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    お試し恋愛一ヶ月未満


    「え、俺のことが好き? わりぃ、俺おとこなんだわ」
     藤丸立香の生まれて初めての告白が、華麗に砕け散った。
     呆然と告白の相手――キャスターを眺めつつ、今の台詞を脳内で繰り返す。が、どれだけ繰り返したところで、すんなりと納得することは出来なかった。
     自分よりも背が高い相手を、頭から爪先まで凝視する。たしかに女性にしては背が高く、体格もしっかりしているような気はするが、しかし今まで相手の表情や仕草ばかりを見ていたために、そこまで深く考えたことがなかった。女性でも背が高いひとはいるし、体格がいいひともいる。
     故に、相手が男である可能性さえも、立香は思案したことがなかった。それは、キャスターの容貌が美しく整い、髪が長い点も無関係ではないだろう。
     そう、彼は容姿のみならず、立ち居振る舞いも美麗だった。店の制服の白いシャツの袖をまくり上げる動作や、カップを持つ指先までもが洗練されている。本人は意識していないのかもしれないが、キャスターの流し目や微笑はとくに艶麗で、立香の胸の鼓動をいともたやすく乱してしまうのだった。
     それほど真面目でもない立香が勉強を口実に彼の勤め先であるカフェにしょっちゅう顔を出してしまうのは、他でもない、キャスターに会うためである。店に通いすぎて、今では彼が不在の曜日までわかってしまう始末だ。ストーカーだと思われても困るため、間違っても本人には言えないけれども。
     ちなみに、学校の成績のほうはべつに上がっていない。立香はカフェに来ると、キャスターを観察するのに忙しいのだった。
     呆然としている立香の顔の前で、キャスターがひらひらと手を振る。
    「おーい、起きてるか?」
    「お、おとこ……」
    「うん?」
     立香は相手に言われた言葉を繰り返す。繰り返しても、まだ信じられなかった。
    「ほ、ほんとに男なんですか? 告白を断るための嘘とかじゃなくて?」
     嘘であってほしいという希望をいだいて問い掛けたが、相手はあっさりと否定する。
    「男だよ。見りゃわかるだろ」
     わからないから、こんな事態になっているのだ。
     それとも、普通はわかるものなのだろうか。おかしいのは自分なのだろうか。もしも後者であれば、立香は「普通」という感覚に今後は懐疑的になってしまいそうだ。
     現在、店内に他の客の姿はない。立香がそのタイミングを見計らって告白をしたからだ。
     時計の秒針の音が静かに響く店内で、立香の受けた衝撃がたゆたっているようである。
     すると、不意に立香の左手を取ったキャスターが、その手を自らの胸に押し当てた。心の準備もなく恋情をいだいている相手の胸に触れ、立香は狼狽する。
    「ちょ、ちょ、ちょっ! な、な、なにして――」
    「んなあわてんなよ、男の胸さわったくらいで」
     少々あきれた面持ちで言われ、立香は意識を掌に傾けた。うろたえて散らかった意識を集中させるのに、幾分かの労力を要した。
     掌が、相手の胸に密着している。制服の布地越しにキャスターの胸の僅かな隆起を感じ、その柔らかいとは言えない胸が立香の手を受け止めて頑としてそこに存在して――言うなれば、硬かった。
     立香はたらいを頭で受けたような絶望に襲われる。
     それでもまだ信じたくなくて相手の胸をまさぐってみたが、やはり硬いものは硬かった。貧乳というわけでもなさそうである。往生際悪くも今度は両手で触って確かめてみるけれども、どれだけ確かめてもたくましい胸がそこにあるだけだった。
     頭をかかえて、立香は膝を折る。
    「おんなのひとじゃない……」
    「だから言ってんだろ。赤くなったり青くなったり、忙しいやつだな」
    「だって……」
     立香は顔をあげて、相手の美しい容貌を見上げた。揺れる銀のイヤリングは、彼に華やかさを加える仕事を立派に果たしている。
     どれだけ見ても、つい見蕩れてしまうキャスターの相貌に今日も視線を奪われながら、立香は続けた。
    「だって……こんなに綺麗なのに……」
    「……褒め言葉として受け取っとくわ」
     微苦笑を唇に描いて、彼は返す。
     立香は深い深いため息を吐いた。しかし、どれだけ息を吐き出しても心が晴れる気配はいっこうに感じられなかった。
    「そんなに落ち込むなよ。なんか罪悪感おぼえちまうだろ」
    「俺の初恋……」
    「え、初恋だったのか?」
    「そして俺の初告白……」
     呟いて、立香はとうとう床に倒れ込んだ。ハートは粉々に砕け散り、気分は満身創痍だった。
     キャスターはしゃがみ込んで、床に倒れた立香を覗き込む。
    「あー……そいつは、なんだ、悪いことしたな。まさかひとりの男子学生をここまでにしちまうとは」
     声音には言葉の通りに申し訳なさげな色が滲んでいたが、その発言から察するに、彼は自身の容貌が周囲に与える影響についてはあまり頓着していないらしい。嘆かわしいことだ。
     きっと立香がこうなる以前にも、立香と似たような境遇の男が数多く存在していたに違いなかった。そして恋にやぶれた男の屍で山が築かれている事実に、おそらくキャスター本人は気が付いていない。
     立香もこのまま、その屍の山を築く新たな一員となるのだろう。身の丈に合わない恋をした平凡な男子高校生には、ふさわしい末路である。
     キャスターが腕を伸ばして、立香の頭を撫でた。
    「でも性別は変えらんねーんだ、悪いな。すっぱりと気持ち入れ替えて、次を当たってくれや」
     言って、彼は立香の髪を梳く。その指の優しさを、立香は傷心しながらも心地好く感じた。
     いつも見ていたあの綺麗な指が、自分の髪に触れている。あの綺麗な手が、自分の頭を撫でてくれている。
     彼の優美な手指は、性別で変化することはない。いや、指だけではなく、容貌だって変わったりはしないだろう。優しさも、性別で増減するものではない。
     そこまで考えて、ふとひとつの疑問がうかんだ。
     容姿や性格が性別で変わるものでないのなら、キャスターが男だろうが女だろうが、かまわないのではないだろうか。
     立香がいま受けている衝撃は、女性だと思っていた相手が男性だったという個人的な勘違いから来るものに過ぎない。そして、個人的な勘違いとキャスターの魅力の話は、当然のことながら別問題だ。
     立香はキャスターに恋情をいだいている。そんな相手の魅力が性別で変わるわけではないのなら、なんの問題もないように感じられた。
     それに気付くと、ショックを受けていた自分が途端に馬鹿馬鹿しく思えてくる。
     むくりと立香が上体を起こすと、立香を覗き込んでいたキャスターが驚いて身を引いた。
    「うおっ、びっくりした。なんだ、立ち直ったのか?」
     訊いてくる彼の手を、立香は両手で包むふうにして握る。次いで、自らの意思を告げた。
    「男でもいいです」
    「……は?」
    「俺、キャスターさんなら男でも女でもかまいません」
     この台詞に、相手は眉根を寄せる。戸惑っている感情が、その眉から察せられた。
    「……なに言ってんだ?」
    「いま恋人いないんですよね?」
    「そうだけど……なんで知ってんだ?」
    「いつだったか、キャスターさんがお店のマスターと話してたのを、うっかり耳をそばだてて聞いちゃって」
    「それ、うっかりって言わねぇんじゃねーかな」
     冷静に返す相手を、立香はまっすぐ見上げる。彼の緋色の双眸を見据えて、一刹那の逡巡ののちに声帯を震わせた。
    「……俺じゃ、駄目ですか?」
     声調が僅かに弱まる。キャスターの手をぎゅっと握ることでその弱さを飲み込もうと努めながら、立香は連ねた。
    「俺みたいな子供じゃ、キャスターさんとお付き合いすることは出来ませんか……?」
     立香の台詞に、相手が紅の瞳を微かに揺らしたのが見て取れた。キャスターは一瞬だけ目を逸らしてから、言い淀んで返す。
    「……そういうんじゃねーけど……」
    「俺、初めてキャスターさんに会ったとき、胸がぎゅーってなったんです。目が離せなくて、ずっと見ていたくて、キャスターさんに会いたくてこのお店にも何度も通って。ひとりでいるときだって、キャスターさん今なにしてるのかなって考えちゃって――」
    「わ、わかった、わかったから」
     我知らず身を乗り出していた立香から上体を引いて、キャスターはほのかに目許を赤らめた。
     次いで目線を宙にやり、しばしなにかを考え込んだ彼は、小さく唸って立香に問い掛ける。
    「んー……じゃあ、ためしにちょっと付き合ってみるか?」
     今度いっしょにメシでも食いにいくか、くらいの気軽さではあったが、彼はたしかに立香にそう言った。
     付き合う、という言葉に、立香は視野が突然ひらけた気分になる。自然とうかんだ笑みもそのままに、相手の提案に食いついた。
    「ほ、ほんとですか!」
    「ただし」
     立香の勢いを遮り、キャスターは握られていないもう片方の手の人差し指を立てると、それを立香の眼前に出す。
     キャスターの白く長い人差し指を見、目線を緋色の瞳に戻せば、彼は薄い唇にゆるやかな弧線を描いた。
    「お試し期間は一ヶ月だ」
    「……お試し、期間……?」
     立香が相手の言葉を繰り返すと、キャスターは「そ」と短く言って続ける。
    「この期間のあいだに俺を本気にさせたら、そのあとも付き合い続けてやるよ」
     先程の歓喜に覆いかぶさるふうに、今度は立香の胸から不安な感情が湧出した。どうやら彼は、正式な交際の前にお試し期間を設けて、それで立香を試そうということらしい。とつぜん告白してきた年下相手にふたつ返事であっさりと承諾するよりかは納得がいく措置ではあるが、それはそれで立香の不安を煽った。
    「……本気に、させられなかったら……?」
     そう、試される期間があるということは、その先に合否があるということである。合格と不合格のボーダーラインが「彼を本気にさせられるか否か」なのだろう。
    「そんときゃ、お試し期間一ヶ月でお付き合いは終了だ」
    「ええ……っ」
    「当たり前だろ。そんなに甘くねーよ」
     立香の質問に軽く返したキャスターが、笑みを深めて述べる。言っている内容はもっともなために、それ以上訴えることが立香には出来なかった。
     第一、告白した立香を拒む権利すらをも彼は持っているはずなのに、それをせずにお試し期間を設けてくれること自体が、立香にとっては幸運なのである。それを踏まえた上で、立香は思案した。
     相手の提案を受け入れれば、お試し期間とはいえキャスターと交際することが出来る。離れたところから見ているだけだった、憧れの彼と。
     しかし、一ヶ月のあいだにキャスターを本気にさせられる自信など、正直に述べてしまうと微塵もなかった。彼はずっと一方的に好意を寄せていた相手であり、言うなれば高嶺の花だった。見ているだけで精一杯で、積極的に話しかけることすらも、これまで出来てはいない。そんな相手を本気に――自分に惚れさせるなど、とても現実的には考えられなかった。テストで全教科満点を取れと言われるのと同じくらいに、現実的ではなかった。
     でも、と立香は考える。もし、万が一、彼が自分に好意を持ってくれたなら、お試し期間を終えたあともキャスターと交際を続けることが出来たなら、それはとても素敵なことで、幸福なことなのだろうと思う。
     自分は今、そのチャンスを手に入れたのだ。こんなチャンスはきっと、滅多に手には出来ないだろう。
     挑むことすらせずに、その貴重なチャンスを手放す気には到底なれなかった。挑戦すれば可能性はゼロではないけれども、挑戦しなければ可能性は確実にゼロになってしまう。
     その僅かな可能性にすがりたいと思ってしまうのは、決して不自然な思考ではないはずだ。
     立香は改めて、キャスターの手を両手でぎゅっと握りしめた。その動作に、彼は双眸を細めて笑う。
    「どうする。やめとくか?」
    「……やり、ます」
     油断をすれば弱くなりそうな心を、大きな決意をくちにすることで立香は鼓舞した。
    「俺、一ヶ月でキャスターさんのこと――本気にさせてみせます!」
     言ってしまった、と言ってから思った。後悔からではなく、もう後戻りは出来ないという覚悟から来る感想だった。
     キャスターはどこか楽しげな顔をして、立香を見返す。
    「決まりだな。じゃあ、俺からひとつ先に言っとく」
     立香の眼前に出されていた彼の人差し指が、僅かにさがって立香の唇に触れた。普通に生活をしていれば、そこに誰かの指が触れる機会はほとんどない。故に、立香は無性に恥ずかしくなって顔を熱くする。
     それを認めたキャスターが小さく声に出して笑って、続けて言った。
    「お試し期間のあいだは敬語禁止だ。名前にさん付けすんのも、もちろんなしだぜ」
    「え、あ、でも……そんな急に……」
    「こら」
     突然の条件に反論しようとすると、彼に微笑みながら穏やかに叱られる。その口角を上げて瞳を細めた表情が驚くほど妖艶に見えて、立香はくちを噤んだ。
