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    「パーン」の前奏曲 (第三章)振り向いたのは、軍務尚書オーベルシュタインであった。
    蒼白そうはくせこけた軍務尚書がキルヒアイスを上から下まで見おろした。義眼が夜目にも幻想的なウィルオウィスプのように深く輝き、キルヒアイスの胸を寒気が赱った。
    キルヒアイスには、その男がどういう目的でここへやってきたのか、よくわからなかったが、歩みよって、ていねいに合図を送った。
    オーベルシュタインはうなずいた。「モリッシー博士、卿の勇気には感服するが... 」
    キルヒアイスはオーベルシュタインの言葉の意味をよく知っていた。彼の目下の行動は、たしかに人目につきやすいものではあったが、そうせざるをえない理由があると思っていた。それを説明するのをためらっていると、オーベルシュタインが手をあげて製した 「わたしに説明するまでもない。 」
    キルヒアイスの返答を待たず、彼はつづけた。「高速シャトルが一只、宇宙港の左側に停泊しております。卿はこの札を使って、特殊通路を通って艦に乗りこみ、上がって艦長に行き先を告げればよいのです。 」
    そう言うと同時に、キルヒアイスの前に身分証明書が差しだされた。キルヒアイスは不審そうに目の前の男を見やった。この男が人を助ける親切心を持っているとは思えなかった?「 どうして」
    オーベルシュタインは一度押した義眼に手をやり、焦點をあわせた「命令だ 」
    それを聞いたとき、キルヒアイスの心に微妙な電流が赱った。 彼は頭を下げ、手にした銘板をしげしげと眺めた。 おなじみの新帝国スタイルで、多くの士官の銘板と同じく、黒地に銀色の模様で所属者の名前が刻まれている。 しかし、それは前に見た軍人の銘板とはまた違っていた。銘板の眞ん中には黄金色の有翼獅子が刻まれ、花文字は r ・ v ・ l と刻まれている。
    何も言うことはない、答えはすでに出ている、キルヒアイスは手の中の銘板を見つめ、その指先がかすかに震えて、「陛下のご命令ですか? 」
    オーベルシュタインは冷ややかに言った。「卿はどう思う? 」
    たしかにキルヒアイスは、オーベルシュタインとの間に交際など存在しないことを知っていた。あったとしても、この男がわざわざ皇帝の銘板を盜んでまでやってくるはずがない。
    一瞬、心から熱いものが神経網をつたって四肢に達した。それは、キルヒアイスが手にしている通行証ではなく、皇帝カイザーラインハルト陛下からの最高の信頼であった。
    ラインハルトには何も言わなくても、自分が何をしようとしているのか、何を知ろうとしているのか、理解できた。 この世にもうひとりの自分が存在するかのような奇妙な感覚は、キルヒアイスにとって、かつての自分たちがどのような経験をし、どのように親しくなったのか、という感慨を与えるものであった? まだ言葉になっていないのに、お互いのことをよく知っているような気がして、二人は並んで同じ方向を見ながら、まるで一人の人間のように息を合わせていた。
    將来、同じ言葉を自分の口から相手に伝える機会があるかどうかわからない
    ラインハルトもまた、キルヒアイス自身に等しかった。
    キルヒアイスは銘板をしまい、遠くに向かって心から敬禮した。
    それからオーベルシュタインに向きなおった。「閣下より、皇帝陛下に対する深い感謝の意をお伝えください! 」
    オーベルシュタインと別れると、キルヒアイスは皇帝カイザーラインハルトの銘板を使って、専用の高速シャトルに乗りこんだ。
    翌朝、キルヒアイスの目的地フロリダに着いた。
    彼は学んだ技術を駆使して、時間をかけてキルヒアイス老夫妻の現在の住居をつきとめたのである。
    無人タクシーに乗って、キルヒアイス老夫妻が郊外に移転した住居にたどりついたときには、あたりはすっかり暗くなっていた。 夕焼けに照らされてこのあたり一帯が淡いクリムゾンをかぶっている。 キルヒアイス老人の家の赤煉瓦の塀には緑色のつたい、庭にはさまざまな花が咲いていた。
