忘れてしまうデク君の話。 久しぶりに感じる湿った空気。住んでいた時は感じることはなかった湿気に久々の夏は暑くなりそうだと太陽を見上げた。
アメリカで三年活動して久々の日本だ。
またしばらく日本で活動してアメリカに戻るか日本に落ち着くかはその時の気分次第で決めようと思っている。
オールマイトが斡旋してくれた都内の事務所に一時所属して落ち着く間もなくヒーロー活動を再開した。
現場で会う久々の同級生たちは懐かし気に声をかけてくれる。
数ヵ月活動して地方に行っている者を除いてほぼ顔を合わせた。
「デェク! いい加減拗ねンのやめろや!! シカトとかいい度胸じゃねぇか。帰ってたんなら連絡の一つも入れやがれ」
「拗ねる? え? 何? 僕君の連絡先なんて知らないけど?」
何度目かの仲の悪かった幼馴染との邂逅の後現場から撤収しようとした腕を掴まれた。
敵退治を終え緊張の糸が緩んだ現場はヒーロー同士の不穏な気配に不謹慎なほど好奇な視線を向けている。
「ほぅ? たった数年アメリカで人気になっただけで偉そうなことを言うようになったなァ?」
ヒクつく米神が彼の怒りを伝えて来るが僕には何のことかさっぱりわからない。
僕と彼が個人的なやり取りをする場合必ずオールマイトが間に入っていたし、プライベートな関りなんてありはしなかったのだから。
「爆ご……! 爆心地! 外、外だから落ち着け」
「そうだぞ、テレビ撮られてる」
彼の両側を上鳴君と瀬呂君が掴んで僕から引き離してくれた。
その際こっそりと上鳴くんが「あいつ滅茶苦茶落ち込んでたからちょっとだけでもいいから考え直してやってくれ」と耳打ちされたが本当に何のことかさっぱりわからない。
ひたすら首を傾げる僕を見て何かおかしいと思いながら暴れる彼を引きずって行き現場は平穏を取り戻した。
そもそも僕とかっちゃんは卒業してから現場以外で会っていない。
かっちゃんの住所も連絡先も僕は知らない。
僕らの明確な関係は元同級生で元幼馴染、今はただの同業者という知り合いに毛が生えた程度のものしかない。
一人残った切島君によければ爆豪に連絡してやってくれと言われそう返した僕に切島君は顔を青くして僕の両肩を掴んだ。
「マジで? マジで言ってんのか!?」
「え? 何で? 僕何か間違ったこと言ってる?」
「なぁ、本気で? 爆豪と付き合ったてたこと、無かったことにしちまったんか?」
「……? 僕と、かっちゃんが何だって?」
「爆豪と付き合ってたじゃねぇか! アメリカ行く直前まで! そんで爆豪がすっぱ抜かれて」
ガクガクと肩を強く揺さぶられながら語られる話には全く身に覚えがなかった。
「僕、卒業してから現場以外でかっちゃんと会ったことないけど??」
「み、緑谷ぁぁぁぁ!」
叫び泣く切島君に抱えられるように病院へ連れていかれ問診を受けた。
結果、どうやら僕はかっちゃんと付き合っていた記憶だけがすっぱりと抜け落ちてしまっているらしかった。
切島君の説明によるとどうやら僕は卒業してからすぐアメリカに行く直前までかっちゃんといわゆる恋人としてお付き合いをしていたらしい。
自分の事なのにらしいっていうのもおかしいけれど僕にそんな記憶はない。
浮気と言うかガセの熱愛報道が多く僕らはよくそれで喧嘩をしていたみたいだ。
かっちゃんがあまり妬かない僕にわざと撮らせたものもいくつかあったらしい。
そしてアメリカに行く直前の熱愛報道はわざとかっちゃんが撮らせたものらしい。
なんでそんなことしたんだろうと思いながら首を傾げる。
らしいらしいで要領を得ないがどうやらその直後僕はアメリカ行きを決意して今に至ると……。
「へぇ……」
まるで他人事のような話。
僕の携帯はアメリカに行った時に新しい物に代えてしまったのでそれを証明するものは何もない。
「うーん、でもさ。熱愛報道が真実なんだとしたら別に僕がかっちゃんのこと気にする必要ないんじゃない? だってかっちゃん今その人とお付き合いしてるんでしょ?」
「あーうー……違うんだよ! そうじゃなくて浮気なんだけど浮気じゃなくて……!」
必死に弁明をしてくれるがその言葉は右から左に抜けていく。
「どのみち僕浮気する人嫌いだから」
母が一人でいる理由。
それは僕が無個性に生まれてしまったことで父がその現実に耐えられなくなり他の女の人の元へ行ってしまったことが原因だ。
母はいつも優しく笑ってくれていたがその裏でたくさん泣いていたのを知っている。
僕のせいで、とも思った。
せめて別れてから付き合えばよかったのに相手に子供が産まれて個性が出てからその事実を突きつけて来たんだ。
しかもその相手は結婚前から続いていた相手。母と結婚したのは世間体の為だったというのだ。
忙しい仕事に就いているから家に居ないのだと思っていたら実は二重生活をしていたと真実を明かす。
なぜ、どうして。最初からその人と結婚すればよかったのにと思った。
そしたら僕は産まれなくて、母は不幸にならなかった。もしかしたら別の人と結婚して幸せになれたかもしれなかったのに。
全てお前たちが悪いのだとまるで嘲笑う様に被害者の顔をして僕らを傷つけるだけ傷つけて去って行った父親。
卑怯者だと思った。
僕はそんな父を許さないし愛する人を泣かせるようなことをする人間を許せない。
浮気をする人間が大嫌いだ。
「そういうわけだからさ、かっちゃんに幸せになってねって伝えて?」
「あー……くっそ、これは爆豪が直接言うべきだと思うんだがこのままじゃ埒が明かねぇ! 爆豪はずっとお前のこと好きなままなんだ! 浮気も、その……妬かせるために……!」
「どうでもいい」
思っていたより冷たく低い声が出た。
「浮気する人間は何度でもする。それがどんな理由でも僕は許さない」
浮気をした、という時点で僕はその人を切り捨てる。これはもうどうしようもない自分の性だ。
感情でどうにかなるものではないのだ。
「……」
「じゃ、現場で会ったらよろしくね」
どちらにしろ僕にはもう関係のない話。
まだ何か話したそうな切島君を置いて僕は帰路に着いた。
「は?」
「何だって……?」
出久を連れて病院に行くとだけ慌てた様子で伝えて来た切島が真っ青な顔をして事務所に帰って来た。いつになく焦った様子で俺らに伝えた情報は俺達を混乱に渦に陥れた。
「だから、緑谷はお前と付き合ってたことを全部忘れちまってるんだって!」
そう言って医師からの診断書を差し出して来た。
切島の知っている過去と出久の記憶は全く噛み合わなかったのだという。
出久の中で俺は高校を卒業して以来プライベートな付き合いをしておらず現場で会う以外の接点はなかったということになっているらしい。
「マジか。忘れた振りとかじゃなく?」
「その可能性はないって医者は言ってた。一応脳に異常がないかとか個性が掛かってないかも調べてもらったんだけどどっちも異常なしだって」
「……」
「それで、緑谷が帰った後先生と話したんだけど……」
切島が医者と話した事によれば出久は浮気という言葉に異常なまでの嫌悪感を示していたという。
自分に害を与えた相手が心の底から反省して謝罪をすれば例え殺されかけたとしても許してしまう様な人間がどうしても許すことが出来ない事がある。
それが出久にとって浮気という行為なのだろうと言う。
「たまにいるらしいんだ。自分にとってどうしても許しがたい行為をされた時、その人間の存在の記憶を消してしまうタイプの人がいるって」
「……それがデクだってのか」
「だって! そうじゃなきゃ可笑しいだろ! お前ら何年付き合ってたと思ってんだ! 同棲だってしてただろ! 俺ら何度も遊びに行ったじゃねぇか!」
高校を卒業して五年だ。最初は別々に暮らしていたのだがあまりに会えないことに業を煮やした俺が強引に出久を自分の部屋に引っ張り込んだのだ。
「お前の存在全て忘れなかったのは人生において関わっていた時間が長かったからだろうって言ってた」
「それって……もし爆豪が幼馴染じゃなくただ恋人として出会ってた場合って爆豪の存在自体を記憶から消しちまってたってことか?」
青い顔をしながら上鳴がそう言う。
「……」
声をかけた時の出久を思い出す。
まるで他人を見るような感情の籠らない瞳。
あんな目を向けられたことは過去一度だってない。
最悪だった中学時代でも怯えの中に憧れと恋情は見えていた。
「……」
背中に冷たい汗が伝っていく。
「爆豪、緑谷とそういう話したことなかったのか?」
「ねぇな。そもそも俺がどんな理不尽な対応しても全部受け入れてたやつだぞ」
「……」
「爆豪、それ威張って言っちゃダメな奴……」
思い当たる節は散々あるのだが、やはり最大の原因はあの浮気騒動だろう。
いや、本当にそれだけか?
