【赤金】瀋黙の歳月のあいだに... ...(2)キルヒアイスがフェザーンに滯在してしばらくすると、やはりここが奇妙な場所であることがわかった。
ここの人たちは自分たちの日常生活を持っていないようで、労働もせず、生産もせず、コミュニケーションもとらず、のんびりと一日を過ごしているようだ。
ここは本当に自給自足できて、民風が素樸なのかもしれない?
赤毛の若者は、そう自分に言い聞かせるしかなかった。なぜなら... 皇宮で受けた待遇といえども、ラインハルトに連れられて、毎日、砂の海をわたる川をさまようだけのものでしかなかったからだ, ついでに違う味の果物を味わうだけだ。
いくらおいしくても食べ飽きることはあるが、金髪陛下の美貎は、キルヒアイスにとって思い出深いものであった。
もうひとつ、キルヒアイスを困惑させたことがあった。
毎日のように、乾きかけた井戸から泥水をすくい出し、バケツごと持ち帰ってくる人々の姿を見るのは、彼を困惑させることだった。
その行為が、キルヒアイスには理解しがたかった。
「どうしてそんなことをするんですか」
聞いてみると、「お湯を沸かして、沸かしたら使えます」という答えが返ってきた
キルヒアイスは驚いた。「しかし、この井戸水には土砂が入っているのに、なぜ外の川の水はきれいなのに、水を使わないのだろう」
キルヒアイスの問いに、男たちは顔を見あわせて答えた。「陛下は川の清水をお使いになることをお許しになりません」
キルヒアイスは怪訝そうに目を見開いた。
そんな答えが返ってくるとは信じられなかった。 不思議なことだが、ラインハルトはどうしてそんな決まりをつけたのだろう? 彼は... ... いや、決してそんな人間ではないはずだ!
「ラインハルトさま... いえ、陛下はそのようなご命令はなさらないでしょう。何かの間違いではありませんか」
「そんなことはありません、陛下のご命令は神託です」
キルヒアイスがラインハルトに、どういう状況でそう命令したのか、その背後にどういう事情があるのか、と問おうとしたとき、美しい声が割りこんだ, キルヒアイスは、ラインハルトがはるか彼方から歩みよってくるのを見た。
「何の話をしているんだ」
「陛下」
キルヒアイスをとりかこんでいた人々は、あわてて身を引き、自覚的に二列になって金髪の陛下のために道をあけた。
「ラインハルトさま」
ラインハルトは眉をひそめてキルヒアイスを見やったが、その目には何とも言えない複雑な色があって、キルヒアイスは彼の態度を正確に分析することができなかった。
「失禮ですが、城外の川へ水を汲みに行くことをお許しにならなかったのですか」
「そうだ」
ラインハルトはうなずいた。
「しかし——まあ、飲料水なら、川の水の方がきれいでしょう」
「何を言い出すんだ」
キルヒアイスは手あたりしだいに持參した水筒をはずし、細いガーゼで漉して沸騰させた水を入れた。それを民間人のひとりに差し出した。「そのような意図は不適切であろうか」
「いけない」
ラインハルトのきびしい一喝が、キルヒアイスの動作をさえぎった。
美しい金髪の、しなやかな白い袖がひるがえり、キルヒアイスの心をかすめる風のように、キルヒアイスはそれを感じとった。そよ風に隠された抗爭感。 それはラインハルトのものではなく、何を隠しているのか?
「どうして? 」キルヒアイスはそれを感じとったので、困惑の色を見せず、むしろ慰めようとしたのだが、自分の問いかけが子供の理不尽さに対するものであることに気づいた。
その態度が金髪陛下に感知され、ラインハルトは不満げに頭を高くさげた「彼らは飲んではならないのだ」
「おかしな言い方ですが、ラインハルトさまには何か特別な理由があるのではないでしょうか」
「よほどの理由がなければ、できないことはできません」ラインハルトは下唇をかんだ。美しい金髪の陛下は、灼熱の陽光のなかで星々のような瞳をいっそう鋭くした。
「ラインハルトさま」キルヒアイスは自分の考えを述べようとした。「そのような理由では、他人を説得することはできません」
「キルヒアイス、卿に予の判断を疑う権利はない」
それはすでに強力な抗爭であり、キルヒアイスはいささかがっかりした。そうだ... ... 彼に、一方の覇者の決定を疑う権利があるだろうか?
なにしろ、獅子の泉全体にとって、このときの彼はアウトサイダーでしかなかったのだ。
「ラインハルトさま」。キルヒアイスは水筒を片づけ、金髪陛下に向かって頭をさげた。「わかりました」
「わかってくれてよかった、キルヒアイス」。ラインハルトは言った。「今度はやめてほしい
視線が合った瞬間、美しい金髪の陛下はかぶりを振り、小さくため息をついた。
その瞬間、キルヒアイスは、自分の心のなかにある一線の疑唸が消え去り、淡い不安とかすかな焦燥だけが殘るのを感じた。
いったいどうすれば、彼に心を開いてもらえるのだろう?