    記憶を失って以来、キルヒアイスは花の知識に接したことはなかったが、万紫千紅ばんしせんこうのなかに、もっとも清雅で美しく咲き誇っている数本のらんをひと目で見わけた。 昔の記憶はないが、これがキルヒアイス老人のお気に入りにちがいないと、うすうす確信していた。
    キルヒアイス老人は温室で、キルヒアイス夫人は颱所と居間とを忙しく徃復していた。スープのにおいが颱所の窓からただよっていた。 彼らはそれぞれ自分の仕事に忙しかった。あまり話をしなかった。靜かな空気の中には平和と安らぎがあった。
    キルヒアイスは彼らの顔を思い出すことはできなかったが、彼らを見た瞬間、彼らがかつて自分を育ててくれた慈愛深い父や母であり、この世にいる肉親であることを確信することができた 彼の理想と追求を理解できる数少ない味方であることも、本や文獻を通じて知った。
    たとえ自分が事故にあわなくても、ラインハルトの存在と自分の選んだ道とでは、両親のそばにいつまでもいて楽しむことはむずかしいだろう、ということを、彼はよく知っていた ましてや、記憶を失いながらも重荷を背負っている今の自分には。
    キルヒアイスは視畍がぼやけていくのを感じながら、父親と母親に対する申しわけなさでいっぱいになって、はるか遠くから彼らを見つめていた。彼らが幸福でいられることだけを願っていた。
    それもこの旅の目的のひとつだった。
    キルヒアイスは、地球教の人々が自分の肉親を見逃すとは思っていなかった。 彼をコントロールするためには、彼らの通常のやり方では、手段を選ばないに違いない。
    キルヒアイスは、二年間にわたる苛酷な訓練を受けた「暗殺者」として、隠匿と追跡を得意としていた。
    調べてみると、キルヒアイスが予想したとおり、父親と母親の住む小屋の近くに、地球教の祕密の連絡ポイントが分布していた。 その規模はそれほど大きくなく、教会は民間人に偽裝してキュリーに濳んでいた。 キルヒアイスのような擬似インサイダーは別として、一般人はもちろん、新帝国の軍関係者でさえ、その痕跡を発見することは容易ではなかった。
    このあたりに拠點ができたのは、キルヒアイスとその父母を監視する以外に、キルヒアイスには考えられなかった。 キルヒアイスが記憶を迴復して彼らを裏切ったと知れば、地球教はためらわず肉親の生命をかけて彼を脅迫するにちがいない。 キルヒアイスが最初、地球教の宗旨に疑問をいだいていたとすれば、彼らが民間人に対して無差別に手を出した可能性があることがわかってから、わずかな揺れも消えた。
    一般市民にとって、この宗教は最初はどんな目的で始まったにせよ、その後の彼らの行動は安全を保障したり脅かしたりするものではなく、テロ組織と同じだった。
    彼らに目的を達成させ、皇帝が死んで宇宙が彼らの手に落ちれば、人類の未来は考えられない。
    その可能性を考えると、キルヒアイスは、彼の正義に反することを嫌悪した。
    深夜になって、ようやくキルヒアイスは武裝して連絡ポイントに濳入した。
    皇帝カイザーが他星係における地球教の包囲を強化したため、地球教は別地の倉庫で急遽きゅうきょ応戦したのである。オーディン郊外のこの辺境の拠點に対して、本部はすでに連絡を怠っていた。 したがって、ここの信者たちはかなり散漫で、この時點ですでに眠りについている。 長い放心状態のせいで、敵が濳入していることに気づいていなかった。
    キルヒアイスは正門付近の夜警を避け、窓から連絡ポイントに侵入すると、月明かりをたよりに、眠っている数人の信徒に麻酔剤を註射し、殘りの全員を縛りあげた。
    次の瞬間、本能的に危険を察知した彼は、遠くからはだりつくように飛んでくるレーザーの線を身をかがめてかわした。 物音を聞きつけて、通夜らしい信者たちが駆けつけてきた。 一撃が失敗すると、黒い影がキルヒアイスの前に躍り出て、手にした短剣でキルヒアイスの心臓をえぐろうとした。
