時に展望デッキ。サシで話し合うのはどう?」
     私は突き放すように左手を離す。ダークスーツはこちらを睨んだまま、凶器を懐にしまった。
    「……フン、いいでしょう」
     この場は不利と判断したのか、上着の襟をピンと引き、不承不承ながら頷くダークスーツ。
    「しっぽ巻いて逃げるなら今のうちよ」
     立ち去るダークスーツと大男の背中に、私は声を掛ける。振り向いて私達を一瞥することすらせず、二人はラウンジから立ち去っていった。
    「ソラさん……」
    「あー久しぶりだわ、男の子っぽいことしたの……どう? ちょっとは格好良かった?」
     不安そうな様子を隠しもしないナユリに、私はあっけらかんとした声を上げた。
    「……ばか」
    「ふふ、褒め言葉と受け取っておくわ。こういうの、私の生き方に相応しいから」
     私は泣きそうになるナユリの顔に手を伸ばそうとして……思いとどまるように、手を虚空で止めた。
     手を伸ばせば届くほど距離は近い。でも、それは決して手を伸ばしてはならない宝石――
    5 弓をひく
    「使いたくないんだけどね、これ」
     コンパウンドボウと握った左手を見つめ、私は声を漏らした。
     すぐに使えるよう、ストリングは新品に交換済み。チューニングも完璧にした状態で持ち歩いてはいるが、念のためカムの向きをはじめ、細部に異常はないかをチェックする。
     再び弓をしまうと、次は矢の準備。一撃必殺が暗殺の基本なので、多くの本数を持ち歩いているわけではない。四本の矢で、果たして足りるかどうか。そしてすべての矢に仕込んである神経毒を、丁寧に抜いてゆく。
    「イトエさん、ごめん。私、もう一回だけ、ストリングを引かないといけなくなった」
     私はボウケースに付けられた、小さな熊のぬいぐるみを右手で触る。
    「相手を殺すことはしないから……もう一度、引いてもいいと……私の心も命も、賭けてみていいかなって。だって見護るしかできない私にできる、数少ないこと」
     立ち上がった私は、パンプスからブーツに履き替え、ボウケースを手に取り、自室のドアノブに手を掛けた。
    「よし。最後の仕事」
     もう一度、左手に持ったボウケースの端を一瞥し、私はドアノブを回した。