俺のデクへの対応を思い出す。その度背中に冷たい汗が流れる。凡そ恋人らしいことなんてしてこなかった。優先順位はいつも後回し、セックスだって自分本位。それでも抱いてやれば好きだとバカみたいな顔で何度も言っていた。
いつも、いつも。
俺は俺のしたいようにばかりでデクから何かを要求されたことは一度だってないことに今更気づいてしまったのだ。
高校を卒業するその日。
俺は出久に呼び止められた。
「かっちゃん。僕、君が好きなんだ」
「……」
「……」
「……で?」
「へ?」
「てめェはどうしてぇんだ?」
「え? どうって言われても……こう一思いにバッサリ振ってもらってかっちゃんへの想いを断ち切って貰えればなとは思ってるんだ。かっちゃんはこれからきっとどんどん有名になって綺麗な女の人とかにもたくさん出会うだろうしいつか結婚して子供も出来るだろうからその時に出来れば僕もお祝いなんかしたいんだけどその時に……」
「話がなげぇ! 要約!」
「君が好きですが君と付き合えるとは思ってないのでばっさり振ってください!」
「はぁ!? 俺がてめェと付き合えねぇっつーんか! 付き合うわ! 付き合い殺すわ、ふざけんな!」
「いやいやいや、かっちゃん何言ってんの?」
「てめェは俺が好きなんだろ?」
「好きです」
真っ直ぐ俺だけを見る出久。悪くないと思った。この目が他の誰かを見るのは許せない。
俺は別に好きじゃねぇがこの目が俺だけに向いているのは悪くない。
「なら問題ねぇな」
「……え」
俺は好きじゃねぇけど、デクが好きだっつーなら付き合ってやる。
あくまでデクが俺を好きだっつーからだ。
俺はデクと付き合うことにしたのだが……。
新人のうちはやることも多くあちこち駆け回っていて中々会えない。連絡もままならない。今一体どこで何をしているのかメディアを通してでしか互いの事が判らない。
そんな生活に限界が来たのは俺の方が先だった。
元々連絡不精の俺。妙な遠慮をして余程の事がない限り連絡を入れてこない出久。
気づいたら連絡用のトーク画面の会話は数ヵ月前のドタキャンになったデートのやりとり以降何もない。
卒業してから実際に会えたのはたった二回。そのうち1回は同級会だぞ。ふざけんな。
あの野郎はこれで不満はねぇっつーのか。
俺を好きだと言った癖に?
ドタキャンになったのは互いの緊急招集だったが代替の提案もなくしょうがない、またねの一言で終り。
こいつは本当に俺の事が好きなのか?
気づいたら俺はデクの事ばかり考えていてその事実に腹が立った。
これじゃ俺がデクを好きみてえじゃねぇか!
次の現場で偶然会った出久を部屋に連れ込みそこから同棲に持ちこんだ。
この頃俺らはまだキスしかしてない清い関係だった。
拉致ったデクが言うにはこのお付き合いは売り言葉に買い言葉的なものだったからきっと後悔してるだろうと思って自然消滅を狙ってたなんて言いやがる。
会えば、実際に顔を合わせれば出久の目には変わらぬ恋情が浮かんでいてこれを失ってたまるかと思った。
一緒に暮らして、体を合わせて。
それでも出久の遠慮がちな態度は変わらない。
気づけば俺ばかりがデクが欲しがっているような気がしてきていい加減ムカついた。
先に俺を好きだと言った癖に。
その言動の一割も俺に執着してこない。
だったら、お前の抑え込んでいるそれを引きずり出してやる。
俺が選んだのが嫉妬させるという方法だった。
だが、デクは持ち前のナード分析力でガセの記事を次々と看破していった。
週刊誌やワイドショーの写真や映像を見ながら、これは角度が、とかこれは躓いたのを助けたんだね、筋肉の力の入り方が、これはアイドルが炎上目的で抱き着いたところを撮られたんだね、この女優さんは(以下いらねぇ女優の情報)等々ヤキモチのヤの字も見当たらねぇ。
昔からデクのことを理解できたことはなかったが付き合って一緒に住んでますます理解は遠ざかって行った。
直接デクに問い詰め話し合えばよかったのだが、俺はデクに対して無駄なプライドを持ちすぎていた。
お前らは会話が足りない。
いつだって何度だって繰り返された苦言。
そろそろその苦言を、俺は受け入れるべきだったのだ。
そんなもやもやを抱えて挑んだ女優の護衛の仕事。
ふとした会話をきっかけに同じ悩みを抱えていたそいつと妙な意気投合の仕方をしてしまったのは愚痴と言う名の惚気話を散々してしまったからだろうか。
お互いの恋人を妬かせてやろう。
俺もそいつも似た者同士だったのだ。
止めるものなど誰もおらずバカみたいな計画を立てて実行した。
本当にするわけじゃない。俺もそいつも本気で浮気がしたいわけじゃない。
ただ、そういう風に見えるよう報道されればいい。
適当にホテルに入り別々の部屋で一晩明かして並んで外に出る。ただそれだけ。
していない証明は女優のマネージャーがしてくれる。
存分に妬いた恋人にネタ晴らしをしてやろう。
そんな企みの元に実行されたそれにマスコミはまんまと引っかかってくれた。
そして、撮られた週刊誌が発売された。
さぁ、今度こそ。
デクは穏やかな顔を歪め、俺に心を曝け出してくれるのだと、思っていた。
帰宅した真っ暗な部屋。電気を点ければ雑誌を開いたままじっとソファに座っているデク。
俺は来たか、と不謹慎だがワクワクした気分でデクを見下ろした。
普段は熱愛報道などが出ても持ち前の分析スキルでガセと見破りむしろ楽しそうに、なんなら写真を撮ったカメラマンの技量や熱愛と思わせる絶妙な記事を書いた記者を褒めるくらいはしてくる。
そんなデクが静かに俺を見上げた。
「……!」
デクの目には涙は勿論、むしろ感情すら見当たらないまるで巨悪と対峙するようなプレッシャーすら感じさせた。
「これは、事実ですか?」
生まれて初めて。デクからの敬語の問いかけ。
俺は飲まれそうになるプレッシャーを無理やり跳ねのけわざと笑みを作る。
「……だったらどうする?」
さぁ、妬け。僕以外の人に触れないで、と。
僕だけを見て、と。
縋ってこい。
てめェが、俺を、好きなんだ。
「……そう」
デクはそう言って目を伏せた。
それ以上の言葉は聞けなかった。声をかける暇もない。
スッと立ち上がるとリビングを出ていきデクの部屋のドアが閉まる音がした。
思っていた反応と全く違う様子に俺は戸惑いと嫌な予感に足が動かない。
そうこうしているうちにもう一度ドアが開閉する音がして今度は玄関の扉が開く音がした。
「おい、デク……!」
これはまずいとようやく足を動かし玄関のドアを開けたがそこにはもうデクの姿はなかった。
「デク! デク!!」
慌てて外に飛び出したがエレベーターではなく個性を使って何処かへ行ったらしくどちらの方向へ行ったのかもわからない。
俺は慌ててあちこちに連絡を取ったがデクの行方は判らないまま。
デクの部屋を開ければ荷物は何もなく一歩踏み出した足に何か触れた。
硬い音と感触から金属だということが判りおれはそれを摘まみ上げ呆然とした。
「……」
デクに渡したリング。
これを誕生日に渡した時、デクはこの上なく幸せそうな顔をして受け取っていた。
それが個性で握り潰され哀れな金属の塊になり果てた。
心臓が嫌な音を立て冷汗は止まらない。取り返しのつかないことをしたのは判ったがどうしていいか判らない。そして俺が手を拱いている間に報道でデクの渡米を知ったのだった。