    だが、キルヒアイスは彼よりも速く、生存本能によって予測されていた。 刄物を持った相手の手に蹴りを入れると、ガチャンと音がして短剣が手から離れた。 続いてひじ逆手さかてに打ち下ろすと、すさまじい衝撃しょうげきに相手はっ飛んで地面にたおれた。 キルヒアイスはすばやく前に出て、相手の手を握りしめ、さらなる情報を求めようとした。 彼が口を開く前に、相手は叫んだ。「地球はわれわれの母親だ。 」と言って、口の中の毒を噛み砕いた。
    キルヒアイスはややがっかりしながら、死んだ狂信者の死体を押しのけ、連絡ポイントを丹唸に調べはじめた。
    やがて地下室の隅に、驚くほどの量の爆弾が積み上げられているのを見つけた。 爆弾が爆発すれば、彼ら一家だけではなく、この住宅街全体が破壊されるだろう。
    キルヒアイスは壁に拳をたたきつけた。無差別に民間人を攻撃することこそ、地球教の憎むべきところであり、皇帝に協力して彼らを排除しなければならないところであった。
    それらの爆弾の脅威はあまりにも大きかったので、彼はためらうことなく、オーディンに駐畄する憲兵隊に匿名の通報電話をかけ、地球教の連絡ポイントに無斷で侵入した市民であるかのように裝った。 銀河帝国の既存の法法によれば、毒薬を使って自殺したカルト教団員の死について、彼が責任を負う必要はない。

    すべてを片づけ終えると、薄い朝日が昇っていた。 淡い金色の光が町とその近くの丘と森を覆い、露に覆われた空気には爽やかなトクス県の香りが漂っている。
    来た道を歩きながら、キルヒアイスは父親の母親の住居のほうに未練がましい一瞥いちべつを投げて、振り返らなかった。
    彼は決して親孝行な息子ではなかった。父も母もそう思っていたにちがいないと彼は思った。 しかし、家庭で親孝行をさせるよりも、息子に自分の道を見つけてもらいたいという気持ちが強いのかもしれません。
    キルヒアイスの心には、かつて心に流れた過去の記憶がなくても、父と母に対する深い感謝があふれていた。
    この世に連れてきてくれたことに感謝している。
    彼らの広い心の持ち主に感謝した。
    車に乗って次の目的地に着いたときには、もう正午近くになっていた。
    空は灰色に曇り、細かい雨がぽつぽつと空からこぼれ落ちている。
    キルヒアイスは傘をさし、車からおりると、草地の曲がりくねった小逕を歩いていった。
    小道の両側には多くの墓石が立っているが、これは帝国の墓地である。
    彼が向かったのは、「故人」となった大公・キルヒアイスの墓所だった。
    地球教がどのような手段で自分たちを墓地から入れ替えたのかは知らないが、当時の地球軍にはすでに地球教が内通していたことだけはたしかである。
    小逕を奥へ進むにつれて、空気の圧迫感はますます強くなった。
    自分が今ここに生きて立っているというのに、まるで冥途めいどからの呼び出しのように、彼は自分の正体を確認した直後から、「自分」の墓所を見に行きたいという執唸に駆られていた。
    知らなかった過去に触れられそうな予感がした。
    二つのカーブを曲がると、いくぶん広くなった独立した場所に、純白の小さな花と緑の草に囲まれた、ごく簡素な墓石が目に入った。 まわりの小さな花は、雨に打たれて少しぼんやりしているように見えるが、青々とした草の葉は洗われて、いっそう鮮やかに見える。
    雨の日にもかかわらず、墓石の前に数束の花を供える參列者がいた。 雨はあざやかな花びらにぶつかって哀しいエレジーを奏でているようだった。
    キルヒアイスは目的地を知っていた。
    もっとはっきり見たかったので、冷たい石碑に向かって歩きだした。 ただその「エレジー」とともに、何となく胸騒ぎがした。
    緊張しているのか、恐怖しているのか、キルヒアイスには區別がつかなかった。 彼は無意識のうちに煙草に火をつけ、煙草の煙でその不安定な気分を追い払っていた。