    「逃げずに来たわね」
    「貴女こそ」
     雲ひとつない、星粒の天幕が一面を覆った展望デッキ。私とダークスーツは、一〇メートル程度の距離を開けて対峙していた。
    「おとなしく、ナユリさんに婚姻の意思はないと、貴方のマスターに伝えるなら、怪我させずに船から降ろしてあげるわ」
    「そうはいかない。ナユリ様の意志は分かりますが、僕には僕の使命が、主人には主人の想いがあります。邪魔立てするなら容赦はしない」
     私の誰何に即答するダークスーツ。ええい、可愛い顔して可愛げのない。
    「あらそう。聞き分けのないこと。なら仕方ないわね」
     賭け倍率もつかないほど予想通りすぎる展開に、私はボウケースからコンパウンドボウを取り出し、リリーサーを右手に握って弓をセットする。
    「命さえも賭けるか……たったひとりの聴衆に過ぎない貴女が、ナユリ様のために」
    「そうよ。ナユリさんは今、夢の五線譜の上を力いっぱい駆けているわ。ナユリさんが夢の道を駆けてゆく姿を見護り、そして最後まで聴き届けるのが、私の望み」
     ――叶わないでしょうけどね。きっと。それが私の運命でしょうから。
     心の中でそっと付け加えながら、ストリングを引き絞り、ダークスーツへ矢先を向ける。
    「ナユリさんのヴィオラの音を、いまも、これからも。この夜空に広がる、星の数を超える人々が、きっと待っている。
     ときに人々の、疲れ傷ついた心を癒し。ときに人々の、豊かな明日への希望を紡ぎ出し……私は彼女の人生の片隅にいる、ひとりの聴衆に過ぎないけど、ナユリさんの音には、その力があると信じているわ」
     展望デッキを駆け抜ける、海の夜風に身をさらし、矢先の狙いを慎重に定める。普通ならフィンガーリリースでも外す距離ではないのだが、いかんせん船上の海風は、矢を射るには強すぎる。
    「与えた愛情は残らなくても、受けた愛情を心に刻み、私は彼女のために倒れてみせる……でも、ただでは倒れないわよ。覚悟なさい」
     ィゥンッ!
     私は、矢をコンパウンドボウから解き放つ。急所には当てない。狙うは右の肩口。
    「くっ」
     風向きと強さも計算に入れ、正確無比に狙ったその軌道は、真っ直ぐにダークスーツの右肩へ向かい、夜風を鋭く切り裂くが……とっさにダークスーツは身を屈め、紙一重で矢をかわす!
    「!?」
     ちょっと、アクション映画じゃあるまいし! この至近距離から、コンパウンドボウを回避されたのは初めてだった。
    「そっちこそ、覚悟!」
     屈むと同時にダークスーツは、上着の内側に右手を伸ばし、抜き放つようにこちらへ右腕を振り抜く。
    「あぶなっ」
     私は、斜め右へと左足をクロスステップ、半歩体勢をずらす。刹那、後ろ髪を鋭い棒のようなものが掠めていった。おそらくラウンジで見た、鉄串みたいな凶器だろう……っていきなり頭狙うか。なかなか容赦のない奴である。
    「主人への強き想いなら、貴女のナユリ様への想いに負けない!」
     ダークスーツはすぐに立ち上がると、こちらへ向かい間合いを詰め、スラリと長い右脚を、鋭く上段へと繰り出してくる。頭を狙った次は顔を蹴ろうとか、よっぽど私の首から上を愛しているらしい。
     ――これは。
    「せいッ」
     負けじと私も右脚を鋭く振り上げ、ダークスーツのハイキックを、ハイキックで迎え撃つ。
     バチィンッ!
     スーツの黒い脛と、ナマ脚同然の白い脛が、激しく宙でぶつかり合う。
     やはり、ね。
     生半可な蹴りなら、相手の脛を逆に打撲させて返り討ち……といったころなのだが、相手の蹴りはスポーツの蹴りではなく、紛うことなき――私と同じ――コマンドの蹴りだった。うーん、こっちも脛がじんじん痛い。
     遠望デッキの上は、相変わらず夜風が吹いている。そして容赦なく捲れるワンピーススカート。中が丸見えだけど、そんなこと気にしてる場合では……?
    「えっ」
     私はダークスーツの脚から視線を移すと、ちょっとした……否、寒気がするほどの違和感に気づいてしまった。
     ……ダークスーツの股間……とっても平べったん……
     いくらなんでも、股間がきれいに扁平ハート型の男なんて普通いない。去勢してても、あそこまでキュッとならない……と思う。たぶん。
    「ちょっと貴方、まさか女……?」
    「ちょっと貴女、まさか男……?」
     お互いの股間を凝視しながら、私とダークスーツは驚愕の声を隠さない。そりゃそうだろう。股間が平べったんな形の男もいないが、股間がごちゃごちゃと膨らんだ女も普通いないわな。
     交錯した右脚同士を引きながら、お互いに少し間合いを取る……というか、ドン引く。相手の表情もドン引きなのが分かる。きっと私もドン引きの表情をしているのだろうな、と少し思う。
    「えっ……なに女装男子の暗殺屋? 意味わかんない人ね」
    「貴方、いえ貴女も男装女子ね。人生ワケありそうなのは、お互い様みたいね」
     私はそう言うと、足許のボウケースを一挙動で背負い、くるりと背を向けて、展望デッキを猛ダッシュ。死角となる方へと曲がる。
    「あ、こら逃げるな!」
     ダークスーツは、懐に手を突っ込んで、例の鉄串を右手に持ちながら追いかけてくる。
     バスッ
     背中から、ボウケースに硬い物が鋭く当たる音と、わずかな振動。どうやら鉄串をまた投げつけてきたらしい。あの鉄串みたいな得物は、針形手裏剣と見て間違いなさそうだった。
    「うそっ、手裏剣が止められた……ッ!?」
     動揺するダークスーツの声を背中で聞きながら、私は展望デッキ最上階への階段を上がろうとする。おあいにくさま、このボウケースはザイロン生地を縫製し、カーボンプレートを仕込んだ特別製。拳銃弾なら、近距離でも止められるだけの防弾性能があるのだ。背中を無防備にしたまま敵に背中を向けるほど、私は不用心ではない。
    「もらったわ」
     私は階段を駆け上がると、振り向きざまにコンパウンドボウを構える。逃げるように猛ダッシュした理由は単純明快。あの間合いでは、コンパウンドボウの矢をセットする余裕がなかったからである。
     ィウンッ!
     矢を引き絞り滑車が擦れる音に続いて、ストリングと矢が空気を引き裂く音が、小さく静かに響く。
     ダークスーツは階段をちょうど上がろうとするところ。階段の幅は狭く、横に逃げ場なし。今度は肩ではなく太股を狙う一矢で、しゃがんで回避できるものではない。勝負あった――と私が思った刹那。
    「はぁっ!」
     ダークスーツは階段両側の手摺りを両手で掴むと、勢いよく脚を振り上げ、そのまま手摺りの上で倒立しようとする!
     がすんっ
     振り上がるスラックスを掠るも紙一重。矢は展望デッキの床を、深く凹ませるだけに終わる。さすがに船材の鋼板に穴を開けることは無理か。
     この距離なら鉄板にも穴を穿つ威力と、目で捉えることは不可能に近い初速を誇るコンパウンドボウ。しかしこうも紙一重で当たらないのは、偶然にしては出来すぎている気もするのだが。
     ええい、ここで考えても時間の無駄。もう一矢!
     倒立姿勢から降りて戻るまで、わずかに隙がある。私は急いで矢をセットするが。
    「お見通し!」
     ダークスーツは倒立から戻りながら、空いた右手を一閃させ、再び針型手裏剣をこちらに放つ。
    「うっ!」
     手投げの針型手裏剣は、速度は大して速くない。今度はこちらが慌ててしゃがみ、針形手裏剣を紙一重で回避する。その隙に、ダークスーツは階段へと降り立った。
     私は矢をセットしたまま、再び距離を取るべく展望デッキを走り回る。
     展望デッキを縦横無尽に駆け回りつつも、残り二本の矢を無駄遣いするわけにもいかず、私は攻撃の手を止めている。その間、ダークスーツは散発的に針型手裏剣を投げてくる。仕込んでいる数は向こうの方が多いらしい。
    「はあっ……はあっ……」
     さすがに走り回って息が上がり、展望デッキ入り口の扉付近に背中をつけて、ひと休み。幸い、一時的にだろうが相手はこちらを見失ったようだった。
     ぎぎぃ……
    「……ソラさん?」
    「……ちょっと! 扉それ以上開けちゃダメよ、危ないから」
     展望デッキの入り口の扉が、ほんの少しだけ開く。顔を覗かせているのは、おそるおそるという表情が相応しすぎるナユリだった。
     いかんせん、自分のことで他人同士が揉めている手前、心配で様子を見に来たのだろう。
    「隠れても無駄ですよ。そして、狙撃しようとしても無駄です」
     展望デッキの奥の方から、ダークスーツの余裕の声が聞こえてくる。
    「コンパウンドボウは発射音がしない暗器、なんて言いますが、あれは嘘ですね。滑車の音、弦の音……僕にはそれで十分なんですよ。いつ貴女の矢が放たれるのか、手に取るようにわかりますから」
     そうか。滑車の音で射出のタイミングを測れるから、紙一重で回避することができたのか。私はそれを聞いて歯ぎしりする。
    「どんだけ聴力がいいのよ。絶対音感も相対音感も鈍そうなのに。お互い様だけど」
     私も聴力には絶対的な自信がある。しかし針型手裏剣は、服の摩擦音ぐらいしか音がない。波の音が絶えず響く、船上で聞き取るのは難しい。
     こんな地味なピンチでも軽口を叩いてはいるが、かなり不利なことには変わりがなかった。いっそ、至近距離から格闘で……と思い始めていたのだが。
    「ええっとソラさんのそれ、音が相手に聞こえるから不利ってことですか?」
    「そうみたいね。コンパウンドボウの滑車音を聞き取るなんて、そんな相手は初めてよ」
    「うーん、ということは、その滑車音ですか? それを消しちゃえばいいんですよね?」
     理屈ではそうだけど。
    「できもしないこと言わないで。腹立たしい」
     私は、ナユリに苛立ちを隠そうともしない。そもそも、飛び道具同士の攻防なので、流れ手裏剣とかが飛んでこないうちに、さっさと避難して欲しいのだけど。
    「滑車音を、別の音でマスキングしてしまえば、聞こえないんじゃありません? なら、私が滑車音をマスキングして差し上げます」
    「えっ……?」
     入り口扉の方を見ると、なにやら陰でナユリがごそごそしているのが見える。まさか。
    「危ないから! こんなところで演奏しちゃダメ!」
    「扉の陰になっていますから。楽譜も要りません。なくても弾けるぐらい弾き込んだ、わたしの得意曲です……お願いソラさん、わたしを救って……!」
     一瞬の間を置いて、扉の間から、ヴィオラの音が聞こえてきた。ホントに弾き始めちゃったわよ、この娘。

