Virus「ふあーぁ………」
不意に間の抜けた声が耳に届いたので、何とはなしに後ろを振り向いてみる。普段より少しだけ腫れぼったくなっていた瞼をこすり、大きなあくびを一つ。子供のような仕草で眠気を訴えた大男は、動くのも億劫といった様子でソファに留まっているように思えた。うつむいた頭を時折上げてみて、ぼんやりと辺りを見回しては小さなため息をつく。気だるげに目頭を数度揉み、最後には力なく項垂れていく姿を見て、ため息は遂に、キッチンで皿を洗っていたこちらにも伝染してしまった。
油の落ちない容器だけを洗剤と温水を張った器に浸して踵を返す。苛立ちを指摘される時にはいつも、足音が大きくなるんだよと小言を漏らされた。すでに貧乏ゆすりを始めかけていた爪先を睨み、猫のように足を立ててキッチンを後にした。
*
「……どのくらい経った?」
「んん……?」
Virus侍騎士アマド
意識が途切れ途切れにちぎれてしまっているのは理解しているが、その合間にかけられた言葉を解釈することは出来ない。ゆっくりと顔を上げてみると、自分と比べれば小さいものの、それでも周りと比べれば随分と大きな男が目の前に立っていた。汗ばんだ額に貼り付いた白髪を頭を振って払いのけている。どうやら機嫌が悪いらしい。不機嫌の理由、男が見下ろしている自分が原因なのだと確信した瞬間、それまでモヤのかかっていた意識が一気に鮮明になっていくのを感じた。
二人が同じ部屋で過ごす時、部屋の温度は三十度以上まで上げている。配慮されている有り難さと、罪悪感。
気にするなと言ってはいたけれど、こんな場所で過ごせば暑いだろうに。
「ヴァイアス」
名前を呼ばれて観念する。いつからここで微睡んでいたのだっけ。ヴァイアスは眉を下げて、僅かばかり、口角を吊り上げた。
「………リウビア」
確かめるように男の名前を呼ぶ。抑揚もなく「あぁ」とだけ返されたので、反省を表したくて頭を掻いてみせた。
「……わりぃ、何だっけ?」
「薬を飲んでから、どのくらい経った?」
「え、っと……」
壁に掛けられた時計は九時を示している。夕食の後に服用するよう指示された薬は確か七時になった頃には飲んだはずだと、頭の中で行動を辿りながら乾いた唇を開いた。
「にじかん?」
たどたどしい呂律で紡いだ返事に、がさつを極めるヴァイアスからしても美しいと感じる橙色の瞳が目蓋に隠されてしまった。紫煙を吐くようにしてゆったりと、唇の隙間から息がこぼれる。
相も変わらず、何をしていても惹かれてしまう。心を引き寄せて止めてくれない。呆れられていると分かっているのに、リウビアの何気ない仕草にヴァイアスは恍惚と笑みを浮かべてしまった。
「だったら眠いはずだ。あれは副作用で強い眠気が出るから」
「あぁ………、そうだった……」
「立てるか? ここじゃなくて寝室で寝た方がいい」
伺いを立てるよりも早く、リウビアの腕が背後に回されていた。あれよあれよという間に左腕を肩にかけて引き起こされる。意識は戻りつつあるが、身体は未だに寝ぼけているのか、膝がかくりと笑った。
「力入んね……」
ヴァイアスは自分を老いぼれと自嘲することはあるが、老人を名乗るには流石に早いと思っている。自分のすぐ傍、息のかかる距離で身体を支えてくれているリウビアに断りを入れながら、腰に腕を回した。この時に関しては単にやましい理由などなく負担を減らしたかっただけだが、途端に背筋を張られてヴァイアスは首を傾げた。
「……くすぐったかった?」
「いや……」
リウビアは一瞥もくれないまま、ヴァイアスもそれ以上かける言葉もなくなったので、二人三脚で寝室に向かう。
さして広い訳でもないはずなのに、リウビアの寝室を借りるのだって今回が初めてでもないのに、今日は部屋までの道のりをいやに長くに感じた。
*
努めて平静を装いながら、ヴァイアスの身体をベッドに寝かせる。部屋の温度調整は万全だと考えているが、この男は治験協力者のくせをして体調を崩しても不調を訴えてこない。今回に至っては単に薬の副作用が出ただけにも思えるが、それだって、数週間前にまで記憶を遡ってみれば、手放しに安心は出来ないと奥歯を噛み締める。
