明晰夢/白昼夢/夢うつつ明晰夢
最初はらしくもない冗談をかまされたか、或いは細やかな誘いを受けたのかという淡い期待に目線をやってみたのだが、結果はいずれも、違ったらしい。
胸元に寄りかかった重み、指を通せばシャラリと音を奏でそうな、艶やかな白い髪。ごくさりげない動作で肩を抱き、ほんの少し、ほんの少しだけ、重心をこちらに傾けた。クラリと崩れた上体を慎重に自分の身体で支え、膝の上に抱える形で横たえる。うなじに手を回して苦しくないように頭を抱えてやると、先程まで俯いて見えなかった表情がはっきりと見て取れた。
「……、ん……」
鼻にかかる甘い声。晒された喉仏がこくりと動き、閉じられた瞼は開かない。けれど、穏やかな呼気を溢して眠る姿は、本当に安らかなものに見えた。
侍騎士アマド
ヴァイアスはすぐに落胆した。この光景がまやかしである事に気付いてしまったからだ。互いの薬指を飾る誓いの証など立てた覚えはなく、ましてや、この男は自分の前で、こんな無防備な甘えかたはしない。例えば死にかけてぼろぼろに傷付いた飼い猫が、最期にかろうじて飼い主にすり寄るような、そういう時でしか甘えや弱さを見せられない男なのだ。少なくとも、ヴァイアスが知りうる限りの彼は。
(夢にしたって、あんまりじゃねえか。なあリウビア?)
悪態をついた所で腕に抱かれたリウビアが目を覚ます気配はなく、夢の中のヴァイアスが、その手を無下にほどく事も出来なかった。半ばなにもかもどうでもよくなり、手慰みに、自由な左手でスマートフォンを弄る事にする。あくまでも、眠っているリウビアを起こしたりはしないように。
(お前は何にも悪くないし)
せめて夢の中、彼自身の夢ですらない、彼だけれど。
指先で画面をタップしながら、嫌でも視界に入る指輪を何とはなしに見つめる。黒々とした、小さな輪っか。特筆すべき点はなんにもないし、目に見える特徴もこれ以上ない。ただ分かるのは、指のサイズよりも一回り小さな指輪を無理やり嵌めたかと錯覚しかける、締め付けの強さ。ヴァイアスは笑みを浮かべて、それに静かに、唇を寄せた。
目が覚めた時、これが二人の指に、残っていたらいいのに。
*
「……って夢を見てさ。久しぶりに追憶じゃないのを見れたのは良いとして、まぁ酷なもんを見せられたなと」
「ヴァイアス。神妙な面持ちで来たものだから心配になって耳を傾けてみたら、オチはそれか」
相変わらずお熱い事だね。むっちりと肉のまとわりついた親指と人差し指が、かさついた唇から煙草を引き抜く。
口と鼻から勢いよく、貫禄をたたえて紫煙を吐き出した少年は、その色眼鏡のキズを外さない限りは、誰の目を通しても見た目は子供にしか見えなかった。特徴的なシルエットを象って爆発している黄緑色の癖毛を痒そうに数度掻きながら煙草を咥え直し、少年は再び肺に煙を蓄える。
「まあしかし、なんだ」
彼がそう言いながら胸に下げた名札が揺れるのを、それとなく眺める。ヴァイアスにとっては、今廊下で共に有害極まる嗜好性スモッグ(廊下をすれ違い様に研究員の数名が煙草の事をそう言っていた)を燻らせているこの人物は見知った喫煙仲間で、彼の名前はイレモという。
イレモは勿体ぶった間を空けながら、下唇を突き出して煙を吐く。吐き出された煙を噛みながらヴァイアスを見上げた。
「君の方は、ある意味本気でリウビア君にお熱と見えるが? もしそうなら、今のうちに頭を冷やしておけ。僕の知りうる限り、彼にも君にも、そういう情は存在しないと推測してる。まあ今まで通り、その場しのぎの関係なら止めやしないが」
場所と相手を選んでくれれば。含みを感じさせるイレモの言に、ヴァイアスの表情がそれまで飄々としたそれから、訝しげなものに変わった。イレモの深海色の瞳が、眼鏡越しにヴァイアスを見つめる。
「使われてない資料室から若い研究員と治験協力者が、間隔を空けて三人入り、出てきたのをドローン越しに見た事がある。最後に出てきたのは歩くのもやっとな君だった。リウビア君に見られたらどう弁明を?」
「ああ」
ヴァイアスは唇に咥えていた煙草を床に吐き捨てて、踏み潰した。
「こってり搾られたよ」
白昼夢