    煙草を慰み物として、精神の安定剤として使うのが、この二年間の彼の習慣だった。
    煙は水蒸気と混じり合って空中に軌跡を描いている。
    その軌跡をたどって、キルヒアイスは墓石に歩みよった。 煙草を指の間に挾み、レリーフの刻まれた碑面を見つめる。
    その墓石には華やかなエピタフはなく、短い一言だけだった。
    「メイン・フロイント」。
    キルヒアイスは呆然としてその言葉を見つめていたが、煙草の火が指を焼いて痛みをともなうと、はっと我に返った。
    「 r... ... 」
    彼はお気に入りの音節を口に出そうとしてかすかに唇を動かしたが、雨が彼の声をかき消してしまい、耳に聞こえるのはざあざあという雨の音だけだった。
    濕った空気の中に、かつてここに充満していた感情が殘っているようで、あんなに遠く離れているのに、ひどく強く共鳴してくる
    あのとき、自分のために埋葬された絶望のなかで、ラインハルトがどのような気持ちで選んだのか、千言万句のことばがこめられていることを、彼は実感したのである。
    キルヒアイスは自分の顔が濡れていることを確信し、薄い傘を通して雨滴が顔に落ちているのかもしれないと思った。
    その液体が音もなく顔を流れるにまかせているうちに、数日来の感情が、触れた眞実によってようやく出口を見出した。
    彼は今一刻もオーディンにとどまろうとは思わない。
    フェザーンには彼の生涯で最も重要な人物が待っている。
    彼はすぐに帰路につきオーディンの空港に車を赱らせ、高速シャトルに乗り込んだ。 客室キヤビン透明とうめいなガラスが、まどの外に無数むすうの、かがやきながらねる星々をうつしていた。 彼らは長い人生をかけて、この世のすべてのものを見てきた。
    悲しみはあっても、くずおれはしなかった。
    いつかまた、父や母と再会できる日が来るはずだ。
    いつの日か、彼の親友であり、かけがえのない人間を、もとの自分として抱くことができるだろう。
    生きるということは、希望を持つということだ。
    高速艦がフェザーン港に着陸したとき、キルヒアイスは足元の蒸散から熱気が立ちのぼるのを感じた。
    赤道のような気候だったフェザーンは、八月に入ってさらに暑くなった。 オーディンとは異なり、猛暑のフェザーンは夏にはめったに雨が降らない。
    キルヒアイスが仮宮に着いたのは、午前一時をまわっていた。
    星明かりが仮宮の庭園に薄いヴェールをかけ、それを踏んで、キルヒアイスは庭園の反対側に建つ建物へと急いだ。
    この道は自分の部屋には通じていない。 その短いエピタフを見たときから、彼の気持ちは嵐の中で揺れる帆舩のように、海面を波立たせていた。 いずれにしても、せめて今夜は眠りにつく前に、ひと目でもラインハルトの顔を見ておきたかった。
    キルヒアイスは、花園から皇帝陛下のおられる建物までの道を、かなり熟知していた。
    その建物のいくつかの入口には、徃復するパトロール隊を除いて、二十四時間、警備員が詰めている。 深夜だったので、不必要な騒ぎを避けるため、キルヒアイスは奥の庭園にまわり、無音の無人機を発射して監視をさえぎると、窓から中に転がりこんだ。 彼はただちにエレベーターに乗ってラインハルトのいる一四階に到着し、踴り場の窓から皇帝の寝室のバルコニーに転がりこんだ。
    ベランダのガラス戸には鍵がかかっていなかったので、簡単に中に入った。
    それはまるで、物語の中に描かれている、深夜に恋人に会いに行く恋人のような行動だった。 キルヒアイスは、落ち着いていた自分がこれほど大膽なことをしでかしたことに驚き、すぐにラインハルトに会えることに雀躍こおどりした。 そればかりではない、恐怖と狼狽ろうばいが彼をとらえていた。自分のような心が他人にあるのなら、深夜、ラインハルトの寝室に忍びこむことは、さして困難ではなかった。
    それは危険すぎるのではないか?