「くっそ、浮気なんざしとらんわ。少しは俺の話を聞けやクソナード……!」
「え? デクに浮気の話題振ったんですか? やめてください! 死人が出ます!」
「……は?」
丁度部屋に入って来た事務員が顔を青くしながら駆け寄って来た。
どうやら書類の確認に来たようだったのだがその書類を放り出し俺に詰め寄る。
「デクに浮気の話題振ったんですか!? どうなんですか!?」
普段怖がって一定の距離から近づかない事務員が俺の肩を掴んでがさがさと揺らす。
といっても一般人の力でどうこうできるわけでもなく、全く揺るがない俺に迫る事務員はすぐ切島たちに引き剥がされた。
「してないしてない……」
「今の話三年前の話だから……」
「振ったと言えば振ったんだが昔の話だ」
「ああ、何だ良かった。昔の話ですか。ビックリさせないでください」
「なんだ? デクに浮気の話題がダメなんだ?」
あまりに怯えた事務員の様子に切島が問いかける。
事務員は青い顔をしながら理由を告げる。
実はマスコミと全ヒーロー事務所の事務員に異例の通達があったそうだ。
ついこの間人気若手ヒーローが不倫の末離婚した話題があった。
そのことについてたまたまそこに居たヒーローデクにマスコミが軽い気持ちでインタビューをしたそうだ。
いつも穏やかで笑みを絶やさない人気ヒーローがいつものように穏やかに笑いながらこう答えたのだという。
「浮気ってさ心の殺人なんだって。人を殺したんだからさそれはもう敵だよね。敵なら殺っちゃっても文句ないよね?」
そう言って微笑むヒーローデクの目はどこまでも本気だったと、突然フルカウルを発動させて何処かへ行こうとしたデクを死ぬ気で止めた警察官と報道陣は口をそろえて言う。
ヒーローデクに浮気の話は禁忌である、と。
「マジか、緑谷……」
「爆豪、お前付き合ってたのに恋人の地雷知らなかったのか?」
「そういう話しなかったのかよ」
「知らねぇわ! 大体付き合ってる間の熱愛報道は俺が仕掛けた奴以外あいつのクソナード分析で全部看破してやがったわ!」
「うわぁ……」
「緑谷……」
「ああ、うん。緑谷すげぇな」
「デクさん凄い……」
ほら見ろクソナード! てめェの所業に全員ドン引きじゃねぇか! 俺は悪くね……いや、ちょっとくれぇは悪いかもしれねぇけど……。クソ……。
「本当に、本当に知らなかったんですか? 付き合ってたのに? 恋人だったのに?」
事務員の信じられないという顔を直視できない。
「お蔵入りにされたVTRあるんですが、見ますか?」
もしもヒーローデクに恋人ができた場合、浮気と誤解される報道は絶対にされないよう最優先で配慮するようにと今やヒーロー事務所事務員全てに通達されているらしい。
その参考資料がそれなのだと見せてくれた映像に映ったヒーローデクはどんなに絶賛されたホラー映画の映像よりも恐ろしかった。
「爆豪……」
「やべぇって、俺ら付き合い長ぇけどあんな緑谷見たことねぇよ」
「さっさと土下座でもして許してもらってこいって」
「だから、付き合ってたこと自体あいつは覚えてねぇっつってんだろ!」
「「「……あ、そうか」」」
「じゃあもういっそ付き合ってなかったってことでもう一回口説きに行くのはどうよ??」
上鳴の提案にそれはいいんじゃないかと俺以外の全員が乗る。
だが……。
「ンで俺がデクを口説かなきゃいけねぇんだ。デクが俺を好きなんだぞ?」
口に出した瞬間全員が残念なものを見る目つきで俺を見た。
「そのな、お前を好きだった緑谷な……」
「お前が消しちまったんだよ」
「もういねぇって自覚した方がいいぞ」
「……」
そうだ、もう俺を好きだったデクはいねぇ。
他人を見るような目つき。憧れと恋情を孕んで俺を追いかけていた表情は消えてなくなってしまった。
デクが、俺を好きだという大前提のアドバンテージはもうない。
「おめぇ、漢らしくねえよ。さっさと自分の気持ち認めねぇと本当に緑谷失うぞ」
正確に言えばもう失った。
俺たちは会話が足りない。きちんとなぜ俺に執着してこないかを真剣に問いただせば、デクはきっと躊躇いながらもその理由を話しただろう。
だが、そうするには俺もデクに執着していると認めることになる。
それを認めたくなくてバカみたいな方法でデクを試した。
あいつは必要のないところで無駄に聡く、またネガティブ方面への思考が異常だ。
それを判っていたはずなのに。
「デク」
事態が収束した現場で出久を呼びとめる。
「何?」
相変わらず出久の目には昔のような憧れも俺を好きだと言っていた頃に見えていた恋情も見えない。
「飯、行くぞ」
「切島君たちと行ったら?」
まるで俺に興味を示さない。
「てめェと行きてぇ」
「僕は特に行きたくないけど」
はっきりと俺を拒否するようになった。
掴んだ腕を離さない俺に深いため息をつく。
「あのさ、何度も誘ってくれるけど正直君と僕とでちゃんとした会話が成り立つ気はしない。気を使いながらご飯食べたって楽しくないだろ? お互いに」
「俺はてめェと食いたい」
一体何度目の攻防になるだろうか。
未だ一度も成功していない食事の誘い。ずっと付き合っている時はデクの方から誘うことばかりでそれだって三回に一度はドタキャン。行かないとすげなく断る事も多々あり、実際に飯に付き合ったのはどれくらいだっただろうか。
途中で抜けるなんてこともしでかしたな……。
思い出すたび背中に冷たい汗が走る。
あの時の俺のデクの優先順位は最下層。それでも文句も不平もデクは口にしたことはなかった。
もしもあの時俺が今のデクにするようにしつこく誘い掛けてきたらガチギレして突っぱねただろう。
「……一回」
「!」
「一回だけならいいけど……」
いい加減面倒くさくなってきたのか頷いた。
「なら今日行くぞ」
「一応上りは18時だけど緊急が入ったらそっちを優先するよ?」
「ああ」
ようやく、連れ出すことに成功して浮かれる俺にデクは不思議そうな顔を向けたまま。
「君お付き合いしてる人が居るんだろ? その人と行けばいいじゃないか。僕になんか構う時間勿体ないだろ」
そう言って首を傾げた。
「付き合ってるやつは……いた、がフラれた」
「そうなんだ」
まるで他人事の出久。何度説明しても俺と付き合っていたことを忘れてしまう出久。
デクにとって俺と付き合っていた過去は消し去りたい異物になってしまった。
とにかく約束は取り付けた、嬉しくてたまらない。
もしかして、あの頃の出久も俺との約束を取り付けた時同じ気持ちだったのかもしれないと今更ながら罪悪感に押しつぶされそうになった。
そしてようやく誘い出した飯屋。
途中で気が変わったと言われないよう事務所まで迎えに行くと呆れた顔をされた。
「別にすっぽかしたりしないよ」
「……」
俺がデクとの約束を連絡なしにドタキャンした数など両手では足りない。
自分は散々やった癖にされたくないなんて一体俺はどれほど身勝手だったのか。
予約していた個室の和食屋。
何でもいいというのでデクの好きそうなものばかりを注文した。
「明日は?」
「昼から仕事」
「……そうか」
なら酒はなしだな。飲めば少しくらいは昔の話が出来る隙が出来るかと思ったのだが。
黙々と碌に会話もないまま料理だけが減っていく。
〆のつもりで頼んだかつ丼を見て、ようやくデクが表情を緩めた。
今しかないと思った。
「なぁ」
「何?」
「お前、浮気する奴嫌いなんだって?」