     美しい容貌だけが、色香の理由ではないだろう。しかし、具体的になにが彼をそこまでなまめかしく見せているのかと訊かれると、立香は答えることが出来ない。強いて言うなら、奥に深い意味を秘めていそうな双眼と唇だろうか。だが、それも定かではない。キャスターがじつは妖怪かなにかで人間ではないと説明をされても、きっと立香は信じてしまうのに違いなかった。
     キャスターが、顔をゆっくりと立香に近付ける。なんの匂いか、微かにいい香りが鼻腔をかすめて、相手の紅の瞳が間近に迫る。睫の長さも、唇の薄さも如実にわかってしまう距離に、立香は頭がぐらぐらとした。顔が熱くて、心なしか息が苦しい。
    「……はい……あっ、じゃなくて、えっと――うん……」
     半ば条件反射のごとく、言葉がくちから出た。不思議とキャスターには、無条件で従いたくなってしまう雰囲気がある。
     立香の返事を聞くと、キャスターはにっと歯を零して笑った。そうすると、濃厚だった艶美な空気が途端に雲散霧消して、いつもの彼に戻った。魔法かなにかのようだと立香はひそかに思う。
    「おりこうさんだ」
     言って、キャスターは立香の頭を撫でた。子供扱いをされているはずなのに、それが少しも嫌ではないのはどうしてなのか。上昇した体温のまま立香は考えたけれども、答えは出なかった。
     果たして、こんな状態でお試し期間の一ヶ月を過ごせるのか。お試し期間の結果よりも、今はそれが心配で仕方がなかった。
     すると、キャスターが軽い調子で言葉を継ぐ。
    「んじゃ、さっそくデートの約束でも取り付けるかね」
    「デ、デデデデート……っ?」
     舌がもつれて、うまく単語を発することが出来なかった。デート。これまで自分とは無縁だった言葉である。
    「そう、デート。なんだ、まさか文通から始めるつもりだったのか?」
    「そ、そういうんじゃないけど……」
     お試しの交際が始まった実感もまだ湧かないうちに、展開がどんどん進んでいく。初恋に初告白だったために、当然デートも初めてだった。
     デートとはなんだっただろうと、立香は頭を強引に働かせて思考する。
     遊園地や水族館に行ったり、同じ飲み物をハートを描いたストローで一緒に飲む、あれだったか。なんだかイメージが古い気がすると、我ながら思った。
     それとも、自転車をふたり乗りして長い長い下り坂をブレーキいっぱい握り締めてゆっくりゆっくり下っていく、あれのことだろうか。今それをすると警察に叱られてしまう気がするのだが、大丈夫なのだろうか。
     様々なイメージが立香の脳内を飛び交い、混乱を生み出す。すると、不意にそんなイメージの山の隙間から、立香は重要な情報を拾い上げた。大事なことを思い出したのである。
    「あっ!」
    「ん? どした」
     頭が急速に現実感を取り戻し、恋愛にうかれていた意識を端へ追いやっていく。今しがたまでキャスターのことで満たされていた脳が、立香に学生の本分を思い起こさせた。
    「……俺、学校のテストが……」
    「テスト?」
    「テスト勉強、しないと……」
     そう、近々立香の通う学校ではテストがおこなわれる予定になっているのだった。
     それを聞いたキャスターは数秒ほどぽかんとしたかと思うと、不意に吹き出して笑う。
    「そうだな、まだ学生だもんな。そらテストは大事だわ」
    「ど、どうしよう……」
     心地好い夢が一瞬で打ち砕かれた気分だった。べつに気にしなくてもよいと言うのならテストなど正直どうでもよいのだが、それが成績に直結する以上、無視するわけにもいかない。とくに立香は勉強が得意なほうではないために、事前に勉強をしなければ悲惨な結果が待っているのは予期するまでもなかった。
     考えたくはないが、考えざるをえない。それが、立香にとっての勉強であり、テストであった。
     立香が胸中で深いため息を吐くと、キャスターが僅かに思案する素振りをして言う。
    「なら、家デートでいいんじゃねぇの? 坊主、おまえ成績はいいほうか?」
     問い掛けられ、立香は言い淀んだ。
    「い、いいほうでは……ないかな……」
     つい視線を相手から逸らして返す。自分でこんなことをくちにするのはひどくなさけなかったが、かといって成績優秀だと嘘をつくことも出来なかった。好きなひとに嘘はつきたくないものだ。
     キャスターは小さく笑う。
    「なら、俺がお前の家に行って、勉強おしえてやるよ」
    「えっ、いいの?」
     自分でもおかしなくらいに、即座に食いついてしまった。しかし、それを恥じる余裕もないほどの期待が立香の胸を満たす。
     おう、と頷いて、キャスターはいくらか得意げに続けた。
    「自分で言うのもなんだが、頭はいいほうなんでな」
     それを聞き、彼に対する好意に、さらに尊敬が加味される。美しい容貌に、洗練された立ち居振る舞い、加えて知性まで備わっているなど、立香からすれば考えられないことだった。
     相手の提案に躍った心が、しかし直後に不安で微かに小さくなる。立香はおそるおそる尋ねた。
    「で、でも、ほんとにいいの? デートなのに家だし……勉強だし……」
    「俺、家デート好きだぜ。ゆっくり出来るし。それに、学生から勉強の時間を奪うのは、悪い大人のやることだからな」
     述べて、キャスターはにっとどこか不敵な笑みを唇に描く。そんな表情をしても様になるのだから、いやはや美貌というのは恐ろしかった。
    「そんかわり、俺に教えられるからには、テストでそれなりの点数とってもらうぜ」
    「ええーっ」
     目を見張った立香に「当然だろ」と彼は言う。
    「ま、安心しろって。飴と鞭でちゃーんと躾けてやるからよ」
     顔を寄せ、立香の頬を撫でながら、キャスターはわずかに声量を抑えて告げた。少しばかり呼気にかすれた声は妙に色っぽく、さらには台詞の内容と相手の動作が立香の胸を高鳴らせる。なんだかいやらしい言葉をかけられたような、どこかいやらしく触れられているような、そんな気がした。
     いささか戸惑う立香に、キャスターが優麗な微笑を向ける。細めただけでなまめかしく見える瞳が、不可思議だった。
     自身の顔が熱くなっていくのを、立香は自覚しないではいられない。おそらくは耳朶も赤く染まっているのであろうし、それはキャスターにも当然見られていることだろう。が、上昇する体温をどうにかする方法を立香は持ちえない。
     お試し期間一ヶ月、仮初めとはいえ初めて出来た恋人は、年上の綺麗な男性だ。しかし、彼が一筋縄ではいかない事実は、相手の言動からも容易に想像できた。
     テストとキャスターのことで、立香の頭はいっぱいになる。果たしてこの一ヶ月を無事に乗り切ることが可能なのかどうか、立香は期待と不安を胸に、自らの運命の背中をじっと見つめ、そうしてひそかに自問をするのであった。



     キャスターが立香の家にやってきたのは、休日の昼過ぎだった。
     立香の部屋に入った彼は、室内を見回して感嘆する。
    「へー、案外きれいにしてんだな」
     その発言に、立香は曖昧な笑みを返した。じつを言うと、キャスターが来るのが決まってからあわてて掃除をしたために、綺麗なのは見えている部分だけで、クローゼットの中はひどい状態になっているのである。
     立香の態度からそれを察したのか、キャスターは悪戯っぽく口角を上げる。
    「……さては、普段この部屋、もっときたねぇな?」
    「そ、そ、そんなことないよ!」
    「あわてて掃除して、片付かないもんは皆クローゼットとかにぶち込んでんだろ」
    「そんなことないってば!」
     立香はそう返したが、キャスターがクローゼットに近付こうとしたので、咄嗟に両腕を広げて立ちふさがってしまった。反射的な動作ではあったけれども、これでは図星だと自ら言っているようなものである。
     単純すぎる立香の行動に、キャスターがくつくつと笑った。立香は眉尻をさげる。
    「……ひどいよ」
    「わりーわりー、お前があんまりにも嘘が下手なもんでよ」
     からかわれたとわかっても怒る気になれないのは、相手に対する恋情が要因なのだろうか。それとも、立香をからかって笑う彼の様子すら魅力的であるからか。少し考えて、両方かもしれないと立香は思った。
     テーブルの脇の座布団に、キャスターは腰をおろす。己の部屋に彼がいる光景はなんだか不思議で、自分の部屋なのに自分の部屋でないふうな、妙な心持ちがした。
    「まぁ、学生のうちは教科書とかプリントも多いし、整理するだけでもけっこうな労力なんだよな。散らかるっつーのは、わからんでもねぇ」
    「キ、キャスターも子供のときは部屋きたなかった、とか?」
     半ば期待を込めて尋ねたが、その問いは「いや」という一言に一蹴された。
    「俺はそのへんきっちりしてたな」
     期待を撥ねのけられて肩を落としたくなる気持ちと、彼らしいなと感じる気持ちが心中で混じり合う。キャスターは続けた。
    「でも、双子の弟が大雑把でよ。使ったもんはもとに戻さねぇわ、ひとのもん勝手に持っていくわ、挙句の果てに教師にやんちゃが見つかったら俺のふりして切り抜けようとするわで、ひどかったな」
     キャスターが顔を顰めてする話を、立香は新鮮な思いで聞く。
    「双子の弟なんているんだ」
    「あとふたり弟いるぜ」
    「えっ、そんなに?」
     ということは、四人兄弟ということになる。なかなかな大所帯なのではなかろうか。つまり、キャスターは長男なのだ。
    「下の弟ふたりは、まだおとなしいな。たぶん兄貴――俺の双子の弟を見て、賢く育ったんだろ」
     彼のくちから家族の話が聞けるのは、率直に言って嬉しかった。キャスターとの精神的な距離が縮まったようで、胸が歓喜に高鳴ってしまう。
     それが顔に出ていたのか、キャスターは立香を見ると双眼を細めて唇に弧を描いた。
    「なに笑ってんだよ」
    「え、あ、俺わらってた?」
    「にやけてた。やらしい顔してたぜ」
    「えー、嘘!」
     そんなとんでもない顔をしていたのかと両手で顔を隠せば、またキャスターがくすくすと笑った。なんだか今日の彼は、よく笑う気がする。それに笑い方に飾りけがなく、素直な印象も受けた。
    「冗談だよ。お前はほんっとに純粋だな」
     屈託なく笑う彼の笑顔は、カフェで見るそれとは雰囲気が大きく異なっていた。彼の色香を含んだ微笑ももちろん好きだが、今の彼の笑みも好ましいと感じる。気を許されているのだろうか。もしそうなら嬉しいと立香は思った。
     すると、不意にキャスターが姿勢を崩す。
    「さて、そんな純粋な立香くんは、エロ本をどこに隠しているのかな?」
     言うやいなや、彼はベッドの下を覗き込む。立香はあわてた。
    「み、み、見なくていいから!」
    「それとも、最近の学生はみんな動画や画像か?」
     相手の行動を止めようと近付いた立香の首に、キャスターが腕をまわして顔を寄せる。彼の相貌が接近して、立香の狼狽はますます深まった。
    「今度、一緒にやらしいDVDでも観るか?」
     声をひそめてキャスターは述べる。やはり彼からは、いい香りがした。
    「だ、だ、駄目だよそんなの!」
    「ほんとは興味あるくせに。どういう子が好みだ?」
     キャスターの囁きが耳朶を撫でる。声音のみならず、呼気までもが立香の耳を舐めて、体温を上昇させた。彼には、自身のかすれた声に含まれている色気を自覚してほしいと密かに思う。そうでないと、耐性のない立香の身がもちそうになかった。
    「キャスター、あの、ち、近いから……!」
     なんとか吐き出した台詞に、キャスターがはっとする。どうやら、今しがたの言動は本当に無自覚らしかった。
     彼は苦笑して、立香から身を離す。
    「すまん、すまん。ちょっとからかいすぎたな。そうだ、勉強おしえにきたんだった」
     離れた相手に安堵する気持ちと、寂しく感じる気持ちが胸中で綯い交ぜになった。矛盾する己の感情を不思議に思う。
     どういう子が好みだ――。キャスターに問われた内容を、立香は脳内で繰り返す。
     答えられるわけがない。なにを見ても、ついキャスターと雰囲気が似ている女性に視線を向けてしまい、あまつさえそこから思考がキャスター本人に結びついてしまうなど、言えるわけがなかった。
     何故ならそれは、キャスターを性的な目で見ていると告白することと同義なのだから。



    「そこ、間違ってるぞ」
    「え、どこ」
     キャスターに横から指摘され、立香はシャーペンをノートに滑らせる手を止めた。
     ここ、と言って、彼は立香が書いたばかりの行を指差す。
    「さっきも似たような間違いしてたな。ちゃんと覚えねーと、このへんの問題がテストに出たらお前、全滅だぞ」
     低い声で立香は呻く。
     間違いを繰り返してしまうということは、おそらくきちんと理解が出来ていないのだろう。