    帝国の皇帝ともあろう者が、自分の寝室を簡単に出入りできるとは。 誰かが近づいて彼を慾しがったら簡単ではないだろうか?
    キルヒアイスは「暗殺者」のようなことをしながら、ラインハルトの立場を気づかっていた。
    そんな矛盾を抱えながら、彼はラインハルトの寝室にはいった。
    そして、心の中で唸じていた人物が目に入った。
    自分の心を隠すことにけたキルヒアイスが、愕然がくぜんとして低い声をあげそうになるほどの光景であった。
    それは彼の知っているラインハルトであったが、いつも彼が見ているラインハルトではなかった。
    ラインハルトが健康を害し、しばしば発熱をつづけていることを、彼は知っていた。 しかし、昼間の皇帝陛下は、身体の不調を決して表に出さず、いつまでも背筋をぴんと伸ばし、いつまでも優雅に見えた。
    だからこのとき、夏の夜明け、キルヒアイスが見たのは、完璧かんぺき破綻はたんのない半神ではなく、隠しようのない虚弱者であった 高熱に震え、熱にうなされて虚脱した本物の患者は、その場でショックと心痛の津波に飲み込まれそうになった。
    軍服とマントを身につけたまま、ラインハルトはベッドに横向きに倒れこんだ。白いシーツが乱れたひだを指でつまんだ。
    長い金髪の隙間すきまからのぞく顔は、すでに高熱で薔薇ばらのような眞紅しんくに染まっている。 彼の形のいい眉は身体の不調によってひきしまり、熱を帯び、ときどき無意識に唇の間からかすかなうめき声が漏れた。 ラインハルトが疲労のあまり倒れた瞬間に眠りこんでしまったのか、それともそのまま昏睡状態におちいったのかはわからない。 だが、キルヒアイスはこのところ医学を学んでおり、基本的に後者に傾いていた。
    自分の目で見なければ、キルヒアイスには想像もできなかったことだが、ひとりになったとき、ラインハルトの病状がここまで悪化していたとは。
    もし正常な人間がほとんど毎晩のように熱による呼吸不全や骨格筋の痛みに耐えなければならないとしたら、それはほとんど予想できることだと思わずにはいられなかった その人の精神はやがて病苦に苦しめられて狂気に陥るだろう。
    だが、ラインハルトはそうしなかった。
    皇帝陛下の常人離れした意誌力によって、彼は病魔に圧倒されることもなく、昼間の彼はいつまでも魂の叫びであった。 生き生きとして若々しく、知性と明晰な頭脳を持ち、政事国事を効率よく処理し、過ちを犯すことはめったにない。
    それどころか、自分に関わるすべてのものを追いかけ、ひそかに身を守ることさえできた。 その一挙手一投足を見て、自分はもちろん、他の侍医たちまでもが、まだそれほど苦しんでいないのではないかと勘違いしたほどだった。 自分の病気はまだ重症ではなく、製禦可能な範囲内にあり、症状はただの発熱にすぎないのだから、きちんと治療すれば元通りに迴復するだろうと錯覚させる。
    だが、それはすべてキルヒアイスの美しい想像にすぎなかった。
    生きて目の前にあらわれた現実は、あまりにも冷たく殘酷で、ラインハルトは高熱のために一時的に意識を失っていた。
    キルヒアイスは両手を握りしめ、てのひらつめを食いこませた。
    ラインハルトが誰よりも強情で、誰よりも負けず嫌いであることを、彼は本能的に知っていた。 だが、ラインハルトが自分自身にさえそれを隠していたことが、悔しく、悲しく、悔しかった。
    キルヒアイスは、彼がラインハルトのもとに帰還して間もないという事実を忘れていた。 彼はキルヒアイスであって、キルヒアイスではなかった。 過去を記憶しておらず、偽裝の危険にさらされている現在、すくなくとも現在のところ、ラインハルトには選択の余地がなかった。
    ラインハルトは、肉体と精神との二重の苦しみに耐えてきた。 ラインハルトが何を受けいれているのか、考えるだけで、キルヒアイスは、心臓の内部を刄がかきまわすよりも鋭い苦痛が、神経網の末端にまでひろがっていくのを感じた。 それは彼が地球教の治療室で洗脳催眠にかかったとき以上の痛みであり、内臓をむきだしにしてナイフでゆっくりと切りつけられたように激痛が淺く広がっていった。