     ――単調なハイテンポではない、力強くも妖艶さを秘めた、絶妙な緩急のリズム。伸びやかで大胆なストリングの旋律は、心にスッと入り込み、魂の蝋燭に炎を灯す――

    「ヴィオレンタンゴ……!」
     繊細かつ力強さに溢れるピアソラの名曲は、確かにナユリの得意曲と呼ぶに相応しい。その軽快なリズムに勇気づけられるようにして、私は展望デッキの最上階へと向かう階段を、ヴィオレンタンゴのマスキングを活かすべく、気配と足音を極力消して再び駆け上がる。
     ――見つけた!
     駆け上がったその先に向けて、私は一気に弓を引き絞る。夜風が一瞬だけ強く吹き、短い髪とスカートが、ヴィオラの旋律を乗せた風になびく。
     風に気を取られて、ダークスーツが後ろを向こうかという刹那。私はダークスーツをめがけて、矢を解き放った。
    「……えっ!?」
     展望デッキを、ほのかに流れるヴィオレンタンゴ……優しくも華やかなストリングの音と、死を運ぶ無機質なストリングの音とが交錯する。そして命の音は死の音を消し去り、完全にダークスーツの不意を突いた!
    「うわっ」
     矢は、ダークスーツの振り向いた上着の襟を貫くように掠めると、ダークスーツはバランスを崩して、甲板に転倒する。
     再び矢をセットしながら、私はダッシュして一気に間合いを詰め――
    「勝負あったわね。観念なさい」
     尻餅をついた姿勢のダークスーツの、凝視すれば若干膨らんでいる気もする胸元に、私はコンパウンドボウの矢先を突きつけたのだった。

