【FE3H】パラダイス【ギュスタヴとディミトリ】 ギュスタヴの手は、もしかしたら奇跡の手なのかもしれない。
目覚めた直後、王子はそう言って笑った。昔とまるきり同じだった。ただ、背格好は随分と丈が伸びて、右目などはまっくらだった、口角の上がり幅と、眉の落ちた感じだけが、昔らしく見せていた。
「そうでしょうか」
「自信を持て、ギュスタヴ。お前は二度俺を救ったんだ」
「ええ…まったく、そうですね」
「そうだな。俺もお前も、こうして生きている…まったく!」
真っ暗闇のなかで、王子の顔だけがましろく浮かび上がっている。ギュスタヴはもう森を出なければと考えたが、それもまた無為なことだと頭を振った。狼が現れたとて、何が恐ろしいのか? 熊だって、何が! ギュスタヴの目の前には化け物の腎力を持って佇むブレーダッド最後の後継がいた。
ファーガスは潰えた。帝国の挙兵、王子の処刑、すべてに間に合わず瓦解した。騎士たち、民たち、おしなべて王聖を願い続けた、しかし叶わなずじまいだ。王子は妄執のままに槍を振るい、軍の誰もは諦めと故国への憧憬と有り余る力でもってあるき続けた。その行軍の果てに、当たり前のようにこなごなに、理不尽にもすっ転んで、終わった。
産まれ、仕え、愛した故国ファーガス! ギュスタヴの人生のすべては、何を間違えたか最早見る影もなかった。しかし、ギュスタヴはこの崩壊を安堵しているのかもしれなかった…、ダスカーの後からずっと狂い続けてきた歯車、触れても逃げる騎士道、足の動かなくなった自分。国はただの騎士ひとり程度なら、包み隠して崩落する。自分の罪など、最早誰の目にも映るものでもなかった。
だからこそ正気で、だからこそ辛い。裁かれぬ苦痛と逃避の悦楽、相反する感情を持つには、ギュスタヴは年を取りすぎてしまっていた。
崩落する国家を背にしたグロンダーズの平原で、血濡れで転がる主君を生かしてしまった──それは、彼の身の内で居場所の与えられぬ熱情によるものであるのかもしれなかった。
ディミトリは先程まで呼気も怪しかったにも関わらず、今はもう平気なように起き上がっている。彼は昔から身体が丈夫だったが、ことここに至っては、その様は最早不気味だ。命の灯火ともる限り、永遠に動き続けねばならぬからくり時計のごとき 身体 しんたい ! 王なれば喜びのうちにほめたたえられる性質だが、最早国も滅んだ今では…。……。
彼の面持は災害を体現するかのごとき復讐鬼の顔ではなく、はたまた理想なる王子の面持ちでもなく、魂の抜けた白痴の面だった。彼はあの戦い、いや、あの五年間の果てに、魂をごっそり捨ておいてしまったのだろう。その苦難苦痛はよく分かった…、ギュスタヴだって、魂を毀損し捨ててしまったから。
しかし、その白痴は彼を正気な様に見せた。そして、先王ランベールによく似せた。かつてのディミトリが見せることのなかっただろう笑みを、魂の抜けた身体は浮かべた…、それは彼の身体が勝手に行っていることなのかもしれない、彼の最早届かぬ理想像をトレースしているだけなのかもしれなかった。何も知らぬ様で笑い、何も知らぬ様で言葉を紡いでいる。悲壮さも罪もなく、快活に。
「よくあそこから俺を助けたなあ! ふつう、諦めるだろう…、俺はもうだめかと思ったよ。四方から槍と剣と矢が体を貫き、血が滝のように流れた、しかし眼はエーデルガルトしか映さないのさ…、だめかと思ったな、本当に」
「私は何もやっては…おりません。あなたの頑張りによるものでしょう」
事実、ギュスタヴはほんとうに何もやってはいなかった。死体と似たような様の王子の体を、安全な森まで引っ張ってきて、回復薬なんかを投与して、ぼうっと待っていただけだった。勝手に起き上がってきたのはディミトリの方だ。
「いいや、お前のおかげだよ。昔だってそうだ。燃え盛るダスカーで、お前の助けが無けりゃあ俺は今頃黒焦げだっただろうよ!」
「そうでしょうか、そうおっしゃっていただけるなら、……、そうなのでしょうか」
「もちろん」
「お前の手は」
ディミトリは静かな湖畔の眼でギュスタヴを眺めている。
「お前の手は、奇跡の手だよ。俺をいつでも助けてくれる。ダスカーの前から、ずっと」
ギュスタヴはふと、おかしな気持ちになった。彼は目覚めてからこっち、延々とギュスタヴを賛美する言葉だけを紡ぎ続けている。おかしいのだ。おかしい。戦いを抜けて、目を覚ましたとき、人は現状の回復に務めるものだろうに、彼はそのすべてを投げ出したかのごとく対話を求めている。
これもまた、魂の無い様のおかげなのかもわからない。
しかし、ギュスタヴもまた、同じようなものだった。これから何をすべきなのかもわからなかったし、国の崩落した今、王子をどこに連れて行くべきなのかも知れなかった。
どうしようもなく理不尽で、ただ穴に落ちていくかの如く何もできない、今は…いや、ディミトリと再会してからの少しの期間、ずっとそうだった。その極めつけが明を決したあの戦いであったのだ。つまり、グロンダーズに来てしまった時点で、ギュスタヴは、ファーガスは、王子は、駄目になっていたのだろう。
"今"は、その延長線の上にいるだけだ。最早道などない。
