独占欲 暦の上での秋はとっくに過ぎているというのに、まったく秋らしくもない日差しと湿度が残っているため不快指数が振り切れそうなある日。俺とアスナはエアコンのよく効いた室内にいた。
右隣に座って麦茶を飲んでいたアスナが、冷たくておいしいねと言ってほんわり微笑む。さすがお嬢様と思える上品な手つきでグラスを静かにテーブルの上に戻してから、
「それでね、授業が一回増えたから、入れることになったの」
と話を続けた。
この季節でも結ばずにおろしたままの長い髪に触れようか迷っていた俺は、想定外の方向にすすんだ話の内容に驚き、訊き返した。
「……え、マジで?」
「うん」
アスナがこくりと頷いたところに、重ねて訊ねる。
「水着、着て?」
「……水泳の授業を水着以外の格好で受ける人は、なかなかいないと思うよー」
「そりゃそうだけども」
のんびりした声にあっさり反駁され、俺は渋面を作りそうになるのをどうにか堪えた。
俺たちの通う帰還者学校では、夏期のみプールを使った水泳の授業が行なわれる。しかしALOから帰還したアスナはなかなか体調が戻らず、しばらくのあいだ医者から運動を禁止されていたため、夏休み前の体育の授業はずっと見学して過ごしていた。二学期に入ってからは台風などの悪天候が重なり、そうこうしているうちに水泳から通常の授業に戻る時期になったため、このままプールには入らずに済む……かと思いきや。アスナのクラスは調整の結果、なんと水泳の授業が一回増えたというのだ。
「夏休み前は一度も入れなかったし……でも、もう体も大丈夫だから」
俺を安心させようとしてか、アスナは自身のふくよかな胸の上あたりを手で押さえ、にっこり微笑んでみせた。
運動を解禁されてからのアスナは、軽く走ったりジムに行ってみたりと、失った体力を回復させるために努力を続けていた。夏休み中は俺や仲間たちと出かける機会も多かったし、水泳の授業に参加しても体力面での問題はもうないだろう。
だがしかし。俺はとんでもなく落胆していた。せっかく……せっかくこれ以上なく絶妙なタイミングで悪天候が重なってくれたというのに……!
「キリトくん?」
うなだれた俺を不審に思ったのだろう、アスナが覗きこんでくる気配がする。つい先ほどまで触れようか迷っていた長い髪が華奢な肩からさらりと流れ落ち、視界の隅で揺れたが、その美しい光景を楽しむ余裕はもはや俺にはなかった。具体的には頭の中が「見せたくねぇー!!」という心の叫びでいっぱいになっていた。
アスナの水着姿……というと俺の頭に真っ先に浮かぶのは、SAO初期にアスナと二人でコンビを組みダークエルフのキャンペーンクエストをやっていたころのことだ。ダークエルフの風呂は基本的に混浴だったため、風呂好きのアスナは裁縫スキルで自作した水着を着用して風呂に入っていた。ワンピースタイプの白い水着は可愛らしく、アスナによく似合っていて、それまでの人生で女性と接点のなかった俺はたいへん目のやり場に困ったもので……と、それはさておき。
俺はうなだれていた頭を上げ、グラスをとって麦茶を一口飲んでから、訝しげな表情のアスナに尋ねた。
「スクール水着、だよな?」
「うん」
きょとんとアスナが頷く。何を当たり前のことを言っているのか、という表情だ。続いて美しい眉を怪訝そうにきゅっと寄せる。
「さっきからどうしたの? なんだかヘンだよ、キリトくん」
ヘンなのは重々承知である。アスナの指摘はいったん脇に置いておいて、俺は思考を続けた。
スクール水着は比較的露出が少なめだが、肌の出る面積は当然の如く体操着よりもずっと多くなる。つまりスクール水着だからといって露出自体を容認できるものではない。いや容認もなにも、そもそも俺が──恋人とはいえ──口出しできることではないだろう。アスナはごく真面目に授業を受けようとしているだけなのだから。