何十年と傍で過ごしていたのに俺はそんなことも知らなかった。
浮気、の言葉にデクがピリと気配を毛羽立たせた。
しばらく何かを考え俺の顔をちらりと見て小さくため息をついた。
「……まぁ、君ならいいか」
そういってデクの口から初めて聞く緑谷家の内情。
父親がいない理由、親族と関わっている様子が見えないその真実を……。
「あいつが、最初から本命と呼んでた人と結婚してればお母さんは悲しまずに済んだ」
あいつは母にお前こそが浮気なんだと嗤いながら言い捨てた。
いいところのお嬢さんだった母。そこに付け込み婿養子として取り入って甘い汁を吸おうとした。
「でも、産まれた僕が無個性で……」
親族から縁を切られた母親に利用価値がなくなったとあっさり捨てて出て行った。
「あいつがお母さんと結婚しなければ、お母さんは泣かずに済んだ……。僕は産まれなくて、別の人と幸せになれた可能性だってあったのに……」
全ての元凶の父親。結婚する前から繋がっていた浮気相手。
ずっと激務だと思っていたら何のことはない。相手の家でのうのうと暮らしてた。それだけだった。
「だから僕は浮気という行為を許さない」
母を悲しませ、家を壊し、相手の心を殺すその行為。
「例え、誰であっても」
出久の目が真っ直ぐ俺を射抜く。
「さて、ごちそうさま。美味しかった。僕明日少し早いからこれで帰るね」
テーブルの上に財布から取り出した一万円札を置いて立ち上がる。
俺はそれを引き留めることも出来ず見送るしかできない。
知らなかった。子供だった。
そんな言い訳なんて何の役にも立たない。
無個性に生まれてしまったことをきっと誰よりも悔いたのは出久だ。
自分に個性さえあればせめて上辺だけでも平和な生活は続いていたかもしれない。
個性さえ、個性さえあれば……。誰よりもそれを切望しただろう。
だが、それはどんなに望んでも手に入らない。
ヒーローになりたいと言い続けた出久。
オールマイトに憧れて無謀な夢を見ているだけだと思っていた。
でも……、さっきの話を聞いて思う。無個性でも脚光を浴びているヒーローになれば自分と母親を嘲笑い捨てた父親に分かりやすく自分の価値を示せるのかもしれない。
お前が嘲笑い捨てた物はこんなにいいものだったのだと後悔させたい。
……そして泣いていた母親を笑顔にしたい。
そんな淡い希望も含まれていたのではないかと想像がついた。
子供だった出久がどこまで思ったのか判らない。
だが、その行動衝動は全て誰よりも傷ついてしまった母の為に……。
あの頃俺たちは子供で、ヒーロー以上に格好良くて誰からも認められる職業を知らなかった。
だから……デクは……。
そんな風に思っていた出久に俺は何をしてきた?
挙句の果てに、何をした?
もはや、謝罪も、贖罪すらも生温い。
幼い頃からあいつの自尊心を踏み躙り、無価値なものだと言い続けた。
付き合うと、恋人同士だと口先だけで言う俺にデクは何を思っていたのだろうか。
俺は出久が俺に向ける愛情は永遠のものだと思い込んでいた。
だから出久を大事にしたことはなかった。どんなに手荒に扱ってもいつまでもそこにあると安心しきっていた。
出久が嫉妬など見せられるわけがない。甘えられるはずもない。
そんなことをしたら自分たちの関係は終ってしまう。きっと出久はそう思って俺と付き合ってきたのだろう。
俺が、デクの全てを否定していたのだから。
だからデクは俺が気まぐれに与える物だけを甘受してそれでいいと自らを納得させていた。
それなのに俺はそれに満足できずもっともっとと引きずり出そうとして……。
自分からは何一つ与えない癖にお前からは浴びるほど寄越せなどと、なんと傲慢だったのか。
「……俺はクソかよ」
ようやく、今更散々言われたことの意味を実感する。
全ては俺の行いのせいなのだ。
いつも熱愛報道を看破していたのはきっと、俺は「そう」ではないと必死に言い聞かせ血眼で「違う」理由を探してたのかもしれない。
そうした原因は俺なのだ。そして「そう」ではない「違う」理由を見つけられなかった出久は己が憧れ愛した人が「そう」であったことに絶望し、壊れてしまったのだ。
「……はぁ」
目頭が熱くなるが俺にはなく資格すらないと唇をかみしめた。
家に帰り冷たいシャワーを浴びながら俺が思い出すのは過去の事。
どんなに今更悔やんでも取り返しがつかない。
俺が軽い気持ちで投げつけた言葉でデクは一体どれほどの傷を負っていたのだろうか。
思い出しては身悶えするような後悔が体中を駆け巡り勝手に涙が零れ落ちる。
幼少期から、デクが出ていくまでの覚えている全てを思い出し何度も身を切るような後悔を繰り返す。
布団に入っても寝ることは出来ず、押し寄せる後悔の波に身を委ねているうちに朝になってしまった。
今日が非番で良かったとぼんやりした頭でテレビをつけると丁度デクが映っていた。
真剣な顔つきで敵と退治する様は昔と何も変わらない。
付き合っていた頃なら敵退治が終わった後俺が声をかけたなら、嬉しそうな顔で微笑んで名前を呼んでくれたのに今ではちらりと視線を寄越すだけになってしまった。
俺に呼ばれ嬉しそうな顔を思い出してまた勝手に涙が溢れた。
それを拭うこともせず画面を見つめていると、不意に出久の動きが不自然なことに気付いた。
スピードは前よりもでているがパワーが乗り切っていない。
ほんの少しの違和感だが、これは多分新しいフォームを試している最中なのだと気づく。
昔は出久の方がこういった些細なことに気付いてトレーニングに誘ってくれていたのを思い出す。
新技を試したくなった時、新しいサポートアイテムを手に入れた時、新たなスタイルを探りだした時。絶妙なタイミングで提案されるトレーニングへの誘いだけは断ったことはなかった。
出久はずっと俺を見ていてくれたのだと今更気づいた。
「ストーカーって愛情と熱意がねぇとできねぇんだな……」
軽々しくストーカーするなと怒鳴りつけていた俺はいまどれほどの熱量を持って出久が俺を見てくれていたのか思い知る。
俺は出久から与えられるものを当然だと受け取るだけだった。
また一つ、今更出久の事を知ってため息が零れた。
もっと寄越せなどととんでもない話だ。ちゃんと出久は判りやすく俺を愛してくれていた。
ヒーローである俺は勿論、爆豪勝己という男のことも……。
「失って初めて気づくなんて馬鹿のやることだと思ってたわ……」
よく他人が言っているのを横目にバカじゃないかと思っていたが自分もめでたくバカの仲間入りを果たした。むしろ俺がバカにしていた奴らよりも大馬鹿野郎かもしれない。
「はぁ……」
インタビューに笑顔で応えるデクを見ながらまたため息が零れた。
自分には向けられることがなくなった笑顔を見て決意する。
「デクが全部忘れちまったんなら。俺も忘れてやる」
出久から告白してくれたことも。
付き合ったことも。
デートも、キスも、セックスも……。
一度全部忘れる。
「……そんで、もう一回惚れさせてやる」
画面の中のインタビューを受ける出久の笑顔を見ながらそう宣言した。
「まずはオトモダチからだな」
何年かかるか判らない。
だが、俺を想ってくれていた年数を思えば大したことではない。
どうせ俺はデクしか好きになれねぇ。
掌から零れ落ちてからようやく気付く間抜けさにため息しか出ない。
それから俺はかつて出久がやってくれたようにオフの日を調べてトレーニングに誘うようになった。
