嘘月ふたり「ああ……」
いよいよ寝入り端に入るかという頃合いになって、隣で既に眠っていたかと思われたクレトが、ふと小さな声を漏らした。感嘆と言い表すといささか大袈裟であるし、驚嘆と形容するほど衝撃的な反応でもない。何か些細な発見を見出だした時に思わず溢す、ほんの小さな気付きの声。
毛布の中からするりと長い腕が伸ばされて、それは窓の向こうを指差した。どうかした?指の差す方をちらりと見た後、捲られた袖を手首まで伸ばしてやりながらエキニシィが尋ねる。触れ合った手指を互いに絡めとり、温かい毛布の中に二人分の手が潜っていった。
今や当たり前となった振る舞い、温もり。安堵の吐息を吐きながら、クレトは繋がれた手を強く握りしめる。
「月が、綺麗だなと」
「月?」
首だけを軽くもたげて今一度窓へと目をやる。当然ながらクレトの言うような"月"は、ドーム状に広がる人工の夜空の何処にも在りはしない。この空に月と勘違いしたものがあるとするならば、街を覆うワイヤーフレームの、線と線の交点に見られる仄かな光であろうか。
等間隔に置かれた交点の光は、随分前に住人から要望のあった「星空を見ているような気分を味わいたい」というリクエストを、休息区担当の前上位者が反映したのだという。結果としてこの街の夜は、そのわざとらしさから目を瞑りさえすれば、都会にありながらもそれなりに綺麗な星空を堪能出来るようになったという訳だ。
もっともエキニシィは、上から何かが落ちてくる気配の無い限り、あるいは誰かに促されでもしない限り、意味もなく空を見上げようなどとは思わない性分だったが。
(馬鹿馬鹿しい)
雰囲気だけ、気分だけ。気晴らしに空を見上げて、だから何だと言うのか。
本音は馬鹿馬鹿しい、まさにそれに尽きるが、エキニシィは自分の思う所の殆どを、クレトには告げないつもりでいた。なのでさも興味ありげに暗い空を見渡してから、
「どの辺り?」などと言ってとぼけてみせる。得意げに、どこどこだよ、と得意げに鼻を鳴らすのを期待して。
──少しばかりの静寂の後、声のトーンを落としたクレトが、意外な言葉を囁いた。
「実はね……、嘘なんだよ」
「ん?」
「嘘さ、嘘。朝に読んだ本の中にああいう言い回しがあったので、お前に伝えてみたかったんだ」
月が綺麗だね、と。教えて聞かせるように話したクレトの声音は、しっとりとした色気を伴って耳の中に反響した。
エキニシィにとってその言葉は、何も今日、初めて聞いた言葉ではない。最後に聞いたのは随分前の話であるが、追憶の一部に刻まれたその記憶は、特に鮮明に憶えているのだ。
野宿気分にと山へ出掛けたあの日。魚を釣ったり山菜を採ったり、とにかく夜まで遊んで遊んで、寝る前に、シュラフを並べて見上げた満月。男は確かに、エキニシィに向かってそう言ったのだ。
「綺麗な月だ」
恐らくはあの時の、年端もいかない子供だった自分にそんな事を言った彼の男も、文脈に隠した意図を汲んで欲しかったに違いなかったろう。当時のエキニシィは、まさかあの黒髪の彼が自分にそうした意味合いの好意があったなどと分かろう筈もなく、月が綺麗だなと溢したその言葉のそのままに月を見上げながら、ごく適当に頷いただけだったが。
「はあ~…」
シュラフから上体を起こして落胆した男の黒髪は、淡い月の光を受けて濡れ鴉色の最も美しい輝きを放っていた。
「……で、どうなんだい?」
いつの間にか固く繋いだ手と手をすり抜けて、冷たい細指がエキニシィの手首から腕をするするとくすぐっている。暗がりからクレトの表情は推し測れないが、恐らくはきっと、からかっているように思えた。つついては離れていく指の感触に、エキニシィは観念したかのように笑った。カラリと乾いた、それでも優しい音をこぼして。
「好きに決まってるだろ」