     自身の理解力の乏しさを悲しく感じながらもペンを滑らせると、またすぐに苦手な問題に当たって手が止まった。こういったことが続くから、立香は勉強が好きになれない。滞ってばかりで、少しも楽しくないのだ。隣にキャスターがいなければ、この段階でペンを投げ出していたところである。
     しかし、すぐ横にキャスターがいる状況でそれをするわけにはいかない。立香は唸りながら、懸命に問題と向き合った。
    「ほら、頑張れ頑張れ」
     キャスターが応援の声を掛けてくる。それだけで頑張ろうという気になるのだから、立香は自分の単純さがときどき心配になった。
     時間をかけながらも、なんとかして解答を導き出す。
    「こう……かな……」
     不安がぬぐえないままキャスターをちらりと見ると、彼が微笑を零した。
    「お、正解だ。なんだ、やれば出来るじゃねーか」
    「ほんと?」
     正解したことよりも、キャスターに褒められたことのほうが嬉しかった。
     彼は「ああ」と頷いて、立香に顔を寄せてくる。キャスターの整った容貌が接近し、それを立香が疑問に思うよりも早く、頬に柔らかなものが触れた。
     最初、それがなんの感触なのかわからなかった。慣れない感触だったからというのも大きいのだろう。
     故に、驚愕は数秒おくれてやってきた。
     思考が停止した立香は、眼球が飛び出しそうな心持ちになる。顔が熱くなり、動悸が胸の内で激しかった。
    「ちょっ、なっ……い、い、今……!」
     舌がもつれて、声が喉に引っ掛かる。
     そう、立香は今、頬にキャスターの口付けを受けたのだった。
     狼狽する立香の目と鼻の先で、彼が小首を傾げる。
    「ん? 嫌だったか?」
     そうすると、途端にキャスターが可愛らしく、どこか幼く感じられた。首を傾けた拍子に、銀のイヤリングが清音を奏でる。
    「い、嫌じゃない! ぜんぜん嫌じゃないけど、その、いきなりだったから、びっくりして……」
     うろたえている立香を、キャスターが小さく笑う。そうして彼は頬杖をついて言った。
    「今から、難しい問題といたりテキスト二頁すすめるたびに、キスしてやる」
    「えっ!」
     立香は我が耳を疑った。自分にとって都合のいい幻聴を聞いているのではないかとさえ思った。
     しかし、そうではないという証に、キャスターは言葉を重ねる。
    「どうだ? これだとちょっとはやる気でるか?」
    「で、で、出る! すっごい出る! 出るけど、あの……いいの……?」
    「ああ」
     首肯し、彼は妖しく笑った。
    「ついでに、テストの点数がよかった場合は――」
     言いさしたキャスターは、唇をひらいて舌を出す。赤く淫らな粘膜を眼前に見、立香の体が緊張に小さく強張った。彼は続ける。
    「ベロちゅー教えてやる」
     相手の舌から視線を逸らせないまま、ベロちゅーってなんだっけ、と立香はどこか他人事のように思案した。少し考え、それが舌を絡めるキスだという事実に思い至ると、自分でも戸惑うほどに顔が熱くなる。
     ふっ、とキャスターが吐息で笑った。
    「顔めちゃくちゃ赤いぞ。大丈夫か?」
    「あ、あんまり大丈夫じゃない、かも……」
     立香は正直に答える。じつを言うと、軽い眩暈すらし始めていた。
    「言っとくけど、テストの点数がよかったら……だからな。悪かったら、お預けだ」
     その発言に、立香ははっと意識を覚醒させてノートに向かう。我ながら単純だと心底思うが、キャスターのおかげで勉強に対するやる気はうなぎ登りとなっていた。
    「が、頑張る!」
    「おー、頑張ってくれや」
     彼は楽しそうな面差しで立香を眺めていた。
     それからは、難問を解くたびに彼の手が立香の頭を撫でた。褒めて伸ばされるとはこういうことなのかと、立香は身をもって実感する。実際、彼に褒められるのは非常に喜ばしく、勉強をしているにもかかわらずモチベーションが低下することはなかった。立香にとって、これはとんでもないことである。苦手な物事に高いモチベーションで挑み続けるのは難しいのだ。
    「よしよし、偉いぞ。おんなじとこで躓かなくなってきたな」
     やる気が持続しているからなのか、それともキャスターの教え方がうまいからなのかどうなのか、立香は順調に難問への理解を自分のものとしていた。わかってくると、それがまたモチベーションへと繋がる。これまで立香は、勉強を楽しいと言う人間の気持ちがよく理解できなかったのだが、ひょっとするとそれはこういう感覚なのかもしれないと、ひそかに思った。
     すると、不意にキャスターの顔が間近に迫る。次の問題に意識を取られていた立香は、それにすぐさま反応を返すことが出来なかった。
     鼻腔を薫香が掠め、「あ」と心中で呟いたときには、それはすでにおこなわれていた。
     唇に、柔らかなものが触れる。初めての感触は、立香に瞬きすらをも忘れさせた。
     口付けられたのだと気付いたのは、相手の朱唇が離れてからだ。
     触れていた唇が微かに離れ、まだ至近距離のまま、キャスターが紅の瞳を細めて笑う。ひとがどうして夕陽に切なさを覚え、彼岸花に惹かれ、焔に恐怖しながらも魅入られてしまうのかが、わかったような気がした。それは、人間の心を内側から震わせる色なのだ、きっと。
     相手に奪われた意識が、キスの自覚によって急速に自分のもとへと戻ってくる。が、頭の中は白く、まだうまく思考をすることが出来なかった。キャスターは笑う。
    「……いい子には、ちゃんとご褒美やんねーとな」
     そう眼前で囁かれる現状が、信じられなかった。つい先日まで、立香はただ離れたところから彼を見ていた存在だったのである。それがあの告白で、大きく変わってしまった。
     あまりにも幸福すぎて、今が夢ではないかと訝った。立香は自分の頬をつねってみる。だが、ただ痛みが返ってくるばかりだった。
    「……なにやってんだ?」
     自らの頬をつねる立香を、キャスターが不思議そうに見る。
    「いや、あの……キャスターがキスしてくれてるのが信じられなくて……夢なんじゃないかと……」
    「勝手に夢にすんなっつの」
     笑った彼は、両手で立香の頬を撫でたり鼻梁を擦りつけてきたりする。そのたびに相手の体温と芳香が立香を包み込んで、体の温度を上昇させた。
    「ちょ、ちょ、待って! 近い! 近いから!」
    「夢なんかじゃないって、理解できたか?」
    「出来た! 出来ました!」
     憧れのひとからの接近は嬉しい反面、動揺する。いや、嬉しすぎて動揺する――というのが正しいだろうか。とにかく体温が上がって、常時の自分が保てなくなって、どうすればいいのかわからなくなってしまう。幸せな悩みというやつだろう。
     立香のひたいに自身のひたいを擦りつけながら、キャスターは笑って続けた。
    「俺もテストも夢なんかじゃないから、腑抜けるんじゃねーぞ」
     そうだった、と立香の意識がいくらか我に返る。キャスターとの関係が夢ではないということは、当然テストも夢ではないということだ。夢見心地がテストによって引き締まるあたりは、学生の運命であろう。
     その後、勉強はキャスターのキスをご褒美に進められた。未だかつて、この日以上に真剣に勉強に挑んだ経験はなかったと立香は断言できる。むしろ、自分はこんなにも勉強と向き合い続けることが出来たのかと驚くほどだった。
     ちなみに、ずっと隣で勉強を見てくれていたキャスターからは、始終いい香りがしていた。綺麗なひとというのは芳香がするものなのだなと、立香は冗談のようなことをわりかし本気で思った。



     テストの当日、立香は信じられないほどの集中力を発揮することに成功した。
     出題された問題もわかるものばかりで、生まれて初めて、テストを楽しいと感じたのだった。少し前までの立香なら、考えられないことである。
     テスト中、勉強の記憶と共に、キャスターに口付けられた記憶も鮮やかに甦った。このテストの点数がよければ、さらに彼との関係が進むのかと考えると、自然、血眼になった。
     その気迫は余程だったらしく、テストのあと、教師のアーチャーが「藤丸、その……鬼気迫る勢いで問題を解いていたが……な、なにかあったのか?」と僅かにおびえながら心配をしてきたほどだった。
     交際をしているひととのベロちゅーが掛かっているんです、とはさすがに言えず、「ちょっと……」と言葉を濁した立香をアーチャーがますます心配そうな面持ちで見つめてきたのが、妙に印象に残った。
     彼は「藤丸、もしなにか悩んでいることがあれば、なんでも先生に相談するんだぞ」と立香の肩を優しく叩くと、不思議とどこかつらそうに去っていった。
     教師の仕事も大変なのだなと、立香はアーチャーを労る眼差しで見送ったものである。教師の仕事の大変さが昨今問題になっている事実を、立香は承知していた。



     テストを終えた放課後、立香はさっそくキャスターが勤めているカフェに向かった。
     店の扉を開けると、ドアに備えつけられたベルの音にキャスターが振り返る。
    「おー、おかえり」
     言って、彼は笑った。キャスターにおかえりと声を掛けられるのが少し不思議で、同時にとても嬉しい心地がする。
    「へへ、ただいま」
     返して、立香はカウンター席――中にいるキャスターと向かい合う席に座った。
    「テストはどうだったよ」
     彼には今日がテストであることを告げていた。故に、キャスターがそれを尋ねてくる。立香は胸を張って答えた。
    「ばっちりだった! 今まで、あんなにすらすら問題が解けたことなんてなかったよ!」
    「そりゃよかった。教えた甲斐があったってもんだ」
     そう瞳を細めて微笑する相手を見て、立香は先日のテスト勉強を思い起こす。あの日の夜は、悶々としてなかなか眠れなかった。
     立香は店の奥に耳を傾ける。奥のテーブルに他の客がいるようだったが、立香の座る場所からは見えなかった。
    「んじゃ、頑張った坊主にはお兄さんがココアでもおごってあげようかね」
    「やったー」
     おどけて言って、目の前でキャスターがココアを作り始めた。
     慣れた手付きでココアを作っていく相手の手を、立香は見つめる。白い手と長い指が、まるで踊るようになめらかに動いていた。
    「キャスターの手って、綺麗だよね」
     凝視しながら、つい立香はそうくちにしていた。
    「そうか?」
     立香を一瞥して軽い調子で訊き返す相手に、立香は「うん」と頷く。
    「俺、告白する前からずっと思ってた。キャスターが俺のテーブルに注文したもの運んでくれるときも、つい手を見ちゃったりして」
     実際、彼の手は美しかった。いや、彼は手の先までも、美しかった。欲目を抜きにしても、立香はそう思う。
     白く長い指は、スプーンを一本持つだけでも不思議と様になる。どんな動きをしても、どの角度から見ても、その曲線は艶麗だった。こちらの視線を奪って、なかなか返してはくれないのだ。
     キャスターは自分の手を持ち上げて眺めたかと思うと、不意に立香に目線を移した。
    「坊主、手ぇ出せ」
     内心で小首を傾げながらも立香が言われた通りに手を出すと、相手の手が伸びてきて立香の手に指を絡め、きゅっと握ってしまった。
     突然キャスターから手を繋がれ、立香はつい声を荒げそうになったが、奥の席に別の客がいることを思い出してくちを噤む。熱くなった耳は、体温が上昇した証だ。
     くすくすと、キャスターが控えめな声で笑う。
    「これくらいで真っ赤になんなよ」
    「だ、だって……」
     いつも綺麗だと思って見ていた手が、指が、自分の手に密着して絡んでいるのだ。動揺するのも無理はない。それでなくとも、立香はこういった行為に慣れていないのである。
     重なった掌から、キャスターの体温が伝わってきた。ひとの体温とはこんなにも気恥ずかしく、新鮮なものだっただろうか。これまで他人の体温を意識したことなどない立香には、わからなかった。
     自分の心臓が暴れているのを感じる。時間の流れが急にゆるやかになったようで、一秒一秒の手触りさえわかりそうなほどだった。
    「お前はほんと、可愛いな」
     楽しげに零された相手の台詞に、立香はふと思う。
    「キ、キャスター、あの……」
    「うん?」
     唇に弧線を描いたまま首をかたむける彼に、立香はいささか言い淀んで続けた。
    「もし……もし、キャスターが俺のこと好きになってくれたら……俺に本気になってくれたら……そのときは、『可愛い』じゃなくて『かっこいい』って、思ってくれる……?」
     半ば縋るふうな語調になった。
     キャスターはきょとんとした表情を作ってから、先程とはまた違った色の微笑で容貌を彩る。
     彼はわずかに瞼をおろして、繋がる自分の手と立香の手を見ながら返答した。
    「――そうだな」
     その答えに安堵する気持ちと、寂しくなる気持ちが半分ずつ立香の胸を満たす。
     繋がれた手は、ほどけない。けれども、差し出された事実を改めて意識しないではいられなかった。
     こんなふうに優しくしてくれても、キスをしてくれても、それでもキャスターは立香に本気なわけではない。