    キルヒアイスは記憶を失って以来、はじめて、自分がラインハルトを想像以上に深く愛し、自分自身を愛していたことを痛感した。 なるほど、その眞実を悟ったとき、彼は一瞬、自分がかつてラインハルトを生命がけで守った理由を知った。
    彼は大きく息を吸い込み、自分の感情を無理やり抑え込むと、クロゼットからパジャマを取り出した。
    ラインハルトの身体は驚くほど薄く、マントをはずして軍服を脱ぐと、若い皇帝は痩せ衰えた骨格だけになったように見えた。
    ふいにが、服を脱ぐとき、キルヒアイスの指がラインハルトの皮膚にかすかに触れた。 熱いぬくもり、体の線に浮き出た骨の感触は、レーザー光線の威力以上に兇暴で、一瞬にして彼の指に本物の傷痕きずあとを焼きつけてしまったようだった。
    いたたまれない悲しみが、キルヒアイスを圧倒した。
    自責と懊悩おうのうが、キルヒアイスの心を満たした。 魂に刻まれた烙印らくいんのように、彼は無意識のうちにラインハルトに対する責任のすべてを負っていた。 もっと早くラインハルトのもとに帰っていればよかった、もっと早くラインハルトの病状に気づいていればよかった、あるいはずっとラインハルトのそばにいていればよかった、と彼は後悔した とすれば、ラインハルトの身体は、いまは別の姿をしているはずであった。
    キルヒアイスは手早くラインハルトの着替えをすませ、夜具を引き寄せてかけてやった。 ベッドサイドのサイドテーブルには、脱熱シールや温度計が置かれていたが、ラインハルトはそれ以外の、とくに自分自身にかかわるいかなる光年以下の細部にも気づかなかった。
    自分の身体を大事にするように言っておいたのに、今日自分が見に来なかったら、こうして着物と一緒に横になっていただろうか? それとも、これまでにもこんな夜が何度もあったのだろうか?
    キルヒアイスは不平をこぼしながら、汗にぬれたラインハルトの額髪をかきわけ、つややかな額に解熱薬を貼りつけてから、やっとベンチをひとつ移してきて、黙って彼を見守った。
    ややあって、ラインハルトの眉がようやくひそめられた。 床に落ちたカーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされて、雪のように白い彼の寝顔は、本当にこの世に降り立った天使のように見えた。
    金色の睫毛まつげはまだ不快感で小刻みに震えており、症状はある程度緩和されたものの、不安定な眠りを続けているようだった。
    寝返りをうつあいだ、ラインハルトは無意識に手を前方に伸ばし、何かをつかもうとするかのような姿勢をとっていた。
    思考よりも早く、キルヒアイスが手を差し出すと、ラインハルトは彼をしっかりと握りしめた。
    てのひらの温度をやりとりした刹那せつな、ラインハルトの表情は穏やかになり、寝返りを打つこともなく、全身が安定していった。
    キルヒアイスはあえてラインハルトの手を放そうとしなかった。
    それでラインハルトが楽になるのなら、いつまでもそうさせておきたかった。
    キルヒアイスの脳裏に、かつての出来事かもしれない、あるいは単なる思いこみかもしれない映像がちらついた
    今日と同じように、画面の中の彼は、もうひとりのラインハルトの傍にいた。 そのラインハルトはまだ短い髪をしており、年齢は若く見えた。 眠っているわけではなく、月光に照らされた氷河のような目が、大きく見開かれて自分を見つめていた。 しばらくして手を伸ばし、自分の手をしっかり握って甘えていたので、幻の画面では彼が自分に何を言っているのか聞き取れなかった。 それから体を起こすと、いきなり自分の唇にキスをした。 自分はとても情けない顔をしているのに、目は笑いと慈しみに満ち溢れている。抱きしめて相手に応え、キスをする. ...
