【FE3H】往路【ディミトリとギルベルト】連作短編『往路』
ギュスタヴ※とディミトリの結末の話です。
各ルートの話があります。
大体死んでいます。
※ギュスタヴとはギルベルト・プロスニラフさんの本名です。ゲーム内ではディミトリ・ギルベルト支援とギルベルト支援Sで教えてくれます。
※皆も知ってるかな?と無意識下で思っていたため、終始特段説明なく「ギュスタヴ」と呼んでいます。ごめん。
※ギュスタヴって名前もギルベルトって名前も厳しくていいですよね。
翠風の章
・ギュスタヴとディミトリの結末の話。
・ディミトリが死んでいます。
・翠風でアネットをスカウトすると、グロンダーズ後ギュスタヴがディミトリの亡骸を抱えてどこかへ去っていった…という話が聞けます。この話はそれが根拠です。※
・ラストは羅生門のパロディ。要するにそゆことです。
※この事実が好きすぎて、皆が知っているものだと思い込み本の中に書き忘れました。本当に申し訳ない…。
一一八六年大樹の節三〇日
グロンダーズの戦い。グロンダーズ平原において帝国・同盟・王国が争い、同盟軍が勝利する。
王国軍は壊滅、王子ディミトリ死亡。
ギュスタヴは大きくため息をついて、彼の身体を引き上げた。「彼」はひどく重くて仕方がなかった。何しろ、体中に力が入っていないのだから、そうだろう。生き物の体は、力漲ってこそ自立する。そうでなければ、こうして肉の塊となって、押し寄せるのみである。その重さなんていうのは、長年騎士を務め上げ、自身の力にまことの自覚があるギュスタヴだって辛いものがあった。
引き上げた末に垂れ下がった首が、力なく揺れる。その拍子に白いうなじがあらわになる…本当なら、その首は五年前にすっかり落とされているはずであった。それがどうしたことか、今なおくっついている。くっついたまま、動かない。当たり前の由、彼はとっくのとうに死んでいる。
「殿下」
ギュスタヴのくちをついて出たのは、ひそやかな囁き声だった。「殿下」二度、くちは動いた。しかしそれ以上は…いや、もとよりまったく無駄だった。彼はとっくのとうに死んでいる。誰よりも、ギュスタヴがそれを知っている。
ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。騎士ギュスタヴの教え子、いつか仕えるべき王、目の前で死に続ける身体そのもの。ギュスタヴの腕のなかで眠る彼を形容するなら、このようなものだった。もしかしたら、もっと…何か別の形容があるのかもしれない…例えば、亡国の王子だの、狂乱の獣だの、果てには復讐に猛る青獅子だの。彼はひどく衆目を集める身分だったから、そのぶん広く知られる名前も多かった。しかし、ギュスタヴにとってはただひとつ、彼の死体だけが本当だ。身分など最早関係なかった。彼は死んでしまって、こうしてぶざまにもギュスタヴに抱えられている。人は死んだら死体になる、他になにも残らない。死者は死者である。そう言ったのは、ギュスタヴを登用した王だった。
*
グロンダーズの会戦。三国が集結し覇を競った決戦の、その終わりにギュスタヴはいた。アドラステア、レスター、ファーガス。紅黄蒼はそれぞれ睨みあい、混じり合い、グロンダーズ平原を真っ赤に染めて、ようやっと終わりが討たれた。ファーガス王国軍のまぎれもない敗北によって。
周りを見回すと、死体が鬱蒼と茂っている。皆一様に、蒼い何かを身につけている。本当なら、「王国軍」というのなら、鎧には王国の証たるブレーダッドの紋章の入った意匠があり、足には歩兵だろうと必ず拍車がついていて、そして腰の部分に蒼い線の入った剣帯があるはずだった。これはもうずいぶん前から王国兵の制服と言ってもいいようなもので、古くはギュスタヴとて身につけたものだった。だけれども、公国と相対し帝国を相手取っていたようでは、統一された印も鎧も用意する余裕などない。だから、皆貧相なほどの様相なのだ。これでは、山賊と変わらないかも知れない。村の自警団の方が、良い装備を身につけているかも知れない。栄華を誇ったファーガス兵の末路がこうでは、誰も救われない。
本当なら、彼らもまた同じように背負い家族のもとへ返してやらねばならないのだろう。彼らとて家族がいるのだ、その多くは公国の膝下にいるわけだが、返してやらぬという道理はない。しかし、ギュスタヴの腕はもう王子を掴んでしまって…王子こそ、誰も待つ者はいないのだから、放っておいてもいいのかもしれないのに…手一杯だったから、目を伏せる他ないのだった。あのダスカーと同じだ。王の死体を運ぶために死体を踏んで歩いた、あの日。少しだけ違うのは、頬を伝う雨だけだ。ダスカーは、ずっと燃えていた。ギュスタヴの感覚で言うのなら、悲劇があった日から、今日まで、ずっと。
雨が、ひどくなってきた。ギュスタヴはこう口にした。それはほとんど無意識だったけれど、吹き荒れる心中とはまったく関係のない言葉を、一つや二つ呟いておかねば、足が動かなかったのだ。事実、雨は少し本降りを迎えるごとき強さを見せている。グロンダーズ平原はフォドラでも南に位置し、比較的温暖な土地だ。ファーガスのひょうまじりの雨とは違う、大地にあふれる血を洗い流す恵みの水だ。流したところで、骸は骸であって、肉がそこかしこに転がっているのには変わりないのだけれど。
腕の中の死体も、ひどく冷たくなっていた。ファーガスではまだ冬の寒さ残る春先だ、雨に打たれればその肌は氷のようだった。早く移動せねばならない。どこに移動するのか。どこに行こうと言うのか。どこへ行き、そして何をするのか。何も知れない。何もわからない。しかし、「ここ」にいては駄目だという、そういった確信はあった。それはギュスタヴの経験則から出た、つまるところ戦場でも厳しい環境でも生き残ろうとする知恵だった、今、ここで、生き残ろうなどというのはずいぶん馬鹿らしかったのだけど、体にしみついた癖は取れないものだ。特に、こういう、極限状態では。
ディミトリの身体をもう一度抱き起こし、雨でけぶる目の前を睨み、足を進める。身体はひどく疲労しているのに、頭は冴え冴えとしていた。しかし、なぜか、頭は今を見据えることなく、ジイッと経験を、過去を、思い返すようだった。それは、ギュスタヴの頭の横を、王子のだらりと崩れた頭部が揺れているからかもしれない。視界の端っこをブレーダッドを象徴する金の髪がふらついていることは、よくあった。それこそ、先王ランベールの幼い頃から、ディミトリが無邪気に走り回れた頃、そして今に至るまで、長い期間。
彼はひどく無理をしがちな子供であった。しかし子供の体など脆いものだ、特に紋章にふり回されることだって多かった。行軍中に熱が出るだの、足を挫いただの、疲れて眠り落ちてしまっただの、とにかく多かった。時同じくするグレンはそんなことの一つもなかったのだから、ディミトリが無茶をしがちだったのだろう。
何度この背にディミトリを背負ったか。思い返しても、ギュスタヴには数えきれなかった。甘やかな体温と、肩に乗る頭の重さ、首すじをくすぐる絹の髪。視界の端をふらつく金色。
ちょうど今と同じだ。まったく同じ。
頬を雨がうつ。前がけぶる。視界の端の金色だけが本当のように思える。あゝこんなことが前にもあった。そう気がついてしまえば、薄ぼんやりとした記憶が蘇ってくる。脳の表皮の裏側で、グレンの声が聞こえる。……十年も前のことだろうか。ギュスタヴの背にはディミトリがおぶわれている。
「甘いんですよ、ギュスタヴ殿は」
「グレン、お前は剣を持ってやれ」
はいはい。そう言う少年の腕は寒さに打ち震えている。雪にずいぶん降られて、体温も下がるのがわかるようだ。それも仕方がないだろう、彼もまだ元服すら終えぬ身だった。
それに、ディミトリも、手も足も柔らかく体温が高い…要するに、子供だった。背おうのも簡単で、今のように腰にきたりはしない。
どうしてこうなったんだったか。いつの間にかギュスタヴの意識は、過去に囚われていった。
*
ファーガスの山裾はおおよそ三分に分類される。一つはゴーティエの北東に位置するスレンへの交通路。一つはガラテアから見渡すオグマ山脈。一つは、フェルディア近くの小さな山麓。ゴーティエとオグマは猛々しく人を阻む恐高だが、フェルディア近くのものは人に豊かな自然をもたらす山だった。春には葉の多く、夏には涼やかな風を振りまき、秋には実り多く、冬は凍てつき眠る。傾斜は緩やかで、時たま近くの村人も訪れるような場所である。
そんなわけだから、かの山は騎士たちの行軍訓練などに大人気だった。ギュスタヴも、何度も訪れた。若き日のランベール、そして年が降ればグレンとディミトリ、他にもフェルディアに駐屯している騎士団を連れたり、幾どもだ。
しかし、そういくら慣れているとはいえ馬鹿にしてはならぬのが山だということだ。
その日の朝はひどく晴れ晴れした冬明け空だった。もう雪もが上がったろうと民たちは種籾を用意し王城では毛布がひとつ減った。そんなわけだったから、ギュスタヴは未だ幼きディミトリと、先の夏から王都に来ていたグレンを連れ、一つ訓練などしようと思ったのである。
けれども変わりやすいのが山の天候だった。昼からの小雨がいつしか雪となり、緑の山麓にベールがかかる。傍目から見れば美しいのだろうが、山中にいる人間からすればまったくもって迷惑な話というものだった。その上、グレンはまだしもディミトリは雪中の運行など慣れていない。
急ぎ山を降りるか留まるか。逡巡するギュスタヴにかけられたのは未だ甘い子供の声だった。
「ぼく、大丈夫だよ」
「殿下、しかし…」
「大丈夫だもん。父上だって、ギュスタヴに雪山に放り込まれたとか、言ってたじゃない、ぼくだってできなきゃいけないんだよ」
不安げな眉のきざしからはまったく予想もつかないような言葉である。顔つきは不安なまま、決意だけは固いようだった。後ろでグレンが呆れるように肩をすくめて言った。「俺は反対しましたよ」尖る唇。ほほのなめらか消えぬ幼な子は、後ろの兄弟子を睨むが早いかギュスタヴに懇願の眼差しを向けた。
「ねえいいでしょう、ギュスタヴ、ぼくじゃまだ駄目なの」
のちのち回想するところは、まったく当時の自分は愚かしくそして阿呆だったということ、こんな子供の駄々はさっさと切り捨ててしまったほうがよかったということだ。しかし、こと後悔は先にも今にも立ちはしない。結局、ギュスタヴが下した結論は、天気がこれ以上悪くならぬうちに早々山を降りるということだった。
雪中の山…しかも降り始めなどは、何が酷いとはその雪道が雪と土の半々になっているところだ。何しろ滑りやすくころけやすい。視界も雪雲のおかげで暗く、よく見えない。だからこそ訓練の内容に加えられるのであるが、いかんせん幼な子には辛かったに相違ない。「まずい」と後ろから声があがるも道理だった。
「ディミトリ、どこ行った?」振り向けば、あゝまったくもぬけのからであった。
そこから先は正直あまり記憶にない。ただ雪の静かな香りと馬鹿にしたような暗さだけがそこにあったような気がする。グレンには最早覚えているかどうかすら聞けないし、ディミトリとてそうなのだ、ギュスタヴの薄ぼんやりした記憶だけが証明だ。
「だから俺は止めたんだぜ」
そう詰めるグレンの声と、焦ったように忙しく動く黒髪、泥濘む土、段々冷え切っていく空気。それが晴れたのはその数刻後だった。
「ディミトリ、おい! ディミトリ!」
「いたか、グレン!」
確か、ぐるり山を一周したのだったか。もう一度はぐれた場所に戻ってみれば、雪残る草木の隙間から金色が見えた。あわててかきわければ、彼は小さく蹲っている。ふと見ても、草木に巻かれてわからない。きっと、山賊だの猪だのに見つからぬようにする行動なのだろうが、こと今を見据えるのならもっとわかりやすい場所にいてほしかった。
彼は声に反応し、ゆっくりと顔を上げた。ほほが安堵に彩られ、しかしすぐに悲しみの表情に変わる。唇が動く。妙にゆっくりと、紙芝居のような速度で、表情が変わっていく。
やたらと古いうすぼけた記憶の中で、何故だかその表情の移り変わりだけが鮮明に、むしろ現実よりも開け広げだった。何故こんなにも覚えているのだろう? いつものディミトリの表情であるのに。
そして、唇が動く、それだってゆっくりで、何と言ったのだったか、音は最早聞こえない。所詮は記憶なのだ。
そうだ、何と言ったんだったか、彼は…
「何で来てくれたの?」
「お前は何故ついてくる?」
その声は、どうしてだかずいぶん子供らしい響きを持っていた。無邪気に、ギュスタヴの行動の不可思議を問う、そういう雰囲気があった。
しかしディミトリはもうずいぶん年嵩だった。山中の行軍訓練での出来事、あの時など最早はるか遠く、ほほの丸かった子供は二十歳もそこそこの男となっている。この様であるのなら、きっと、グロンダーズの前のことだ。そういう表情をしている。はるか昔帝都で見た回転絵扉のような速度で移り変わる記憶、ギュスタヴはいつの間にか十年前からつい一節前に戻っていた。
ディミトリは顔を顰めて蹲っている。その腹は大きく開かれ、鮮血は地面に吸われていた。つい先ほど、大きな戦が終わったばかりだった。傷を治しに帰ろうにも本陣や仲間とは離されてしまい、ディミトリとギュスタヴは二人戦場のそばに取り残されていた。周りに敵兵がいないことが唯一の救いである。
「…殿下、白魔道士を呼んでまいります」
「いらん」
ディミトリは大きくため息をつくと、腹を擦った。血が伸びる。内臓は外にまろびでて、その桃色が目に痛かった。他に大きな外傷はないものの、動くことはできないだろう。