    「射殺すの? 僕を」
    「そこまでする気はないわ。ただ、まだ抵抗するなら」
     ダークスーツの誰何に、私は胸元にポイントした矢先を、少し下……両脚の根本の中心に向ける。
    「金輪際、恋愛もできず母親にもなれない身体にしてあげる」
    「フン……それなら別に構わない、ほら、やるがいいよ!」
     ダークスーツは、尻もち姿勢のままコンパウンドボウを掴もうとする。私は目を怒らせながら、再び胸元に矢先を強く突きつけると、さすがにダークスーツはその手を引いた。
    「あなたねぇ……なんて強情な。そもそも、トランスジェンダーでもなさそうなのに、なんで男装女子なんてやってるわけ?
     どうせ聞き返されるから先に言っておくけど、私は男として生きることに希望を失ったから、よ」
     自分が女装男子の理由を、先手を打ってさらりと言ってのける。ダークスーツは、私の目から視線を逸らさず、しばらく黙っていたが。
    「……僕は、女らしく生きたくても、人生みんな賭けても好きな人と、男女としては結ばれないと悟り、なら男としてでも生涯寄り添おうと思ったから……よ」
     意外と素直にしゃべった。そういうことなら、そりゃご主人様のために命を張ろうというものなのだろう、と少し納得がいく。
    「なるほど。でもナユリさんとの婚約がご破算になったら、ちゃんと貴女のマスターに男女として向き合えば、それなりに目があるんじゃないの?」
     私はずいっ、とダークスーツに顔を近づける。顎から鎖骨にかけてのライン、ナチュラルメイクをきちんとしているあたり、所詮は作り物の男という感じは拭えない。
    「……フツーに女の子に戻れば、貴女じつはモデル級の美人そうじゃない。男なんて間抜けで単細胞な生き物なんだから、その気になれば籠絡できちゃうわよ」
    「そ、そんなこと考えたこともないから分からない! そもそも、女装してても男の貴方が、男はマヌケで単細胞とかよく言える」
     そう言いながら、徐々に赤面していくダークスーツ。うーん、中身は男の私が言うからこそ、抜群の説得力だと思うんだけどね?
     ふーん。それならこうしてやるか。ショック療法だけど、外傷なしで何とかするには、この際仕方ない。
    「私は矢ヶ崎ソラ。貴女、名前まだ聞いてなかったわね」
     魔女みたいに意地悪そうな表情をしながら、私はダークスーツの名前を問う。
    「ぼ、僕は神前瑞希(こうさき みつき)……いまさら、名前なんて」
    「とても大事なことなのよ。なぜなら」
     私は、近づけたままの顔を、さらに大きくダークスーツ……ミツキに近づけ。
    「ンッ……!」
     私の意地悪たっぷりな瞳と、ミツキの大きく見開いた瞳とが交錯する。
     波の音だけを背景に、数秒なのだが数分とも錯覚するような、刻が流れた。
    「……男としての神前ミツキくんを殺した、最初で最後の女の名前が、矢ヶ崎ソラだからよ」
     私はコンパウンドボウのリリーサーを外し、じゅるっと少し音を立てて右袖で口元を拭った。
     うわっ気持ち悪っ……中身は女だと頭では分かっているけど、見た目が男とキスせにゃならんとは……しかも舌まで絡むし。お口のエチケットも欠かしていないのか、微妙にミント味したけど、そんなの関係なしでもう二度とやんないこれ。
    「貴女は、私みたいに人生諦めるにはまだ早すぎるわ」
     再び顔を近づけ、めっちゃ泣きそうなミツキの視線から逸らさずに……さすがにちょっと可哀想なことしたかな、と思いつつもここは心を鬼にして。
    「内に秘めた自分の想いを叶えるために、まずは足掻いてみなさい。ナユリさんから、貴女はもう一度足掻くことのできるチャンスをもらえるのだから。
     それでもダメなら仕方ない。そういうこともあるでしょう。
     しかし、その足掻いたことこそ。貴女が次なる想いを抱いたとき、想いを叶えるための大きな力となるはずよ。きっと、ね」
     ミツキは私の声に応えるようにして、咽び泣きながら首を立てに何度も振る。悲しみよりも感極まったその様子は、それまで内に抑えていた感情が爆発してしまったのだろう。
     男としてのダークスーツの神前ミツキは、もうそこにはいなかった。
    「……ソラさんのヘンタイ。いっくらなんでも、他にやり方なかったの?」
     後ろから一部始終を覗いていたらしいナユリから、ジト目で背中にかけられた冷たい言葉は、さすがに少し痛かった。
    6 届け、心に
    「これ、お渡しくださいな」
     翌日の昼過ぎ。
     入港した客船は、下船の準備で慌ただしさに包まれている。私も荷物をまとめて客室を引き払い、船内で下船の案内を待っているところだった。
     ナユリはこの船で最後の仕事、下船の演奏が控えている。その準備の時間を縫って、ミツキに一通の手紙を渡していた。
    「……はい、承りました。ナユリ様、お元気で」
    「ありがとう。貴女もこれからは、素敵で強い女性として、前を向いて生きてくださいね」
     二人は軽く握手をする。ミツキは黒革のカバンを持ち、大男を脇に連れてナユリの側から去っていった。
    「私も行くわ」
     二人の姿が見えなくなった頃合いに、荷物を手に持ち、私もナユリの側へ寄り添い声を掛ける。
    「ソラさん、本当に色々ありがとうございました」
    「ええ。ナユリさんのおかげで、退屈しない素敵な船旅になったわ……ああそう、これは念のため渡しておく」
     メモ用紙に書いた住所と、数枚の札を入れた小封筒を、ナユリの右手に私はそっと載せた。
    「ひとつひとつのステージ、ひとつひとつの演奏が、ナユリさんの納得できるものでありますように」
     これ以上頑張れないぐらいに、ナユリが常日頃頑張って生きているのを感じている私の、頑張れの代わりとして贈る言葉。
     私とナユリは、お互いの瞳を正面から見つめる。
    「ソラさんの、その想いでわたしは十分に頑張れます……ですから、約束してください」
     時計の鐘が鳴る。そろそろ話す時間もなさそうだった。
    「今度、わたしがソラさんへ手紙と招待状を出したとき。女装ではなく男性として、私の演奏を聴きに来てください」
     ナユリは小封筒をポケットにしまうと、ヴィオラケースに手を伸ばし。
    「……ソラさん、これ差し上げます。お守り代わりと思ってくださいな」
     ケースに括り付けられていた、小さいウサギの縫いぐるみの紐を解くと、それを私の右手に握らせた。
    「わたし、ソラさんの心にかけられた神様の悪戯を、きっと解いてみせますから。ソラさんの心の扉を開く音を、きっと紡ぎ出してみせますから……ですから、そのときは」
     そしてナユリは、譜面台に楽譜をセットすると、再びヴィオラケースに手を伸ばし、今度はケースを開けて楽器を手際よく取り出す。数度、軽く音を出して演奏の準備を整える。ナユリの仕事の時間だった。
    「ええ。約束するわ……また、そのときまで」
     譜面台へと視線を落としたナユリに、私はそう言うと、ウサギの縫いぐるみを持った右手を軽く肩の上で振りながら、船の下り口へと歩を進めた。

