屋烏には及ばず「最高だな」
堪らない、といった様子でクレトが恍惚と呟いた。柔らかな毛の生え揃った表面をゆったり手の平で這いながら、下腹の、少し膨らみを湛えたそこへまで迷いなく指を滑らせると、戯れにぐっ、力を込めて押し込んでみる。遠慮無しに掛けられた力に怯えでもしたか、甲高くか細い声がクウ、と部屋に響いた。
力を抜いた指先をもっちりと押し返す弾力、その心地の好い愛撫の施しと感触は、いつまで経ってもクレトの好奇を飽きさせないらしい。両手の手で抱き締めたそれに頬擦りをしながら、今一度、最高だと声を漏らした。
「柔軟剤の香りも堪らないし、クリーニングを経て表面の褪せた汚れもすっかり無くなった。乾燥の具合も申し訳ない。中の綿はお前に買って貰ったあの時と寸分違わぬフカフカの柔らかさ! なあエキニシィ、お前も抱き締めてみないか?」
鯨のぬいぐるみ。
「………いいよ別に」
にべもなくエキニシィは、クレトから押しつけられたぬいぐるみを突き返した。ああ、可哀想に。大袈裟に言いながら細腕に抱かれたそれを、殺意のこもった瞳が睨み付ける。
「何だ、随分と不機嫌ではないか。心配をせずとも、私の中の最高は常にお前なのに」
「……じゃあ聞くけど? お前の最高って幾つあんのさ」
「沢山あるが、本命の最高は一つしかないのだ」
すなわち、お前。
クレトの言葉にエキニシィが何かを言いかけようとしたが、言うには憚れるか、文脈を汲んで欲しいのか。その唇をぐっと噛み締めたまま俯いてしまった。
寝室のダブルベッドの上で、何の事のないやりとり。クレトはその身を横たえて、エキニシィは傍らに腰をかけて。
勿体ぶってぬいぐるみを愛でているのが、心底不愉快だと言いたいのが伝わってくる。買ってくれた張本人が、そんな顔をしてどうするのか。クレトは眉を下げながら、膨れっ面にどす黒い影を落としたエキニシィへ、そうっと手を伸ばした。名残惜しくもぬいぐるみは頭の上に投げておいて、彼の左肩に自身の真っ白な手を重ねる。男性的で逞しい体つきは、そうした体格と全く無縁なクレトが焦がれて止まないものであった。実の所は自分も筋骨隆々になりたいだとか、その手の憧れとは少し違うのだが。
「なあ、例えばぬいぐるみが勃起して、私を貫いたりするものかい? 猛々しく荒ぶったりなどして、私に手酷い噛み痕を残すものかい?」
「何の話」
「お前としている時の事だよ」
指先でリズムを取りながら、クレトは努めて、淡々と答えた。人差し指、中指。順繰りにエキニシィの肩をしばらく跳び跳ねて、最後は左の鎖骨から腕までを、怠慢な動きで撫で上げる。襟元をめくり、僅かに見えるばかりだった浅黒い肌にも指を這わせて。
「ちょっ、と……。クレト」
軽く身動ぎをしたエキニシィが渇いた唇を舐めるのを見逃さなかった。クレトを諫めてかけた声は、何処か平静さに欠けて、震えて聞こえる。
「う……」
「お前は、ずっと恥ずかしがるけれど」
明らかに、明け透けな欲求を見せびらかしながら。骨の窪みやぬくもりを確かめた頃、不意にクレトが、熱のこもった吐息をこぼした。
今は、言葉のやり取りの上だから勝てる。
(有無を言わさず組み敷かれたならば、私は絶対に勝てない)
エキニシィは息をするのも忘れて生唾を呑み込んだ。目敏く認めてしまったからだ。切なげな熱を吐いて、期待に震えた痩躯を。
「拒否権も与えられないまま心の奥底からだらしなく、溶かされて……」
くすんだ緑の瞳にはいつの間にか潤んだ涙の膜が張っており、瞬きでこぼれ落ちた雫が、白い頬を伝っていく。その瞬間を微動だにせず凝視していたエキニシィに、クレトは
枕辺のぬいぐるみに一度視線を向けてから、艶然と微笑んだ。
「恋しくなると、殊更に愛でたくなる。尻尾とヒレの部分、あれに触り心地が近くて」
「あれ…」
「私が触れると、すぐに硬くなる」
クレトの手が力を失ってするりと降りていくのを、唐突に熱を帯びた手が握りしめる。エキニシィだ。握り潰しかねない強さで重ねられた体温は、ともすれば火傷をしそうな熱さにまで達している。
「………あんまり、」
項垂れていたままの頭が、ゆるりと上がり、ぎこちなく動いた首は、クレトの方をようやっと向いた。
「うん」
「茶化しでも、そういう事言うと……」
「抱いてくれと懇願しなければ伝わらないのか」
シーツの大きく擦れる音が耳に入り、次いで両の細い手首が、熱い力に締め付けられる。仰向けになったまま以前として動かないクレトの身体に、大きな影がのしかかった。体重をかけて動きを阻害し、逃げ場を無くす。これは極めて動物的な、獲物を逃がすまいとする捕食者の行動に似ていた。
「クレト」
名前を呼ばれて顔を上げる。仕留めた獲物を見下ろす赤紫の瞳。先ほどの仏頂面は何処へやら、今はキラキラ生き生きと、獰猛な輝きに満ちていた。行儀よく傍らに座った状態から、手遊びに夢中だったクレトの手を押さえつけて、その痩せた身体に跨がるまでの動き、時間。全て目で見てどうにでも対応出来た行動の一つ一つを、クレトは何もしなかった。ただ二人の間の、身一つ空いた空間があまりにも寂しかったか、中々距離を詰めてくれないエキニシィを抱き寄せて隙間なく埋め合わせる。
背中に回した手で彼の体温と、鼻腔に届く少し汗ばんだ肌の香りを堪能しながら、背骨のラインから臀部へと指を滑らせる。クレトに覆い被さる身体が、ビクリと痙攣した。
こういうのは、ぬいぐるみ相手には出来ない事だ。エキニシィがそうであるように、クレトはこの男と触れ合うと、凍える身体がにわかに熱く、重く、疼いてこそばゆくなる。恋しいと思う事さえ。
忙しなく暴れて止まらない男の心臓の鼓動を右胸に感じながら、クレトが唇を開いた。
「お前に触れるのは何より好きだ。……触られるのは、もっとね」
最後の方は殆ど掠れて消えかけていたのを、一字一句まで逃さぬよう、瞬きも忘れたエキニシィが聞き届けたか。殆ど重なりあっていた上体を、肘だけ立ててほんの少しだけ起こした。蒼白の肌色に、今は浮わついた熱を帯びたクレトを見つめる表情が、少しだけ綻んで見える。悔しさと、愉悦を併せたような笑み。
「それにしてもお前、ぬいぐるみに嫉妬な、ん……ぅ──」
「もういいってば…」
照れ隠しに軽口を叩こうとする唇が、エキニシィにやっと塞がれた。
二人の心が溶け合っていく感覚、呼吸の一つ一つ、意識の形までどろりと呑み込まれていく気持ち良さは、狩りのひとときにも似て、やはり堪らない。性急に身体を這い回る手に追いたてられて、凪いでいた感情が湯だってうねり、昂っていく。クレトは自身の内がはしたなく歓喜していくのを隠したくて、強く強く、瞼を閉ざした。