待つ他ない。ギュスタヴとディミトリが先陣をきっていた姿は知れているだろうから、いつか仲間は追いかけてくるだろう。仕方なしに、ギュスタヴは跪いた。彼に寄り添っても意味がないことは知っていたけれども、惑う体はそうする他ないのだった。
痛みからか状況からか、彼は平素のだんまりを捨て去りギュスタヴへ言葉をかけた。おそらく、誰かが助けに来るまでの暇つぶしか何かであろう…、普段なればギュスタヴとて黙殺のひとつもしようが、この手持ち無沙汰では、大人しく応答する他なかった。彼はいやに高弁で、しかし言葉の内実はほとんど子供のようだった。お前は何故ついてくる? 彼はその疑問を、何度か口にした。
「お前は何故ついてくる? こんな行軍に、ただの…国を取り戻すでもない、さりとて未来を見据えるでもない、…こんなものに…」彼は答えないギュスタヴに焦れたのか、もう一度繰り返した。お前は何故ついてくる。
それは、子供の疑問だった。今のファーガス、騎士たちの思い、そしてギュスタヴのことを考えれば、そんな疑問は出てこない。彼には本当にわからないのだ。何故皆が自身についてくるのか、何故未だ自身が王子と呼ばれるのか、その理由が。
そんなことを聞かれては、ギュスタヴの自己嫌悪は水底に沈み積もるようだった。何故わからないのか。それは、きっと、ディミトリが思う「王」と国民が思う「王」には、大きな隔たりがあるからなのだろう。隔絶。身分の高い者と、高くない者。持つ者、持たざる者。間に流れる深い川を埋めるのは、現実を見る冷徹なる眼差しと、周囲の者がどれだけ関わってきたかの、経験なのだ。
「あなたが王になられるお人だからです、殿下」
「…俺が? こんな血塗れの獣ごときが? 王に?」
馬鹿馬鹿しい。狂ったかギュスタヴ! 声は嘲笑まじり、まったく侮蔑的な響きを持っていた。その感覚はギュスタヴにも覚えがあった。自身のことを低く見積もるが故に、他者が自身を評価するほど、その見識に苛立つ。不信が募る。彼は今、ギュスタヴを信のおけぬ愚者として見た。
「お前はもっと、聡明な者だと思っていた。王たる者に仕えるにふさわしい、教導するにたる男であると。
ああ…いや! お前が狂ったんじゃなくは…、もしや俺に同情しているか? 同情…ハハハ! まったく、ああ、いや…おかしいな。変だよ。それは。」ディミトリは同情に強い抑揚をつけて言った。ここは舞台か? ただの草地だった。
「俺がこんなざまなのは、お前のせいでもなんでもない。俺のせいだよ。全部。全部。復讐を遂げきれないのも、王になってはいけないのも、何も分かってないのも、全てだ!」
「………あなたが自棄になるのも仕方のないことでしょう」
事実、彼は常人なれば早々に諦めてしまうような状況に立たされていたと言っても過言ではなかった。無実の罪で牢獄へ入れられ、救おうとした従者は死に、五年間野山を彷徨い歩いた後が、今この現状だった。フラルダリウスに保護されたが唯一良かったことだろうか? 彼にとっては、どうもそれすら気に入らぬようではあったが。
しかしそれでも、ディミトリは常人ではないのだ。このファーガスで唯一、民を騎士を貴族を統べる権利を持つ者だった。我らが故国ファーガスで、王の他に人間はいない。王についていく、大きな獣の群れのごとく意思統一された群体、それがファーガスなのだ。いくら人々が息づいているだとか言われても、ギュスタヴの真なる確信はそのようなものだった。
「自棄! 自棄ね……」くすくすと笑う彼はいかにも狂人の様相だった。しかし、理性の光は未だ見える。理性なればこそ、彼の疑問は子供らしいのだ。狂っていれば、こんな無邪気な問は出ない。
何故お前はついてくる? そんな疑問は、ギュスタヴにとってはまったく無価値で意味のない問いだった。何故かと言えば、何故も何も無いからだ。
彼は王子で、ギュスタヴは家臣、なればファーガスは未だ潰えていないのだ。誰が何と言おうと、たとえ公国にその身食い荒らされようと、土地の一つがなくっても、王がいるならそれは国。
おそらく、帝国に恭順することこそが賢明な判断というやつなのだろう。しかし、それで得るものなど、命一つッきりなのだ。命があったって、何もできない。ダスカーの後、生き残った挙句逃げ出した、それはそういうことである。
生き残ったって仕方がないなんて、ディミトリ当人が一番わかっているのだろうに。
ディミトリは少し首を傾げると、だんまりを貫くギュスタヴへ視線をよこした。
「わかった。言い方を変えよう」
大きく息をつく。唇を湿らせる。どこか獣のようでいて、どこかに気品が漂う仕草だった。ここまで不安定な生き物も珍しい。だから皆諦められないのだ。ギュスタヴは脳の表面のほうで、思った。
ぼうっと見ていれば、唇が開く。声が出る。ギュスタヴには、何故だか数瞬遅れて聞こえたような気がした。
「見捨ててくれ」
「…殿下」
「見捨ててくれ、俺を。頼むよ」
彼の声は掠れている。ほとんど、音のようにならなくなっていた。喉からひゅうひゅうと吹き荒ぶ北風が、なんとか言葉を形成しようとしている、そんな声だった。彼は、そんなふうにしてしか「見捨ててくれ」なんて言えないのだった。ギュスタヴは思った。自分もそんな声が欲しい。
ディミトリは血の滴る腹を摩った。そこにはつまびらかにされた内部がまろび出て、外部と化していた。
「なんで俺は死なないんだろう」
ディミトリはやはり自棄になっている。本人が如何にそうではないと言ったって、様子がおかしかった、ダスカーの後からずっとこうだと言う者も居ようが、彼がこんなにも責任のないように振る舞うことは珍しい。
「殿下、それは…」
「お前たちは馬鹿だ。大馬鹿だよ。何で俺なんかに構う? 同情でやっているのなら、きっと無意味で無価値だから、早く見捨てなさい」
言葉の最後は最早抑揚のひとつも無くなっていて、少し神託みたいな雰囲気を出していた。
「いつでも見捨てられるぞ、今なら反撃もできまい」
そんなことを言って、ディミトリはきっと王国の者が自身を殺そうと走るのなら避けることすらしないだろう。だから、彼がひどく暴力的な者として振る舞う時、所詮はすべて建前だった、結局彼には理性の光があった。本当に運の悪いことに。獣なれば見捨ててくれなんて言葉は出ない。それは誰にとっても明らかだ。
しかし、現実を垣間見れば、きっと見捨てるのが第一の選択なのだろう。皇帝の首しか見えぬ復讐鬼についていくなど正気の沙汰ではない。ギュスタヴとて、そう考える程度の余裕はあった。
けれど、しかし、どうしても、ギュスタヴはどうやったら見捨てられるのかわからなかった。彼が最早王になることは不可能なことも、今の王国軍がまったく自殺志願者の集まりのようであることもわかっていた。けれど見捨てるなどできない。諦めるなどできない。言いかえれば、皆が揃って命を諦めた結果が、現状の王国軍だった。
「…できません」
「何で?」
「…私たちは王に従う一本の剣。王が生きているのなら、そこには国があります」
「妙な建前を使うのはやめろ。ああ…フェリクスが言っていたことが今になって理解できた。騎士道なんて碌でもないもの、何故信奉するのだろうな? フフフ…馬鹿みたいだ、皆」
ディミトリはゆっくりとギュスタヴへ手を伸ばし、肩を掴んだ。手が震えている。彼は自棄になっている、いつから? この戦からか、いや、処刑されたあの日から?
「殿下……。聞きたいですか」
「何を? 何を言ってくれるんだ?」
「何故私があなたについていくのか、その意味を」
ディミトリはちらりとギュスタヴを見、そして俯いた。髪の隙間から目が見える。怯えた子供の目だ。
聞きたい。声は聞こえずとも、くちびるはそう動いた。ギュスタヴは大昔、読唇術を学んだことを少しの間後悔した…けれど、くちびるの動きが読み取れようと読み取れなかろうと、結局は同じだ。言わざるを得なかっただろう。彼が、ここまで自棄になりギュスタヴにその心を開陳しているのだから。
ギュスタヴはすこしばかりゆっくり息を吸って、言ってやった。その顔面に、すべてをぶちまけた。
「あなたは私の希望です、いいえ、他の者にとっても、皆の」
「…何だそれは。そんなわけ無いだろう」
彼は目を見開き、その後訝しげな表情へその様を変える。わからないのだろうか? わからないのだろうな。
「あります。あなたにわからないのも無理はないでしょうが、皆、もう諦めているのです」
言葉を重ねるたび、彼の顔色が悪くなっていくのがわかった。血を多く流しているからだの、そんな即物的なことではなく、ただ、何か…自身の身に降りかかるものを察知するようだった。
「あなたが処刑されて五年。ダスカーで先王が謀殺され九年。皆耐えてきました。いつかこのファーガスがもう一度笑みあふれるあのときに戻ると、そう思っていました、もちろん…」
「……」
「けれど、九年は長すぎましたね。いや、正しくは五年間がよくなかったのかもしれません」
ギュスタヴは頭の後ろのほうが熱くなるのを感じた。口は誰かに操られるように動いている。ディミトリに当てられたのかもしれぬ。
「真にファーガスを取り戻すと言うのなら、あなたの言うとおり獣の手など離してしまって、より良い未来へ漕ぎ出すこともできましょう。
けれど、皆もう、疲れている。諦めてしまった。我々にできるのは、より良い最果ての地を選ぶ、ただそれだけでしょう、良い十字架のための鉄を打つ…」
大きく息を吸い込む。こんなに言葉を重ねたのは何年ぶりだろう?
「…あなたは私達の希望だ。
あなたはいつまでも変わりなく、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド王太子殿下です。誰がなんと言おうと、獣に成り果てていようと、我々にとっては、あなたこそが国だ。おわかりになりますか」
お前。掠れた音がディミトリの喉から響いた。お前…、なんてことを。それは怒りとか、その他強い感情に押し出された音ではない。彼の顔面は真っ白で、血の気が引いている。精神的衝撃によるものだろう。
「なんでそんなにひどいことを言うんだ、お前。昔はあまりの厳しさに血も涙もないのかと思っていたが、今わかった。きっと蒼いんだな、お前の血は…」
フフフ、アハハハ。ディミトリの朗らかな笑い声が響く。
「……俺の身体に墓石を突き立てたいか、そんなに。俺に、まだそんな価値はあるか」
お前たちの死ぬ理由となれるか、まだ。彼の口が、音なくそう動いたのが見えた。
「ついてきたらいい。
お前たちが俺を利用するように、俺だって同じくお前たちを利用する、ただそれだけだ」
ささやく声は涙混じりだ。ディミトリの手は震えて使い物にもならぬようだった。戦士の手ではない、王の手でもない、ただどこにも行けぬ子供の手をしていた。ギュスタヴはその甲をとって、額へ持っていった、彼は驚いてあゝと叫んだが、もうどうしようもないようだった。ギュスタヴにとっては、何遍も繰り返したことだ。
騎士は誓いを違えない。
「…死ぬまで忠誠を誓いましょう…その身に」
私たちの墓標となるだろう、その身に。
*
ふと気がつけば、足が止まっていた。記憶の波に身を任せすぎていたらしい。
どこに着くなどいうこともない。ただ、教会の尖塔が見えた。ただそれだけで、ギュスタヴの足はそちらへ向かっていった。結局、止まったのはどこぞの打ち捨てられた教会の前だった。
扉を開けると教会は無人のまま、色付き硝子から漏れる極彩色の光だけがその場を包んでいる。どこまでも静謐で人工的で優しげな空間。教会とは、誰をも拒まない代わりにひとを人間にする。
…何もこんなところに来なくたって良かったな。雨が降っていたのでなければ、森かどこかにでも行ったほうが、まだ良かった。いや、埋葬をするのに教会ほど良いところはないだろう…。ここに至りギュスタヴの思考は背反を極めた。教会へと足が動いたのは、ギュスタヴの長年の経験則のようなもの、あゝそこに行けば雨は凌げるに違いないとする身体の防衛本能と呼ぶべきものだった。だから、真にディミトリのことを考えるなら、おそらくは別の場所へと足を伸ばしていただろう。それがディミトリにとっていいことなのかどうかは、わからなかったけれど。
硝子に雨が打ちつけて、音はただそれだけしかない。きっと土も水を吸い泥濘んでいて、もしこの近くに埋めるにしても、明日明後日では無理だ。それに棺も必要だ。墓石だって。なんと彫ればいいのだろう。ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。そう彫ってしまっていいのだろうか?
ここに至って、ギュスタヴは王国に帰るという選択肢が少したりとも自身になかったことに気がついた。立地の遠さなどが理由なのではなく、選択肢がないのだ。死体が腐るだの、そういうことでもない。帰ろうという、考えがなかった。彼を故郷ファーガスに埋めようと言うのなら、きっともっと違う道があっただろう。例えば、グロンダーズからオグマの方まで行き身を隠しながら進む、例えば……彼をグロンダーズに行く前に止める。何でもあったはずだ。けれど、そうならなかった。誰もそうしなかった。
ファーガスに埋めてやるか? 彼を。
気がついて仕舞えば、当然のごとく思考に浮かんだ、当然だった。ディミトリはひどく情厚く国民を愛していた、そのはずだった、それに彼の父親は…首がないとはいえ…ファーガスの土の中に眠っている。いくら今は公国と呼称されているとはいえ、その地はファーガスであったのだ。彼だって父と眠りたいだろう。それに、王族なればその地に埋葬されたいはずだろう。
本当に?