以前のように現場終わりのデクに声をかければ、かけた相手が俺だと判った瞬間顔に断ろうと顔に書いてあるのに凹みながらトレーニングの提案した。
俺も出久もそろそろ仮想敵では物足りない戦闘力になってきている。
組手の相手を探すのも一苦労だ。
俺の提案にデクは少し考えて、君がいいならと頷いた。
嬉しくて思わずガッツポーズを取りそうになるのを必死で堪え、集合場所と時間を決めた。
ただ事務的に組手や新技を思う存分試して貸し切った時間が終わればそのまま仕事や帰宅をする。
トレーニングの間はプライベートな話などしないが、その間は出久の目が真っ直ぐ俺を見ていることが気持ちよかった。
そんなことを繰り返して何度目かに現場でやり取りするのも面倒だろうからと出久の方から連絡先の交換を提案して来た。
緩みそうな顔を必死に隠して俺はようやく出久の新しい連絡先を知ることが出来た。
トレーニングの時間が終わると出久は今日はありがとう、と礼を言って振り返りもせず帰っていく。
俺が先にトレーニングルームを出たことはない。
いつか、振り返りこの後ご飯でも、とか、一緒に帰らない?といつか言ってくれるのではないかと期待して落ち込む。
そんなことを繰り返している最中に思い出す。
前は出久からのトレーニングの誘いを断ったことはないが俺がトレーニングの終わりに出久を誘ったことは殆どない。同棲している時でも一緒に出掛けて一緒に帰るなんてことをしたのは多分両手で足りる回数しかない。
もしかしたら、あの時の出久も俺の背中を見ながら同じことを思っていたのではないだろうか……。
あいつがしてくれていたことを一つずつしてみるたびに思い知る。
出久が俺に惚れているのだから出久の方から愛情を示すべきだという傲慢な思い込みをほんの少しでも捨てて真っ直ぐ出久を見ていたら今頃俺らは同じ苗字を名乗って生活していたことだろう。
こうして行動をなぞるだけで出久の愛情を今更感じて失ったものの大きさを知る。
「はぁ……」
大きなため息が吐き出される。
「……本当に俺はクソ野郎だな」
出久の背中が完全に見えなくなってから俺も荷物を持って施設を出た。
「一生かかるかもな」
まぁ、それでもいい。
出久を想い続けられたらそれはそれで幸せなことかもしれないと考えてこの思考も出久はとっくに通り過ぎた後なんだろうなとまたため息が出た。
それから何度もトレーニングを繰り返す。
月に2~3度。定期的に繰り返すそれによって俺たちのコンビネーションと技のキレは格段に上がっていた。
強敵に対してコンビで撃破に向かうことも増え、俺達はヒーローとして接点を増やしていった。
当然そうなれば会話をする機会も増える。最近は普通に会話もできるようになって何なら空き時間の飯を一緒に食うくらいの間柄になった。
仲の悪い幼馴染から同じヒーロー、そして連携の取りやすい信頼しているヒーローに格上げになった。
ただし、信頼はヒーローとしてのみ。
相変わらず俺達はプライベートでの絡みは一切ない。
トレーニング後も現地集合、現地解散だ。
それでも出久の口調が柔らかくなった、仕事関係だが微笑んでくれるようになった。
少しずつ縮まる距離を感じる度嬉しくなる。
「じゃあ、今日は僕これで帰るね」
「おー」
「また現場でね」
出久が手を振って去っていく。こうして去り際の挨拶をしてくれるようにようやくなった。
君がこうして会話してくれるようになったのが嬉しくて。
そう言って笑っていた出久を思い出す。
「ああ、そうだな。確かに嬉しいな」
振り返した掌を見つめた。
俺は出久の通った軌跡を追っている。こんな風に出久も嬉しいと思ってくれていたのだろうか。
諦めるために一思いに振って欲しいので振ってください!
あの時の顔を思い出す。
振って、諦めて……。お前はその後どうするつもりだった?
俺があの時お前の告白に応えなかったら……? 今頃別の誰かの手を取っていた?
ぞわりと背中に寒気が走る。
俺には無理だ。
俺は諦められない。
思えばあの時デクを受け入れた時点で俺の気持ちなど判り切ったものだったのに。
「はぁ……」
幸せが逃げるんだってよ。
笑いながら上鳴がそう言って揶揄って来た言葉を思い出す。
幸せならとっくの昔に逃げてったわ……。
出久が去って行った方向を見てそう思った。
それから俺は変わらず出久と"友人"として過ごす。
トレーニングはオフだけじゃなくたまに早く上がった日にもやるようになった。
たまに驕るスポーツ飲料を断らず受取ってくれるようになった。
お返しもくれるようにもなった。
そんなことを幾度繰り返しただろうか。
季節をもう何度も繰り返し俺たちは随分年を重ねた。
「じゃあね、かっちゃん」
「おう」
先に着替えた出久が出口に向かって歩き出す。
今日もこれで終わり。いつものように姿が見えなくなるまで見送ろうと思っていると足が止まった。
「そうだ、この後用事がなければご飯食べない?」
「!!!」
振り向いた出久が柔らかく笑いながら俺を誘う。
「あっ、忙しいなら……」
「行く! 何食う!?」
驚きと嬉しさで返事が出来なかった俺は食い気味に返事をして駆け寄る。
「何がいい?」
「お肉! お肉!」
提案すると肉が食べたいとはしゃぎだす。
「焼肉行くか」
「わーい!」
もういい年なのに相変わらずクソ可愛い。
車に案内して出久を助手席に乗せた。
他愛もない会話をしながら車を走らせる。同棲していた頃こうして出久を乗せた時嬉しそうにはしゃぐデクに俺がうるせぇと一喝してからデクは車内で必要なこと以外話さなくなった。
自分で幸せを遠ざけておいてもっと寄越せと望む自分の矛盾した行動に今更気付くバカさ加減に何度目か判らないため息が出た。
「ん? 疲れてる? 帰る?」
俺のため息を耳ざとく聞きつけた出久が心配そうに視線を向けて来た。
「帰らねぇ。疲れてるわきゃねぇだろ」
「そっか、ならよかった」
お勧めの焼き肉屋に連れて行くとこんなところは初めてだと笑って喜んだ。
楽しそうに話しながら食事をする出久を目に焼き付ける。
出久のプライベートに触れるのは数年ぶりだ。
望めばいつだって手に入ったものは今とても遠く儚い。
それでも、手を伸ばすことはやめられない。
驕ると言えば僕が誘ったのだからとレジ前で譲らず結局割り勘になった。
送ると言って遠慮する出久を丸め込み、俺は出久が住んでいる場所を知ることが出来た。
俺たちが良く使うトレーニング施設から少し離れた閑静な住宅街のアパート。
傍に大きな公園と河川敷があってランニングの場所が豊富な立地だった。
この場所なら俺もランニングコースに出来ると密かに思った。
一度食事に行ったからかそれから何回かトレーニング終わりに一緒に食事をするようになった。
そして今俺は物凄く緊張している。
「デク」
トレーニング終わり、シャワーを浴びに行こうとしている出久を呼びとめる。
振り向いた出久に緊張したまま声をかけた。
「飯、いかね?」
俺から誘うのは初めてだ。緊張で喉が渇く。断られるだろう言葉を想像し少しでもショックを和らげようとしてしまう。
じっと目が合う。ほんの少しの間なのに永遠にも感じられた時間は出久の笑顔であっさりと終わった。
「うん、いいよ!」
「! そうか!」
「じゃあ、シャワー浴びたらロビーでね!」
「おう!」
よっしゃ、やった、やった!