禁煙エリアの表示もお構い無しに喫煙者が堂々一服するような通路を、率先して通る研究員は少ない。大体は嫌煙家か、嗅覚の発達に伴って煙草独特の臭気を避けたがるからだ。ラボの中は改築を経る毎に内装が入り組んでいき、それに伴って各エリアへの最短ルートも都度更新されていく。故に、通行可能な道がやたらと多いのだ。散歩気分やちょっとした冒険心か、利便性に多少欠けたりデザインが些か古めかしくなったそこを歩く人間も少なからずいる事は確認しているので、現状、通路の統一化については考えていない。ある時から、廊下で清々しく煙草を吸う男が現れてからはそこに便乗する人間もちらほらと出始め、そうした通路が思わぬ活路を見出だしているのかもしれない。
煙の匂いの中によく知る男の気配を感じ、敢えてここを訪れたのはパゴダだ。廊下に捨てられた煙草をつまみ上げ、携帯灰皿に投げ込む。換気扇が効いているので流石に行き先までは辿れないが、どうも長い間、ここで時間を潰していたようだった。気の合う仲間と一服していたのか、それともこんな場所で、まさか。
(ヴァイアスのあれは、歯止めが効かないんだろうな)
額から前髪へと指を差し込み、乱暴に掻き上げる。今でも鮮烈に、目の前に、狂熱に犯された彼の姿が浮かび上がるのだ。あの男は、普段はああして、そんな気配も無く、さも気だるそうに振る舞っているくせに。
膝を折ってしゃがみこむ。どうせ周りには誰もいないし、いたとして、わざわざ自分に声を掛ける輩もいない。重くなった瞼を無理やりに抉じ開けながら床に伸びた影を睨む。口の中に溜まった唾液をようやっと呑み込んだ。生臭くて気持ちが悪い。
何も。
何もヴァイアスが、今も複数の人間と関係を持っていようが、それはパゴダには何の影響ももたらさない。現状ラボの中でそれが取り沙汰された事はなく、そうであるから別に構う事はないし、こちらから一々口出しをするべきではないと考えていたのだが。
「……」
想像によって練り上げられたイメージが頭から溢れ出す。
頭蓋の中に納められた脳味噌に手足が生えて、骨を砕こうとしている。灰色の肉の塊を掻き分けて隆起した目玉が、内側から自分を睨み付けている。
場面は変わり、再び空想の中にヴァイアスが現れた。心細げにしなだれて、這わせた指を下肢に伸ばす。人の欲を掻き出すのが巧いのだろう。どれだけ疲れて気が荒れていても、或いは何か別の作業に没頭していた時でさえ、彼に艶然と誘われた時、断れた試しがないのだ。
それはパゴダにもする。特別な人に、そうするように。
それは彼以外の人間にもする。その気があれば、誰にでもする。だから彼に、言ってしまったのだ。勝手なわがままを。
口元を押さえながら立ち上がり、壁を伝い歩いて廊下を後にした。
*
「えーっと…。赤いのが二粒、ピンクのが四粒、んで起きたら灰色の粉薬…、と」
処方箋に書かれた注意事項を指で追いながら、今日の治験に宛がわれた薬剤をテーブルに並べていく。ヴァイアスの主観からすれば、単に薬を飲んで安静にして過ごすだけの簡単な作業も、これもラボにとっては、治験協力者の大切な仕事にあたるらしい。ここに運ばれて過ごした最初の一年程は、如何わしい人体実験のモルモットとして麻酔も無しに全身をバラバラにされたり、拘束具に固定されて得体の知れない注射を打たれ、そこから死ぬまでの経過観察をされるとばかり考えていたのだが、イメージに浮かべていた治験協力者の実態は、現実とは全く異なっていたようだ。
殆ど半狂乱の状態でラボへと搬送され、暴走寸前に上位者……究長と呼ばれるパゴダのキズを撃たれて昏睡状態。当初のスケジュールから日程はだいぶ狂ってしまったと聞かされはしたものの、最初の一ヶ月は存外に広いラボの施設案内。更に数ヶ月は治験協力と平行して気晴らしに出来る、簡単な業務の紹介、または同じような悩みを持つ協力者とのサークル活動の案内。実際に治験協力者、その人としての仕事を与えられたのは、ラボに馴染み始めた半年後からだった。あの時こそは、同じ治験協力者としてラボに運ばれた後、驚異的な回復を遂げ、更には類い稀なキズの力をパゴダに見出だされて上位者入りを果たした、かのパスクァル・オートレッドの奇跡にあやかりたい気持ちもなくはなかったのだが。
「んん…」
製品として認定されていないので正式な名前も付いていない、いくつかの数字とアルファベットの並んだだけのラベルを再確認し、先程取り出した錠剤を順に口に放り込んでいく。水で流し飲むのは推奨されない種類らしく、舌の上で成分が溶けるのを待って欲しいとの記述があった。さながら飴を舐め転がすようにして、いかにもわざとらしく味つけられた甘味を味わう。強烈な眠気が副作用になって襲って来る前にと、寝起きに飲める清涼飲料水を手に寝室へ入る事にした。