死体を降ろせば、未だ腐らず美しいまま、彼はそこにいた。腐りきってしまえばどうにでもなったのに、彼は美しいままだった…、これはもしかしたら、本当にいたいけなことなのかもしれない。もう誰もディミトリを見る者など存在しないのに、彼は未だ「見られる」ように美しくあった。哀れだった。
哀れだった。
ギュスタヴは跪くと、彼の顔にかかる金糸をすこし払ってやった、きっと、順当に王になっていたのなら、彼が正なる愛で包まれていたのなら、髪の毛もこんなに伸びてしまったまま放置などされなかったであろう。あの軍の中で、彼をそのように扱った者など誰もいなかった。ギュスタヴはそんなことしなかった。
「私たちの墓標こそはあなたでした。……重かったでしょうか、そんな役目は……」
つぶやく声に応える者など誰もいない。ディミトリにだってわからないだろう。聞けば、またあの狂い人のような笑い声を上げるのだろうか。それとも、遥か遠く雪山で浮かべたあの表情になるのだろうか。
頬は削げ、目元の皺は深まり、身体はひとつの獣のように流麗で、そして表情はいとけない。彼は間違いなくディミトリであり、彼は間違いなくギュスタヴの哀れな教え子だった。ディミトリという、一人の。
「……ディミトリ。
……あなたの眠りが真に静かでありますように」
驚くべきことに、それは聖句でもなんでもなかった。ギュスタヴはフォドラにおわす女神の敬虔な信徒だったのだから、ほんとうなら、「女神の膝下へ」と囁かなければならない。聖句は女神への言葉、救済への祈り、願いの結実なのだから、言葉として発するのは信徒の義務のようなものだ。
ファーガス神聖王国はセイロス教の国だ。王が辞したとき、大司教は聖句を唱える。「女神の膝下へ、その功績を讃え、王冠より解放され、指は槍を落とし、両手を組む…」その内容だって、ギュスタヴは覚えている。事細かに。もう、二回ほど、経験したから。
しかし、ことここに至ってはそんなものまったく似合わないように思えた。言ったって、唇の上を滑ってしまう。意味をなさない言葉の綴りになってしまう。
その確信はまったく感覚的なものであって、根拠などどこにもない。けれど、ギュスタヴの唇からまろびでた言葉は、こどものような悼み、ただそれだけだった。他に何も、出なかった。悔やみも悲しみも苦痛も、すべてすべて虚であった。
そうして、その言葉の後、教会は静寂に包まれた。その後のことは誰も知らない。
銀雪の章
・ギュスタヴとディミトリの結末の話です。
・ギュスタヴが死んでいます。
・なんか…こう…皆病んでる
一一八六年大樹の節三十一日
グロンダーズの戦い。グロンダーズ平原にて、アドラステア帝国、ファーガス神聖王国、レスター諸侯同盟、各軍による戦いが起きる。
(ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド戦死。クロード=フォン=リーガン、エーデルガルト=フォン=フレスベルグ負傷)
*
悪夢だった。ひどく不躾に言えば。本当なら、夢などと簡単に表すべきではないのだが…何しろ人が大勢死んでいた…、しかし誰もが思っていた。これは悪夢なのだ。本当ならば優しい現実が待っていて、今は茫洋と微睡んでいるだけなのだと。
それはギュスタヴとてそうだった。歯車の噛み合わぬ現在は、何時だって薄ぼんやりとして現実感が無かった。白いベールの張るような、白い海に浸かるような、不快な心地がある。ここにいる自分は嘘で、少しずれた場所に、本当の自分がいる。
皆そう思っていた。もしかしたら、王子も同じくそうだったのかもしれない。彼の黒々とした目の下は、頭ごと薬液の中に漬け込んだような雰囲気があった。事実、死者の声が聞こえるなどと呟くのだ、むしろ彼の方が現実を信じられぬ悲しみの渦中にであったのかもしれぬ。
しかし、いくら悪夢だと嘆いても現実は変わらない。血みどろで、四肢は動かず、ギュスタヴの愛した金の仔は諦めた顔で項垂れている。
ギュスタヴは小さく呼気を吐いた。同時に喀血がまろびでる。何か熱いものが喉から下へと迫り上がる嫌な感触も、こうして死に際になってしまっては、気にならなくなるというものだった。
「殿下…、そんな顔をなさるな」
「………どうすればいい、俺は、」
悪夢のようだった。誰もどうすることもできなかった。そこには、ただ死という結果だけがあった。
悪夢だったら良かった。この紅き五年間、一体どうしたら良かったのだろうか。そう考えても、死に逝く老体は悲鳴を上げ、ろくな考えなど出なかった。
*
王は謀殺、大公は殺害、王子は処刑、そうして王国は茫として行方も知れず公国がファーガスにのさばることとなった。王国の民たちの反応はさまざまで、王家の滅んだことを喜ぶ者、嘆く者、憤る者、お上はまた変わったのかと世間を見つめる者、それは王の不在が王国にどうしようもない影響をもたらすことを示していた。
その渦中にあって、ギュスタヴはフラルダリウスに身を預けることに決めた。自身の当惑によって一時は教会に寄せた身である…本来なら、祈りを捧げるためガルグ=マクに残っていた方が良かったのかもしれない。
しかし、帝国は教団だけを相手取っているわけでもなく、教団に連なる王国をも狙いさだめ動いているようであって、教団に所属する騎士ギルベルトとしても、故国ファーガスを思う騎士ギュスタヴとしても二重にこの戦には迎合できなかった。そう考えれば体は勝手に王国へ向いた。何しろ、一番反旗の可能性高いのはフラルダリウスだったからである。続くゴーティエ、カロン、それからガラテア…………ファーガス東の諸侯たちは皆公国と帝国に抵抗することに決めたようだが、やはりといえばいいのか、いの一番はファーガスが盾フラルダリウス家だった。彼らの反意は凄まじく、公国がどうあろうがブレーダッドでなければ従わないという姿勢をも見せていた。
おそらく、フラルダリウスに身を寄せるのが一番よろしいかと思いまして。そう告げるギュスタヴに、時の公爵ロドリグは快く笑った。「いや、ギュスタヴ殿に協力してもいただけるとは、有り難い限りです。あ、すみません…ギルベルト殿と呼んだ方が?」
そんな中囁かれだしたのが、国境近くで暴れる蒼い獣の噂だった。曰く、身の丈のほどは二メートル、頭部は月の如き金で衣は蒼、そして帝国兵の血を啜る! そんな獣の話だった。国境に出て帝国の者どもを殺し、去っていく。その上、馬車を持ち上げ牛を引き倒し、あげく人の首を素手で刈り取る、ということだった。ここまで揃えば答えは一つしかない、ディミトリは生きている。
しかし、一つだけ危惧がある。その獣がディミトリだとすれば、何故フラルダリウスやゴーティエの忠臣のもとに帰らないのか。ギュスタヴには、ディミトリと彼らとの間に深い深い断絶があるとしか考えられなかった。
そう囁けば、ロドリグは朗らかに笑んだ。「けれど、生きていただけでも僥倖ですな」それは、その通りだったけれども、生きているだけで価値があるのなら、彼のことを心配する暇はない。王は王たらんとしてあるとき価値がある。本当に冷酷ながら、このファーガスでただ生きる者はいないのだ。
とにかく、ディミトリが生きているのならその身ひっ捕らえてなんとか王に仕立て上げねばならない。言い方は悪いけれども、彼の身流れる血には責任がある。王族としての血、ブレーダッドの蒼き血液! ファーガスを真に従え平定するのは、ブレーダッドの他いなかった。人を束ねるのであればフラルダリウスでもいい、ゴーティエでもいい、カロンでもいい、けれど、騎士たちが膝折り首を垂れるには王族でないと駄目だった。そういうふうに、できている。
そんな訳だったから、ギュスタヴはフラルダリウスに協力を得ながらディミトリと思われる噂をひたすら追っていた。噂の発生源の多くは帝国に面する国境近くの村々であったが、ときたまカロンの方で獣の話があがり、ガラテアの端で名前が聞かれたりした。その足取りは神出鬼没、ディミトリは一体どこにいるのだろう? 追ううち、やはりギュスタヴの心情は落ちていく。村を救うよりも先に、王都を取り戻し王国としての姿を復建させた方が、村のひとつひとつは助かるだろう。それがわからぬディミトリでもあるまい。では、蒼き獣とはディミトリではないのか。しかし、月の如し髪を持ち、馬車を持ち上げる力を持つなど、ブレーダッド以外に思えない。
諦めきれず、しかし危惧は増大し心を蝕んでいく。そんな五年に終止符を打ったのは、ふと逗留したある村での話だった。
その村はやはり国境近く、帝国の手迫るような立地だった。領主とて全てに手が回るわけでなし、その村々はほぼ放棄されているようだった。
その頃ギュスタヴはファーガス騎士の印は隠し、まるで傭兵か何かのように振る舞っていたから入り込めていたけれども、きっと教会だのファーガスだのの素振りを見せればすぐにでも捕まってしまうようなものだろう。
村が放棄されたとて、人がすぐにいなくなるわけではない。特に農民などは、命よりも土地を優先するようなものだ。帝国兵入り込む村の中で、農民たちは息を潜めて生きていた。…本来ならば、王国の民からは悪鬼羅刹のように唄われる帝国と言っても好き好んで大殺戮を行うわけでもない。力のない村人たちなど、何も抵抗せぬのなら放って置くのが常道である…。それに、食物を作るは農民の責務だ。それを殺すなど為政者としてあってはならない。
だから、旅中の事情でその一部始終を見守ることになってしまったギュスタヴも、特に何をすることもなかった。下手に反抗して村ごと潰されてみろ、目を当てられぬ。早く、王が戻ればこの地にも兵士を送り込める。そうすれば…そう思ったところで、王はいなければ王子の影も形もなかった。
しかし、その村の運が悪かったのが…そこに屯する帝国兵の一人が、ほんとうに考えなしの若者だったことであった。この戦争がなければ剣を持つこともなかっただろう女好きの放蕩屋、平穏の時代に生まれていればただのお調子きどりの狼藉者として扱われていたであろう者だったが、こと剣、勝利、戦争は人を変える。
件の彼にとって、駐屯した元敵国の村に住む若い女など、ただの売女にしか見えなかった。
夜道に若い女の叫びが響く、しかし女が近くの家に駆け込むことはなく、そうして夜が明ける。女たちはひとりひとり顔を暗ませ口をつぐむ。何しろ、帝国兵に犯されたと訴えたところで何にもならない。反旗を翻すかと思われたら終わりだった。
ここまで来るとギュスタヴとて黙っているのが辛くなる。明日にでも伝書梟を飛ばし、なんとかならぬものか、しかしこんな辺境の村を取り戻して何になる、下手に刺激すればこの村は潰えその隣の村だって、……。まったくどうしようもない状況だった。
そんな時だった、獣のうわさが聞こえたのは。近くの森で、蒼い外套に金の頭が見えた。ありゃあ、噂に聞くところの獣だろう……村人たちはそう噂した。帝国兵たちは茫洋に森に偵察を差し向けた。ギュスタヴも急いで森へ向かい探した、探し続けた。けれどもいない、痕跡すら見つからない。
何日かすれば、ぱたりと噂も証言も止んでしまった。
今回もまた空振りか。生だけは匂わせながら、その身を欲されれば逃げる。正直なところ、一番駄目な選択肢なのだ、そんなものは。ギュスタヴに言わせてもらえば、ディミトリの動きとは叱責に値するものだった。王子が生きていると噂で聞く王国兵たちは期待する、しかし見つからぬ、戦況は悪くなる、けれども王がいるかもしれないと思えば立ち上がる。ファーガスは諦めない、それは王の実存を信じ続ける頑迷者ばかりだからだ。
ディミトリが姿を表し村を救うたび、何故こちらに来ないのかという恨みが募る。
それがもう五年も続いていたのだった。
けれど、そのどうしようもない五年間に終止符が打たれる。それはある月の明るい夜のことだ。
その日、件の帝国兵はやはり女を襲おうとしたのだろう、夜道には叫び声が上がっていた。ギュスタヴは、その頃になると、姿は表さず自然現象や動物のいたずらの如きことを仕出かし、なんとかその行為を止めようと動いていた。
声の近くに追いつけば、今度は男の声が聞こえる。「あぁっ、あ、あァ…! 痛いッ」叫び声! ギュスタヴは知らず足を早めた。反撃したのか。この村の、この状況で。いや、そうせねば身を守れぬと踏んだか? 今すぐにでも伝書梟を飛ばすべきか。その数瞬でさまざまな思惑が飛び交ったものの、しかし霧散するに至った。月下の元を見れば、誰でもそうなるに違いない。ギュスタヴは黙って、…否、声の一つも出なかった。
月下の元、そこには獣が立っていた。蒼い外套、金を照らす髪の毛、手には壊れた槍、フォドラ人にしては大柄な体躯。そのすべてが、そしてギュスタヴの経験則のすべてが、彼は誰でもない「ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド」なのだと叫ぶ。月はすべてをみはらかす、太陽から隠れようともがく者も月光の明るさには太刀打ちができない。ディミトリは月からは逃れられない。
「……ギュスタヴか」小さく口が動く。彼の瞳はまるく見開かれ、驚きを隠せないようであった。彼の手が槍から少し緩まる。その時。
「…! ハァッ、クソッ、ウウ…」
好機と見たか、槍の元からかの兵士が抜け出そうとする。瞬間、ディミトリの顔から表情が抜け落ちる。小さく振りかぶると、槍は帝国兵の腹部を貫き、終わった。
どうやら女はもう逃げ去ったあとらしい。そこにはギュスタヴとディミトリしかいなくなってしまった。
「殿下なのですか、…ディミトリ王子殿下…」
「……もうその名前は捨てた、フ、お前のように…」
「何をおっしゃいます、あなたは、あなたこそブレーダッド最後の後継であらせられると言うのに」
「ディミトリはもう死んだよ!」
彼は妙に自棄に成り果てて、先程の兵士の死骸を踏みつけ槍を抜いた。確かに、ディミトリ王子殿下とは思えぬやり口だった、その動作だけを見れば。
ディミトリは半ばうんざりしたように死体を見、くるりと踵を返した。
「ギュスタヴ、東の側に女が逃げ去っていった。…どうするかはお前次第だな」
「殿下、…お戻りになられる気はないのですか」
焦って言葉を連ねるギュスタヴに、ディミトリは少し馬鹿にしたような目をして言った。
「この有様の者がファーガスに戻って何をしろと?」
それは一面では正しく、しかし裏面では正しくない。何をせずとも、王がいる、それだけで価値になるのだ。否、王がいないことが破滅の原因となる、それを取り除くためだけにいるべきだ。
ディミトリは足を止めている。ギュスタヴの言葉を待っているのだ。ならば言ってやろう。
「王です、ディミトリ王子殿下!」
ディミトリは鼻で笑う、「…言うに事欠いて…馬鹿馬鹿しい。お前たちは獣にむりやり王冠を被せままごとでもする気か?」
「………殿下、あなたがどう思っていらっしゃるのかはわかりませんが…
ままごとだろうがなんだろうが、生きている国民がいるのです。あなたの存在を信じ剣を振るう兵士がいるのです。あなたが自身のことを獣と断じようが、王だと思いこんでいる者の方が多い」
ギュスタヴは、自身が思っている以上に声を荒らげていることに驚いていた。これは怒りか? 違う。これは悲しみか? 違う。これは、失望だった。彼への。
ディミトリはギュスタヴの眼差しを受け、失意を感じ取ったようだった、顔を俯ける。まるで叱られた子供のようだ。ギュスタヴは、何度もこんな状況を見たことがあった。経験と同じなら、つぎの瞬間には、こう来るはずだ、「ごめんなさい」と。
「…………」
「殿下、フラルダリウスに帰りましょう。皆あなたを待っています、ファーガスの正当な後継者が王国を取り戻す、……。そんな美しい物語があればいいと、皆待ち望んでいるのです」
ギュスタヴの言葉は届いているはずだった。その耳朶に、相違なく。けれど、ディミトリはにべもない。
「ならばギュスタヴ、教えてやれ。お前が。
最早王子は死に体、可食部などひとつっきりも残していないとな。
ファーガスにはもっと似合いの者がいる…俺は帝国へ向かい、あの女の首を落とさねばならない」
「殿下……」
言葉の応酬こそあるものの、しかし会話になっていない。当たり前だ、ディミトリに話を聞く気がない。
ギュスタヴは、ひとつ賭けをしてみることにした。
「…殿下、…あなたはこの村の状況をご存知でしたか?」唐突にそう聞いたギュスタヴを胡乱げに見ると、ディミトリは言った。
「帝国のネズミどもが這っている、早く駆逐せねばならんな」
やはり。そうでなければ、こんな衝動に任せこの兵士を殺さない。要するに、彼は知らないのだ、自身がやったことを。
「殿下、それは…それは違います」
ギュスタヴは続けてわけを話した。村は帝国にほぼ占拠されている事、領主からの助けがないということ、そしてディミトリの振るった槍によって状況は悪化したこと、その全てを。
「あなたのしていること、すべてを否定する気にはなりません。けれど、この兵士の死でこの村は滅ぶでしょう」
ディミトリは息を呑み、そして、黙った。先程までぺらぺらと悪意を垂れ流していた唇は難く引き結ばれている。
「あなたが生きて痕跡を残して動くたび、まだ王子殿下は生きていると喜ぶ兵がいます。まだ諦めなくてもいいと鼓舞される子供がいます。
あなたはどうしますか?」
ディミトリは項垂れてギュスタヴの言葉を聞いた。まるで、ほんとうに、何にも気がついていなかった子供のようだった。
「お前、…………俺がフラルダリウスにゆけば、満足か」
「……ええ、そうですね」
ギュスタヴはここに来てまでそんな物言いでしか意志を伝えられぬディミトリに、幼き頃の姿を見た。彼は案外、頭でっかちで頑固者なのだった。まったく嫌なふうに育ってしまった、そう思った。
結局、村はほとんど消えた。というのも、逃げ去っていった女があの兵士は殺された、きっとあたしたちのせいになる…と騒いだからである。皆、天秤はもう崩れ去ってしまったとさっさと逃げてしまった。逃げられない者は、どうやらディミトリがその身を預かり、「獅子王隊」などと呼ばれているらしい。
ギュスタヴはそれを見て、きっとこういうふうなことを、ディミトリは何遍も繰り返したのだろうという確信を強めた。
ギュスタヴは彼の姿を見て思った。これから、どうすればいいのだろうか? そんなことを。
*
そうして、ディミトリはフラルダリウスに加わった。時にして孤月の節、遠く教団があの教師を擁立して立ち始めているらしかった。しかし、ディミトリにとってそんなことはまったく関係ないらしい…、フラルダリウスに来てからというもの、日々の時間の大半は死者と喋っている。そんなふうだった。
「生きていて良かったですなあ」
「………ええ、それはもう、本当に」
フラルダリウス公ロドリグは、ディミトリを目に写し笑った。彼はいやに笑顔で、今の王国の状況をわかっているのだろうか? ギュスタヴにそう思わせた。
「これで王都に行ってくれたら完璧なんですがねえ」
「…そうはならないでしょうね」
ギュスタヴは驚くほど冷静に、彼の願いを否定した。それは彼の…というよりも、軍全体の願いかもしれなかったが、しかし絶対に叶わぬだろうという諦観があった。
「無理ですか? ギュスタヴ殿から見ても」
「…旧王国軍に、王として迎え入れる、その時点でこの軍は彼のものです」
「そりゃ、そうなんですがね…、いや、まあ…そうですね、まったくそうだ。」
ロドリグはどこか遠い目をしている。ギュスタヴは彼の表情が、先ほどから少し翳っているように見えた。
「…ギュスタヴ殿、正直に言ってしまいますが、私は彼を止められるほど強くないんです、もし、彼が頭から落ちたような憎悪の滝があるとするなら、私はなんとか淵に留まっているにすぎない」
これは告解なのだろう。ギュスタヴは唐突にそう思った、これはロドリグの告解…それも、まだ罪も犯していぬというのに、今から未来の告白をしている。これからこういった罪を犯します、と。
「どうすればいいんでしょうねえ、一番いい結末にたどり着くにはどうしたらいいんでしょう…」
その疑問は、全くギュスタヴもおんなじものを持っていた。彼がこうして戻ってきてからというもの、より強く、どうすればいいのかという諦観じみた疑問が頭をよぎっていく。
そんな中、ディミトリからある提案があった。「次の節にはグロンダーズに行く」それは、そういうようなものだった。
ディミトリの声はやたらと夢心地で、発話もうまくいかぬ子供のようだった、それも皆を驚かせた。もしやこの王子は半分正気でないまま、自身がゆきたい方向へ進軍路を決定しようとしているのか? これにはさしものロドリグも多少驚いたようだった。
「殿下、もうしばらくお考え直しください。今グロンダーズに行って何ができるというのです? 皇帝の首に近づけると言ってもね…、無茶でしょう、さすがに?」
ディミトリのふややかな声色に対するフラルダリウス公ロドリグの対話は、ずいぶん突き放したものだった。彼の平素より、少し呆れたような…硬いような色があった。それも仕方のないことかもしれない。今の王国の状況を考えれば、まったく無謀なことだった。軍を動かしたとて、勝てる戦ではないのだ。
それよりも、王都の奪還に走った方が良い。帝国が、同盟が、グロンダーズに行くのなら、公国の攻める手も落ち込むだろう。フェルディアをこの手に取り戻すためには、きっと、このグロンダーズが最後の機会だ。
「…王都を奪還するよりも、皇帝の首を取ったほうが早い。お前たちとて俺を擁立するというのなら、そういうことだろう」
「それが無茶だと、そう言っています…それに、あなたの決意に身を寄せているわけでは…」
「……俺一人ならば、なんとでもなる、無茶でもなんでもない。
嫌だったら来なくても構わない。俺はお前たちを利用するだけだ」
彼はまるで駄々をこねる子供のように言った。事実、内容だって子供みたいだった。
「殿下、だとしても一度王都に戻りま、」見かねてギュスタヴが言いかけた時だった。
ばしゃん!