何度も噛みしめるように笑顔を思い出し上機嫌で急ぎシャワーを浴びて出久を待った。
「どこいく?」
「とりあえず車乗れ」
「うん」
かっちゃんが連れて行ってくれるお店はどこも美味しいよね、とご機嫌の出久。
だが、今日連れて行くのは店ではない。
口数が少なくなってしまうのは緊張からだ。
車を駐車場に入れると出久が不思議そうな顔をした。
「かっちゃん?」
「俺んちで飯。作る」
「え!?」
勝己が車を降りるとつられたように出久も降りる。帰ると言われる前に腕を掴んでエレベーターに乗り込んだ。
「「……」」
無言のままエレベーターが止まり足早に玄関の前まで歩き鍵を開ける。
「あ、っと……でも、一緒に住んでる人がいるなら……」
「いねぇ、一人暮らしだ」
「そうなの?」
「ああ、だから遠慮しねぇで入れ」
躊躇う出久の背中を部屋の中に押し込んだ。
リビングまで連れてきてソファを指さす。
「ちっと待っとれ」
「手伝……!」
「いい、下準備は終っとる」
「……そっか」
「ヒーローニュースでもチェックしてろ」
そう言ってテレビをつけて促すと落ち着かないながらも出久はソファに歩いていく。
その背中を見守って出久が腰を下ろした場所に息を止めた。
ここは俺達が二人で暮らしていた部屋。
出久が出て行ってから殆ど変わっていない室内。古くなった家電が少し交換されたくらいで家具はあの時のまま。
出久が今座った場所は、かつて出久の定位置だった場所。
まるであの時が戻ってきたような錯覚を覚え目頭が熱くなった。
「……っ」
誤魔化す様に冷蔵庫から取り出した食材で料理を始めた。
「わー! いい匂い」
出来上がった料理をカウンターに並べていた匂いに釣られたのか出久が傍にいた。
その様が昔のままでまた心臓が鳴った。
「並べればいい?」
「おう」
返事をすれば出久は楽しそうに大皿を手に取ってテーブルに持っていく。
数年前は当たり前だった失ってしまった光景が今また見られると思っていなかった。
乱暴に目元を拭って最後の仕上げをする。
カウンターに置いたそれに出久が目を輝かせた。
「かつ丼だ!!」
「好きだろ」
「うん! かっちゃんありがとう!」
たったそれだけなのに最高に幸せだった。
かつ丼だけだとトレーニング終わりには足りないと野菜を中心に大皿三つ。
美味しい美味しいと幸せそうに食べる出久を目に焼き付ける。
食べきれなかったら残していいと言ったのだが二人で食べる食事は美味しくて結局完食してしまった。
「ごちそうさまでした! 美味しかった」
「そうかよ」
「僕お皿洗うね」
「俺がやる」
「いやいや、流石にこれだけ作ってもらって何もしないのは悪いよ……。あ、でも僕にキッチン触られたくないかな」
ごめんと手を引こうとする出久。俺に何か言われて寂しそうにしていたその顔と重なって慌てて遮った。
「じゃあ、頼むわ」
「! うん!」
流しに皿を移動してお湯で皿の汚れを落として……。
「!!」
次の出久の行動に驚く。
教えていないのにシンク下にある食洗器を開いて皿を並べ始めた。
デザイン重視で判りにくいそれを出久は躊躇うことなく開けてスイッチを入れたのだ。
「……」
俺を好きだった事を忘れてしまった出久。
でも、全てを忘れてしまったわけではないのだとまた目頭が熱くなった。
ハンドタオルで手を拭きながら出久は荷物を持ち上げた。
「じゃあ、ご馳走さま。僕帰るね」
「送る」
「大丈夫、駅すぐそこだったしまだ早いし自分で帰るよ」
送りたいとごねたいが出久はきっと頷かないだろう。
「わかった、気ぃつけて帰れ」
「うん」
玄関で靴を履く出久を見送る。
行かないで。ここに居て。
そう言いそうになるのを必死に押しとどめる。
「じゃあ、またね」
「ああ」
玄関の扉が閉まり気配が遠のく。
恋しくて、寂しくて、出久の名を呼びながら泣いた。
それから誘えばたまにだが部屋に来てくれるようになった。
泊っていくことはないが来てくれるだけで嬉しかった。
また部屋の中に出久がいる幸せをその度噛みしめた。
出久に会えることを期待して変えたランニングコース。
少しずつ時間帯を変えて何度かチャレンジしてようやく会えた。
偶然だなとしゃあしゃあと言い放ち、ランニングを一緒にこなす。
出久との接点を増やすことが出来てまた少し距離を縮められた。気がする。
そうこうしているうちに随分時間が流れた。
大きな公園は特に打ち合わせたわけではないが何となくそこで合流するようになっていた。
「デ……」
いつものように出久の姿を見つけ名を呼ぼうとしたがその前に出久が誰かに呼び止められた。
みすぼらしい服を着た壮年の男。ファンという感じではない。
近づけば随分馴れ馴れしい口調で話しかけている。
出久はと言えば心当たりがないのか少し困った顔で相手をしていた。
「デク、誰だ?」
「判らないんだ」
隣に立って小さく聞けばそう返って来た。知り合いのように親し気に話しかけて来るが記憶にないらしい。
たまにそういう変なファンもいるがどうにも話す内容が詳しすぎるところがあるので対応に困っているのだろう。
その言葉を聞きつけたのか、男が見下す様に嗤った。
「随分偉そうな口を聞くようになったなぁ? 出久?」
デクを本名で呼ぶのはもう俺の両親と引子さんくらいしかいない。
今の緑谷出久はヒーローデクなのだ。ただのファンならデクと呼ぶはずなのに。
「偉そうな口を聞くなぁ? 誰だテメェ??」
俺の言葉を無視して出久に話しかける。
「父親に随分な態度をとるようになったじゃないか。個性が出て調子に乗ったか?」
「「!!!」」
「随分羽振りが良さそうじゃないか、なぁ? 人気ヒーロー様?」
ニヤニヤと嫌な笑いを浮べさらに距離を詰めて来る。
「久しぶりに会ったお父さんにお小遣いくれよ」
凡そまともな職に就いているとは思えない格好。饐えた匂い。普通の生活をしているようには見えない。
「……」
出久の拳が強く握られ震えている。
出久と引子、二人を傷つけ壊した元凶。
何も言わない出久の様子に気付かないのかどうでもいいのか、蔑むような言葉を何度も出久に投げつける。
この男にとって出久はまだ四歳の無個性の子供のままなのだろう。
「引子はどうしてる? どうせまだ独り身なんだろ? 俺が戻ってやってもいいぞ?」
まるでいい提案だろうという様な男に出久は少し表情を硬くした。
「……結婚していただろう。またやるつもりなのか?」
「ハハハハ! 安心しろ、俺は独身だ。くっそ、ちょっと若い女に手を出しただけで心の狭い女だったぜ。その点引子は……」
どうやら新しい結婚相手ともまた浮気をして別れたらしい。
一体何度繰り返したのか。その所業のせいできっと何もかも失ったのだろうけれど未だ反省の一つもしていないらしい。ニヤついた顔がそれを証明しているように見えた。
下品な言葉が出久の母親を穢す。
出久の拳がギリと強く握りしめられたのが判った。
「お前が……」
抑えた低い声が出久の喉の奥から絞り出される。
「お前が、母を語るなぁぁ!!!」
びりびりとした殺気が怒気とともに男に叩きつけられた。
鳥は飛び去り猫や犬が逃げていく。異様な空気にまばらだった人影が公園から逃げるように遠ざかっていくのが見えた。
「おおお……おれは……一般人だ、ぞ。ヒーローが、一般人に暴力を……!」
特に拳を振り上げたわけでも動いたわけでもない。
だが、死線を潜って来た男の本物の殺気は生命を脅かされる本能的な恐怖を相手に与えた。