     お試し期間という条件を受け入れ、それもすべて承知しているはずなのに、それでも寂しく感じる気持ちはどうすることも出来なかった。
     彼が立香に本気になることなく、お試し期間の一ヶ月でこの関係が終わったなら、おそらくその一ヶ月は自分の中で、夢にも似た思い出となるのだろう。
     そうして、きっと、立香は二度とこの店には足を運ばなくなる。
     なんとなく、そんな気がした。



     返されたテストは、本当に自分の答案なのかと疑うほどに点数がよかった。
     何度も自分の答案かと確認したが、それは間違いなく立香の答案だった。
     高い点数に困惑したのは立香本人だけではなかったらしく、教師のアーチャーも信じられないものを見る目で立香を見ていた。
    「藤丸、いったいどうしたんだ? 頭でも打ったのか?」
     あまりの点数のよさに、立香はアーチャーから頭の具合の心配をされる。彼の顔は真剣そのものだった。
    「い、いつもよりテスト勉強がんばったら、その……うまくいったみたいです……。俺も、自分の点数が信じられないんですけど……」
     キャスターからのご褒美があるだけで、こんなにも明確な違いが出るのかと思うと、自分が少し気持ち悪かった。
     アーチャーは依然として心配げな面差しを立香に注いでいる。
    「頭痛がするとか、気分が悪いとか……どこかおかしなところはないか?」
    「よすぎるテストの点数以外は、とくにおかしなところはありません……」
    「本当か? 私に心配をかけまいと、無理をしているのではなかろうな?」
     立香の返答を、彼はなかなか信じてくれなかった。
     それどころか、アーチャーは立香のひたいに手をあて、もう片方の手を自らのひたいにあてて熱まで測り始める。彼は真摯な眼差しで唸った。
    「熱はないようだな……」
    「朝ごはんもしっかり食べました」
    「なにを食べた?」
    「昨日の夕飯の残りのカレーライスを」
    「朝からカレーか。まごうことなき健康体だな」
     言って、アーチャーは立香のひたいから手を離した。体の状態に関しては信じてもらえたようである。
    「では藤丸、なにか、その……悩みでもあれば、なんでも先生に相談するといい。生徒の悩みとあれば、私はいつだって聞こう」
     立香の肩に手を置いて、彼は言った。高い点数をとった立香が心配でならないらしい。立香は思案して答える。
    「悩み? 朝、目覚まし時計で起きられないとか……」
    「それは自分のちからで乗り越えるしかない事柄だ」
    「じゃあ、本当は毎日晩ごはんに好きなものを食べたいのに、そううまくはいかない世知辛さに対する苦しみとか……」
    「藤丸、毎日おなじものでは栄養が偏ってしまうぞ」
    「それ以外の悩みはとくに思いうかびません」
    「なんということだ……」
     眉間にしわを刻んだアーチャーは、深層心理だとか心の闇だとか、なんだか難しい言葉を小声で繰り返す。それは立香に向けられた台詞ではないようだったので、とりあえず立香は自分の席へと戻った。
     椅子に腰をおろし、改めて答案を眺める。これだけの点数をとったならば、キャスターに喜んでもらえるのではないかと思った。
     そして――彼に喜んでもらえる点数をとるということは、つまりその先にある褒美にたどり着けるということでもある。
     立香は耳を熱くした。当然、舌を絡める口付けがどんなものであるかを、立香は知らない。



     翌日の放課後、答案を見せに立香はキャスターの自宅へと赴くこととなった。
     目的のマンションの前で胸を高鳴らせ、教えてもらったキャスターの部屋をエレベーターの中で確認しながら、立香は懸命に呼吸を整える。好きなひとの家に行くのがこんなにも緊張することだという事実を、立香は初めて知った。心臓が胸の内を爆音で叩いている。
     エレベーターを出て通路を歩きながら、いつもキャスターはここを歩いているのかと妙にしみじみと考えた。それは、なんだか不思議な心地を立香に与えた。
     キャスターの部屋の扉に到達し、おそるおそると呼鈴に手を伸ばす。
     インターフォンを鳴らして、少しすると玄関がひらいた。そこからキャスターが顔を出す。
    「おー、いらっしゃい。迷わなかったか?」
    「う、うん、大丈夫だった」
     扉から現れた彼は、大きめの白いシャツの袖をまくり上げて着ていた。カフェでいつも着ているものよりも生地は柔らかそうである。それに細身の黒のボトムを合わせているために、身長のわりには華奢な体型が際立っていた。シンプルな服装でも様になっているのは、スタイルと容貌が整っているからだろう。ここまで来ると、もう同性としても羨む感情すら湧いてこなかった。好きな相手が美しいのは素晴らしいことだ。
     彼に導かれて扉をくぐると、観葉植物やインテリアで飾られている室内の様子が目に飛び込んでくる。落ち着いた大人の部屋という印象が、また立香の鼓動を速めた。
     リビングにまで進んでも、散らかっているところは少しもない。いや、僅かに整頓されていない部分はあるのだが、立香の目にはその乱れた空間にすらも気だるげな大人の雰囲気が漂っているように見えた。
    「いま茶ぁ淹れるから、適当に座ってくれや」
    「う、うん」
     ソファーに腰掛けて、立香は改めて室内のそこここに視線を注ぐ。
     本が多い、とまず感じた。色に深みのある木で作られた本棚には、書籍がぎっしりと詰まっている。背表紙を目で追ってみたが、普段あまり本を読まない立香に馴染みのある題名はなかった。
     テーブルの上には、煙草と灰皿がある。黒と銀で形作られた灰皿は、テーブル上で堂々としていた。おそらくは、ここが指定席なのだろう。
     煙草の箱が二種類あることに、立香は首を傾げた。キッチンで動いているキャスターへ、声を掛ける。
    「キャスター、煙草すうの?」
     吸っているところをこれまで見た経験がなかったために、不思議に思いながら尋ねた。キャスターは「ああ」と応える。
    「店と、お前の前では吸わねーようにしてっけど」
    「どうして? 俺、気にしないよ」
     むしろ、煙草を吸っている彼を見てみたいとさえ思う。アンニュイな雰囲気をまとうキャスターが煙草を燻らせている光景は、想像してみるだけでも映画のワンシーンのように感じられた。
     だが、キャスターは苦笑する。
    「あんま未成年の前で吸うのもなぁ。煙かけたくねーし」
     言われて、ふと自分は未成年なのだなと、わかりきっているはずのことを改めて思った。学校の中など、同じ年頃の子達と一緒にいると、何故か己が未成年である事実が頭の外に追いやられる。それだけ狭い世界だということなのか。
     煙草の話をキャスターとすることで、自分は未成年なのだと不意に実感した気がした。
    「煙草の箱ふたつあるけど……二種類吸うの?」
    「あー、それ双子の弟の忘れもんだ。昼頃、ここに来たんだよ」
     煙草と、忘れ物。それだけで、キャスターの世界の広さに感付いてしまったようだった。彼について、自分は知らないことがたくさんあるのだ。
     キャスターにはキャスターの世界があり、立香との関係はそのうちの一部に過ぎない。それに途方もない距離を感じてしまうのは、年齢の差のせいだろうか。
     己の存在が、キャスターの世界で異分子に思えた。
     たくさんの本と、煙草とライターと灰皿と、観葉植物と、インテリア。
     そんな中に学生の自分が制服姿で座っているのは、おそらく自然なことではないのである。
     住んでいる世界が違う――とは、こういうときに使う言葉なのかもしれない。学校と、学校の外で、こんなにも違うものなのか。大人と子供の世界は、こんなにも離れているものなのか。
     意識の底が微かにぐらつく。己の中に生じた違和感の正体を知ることが出来ない。
     キャスターがトレイにカップをふたつ乗せて戻ってきた。中には紅茶が満たされていた。彼は笑う。
    「なんだ、煙草に興味あんのか? 大人になるまでは我慢だぜ」
    「べ、べつに興味あるわけじゃないよ」
    「ほんとかぁ?」
     キャスターは立香の向かいのソファーに移動して、テーブルの上にあった煙草や灰皿を後ろの棚へと移した。そうしてさっそく紅茶にくちをつけると足を組み、窺うふうな眼差しを立香に向ける。
    「で、肝心のテストはどうなったのかね、立香くん」
     揶揄す語調で訊いてきた彼に、立香は鞄から答案を取り出して渡した。
     受け取ったキャスターは点数を見、「ほう」と眉を持ち上げて目を丸くする。
    「いい点数じゃねーの。ここの間違ってるとこも、このちっちぇミスさえなかったら正解だったぜ」
    「そんな点数とったことなかったから俺もびっくりしたけど、先生もびっくりしてた。頭打ったのかって訊かれた」
     キャスターは声に出して笑った。
     カップをテーブルに戻し、ソファーの肘掛けに肘をついて頭を手で支えながら、彼は改めて答案に視線をすべらせる。笑みがうかんでいるところを見るに、反応は上々のようだ。
    「……なんだお前、やれば出来るんじゃねーかよ。今までは単に、勉強の仕方がわかってなかっただけなんじゃねーか?」
     立香は小さく唸る。
    「そこまで必死になって勉強するほどの理由もなかった、っていうのもあるかも……」
     改めて考えてみると、それはあながち外れていないふうにも思えた。これまで、成績が上がればいいなと、もっと頭がよくなればいいのになと漠然と考えたことはあっても、それは曖昧な願望であって目標ではなかった。目標にするほどの熱意も理由もなかったのだ。熱意と理由が足りていなければ、当然そこにエネルギーを割くこともない。見合わないと感じるからだ。ぼやけた願望で努力を重ねるには、相応の強い意思が必要なのである。少なくとも、立香はそう考えていた。
    「へぇ。んじゃ今回は、必死になって勉強する理由があったんだな」
     双眼を細め、キャスターはどこか意地悪そうに言う。立香は顔が熱くなるのを感じた。
    「……う、うん……」
     答案をテーブルに置いたキャスターが、立香の隣に移動してくる。ソファーの背もたれに腕をまわし、彼は立香を覗き込んだ。
    「テストの点数がよかった場合は――。そっから先、俺がなんて言ったか……覚えてるか?」
     至近距離で囁かれ、立香は目のやり場に困る。相手の声音と呼気に含まれている色香が、じわじわと立香の体温を高めていった。強張るくちをなんとか動かして、立香は返答する。
    「……ベ、ベロちゅー教えてくれるって、言った……」
    「そうだ」
     流れるふうな動作で、キャスターが立香の持っていたカップをテーブルに戻した。まだ湯気があがっているそれを見た立香の顎が、キャスターの手によって上向かされる。
     相手の容貌が間近に迫り、立香は反射的に瞼をおろした。直後に唇に柔らかいものが触れ、その感触に血液は急激に温度を上げる。
     柔い感触が離れたかと思うと、今度は肩を押されてバランスを崩した。背に軽い衝撃を感じ、視野が部屋の天井と笑みをうかべるキャスターで満たされたことにより、ソファーの上で押し倒されたのだと知る。
     自身の唇の端を、まるで見せつけるふうに赤い舌で舐めたキャスターが、また立香に顔を寄せてきた。
     暴力的と称してもいいほどの、なまめかしさだった。それを直視できず、半ば逃げるように、立香はぎゅっと目を瞑る。暗くなった視界で、キャスターの微笑を聞いた気がした。
     唇にまた柔らかいものが触れたが、それは相手の唇ではなかった。濡れた感触から、舐められているのだと気付く。
     熱い舌が、立香の唇をゆっくりとなぞった。上唇と下唇のあいだを、舌先でくすぐられる。くちをあけるよう促されているのだ。
     緊張で一枚岩のようになっていたくちを、立香はぎこちなく、なんとか薄くあける。と、その隙間からぬるりと舌が侵入してきた。初めての感触に、立香の肩がびくりと跳ねる。
     口腔で柔らかいものが動いている感触は、奇妙だった。熱い舌が優しく立香の舌を、口内を愛撫する。まるで、緊張で固まった立香からちからを抜かせようとするふうだった。
     唾液の擦れる音が耳の奥で反響して、身体が熱くなる。なんだかそれは、聞いてはいけない音に聞こえた。
     香水なのかなんなのか、キャスターの香りが鼻腔に満ち、彼のイヤリングが揺れる涼しげな音が耳朶を撫でる。
     香りも、音も、体温も、目を閉じているせいで、すべての存在感が鮮やかだった。知覚の限度を超えている。これ以上ないほどに好きな相手の存在を強く感じて、平静など保てるわけもなかった。立香だって、健全な男子なのである。
     このままではさすがにまずいと判断し、相手の行動を止めようと、薄く目をひらいた。
     だが、直後に立香は後悔した。瞼をあけた瞬間、キャスターと視線が絡んだのだ。
     彼は双眸を細めて、立香を見ていた。おそらく、ずっとそうして立香の様子を観察していたのだろう。
     相手の長い睫が、緋色の瞳がすぐそこにある。絡まった視線が雁字搦めになるほどの至近距離だ。
     不意に、キャスターが両目をさらに細めて笑い、舌が立香の口蓋を愛撫した。