ディミトリの頭が赤く染まる。髪の毛に、果肉が絡まる。……つまり、トマトだった。ディミトリの頭にトマトが直撃した。そういうことだった。トマトはぼたぼた音を立てて地に落ちる。しかし、果汁と果肉の多くはディミトリの頭に残されたまま、動かない。
「殿下、………ああ…」ロドリグは呻くように言った。
ギュスタヴが振り向けば、人の波の後方からざわつく声がする。そして、多少の笑い声。つまり、犯人は兵士ということだった。事実、今のディミトリに反意を持つ者など、おそらくフラルダリウス兵しかいないだろう。そう考えれば当たり前であった。
ディミトリは頭の後ろに手をやった、自身に何が起きたのか、ジイと確認した。そして、正しく把握し終えたあと、フラルダリウス兵たちの波に向き直った。
「……」
口を開いては閉じ、閉じては開いた。
「…フン、俺に反意ある者はさっさと抜ければいい。俺はついてこいなどとは言っていない」
ギュスタヴは思わず頭を抱えた。この後に及んで、彼の言い分はまさしく拗ねた子供だった。
ディミトリはもう一度兵士たちを睨むと、踵をかえして天蓋より去っていく。ギュスタヴはロドリグを見…彼が小さく頷いたので…ディミトリの後を追った。ロドリグはこれから、軍の兵士たちをまとめねばならない。おそらく、相当骨が折れる事だろう…。
探せばすぐに見つかる。ディミトリは拠点近くの湖で、頭を流していたようだった。
「殿下、……無事ですか」
ギュスタヴはそう発声して、なんだか馬鹿馬鹿しくなった。無事も何も、事実上はトマトを投げつけられただけなのだ。
彼は湖に向いたまま、応答した。「ギュスタヴか。何故追ってきた」
「いえ、……心配になりまして」
「そうか」
何故か、ディミトリの声はいやに落ち着いていた。いや、むしろ平坦すぎるほど平坦だ。もっと人らしくあるなら、抑揚が必要なほどだった。
「…」
「…」
流れる沈黙、ギュスタヴは所在なく立っている他なかった。手伝えばいいのだろうか。ただ、頭を洗うだけのことを?
「お前、……お前も、ずいぶん……辛抱強いな」
ここに来て、ディミトリの声の調子は戻った。やはり、先程は無理をして凪いでいたのだろう。そんなことを予想されてしまうくらい、今の彼はその臓腑を無防備にさらけだしていた。
「辛抱強くなど、ありません。いえ、その…どういった意味ですか」
「……よくお前も俺についてくるな、そういう意味だ」
ディミトリは頭を洗い終え、しかし振り向かない。
「それは、……いえ……、あなたが……」ギュスタヴは絞りだすように口にした、言っていいのか。あなたが、「王子だから」皆ついていっている、そんなことを? 否、本来なら彼だって知っているはず、思い知っているはずなのだ。しかし、こと今のディミトリはいやに子供らしかった。こんなひどい現実を眼前に突きつけてしまえば、どうなるかなどわからなかった。「あなたが、…」言えない。ギュスタヴは、言えなかった。
すれば、ディミトリは勢いよく振り向いた…、たぶん、衝動的に。
「お前は俺が間違っていると、そう思うか?」王子は子供の声で、そう呟いた。眼ばかりが血走っていて、しかし声色はまるでギュスタヴが教導していたあの頃のよう、今の王子はまるきり不安定だった。だから、ギュスタヴとて、そういった不安定な人間に似合いの言葉をかけてやらねばならなかったのかもしれない。けれど、ギュスタヴにはどうすればいいのか、まったくわからなかった、まったくだ!
「……私は、王都に戻って欲しいと思います」
言った瞬間、しまったと思った。
「…なんで? どこが」どこが間違ってるんだ。わからない。わからないんだよ、ギュスタヴ! 溢れる言葉は涙のごとく、しかし色は真っ赤なのだった。ここにきて、王子の声はまったく子供の駄々だった。ふと見ればそれはひどく醜悪で…、何しろ、年嵩も二十を越した男に似合うものでは決してない…、しかし本当の心を叫んでいるのだろう、真剣さがあった。
事実、彼を総大将として無理矢理祭り上げたのは、責でがんじがらめにしたのは、ギュスタヴと国民と、その生まれだった。彼に責任はあっても、彼が駄々をこねるのは自然な形だ。とっても醜悪で、ひどく物悲しい。
「殿下、…あなたは、今、父祖に顔向けできますか。それを考えれば、」
「そんなこと、…………俺は未だ殿下と呼ばれるのか、処刑されてなお、俺には殿下という称が使われるのか、ああ、…そうだろうな」
彼は生まれてこの方、ずっと「殿下」と呼ばれていた。王子殿下。そう言わなかったのは、彼と血を分けた父親と、一握りの友人たちだけだった。ギュスタヴはディミトリの名を親愛の形にして言葉にしたことなどなかった。当たり前だった、そんなことは。
「どうすればいい、俺は…どうすればいいんだ」
「そんなこと」そんなこと言われたとて、ギュスタヴにはわからなかった。この状況、最早虫の息すら聞こえぬファーガスに、どんな特効薬があるのだろうか。きっと女神にもわからない。いや、女神こそが現状を願いたもうたのだ。そう思える程度には、今のファーガスはぐちゃぐちゃだった。
「どうしたら良かったんだ、みんな、みんな…俺にはわからない言葉で喋る」
そんなことはなかった。きっと彼が聞いてないだけ、聞けないだけ。憎悪に頭を占拠されていて、何も聞こえない、ただそれだけだった。
「……わかりません」
「ああそうか、お前にもわからないんじゃ、仕方ないな…」
ディミトリは急に落ち着きを取り戻し、ギュスタヴに背を向けた。
「拠点へ戻っている。俺は、グロンダーズへ行くから…、お前は戻って来たいなら…来い」
そう囁き、歩き出す。少しばかり、早足で。
*
その背を見送り、ギュスタヴは呟いた。
「あなたの存在こそ、私の救いでした」
ディミトリがいなければ、おそらくきっと、ギュスタヴは駄目になっていた。唯一救えたディミトリの存在こそ、ギュスタヴの存在証明のようなものだった。
何も不明だけれど、彼の生だけは、ギュスタヴに盤石の価値がある。ただ、それだけは言うことができた。
どうすればよかったのだろう? グロンダーズは、王国軍の敗北で終わった。最早よく見えぬよく動かぬ目を首を駆使して周りを見渡せば、死体の山があった。
「ギュスタヴ…」
上空から声が聞こえる。見上げれば、なんて顔をしているのだろう! ディミトリはギュスタヴよりもよっぽど死相のある顔をしていた。
どうしてやればいいだろう? こんな顔をしている教え子にできること、それは?
ギュスタヴはディミトリの手を取った。その手は冷たく、そしてぼやけて定まらない。 彼の爪がさくらがいのようだった頃から知っている。彼の手のひらがふくらすずめのごときやわらかさであった頃から知っている。いつの間にか騎士の手になって、そして、獣の爪を手に入れて、それから。それから、惑うて惑うて終いにどうしようもなくなって老人のてのひらを握る迷子の手になった。そうしたのは、ギュスタヴだった。
「ギュスタヴ、……ギュスタヴ……あゝ……」声が遠い。
ギュスタヴは真上にある空色を見つめた。それは酷いことに乾いていて、湿ったふうのひとつもないのだった。それが、可哀想でならなかった。昔…といっても少しだけの昔には、彼の瞳からはよく涙が流されたものだった。何度ぬぐってやったか知れない。きっと、彼の本当の父より母より継母より多かった。それが、ディミトリとギュスタヴの繋がりだった。
「殿下、殿下、よくお聞きなさい」
ギュスタヴの口は何故か勝手に動いた。
「ここより下れば街道に出ます、駆けていけばフラルダリウスまで続く、大きな街道です。古くグレンとも行きましたね?」
確認は、彼に届いているのだろうか。ディミトリの表情はもはや見えなかった。
「…そう…ええ…私の体は捨て置いて……そうです、あなたの考えるとおりに。ロドリグ殿はきっともう、もはやかの王の元に、ええ…けれど領地を守る彼の兄は未だ健在です…」
「あなたは生きることができます。きっと」
何故こんなことを喋っているのだろう。ここでディミトリを生かすことなど、意味の何一つなかった。
どうすれば良かったのだろう? ギュスタヴは少しづつ息を吐いた。そういうふうにしなければ、きっと唇からは弱音のような泣き声のような、否寒さ香る隙間風のような音が出てしまうだろうからだ。ことここに至ってなお、声を上げてなげくことなど、ギュスタヴはできなかった。そんなことができるのなら、きっと目の前の王子は獣になどなっていなかった。けれど、それは夢物語なのだ。ギュスタヴは、自身を失うほど目の前の王子を愛することなどできなかった。この身尽きるまでの愛など、持てなかった。ギュスタヴの世界の全ては、ブレーダッドに費やされていた。獣ではなかった。ディミトリ個人でもなかった。ただ、騎士たる自身の生にあった。
どうすれば良かったのだろう? どうすれば、彼のまなうらに春が来たのだろう。ギュスタヴにはまったくわからなかった。女神にだって、わからないだろう。全知万象を知るといったって、自身と彼には、救いの手など差し伸べてくださらぬだろう。わからないのだから。どうしようもないのだから。
そう思わねば、生きていけない。
何か他に、もしかしたら、道があったのかもしれないなんて、そんな残酷なことは、思ってしまっては壊れてしまう。ギュスタヴは長年の経験から、自身を痛めつけて、しかしほんとうのほんとうに哀しいところには瞳を向けないという術を培っていた。
ディミトリが、何か決意したような瞳をしているのだって、彼の最後の言葉だって、ギュスタヴはその術で持って、何も知らないまま、目を閉じたのだった。
「今になってわかった、どうすればいいのか、どうすれば良かったのか」
ディミトリはそう囁いた、それを聞いているのは、かつて士官学校にいた、妙な瞳を持つ男、その情景だけ。あなたについていけば、何か変わったのか? ディミトリはそんなこと信じきれなかった。ディミトリがこの九年の間で信じられたことなど、死者の声以外になかった。
それも、もう聞こえなかった。
「なあ、先生、俺の選択を、お前だけでも知っておいてほしい……」
ディミトリは目を閉じ、縄を握った。それで全てが終わった。
紅花の章
・ディミトリが死んでます
・ディミトリとギュスタヴの話と言うよりか、ギュスタヴとアネットの話になりました。しかし、私はディミトリとギュスタヴの話だと思っています。
・かなり挑戦的にキャラクターの行動を決めています。キャラクター崩壊と思われる可能性が一番高いです。
一一八六年孤月の節三十一日 タルティーン平原の戦いにて、帝国軍勝利。ディミトリ率いる王国軍を撃破、揚々王都フェルディアへ針路を決める。
(将ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド、シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ、ドゥドゥー=モリナロ、メルセデス=フォン=マルトリッツ 死亡)
遠くで炎のはぜる音が聞こえる。燃えている。王都フェルディアが、燃えている。
その王都を、ギュスタヴはひた走った。王命があった。この身を生に縛りつける、やわいお願い事の形をした、王からの願いがあった。だから、ギュスタヴは死ぬわけにはいかなかった。
生きて、生き続けなければならなかった。王命にかけて。
*
タルティーンには死の河が流れている。戦死した兵士たちの血でできたその河は、雨で流れようとしていた。しかし、洗い流されたとしても、この平原から死の香りが無くなることはないだろう。それだけの戦いがあった。
ギュスタヴとアネット、それから王国軍の何人かはタルティーンへ死体の「回収」にきていた。タルティーン平原の争いは、王国の敗残を迎えた、国王の死という絶大な犠牲を払って。だから、これは敗戦処理というものだった…死体を回収し、遺髪や遺物を持ち帰り、供養する、ほっとかれている国王の遺体を回収する。誰かがやらねばならぬことだった。
一つだけ幸運なことがあったとすれば、その死体処理をただ見守られているということだった。血も涙もないと謳われる帝国軍でも、たかだか一個師団にも満たない程度の少なさの兵士たち…しかも歳若い者! …を追撃する非道さはないらしく、遠目にこちらを確認し自国の兵たちの救護や回収に走っている。ギュスタヴとて歴戦の兵士だ、攻撃に転じられたとしても、死ぬつもりは毛頭なかったけれども…何しろ、王命があった…、死ぬわけにはいかなかった…、面倒なのは明らかだった。