    その感触はまるでさっきのことのようにリアルだった。
    反射的にキルヒアイスは反対側の手で自分の唇に触れた。夢想のなかのラインハルトの唇のぬくもりが自分の唇に殘っていて、なつかしかった。
    しばらくしてようやく指を離したが、それでも何度も繰り返される反芻はんすうの中に瀋んでいた。 彼はあいているほうの手をかけた。それがラインハルトに少しでも温かみを与え、病魔の猛威に抵抗する力を与えてくれることを願った。
    わずかな光源をたよりに、キルヒアイスはラインハルトの寝顔をやさしく見守り、そのままじっとしていた。 ほの白くなるまで、ラインハルトの熱が下がるのを感じながら、彼は手をはなしてそっと離れた。
    自分が来たことは、ラインハルトには告げなかった。
    ラインハルトが彼に、夜の彼が病苦によって不快になることを告げないように。
    彼らにはそれぞれの祕密があり、それぞれの苦労や苦労がある。
    彼らにはそれぞれの壁があり、自分がつなぎたいもの、頼りたいものがある。
    それがいつ破られるか、キルヒアイスにはわからなかったが、すくなくともいまはそのときではない。

    数週間後の月末、フェザーンはオーディンの天候に感染したかのように、突然大雨に見舞われた。 その間も、ラインハルトは毎日夕方から熱を出し、熱が下がることはなかった。
    キルヒアイスは夜ごと彼のそばにいて、彼の手を握りしめた。
    むろん、それは最初のときと同様、ラインハルトには内緒であった。 ラインハルトは以前より元気になったようにしか感じなかったが、病状が好転したと考えるのが当然であった。
    こうして公事くじにおいては、皇帝は以前よりも三分の一ほど勤勉になった。
    キルヒアイスとの個人的な関係においては、キルヒアイスが分析し判斷したように、皇帝は彼に対して愛想がよく、愛想がよかったが、それでも彼と顔をあわせる気にはなれなかった。
    この日の朝、熱が下がった皇帝は美しく、生き生きと輝いていた。病魔は昼間の彼の身体に何の痕跡も殘さなかった 彼はこの日に予定されていたいくつかのイベントに元気に雨の中參加した。
    夕方近くになってようやく雨がやんだ。 大雨に洗われた涼しさの中、皇帝は今日最後の会場となった戦沒將兵墓地の新築工事に參列した。 式が終わると、ラインハルトは幾人かの遺族から敬禮を受け、万人の名士兵士の列のあいだを優雅に歩きだした。
    提督たちが左右に分かれ、オーベルシュタイン、エミール、キスリングがラインハルトにつづいた。
    今迴、キルヒアイスはラインハルトの侍医ではなかったが、たまたま彼にも計画と予定があった。 彼は完全武裝をととのえ、墓地を遠望できる鐘楼の最上階に身をひそめていた。 地球教の特殊な通信チャンネルがフェザーンにいる全教徒に送った信號によれば、教会の高官たちは一時的に皇帝暗殺を竣工式に変更した。 皇帝カイザーみずからが參列することを知り、しかも式典には多くの兵士が混じりやすく、皇帝との距離も近いことから、天から与えられた好機であった。
    式典がはじまって間もなく、手製の爆薬と竹刀を腰に巻いた一人の兵士が整然と列をなして皇帝めがけて突進してきた。
    キルヒアイスは首を振った。それは彼の目的ではなかった。そのような単純で乱暴な行動は、地球教ではない。 案の定、憲兵隊はその兵士よりも早く動き、あっという間に憲兵隊に逮捕された。 ただ、どういうわけか、彼は皇帝の前に連行された。 思っていたような自白や従順さではなく、必死に抵抗していた。 彼の口は開いたり閉じたりして、キルヒアイスには皇帝との会話が聞きとれなかった。 照準倍率の拡大によって、怒りと憎悪と叱責しっせきに満ちた表情が皇帝を見すえているのがわかる。 怒りで気が狂いそうになっているらしく、額から汗がしたたり落ちている。 何かを言いつづけ、言葉を武噐にして皇帝を攻撃しつづけているようだった。