男は殺気をもろに叩きつけられ腰を抜かしている。股が濡れているところを見ると漏らしたらしい。
出久の口からギリと奥歯を噛みしめる音がした。
殴りたい、目の前の男を消し去ってしまいたい。そんな衝動を必死に抑えているのが判った。
「浮気ってさ」
抑揚のない声が真っ直ぐ男を突きさす。
「心の殺人なんだって。人を殺してるんだからさ……」
ゆっくりと、出久が嗤う。
ぞくりとした寒気が場を凍り付かせた。
「敵でいいよね?」
膨れ上がる殺気、男が悲鳴を上げ恐怖に駆られて個性を発動する。
口から吐き出された炎を見た瞬間、出久の口の端が歪な笑みを作った。
「デェェェク!」
「!!」
びくり、と出久の体が震えた。
俺はその隙に炎を爆破で相殺し男を取り押さえた。
「個性の不正使用、および傷害未遂で逮捕だ。デク、連絡……デェク!!」
強く呼べばようやくのろのろと顔をあげた。
「……」
無言で頷きスマホで警察に連絡を始めた出久を確認してから勝己は出久に聞こえないように声をかける。
「二度とデクの前に姿見せんな、引子さんにも近づくな。次にテメェを見かけたら俺がぶっ殺す。いいな?」
男の顔を脅す程度に爆破しながらそう言えば、ようやく俺が誰なのか気付いたのか怯えたように何度も頷いた。
警察に男を引き渡して振り返ると出久はどこかぼんやりとした顔をしていた。
「デク」
呼ぶとまたびくりと体を震わせた。
「来い」
腕を掴んでまだ早い朝の道を歩く。
ここからなら俺の家の方が近い。何も言わずただついてくるのに少し安心しながら部屋に連れて行った。
「シャワー浴びて来い」
バスタオルを押し付けて風呂場に押しやる。
やがてのろのろと行動を起こし服を脱ぎだしたのを見て浴室のドアを閉めた。
シャワーの音に混じって泣く声が聞こえたが俺はそれを知らないふりをして朝食を作った。
「お風呂、ありがとう」
目元はまだ赤く、泣いていたのがもろバレだったがそれに触れずテーブルに促した。
「食え」
「……うん」
無言でもそもそと食べ物を口に運ぶ出久の首からタオルを取って髪を拭く。
水気を取り去ってもまだ食べている出久の前に座って同じように朝食を食べた。
「デク、今日仕事は?」
「午後から……」
「そうか、俺はもう出る。てめェは今日休め」
「え?」
「ひっでぇ顔色。ンな顔で人を助けられっかよ」
頬を両手で包むように撫でるとされるがまま顔をあげた。
「……」
青を通り越して土気色をしている出久にそう言えば自覚はあるのか嫌がるように俯いた。
「てめェがおらん穴は俺が埋め殺してきてやっからて大人しく寝てろ」
そして目の前で出久の事務所に電話をかけ休みをもぎ取る。
「今日は招集も来ねぇ、ここでもいい。布団で寝てぇなら隣の部屋のベッドを使え。この部屋に居ろ。いいな?」
何度か言えばのろのろと頷くのが見えたので俺は支度をして部屋をでた。
大した敵騒ぎもなく定時で仕事を終えた俺は急いで家に帰る。
もしかしたらもう自宅に戻ってしまったかもしれないと思いつつ鍵をドアに挿すと鍵がかかっている手応えがした。
鍵は俺が持って出かけたから中にいるはずと急いで靴を脱いでリビングを覗いた。
出久は朝見たまま同じ格好でソファに座ってぼんやりとしていた。
「灯りぐれぇつけろ。飯、食うだろ」
リビングの明かりのスイッチを入れて中に入る。
「今用意す……」
「ねぇ、かっちゃん」
ゆっくりと出久が顔をあげた。
「何だ?」
買い物袋をテーブルに置いて出久の傍に歩み寄る。
「……僕、引退しようと思うんだ」
俺は出久の前でしゃがんで視線を合わせる。
「理由を言え」
OFAはまだ衰えていない。出久の体もまだまだ成長の余地を残している。ヒーローとしてようやく脂が乗って来た最高の状態。今引退する理由は個性、肉体に関してはあり得ない。
「……」
「言え」
優しく両手で頬を包むと、出久の顔が歪み涙が零れた。
「僕は、人を殺そうとした……! そんなやつが、ヒーローをやっていていいはずがない。大事なOFAを預かっていてはいけないんだ」
やはりそうか、と思った。
出久はどちらかといえば殺気をむき出しにしないタイプの男だ。
どんな敵にでも一度言葉で説得を試みるような甘い男。
優しく、許すことを知っている強いやつ。
そんなやつが殺したいほど憎い人間が目の前に現れ大切な母親を貶しめた。
さぞかし屈辱だっただろう。
怒りに我を忘れ殺気を叩き付け、恐怖に駆られた男が個性を使った瞬間思ったのだろう。
個性を使ったのだからこの男を殴る理由が出来た、と。
出久は喜んでしまったのだ、あの一瞬。
俺があの時大声で出久を呼んだのはそれに気づいたからだ。
出久の手はあんな汚い男を殴るためのものではない。
たくさんの市民を救う手だ。殴り穢れた拳をきっと出久は揮えなくなる。
だから止めた。
「てめェは人を殺してねぇ」
握りしめる右手の拳を両手で包む。
「この手は、誰も殺してねぇ」
「でも……殺そうとした。殺したいって思ってしまった」
「ンなもん、殺してぇなんざ俺なんか何億回も思っとるわ。てめェがヒーロー失格なら俺はとっくに敵になっとる」
「……」
「俺は敵か?」
そう問いかければふるふると首を横に振った。
ぽたぽたと涙が落ちて来る。
「なら、てめェはヒーローのままだわ」
「かっちゃん、かっちゃん」
名前を呼んで号泣する出久を抱きしめ頭を撫でる。
「人間だからな、生きてりゃ殺してぇくれぇ憎いやつだって出て来ンだろ」
「……ひ、っ……ぅ」
しゃくりあげる出久の背中を優しく撫でる。
「でも、それを実行するかしねぇかで生きざまは変わる。てめェにゃ死んだって人は殺せねぇ。俺が保証してやる。でも……もし殺っちまいそうになったら……。俺が止めてやる。てめェがもう充分だと思うまでヒーローやれるために俺が何でもやってやる」
出久の一番の願いを叶えるのは俺でありたい。秘密の共有者の俺だけにそれが許されている。だから絶対譲らない。そんな思いを込めて伝えるとまた出久は大粒の涙を零した。
「か、っちゃ……ん」
「だからまだ安心してヒーロー続けてろや」
「……あり、がと……っ」
きっと鬱々としたままずっとヒーローを続ける資格がないとそんなことを考えながら今日を過ごしたのだろう。
憧れのオールマイトから預かった大切な個性。正しいヒーローでありたい。憧れを穢さないようずっと努力してきたのを見て来た。
それを壊してしまいそうになった自分を一日責めて傷ついて……。
もう大丈夫なのだと言うように背中をゆっくり撫で続ける。
今朝逮捕した男はしばらく刑務所に収容されるという。身元を引き受ける人間は誰もいない。
外に出たとしてまともな職に就くことなく朽ちていくのだろう。性根の腐った人間はどこまで行っても腐ったまま。本質が変わらない限り変わることは出来ない。
だが、それは出久には何の責もない。全てはあの男が選んで進んだ人生。
あの男の価値は緑谷出久をこの世に生み出す手伝いをした、たったそれだけ。
あいつが無価値だと嘲笑い捨てたものは最高のヒーローになった。ざまあみろだ。
やがて泣き疲れた出久は腕の中で眠ってしまった。
俺は出久を横抱きに抱き上げて寝室へ運ぶ。あの頃と変わらない大きなベッドに寝かせて髪を撫でる。
「ただ、俺はてめェにあんな強い感情を向けてもらえるあいつをちょっと羨ましいと思っちまった」
殺したいと思うほど強い感情。好きの反対は無関心。
出久は俺に対して向けてくれる感情を失くしてしまった。