     その瞬間、本能が立香の背筋を這いのぼって、うなじを粟立たせる。ざわりと音がしそうな、本能の熱ささえも感じ取れそうなほど、それは明確で、圧倒的だった。
     昂った身体は、言い訳のしようもない。興奮などという言葉ではとても言い表せず、沸騰した血が体内で猛り狂っているようだった。「本能」の熱と大きさを、この瞬間に初めて知った気さえする。これが真の本能だとすれば、今までに感じていた熱情の、なんとちっぽけなことだろう。
     キャスターの存在に、自らの本能に、自分がすべて飲み込まれてしまいそうだった。
     相手がくちを離すと、立香とキャスターのあいだで唾液が糸を引く。舌先に銀糸を結ぶ彼は淫猥で、少し恐ろしくて、そしてやはり綺麗だった。
     りん、とイヤリングが鳴く。
     落ちた髪を指先で耳にかけ、キャスターは笑った。
    「身体まで素直なんだなぁ、坊主は。ここ、こんなにしちまって」
     言って、彼は立香の下腹部を手で優しく撫でる。当然といえば当然なのかもしれないが、そこは反応を示していた。
     急に意識が現実に戻ってきたような気がして、立香はあわてる。
    「わ、わっ! ごめん、俺、あの――」
    「かまわねぇんだぜ」
     立香の言を遮って、キャスターは下腹部を撫で続ける。相手の白磁の手が自分のそこに触れている光景が、信じられなかった。
    「俺を抱きたいなら、それで」
     続けて述べた彼は手を陰部から離すと、その手で自身のシャツの釦を外し始める。わずかに覗いていた鎖骨があらわになり、次いで胸元も誘うふうに白さをさらした。
    「……ほら、俺に触りたくねぇか?」
     キャスターの手によってひとつずつ、釦が衣服をとめる役割から解放されていく。彼の胸の尖りの淡さが見えて、頭の奥がぐらぐらと揺れた。
    「う……さ、触りたい、けど……でも……」
     見てはいけないものを見ているようで、目を逸らさなくてはと思うのに、どうしても相手の肌から視線が剥がれなかった。
     釦をすべて外し終えたキャスターが、シャツを肩からおろす。
    「触っていいんだぜ。男同士だから、中出ししたってかまわねぇ」
     彼は立香の手を取ると、自身の胸に触らせた。
     なにも隔てていないキャスターの素肌が、掌に密着する。
     自分の心臓の音が大きくて、耳のすぐ内側にも心臓があるようだった。顔や身体だけでなく、頭の芯まで熱を帯びて、うまく物事を考えることが出来ない。
     抱かれたキャスターはどんな顔をするのだろう、と不意に思った。どんなふうに乱れ、声を出し、果てるのだろうか。
     正直に述べると、立香はそれを想像してみたことがある。片想いの相手の淫らな姿を、脳裏に描いてみたことが。
     今、立香が望めばそれは現実のものとなる。まやかしではない、彼の身体の奥の熱さを知ることが出来る。瞼の裏で夢見ていた幻想が、実体を得る。
     それは、あまりにも大きな誘惑だった。大きすぎて、途中で思考を投げ出したくなるほどだった。
     好きで好きでたまらない相手に肉体を許され、高揚しない者などいないだろう。立香も当然、期待に鼓動を速めている。
     だが、しかし――と、もうひとりの自分が耳元で囁く。立香はぐっと奥歯を噛み締めた。
    「――だ、だめ……っ」
     手を引いて、立香は相手の体温を遠ざける。誘惑に負けそうになる心を、キャスターから顔をそむけることでなんとか支えた。
     しかし、彼は蠱惑的な声音でまだ立香を誘ってくる。
    「どうした。ちと刺激が強すぎたか? それとも、怖気付いたか?」
     煽る語調ではなかった。いくらか迷い、立香は言い淀む。
    「……だって」
    「ん?」
    「ま、まだ……お試し期間、だから……」
     なんとか絞り出した声は、風が吹けば消えそうだった。喉にちからを込めて、立香は続ける。
    「そういうの、興味ないって言ったら嘘になる、けど……でも、それは、ちゃんとキャスターと付き合うようになってから……したい」
     立香は相手を見上げた。向かい合うことで、気持ちがさらに強くなった気がした。
    「お試し期間じゃなくて、ちゃんと、キャスターに好きになってもらってから――したいんだ」
     こんなふうに考えてしまうのは、子供だからなのかもしれない。大人はもっと柔軟で、もっとうまくひととの距離をとれるのかもしれない。
     それでも、今の気持ちのままキャスターとするのは嫌だった。いま相手の言葉に甘えてしまえば、その後もずっとしこりが自分の中に残るような気がした。
     ふたりの関係は、お試し期間で終わるのかもしれない。今の選択を、あとあと後悔するのかもしれない。
     だとしても、立香はちゃんとキャスターに好きになってもらいたかった。好きになってもらった上で、行為に及びたかった。
     キスまでしてこんなことを考えるのも妙な気はするけれど、やはりキスとセックスのあいだには大きな壁がある。キスをしたのだからセックスだって――とは、立香は考えられなかった。
     立香の言葉を、キャスターは目を丸くして驚いたふうに聞いていた。呆れられるかもしれないと一瞬かんがえたが、彼はそうはせず、むしろ柔和な微笑をその容貌にうかべる。
    「……そうか」
     彼の返事はそれだけだったが、冷たい印象はなく、それどころか声音は優しかった。
     立香の前髪を掻き上げたキャスターは、ひたいに口付けてくる。
    「頑張れよ」
     そう言って笑った彼は、今までに見たことのない表情をしていた。
     胸が苦しくなって、立香はまたキャスターに恋をしたような新鮮な気持ちになった。



     同日の夜、立香は自室のベッドの上で懊悩していた。
     キャスターが好きだという感情は、日に日に募っていく。お試し期間の一ヶ月を過ぎても、今の関係でいたいと思う。
     そして、そのためには彼に好意を持ってもらわなければならない。
     立香はクッションを抱きしめながら天井を見やり、ため息を吐いた。どうすればキャスターに好きになってもらえるのか、まるでわからなかった。
     改めて考えてみれば、立香はとくに抜きん出たものもない平凡な学生である。お試しとはいえ、キャスターと交際できている現状がすでに奇跡に近いのだ。
     かっこいいところを相手に見せようにも、自分の長所もよくわからない上に、そもそもかっこいいところがあるのかどうかもわからない。少なくとも、立香本人には覚えがなかった。故に、なにをどうすればいいのかさえも、わからないのだった。
     平凡な己の存在に、心が弱くなっていく。
     これまでは平凡なりに楽しくやってきたし、そこまで落ち込むこともなかったふうに思う。しかし、それはきっと自分を前に出す機会が少なかったからなのだ。
     誰かに好きになってもらうということは、己の長所を知ってもらうことでもあると立香は思う。相手に優しくするにせよ、特技を披露するにせよ、なんにせよ。
     そしてこれらは、自分で自分を知っていないと出来ないことなのだ。
     今まで、キャスターほどアプローチしたいと考える相手に立香は出会えなかった。そのため、誰かに積極的に接近する行為自体に慣れていない。どうすればいいのかわからないのも、それが大きいのだろう。
     我知らず、再度ため息が零れた。相手を好きなだけでは駄目なのだという当たり前の事実に、今ようやっと気付いたふうな気分すらした。
     キャスターとの年齢差が、立香の不安を大きくする。どうすれば年上の彼に好きになってもらえるのか、考えても考えても答えが出なかった。そうしておそらく、その疑問には正解も存在しない。
    「……恋愛って、難しいんだな」
     漫画やドラマや映画など、世の中には恋愛を扱ったものが数多くあるというのに、そしてそれらの数々の主人公が恋を成就させているというのに、立香は「相手に好きになってもらう」という初期の段階で、盛大につまづいてしまっている。
     身近なはずなのに、わからない。それが、立香にとっての恋愛だった。
     ごろりとうつ伏せになって、クッションに顔をうずめる。
     両想いのハードルが、まるで富士山のごとく高く感じられた。



     日曜日、立香がキャスターの店に行くと、カウンター席に教師のアーチャーの姿があった。立香は意外に思い、目を丸くする。
    「あれ、先生」
    「ああ、藤丸か」
     カウンターを挟み、アーチャーの正面で彼と話していたキャスターが、立香とアーチャーを見比べて不思議そうな面持ちをした。
    「……なんだよ、知り合いか?」
    「生徒だ」
    「マジかよ」
     キャスターが眉を持ち上げる。
     自身の隣の椅子を引き、アーチャーが立香にそこを勧めた。それに甘えて、立香は彼の隣に腰をおろす。
    「先生こそ、キャスターと知り合いなの?」
    「いちおう常連でな」
    「えー、俺もよくここに来るけど、会ったことないよね」
    「時間が合わなかったんだろう」
     薄く笑みをうかべながら、アーチャーは答える。
     学校の外で会う彼を、立香は不思議な気分で見つめた。先生なのに先生でないような、本人とまわりの風景をコラージュでもしたふうな、噛み合わない感覚だった。
     教師である事実は場所を変えてもなくなるものではないはずなのに、それでもアーチャーが先生でない錯覚をおぼえてしまうのは、「先生」というものが学校の中だけで機能するものだからなのかもしれない。生徒がいるからこその、先生なのである。
    「坊主、ココアでいいか?」
     立香の思考を現実に呼び戻したのは、キャスターだった。立香は頷く。
    「あ、うん」
    「料金はアーチャーに払わせるから、安心しろ」
    「おい」
     アーチャーはキャスターを睨んだが、少し考えた面持ちのあと、立香に顔を向けた。
    「……まぁ、このあいだのテストの点数もよかったことだしな。今日だけなら、かまわんだろう」
     皆には内緒だぞ、と彼は付け足す。それに、立香は曖昧な笑みを返した。
     テストの裏に隠された真実など、教師に言えるはずもない。目の前にキャスター本人がいるなら、なおさらだった。キャスターも微妙な顔をして、ふたりの会話を黙って見守っている。真実が知られるのは、きっと彼にとっても都合がよくないことなのだ。
     じきにココアが出され、立香はそれにくちをつける。キャスターが作ったものだと考えると、普通のココアよりも遥かに美味に感じられた。
     ちらと、立香はアーチャーのカップに視線を移す。
    「先生、なに飲んでるの?」
    「ん? 珈琲だが」
    「ひょっとしてブラック?」
    「ああ。飲んでみるか?」
     ソーサーと一緒にこちらに差し出されたカップに手を伸ばし、立香はおそるおそる中の黒い液体にくちをつけてみた。
     香りはよかったが、液体の刺激は立香の眉間に深いしわを刻む。苦味とも酸味ともつかない味が舌を刺し、立香はすぐにカップから唇を離した。
     キャスターとアーチャーが、立香のわかりやすい反応に笑い声をあげる。
    「藤丸、大丈夫か?」
    「くちの中が『いあーっ!』って悲鳴あげてる感じがする」
    「坊主にはまだちょっと早かったな」
     口内の刺激を、ココアの甘みで押し流した。
     よくあんなものが飲めるものだと、アーチャーに対して思う。立香には人間の飲み物に感じられなかった。それにわざわざ料金を払う神経が、立香にはまったく、これっぽっちも理解が出来ない。
     内心で首を傾げながら、立香はアーチャーに訊いた。
    「大人になったら、珈琲っておいしく感じられるようになるもの?」
     これに小さく唸り、彼は答える。
    「どうだろうな。個人差じゃないか? 珈琲や酒の味を好まない大人も多いだろう」
    「なんだ坊主、早く大人になりたいのか?」
     キャスターの問い掛けに立香は素直に頷き、「なりたい」と肯定した。学校など、子供の中にいるあいだはそれほど気にならないが、今のように大人が傍にいると、自身が子供であるという意識は不思議と強くなった。そしてその意識は、少し劣等感にも似ていた。
     アーチャーは小さく笑う。
    「焦らなくても、自然と大人にはなっていくものだ。否応なくな。子供のままでは手が届かないものもあるから大人がいいものに思えるのだろうが、なかなかどうして、大人も大変なものだよ」
    「夏休みもねーしな」
     キャスターが付け加える。存外に真摯にアーチャーは首肯した。
    「そうだな。それに、大人は子供が思うほど、大人ではないものだ」
     この台詞に、立香は首をかたむける。目の前のふたりの大人を交互に見やって、返した。
    「俺には、キャスターも先生も、大人に見えるけど」
     片手を腰にやり、キャスターは立香に双眸を向ける。唇に描かれている弧線は余裕ありげで、それはやはり大人っぽく感じられた。
    「坊主、大人ってのは、とし重ねりゃなれるもんに見えるのかもしんねーけど、案外そうでもねぇんだぜ」
     珈琲をひとくち飲み、アーチャーも浅く頷く。苦味や酸味を苦にしている様子はなかった。