ベッドにのさばる衣類は床に退かした。枕元には先程運んできた飲み物を置き、眠りを阻害しない程度に聴ける音楽をスマートフォンから流しながら身を横たえる。腰を隠すくらいまで毛布をかければ、後は眠くなるのを待つばかり。本音を言うと、目覚めた後に薬の効果の印象を紙にまとめる必要があったのだが、それは起きてからリビングでやれば良いとして片をつける。ここまで段取りをしたのに、今更のそのそ起きるのも憚られるというものだ。瞼を閉じて、大きく息を吐く。途端にくたびれた身体がベッドに沈み込んでいく感覚に、やはり歳なのだろうか、積もり積もった心身の疲労を感じた。目は開けないまま、片手を伸ばす。当然ながら、指先に触れるのは清潔なシーツの感触だけだった。
「あーあ……」
名残惜し気に開いた唇を、そっと閉ざす。名前を呼んでしまったら眠れなくなる。
男の温もりが、恋しかった。
夢うつつ*
合鍵のカードキーを差し込んだ時に鳴る電子音を抜きにすれば、実質無音のまま部屋の中を歩いてこれたと自負している。抜き足差し足、忍び足。パゴダはテーブルに残された錠剤の殻を一瞥し、その足は迷う事なく寝室へと向かっていった。半開きのドアを素早く開き、身を滑り込ませて、すぐさま閉じる。耳に届いてくるのはクラシックだったか、ジャズだったか、とにかく落ち着いた印象の旋律。暗がりの部屋の中を、静かに満たしていた。
音の聴こえる方へと、更に進む。二人の大男が大の字に寝転んでも尚余裕を醸す、特注のベッドに行き着いた。先程からパゴダの気を揉ませてやまない元凶は、彼の憂慮も露知らずに眠っているらしい。身体に掛けていたであろう毛布は途中で蹴飛ばされたか、枕を抱いてうつ伏せに眠る彼の足でしわくちゃになっていた。起こさないように毛布を引き抜き、軽くシワを伸ばしてからかけ直してやると、微かに身をよじって横向きに寝返ったので、どくりと心臓が鳴った。
「ヴァイアス……?」
傍らに腰を下ろし、気配を殺しながら、その寝顔を盗み見る。相変わらず目元の隈は濃いままであるが、表情に強張りはなく、指で触れた頬はしっかりと温かい。彼独特の、胸元からキズが剥き出しになる暴走の兆候も見られない。これであれば、第二十二例目の治験はおおむね成功していると言えよう。パゴダの唇が、微かな笑みを象る。何故そのような表情を作ったかは、わからない。
何か言いたい心持ちであったのに、肝心の言葉は声にも、思念に浮かび上がる事にさえならなかった。自分がそうしたいという意思にだけ忠実となり、伸ばした手はヴァイアスを労るように、努めて優しい触れ合いに注力している。触られるのは好きだと、目を閉じて寄り掛かる、いつかの夜の彼の言葉を思い出しながら。
「ん、んん……」
「あ……」
唇の柔らかな弾力を堪能していると、こそばゆかったか、くぐもった吐息をこぼしてヴァイアスの睫毛が震えた。弛緩していた身体も同じように、ふるりと震える。眠りの淵からぼんやりと覚醒する様子を、パゴダは食い入るように見つめていた。
「……すまない。起こしてしまった」
頬に手を添えたまま、指を滑らせて緩やかな愛撫を繰り返す。まさしく寝ぼけ眼といった所か、うっすらと開けた目でパゴダを見上げるヴァイアスは、どうも意識が明確としていないように映った。
「ぁあ……、リウビア……?」
幾らか息をついて、瞼を再び閉じる。そうして心地好い世界に浸っている姿も好ましいが、今はとても、目を覚まして欲しいと思った。
「あぁ。……おはよう」
首筋を軽くくすぐって反応を伺う。くふ、と弾んだ声を漏らしながら片眼を開き、それまで枕を抱いていた両手を伸ばしてきた。大きな身体に覆い被さって抱擁を受け止める。温かい手が背中を、白い髪を、優しく撫でてくれた。
「何かやなことあった……? なきそうな顔してるぜ……」
夢うつつの中、たどたどしい呂律でパゴダを案じる。
「特にはないが……」
当たり障りなく答えかけて、堪らずに目を閉じた。研ぎ澄まされた感覚が拾う、紫煙の匂いと誰かの体臭。それらに混ざり合った、ヴァイアスの気配。彼を抱く力を一層に強める。
「キスしてくれ」
吐息ばかりで溢した言葉に、ヴァイアスもパゴダを抱き締める手を強めた。
「いいよ」
互いの唇が重なりあい、胸の奥が熱くなる。この温もりを独占したい。そんな事を考えてしまった。