     ――幾つかの、季節が過ぎて。

     森の中は、秋風に揺れる木々の、静かな自然の音が支配していた。
     大自然の合奏のお邪魔をしないように。私はゆっくりとボルトアクション銃を構え、標的へ照準を合わせる。軍用狙撃銃なら、実際に前の仕事でも使ったことはあるが、民間用のボルトアクション銃は、やはり勝手が違う。
     気づくなよ、気づくなよ――
     チチチ……
     小鳥のさえずる音が鳴り、標的がピクン、と反応して駆け出そうとする刹那。
     パゥンッ!
     私は銃の引き金を引く。サイレンサー付きの狙撃銃より、当然だが派手な音が鳴る。
    「仕留めた!」
     鳥が一斉に飛び立つ音にも負けないよう、私は大声で周囲へと知らせる。
    「おー、やっただな!」
     オレンジ色の帽子のゆがみを少し直しつつ、私は銃を手にしたまま、仕留めた獲物のところへと歩み寄る。
     標的は、スラッグ弾に頭を撃ち抜かれ、大地に倒れていた。
    「なかなか大物のクマですね」
    「んだんだ。いっつも百発百中だなー、ソラくんは。こいつは、山ん中で人さ襲ったりしてた、噂の凶暴なクマに違いねえ。これでみんなも安心できるだよ」
    「ありがとうございます。運がいいだけですよ」
     猟友会の人生諸先輩方と一緒に混じり、私も仕留めた獲物の運び出しにかかっていた。

     猟友会の仕事を終えると、草色オフロード軽四駆のハンドルを握り、私は慣れ親しんだ家路についていた。
     人並みの庶民的生活をするなら、一生食える程度のまとまったお金は――当然、暗殺稼業はマトモなお金ではないのだが――すでに手に入れていた。
     祖父母が遺してくれた、ド田舎で広い先祖代々の故地に帰り、一人暮らしには十分な設備の整った、小さいが新しい家を建て、零細農家というか自給自足に近い生活を、ここ数年送っている。
     ナユリに出会うまでは、隠遁生活と呼ぶに相応しい無気力生活だったが、ナユリとの邂逅の後は、スローライフと呼べる程度にはなったというべきか。
     地元の猟友会に入ったのも、およそ一年前。ナユリと出会った直後のことだった。
     さすがにコンパウンドボウだけで裏社会はやっていけない。私は狙撃銃の扱いも慣れているのと、猟銃所持免許を取得済みだったこともあるが、最近は若い猟友会員が少ないようで、すんなり受け入れてくれた。
     銃を撃ち、生き物を殺す。殺す相手が人間ではなくなったことと、獲物はありがたく食すること。そして報酬が大金から雀の涙に変わっただけで、相変わらず業が深いことをしていると思うのだが、それでも獣被害で困っている農家の皆様から、心の底から感謝の言葉を頂戴する。
     これは新鮮だったし、鍛えた技が、目に見える形で人の役に立っている充実感は、善良とは言えないだろうが悪い気分でもなかった。既に地獄落ち完了の身の上、開き直っても構うまい、といったところか。
    「さて、今夜も一杯やって寝るかね」
     車をガレージに止め、郵便受けを適当に開ける。怪しい広告ダイレクトメールすら滅多に届かないようなこの田舎に、珍しく一通の封筒が入っていた。

     夏は暖房、冬は冷房。春夏秋冬で、気候のメリハリが明確であるが故に、古都では文化がいにしえより華開いたという。
     一ヶ月前、家に届いた一通の封筒。中身はチケットが一枚。内容を紹介したフライヤーが一枚。そして……ナユリからの一筆書き。
    『ソラさん。約束。聴きに来てください』
     恐ろしいぐらい、シンプルにひと言だけ。しかし故に、ナユリの自信と覚悟の程も感じることができた。
    「MerryMaking! CLASSICねぇ。ずいぶんと斜め上を攻めた催しだこと」
     招待されたコンサートの前日。会場に近い旅館から古都の秋、風情ある夜景を眺めながら、私は改めてフライヤーに目を通していた。
     フライヤーのイベント紹介によると、弦楽器をメインパートに少数の管楽器・打楽器・ピアノを加えた、全員合わせて三〇人の編成で行うコンサートのようで、加えてシークレットゲストが二名ほど出演するという。メンバー紹介に、ヴィオラパートのひとりとして、ナユリの写真と略歴紹介がしっかり載っていた。
     ひとつの楽器パートで、様々な国内外のコンクールで金賞や銀賞を受賞してきた若手演奏者が、全国からン百名ほど集まり、数枠または一枠をオーディションで競ったらしい。上位入賞歴がなかったり、コンクールのグレードが低い受賞者は一次書類選考で落とされているというから、応募総数は千人に迫ると思われた。
    「何、そのエグすぎるチャンピオンズトーナメント。ナユリさん、よくもまあ残れたもんだわ」
     読んだ瞬間、私の第一声はそれだった。ここまでくると、もうほとんどオーディションは各楽器の天下一決定戦の様相を呈していたことは、想像に難くない。
     通常のクラシックコンサートの常識を見直して、ひと味違った楽しみ方をコンセプトに、お祭り騒ぎ気分で楽しむエンターテイメントなクラシックコンサート、という試みらしい。
     どうしても、クラシックコンサートは堅苦しくフォーマルなもの――実際そうだし、そこはそこで良い部分があるけど――というイメージが強い。いささか楽器生演奏に縁遠い人には、敷居が高そうに見えるハードルを、力業で少しでも下げて、一人でも多くの人に聴いて欲しいというイベント意図が感じられた。
     大手レコード会社が主催して広告を打っているだけあり、古都で最も大きなコンサートホールは、早々に全席完売と相成ったとか。
    「よかったね、ナユリさん。貴女が望んでいた、生演奏を聴く機会に恵まれない人々に、少しでも興味を持ってもらえる大チャンス。見事にとっ掴まえたね。今夜はちょっと早いけど、おめでとうの乾杯しようか」
     古都に近き、いにしえの銘水で造られた、一番上等なシングルモルト古酒の栓を開ける。もう滅多に手に入らない、とっておきの銘酒なのだが。
    「ナユリさん、私が持ってる二本のうち、一本は私に頂戴な。もう一本は貴女にあげるけど、浴びるように一気に呑んじゃダメだよ?」
     私は、グラスに濃く澄んだ弁柄色を満たしていく。うん、今夜はダブルでいってしまおう。
    「じゃ、乾杯」
     天空から注がれる自然の光と、大地を満たす文明の光に彩られ、鮮やかに輝く弁柄色を眺めてから、私は中身をくいっと呷った。
     喉を通り、胃へとたどり着いた熱い塊。喉を逆流し気道を通り、鼻から抜けるその香りは、芳醇もここに極まれり。
    「うん、美味しい」
     絶対に感動をすることができない報いを受けている私。しかし、ほんの僅かだけ。感じるというレベルですらないほど僅かに、感動を覚えたような気がしていた。