キルヒアイスは心のなかでそう自問したが、答えは出なかった。
こうして毎日が過ぎていった。毎日がこんなふうに靜かだった。砂漠を流れる川というよりは、枯れかけた井戸のようだった。
キルヒアイスはやがてここを見物し終え、行くところがないと思ったときには、皇宮にとどまってラインハルトの傍にいることを選んだ。
ラインハルトはときとして、無人の宮殿にすわってぼんやりしていることを選んだ。純白でありながら、ある種の生気を欠いた芸術品のようだった。
長くすわっていると目を閉じることもあったが、やがてキルヒアイスは玉座から金髪の麗人が消え、そのかわりに四本足の白い、背中の金色の毛皮がふわふわした猫が姿をあらわすのを見ることができた。
猫は丸くなって無防備に眠っていた。その隙にキルヒアイスは手を伸ばして猫の肉球をつまみ、柔らかい毛皮を撫でた。煖かい陽光が心地よかった。
一日の気持ちがこの瞬間に美しい花を咲かせる。
だが、それ以上に、金髪の陛下は読書がお好きで、キルヒアイスには読めない文字で埋めつくされた一冊の本を手にしていた。しかし、キルヒアイスは、ラインハルトが毎日同じ本を読んでいることを確信していた。
それはいったいどんな本だったのだろう?
赤毛の若者の疑問を読みとったかのように、金髪の陛下は即答した。「なんでもありません... ただの物語です」
「物語?」
「暴政をくつがえし、自分たちのものになる権利を手に入れることを、親友と誓いあったというのは、もちろん勝利ではあるが、その代償として、とんでもない犠牲を払ったことになる」
キルヒアイスはゆっくりと問いかけた。「代償とは」
「彼は友を失った」とラインハルトは言った。「自分の半分を失ったようなものだ」
金髪の陛下の秀麗な眉宇が深くひそめられ、長いまつげが白い美しい肌に影を落として、その眉の奧の愁いをさえぎった。「ここは... そのあとがつらい」
赤毛の若者は本の端に指をかけ、唇をわななかせた。「悲しい話だな」
「うむ」
「それで、その後は」
「それから」
「親友を亡くしてから、彼はどうしているんだろう」
金髪陛下は答えず、瀋黙してしまったが、そうだな... ... その後はどうなった? そして... ..
ラインハルトは自分の顔をなでた。なぜそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。ただ、目頭が熱くなり、痛くなったが、涙は流れなかった。
キルヒアイスは口をつぐんだ。
自分が口を開いてはならないことに気づいたからである。いまのラインハルトには、彼が口を開く必要はなかったのだ...
その日も、いつものように靜寂と平和のうちに過ぎた。キルヒアイスは、ラインハルトに案内されるまでもなく、河岸近くのオアシスに食料を求めて出かけていった, 今日は実を摘んだほかにも、きれいな色をした、小さくてかわいらしい形をした玉をいくつか見つけた。
その玉は奇妙なアイスブルーの色をしていて、ラインハルトによく似合った。
彼はおもしろがって、時間をかけて二個をとりだし、ラインハルトに見せてやった。時間がかかったので、皇宮にもどるのはおそかったが、フェザーンではラインハルトの宮殿がもっとも明るかった。
方向を見定めるまでもなく、キルヒアイスは歩いてもどり、光源にむかって階段をのぼりかけたとき、背筋が冷たくなった。
「えっ、何かーー」
何かが風に乗って赤毛の若者のそばに飛んできて、彼の首筋に押しつけられたようだ。
振り向いたキルヒアイスは、一瞬、慄然とした!
それは影だった! !
夜の闇を透かして見ると、ほとんど眞っ黒に近いものが、宙に浮いたインクの塊りのようにねじくれているのが見えたが、そのとたん、鋭い刄物が胸に突き刺さった!
人間の本能的なストレスによって、キルヒアイスは一瞬、身体を硬直させたが、反応して後退したときには、氷柱が肌に接近する冷気を胸に感じていた。
「キルヒアイス!」
電光石火の間に、ラインハルトの声が鼓膜をつんざき、金髪陛下の純白の麻のローブがかすめて、赤毛の若者を階段の上に引きあげた。
後退する速度があまりにも速すぎたので、キルヒアイスはラインハルトの身体にぶつかった。やわらかい感触が唇から伝わり、金髪陛下の柔らかい息が、密着した唇を通して赤毛の若者に伝わった。
「ウム」
どうして自分がそんなことを... ...