    「大人と子供に、明確な境界線はない。成年と未成年には、あるがね。……大人は、子供の延長線上の存在に過ぎない。子供の頃は、学校の先生が大人に見え、大人は総じて正しく、完璧なものに思えた。子供の自分とはカテゴリーの異なる生き物に感じられたというか……」
     そこまで言って、アーチャーは少し照れたふうに笑った。学校の外で見るその表情は、驚くほど新鮮に見えた。
     彼は続ける。
    「だが、実際に自分がなってみると、大人だって間違いをする不完全なものだとわかる。わからないことだってあるし、後悔をすることもある」
    「そうだぞ、坊主。だから学生のうちに、堪能できるもんはしっかりと堪能しとけ。大人になったら遊び倒す時間なんて、なかなかないからな」
     ふたりはそう言ったが、そういう話を立香にしてくれる彼らの余裕は、やはり魅力的に映った。そしてなにより、落ち着いたキャスターとアーチャーが並んで話をしている光景は、いたく様になっていたのである。
     子供である事実に劣等感をいだく必要はないとは思うが、それでも住む世界の違いはぼんやりと感じた。
     いや、世界が違うのではなく、世界が遠いのかもしれない。
     大人は子供の延長線上の存在だとアーチャーは言っていたが、それはつまるところ、人生経験の差だけ距離がひらくという意味でもあると思う。
     距離がひらいてしまえば、ちょっとやそっと走ったくらいではどうにもならないだろう。背伸びなども、とうぜん無意味である。
     自分も、アーチャーのようにキャスターと並んで様になる存在になりたかった。しかし、そんな己を想像することが、どうしても出来ない。
     未来を描くのは、難しいものだ。ああなりたい、こうなりたいと夢見ることと、明確に未来を描くことは決定的に異なる。
     甘いココアしか飲めない自分。朝、ひとりでは起きられない自分。学校の中という限られた世界の、平凡な子供である自分――。
     立香はココアを飲み干した。液体が喉を通る感覚はあったが、味はよくわからなかった。
    「あの、俺、用事おもい出しちゃったから帰るね」
     アーチャーに笑いかけて、頭をさげる。
    「先生、ごちそうさまでした」
    「……もういいのか?」
     彼は目をしばたたいた。キャスターがアーチャーを指差して言う。
    「こいつの奢りなんだから、もっと頼めばよかったのによ」
    「ううん、充分だよ。ココアおいしかった。ありがとうキャスター」
     最後に飲み干したココアの味はよくわからなかったが、笑顔はうまく作れている自覚はあった。いったい、いつどこで覚えたのか、立香は愛想笑いが苦手ではない。
     しかし、それはキャスターには通用しないらしかった。なにかを言いたげに見つめてくる彼から顔をそむけて、立香は席を立つ。
     改めてふたりに礼を述べ、足早に店を出た。これ以上あの場にいると、湧いてくる自己嫌悪で揺らいでしまいそうだった。
     そう、立香はふたりから逃げるのと同時に、己の胸の奥から湧出してくる黒々とした感情からも逃げたのである。
     どろりとしたそれが、ひどく恐ろしかった。それに飲み込まれてしまえば、自分は今よりも自分を嫌いになってしまうと思った。自分のちっぽけさに、これ以上きづきたくなかった。だからふたりから逃げて、顔をそむけて、自らの心に両手で蓋をしたのである。指の隙間から漏れ出てくるものを、立香は知らない。知らないということにしておかなければならない。手を汚す泥のような感触を立香は知らないし、闇を煮詰めたふうな、どこまでも光を飲み込む冷えた色も立香は知らない。そんな穢れたものを、立香は知らない。
    「坊主!」
     立香を現実の世界に引き戻したのは、後ろから聞こえたキャスターの声だった。振り返れば、彼が追いかけてきている。
     反射的に足が逃げ出そうとしたが、さすがに相手の前でそんなことをするわけにもいかず、なんとか踏みとどまった。
     立香の目前まで来たキャスターが、首をかたむけて訊く。
    「どうした?」
    「……なにが?」
    「なにがじゃねーよ。気付かねーとでも思ったのか。……なんか、気に障るようなこと言ったか?」
     彼は表情を曇らせる。そんな顔をさせたいわけではなかった。しかし、原因は間違いなく立香なのである。
     首を左右に振って、立香は答えた。
    「そんなんじゃないよ。ほんとに用事が――」
    「こっち見ろ」
     指摘をされて初めて、無意識に相手から目を逸らしているのに気が付いた。
     地面と見つめ合っていた顔を、おそるおそる上げる。
     キャスターは真摯な面持ちをしていた。心配をしてくれているのがわかる。
     そんな相手から、立香は逃げ出したのである。用事でもなんでもなく、ただ自分の都合で。
     また心の隙間から、自己嫌悪が滲み出てきたのを感じた。
     キャスターが追いかけてきてくれて嬉しい気持ちと、それでも彼は自分に本気なわけではないという寂しさが入り混じって、喉に込み上げてくる。
     感情に呑まれるごとに己が嫌なやつになっていくのがわかるのに、止めることがかなわなかった。感情はこんなにも、制御できないものだっただろうか。それとも心が未熟だから、幼いからこんなふうになってしまうのか。
     足からゆっくりと、沼に沈んでいく気分がする。
    「……キャスターは、どうして俺と付き合ってくれてるの……?」
     唇から出た問いは、立香の意思を離れていた。それはまるで他人の言葉のようにくちから零れて、立香を嘲笑う。
     キャスターは目を丸くした。ひとりでに動く唇が、立香の声を使って言葉を連ねる。
    「俺、べつに顔がいいわけじゃないし、頭がいいわけでもない。キャスターかっこいいし綺麗だから、絶対もてるよね。お店のお客さんから声かけられてるとこ、何回も見たことある。なのに――」
     言ってはいけない言葉をくちにしようとしていると、意識は理解していた。だが、唇は素知らぬふりをする。
     自分の声が、知らない誰かの声のようだった。それなのに、言葉が喉を通る感覚だけは、たしかにあるのである。喉の奥が熱い。
    「なんで、こんな俺と付き合ってくれてるの……?」
     どこかざらついた台詞に、喉の内側を削られるようだった。熱い塊が喉を塞いでるふうな気もした。
     目頭が焼けて、鼻の奥がつんとする。
     黙って立香の話を聞いていたキャスターの双眸が、怒りに歪んだ。細められた瞳の紅が、それでもなお綺麗だった。
    「……なんだよ。こんな俺、って」
     彼の声は静かだった。冷えた声音が、鋭く尖っているのがわかる。
     キャスターの眉間に刻まれたしわが、感情の温度を現していた。視線は立香から離れない。
    「なら、そんなお前と付き合ってる俺は、なんなんだよ。馬鹿にしてんのか」
     相手が本気で怒っていることがわかり、立香は狼狽した。不安がにわかに押し寄せる。
    「そ、そんなつもりで言ったんじゃ……」
    「そんなつもりがなくても、結果的にそうなってんだよ」
     立香の台詞を受けた張本人に言われ、なにも返せなくなった。まっすぐに向けられる怒りに、心身が強張る。
     いつも優しく、落ち着いた彼を、自分はここまで怒らせたのだ。ここまで怒らせる言葉をくちにしたのだ、自分は。そう考えると、言い訳のひとつも浮かんではこなかった。
     キャスターは立香を睨めつける。美しい容貌が、そこに迫力を加味していた。
    「自分を悪く言うっていうのがどういうことなのか、もっと考えろ」
     言うと、彼は踵を返して店に戻っていく。
     呼び止めようと思ったが、声が出なかった。なんと言って止めればいいのか、わからなかった。初めて向けられた彼の怒りに、ショックを受けていたのもあるだろう。
     故に、立香は呆然とキャスターの背中を見送ることしか出来なかった。彼は、一度も振り返らなかった。
     呼び止めることも、追いかけることも出来ずに、立香はしばらくそこに佇む。どれだけそうしていたのかはわからないけれども、充分たたずんでようやく、歩き出した。足の向く先は、店の反対側だ。
     目的地などなかったが、ぼんやりと、幽霊のごとく歩き続けた。時間の流れも感じなければ、足の裏に地面の硬さも感じなかった。ただ呆然と、歩くためだけに歩き続けた。道の真ん中で立ち止まっては他のひとの迷惑になるという意識だけは無駄にあり、逆に言えば、それ以外の感覚はおおかた役目を放棄していた。
     気付けば店の近くの公園に来ていたため、そこに入ってベンチに腰をおろす。
     遊具で幼い子達が楽しそうに遊んでいた。その光景を見るともなく見ながら、立香は吐息を漏らす。
     もっと自分に自信があれば――もっと自信を持てる自分だったならよかったのに、と諦念気味に考えた。そうであれば、きっとあんなふうにキャスターを怒らせることもなかっただろう。
     彼に嫌われたかもしれないと思うと、視界が潤んだ。胸が重苦しくなって、呼吸が痛みを呼ぶ。
     あんなふうに怒ったキャスターを見たのは初めてだったので、立香は余程の発言をしてしまったのに違いなかった。
     彼の怒った顔や笑った顔、いつもの落ち着いた顔が、瞼の裏に浮かんでくる。
     キャスターを好きだと思う気持ちは、相手のことを考えるたびに募っていった。己がまだ大人には縁遠い存在だとわかっていても、アーチャーのように彼と並んで様になることがないとわかっていても、それでもやはりキャスターが好きだった。相手を知るごとに、もっともっと好きになる。好きになって、また、彼を深く深く知りたいと感じる。
     しかし、強い気持ちがあるだけでは駄目なのだ。その証拠に、立香はお試し期間の一ヶ月すらも持ちそうにない。
     つまり、己はキャスターにふさわしくなかったのだ。彼にはきっと、もっとふさわしい相手がいる。自分に自信があって、堂々としていて、自らを卑下しないふうな、そんなひとが。
     立香は膝に肘をついて、こうべを垂れた。そうすると、心臓や胃がくちから出てしまいそうになった。眩暈がして、嘔吐感に眉根を寄せる。
     自分自身に言い聞かせ、キャスターを諦めようとしても、ベンチから立ち上がる気が起こらなかった。それはきっと、悪心だけが理由ではない。
     そのときだった。不意に、頭上から聞き慣れた声がした。
    「……先輩?」
     思わず立香は顔を上げる。見ると、すぐ目の前にマシュが立っていた。彼女は学年がひとつ下の後輩である。
     半ば条件反射に、立香は笑みを作った。
    「ああ、マシュ。偶然だね。散歩?」
     向けた笑顔に、心配げな面持ちが返される。彼女は眉尻をさげていた。
    「……先輩、なにかあったんですか?」
    「え?」
    「その……元気がないように、見えますので……」
     相手の台詞に、立香は驚く。作り笑いが下手だったのか、それともマシュの洞察力が優れていたのか。
     彼女は小首を傾げて問うてくる。
    「あの、隣に座ってもよろしいでしょうか?」
    「あ、うん……」
     断る理由はなく、立香は了承した。
     横に腰をおろしたマシュが、なにかを言いたげにしているのがわかる。性根の優しい彼女のことだ、きっと立香に元気がない理由を尋ねていいものかどうか、迷っているのだろう。
     立香は自分に苦笑を向ける。心配をしてくれる後輩にこれ以上気を遣わせるのは、なんだか申し訳がなかった。
     目線を空へ投じ、立香はマシュに話し始める。
    「あー……喧嘩、しちゃってさ……」
     横目で相手を見れば、彼女は目を丸くして驚いたふうな面差しをしていた。
    「喧嘩……。先輩が、ですか?」
     マシュが驚くのも、無理はない。立香も、自分があまり喧嘩をしないタイプである自覚はあった。「うん」と肯定し、目線を正面に戻して、体をベンチの背もたれに預ける。
    「その……大事な、ひとと」
     言って、頭を掻いた。
    「まぁ、喧嘩っていうか……俺が一方的に怒らせちゃったんだけど」
     曖昧な自虐の笑みをうかべる立香を、マシュはまっすぐに見つめる。
     遊具で遊んでいた子達は、今は砂場へと移動していた。
     立香はジャングルジムに切り取られた風景に視線を通しながら、言を連ねる。
    「……ねぇ、マシュ。自分に自信を持つって、難しいんだね」
    「自信、ですか?」
    「うん。俺、今まであんまりそういうの深く考えたことなかったんだけど、なんか最近、うまく自分に自信が持てない」
    「それが、大事なひとと喧嘩をした理由……なんですか?」
     頷き、立香は重ねた。
    「その大事なひとがね、すごい大人っぽくて、かっこよくて、優しくて。俺、そのひとと並んでも恥ずかしくない程度にはなりたいなって思ってるんだけど、うまくいかなくて」
     マシュは静かに話を聞いている。その真摯さが、立香の心の強張りを解いていった。
    「俺、そのひとと、もっと仲良くなりたいんだ。もっと仲良くなりたくて、俺のことも、好きになってほしい。でも俺、取り柄とかないからさ。どうすれば好きになってもらえるのか、わかんないんだよね」
     自然と、また自虐的な微笑が立香の唇にうかぶ。しかし、マシュは笑わなかった。彼女の瞳は真剣なまま、立香に注がれている。