     古都の秋、多くの人々の往来に紛れて、私はコンサートホールの入り口をくぐった。
    「へえ、こういう作りか」
     入り口から受付ゲートまでは、硝子張りの少し長い廊下を歩く。多くの老若男女に紛れながら、受付ゲートでチケットを入り口係員に渡し、さらに少し奥へと進んだ、出演者へのプレゼント受付へ。
    「こちらを、本日ご出演なさる、笠舞ナユリ様に」
     ワインバッグに入れたシングルモルト、そして花束を受付係員に渡す。
    「お預かりしました。確実に笠舞様へお渡しいたします」
    「ありがとう、頼みます」
     イベント慣れした、礼儀正しさが心地よい受付係員に礼を言うと、ホールへと入る前に、少し周囲を見渡す。
    「華やかだな」
     数多くのスタンドフラワーが、ホールの入り口前にびっしりと並べられていた。開演時間までは少し時間もあるが、早めに私はホールの中へ入り、座席を確認。
    「ナユリさんの意地悪……私には勿体なさすぎる席」
     彼女が用意してくれたチケットの座席は、ほぼ真っ正面の前から二列目。ハッキリいって特等席に等しかった。
     小さな熊とウサギの縫いぐるみをつけた革鞄を足許へ置き、私は着席して開演を待つ。
     緞帳が上がると、もはや全面背景と化している超大型スクリーンを軸に、デジタルと光を駆使した演出のもと、雛壇にそれぞれ乗り、黒地ベースの衣装で統一された演奏者が、予定されていたプログラムを開始する。
     元々はポップスのライブを得意とする主催会社なだけあって、強みであるポップスの演出フォーマットをベースに、クラシックコンサートの要素を取り入れた、という方が近い演出なのかもしれなかった。
     比較的耳慣れたクラシックの名曲を、メドレー方式で演奏が続く。繋ぎの違和感がないようにうまく編曲してあるあたり、メドレーがまるで元からひとつの曲だったのでは、と錯覚するような編曲の妙と聴き応え。
     メドレーが終わると、四曲ほどソロも交えた単曲のプログラムに。時折混ざるソロの演奏は、確かに巧いと唸るレベル。さすがは若き王の中の王、女王の中の女王しかいない編成なだけはある。
     ――そういうことか。
     演奏を聴きながら、私はナユリがこの席を用意してくれた意味を、ようやく悟る。
     私の席からは、どんな演出であっても、必ず三段からなる雛壇の最上段にいるナユリの表情が、一瞬たりとも隠れずに必ず見える。奇跡の産物と呼ぶに相応しい、絶妙な位置。
     ――楽しそうだな、ナユリさん。
     もちろん真剣な表情なのだが、変な緊張ではなく気持ちよさそうに、思う存分自信を持って弾いているのが、見ていて伝わってくる。
     たった一年、されど一年。客船で初めて逢ったときから、さらに相当な修練と場数をこなしたのだろうと想像できた。

     休憩は、やや長めの時間が取られていた。楽器の演奏はおしゃれな肉体労働である。衣装替えや次の演出の準備も大がかりなのかもしれないが、かなりハードなプログラムだけあって、演奏者のリカバリー時間も多く必要とするのだろう。
    「お兄はん、都の人ではおまへんでっしゃろ?」
     手洗いから席に戻ると、隣席の見知らぬ老婦人から声を掛けられた。
    「ええ、遠いので前泊で今日は来ていますけど……」
    「熱心なことどすなぁ。弾いとる人が聞おいやしたら、えらい喜ぶでっしゃろ」
    「招待された身の上ですから……後半、始まるみたいですよ」
     阿吽の雑談をしているうちに、再び緞帳が上がりはじめた。
     後半プログラムを素早く確認。息抜き的な意味合いだろうか。最初だけ、クラシックではない曲が、一曲だけ盛り込まれているようなのだが――
    「ちょっと、これ」
     私の本当に小さな驚きの声とともに、会場は照明が落ちて暗くなる。
     そして、超大型スクリーンに映し出された文字。
     ――夢を見ている。きっと私はいま、夢を見ている。