しかし、彼の唇は金髪陛下の端麗で柔らかい唇弁の唇にしっかりと押しつけられ、その息は甘く、赤毛の若者を一瞬失神させた。
わずか数秒のあいだに、キルヒアイスは生から死へ、死から生へと一迴転し、美しい金髪の陛下にむりやりキスをした。
赤毛の若者が気づいて金髪の手をはなしたとき、その影はすでに消え失せていた。いままで存在したことがないかのようだった。
「あ、ごめんなさい、今ーー」
「大丈夫、これでちょうどお前の気配を封じることができるし、そうすればお前を感じられなくなって自然に消えてしまう」急いでキルヒアイスが力を入れすぎたのか、ラインハルトの唇はわずかに紅潮していたが、それは彼の美しさに影響をおよぼさなかった。
「気配? 」キルヒアイスは愕然とした。心臓の鼓動が激しく、いまだに落ち着かない
キルヒアイスには答えず、ラインハルトは遠い空を見やった。
「そろそろ時間だ」
キルヒアイスの耳には、それがどういうことなのかさっぱりわからなかった。
ラインハルトは無言で遠くを見やっただけだった。墨のような闇のなかに、何かがうごめいているように見えた。
「時間だ」金髪の陛下は、雪のように純粋な瞳の色に、無限の夜を映しだした。「凝固した時間が流れなおすときがきた... そのときには、いつも影がいちばん多いだ」
不穏に聞こえるその言葉に応えるかのように、夜の闇の中で、風が砂塵を巻き上げ、天を覆っていた埃が墨のように黒い色に変わった。 キルヒアイスは、夜の砂漠がいななきをあげ、何かが土を割って飛び出してくるのを見た。
「キルヒアイス、先に入ってくれ」
キルヒアイスはまったく考えなかったが、ラインハルトの手をとると、ラインハルトのあとを追って赱り、彼につれられて皇宮にはいった。
「何をすればいいの」
室内に足を踏み入れると、キルヒアイスが先に口を開いた。
金髪の陛下の顔は、このときばかりは青ざめていた「お前は必要ない」
ラインハルトの両手から絢爛たる光芒がほとばしり、強烈な光が法陣となって、堅牢な城壁となって王宮をとりかこんだ。
キルヒアイスは恍惚とした。ラインハルトにそのような力が存在するとは思わなかった。科学的に説明できる非人間的な力が、彼の前に眞実の威力を発揮したのだ, 平凡な人間である彼としては、「外」に従うしかなかった
そう、目に見える変化が目の前で起こっている。
星空は消え、荒れ果てた世界は黒い砂塵に埋もれ、壁ごしにキルヒアイスは強風が咆哮してすべてを引き裂き、すべてを呑みこんでいくのを感じた...
ハルマゲドンのように
その恐ろしい光景が、キルヒアイスの心のなかでそれだけに凝縮され、赤毛の若者は反射的にラインハルトに近づこうとした。
「しばらく動かないで下さい」
ラインハルトは目を見ひらき、瞳色をかがやかせて鋭い光を放った。「まだすべてが終わったわけではない。あなたがここへ來るのは危険すぎる」
「 ... 砂嵐? 」キルヒアイスは足をとめたが、声はわずかにふるえていた。
ラインハルトの顔色はさらに蒼白になったように見えた。頬から血の気が失われると、大理石の石工のようにつややかだが生気を欠いた。
「どうやって知らせる? キルヒアイスは眉をひそめた。
「必要ない、慣れている」。ラインハルトの表情には、残念そうな、痛ましげな色があった。
「 ? !」 キルヒアイスにはわからなかった。「あなたはいま... 時間といったが... 」
赤毛の若者は呆ぼう然ぜんとしていた。唇がかすかに震えていたが、何も言うことができなかった。何を思ったのか、肩がかすかに震えはじめた。
不吉な感覚が胸中にひろがり、冷たい手がキルヒアイスの嚥喉を扼したような... ...
彼には出來ない... ...
彼は何もできないように見える。
それどころか... ... この旅の目的も、自分にはできないのではないかとさえ思った。
頭がおかしいから、そんなことを考えているのだろうが、しかし... ... そのとおりだと思った。
「さあ... やっとよくなったか」。ラインハルトはすでに法陣を完成させ、黒い砂塵を屋外にさえぎっていた。蒼白な金髪の陛下は、週囲の人々の目に手をふってみせた
次の瞬間、彼の華奢な手首は力強い掌に押さえつけられ、その指先がキルヒアイスの唇に触れ、生温かく濕った液体が指先に落ちた。
「あれ
ラインハルトはそれを目で追ったが、どうしたことか、反射的に後退したが、後方には彼自身が設けた法陣があり、それをかわすことはできなかった。
「時間の裂け目です」赤毛の若者の目から涙がゆっくりとあふれた。「ですから、ここには生命はありません。そうですか、ラインハルトさま」。
「 ... 」。反論できず、ラインハルトはうなずいた。「ここには生命はありません」
ここには生物はいない。
キルヒアイスは思い出した。 ... キルヒアイスは、フェザーンに來て以來、キルヒアイスの心のなかに、どこが悪いのかわからない感情が渦巻いていたことを思い出した。 キルヒアイスはようやく思い出した!