     それを認めて、立香は自らを虐げる笑みを捨てた。
    「……相手に好きになってもらいたいって考えるたびに、取り柄のない自分に落ち込むんだ。その気持ちがどんどん大きくなって、自分が嫌なやつになっていくのがわかる。取り柄がないから、自分の駄目なところばっかりがよく見える。そういうのを見てるうちに、自分がすごく駄目なやつに思えてくるっていうか――」
    「先輩は駄目なんかじゃありません」
     マシュの存外に強い声が、立香の台詞を遮った。意外に思い、立香は目をしばたたく。
     はっとして、彼女は少しあわてた。
    「あ……す、すみません」
     本当に申し訳ないと感じている語調だった。「ううん」と、立香は首を横に振る。
     マシュは少し考えるふうな、迷うような態度を見せ、そうして言った。
    「私は――私は、先輩に取り柄がないなんて、思いません」
     芯の強い表情を、立香に向ける。
    「先輩はきっと、自分のことを知らないだけなんです。私は、先輩が優しいのを知っています。いつも明るくて一生懸命で、困っているひとや落ち込んでいるひとを放っておけないひとだということも、知っています。そして、それは――」
     言いさし、瞳にちからを込めて、彼女は両手の拳を握った。
    「それは、一見シンプルなことのように見えますけど、誰にでも出来ることではないと思います。自分のことを二の次にして、誰かのために全力になれる先輩に取り柄がないなんて、私は思いません」
     相手のまっすぐな眼差しを、立香は受ける。マシュの言葉は、靄が掛かっていた立香の胸を、鮮やかに射るふうでもあった。彼女は続ける。
    「喧嘩をしたという、その大事なひとも……先輩のそんなところを見ていたのではないでしょうか。だから、自信を持てないでいる先輩と、衝突してしまったのでは……」
     そこでマシュは語尾を小さくして、俯いた。
    「あ……私は、相手の方のことは知らないので、想像でしかないのですけど……。でも、先輩が仲良くなりたいと思うようなひとが、身勝手な理由で先輩と喧嘩をするとは、私には思えないんです」
     立香は、彼女の言葉を驚きながら聞いた。まさか平凡な己が、後輩の目にそんなふうに映っていたとは想像もしていなかったからである。
     自分の短所は見えやすいが、逆に長所には指摘をされるまで気付かない場合がある。今の立香のように。
     キャスターも、立香には見えていなかった立香の長所を、見てくれていたのだろうか。
     別れ際、彼がくちにしていた台詞を思い起こす。
     もしキャスターが立香の長所を見てくれていたのなら、立香が彼に向けた言葉は、きっとキャスターの好意を踏みにじる発言だったのだ。
     心に、新鮮な空気が入ってきた気分がする。自分の駄目なところばかりを見ていて、相手を見れていなかったのではないかと、そんな気がした。
     改めて考えてみれば、立香自身、強引な告白をしたという自覚はあるが、それでもキャスターはそんな強引さに押される気弱なタイプでもなければ、流されるタイプでもない。嫌なことは嫌だと、はっきり言うはずだし、嫌いな相手に勉強を教えたりキスをしたりもしないだろう。
     どうして、こんな単純なことに気付けなかったのか。やはり、己の感情にばかり目が行って、自分と向き合いすぎて、結果、視野が狭まっていたのか。
     薄暗い部屋から明るい外に解放されたようだった。身も心も軽くなって、いつもの己が戻ってきた感覚がする。
     公園内の木々の緑が、空の青が、瑞々しかった。心地好い風が、頬を撫でていく。
     ふと隣を見ると、マシュが笑った。立香も笑い返す。
    「マシュ、ありがとう。なんか、すっきりした」
    「いいえ。お役に立てたのなら、よかったです」
     立香は自身の両手を空にかかげ、掌に陽光を浴びる。指の隙間から零れる色は、キャスターの髪と同じ色をしていた。彼の髪は、空の色なのだ。
    「足許とか、暗いとこばっか見てちゃ、駄目だよね。そんなとこばっか見てたら、気が滅入るに決まってる」
     拳を握り、立香は立ち上がる。
    「自分の中でぐるぐる考えてたって、なにも変わらないんだ。行動しなきゃ、なにも変わらない。それが悪い結果になる可能性もあるけど、でも、いい結果にだって行動しないとたどり着けないんだ」
     立香はマシュを振り返った。
    「俺は、いい結果にたどり着きたい。キャスターと仲良くなりたいし、俺のこと好きになってもらいたい。そのためにはまず、行動しないとね。俺、考えるより動くほうが得意だし」
     笑い、改めて彼女に礼を述べる。
    「ありがとう、マシュ。ここでマシュに会えて、ほんとによかった。じゃなきゃ、このさき一週間は確実に落ち込み続けてたところだよ。いや、もっとかも」
    「私も、ここで先輩にお会い出来てよかったです。……あの」
     一度だけ目線を逸らし、マシュはほのかに羞恥心を含んだふうな微笑をうかべた。菫の色をした眸子が、優しかった。
    「……私、先輩の笑った顔が、好きです。先輩が笑ってくれると私まで元気になって、頑張ろうっていう気持ちになるんです。キャスターさんという方も、私と同じなのではないでしょうか。先輩の笑った顔がきっと好きなんだと、私は思います」
     誠実な彼女の発言は、大きな手で立香の背中を押してくれる。マシュとの縁に、立香は心の底から感謝をした。
    「――ありがとう」
     彼女の言葉に勇気を増幅させて、立香はキャスターの店に向かって走り出す。
     彼との年齢差は、最初からわかっていたことだった。いつも落ち着いているキャスターと対等になれないのも、わかっている。どう抗ったところで、立香はまだ子供なのだ。
     しかし彼は、そんな子供の立香に「お試し期間」と称して付き合ってくれた。あの告白を切り捨てることだって、出来たはずだ。
     自信のなさで、小さくなっている場合ではない。
     日に日に募るキャスターへの気持ちを本人にぶつける方法しか、立香は知らない。それで彼が立香を好きになってくれる保証など当然ないが、それでもネガティブになってうずくまったままでは、好きになってもらえる可能性すらも生まれないのである。
     可能性を、生み出したかった。
     ほんの少しだって、かまわない。可能性を生み出して、そしてそれに賭けたかった。
     カフェが見えたので、立香は足を速める。
     手を伸ばして扉の取っ手を掴み、勢いよく開けようとした、そのときだった。
    「いだっ!」
     突如ドアが内側から立香に向かってひらき、立香はひたいをしたたかに打ちつけてしまう。脳内と瞼の裏で火花が散ったような衝撃だった。
     ひたいを押さえて、立香はよろめく。と、驚いたふうな声音が上から降ってきた。
    「ふ、藤丸、大丈夫か!」
     見れば、目の前にアーチャーがいる。どうやら彼が扉を開けたらしかった。
     立香はひたいを押さえていた手を見る。掌と指には、血が付着していた。出血しているようだ。
    「藤丸、血が出ているぞ! ひたいを打ったのか?」
    「そうみたい」
    「すまない、前を見ていなかった。本当にすまない」
     アーチャーはあわてている。こんなにも狼狽している先生は珍しいなと、どこか冷静に考えた。
     ひたいは燃えるように熱かった。自分の目では確認できないだけで、本当に燃えている可能性はゼロではないのではなかろうか。
     アーチャーのすぐ向こうにはキャスターも立っていて、彼は驚いた面持ちで立香を見やると、店内からタオルを持ってきた。
     タオルがキャスターからアーチャーに手渡され、彼はそれで立香のひたいをぬぐう。白いタオルが赤く染まり、そんなに血が出ているのかと自分が驚くほどだった。
     ちらりと覗いた店内に、他の客の姿はない。
     アーチャーは血に濡れたタオルを今にも倒れそうな形相で見つめ、立香の肩を掴んだ。
    「藤丸、病院に行こう。今からタクシーを呼ぶ」
     立香はあわてた。キャスターに話があってここまで来たというのに、病院などに連れていかれてはたまらない。
     タオルでひたいをぬぐい、立香はアーチャーに親指を立てて笑顔を作った。
    「先生、俺、大丈夫だから!」
    「大丈夫なわけがあるか! こんなに血が出ているんだぞ」
    「俺、血の気多いし」
    「血の気はそういう意味じゃない!」
    「絆創膏はってたら治るよ」
    「駄目だ! 病院に行くぞ」
    「大丈夫だから!」
     言い合っていると、キャスターがくちを挟んだ。
    「俺が坊主を病院に連れてくよ」
     アーチャーはキャスターを振り返る。
    「しかし……」
    「引きずってでも気絶させてでも連れていく。それでいいだろ」
    「いいわけがあるか。それが怪我人にすることか! 私の生徒になんということを!」
    「お前もめんどくせーなぁ」
     眉根を寄せて言うと、キャスターは立香に向き直った。
    「坊主、こいつに病院へ連れてかれるのと、俺に連れてかれるの、どっちがいい?」
     親指でそれぞれを指し示し、彼は問う。立香はふたりを見比べてから、おずおずと返答した。
    「……キ、キャスター……」
     なんとなく予想はしていたが、アーチャーはその答えにショックを受けた顔をする。まるで、目の前で自宅が爆発炎上したかのような面持ちだった。
     彼は震える手を立香の肩から離す。立香は心配しながらアーチャーの手を見た。
    「な、何故だ藤丸……私が信用できないのか……?」
    「そういうわけじゃないんだけど……」
     立香はキャスターに用があって店まで来たため、単純に、アーチャーに病院に連れていかれるわけにはいかないだけだ。しかし、現状でそう説明したところで「今は治療が最優先だ」と返されるのは目に見えている。故に、それをくちにすることはためらわれた。
    「たしかに、生徒に大怪我を負わせたのは教師として許されざることだ。だが、故意にしたわけではない。信じてくれ、藤丸」
     立香よりも、アーチャーのほうが今にも倒れそうな顔色をしている。立香本人は怪我をそれほど重要に捉えているわけではないのだが、アーチャーの中でそれはとんでもなく逼迫したものになっているらしかった。
    「先生、大丈夫だから。そういうんじゃなくて、その……俺、じつはキャスターに話があって」
    「藤丸、血が流れているぞ」
     なんだか申し訳なく感じ、立香がアーチャーにしようとした説明は、他ならぬ彼によって遮られた。立香はタオルでひたいの血を拭く。タオルはどんどん赤黒く染まっていった。
    「あとでちゃんと病院に行くから。ね、先生。むしろ先生のほうが顔色わるく見えるよ。休んだほうがいいと思う」
     本心だった。
     アーチャーは立香の話を聞いたあと、少しの間をおいて、ちからなく頷く。彼は自らの眉間に手をやった。
    「……そうだな。なんだか、気分が悪くなってきたような気がする」
     責任感の強さは、時に健康にまで影響を及ぼす。彼は顕著な例だろう。
     しかし、そうなってもまだ、アーチャーは立香に心配そうな視線を向けた。
    「……本当に、ちゃんと病院に行くんだな?」
     彼の問いに、立香は「うん」と首を縦に振る。
    「約束するよ。ちゃんとキャスターに連れていってもらって、代金もちゃんとキャスターに立て替えてもらう」
    「おい勝手に。まぁいいけど」
     キャスターがくちを挟んだ。アーチャーは頷く。
    「そうか。なら安心だ」
    「てめぇ」
     キャスターの声を、アーチャーは聞き流した。
     そうして彼は、まだ不安は残っていそうだったが、どこかふらふらとした足取りで店を出ていった。立香よりもアーチャーのほうがよほど血が足りてなさそうで、タクシーが必要そうに見えた。彼が無事に家までたどり着くことを、立香は祈る。
    「……で、話ってなんだよ」
     そう言ったキャスターに振り返り、立香は彼を店内に押し込んで店の扉を閉めた。
    「ちょっ、おい――おわっ」
     相手を店の奥に押し戻そうとするちからが強すぎたのか、キャスターは後ろ向きにバランスを崩し、立香もろとも床に倒れる。椅子やテーブルを巻き込まずに済んだのが、不幸中の幸いだろうか。
     キャスターは眉間にしわを寄せ、苦しげな声を出す。
    「いって……」
    「ご、ごめん……」
     今の状況を引き起こした立香本人は、キャスターの上に倒れたために無事だった。まるで、彼を床に押し倒したふうな体勢になっている。相手が痛みを訴えていなければ、心はもっと躍っていたに違いない。
    「お前、怪我してんだから」
    「うん、でも、話のほうが大事だから」
     キャスターは不思議そうな面差しで、立香を見上げた。彼を見下ろす体勢は新鮮だと、ちらりと思った。立香は呼吸を整える。
    「……キャスター、俺ね、キャスターのこと好きなんだ」
    「……知ってるよ」
     彼は静かに返答する。表情に変化はない。立香は続けた。
    「キャスターのこと考えてるだけで時間どんどん流れていっちゃったり、キャスターに勉強おしえてもらうだけでテストの点数あがったり、キャスターとずっと一緒にいたいなって思うくらい、好きなんだ」