そんな状況を危惧してか、カトリーヌなどは死体の回収など無理だろうと言って聞かなかったのだ。それより王がいなくなった今、どうするのかを考えたい。そう言うカトリーヌを押し切り、せめてディミトリやシルヴァン、メルセデス、ドゥドゥーの身体だけでもと言ったのはアネットだった。お願いします。そう深々と頭を下げるアネットに、カトリーヌは大仰にため息をついた。
「しかしなあ…正直、あの皇帝に戦場での礼儀を欲するなんて、無謀じゃないか?」
常識的に考えれば、ひとつ敵将討ち取ったなら、その死体を預かりに来た敵国の者は討たない、そういう暗黙の了解がある。戦が終わったなら、そこは最早戦場ではなく、ただ死体転がる平原なのだ。
しかし、今王国に残る兵士で帝国に対して情残る信を置いている者など皆無だった。
アリアンロッドは光の中に消え、フラルダリウス公とその嫡子フェリクス、ガラテアがイングリットは死体の一つも回収できなかった。それを聞いたガラテア伯は目元を抑え言った。私は皇帝を許しません。きっと、一生。
「申し訳ないが、死体がなくたって葬儀はできる。死にたくないのだったら、諦めたほうがいい…」
「でも、でも! あの平原に放って置くなんて可哀想です、メーチェも、陛下も、シルヴァンも、ドゥドゥーだってきっと帰ってきたいって思ってると思います」
ともすれば、堂々巡りになりそうになった議論に、ひとつ声を上げたのはギュスタヴだった。
「…カトリーヌ殿。私からもお願い申し上げます」
「へえ。ギュスタヴおじさまも? なんていうか、似たもの親子だねえ」
「カトリーヌ殿」
ハハハ、悪い悪い…カサンドラはそう言って笑った。
「ま、ギュスタヴ殿…あんたは死なないだろうね、そこまで言うんだったら。
そんなに言うなら止めないよ。……正直、こんなこと言うのもどうかと思うけど…、あんたたち二人と、まあ何…少数の兵士のために血を流すほど帝国も馬鹿じゃないだろうさ」
かくして、死への周遊は始まった。軍の中で、死者を弔いに行く者はと問えばばらばらと手が上がった。一部からは危ないのではないか、という言葉も出たものの、行くと決めた者の目を見れば皆黙ってしまった…、何しろ、彼らの目は大抵諦めの光を湛えていて、そば近くに死者を思っているようなさまだったからだ。本当なら、死を思うなど愚劣の極みであると怒りを覚えるものなのかもしれない。次の節には王都へ攻め込まれる。そんな状況で死を思うなど故国も守れぬ軟弱者と言われても仕方がない。
けれど、この王国軍の中で誰も死を思う心を否定することはできない。彼らは…否、王国の民たちは皆誰かを喪い立っている。家族、友人、恋人、隣人、そこに差などない。であるなら死を思うのもまた必然だろう。かの王がそうであったように。
人は身近な死者を背負わずには生きてゆけない。ただ二本の足だけで立つのは一匹狼だけなのだ。
そんな中で、ギュスタヴだけは別のことを考えていたのかもしれない。要するに…死者のことではなく、生者のことを、そして未来のことを。
なんとかアネットを逃してやれないものかと、そういう思惑を持っていた。
このファーガスに、未来はない。死へ向かっていく大きな一団だ。それはギュスタヴの素朴な確信ながら、真に迫っているように思えた。王は死に、ファーガス第一の忠臣も死に、次の節には帝国軍はフェルディアへ至る。大司教レアは熱に浮かされた如く皇帝の首を欲している、王国を保護しようという意志は特段見えない。
今のファーガスから、アネットを逃さなければならない。そうギュスタヴが思うのは当然だった。人の親なら、誰でもそう思うだろう。今にも崩壊する王国に、娘を残す父親がいるか? ギュスタヴの今までの所業を考えれば、そんなこと口が裂けても言えぬ。しかし、そもそも生かしたいなどという願いこそ我欲だ。ひどく自己中心的な! 本人の意志など関係なく、生を続けていてほしい。
ギュスタヴにとって、生を続けることは贖罪に等しかった、生きることが辛いのだから生きている。泥濘の中を祈り続けるだけ、それが人の生。しかし、それでも、妻と娘には生きていてほしかった。もしかしたら、それこそ罪なのかもしれない。
向かうタルティーンはオグマに近しい。オグマ山脈…猛々しく人を、生き物を拒む山は、ファーガスとレスターの間に敷かれる大きな障壁だ。しかし、逆に言えば帝国だってゆめゆめオグマを登るわけでもない。山賊にさえ気をつければ、身を隠すにはちょうど良いのだった。オグマからレスターを越え、パルミラへ。パルミラとレスター諸侯同盟は長らく敵対関係にあったものの、この帝国の進軍によりいくらか王国・同盟からの避難民が渡ったらしい。悪い待遇は受けていないそうだぜ…そう語っていたのは、もう王国に見切りをつけて出て行った傭兵師団の団長であった。
だから、タルティーンに幾らかの兵士とともに向かうなどという話が出たのは、まさしく渡に船であった。娘アネットは、おそらく心から戦死した者たちの弔いに行きたいと叫んだのだろうが、ギュスタヴはその思いをそのままに利用した。
本来なら、ギュスタヴも同行できれば良かった。けれど、それは絶対にできない。ディミトリから拝命した王命は、彼をファーガスから離さなかった。
カサンドラは、アンタたちは似た者親子だね、なんて嘯いたが、何のことはない、似た者でも何でも無く、ギュスタヴは自己嫌悪がより高まるようだった。しかし、どんな手を使ってでも、ギュスタヴはアネットに生きていてほしかった。ただ、それだけだった。
タルティーンに足を踏み入れれば、そこは地獄の如き様相を呈していた。足の踏む場もなく死体の山、地に打ち捨てられた蒼い旗。予想していたこととはいえ、この有様に表情の動かぬ者などいぬだろう。一つ足を踏み出せば、死体に当たるような有様だった。けれど、時間は経ってゆく。来節には帝国がフェルディアに来ることを考えれば、急ぎ死体を回収して供養し帰らねばならなかった。
ギュスタヴは兵たちに指示を出した。この様子では見つかるものも見つからない、先に陛下と各将のご遺体を見つけろ。そのようなことを。遠くに帝国兵の拠点も見えるようだが、おそらくこちらから攻撃意思のない限り、打って出て来はしないであろう。
「父さん、あたしも行ってくるね」
背から声をかけられる。アネットは何も知らぬ顔で走り出そうとしている…、ギュスタヴは一瞬見送りそうになり、はと気が付いた。最初の思惑、アネットを逃すということを。
道中、何度か言い出そうかとした。しかし、その度周りの兵が気になり言い出せない。それに、自身の勝手で彼女を逃がそうとして良いものか? そう頭の奥ががなりたてているのだ。けれど、この機を逃しては……。
一瞬の逡巡の後、ギュスタヴはアネットに声をかけた。
戦場より少し離れ、近目にもオグマが見える。ギュスタヴは、かの山麓を指差して言った。
「オグマを乗り越えれば、同盟だ、アネット」
ギュスタヴはアネットの薄い肩に手のひらを重ねた。一節前より、痩せたような気がする。当たり前の由、王国の備蓄はほとんどなく、前線に出る者以外に食料の配布などは微々たるものだったからだ。
「…父さん、何が言いたいの」
「同盟は帝国と相対こそしていたが、真実敵対にあるのは教会と王国だ、デアドラが落ち帝国の傘下に入ったとて、すぐに影響は受けまい。
…王国はきっともう持たない。レア大司教が生きている以上、皇帝はその手のひらを休めぬだろう」
ギュスタヴは言葉を連ねた。手には少々の食料と、地図、連絡先、それくらいのものしかない。日も暮れる。急がねばオグマを越えることなど不可能であろう。
「…何それ?」
「お前は逃げろ、そういうことだ」
彼女だけでも、どうにか。いくら帝国と言えど、うら若き少女一人を追いかけて殺すほど暇ではないだろう。
オグマを見晴らせば、デアドラが見える。水の都は、何節か前に血に包まれたと聞いた。妻との新婚旅行で行った都市だった。あの頃の姿は、未だあるだろうか。
ギュスタヴは、恐ろしくて、彼女の方など向けなかった。手が震えていないだろうか。それだけが気にかかる。何故だろう、父として、娘の生を願うことの何が罪なのか? 自身が生の幸福を一切信じていないのに、願うことが罪なのか。ぐるぐる回る思考は散逸し、答えは一生出ない。悪路にはまり込んだギュスタヴを無理やり引き揚げたのは、かの娘の声だった。ひどく、硬い。
「嫌」
その簡素な音に、ギュスタヴは振り向いた…、予想はしていたけれど、やはり拒否されるか、そういう諦観があった。
「…アネット…」
「メーチェは陛下について行ったんだよ」
彼女の目はジイとギュスタヴを睨んでいる。彼女の親友、メルセデスは、自分からタルティーンに行った、自分から、辺境伯から兵を借りて。
「…お前には、未来がある、きっと…まだ…」
言葉を重ねれば重ねるほど、アネットの目は鋭くなっていく。
「意味わかんない、そんなの皆同じじゃない! 父さんだって残るんでしょう、ねえ…」
父さんだって、逃げないんでしょう。何であたしだけ、逃げるの。アネットの唇はそう動いた。逃げる。彼女は、そう言った、そういう、言葉選びをした。
「私には王命がある、逃げられはしない。」ギュスタヴは眉間を抑えた。「けれど、お前は違う。生きるんだ、アネット…」
「馬鹿にしないで」
彼女は明確に、ギュスタヴを睨みつけた。
「あたしが逃げてもいいって言うなら、父さんだって逃げたらいいじゃない、逃げて、そして生きればいいじゃない!」
「それはできないんだ、アネット! 聞き分けなさい…」
「なんで? もうファーガスが終わりで、もうだめだって言うなら、父さんも一緒に逃げてよ。
父さんは、このファーガスをまだ信じてるんだって思ってた。だから、ここにいるんだって思ってた。そうじゃなきゃ、母さんのところにでも、行ってるでしょう。
でも、そうじゃない…、王国がだめだって、そう思うなら父さんだって逃げなきゃいけないでしょう、なんであたしだけ逃がそうとするの?」
ここに来て、アネットの意志はひどく硬くあるようだった。彼女は、唐突な提案に驚いている。そうではない。自身が言ったものだから、反発している。そうではない。
ギュスタヴの提案が、何か…彼女の誇り、そういうものを大きく毀損してしまったのは明らかだった。彼女の怒りは、見当違いなことで侮辱された、そういうふうな憤りだった。事実、彼女の言うことには筋が通っていて、ギュスタヴがファーガスを諦めたと言うのなら、それでアネットを逃すと言うのなら、自身も逃さねば嘘だった。
「あたしは…ここに、そんなことのために来たんじゃない、父さんは違うの」アネットはうんざりした調子で首を振った。ギュスタヴは何も言わなかった…それが答えだった。
「あたし、絶対行かないから。絶対に」
*
タルティーンでの戦いは雨だった。そのせいもあるのか、兵たちの多くは泥にまみれ血にまみれ、表情は憎悪を浮かばせ、…要するに、誰が誰だかわからぬような状況だった。それでも、遺された者たちは顔にはねた泥を拭い、目の色髪の色から名前を当て、髪の一房を切り取っていった。死者の山、山、山…さすがにこの多くを持ち帰ることなど不可能だったが、遺族へのせめての手向けだった。
その中でも、すぐ見つかるかと思われた将の死体は中々見いだせぬ。彼らは他の者とは一線画す鎧を装備しているのだから、発見も容易であるはずなのに、だ。
ある兵士が言った。「ギュスタヴ殿、やはり…、やはり、帝国軍が持ち去ったんでしょう」「そうだ、あいつら…紋章持ちの血を狙うと言うだろう」そこかしこで、同意の声が上がる。ギュスタヴは止めようとして…しかし止めた。そんな意味もない。
「ねえ、父さん…、メーチェ、どこにいるのかな」戦陣の隅で天蓋を張り、その下で遺髪を数えていれば、アネットが戻ってくる。顔はより白く、悲しいくらいに土気色だ。先程散々言い合ったギュスタヴに声をかけるのだから、彼女も相当疲弊しているようだった。
それとも、諍いなどすぐにでも流してしまうような大人性を身に着けたのだろうか?