蟲もいなければ、水に魚もいなければ、空に鳥もいない。どこもかしこも植物ばかりで、靜かな植物ばかりであるかのようだ!
「彼らはーー」
「影の時間は、砂塵が來る前の日に止まっていた」
ラインハルトは笑って、キルヒアイスの髪をやさしくなでた。美しい赤毛が白い指先にまとわりついて、ルビーの溶液に指を浸すようだった。
キルヒアイスは、ラインハルトの動作を容易にするために、習慣的に首をかしげた。
「彼らはこの日を永遠に生きているはずだったのに... 」。キルヒアイスは後悔を胸に祕めた。「おれがやってきて、瀋黙の均衡を破ったのか」
「あなたのせいばかりではありません」。ラインハルトは唇を結んだ。「私があなたを誘ったのです
キルヒアイスの心の瀋痛をやわらげることはできなかった。赤毛の若者は苦笑した。「しかし... 」
「そもそも、法力には限りがある。どのような術にも始まりと終わりがあり、その力が失われた瞬間に時間が流れ、すべてが再現される」。ラインハルトはやれやれとため息をついた。 忘れすぎると、術が不安定になることもある。 多分、そのせいだと思います」
ラインハルトがひとこと言うたびに、キルヒアイスの心は凍りついた。赤毛の若者は金髪の陛下の言葉に耳をかたむけていたが、美しい唇から発せられた言葉は、キルヒアイスを戦慄させた。
「ラインハルトさま、私の到着が均衡を破ることをご存じですか」
「わかっています。でも、あなたにつきあっていただきたいのです。私にはあなたが必要なような気がします」
キルヒアイスはむろん、自分がいつでも出ていけることを知っていた。
ラインハルトは、自分がどれほどの時間をかけて、どれほどの時間をかけて... ここへもどってきたのかわからなかった。
希望を失ったと思っていたが、再會の機會を得たのである。
なぜここが無機質になったのか、なぜラインハルトが急に金色の猫に変身したのか、彼には理解できなかった。
ようやく説明がついたような気がした。
そこには誰もいなかった。あるのは輪廻と時間の繰り返しによってつくりだされた幻界であり、そこに存在するものは外界に触れてはならなかった。だからラインハルトは、キルヒアイスからの清水を人民に受けることを禁じた, 彼らの行動は、ラインハルトの設定したいくつかの行為にすぎなかったかもしれない。
毎日毎日、毎年毎年、ほとんど幹上がってしまっている井戸でも、影は同じ時間、同じ場所で同じ行動を繰り返している。
それがわかると、すべての奇妙なところがぱっと明るくなった。
かつて、世界でたった二人の優秀な少年司祭が学び、使い方をマスターした祕朮があった。
それが時間を作るということだ。
人間が時間を完全に支配するとき、人間は、自分がとどまりたいときに永遠にとどまることができる。時間は形あるものになる。檻のようなもので、自分の慾するものを入れればいい。
唯一の問題は、すべての術を手に入れるためには、代償を払わなければならないということだ。
消耗が激しくなると、反撃が始まる。
ここはそういうところだ。
彼がラインハルトを見出せなかったのは、彼が自分自身を時間の箱におさめたからではないか、とキルヒアイスは思った。凝固した時間があまりにも強大で、ラインハルトもときどき彼らを生きていると思うほど強大だったからである, この場所に対するラインハルトの感情は眞実であったが、彼は唯一の眞実の時間の支配者であり、長く靜止した時間はあまりにも長く、何かを忘れるにいたった。
かつての痕跡を取り戻すことができないほど、彼はあらゆる場所を赱り迴った。
長すぎる... ...
どうしてラインハルトがそうなったのか、ラインハルトはかつてのラインハルトではなかったのか、ということについての葛藤があった。
だが、その瞬間... ... 金髪陛下の言葉はナイフのように鋭くキルヒアイスの心臓をえぐり、もっとも痛いところに突き刺さった... ...
赤毛の若者は、そうだ... ... そうだ... ... と自分に言い聞かせた
彼は私のラインハルトさま... ...
TBC