□
「今の俺は奇跡的なまでに素直だ、ギュスタヴ。もう父上の言うことを素直に聞くこともないんだ、だってもう…意味もないから、なあ、そうだろう。
ふふ…お前が山を一昼夜駆けろというなら聞くし、果たしてあの大きな岩を持ちあげろと言うなら持ち上げるさ。どうかな?」
「そうですね、ええ」
ギュスタヴはすこし考えてから、こう言った。べつに他意は無かったのだけれども、傍から聞けば馬鹿のいうことかもしれない、けれど、それ以外に考えなどないのだ。
「夜の山での過ごし方はお教えしましたでしょう」
「ああ」
そりゃあそうだな。悪かった。俺はどうもぼんやりしているようだ、まったく、悪い頭だよ、悪い…、王子はぼそぼそと呟いて、にっこり笑った。
「夜の山では気を抜いたら死ぬ、そういうわけだな?」
「私の言葉ではありませんが、その通りです…、あの人の口癖のようなことでしたね」
「ああ、今でも思い出せる。怒られたな、ひどく。叱られるなんて、そうそうない、今でも、今だって、むしろ…」
彼はすこし唇をゆがめた。あのひと、なんて柔らかな口が放ったのに、彼も気が付いたのだ。
「グレンか。お前、言いたくもないか?」
「そういうわけでは、ただ…」
「故人の話などできなかった、あの日々では、みな傷つき過ぎていたからな、ああ…お前とそんなことを言い合うこともまた、夢だった」
「…必要だったのですか?」
「俺に? うん、俺に必要だったものなど、きっとないさ。なくても立たなければならなかった」
ディミトリはすこしくるりと首を回して、ギュスタヴの方を見た。
「お前もまた、話したくないのだろう。皆そうだ。悲しみには触れたくない、その気持ちは分かるよ」
「話したくないのではありません、ただ…、その」
ギュスタヴは言葉を選んだ。かの王子の瞳は乾き、しかしぼやけている。
「私に、何か…言葉があるでしょうか。今の私に?」
「何もないわけがないだろう。むしろ、お前だからこそある、俺はそう思う…」
「あなたには?」
「俺か?」
夢うつつを惑うような会話。うすぼんやりとした雲間に、月のひかりがちらめいている。しかし、森に光など入らない。ギュスタヴが狙った通りだ、身を隠すには森が最適だろう…。
「ふふ、いろいろあるな。寂しいとか。なんだろう? 昔は思っていなかったのに! もう声がきこえなくなってしまった…」
ギュスタヴはすこし息を止めた。声の話は、ずっと前に聞いたことがある。
「ランベール陛下が…」
「目の前で喋ってくれてたんだ、前まで。なぜか、今目覚めてからはまったくだ…エーデルガルトがもういないのかもな」
そうではない。ギュスタヴは一言つぶやこうとしたが、彼の精神の安寧に気づき唇を止めた。
紅き皇帝エーデルガルトは敗走こそしたが、命を落としたわけではない。しかし、そんなこと、彼とて承知の上だろう。ギュスタヴは自身にそう言い聞かせた。仇敵に最早届かぬ槍を哀れみ、自身を欺いているだけなのではないか。
「あとは…、まあ、何だろう。…………」
ディミトリは沈黙した。大きい息使い。今まで出ていたはずの月は、身を隠している。暗闇に父譲りの金髪だけが光っている。
「なあ、やっぱりグレンが生きていればよかったな。いや、父上、そうだあの場所にいるなにもかもがそうだ、俺ではなくて、さあ!」
「…そのようなことは! 殿下、そのようなことは言ってはなりません」
ギュスタヴの言葉はどこまでも空虚に響いた。グレンが生きていればよかった、王が生きていればよかった、…何故自分が生きているのか! そんなことは誰だって思っている。誰よりも、生き残った者の頭にべったりと張り付く呪いのようなものなのだ。
ディミトリはすこし呆けたような表情をした。ゆっくりと首をかしげる。彼はどうもギュスタヴのいまだしがみつく生に納得がいかないのだろう。
「いいや、こりゃあ事実だよ…、ね、ギュスタヴ。
お前、死にたいと思ったことはあるか」
「ありません」
ギュスタヴは半ば衝動的にそう答えていた。本当にはわからない。ダスカーのあと、ギュスタヴはほとんど呆けた状態のまま過ごしていて、それは死んでいると同義なのかもわからなかった。
「そうか。期待はずれだな…、お前なら、きっとそうだと思っていたんだけどな。」
ギュスタヴは目の前の王子の眼を見つめた。
「俺はある。生きている事が不思議だ、今もそうだ。間違えて生き延びてしまったのではないか、そう思えてならなくて、ええとつまり、うん、お前を愚弄していることになるのか? いや、そんなつもりはないんだ、誓って…女神に誓って、あと父上とか母上とかにも誓うさ。こうして誰も彼も死んだあと、生きている、そのことに違和感があるんだよ、ほんとうは俺は…、あのダスカーで死んでいて、それで今は何か重大な勘違いと誤解とミステイクによって心臓が動いているかもしれない、いや動いていないのかもしれないという中で、何故だかお前と話している俺がいるということなのかもしれないと、そう思うわけだ。どうかな?」
「それは…途方もない話ですね、あなたがそう言ったことを口に出すのは珍しい。5歳の寝入りばな以来のことではありませんか」
「そうかな?