「まだ見つかっていない…」そうだろう? と眼前の兵士に確認を取れば、ええと応えが返ってくる。
「……シルヴァンとドゥドゥーは?」
「その二人も、まだだな…」
将の死体を狙い持ち去る。そんなことがあるのだろうか。ギュスタヴにはにわかに信じられなかったけれど、こんな状況になっては仕方がない。
遺髪に名前をつける。それだけでは名前が同じ者もいるからファーガス東部の出身であれば緑、南部では橙。縫い紐を巻き付けそれとわかるようにする…、段々皆の手が機械的に動くようになってきた時、一人の兵が走り込んできた。
「ギュスタヴ殿、陛下が…いらっしゃいました、見つけました…」
しかし、顔色はなぜだか悪い。どうしたと声をかければ、応え一つ。
「…陛下の上に、魔獣が覆いかぶさっていて…それで見えなかったのだと思います」
「魔獣…ああ、そうか」
死者の山の中、誰それがいない…そういう話がそこかしこで聞こえてきた。まだ数え終わっていない、そのせいもあるのだろうと諌めるが、騒ぐ兵はいや奴は確かに右翼勤務だったんですと聞かない。それつまり……、
「いない人たち、みんな魔獣になっちゃったのかな…」
「……わかりません……」
空気が重く滲む。悲嘆に暮れる皆の中、ギュスタヴは少し異なることを考えていた。
魔獣化した者が何名か…もしかしたら、何十名かいる。それでも勝てなかったのか? この戦に。そんな外法を使っても、帝国はびくとも揺るぎはしなかったのか。それは、まったく絶望的な気分になることだった。
やはり、この戦無理だろう。勝てない。しかし、降伏などしても無駄だろう…、何しろ、アリアンロッドに光の杭が落ちたのだ。戦は終わり最早誰も抵抗せぬと思われる、アリアンロッドに。
「運んでこなきゃ、どうしよう…、陛下は…その、遺体を…」
アネットは震える声で指示を仰ぐ。ギュスタヴは、半ば凪いだ心で言った。
「とりあえず、死後硬直は済んでいるだろうから、何人かで運んで来い」
天蓋の下、ディミトリの遺体が運び込まれる。もっと…状態はひどいかと思っていた。ギュスタヴの正直な感情とは、そのようなものだった。ディミトリの顔は案外美しく残っていて、四肢の一つも千切れていないのだった。やはり、帝国の考えることはわからない。首が残っている、耳も残っている、ギュスタヴの知る常識からは逸脱していた。
残っている兵士総出で泥を拭い、血を洗いながす。固まってしまった四肢は最早どうしようもないし、今更鎧を脱がしても仕様がないけれど、せめて綺麗な状態にせねばならない。皆、黙って手を動かしている。こんなこともなければ、王の玉体がこんなふうに…、乱雑に扱われることなどなかっただろう。そう思うくらいには、作業的に美しく洗われていく。
終いに、彼は簡易寝台の上に霊安された。死体の運搬には、飛龍を使う他ない。天馬では小さすぎる、馬では時間がかかりすぎる。飛龍が到着するのを、待たねばならなかった。
ギュスタヴは何だか凪いでしまった感情のまま、彼の面を見た。最後に向き合って話したのは、いつのことだっただろう。
*
「ギュスタヴ、お前の目から見てどうだ」
「どう、とは?」
目の前の王は、玉座に座っているときよりも幾分小さく見えた。座っている椅子の貧相だからだろうか、それとも衣装の簡素からだろうか、もしくは玉座には何か…人をより大仰に見せるような効果でもあるのか。ギュスタヴが思うに、おそらく、その全てで彼は酷く矮小に見えている。
ディミトリはじっと窓の外の暗闇を見つめ、言った。「明日はタルティーンだな」
ギュスタヴはその時ようやく、自身が刃を手に持っていないことに気がついた。いや、けれど王に呼ばれ私室に入った、そんな状況で、なぜ刃など持つのか? ギュスタヴにはわからない。そして、この疑問もすぐに霧散した、何故なら、ディミトリの吐く言葉がいやに衝撃的だったからだ。
「…この戦、勝ち目は?」
ディミトリの口元には笑みが浮かんでいる。けれど、声色の硬さは本物で、冗談で言っているわけではないことがわかる…、彼は時たま、冗談と見せかけ心のうちを明かすことがよくあった。
「勝たねばならぬ戦でございましょう」
「ギュスタヴ、俺はそんなことが聞きたいんじゃない」
「…申し訳ありません」
彼は一体何を聞きたいのだろう? 窓の硝子に映る彼は少し怯えたような表情をしている。
「お前に遠巻きに話をしたって無駄だな。いい、直截に言ってやる…、
俺は皇帝に勝てたとしても先生には勝てないと思う」
「……陛下!」ギュスタヴは驚きと共に声を荒げた、そんなこと、国の為政者が吐いて良い言葉ではなかった。彼が諦めれば、万の兵が死に、万の民が死ぬ。その責を、ディミトリがわかっていないはずはなかった。
「口が過ぎます。いくら私とあなたしかいない空間とて、言っていいことと悪いことがあるでしょう…あなたとて、お分かりでしょうに…」
「…いや! お前の言う通りだな。悪い。悪かった…」ディミトリは小さく頭を掻くと、ギュスタヴに向き直った。
「けれど、俺は…その、何だ…、一つ現実を見つめるというのも、必要であると思う。
アリアンロッドで敗退し、今度はタルティーンだ。…次は何だ? フェルディアだろう」
………。ギュスタヴはため息をつき、どうしようもない甘えたの教え子を許してやることにした。明日はタルティーン、雨の気配がしていた。
「負けるのが恐ろしいですか、陛下」
「…いや、違うな。正直、負けるのがどうこう…なんて、そういうことじゃない」
彼は少し苛ついたようにかぶりを振った。
「何人死んだろう、ここまでで」
その問には、答えることができた、容易に。何しろ、ディミトリの治世下では戸籍はともかくとして…、騎士登録はしっかり行われていた。そうしなければ、もし亡くなったときに遺髪も遺骨も遺族の元に届かないだろう。ディミトリの言い分は、そのような物だった。
「お答えしましょうか」
「…いらない。お前、何か言いたそうだな?」
「あなたが死者を数で計算する日が来るとは思いませんでしたもので」
言えば、ディミトリは大仰にため息をついた。その通りだな。そう返すディミトリはひどく憔悴しているようだった…それも仕方がないことだろう。戦争の責は、全て彼の双肩にかかっている。けれど、王は責を降ろしてはいけない。
「まったくその通りだな。悪い、悪かったよ。
…要するに、俺は怖いのだろうな。俺のせいで、誰かが死ぬ、そういうことが…まだ。」
平素のギュスタヴであれば、おそらく叱責していただろう。しかし、ここは彼の私室で、彼は、…ギュスタヴにのみ、ひどく柔らかい臓腑を曝け出している、そういうことだった。ギュスタヴは黙って彼の告解を聞いた。
「…いつまでも恐ろしい。父上はどうだったんだろう、北方征伐の時などは、どうやってこの恐怖心と戦っていたのだろう? 知っているか、ギュスタヴ?」
「…かの王は、弱さを表に出さぬ人でありましたので」もしくは、ロドリグになら話していたのかもしれない。しかし、ギュスタヴは詳しく知らない。思えば、ディミトリがこうして弱さを出せる相手など、自分とドゥドゥー、それ以外にいないのかもしれない。第二の父のようであったロドリグは先の戦いで死んだ。
「……そうだな。俺は俺の弱さが憎らしい……」ディミトリは両手で顔を覆い、嘆いた。
窓には雲に塗れて最早見えなくなっている月が写っている。
「…お前を呼んだのは、決してこんな話をするためじゃないんだ。ちょっと…よくないな。弱っているのかも」
彼の話す一言一言はやたらと不安定で、何だか神経症患者のようでもあった。このまま、意味のない問答を続けていても、明日に響くだろう。ギュスタヴは頼りない王に代わり、口火を切った。「…御本題をどうぞ」
「うん。…さっき言ったように…、俺はこの戦に勝利を見出していない。そもそも、こんなに犠牲が出ては、勝利したところで、快哉を挙げられはしない…、いや、そんなことはいいんだ。
ただ、一つだけ、彼のことが心配で」ディミトリはここに至って、「彼」と言葉を濁した。それは符牒だった…、要するに、隠し子のことで、この五年の間にこさえた子供だった。ファーガス最後の希望は、ばれてはいけない。帝国にみすみす弱点を知られては、意味がない。そういう願いを込めて作られた子供だった。
「そうですね、今はゴーティエ領も無事ですが…これからはわかりません」
「ああ」
彼は今、辺境伯領で暮らしている。ファーガス北端の地はどこまでも堅牢で、当面の心配はないだろうと思われたからだ。
「だから、…」
ディミトリはここで、言葉を濁した。うんざりするくらいの沈黙、その間ギュスタヴは黙って彼の言葉を待った。金の頭は俯き、逡巡するような声が響いた、部屋に。
「……だから、ギュスタヴ、お前…俺がもし、明日倒れるようなことあれば、あの子を頼む」
「…承りました」
彼の不安げな態度は、おそらく、自身が倒れるかもしれぬという、本当の最期を思うからであろう。ディミトリにとってはひどく苦痛なことだろう…その身裂かれそうなほど。
「……いいか、これは……お前を信頼してのことだ」
「はい」
「いいか…、いいか、ギュスタヴ」
ディミトリは、嫌になるほど念を押した。
「これは王命だ、そういうことにした。俺の子供を守り抜き、
…そして…」
俯いていた頭が上がる。ギュスタヴは真正面から、ディミトリの瞳を見つめた。不安げに揺れている。何かおかしい。ギュスタヴは経験則から、そういう不可思議を見出したけれど、しかし取り立てて言うことでもなかった。否、目を瞑ったと言ってもいいかもしれない。だって、その後にディミトリの荘厳がこう響いたから。
「これは王命だ。誓え! この剣に…」
「私の生にかけましても」
ディミトリの声が遠い。言葉尻が少し震えているのは、気のせいだろうか? ギュスタヴは本能のまま、経験則に従うように跪いた。王命を拝するときの姿勢、騎士の礼。
この話はここで終わる。そうだ、そういう手筈だった。
*
ふと気がつけば、目の前にはディミトリが眠っている。そうだ、彼を天蓋の中まで運び、そして霊安しているのだった。…らしくもなく、記憶に耽溺してしまっていたらしい。それは、タルティーン前夜、ディミトリと会った、そういう記憶だった。
思い返せば、記憶の中のディミトリはやたらと不安げだったな。今考えれば、おかしい。不安げ、気まずささえ残す雰囲気を出し、そして何より「王命を使わす」と言った彼の声が少し震えていた。
平素の彼であれば、きっとそんなことはなかった。何しろ、彼はこの五年間で、王たる行いを成すのがひどく上手くなっていて、ひとつの傷跡もないような国王となることができた。だから、あの雨の香り漂うタルティーン前夜は本当におかしかったのだ。
ギュスタヴはひとつ息を吐いたあと、目を閉じた。背後で物音がする。
「父さん、まだここにいたんだ」
アネットはギュスタヴの隣に座った。あの諍いがまるでなかったことのようにされている不思議を思う。彼女は何を考えているのだろうか。ギュスタヴには、わからなかった。彼とアネットは、互いを知るにはあまりにも離れすぎていた。
「陛下だけでも帰って来れて、良かった」
「ああ」
アネットはディミトリの頬をさすった。
ドゥドゥー、シルヴァン、メルセデス。将として参加したはずの彼らの死体は見つからなかった。やはり、帝国が紋章持ちの血を狙い啜っているとは本当なのだろうか。気味の悪い噂は今ファーガスで流行っている怨嗟唄のようなものだった、真実はわからない。ギュスタヴはそんなことはないと考えているが、帝国のことなど何もわからない。彼らは話合いすらできぬような不穏さを抱えていた。
「…いつ埋葬するの?」
「兵士たちの身元確認が済んだら、共に」
「…そう」
アネットは、眠る、眠り続けるディミトリの前髪を払って、顔を覗かせてやった。それは、数瞬前にギュスタヴがしようかと思っていた行動だった。顔がよく見えず、不安だった、それはアネットも同じなのだろうか?
沈黙が落ちる。それを破ったのはアネットの甘やかな声だった。もう幾節も聞いてなかったほどの、優しげな。
「ねえ」
「なんだ」
「あたし、陛下のこと…お兄ちゃんみたいだなって思ってたの」
「……」
兄? 思わず、ディミトリの顔をまじまじと見る。もちろん、彼の表情は変わらない。
「そう言ったら、父さんは怒る? 不敬かな?」
「いや」
不敬だのなんだの、最早ギュスタヴにはそんなこと考えるような余裕はない。確かに、以前であれば…それははるか遠く遠くの「以前」なのだったが…眉を顰めもしただろう言論だった。王族と貴族にもならぬ一介の騎士の娘とでは、大きな差があった。ディミトリ当人にとっては、身分差などは随分気に入らぬものだったのだろうが。
「兄、か」
「うん。
父さん、よくあたしに話してくれたじゃない? 殿下はどうした、ああしたって。それで…ちょっと身勝手な話だけど、あたし、陛下のこと、すごく優しい人なんだなって。皆は畏まるけど、あたしとおんなじようなこと言ったり…思ったりする人なんだなって…思った。
お兄ちゃんみたいっていうのは、そういうこと」
「……そんなに話していたか?」
「むしろ、陛下の話しかしていなかったよ。他のことなんて、釣りとか…木彫りとか…料理とか…それくらいだもの」
そうだっただろうか。だとしたら、ギュスタヴは随分酷い父親だった。彼女の声がどこまでも優しげなのは、きっとギュスタヴを気遣ってのことだろう。それか、ギュスタヴの残酷さをまったく意にも介していないか。そのどちらか。
しかし、そう気づいたところで、ギュスタヴには懺悔する時間もないのだった。言ってしまえば、誰にもない。だから、アネットだってギュスタヴと言葉を交わす。彼女にはもっと言いたいことのいくつかがあるだろうに。
「本当のお兄ちゃんってどういうものなのかな。フェリクスと、シルヴァンと、イングリットにはいたんだよね。父さんにも」
「兄…とは、……………」
ギュスタヴは語る言葉を持たなかった。
「もっと悲しいかな。
ほんとうのお兄ちゃんは、いなくなったらもっと悲しい?」
直接的な言葉が避けられた。それは道理だった。人は明確な死の前で死と口にするに、多大な労力をかける。そういうものである。
「関係ないだろう。血の繋がりのある…父や母や他の者の不在と比べることでもない、死とはすべて等しく喪失だ」
そうだ。関係ない。血が繋がっていようとなかろうと、悲しいものは悲しい。感情とはひとを振り回す暴れ馬だ、手綱を握っていなければ落馬しそのままなのだ。
「ねえ、変なこと言っていい?」
「何だ」アネットは少し首を傾けて、ギュスタヴを見つめた。その目は先ほどとは異なり、世界の希望すべてを反射しているような善良さに満ち溢れたものだった。
「あたし、陛下にも、父さんみたいなこと言われたの」
「…陛下に?」
父さんみたいなこと、とは、おそらく…「あのね、最期まで生きなさいって言われたの、タルティーンに行く前だったかな…」
だろうな。ギュスタヴは半ば確信めいた衝動に襲われていた。ギュスタヴが王命を拝領した日。ならば、きっと。
「アッシュも、同じことを言われてた。
『…これは、級友としての頼みだ、アネット、アッシュ、お前たちは何に縛られることなく、心のままに生き抜いてほしい。』」
アネットの調子はずれのディミトリの声真似は、本当に似ていなかった。けれど、その調子のはずれっぷりが、何だかディミトリらしいと思わせるようなところがあった。
アネットはギュスタヴから目を外し、眠るディミトリを見た。
「本当に、父さんと陛下は似てるね。あたしより、ずっと」
アネットの言葉は優しく響いた。
「…どういう意味だ」
「あのね、父さん…あの時、ひどく振っちゃって、ごめんなさい」
彼女はジイとディミトリを見つめたままだ。
「あたし、陛下にも言われたから、父さんが何であんなこと言い出したか、わかるよ。わかってるつもり。
あたしのこと、心配してくれたんでしょ」
「…………」
心配。そんな、優しげな言葉で済ませていいものだったのだろうか。あれはまさしく、ギュスタヴ自身の我欲を伝える、そういうものだったはずだ。
「…私も、悪かった、お前の心情も考えず…」
「べつに、いいよ。父さんの気持ちを、あたしも考えるべきだったんだよね。」
