泥濘 重々しく地面に叩きつけられる雨の音は無視出来ない程に強さと勢いを増していき、耳の奥にまで容赦なく、際限なく押し込まれていく。眠りを妨げられた不快感と、自分の居場所さえ押し流していってしまうのではないかという、大袈裟で、漠然とした恐怖。豪雨に見舞われる夜などこれまで何度もあっただろうに、やはりその度心細さに苛まれては心の中でうるさい、早く止めと怒鳴りながら眠気が訪れるのを待っていた。
エキニシィは元より喧騒や騒音を好む男ではなかったが、十五歳と少しの頃、思わぬトラブルを経て出会った男と生活を共にする内に一層騒がしさを避けるようになった。今となっては活気付いた人々の声から遠く離れ、日用品を取り揃える店の一件も見つからないような寂れた町のアパートの一室を借りて、こうして二人寄り添うように生きているのである。これはエキニシィだけの提案ではなく、同じく静寂と安寧を好む男が、かねてより考えていた事だったらしい。
一年程前に唐突に「また遠くへ行こう」と誘われて、あとは流れのままに。
顔まですっぽり毛布に隠しながら、まさぐるように右手を伸ばす。シーツを掻いて指を滑らせた先に温かい手の感触を感じると、エキニシィは安堵し、その手の平に自分の手を絡める。ややあって、繋がれた方の手もエキニシィの手を柔く握り返した。
「怖い?」
暗闇と豪雨の中から聴こえてくる、優しい男の声。こちらを気遣ってかけられた、その言葉の心強さと言ったら。先程から雨音は激しさを増していく一方で、この古いアパートは雨漏りしないだろうかとか、近くの川が氾濫したらどうしようかとか、どうにもならないネガティブな考えがよぎってばかり。ほんの少しだけ、泣きそうになっていたのだ。
「怖い」
被った毛布の隙間、閉じた瞼の向こうから度々瞬く光、次いで空気を切り裂き、轟音が唸りをあげる。雷まで鳴り始めたらしい。自分と男、二人しかいない空間が音を立て、足元から崩れていくイメージが頭に浮かんだ。怖い、怖くて仕方ない。堪らず男のいる方へと身を滑らせて、空いた左手でその痩躯を抱き寄せた。
過去、血の通った両親に対し、たとえ幼かった頃でさえこんな真似はした事はない。恥じらいなんぞをかなぐり捨て、求めるままに男を頼れるのは、こいつなら自分を受け入れてくれる、という確固たる信頼を抱いているからだ。
そうして彼の願う通りに、男は怯えてすがるエキニシィを拒む事なく抱き締めて、震える背中をさすってくれた。
隙間なく、正しくは互いのシャツ越しにだが、触れあった身体はとても温かくて心地が好い。首筋に埋まるように寄せられた男の唇から漏れる、微かな呼気を感じて深い深い溜息をつく。
次第に遠ざかっていく雷雨の気配を追いながら、しかしエキニシィはそこから先を考えるのをやめる。思考を遮る靄のような、安らかな眠気が、ようやく訪れた。
「嘘みたいに晴れたな」
カーテンの隙間から細く射し込む光は、それだけで快晴の空模様を予見させる。無邪気な期待を寄せて男がカーテンを引いてみれば、期待通りに眩しい日光が、部屋の中を明るく照らした。目に突き刺さる光の刺激に少しだけ目を伏せて、次いで窓を開け放つ。少しだけ湿り気を帯びた、しかし新鮮な涼しい空気が室内を満たしていった。男は軽い伸びと深呼吸とを繰り返して、切り替えも早く先程まで寝ていたダブルベッドへと踵を返す。
一人分空いたスペース、そこには腰に軽く毛布をかけた状態でエキニシィが静かに寝息を立てていた。昔から身体を緩く丸めて眠る、胎児のような寝相が多いのだが、今日は珍しく、リラックスしている事が目に見えて分かる仰向けのスタイルだった。
(男前になったなあ)
一層好みの顔になった。傍らに腰を下ろしてそっと寝顔を覗き込む。
(変な虫がつかないように対策しておかないと)
初めて出会ったあの日から、もう随分と経つ。幼さかった彼の顔立ちは年を追う毎に精悍さを増し、大人のそれへと成熟していった。昔々に感じていた、甘えたざかりの子犬にも似た愛らしさは流石に無くなってしまったが、そうであっても昨日のように、時折懐かしい弱さや甘えを自分に見せてくれるのは、純粋に嬉しいと思っている。
微かに緩む口元を引き結び、静かに、そっとエキニシィの長髪に指を通した。深みのある臙脂色の髪はサラサラとした感触を伴って、指の間を滑り落ちていく。
男はエキニシィの寝顔を見るのが好きだった。無防備に眠る姿を眺めているだけで安堵する。当然ながら、起きて、言葉を交わして、無愛想にしかめた表情と向き合うのも、好ましくはあったが。
「ずーっと、」
このままでも、構わないんだぞ。喉元にまで出かかった言葉は、静かに呑み込んだ。