今はなんとか友人くらいにはなってくれたと思う……。
それでも遠い……。
「好きだ。デク」
好きだ、ずっと好きだった。
今更だ。出久が求めてくれる時に返せていれば……。
俺の人生の後悔は全て出久に絡んだことばかりだ。
撫でる手を止めて拳を握り締めた。
ずるいと思ったけれどベッドの上で眠る出久の姿にこみ上げる感情を抑えることが出来ず重ねるだけのキスをした。
目を開けると知らない部屋だった。
散々泣いた瞼が重くて持ち上がらない。でも頭は痛いのに、気持ちはすっきりしていた。
長い間せき止められていた感情が綺麗に洗い流された。そんな感じだった。
父親だったあの男、子供の頃は大きく強大でとても恐ろしかった。
でも、もう何も怖くない。母は今幸せだと笑ってくれている。僕も、今ヒーローとして生きている。
僕らは、もう幸せになれた。あんな男のことなど意識の端に残す必要もないほど充実している。
もう、あの人は忘れていいんだ、って思えた。
思い切り泣いたらそんな風に思えるようになった。
小さくみすぼらしくなったあの男。僕の父親はもう死んだ。
僕らはもう家族でも何でもない。だから囚われる必要はないのだと、解放感に満ち溢れた気分になった。
「うぅ……」
腫れぼったい目を押さえながら布団から出てドアを開くと美味しそうな匂いがした。
なんだか、酷く懐かしい。
「起きたんか」
声をかけられ自然とうんと頷いた。
「頭痛い。目が開かない」
「待ってろ」
その声の主を確かめることもせず僕は頷き何となく視界に見えるソファに座った。
「これでも当てておけ」
「うわ……気持ちいい……」
顔に当てられた冷たいタオルの感触にホッと息をつく。
「泣き過ぎだ」
くしゃりと頭を撫でられて何だかまた泣きたい気分になった。なんでだろう。
しばらく目の上にタオルを乗せたままぼんやりする。
「って! 今何時!? 仕事!!」
「バカ、まだ夜だわ」
慌てて立ち上がった僕にかっちゃんが笑いながら近づいてくる。
「ほら、スマホ」
「あ、ありがと」
時間を見ればまだ19時を少し回ったくらい。
「吃驚した……」
「飯が出来るまでまだ座ってろ」
肩を押されまたソファに座る。かっちゃんは落ちてしまったタオルを回収して行き洗い直してまた冷たくなったタオルを渡してくれた。
「……かっちゃん、優しくなったね」
前はこんな風にしてくれたことなんてなかったのに。
そんな風に思って、前ってなんだろうと思った。
かっちゃんの部屋に来るようになったのは最近の話のはずなのに。
「大事な奴には優しくすんだろ」
「大事……??」
「大事な……」
そういってかっちゃんの言葉が止まって言い淀んで再び口を開いた。
「幼馴染だろ」
「……そっか」
僕らは人生の随分な時間をかけてようやく普通の友人みたいな関係になった。
小さい頃躍起になってヒーローになりたいという僕を何度も否定したかっちゃん。
どうしてもヒーローになりたかった僕は諦められず随分と関係は拗れてしまった。
僕はオールマイトから個性を引き継ぎ雄英に入って……。
「??」
なんだか、頭の中のパーツが足りない気がした。
所々思い出す出来事が抜けている。
決め手は卒業してからアメリカに行くまでの間の出来事が殆ど思い出せないことに気付いた。
「ねぇ、かっちゃん」
「何だ」
「僕さ、卒業してからアメリカ行くまで何してたか知ってる?」
そう聞いた瞬間ガシャンと何かが床に落ちた音がした。
「え!? 大丈夫!?」
「大丈夫だわ。来ンな。危ねぇ」
どうやら掴んだ食器を落としてしまったようだ。
「掃除機持って来ようか?」
そう言って立ち上がろうとしてはた、と何故か掃除機がある場所が判るのかと思った。
「……ねぇ、かっちゃん」
「何だ」
破片を集めている勝己に声をかける。
「掃除機ってさあそこの収納の中?」
「……」
聞くと何故か勝己はやっぱり、という顔をした。
「何で? 何で僕知ってるの?」
じわじわと思い出す。この部屋の間取り。
さっき寝ていたのが寝室、その隣にもう一部屋。向かいにトイレと浴室と……。
「何で……?」
「デク……」
近づいてきたかっちゃんが僕の目を真っ直ぐ見る。
まるで何かを確かめるように覗き込む。
そして深呼吸するように深く息を吸った後。
「好きだ」
真剣な顔つきでそう言った。
「!!」
体中が心臓になったみたいに心の奥底から揺さぶられるような感覚がした。
一瞬眩暈がする。
「俺と、結婚してくれ」
「付き合ってくれじゃなくて?」
声が擦れている。全身が心臓になったみたいに鼓動が止まらない。
「結婚してくれ」
左手を持ち上げられて指先に口付けられた。その間も目は僕を見たまま一瞬も外れない。
どんな些細なことも見逃さない。そんな意志が感じられた。
「僕でいいの?」
ドキドキが止まらない。この鼓動はなんだ? わからない。
「デクがいい。デクしかいらねぇ」
「……」
「……」
じっとかっちゃんが僕の返事を待っている。
「……いつから?」
「昔から……つっても気づいたんは最近だがな。とんだクソ下水野郎だったわ、俺……」
自嘲するように笑う。
「デク……」
愛し気に呼ばれるその名前は本当に僕の物か?
相変わらず見つめ合ったまま視線は逸れない。
激しい鼓動は止まらない。このドキドキを、僕は知っている気がする。
「デク」
何だかかっちゃんが泣いているような気がしてそっと抱きしめた。
「……! デク!」
息を飲む気配の後強く抱きしめられた。
「デク、デク……っ」
何度も僕の名前を呼ぶ。かき抱くみたいに背中と頭の後ろに手が回る。
鼻を啜る音がする。かっちゃんもこんな風に泣くんだとどこか麻痺した感覚で慰めるみたいに背中を撫でた。
「デク……好きだ。好きなんだ。浮気なんてしてねぇ。妬いて欲しかったんだ。デク以外誰にも触れてねぇ」
懺悔のように吐き出される言葉。
何のことかわからない、はずなのに。
僕は、ずっとその言葉とこの温かさを待っていた気がした……。
顔を上げればかっちゃんの濡れた瞳と視線がぶつかってぽろりと零れた涙が僕の頬に落ちて来た。
……そうだ。
僕も、かっちゃんが……。
「結婚してくれ」
「いいよ」
そう返事をしたらやっと動悸が収まった。
「!! 本当か!?」
かっちゃんの顔がふわりと幸せそうに微笑む。
「!!!」
その瞬間記憶が洪水のように戻って来た。
「……っ」
あまりの情報量の多さにくらりと体が傾いだ。
「おい、どうした!!」
よろける僕を受け止めてかっちゃんが焦ったように僕を抱きしめる。
「僕さ……」
「何だ」
「浮気する人、嫌いなの」
「……ああ」
「他の人、好きになってもいいから。今度は別れてからにして?」
「!! お前……!」
「約束してくれなきゃ結婚しない」
「誰も! てめェ以外好きになってねぇ!」
そう言うとあの浮気騒動の全貌を懺悔するように言い募る。
好きだと、愛してると何度も繰り返し僕を抱きしめ泣くのを見ているうちに僕の抜けていた記憶がすっかりと戻ってきていた。
「かっちゃんも僕もバカだね」
かっちゃんは自分の気持ちを認められず。僕はかっちゃんへぶつかっていくことを恐れた。
あの頃どちらが歩み寄ったとして結果は今のような晴れた気持ちでいられたかは確信が持てない。
あの頃の僕らの関係はとても歪だった。必要な時間だったと僕は思う。
「約束してくれるの?」
「し殺す。だから結婚……!」
「うん。いいよ。結婚しよ」
言った瞬間唇が柔らかい感触で塞がれた。