    《EnglishMan in NewYork》
    《Secret-PianoGuest:Itoe-Yukihara with Viola:Nayuri-Kasamai》

    「スティングの名曲、イングリッシュマン・イン・ニューヨーク。
     歌詞には、ニューヨークで暮らす英国人の、異邦人として孤独と悲哀を感じながらも、誇り高くあらんとする生き様が綴られています」
     事前にアフレコされたものだろう。本当に久しぶりに聴く、イトエの声が、会場中にスピーカーを通して流れる。声に合わせて、字幕のようにスクリーンに文字が次々と映し出される演出。
    「初めて足を踏み入れる、生演奏の音楽を聴く世界。
     そう、この曲の英国人のように、見知らぬ異国にいる異邦人のような心地で、会場に足を踏み入れられた方が、きっと多いと思います」
     続いて、ナユリの声。初めて逢った船内ラウンジのときとは別人の、自信と優しさに満ちた、信念が込められた、力強い声。
    「でも、貴方はひとりではありません。
     この曲の異邦人のように、孤独や悲哀に苛まれることがないように。初めて訪れる貴方も、楽曲に詳しくない貴方も、純粋に聴くことそのものを楽しんで、心穏やかで誇り高きオーディエンスであって欲しい。その願いを込めて選んだ曲です」
    『全ての演奏者の、心優しく聴いて下さる皆様を想う心を、感じながら聴いていただければと思います』
     そして、最後にふたりの声が合わさった言葉とともに、ステージにスポットライトが当たる。
     イトエを除く出演者は、ナユリも含めて、ヴィクトリアンスチームパンクの渋く煌びやかな、そしてクラシックコンサートとしては型破りな衣装に身を包んでいた。
     そして、演奏が始まった。

     ――軽快なリズム感の中にも、深い哀愁を漂わせ、ときに燦めくような力強さを秘めた曲調。ナユリの主旋律が際立つよう、極限まで突き詰めた編曲に仕立てられていた。

     イトエの伴奏は、昔よりさらに優雅さを感じる旋律。そしてナユリが紡ぎ出す主旋律は、彼女らしい凛としたダイナミックな力強さ、心地よいロマンティックな優しさに満ち溢れている。歌詞がなくとも音だけで、曲に込められたストーリーと、弾き手が込めたメッセージをアウトプットしていく……まさに、命を削って音を紡ぎ出していると呼ぶべきものだった。
     ――届け、心に! 扉よ、開け!
     旋律の中に、ナユリの心の声を、確かに聞いたような気がした。
     曲が終わる。
     ナユリは満足そうで自信に満ちた、会心の微笑を浮かべながら、弓先をスッと真上へ向ける。天に座する神へ、どうだと言わんばかりに。
     心臓の奥が、ほのかに痒くなるような感覚。全身が心地よく、頭の中をマッサージされているような、ほんわかと痺れるようにくすぐったい感覚。
     ずっとずっと忘れていた感覚を実感しながら、会場の大きな拍手に混じり、私も拍手を惜しまなかった。
    「かなヴィオリストはん、ほんまに思いん強い娘はんどすなぁ。
     お兄はん、うちん負けどす。感動でけへん報いやけは解いておおいやしたさかい、せえだいかなヴィオリストはんに尽くおくれやす」
    「……えっ?」
     拍手に混じり、隣席の老婦人が、私の耳元で古都言葉をささやく。驚いて横を振り向くが、しかし老婦人の姿はそこになかった――