でも、陛下に心のままに生き抜け、なんて言われちゃったからなあ! ふふ、と柔らかい笑い声が溢れた。
ギュスタヴは唐突に理解した。彼女の思い、そしてディミトリの行動、王命の意味、……この頃ギュスタヴを取り巻く全ては、繋がっていたのだということを。
「アネット、私も…告解しよう」
「告解って、……なあに?」
「私が、お前と共に逃げなかった、その理由、…お前をどうにか生かそうとした、理由だ」
アネットは何も言わず、ギュスタヴの言葉を待っている。
「私も、同じように陛下からご金言賜った。その…王命を。内容は、ゴーティエに匿われている落とし子を守り通せと、そういうことだった…」
「へえ」
アネットは仕方がなさそうに微笑んだ。
「本当に、陛下と父さんって似てるよね。不器用なとことか、そっくりだよ」
これも、不敬になるのかな? ごめんなさい。そう言うアネットはまったくもって申し訳ないなどと思っていなさそうだった。
「陛下が、あたしに生き抜けって言ったのも、すごく唐突だったし。おんなじだね」
「私にも、ひどく急だった、それに…王命の「ふり」をするのが…相当に下手だった」
彼の声が嫌に震えていたのは、何故か自信がなさそうだったのは、真に王命ではないからだった。人に生きてくれと願うのは、その者自身の我欲、エゴ、その塊だった、王の言葉ではなかった。嵐の王と呼ばれた男は、人に何か願うのはひどく下手だった、そういうことなのだ。
ふふ。柔らかな笑い声は、苦笑でもなく、まろび出てしまった、そういうふうだった。
「父さん、あたし、残る。父さんの気持ちは嬉しいけど、残るよ。でも、生きるよ…」
「私も、だ」
彼女の親友はタルティーンで死んだ。彼女の友人はアリアンロッドで死んだ。級友たち、その大抵は皆もういない。彼女にも死への往路が見えているだろう。
けれど、アネットは、生きると言った。ギュスタヴとて、同じだった。
王からの命、願い、「心配」があったからだ。二人は生き抜かねばならなかった。
「王都で、ともに戦うか。生きるために」
アネットは甘い目元をより緩めて、笑った。
「うん、生きるために」
ギュスタヴは、自身の妻…彼女の母を娶った日を思い出した。彼女も、こんなふうな笑顔を浮かべていた。アネットは妻によく似ていた。だったらもっと聡明になろうものだ。そこまで考えて、ギュスタヴはふと思い至った、要するに、妻も同じく逃げないのだろう。
何故自分に似なかったのだろう、勿体ないことをした。
「いいかギュスタヴ、これは王命だ。俺の子供を守り抜き、そして…
そして、………。その先の言葉を、ギュスタヴは知っていた。何しろ、ギュスタヴもまったく同じ思いを抱えていたからだ。
「アネット、最期まで生き抜きなさい」
「…父さんも、絶対生きて帰ろうね」
きっと明日には、王都に帝国の手が届くだろう。それでも、生きて、生き続けねばならなかった。ギュスタヴには王命があった、ディミトリの「心配」があった、それだけで、ひた走る理由となるのだった。
ギュスタヴはくちびるのうらだけで呟いた。
「陛下、私は生きます、生きて…生き続けます…。」
遠くで炎のはぜる音が聞こえる。兵士たちの叫び声も。ギュスタヴは駆け出した、彼はまだ生きていた。否、これからも生き続けるのだ。王命は生への鎹、王から戴く愛のしるしだった。
蒼月の章
・平和です。
・ギュスタヴが死んでいます。
・これもまた挑戦的にキャラクターを動かしているため、キャラクター崩壊と思われる可能性が高いかもしれません。
・グラジオラスを戦死者への献花としたのは私の捏造です。
一一八六年翠雨の節三十日
王国軍、アンヴァル宮城の戦いにて皇帝エーデルガルトを討つ。
一一八六年 月 日
ディミトリ、ファーガス神聖王国国王に即位。フォドラ統一さる。
ディミトリの机には、木彫りの人形がある。それは獅子のような顔つきで、鷹のような体をしている、不思議な生き物だ。伝承に伝わる鷲獅子は鷲の頭に羽、そして獅子の体を持つ生き物だから、ディミトリの人形は少し違う。獅子鷲、なんて言葉遊びをしてしまえば単純だけれども、事実誰も知らぬ空想の生物だった。少し歪んだ口元、素直そうな瞳、筋骨隆々の体つき。手のひらに収まる程度の人形なのに、その姿形はずいぶんと精巧で、やたらと迫力があった。子供にとっては、どうも…現実的すぎる。ふと振り返ると、「いる」ような、影があった。玩具とは子供に愛されてこそ玩具だ。ディミトリが愛したのは槍だったけれど。
しかし、五歳の子供にこんなにも仰々しい玩具を与えようとしたあいつもあいつだな。ディミトリはそう思う。きっと、ディミトリが子供の頃これを貰ったとして、喜びはしないだろう。何しろ、ちょっと顔が怖いし。
とはいえ、こうして長じてから手遊びのように触れる玩具にもならぬ玩具になってしまったのは、彼とディミトリにとっては似合いだろう。やたらと甘やかな関係性でもないのだ。せいぜいが槍で叩きのめされて叱責される、そんなものだ。玩具という形でもない。
持ち上げくるりと回す。木彫りの玩具はずっと変わらずその表情を崩さない。ディミトリはすこし笑って、引き出しを開け…そうして閉めた。そして、玩具は机上の隅の、筆立ての横に立たされた。厳しげな目線がディミトリを刺す。
また、彼を思い出して、ディミトリは笑ってしまった。指で頭を撫でる。人形の表情は変わらないままである。
*
その報は急で、しかし不思議でもない、要するに、訃報というやつだった。随分お年を召されていましたものね。その者を知る人々は、悲しみの中に納得を滲ませ、言葉を交わした。
ギルベルト、否最早この名で呼ばれることが多いだろう…、ギュスタヴ=エディ=ドミニク。彼は大往生だった。
ディミトリは彼の訃報を、卓の上で受け取った。陛下、と呼ぶ声と共に。
戦争が終わったのも随分前のことだ。つまり、ディミトリが国王に就いたのも、前だ。もう何年になるだろう? 詳しく数十年、といってしまうより、周りの者が亡くなった数を指折った方が早いだろう。それだけの年月が過ぎていた。ディミトリも歳を取り、国も同じく歳を取り、取っていないのは大司教くらいのものになった。それから、級友たるフレンだとか、レアだとか、そういった人々。
戦争の時点で、ギュスタヴは六十にもなっていたっけ? 訃報を告する兵の声を聞きながら、ディミトリはそう考えた。じゃあ、今は何歳なのだろう。大昔、それこそディミトリが未だ幼く、隣にフラルダリウスの長兄もいた頃などは、毎誕生日には祝った者だけれど、彼が一度王宮を辞してしまってからはそんなこともなくなってしまった。一度習慣がなくなってしまうとどうにも再開などしづらく、結局歳を数えるなどということはしていなかった。
わからないな。そこまで考えて、ディミトリは、最近彼に会っていなかったことを思い出した。良いかげん歳です、もう使い潰すのは勘弁してください…と笑って…正しくは、ディミトリの子供が長じて一人でダグザへ留学に行くなどしたからなのだろうが、…長年勤めてきた王子の教導役を辞した時から一度二度程度会って、その後はそれきりだった。忙しさにかまけて、顔を見なくなればこうだ。
人の死はいつだって急で、しかし急でもなく、人はいつでも死ぬのだった。ディミトリはため息をついた。
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それから、ディミトリは思い切りの勇気を持って、臣下に問うた。ギュスタヴの葬儀に、どうにか俺も行けぬだろうか? ディミトリが困った顔をして見せれば、時の公爵フラルダリウス公フェリクスはジ、と眉間に強く皺を寄せた。国王陛下の御身と国王陛下の困り顔を天秤にかけ、……正しくは、ディミトリの恩師の葬儀にどうにか出席したいという我欲を……結局折れた。護衛を後ろに遣わせるぞ。うざったくても知らんからな。そう言う彼は相当丸くなった。
そのフェリクスの最後の一言は、おい猪、相手側に話は通したのか? である。王の右腕の苦労が忍ばれるというものであった。
参列は難しくても、献花くらいはと言ったディミトリに、アネットとその母…ギュスタヴにとっては妻、ディミトリにとっては良い友人…はその請願を快く了承した。むしろ、陛下に来ていただけるなんて、きっと夫も喜びますわ。彼女はアネットに似た目元で、笑った。「ええむしろ、参列もしていただきましょう。あのひと、きっと怒るでしょうねアネット…」ギュスタヴの妻は、いたずらそうなえくぼがある女性なのだった。
ならば、とディミトリはすぐに動き出した。征くは王城の庭、かの従者の独壇場。
様々な花々が美しく咲き誇り、その一つ一つはディミトリには判別ができない。ただ一つ、ディミトリにも知っている花があった。
グラジオラス! ディミトリはその紫がかった花弁を指さした。
「すまないドゥドゥー、それを包んでくれ」
「はい」
「…ギュスタヴへの献花だ。丁寧にな、お前のことだから、その…美しく包んでくれるんだろうが」
褐色の手が花を包み献花に相応しい形に変える。花はそこに佇んでいるだけで美しいと謳った詩人は誰だっただろうか。確かにそうかもしれない、とディミトリは思った。しかし、献花が必要なのでは仕方がない。人が死ねば花を殺し紙に包ませてでも悲しみを乗り越えようとせねばならない。
「けれど陛下、この花は戦死者への献花なのではなかったですか。よろしいのでしょうか」
「え? ああ…別に構わないだろう。あいつのことだし…駄目かな、もしかして。
嫌な気分になったりするだろうか。その…遺族が?」
「…おれにはわかりませんが、献花を贈られて嫌な思いをすることもないでしょう。それも、陛下から」
そうかな。ドゥドゥーの顔を見れば、何だか妙な表情をしている。きっと、ディミトリがこういった…礼儀について少し不作法になるのに違和感を覚えているのだろう。
グラジオラスは元々戦死者に手向ける花である。その歴史は古く、騎士王ルーグがアドラステアより独立したとき、死んだ自身の仲間に手向けたのが始まりだという。そんな花を平和になって久しくなった今のファーガスで手向けるのにも理由があった。
グラジオラスは、ファーガスの東でも自生する、強い花だ。ディミトリはその姿が好きだった。葉はまるで剣のごとき鋭さで、しかし花は大輪の金魚が舞うような、鋭さと美しさ秘めた立ち姿。花の品種などよう知らぬものだが、非常に好ましいと思っていた。
それに、よく王城で咲いていた。それはリュファスの嫌がらせのような…つまり、ランベールの死を悼むふりをして死から逃れられぬようにするような…ものなのだろう、とロドリグは言った。
しかし、ディミトリを勇気づけてくれた花だ。思い出の中で一輪咲く、強い花。戦死者への手向け花として使われる、その花言葉は「たゆまぬ努力」「堅牢」……。花が咲いているのを見る度にランベールの、グレンの、ダスカーで死んでいった者たちのことを思いだし自分の責務に思いを馳せる。今となってはあまりよくないと思うものの、ディミトリの生きる糧となっていたのは明らかだった。
ギュスタヴに手向けるなら、これがいい。そんな確信があった。だから、選んだのだが。
「…やっぱり駄目かなあ。少し不安になってきたぞ、ドゥドゥー」
「…別のものをお包みしましょうか」
「うーん…」
ドゥドゥーの手が白い花弁に触れる。フォドラの葬儀において良しとされる一種だ…香りが強いものだから、ディミトリはあまり好きではない。
「陛下」
「…ありがとう。やはりグラジオラスがいいな。何度も、すまない」
「いえ、…古くから知る者の死とは、人を驚かせ不安にさせ、混乱させるものです。一度、落ち着かれた方がよろしいかと」
ドゥドゥーは微笑み、ディミトリの手に献花を握らせる。
「葬儀にご参列されるのは、久しぶりですね」
「ああ…、それもこんな時期にな」
秋口はとうに過ぎ、冬に差し掛かろうとしている。
「もう少しで雪も振りそうです」
「…その前に、この花を手に入れられてよかった」
「この温室に咲いていたので最後ですから」
お気をつけて。ドゥドゥーが笑むのを、ディミトリはありがたく受け取った。それから、彼の伝言…ギュスタヴへの鎮魂を願うダスカーの言葉を。
*
「陛下! わざわざご足労くださって、ごめんなさい」
「構わない、むしろ俺がわがままを言っているのだから…すまないな」
「いいえ、大丈夫です。ぜんぜん…、父さんも喜ぶと思います、きっと」
アネットは小さい身を縮こまらせ恐縮する。あはは、と笑う彼女の声はすこし枯れていて、涙の跡を思わせた。ディミトリはそれを不思議な気持ちで見つめた…、彼女とはずいぶん長い間会っていなかった、何しろ片方は国王で片方はガルグ=マクで教師をしているのだから、いくら級友と言っても仕方ないだろう。
未だうら若き二〇代の折は、大司教たるベレトも王城へ遊びに来てあの不思議な求心力で持って、「ディミトリ、祝勝会をやろう。理由は何でもいいから、皆でご飯を食べよう」と、そう言うのだった。しかし、シルヴァンが正式に辺境伯を継ぎ、メルセデスが孤児院を建て、イングリットがユーリスと共に救貧院の設立に動き出したような時から、その頻度はひどく減ってしまった。
祝勝会と称せば王だの貴族だのの身分も気にせず話せるが、さすがに平素はそうあれない。仕方なし、ディミトリと旧友は長年語り合うこともないのだった。
「ここまで、その…大丈夫でしたか? 忙しいのに、あっ! 陛下、あたしそれ持ちます!」
アネットは昔と変わらず忙しく動く。そのさまに懐かしさを想起されながらも、ディミトリは腕の中の献花を受け取られそうになり、焦った…、何しろ、献花に向かない。こんなものを眼前に突き出して、どう思われるか不安だった。
「ああ、これは…その、献花用に」
「わあ、ありがとうございます! 一応こっちでもお花用意していたんですけど…、きれいですね! 王城のものなんですか?」
……あれ? ディミトリはすこし拍子抜けをした。彼女はグラジオラスがどうだかなどと、あまり気にしていないようである。
「うん、ドゥドゥーがな…、…………その、悪いな」
じゃあこっちに置いておきますね、せっかく綺麗なんだし水桶に…そう言って走り去る…ついでに床の荷物を引っ倒すアネットを支える。
「す、すみません…」
「いや、その、悪いな」
「うう、あたし恥ずかしい…」
「いや、そうじゃなくてだな…、……その、……」
ディミトリは結局口をつぐんだ。言い出す機会を失った告解とは、どこまでも恥ずかしくつまらないものだ。
「あっ、ごめんなさい、こんな…玄関口で待たせるなんて」また母さんに怒られちゃう。アネットは慌てて、ディミトリを中へ招き入れた。
その時、ディミトリは初めてドミニクの家へ入った。小ぶりな…と言っても、ディミトリの考える館というものの在り方は少し他よりも大きいような気もするのだが…家で、家族三人が暮らす最低限がそこにあった。しかし、周りを見渡せば、内装、雰囲気、空気、その全てがアネットを作りギュスタヴを感じさせた。けれど、知らない部屋、知らない天井、知らない感触だった。すごく、不思議だ。ディミトリの感想は、そのようなものだった。
「…もしかしたら、俺は、人の家に…その、遊びに来るなんて、すごく珍しいのかもしれない」
「そうですよね、陛下って誰かのおうちで遊ぶなんてないですもんね」
ここまで話して、ディミトリは「遊びに来た」などという言葉選びはよくないかもしれないことに気がついたが、当のアネットは何も気にしていないようである。
ディミトリは何だか浮き足だっていて、正直、ここに来たって未だ悲しみの波の一つも襲わないようだった。ただ、ギュスタヴの不在だけが本当なのだ、という確信はあった。
「ほんと、ちっちゃいおうちですけど…、でも、あたし、ここが大好きなんです。
戦争のあと、父さんが帰ってきて、一緒に暮らせるようになって、昔のお屋敷を買い戻したんです。だから、ここはあたしが生まれ育った場所で…」
廊下をアネットの後ろについて歩く。ディミトリにとっては少し低い天井は、ギュスタヴにとっても低かったのではないだろうか。開けられた窓から、春の風が吹き込んでくる。そして、それに乗る花びらも。ギュスタヴは綺麗好きだったから、気になっただろう。ディミトリは少し微笑んで、前を歩くアネットに追いつくため足を早めた、花びらを踏まぬように。