ヴァイアスは訴えない。どれだけ苦しくても、決して。
(パスクァルに頼むなりして、一目で相手の体調を測る装置でも作ってもらうべきなんだろうか)
街に蓄積される情報の管理者。浮薄に見えるが仕事は意外にもしっかり果たすし、あんな見た目だが、自分よりもずっと年上なのだとか。多少なりは気心の知れた上位者の名前を浮かべながら、そのようなことを考える。
自分の懸念を気取られないよう、手早く毛布をかけた後は退室するつもりだった。電気を消して早々に。
「リウビア」
リビングに引き返すより早く腕を捕まれる。毛布から伸びている腕は袖が肘の辺りまでめくれていたので、自由な方の手で袖を伸ばしてやった。
「何だ」
「お前ってまだ起きてる?」
事務的に起きているとだけ答えようと以前の自分であればそう考えたし、そう言うつもりであったのに。ヴァイアスというキズ持ちと言葉を重ねて、同じ時間を過ごす中で、一体何に心を侵されてしまったのだろうか。
リウビアは自分の本当の名前じゃないんだと、名前を呼ばれる度に訂正させたくなる。余計なことばかりで巡る思考は、傍目にはどれほど滑稽に映ることだろうか。乾いた唇を舐めながら答える。
「……ここにいようか?」
明かりの落ちた薄闇の中でも見て取れた。和らいだ目尻に、口元が上がっていく様子。うれしそうなひょうじょうを浮かべたヴァイアスは、掴んだ腕を引いてリウビアを懐に招き入れた。逃がしはしないとばかりに長い脚を絡めてくると、最後の仕上げとして二人の身体に毛布をかけられる。吟味して買い与えた寝具だ。薄手の生地に見えるが、とても暖かい。
「優しいねェ、お前は。他の野郎に誘われても乗ってくれるなよ?」
首筋にヴァイアスの鼻が押し付けられる。離れがたいと思わせるものが、この男の何にあるのかはわからない。それでも。
「自分は乗ってるくせに」
「はは」
こうなることが分かっていたなら早くにシャワーを済ませておくべきだったが、構うものか。じっとりとにじむ汗が背中に貼り付く不快感も気にしないで、くすんだ黒髪に指を差し込むと、ヴァイアスを一層に強く抱き寄せた。
*
清潔な柔軟剤の香りや消毒液の匂いよりも、嗅いでいて落ち着くものがある。ほんの少しだけ湿った肌に鼻を押しつけた後、鼻腔をくすぐる汗の匂い。リウビア自身の香りに包まれることが、たまらなく好きだった。
「あったけえな、本当に……」
とろけた声でようやく言葉を紡ぐ。リウビアの細い指が優しく頭を撫でる度に、かろうじて保っていた体裁も呆気なく剥ぎ落とされていくようだった。薬のもたらす副作用などより、こちらの方が余程効果があるのでは。そもそも夜に飲んだあれが、元々何の為の薬だったかも定かではないのだけれど。
ヴァイアスはほう、と息をこぼした。どこもかしこも力が抜けて、いよいよ頭も回らなくなりそうだ。眠い、眠たくて仕方がない。重たくなった瞼を閉ざした。
「ヴァイアス」
「うん」
リウビアに名前を呼ばれて、反射的に喉を鳴らす。唇の上を滑っていったのは彼の指だろうか。くすぐったさに顎を反らしていたら、耳たぶを柔く食まれた。生暖かい呼気が耳奥に吹き込まれる。
*
ラボで開発される医薬品は、その全てがこれまでに集積された研究結果や知識を活かし、キズ持ちの体質に適応したものになっている。従来の、いわゆる人間を対象に作られた薬品では効果があまりにも弱すぎるからだ。個人差の大きいキズ持ち一人一人の体質を調べあげ、それに最も適した治療を施す。
もっともの所、それは暴走に連なるリスクを遠ざける対処療法が精々といった段階で、それ以上の展望は望めそうにないのが現状だ。
腕の中に収めた男は、すっかり安心しきった様子で船をこぎ始めているように見える。ヴァイアスに処方している薬は、彼の担当であるリウビアが手ずから調合したものだ。眠気に関してはもはや如何ともし難いのが歯がゆいと思いつつ、以前よりは多少なり、マシになったのではないかと。
かさついた唇を指でなぞる。寝ぼけながらむずがゆそうに身をよじる姿を間近で見つめると、心臓や目の奥に、不思議な熱が灯るのを感じる。吐息混じりに、耳元でそっと囁いた。
「……おやすみ」