     静かに話を聞く相手の紅の瞳を、立香はじっと見つめる。緋色に自分が映っている光景は、何度みても不思議な感じがした。
    「でも俺、どうすればずっと一緒にいられるのか……どうすればキャスターに好きになってもらえるのか、お試し期間おわっても付き合っていられるのか、全然わかんなかった。全然わかんなくて、でもいっぱい考えて、そしたら自分の駄目なとこばっかりが見えてきて、胸の中に真っ黒でもやもやしたものが増えてきて……えっと、なんだっけ……」
    「落ち着けよ。ちゃんと聞いてるから」
     話しているうちに思考とくちが噛み合わなくなり、立香は自分がなにをどこまで話したのか一瞬わからなくなった。キャスターがそんな立香を落ち着けようとする。
     立香は話すべき事柄を頭にうかべながら、話を連ねた。
    「俺、平凡で駄目なやつだなぁって思って、俺みたいなやつ、きっとキャスターにはふさわしくないんだって思ったけど、でもキャスターを好きな気持ちはちっともなくならなくて、むしろ毎日おおきくなって――」
    「血ぃ流れてるぞ」
     立香はタオルでひたいを拭いた。
    「あの、その……さっきは、嫌なこと言ってごめん。卑屈……だったけど、でもあれは自分を踏んづける言葉でも、キャスターを踏んづける言葉でもあったんだよね。俺、自分のことしか見てなかったから、気付かなかった。ごめんなさい」
     言って、立香は頭をさげる。少しして、キャスターの静かな声が返ってきた。
    「……うん。もういいよ」
     突き放す声調ではなかった。それに安堵して、立香は顔を上げる。
    「……俺、キャスターが好きで、諦められない。お試し期間が終わって、店員さんと客の関係に戻っても、やっぱり諦められないと思う。また告白しちゃうかもしれないし、お店にも通うと思う」
     ふ、っとキャスターが笑った。双眼が細められる。
    「そりゃまた、えらく熱烈だな」
    「そうだよ。熱烈なんだ」
     立香が素直に肯定すると、キャスターは少し意外そうな面持ちをした。
     深い呼吸をして、立香は息を整える。胸が少しばかり苦しいのは、長い台詞によるものか、それとも彼への気持ちが胸を満たしているからか。判然としない。
    「キャスターしか、考えられない。好きで好きで、どうしたらいいのか、わかんないんだ。こんなの初めてだから、わかんないんだよ。でも、キャスターとはずっと一緒にいたい。ずっと一緒にいたいから、キャスターに俺のこと好きになってほしい。もっと俺の名前よんでほしいし、触ってほしいし、俺のこと考えてほしいし、キスだってしてほしい。ねぇ、キャスター――」
     立香は相手の瞳の奥を見つめた。まるで、瞳の奥に彼の心が見えると無意識が信じてでもいるふうに、立香は緋色の奥を凝視する。
     キャスターも、目を逸らさなかった。この瞬間、視線を絡めるよりも深い繋がりが、ふたりのあいだに確かに存在した。時間の感覚と共に、音が遠ざかる。胸の鼓動がキャスターへの恋を叫んで、暴れていた。
    「――俺のこと、好きになってよ」
     こんなにも感情が声に乗った瞬間は、ないと思った。初めて彼に告白したときよりも、ずっと告白をしている感じがした。
     陽光が店の扉の硝子を透かして、床に切り絵のような模様を広げる。
     驚いたふうに目を丸くしたキャスターの容貌にも陽の光は降り注ぎ、彼の優麗な容姿を自然の明かりで彩った。
     その照らされたキャスターの目許が、赤く染まったのを立香は認める。陽光の色ではない。
     彼の肌に朱は映えて、鮮やかだった。初めて見る顔だ――と、ひそかに立香は思った。
     不意に、キャスターが笑った。小さな笑いが、徐々に大きくなっていく。
     彼は眉尻をさげた笑顔を立香に向けた。
    「……血ぃ流しながら告白されたのは、さすがに初めてだわ」
     キャスターはタオルで立香のひたいをぬぐう。次いで、立香の鼻の頭にキスを落とした。突然のことに、立香はまったく反応が出来なかった。
     にっと笑い、彼は尋ねる。
    「……なぁ、お試し期間、ここで切り上げるか?」
    「えっ」
     まだ約束の一ヶ月は経っていなかった。ふられてしまったのかという考えが、一瞬で頭の中を埋め尽くす。
     だが、キャスターは今度は立香の頬に口付けた。柔らかい感触に、立香の思考が絡まり、もつれる。
     至近距離で、キャスターは囁いた。彼の呼気が顔に掛かって、立香はどきどきとした。
    「……ちゃんと始めようぜ、お付き合いってやつをよ。――お試しとかじゃなくてさ」
     告げて、キャスターは立香の唇にキスをする。言われたことの意味を理解するのに、少しの時間が必要だった。
     唇を離した相手の微笑を認めて理解が追いつき、立香の瞼がまばたきで忙しくなる。自分にとって都合のいい幻聴ではなかろうかと、立香はキャスターにすがった。
    「ほ、ほ、ほんとに?」
    「ああ、ほんとだ」
     彼は頷く。立香はさらに問うた。
    「ほんとのほんとに?」
    「ほんとのほんとだ」
     キャスターは首を縦に振る。
    「ほんとのほんとのほんとに?」
    「ほんとのほんとのほんとだ」
     ここまで確かめれば間違いはあるまい。
     立香は己の顔に笑みが広がるのを感じ、感情のままに両手をあげた。涙が出そうな気分だった。
    「やったーっ!」
     叫んで、相手に抱きつく。キャスターの手が立香の背中にまわった。
    「こら、制服に血がつくだろ」
    「もう怪我なおってると思うから、たぶん大丈夫!」
    「治ってねーよ、鏡みろ。お前、その根拠のない自信どっから来んだよ」
     そう言うキャスターの声は、笑っている。背中にまわされた手も立香を引き剥がそうとはせず、優しくそこを撫でるばかりだった。
     幸福が血液の流れに乗って、身体中を巡っている気がした。幸せはあたたかいものなのだと、身体の内側から知る。キャスターを好きな気持ちが、指の先まで満ちていく。
     初恋は、一筋縄ではいかない。でも、実らないものでもない。
     これから先、キャスターにだけ恋をし続けることが出来ればいい。彼になら、何度こころを奪われたってかまわなかった。
     それを伝えると、キャスターの頬がまたほのかに赤く染まった。いつも綺麗な彼だけれど、そのときの表情はどこか少女めいていて、息がつまるほどに可愛らしかった。
     早くも、相手に惚れ直したのを自覚する。ときめきの動悸の音は、思いの外おおきいものだ。



    「藤丸、怪我の具合はどうだ?」
     翌日、学校で心配げなアーチャーにそう尋ねられた。
     キャスターとの正式な交際が無事に始まったあのあと、立香は彼とふたりで病院に行った。正式な交際を始めて一番最初のデートが、まさかの病院であった。あのときの薬品の臭いを、立香は生涯わすれないだろう。
     怪我自体は出血のわりに大したことはなく、今日の立香は病院でもらった薬を塗って、上から大きな絆創膏のようなものを貼り、登校してきていた。
     立香はアーチャーに笑う。
    「大したことないよ。ちゃんと薬ぬっとけばすぐに治るだろうって、病院の先生も言ってた」
     それを聞いたアーチャーは、心底安心したふうな表情をした。いったいどれだけ責任を感じていたのか、逆に立香が申し訳なくなるほどである。
    「そ、そうか……。しかし、本当にすまない」
    「謝らないでよ。俺も前みてなかったし」
     むしろ、出血したあの勢いがあったからこそ、キャスターへ想いを伝えられたのかもしれない。それを考えると、立香が礼を述べてもいいくらいだった。
     なんにせよ、キャスターと正式に付き合うこととなった今、出血のひとつやふたつはこれっぽっちも気にならない。ちょっとやそっと血を流したくらいでは人間は死なないだろう。ならば、なんの問題もないではないか。今なら骨折さえも立香は笑って受け入れられるかもしれない。
     それでも、生真面目なアーチャーの表情はやはり晴れなかった。
    「だが……」
    「先生は気にしすぎだって。俺ほんとに大丈夫だから。むしろありがとうって感じだよ!」
     立香は笑顔で親指を立てる。すると、それを見たアーチャーが何故か不安げな面差しをした。
    「藤丸は、その……もしや痛みに喜びを感じる性質だったのか……?」
    「え?」
    「いや、なんでもない。忘れてくれ。深く踏み込みすぎた」
     言うと、彼は踵を返してふらふらと離れていった。途中、曲がり角で壁にぶつかっていたため、具合が悪いのかもしれなかった。もしや、立香に怪我をさせた責任に安眠を妨げられ、寝ていないのだろうか。病院に行ったあと、連絡でもすればよかったかと、立香はすまない気持ちになった。
     側の窓から、空を見上げる。いい天気だった。日差しはぽかぽかと暖かい。
     今日の放課後も、カフェに寄る予定になっていた。まだ午前中なのに、それを思うと早くも放課後が楽しみになる。しかし、授業をおろそかにしてはならない。成績を悪化させると、きっとキャスターに怒られてしまうからだ。
     彼の仕事が終わるまでの時間を授業の復習にあてれば、うまく時間を使えるかもしれない。成績が上がったら、キャスターは褒めてくれるだろうか。
     なにを考えても楽しいのは、うかれているからかもしれない。でもこれは、仕方のないことなのだ。現状で平静さを保てるほど、立香の心は熟していない。
     ポケットの中のスマホが反応を示したため、立香はそれを取り出した。
     確認すると、キャスターからの連絡だった。それだけで、自分の顔に笑みが広がるのを感じる。味気ないはずの文字も、キャスターが入力したのだと考えると他とは違って見えるのだから不思議だ。
     立香はうかぶ笑みもそのままに、スマホを操作する。
     昨日も会ったのに、今日も会いたいと思う。きっと明日も、同じふうに思うだろう。「好き」という感情は大きいものだけれど、中身は存外にシンプルなのだと立香は考えている。
     会いたくて、声が聞きたくて、優しくしたくて、触りたい。
     視線を上げた先の空は、今日もキャスターの髪と同じ色をしている。これからは青空を見るたびに彼を思い出すことになるのかと予想すると、覚悟が必要だった。空を見るたびにときめく、幸せ者の覚悟である。
     今しがた送ったメッセージの返事が届いた。返信のあとに、個性的な絵柄のスタンプが続いている。
     キャスターのスタンプの好みは、正直ちょっと不可思議だ。なんでそれにしたのと問いたくなるようなスタンプが送られてくる。そしてそれを見るのが、ひそかに楽しかったりもする。
     立香はメッセージを入力した。送信してから少し考え、メッセージを付け足す。
     ――【すき】
     安直すぎたかと送ってから悩んでいると、すぐに返事が来た。
     ――【そういうことは直接言え】
     また妙なスタンプが連なっている。
     立香は周囲を見やり、ひとの通りが少ない階段へと移動した。すみにしゃがみ込み、メッセージを再読する。
     気持ち悪いことではあるが、自然と顔がにやけてしまった。そういうところも好きなのだと入力したくなった指先を、なんとか抑える。
     ここが学校でなければ、勢いで電話をしていたところだった。にやける顔がおさまらず、膝に顔をうずめる。
     現在進行形で、幸せを噛み締めていると実感した。キャスターのこととなると、立香の胸はすぐときめきに高鳴ってしまう。
     会いたい、と指が勝手に文字を入力し、立香の心の声を代弁した。文明の利器は便利すぎて、時々こまってしまう。想いがすぐに相手のもとへと届くから、困ってしまう。
     またすぐに返信が来た。立香は耳朶を熱くする。今度は不可思議なスタンプは連なっていなかった。
     ただ一言、【俺も】とだけ返ってきている。
     放課後までの時間が長く感じられそうだなと、立香は予想した。そしてこの予想は、きっと当たるのだろう。
     返事を入力していると、予鈴が鳴った。メッセージを送信したスマホをポケットに入れて、立香は階段を駆け上がる。
     足取りが軽いのは、おそらく気のせいではない。
     予鈴が鳴り終わる前にと、立香は自身の教室を目指す。
     学校内の景色が、先週までとは異なって見えた。なんだか、生まれ変わったような気分がした。
     教室の扉をあける。月曜日、今日からまた一週間、学生の本分が始まるけれど、おなじみの月曜日の倦怠感は微塵もなかった。教室に澱む皆の気の重さに微笑ましさすら感じられるのは、キャスターのおかげであるのに相違ない。
     ポケットの中のスマホが小さく震えた。こんな小さな振動だけで、心が驚くほど華やぐ。
     立香は自分の席へ向かいながら、ポケットに手を入れた。
     恋愛も人生経験のうちのひとつだと、教師にはそのへんを是非とも大目に見てほしいものである。


    和香奈 Link Message Mute
    May 15, 2019 4:12:04 PM

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