     その後は、ド派手な演出の効いたクラシック名曲のプログラムが続き、興奮の中で閉幕した。トリックスター路線なやり方は賛否渦巻くのだろうが、これだけ盛り上がれば大成功と言っていいのだろう。
     感動した。そう表現するしかない心地の中、私はコンサートホールを出る。席でしばらく感慨に耽っていたこともあり、もうロビーも人がかなり捌けていた。
    「あの老婦人、あれはやはり……」
     少し考え込みながら、ロビーの出口をくぐる。もう帰りの聴衆もほとんどいない長い廊下を、足取りも遅く出口へ向かう。
    「ちょっと、ちょっと待ってよ!」
    「……え?」
     廊下に大きく響く声が、私の背中にぶつけられる。その声を間近で聞くのは、およそ一年ぶりだった。
    「来て……来てくれたのね、ソラさん」
     膝に手を当てて肩で息をつく、ステージ衣装のままのナユリがそこにいた。
    「あーこの衣装、猛ダッシュするとコルセットきつッ!」
    「そりゃそうだろ。ヴィクトリアンスチームパンクの衣装なんて、まあこのコンサートの趣旨らしい、といえばそうだけどさ」
    「わたしの趣味で選んだ衣装じゃないから」
    「それは何となく分かる」
     阿吽の会話とともに、ようやく息も落ち着いたのか、ナユリはスッと立ち上がる。
    「ソラさん、男性の恰好だとこういう風なんだ……」
    「もう女装はしてないから、いまはこれが普通。でも、よく後ろ姿で分かったね」
     ネクタイを締めたカラーワイシャツにベスト、ノータックパンツという、ごく一般的なメンズ衣装を纏った私を見て、ナユリは感嘆混じりの言葉を漏らす。
    「……カバンの縫いぐるみ。見かけたら超特急で声かけてって、係員さんにお願いしてた」
    「なるほど」
     後ろ姿でも私と分かったカラクリを、平べったい目で説明するナユリ。聞いて納得ではあるが。
    「縫いぐるみつけてなかったら、どうするつもりだったのやら」
     半分茶化すような言い方をした私だったが、それを聴いた途端、ナユリの表情は一転して神妙な面持ちになり、うつむいて泣きそうな声を漏らす。
    「イトエさんに伴奏を頼んだのはね、わたしの我が侭。ソラさんにかけられた神様の悪戯を解くには、彼女の伴奏が必要だって思ったから。だからお願いした。
     怖かった。彼女に伴奏をお願いするのは怖かった。でも、わたしはその怖さから逃げてしまったら、きっと神様は、ソラさんへの悪戯を解いてくれないと思ったから。だからお願いした。
     もし神様の悪戯が解けて、彼女がソラさんのことを思い出して、ソラさんは彼女のことを選んで、彼女はソラさんのことを選んで、いまここに立っているのが、わたしではなかったら。
     あるいは、縫いぐるみをソラさんが身につけていなかったら。あるいは後ろから、イトエさんが駆けてきたら……いまこの瞬間も、震えが止まらないぐらい怖い」
     両手を胸元で合わせ、彼女は祈るような表情で次の言葉を絞り出した。
    「でもね、そのときはそのとき。それが……それが、わたしとソラさんの運命なのだと。わたしに、自分の想いを叶えるだけの力がなかったのだと」
     老婦人――伎芸天は、私の感動ができない報いだけを解くと言っていた。ナユリの言葉から察するに、イトエはあのときと同じく、私のことを何も覚えてはいないのだろう。
     それは、それでいい。イトエはナユリの代わりではないし、ましてやナユリはイトエの代わりでもないのだから。
     しかし私ひとりのために、ナユリがそこまで思い詰めて時を過ごしていたとは。彼女は人間が織りなす考え得る限り超絶技巧の舞台で、器楽の神と対峙すべく一年を過ごしてきたのだろう。
    「ソラさん、わたし達の……そして、わたしの演奏、どうだった?」
     意を決したように顔を上げたナユリは、いまにも断崖絶壁から飛び降りそうな表情で、私の目を真っ直ぐに見つめる。
    「うん、感動できたよ。本当に久しぶりに。神様の悪戯も解けたみたい。ありがとう、ナユリさん」
     真っ直ぐに彼女を見つめ返す私の答えは、淀みなく。
    「……よかった。ありがとうソラ、聴いてくれて」
     彼女はうつむき、涙を隠そうとせず。
    「……たとえ無数のファンに囲まれていても。どんなに多くの人から愛されていても。わたしがわたしの頑張りを最期の刻まで聴き届けて、見護って欲しい人は、たった一人」
     再び意を決したように顔を上げると、ナユリは私に……抱きついてきた。
    「ちょっと、ナユリさん」
    「これからは『さん』づけしないで」
     胸元から、ドキリとするような言葉が漏れてくる。
    「わたしの頑張りを最期の刻まで聴き届けて、見護って欲しい、たった一人の人は貴方よ、ソラ」
    7 聴き届ける
     アンコールの演奏が終わると、会場にいる聴衆全員から大きな拍手が起きた。
     会場といっても、そう大きな所ではない。地方都市の駅前にある、ノスタルジックな雰囲気漂うカフェ。聴衆も満席とはいえ30人いるかどうか、といったところか。
    「最後までご静聴くださいまして、ありがとうございました」
     店内のムードに合うよう、黒基調のワンピースを纏ったナユリは、笑顔で聴衆にお礼をする。
    「さて」
     ナユリとファン、主催のカフェオーナーとの会話もひと段落したと思われたので、いちばん奥で聴いていた私は、さりげなく席を立つ。
    「そろそろ車回すか……ナユリ、今日は〆ラーするとか言い出しそうだな」
     開演前は、この季節最後であろう雪がちらちらと舞っていたが、それも止んでいた。カフェの前にある公園の木々は、冬将軍最後の猛攻に耐えつつ、いまにも開きそうな赤い蕾を、枝いっぱいにつけている。
     季節は、もうすぐ春――

    (ストリング・クロス 完)

    -------------------------------
    ※この物語はフィクションです
    ※例外として、楽曲名については実在するものを想定して引用しています
    ※特定の性別・価値観・思想・行為について、差別的な意図や考えは全くない作品であることをここに宣言します
    悠川白水 Link Message Mute
    Mar 30, 2019 11:58:22 AM

    ストリング・クロス

    "魂の一矢、愛の旋律--ふたつの弦が交差する"

    ★音楽とお酒が彩る、少し大人なロマンティック・ライトノベル

    ★全体的にはロマンチック系の現代ファンタジーノベルです

    ★音楽を扱う作品としてはレアな、弾き手(歌い手)主人公ではなく、"聴き手の一人称"による作品となっています

    ★ヒロインが操る、物語のメイン楽器はヴィオラです。ただしピアノも若干登場します

    ★物語の雰囲気を彩るものとして、お酒も多く登場します

    ★プロの楽器奏者から高い評価をいただいたことがある、本格派の作品です

    ---------------------------
    著者:悠川白水
    キャラクターイラスト:みやび(サークル 梟の栞)

    web仕様のストーリーフル掲載バージョンです
    仕様上の都合により、オフライン紙本版/PDF電子書籍版と異なる部分があります
    (1)扉絵・裏表紙など、表紙1以外のイラストはオミットされています
    (2)ルビ機能は行間レイアウトが崩れるため、キャラクター名を漢字表記→カタカナ表記としています
    (3)一部の難読漢字をひらがな表記としています
    (4)一部のルビを括弧書きとしています

    扉絵やルビなども入った完全版(オフライン紙本版・PDF電子書籍版)は、BOOTH・架空ストアで頒布中です

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