一つ一つの情景に、彼はこの屋敷で一体どう過ごしていたのかと考えてしまう。無為な想像だけれども、妙に現実感があった。もしや、これが悲しみなのだろうか? 死者を悼むとは、このようなことか? そう考えても、答えは出ない。
「父さんは今は地下に霊安してます。葬列は夕方からなので、またその時に」
アネットは言いながら、扉を開けた。開かれた部屋はなるほどギュスタヴの書斎のようだった。壁には一面本棚が聳え立ち、奥には立派な書物卓がある。
けれど、主人の不在が手に取るようにわかった。何しろ、何もないのだ。人が住んでいたのはわかるけれども、では今の実在はわからない。きっと、掃除をした後なのだろう…物寂しさが吹き抜ける。
アネットは書物机に上にある箱を引き寄せ、中身を引き出した。槍の磨き粉、釣具、羽筆、砥石、……。
「だから、その前に、陛下に形見分けしてほしいなって。
これ、父さんが生前使ってた物なんです。処分するにもよくないし、でもとっとくのも、よくないじゃないですか? せっかく残っているんだから、形見分けとして貰っていただくのがいいんじゃないかって、母さんが」
ディミトリは跪き、引き出された物たちを見つめた。
手に取り一つ一つ見聞する。……。…………。
「…何だか」
「はい」
「何だか、その…失礼な表現になるが、形見分けのしにくい物ばかりだな」
「…はい」アネットの口元は少し笑んだ。それは苦笑だとか愛想笑いだとか、そういうことではなくて、思わず転び出てしまった微笑みの姿をしていた。仕方のない子供を見るようだった。
「…すまない、無礼だったか」
「いいえ! いいんです。だって父さんたら、私物という物がまったくないんだもの。ほら陛下、見てください、これなんか」アネットは箱の内から磨き粉を取り出した。半分くらい減っている。それは、随分新しく、随分有名だった。安価で使いやすい、一般兵にも人気の銘柄。残念ながら、ディミトリはもう少し良い品質の物を使っていた。つまり、高級なものを。
「母さんと見て、笑っちゃったんです。形見分けで、磨き粉なんて…そのう、それっぽくないですよねえ!」
「ああ…そうかもしれないな。そう何度も経験していることではないが、万年筆だとか、ブローチだとか、そういう物を貰うものだよな」
「そうなんですよ! でも、父さんって、木彫りとか釣りとか料理とか…、あとは武器とか…、どうにも質素な趣味だったでしょう、そういう物しか遺してくれなくて、しかも使いやすい物を選ぶものだから、こんな感じなんです」
「…ギュスタヴらしいな」
笑い、手のひらの上に擬似餌を載せる。くるり回せば、その使い込まれているのがよくわかった。付け根は木、羽の部分は天馬だろうか? 多分、手作りだろう……。物の一つ一つから、ギュスタヴが使っていたなる痕跡が見渡せる。そういえば、と頭を回らせば、ディミトリとても見たことがあった…、グレンとフェルディア近くの湖で釣りをした時だ、きっと。
一度引きずり出せば、ぼろぼろと記憶がまろび出てくる。
「…それ、父さんが使ってた釣具ですね」
「ああ。グレンと釣りに行った時、貸してくれたな、と…」
「そうなんですか? あたしも、何回か借りたことあります。まだ不慣れな人向きの物らしくて…」
へえ。ディミトリはその偶然なる巡り合わせに驚いた。手の内で何度かくるくる回していれば、いつの間にかアネットの手に渡っていた。彼女は一度ジッと見て、それから、少し…鼻を啜った。
アネットの鼻かしらは赤くなっていて、目頭に熱が集まっているのだろうことはよくわかった。ディミトリはすこし微笑んでやって、与えた…、つまり、許しのようなものを。ここでは涙が許され、喪失に嘆くことが許されるのだと、示してやった。
人は、涙を見せる場所を選ぶものだ。今のディミトリにできることは、嘆く自由を与えてやることだけだった。白い手拭きが濡れる。端に施された刺繍には、彼女と…つまり彼と…同じ橙色の糸が使われていた。
押し殺した涙が溢れる側で、ディミトリは彼女の背中をさすってやった。
「ごめんなさい、陛下。人前で、こんな…恥ずかしいです」
「構わない。悲しみを乗り越えるには、悲しみを受け入れるのが一番だ。
嘆いて嘆いて、その先には腹が減る。そうやって生きていく。そういうものだろう?」
アネットは教訓じみたディミトリの言葉に、小さな微笑みを返した。戦争ははるか遠いけれど、ディミトリもアネットも、決して忘れたわけではない。多くの悲しみがあった。
「そうだ、陛下、形見分けの最中だったじゃないですか? 何を持ってゆかれますか、なんでも…ええ、本当になんでもいいんです。父さんの何かを、陛下に持っていてほしい。父さんを忘れないでほしいんです」
そんなことせずとも、忘れないさ、きっと。そう言おうとしたが、いくらなんでも頑迷かもしれない。ディミトリは押し黙り、形見の品々をもう一度見つめた。槍の磨き粉、木彫り刀、拍車、勲章。彼らしい無骨な物たちがそこに鎮座していた。…………。
迷うこと数秒、しかしどうしても見つからない。相応しい物。どれも彼との思い出を想起させるだろう。けれど、何故だかしっくり来ない。それは第六感と言うべきか、まったく根拠のない確信であったが、そう考えてしまってはどれを取るのも躊躇する。
アネットは何も疑わぬ目でディミトリを見ている。ディミトリが、何も取らないという選択をするなどとは少しも思っていない目だった。本当のことを言えば、何でもいいのだろう。しかし、ディミトリは嫌だった。何か相応しくない物を取っては、きっと一生後悔するだろう。
もう一度箱の中身を見て、ディミトリは決めた。
「…いや、このどれも、お前たち家族の思い出が詰まったものだろう。俺には似合わない…。
やはり俺はいいよ。遠慮しておこう」
*
ファーガスの葬列は、騎士身分であったかそうでなかったかでその様が大きく分かれる。否、正しく言えば、一般信徒の葬列は旧アドラステアやレスターの所領だった土地の文化と相違ないのであるから、ファーガスの騎士だけが特別と言う話かもしれない。
騎士の身体、魂、その全ては、王のものである。騎士でない唯人が神のものであるのに対して、騎士は新たに契約を結ぶ、騎士叙任という名の契約を。であるから、鎮魂歌にも聖句にも王との別れを思う詩が織り込まれ、葬列のそこかしこに王の蒼、瑠璃より真っ青なあのブルーが使われる。騎士の葬列は、王の腕から出でる寂しさを憐れみ、また神の元へと帰る、そういう葬列なのだ。
聖句の後、その騎士の魂に見立てて、皆が持参した白い花を天上へ投げる。それで葬儀は終わる。
そんな風習があるのに、肝心の王が出席していいのか? ディミトリは不思議に思ったけれど、黙っていた。実際、彼との別れを思っているのは、ディミトリも同じだったからだ。
葬列は棺を中心に進む。終点は墓所である…、先頭に棺を抱える男衆、次に宗教人、そして親族、親交のあった者たち、そして…ディミトリは最後尾にいた。いくら遺族から許しを得て参加しているとはいえ、わざわざ王がいるなどと喧伝する必要もない。ディミトリは平素の服装よりかなり簡素に、そして顔は隠し…、正体を隠した状態でたむた。そんなありさまでは、さすがに列に入り込むわけにも行かなかった。
そうして最後尾にいると、案外な人の多さに驚く。皆だれもかれも悲しみを思いながら、しかしギュスタヴ殿は大往生で良かった、と思い思い感情を抱えている。
ディミトリの周りで大往生したなどという話はまったく聞かないものだから…大体の場合、皆早逝であった…、葬列全体の、悲しみに溢れていて、しかしどこか満足げな雰囲気は新鮮なものだった。
思えば、ディミトリとてそこまで強くは悲しんでいないのだった。訃報を受け取ってから向こう、ずっと彼のことを考え続けている。腕の中にあるグラジオラス、ふと歩く町並み、遠くから聞こえる剣戟、すべての思い出にギュスタヴがいる。そこまで一緒にいた記憶もない、何しろダスカーあとはあんなことになってしまった…、それでも、ディミトリは自身が思っている以上にギュスタヴとの記憶があるらしかった。
そんな様なのに、今まで涙の一つも出ていない。悲しくない? そんなことはない。確かに心は軋み感情を覚えている。ただ、どこか、この年まで共に歩んでくれた喜びのようなもの、そして彼を安寧の眠りにつかせてやる優しさのようなものが心中を覆っているのだった。
不思議だ。ディミトリは、死者の悼み方なんて一つだと思っていた。この身おかしくなるほどの悲しみの海に自分を突き落とす、そのようなものしか。
葬列を歩く人々は、皆こうなのか。ディミトリのように、寂寥とどこか安心したような気持ちを抱え歩いているのか…。少しのざわつき、そして段々静まっていく。
ふとあたりを見渡せば、そこは最早墓所だった。
遠くで、聖句が聞こえる。少し異なる音色は、きっとディミトリに向けた…王の腕から飛び立つ死者を思う言葉なのだろう。ぼうと聞いていれば、肩を突っつかれた。「あんた、そろそろだよ」
ああ! ディミトリは気がついた。皆、白い花を手に持っている。もう聖句は終わっていた。人々が振りかぶり、花を天上へ投げいれた。神の膝下へ届くように、その魂の安寧を祈って、遠く。
ディミトリもまったく同じようにした。白くなかった、それは紫色だったけれども。
遠くで鐘がなっている。皆、悲しみを抱えながら帰路へついている。ディミトリは足元を見た…、白い花々に埋もれ、ディミトリの選んだグラジオラスが存在を放っていた。それは、死兆星のような輝きだった。
*
皆家路についている。ディミトリは最後にアネットに挨拶しようと、ドミニクの家までもう一度戻っていた。
「お疲れさまでした、陛下。今日はありがとうございました」
彼女は溌剌で、疲れの一つも見せていない。ディミトリはなんだか、拍子抜けをしてしまった。葬儀とはもっと、思っていたより、悲しいものかと思っていた。
「…、陛下? どうかしたんですか?」
「いや」
そう聞くアネットの髪の毛に、白い花弁が絡まっている。……。……………。ディミトリは逡巡し、そして口を開いてしまった。告解だった、あまりにも不格好な。
「…いや、その…やはり目立っていたなと」
あのグラジオラス。このファーガスにあって、グラジオラスの意味合いを知らぬ者などいなかった。ディミトリはディミトリの思いでもってあれを選んだのだけれど、それでも周りの眼というものはあった。
「ああ、献花…いいじゃないですか! 綺麗でしたし…」
「アネットは知らないか? グラジオラスは…」
「戦死者への手向け花なんですよね? 戦争の後、街のあちこちで見ましたから」
「そうだよな…」
まずい。やはり、よくなかっただろうか。ディミトリはディミトリなりに、彼に似合う花をと思って選んだのだったが。
正直、最初はそんなに強い気持ちじゃなかったんだ。ただ、ギュスタヴの葬儀となれば、多少自分の思う通りに行動してもいいのではと思って。ああこんなこと思っていては甘えがすぎる、やはり俺はどうしようもなく衝動性溢れるもので……………………
「あはは、やっぱり、似たもの同士ですね、父さんと陛下」
試行の沼におぼれるディミトリを笑い飛ばすはアネットその人だった。
「…う…そ、そうか? あいつ、こんな失敗はしないじゃないか」
「別に、失敗じゃないです! だいじょぶですよ」
「…本当かな…」
アネットはなぜだか酷く嬉しそうだった。そんなにディミトリとギュスタヴが似通っていることが嬉しいのか、それとも他の理由か。彼女はいつでも明るく周りを笑顔にさせる女性だったが、こと今のディミトリはアネットについていけなかった。
「そうだ、陛下。ついでってわけでもないんですけど…渡したいものがあって」
アネットは手を叩いて立ち上がる。側に置いてあった箱の中、……小さな人形がそこにあった。
姿かたちは何だか鷲獅子のようだった。しかし、なにかがおかしい。頭部が獅子で、下半身が鷲。本来なら、逆のはずだ、頭が鷲で身体が獅子。
「ししわしです!」
「し、ししわし…?」
ししわし。つまり、獅子鷲? 鷲獅子の逆か。そうディミトリの頭が弾き出すのに、かなりの時間がかかった。何しろ、何故アネットが急にこんなものを持ち出してきたかが不明だったからだ。
「これ、何か思い出しませんか?」
「何か…?」頭をひねる。正直、ディミトリの頭にはこれっぽっちも何もなかった。
「陛下が形見の品を受け取ってくれないから、あたしちょっと考えたんです。何か無かったかなって…お節介かもしれないけど…。
そうやって探してたら、書斎の奥の奥で見つけたんです」
アネットはすこし下を向き、獅子鷲を撫でた。
「お節介かもしれないけど、やっぱり、父さんにゆかりのある何かを持っていてほしいって。
やっぱり、物が側にあると、思い出すじゃないですか? いない人のこと。あたし、父さんがいなかった頃、父さんから貰った人形をずっと机の上に飾ってたんです」
彼女の言うことには、一理あった。死者を思うとき、そこに何か拠り所があると見失わないで済む。死者の姿に正しい形などない。何度も何度も思い返すうち、まるで何度も手に取った本のように擦り切れ墨の跡薄れてしまう。どんなに誠実でいようと思っていても、彼らのことを見失ってしまうものだった。
「そうだな。俺も、そう思う。死者の姿は茫洋としていて、いつか思い出せなくなる日が来る…」ランベールの笑顔は、最早擦り切れよく思い出せない。「何か物があればいい。それは、ずっとそう思う…」
アネットは笑った、その笑みは妙に教導者じみていて、ディミトリはなんだか自分が子供のような気持ちになった。
「陛下はグラジオラスを持ってきてずいぶん後悔なされたみたいですけど、父さんだってそれを作って後悔したみたいなんですよ」
「後悔?」
確かに、出来はあまり良くない。しかし、そこまで悔やむような出来でもない。あのギュスタヴが書斎の奥底に隠しておくような人形? ディミトリは首をひねった。
「陛下、これは母さんから聞いた話なんですけど、この獅子鷲、元々陛下に贈ったものなんですって」
「……え?」
曰く、幼い頃のディミトリは国旗を見ては怯える子供だったらしい。頭が鷲で身体が獅子、自身の知らぬ動物に怯え、どうしようもなかったということである。
しかし、王子がそんなことでは示しもつかない。初めて儀礼に参加するという時になって、時の王ランベールとギュスタヴは随分と悩んだらしい。儀礼に国旗はつきもの、しかし怯えた表情でもされては困る。
その結果が、この獅子鷲だと言う。こういうふうに、人によって描かれる伝説の生き物なのだと説けば、平気になるだろう。そういう思惑でもって。
「…うーん…この人形だけでもかなり怖いと思うんだけどな」
「ですよねえ! 昔の陛下もおんなじだったみたいです。やっぱり怖がっちゃって。」
「意味ないじゃないか」
「でも、逆に鷲獅子は平気になったんだそうです」
「へえ……」
ディミトリは獅子鷲をまじまじと見た。そう考えると、何故か愛嬌が湧いてこようものだった。
「それで、解決したはいいものの、元々可愛がってもらうつもりで作った人形だったから」
「隠したのか、書斎に」
「はい」
なんともすっとぼけた話だ。あの鬼の教導者ギュスタヴの話とは思えず、しかしこの獅子鷲の作り手と思うと自然だった。知らず笑顔がまろびでる。
「ふふ、陛下と父さん、変に不器用で…後々から後悔しだすところもそっくりじゃないですか?」
「…そんな能天気な話の男と似ていると言われても、嬉しくないな」
あはは! 耐えきれずに吹き出したアネットの笑い声が家に響く。ディミトリは恥ずかしさ半分、謂れのない寂寥半分で獅子鷲を見つめた。彼にとってのグラジオラス、それがこの人形なのか。
「アネット、…これは俺の執務室に飾っていていいか?」
「もちろん! ぜひ、そのこわーい顔を飾ってあげてください」
ディミトリの机の上には、未だ木彫りの人形がある。きっといつまでも変わらず、ディミトリを見つめ続ける、そういう人形である…、その厳しい顔つきは、かの師を思わせて、ディミトリはいつでも笑ってしまう。そういう人形である。
生前にもらう機会を失してしまったことも含め、なんだか自分とギュスタヴらしい、そう思うのだった。