俺もやっと冗談のうまくなったということかもしれないな」
「ええ、それで、…………つまり?」
「これが本音だよ。聞きたかったんだろう? 俺の本音を」
「いえ、…あなたが話したかったのではないのですか?」
「それもそうだ。でも、ギュスタヴ、お前だってそうだ、間違いない、お前が俺のことをよく知っているように、俺だってお前のことをよく知っている」
お前がこれを聞いたって驚かないことぐらい。王子はそう続けた。
ギュスタヴの意識は半分程度虚実にまみれている。公明正大な騎士の姿は最早どこにもいないのだ。誰が言おうとも、国のなければ騎士は惑う、王のなければ忠義はない。それがいやに悲しくたって。
「じゃあ付け加えるけど、俺はお前の本音だって聞きたいさ…鬼の指導卿と謳われた我らが師に、…腹を割ってしまおうじゃないか?」
彼はすこし自棄になったようにこぼした。大昔に、小さなわがままを言った王子の横顔で。
「殿下、…本音ですか? ……私の贖罪がどこにあるのか、わからない、それが苦痛で仕方ない…と、思います」
「ファーガスの民、皆がそうだよ、ダスカーの悲劇! 耐えがたい哀しみ、苦しんでも生きていく身体、こうして目が覚めてしまったこと、いやこの九年間、ずっとそうだった。お前もそうだっただろ? ごまかしなど許さない」
だから何か大きな…女神だとか、そういうものに…、願ってきたのだろう。自分の罪悪、弱さを。俺にとっては目の前に侍る騎士たち、そのようなものに!
彼の声は星に語りかけるよう、彼の目は虚空を映し、彼の指は最早無き槍を撫で謗った。それは、彼がもう何者にも必要とされていないこと、何者も彼にかしづかないことを示す、圧倒的な証左だった。王子は王にはなれなかった。
何しろ、彼はもう人の話も聞かない。しかし人の願いは理解できる。そんなものは王ではない、人を外れた何かでしか!
「お前の手だ、お前の手は奇跡の手だよ、二度も、いいや…何度だってお前には救われてきたんだよ、ギュスタヴ………お前の贖罪はここにある!」
王子の声は乾ききり血を流している。蒼き血液、真なる王の血族を。
ギュスタヴは、次にくる言葉を分かっていたのかもしれない。ずっと前から。
「お前の手で俺を殺してくれ」
ギュスタヴは大きく息を吐いて、衝撃をやり過ごした。なんといっても、愛した子供から殺せと命じられる、そんな恐ろしいことを受け流せる自分が恐ろしい。それでも、もう怒りも嘆きも出てこない。出てくるのは、世間話に似た言葉だけだった。
「そうだろうと思っていました」
「お前には何でもお見通しだな、ギュスタヴ! いや…、すまない」
「いいえ」
あなたがそう考えていることなど、わかります。わかりますとも…。長い付き合いでしょう。
そう言おうとして、唇を動かしたが、それはうまく言葉にはならなかった。
□
「…ディミトリ王子殿下…、ファーガスの希望、私の願い、輝ける若き星。
彼を、どうか女神のもとではなく、地の底へ……彼を、お導きください。かの罪悪をお許しにならぬよう…、永遠の苦難をお与えください。永劫なるあなたの救いにならんことを…」
最後の騎士の願いは、誰に聞かれずとも消えていった。知っているのは、王子の血潮を受けた土だけである。森のなかに月の光は入らない。それだけが、この死を美しく見せる証拠なのだった。