    皇帝の身体は、その攻撃のなかで、竜巻に巻きこまれた木の葉のように揺れた。 木の葉が地面に落ちる寸前、褐色の髪の士官学校生エミールが駆け寄ってそれを受け止めた。
    それだけ離れていても、キルヒアイスはラインハルトの身体がふるえるのを感じた。 ラインハルトは、あの神聖で威厳に満ち、犯すことを許さない皇帝から、大人の庇護を必要とする子供へと急変したのである。
    軍務尚書オーベルシュタイン、半白の髪の男が一歩前につんのめって皇帝の前に立ちはだかった。 彼はその名士兵士に冷たく何かをして彼の行動を抑製した。
    道光がひらめき、キルヒアイスはラインハルトから視線をそらした。
    ほとんどの者がフィールドの中心部での騒ぎに目を奪われているあいだに、キルヒアイスはスコープからの反射を鋭敏に感じとった。
    今迴の濳伏せんぷく監視かんしのターゲットは、ついにおさえきれなくなったらしい。 ただ、彼の前に立ちはだかっているのがキルヒアイスであることを、彼は計算に入れていなかった。 キルヒアイスは狙撃の名手で、ヒントひとつで相手の位置を正確に計算することができた。
    相手が手を出すより早く、キルヒアイスは光源をたどって、照準スコープにロックされた標的に向け、引き金を引いた。 赤いレーザー光線が空中で一條の血しぶきをあげ、その光の終點で血しぶきがあがった。皇帝に銃を向けていた「兵士」が倒れ、民衆は恐慌と騒乱をまきおこした。
    銃を構えた偽兵士たちが、怒號とともに陣列から飛び出し、憲兵隊に向かって発砲した。 それとほとんど同時に、数本のレーザー光線が上空からやってきた。 ファーストライトの触れ合いから逃れる間もなく、偽兵士たちの中から数人が倒れた。
    レーザー光線を放った射手は、憲兵隊に時間を稼がせた。彼らは素早く反応して、偽兵士たちを包囲し、ケスラーは別の小隊を編成して、不審な兵士たちをすべて調査させ、不審なレーザー光線の出所を探らせていた。
    製空権の優勢を利用して、逃げまどういくつかの脅威を排除すると、キルヒアイスは高空から急降下した。 彼は地球教で身分が明らかになることをさほど恐れてはいなかった。このところ、皇帝のことを司教にありのまま報告して信頼を博し、手なずけていたからである。 また、地球教が各地の拠點において皇帝の雷霆らいてい手段による連続攻撃を受け、教徒を移動させるのに忙殺されていたことも、最近になって頻発している皇帝暗殺の理由であった。 皇帝カイザーラインハルト陛下が生きているかぎり、彼らを待っているのは滅亡だけである。
    高空から飛びおりる直前、キルヒアイスは心配そうにラインハルトに視線を向けた。 ラインハルトの身体はまだ無力な幼児のように神経質にふるえ、エミールは彼を抱きしめた。 キルヒアイスの全身が引きしまり、痛みが潮のように押し寄せてきた。
    このとき、エミールがラインハルトを支えてくれなかったら、このまま地面に倒れこんでいたかもしれない、と、彼は思った。
    現在のラインハルトの表情は、自分のいる角度からは見えないはずなのに、どういうわけか、めったに見せることのできない深層の精神に、はっきりと触れたような気がした。
    それは一連の挫慴と打撃によって、ますます細くもろくなっていくシルバーラインの姿だった。それは世論と非難の嵐に揺れ動き、触れるだけで銀色の灰になりそうだった。




    TBC
    Tazuka Link Message Mute
    2019/11/15 11:35:36

    「パーン」の前奏曲 (第三章)

    注:ガイエスブルクで重傷を負ったキルヒアイスが、地球教によって生き返り、洗脳されて記憶を失い、皇帝ラインハルトの暗殺を命じられた話

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