しかし、しかしだ。
この複雑な、それでいてある意味シンプルともいえるこの感情を彼女に伝えるべきか、はたまた伏せるべきかと逡巡する。何でもないと誤魔化すこともできるだろうが、あえて隠しておくほどのことでもない、はずだ。
結局俺は『アスナに対して隠し事はしない』という俺の内なる基本方針に従う選択をした。ただ、誰とも知れぬ相手に嫉妬しているようでやや気恥ずかしく、発言はあさっての方向に目を反らしながらになった。
「や……その……アスナの水着姿、ほかの奴らに見られるの嫌だなー、って」
ぼそりと白状してからアスナのリアクションを待つ。しかし予想に反してすぐには動きがなく、耐えきれなくなった俺はちらりとアスナを盗み見た。
息を呑み、驚きの表情を浮かべてアスナは固まっていた。かと思えば突然相好を崩して、ぷぷーっと勢いよく吹き出した。その反応に、俺は軽くショックを受けつつ抗議する。
「わ、笑うなよー」
「……ぷふっ、ごめんごめん。ちょっと意外で、可愛かったから」
彼氏に向かって可愛いとはどういう意味の表現なのか。だいたいそれを言うなら、普段のみならず吹き出す顔すら可愛いのはアスナの方だろうに。
なおも笑い続けるアスナの様子に、はんぶんふて腐れ、はんぶん照れ隠しで唇を尖らせた俺は、仰向けにバタンと後ろの床に倒れこんだ。体の左側にあるベッドの縁と、窓から漏れる陽光が視界に入りこむ。ひんやりとしたフローリングの床に寝転がるのはなかなかに気持ちがいい。俺は伸ばした両腕を曲げて頭の後ろを支えると、見慣れた天井をぼんやり見上げてぼやいた。
「こんなことならアスナが女子校に行ってたほうがよかったかなあ」
「そしたら、一緒にお昼食べたり帰ったりもできないね」
「うっ。それは困る」
左隣に寝転がった俺を見下ろすアスナが、なぜだか妙に楽しそうにふふっと笑った。
「しょーがない人ねぇ。授業なんだからそんなこと気にしても仕方ないでしょう」
「わかってるけどさぁ」
授業だから、で割り切れるのならこんな気持ちは打ち明けていない。それに今年に限らず来年にも水泳の授業はあるのだ、割り切らなければいけないことは理解している。
「それに心配しなくても……私の……は……だから……」
後半になるにつれ急速に小さくなっていくアスナの声が聞き取れなくて、俺は腹筋に力を入れると一気に上半身を起こした。アスナの体のすぐ横、長い髪を踏んでしまわない位置を選んで右手をつき、アスナの方に顔を寄せる。
「聞こえなかった、なに?」
「な、なんでもない!」
ぷいっ、と音が出そうな勢いでそっぽを向かれてしまった。何ごとか照れているようだが、それがなんなのかがわからない。
当惑していると、こほんと軽い咳払いとともにアスナが顔の向きを戻した。
「……とにかく、今年の水泳の授業は残り一回だけだから」
ね? となだめるように見上げてくるアスナに「ん、そうだな……」と小さく頷き返して、後ろからその細く華奢な肩に手を伸ばす。
──と納得した風に返事をしたものの、俺の心はいまだ納得の境地に至ってはいなかった。なんといってもアインクラッドのアイドルことアスナの水着姿だ。SAO時代からさらに魅力的に成長したその姿を見たくない男がいるとは思えない。そして身勝手と言われようがなんだろうが、できることなら誰にも見せたくはない。
だがアスナの運動が解禁になった今、残り一回とはいえ授業への参加を止めることは難しい。生真面目な性格のアスナに対して『もう一回だけだから見学で通したら?』とも勧めにくいし、勧めたところで受け入れはしないだろう。あとは……もう一度タイミングよく台風が来るか、気温が極端に下がるかといった気象条件に望みをかけるくらいか。望み薄だが。
指通りのいいアスナの髪をそっと撫でながら、密かに頭の片隅で思い悩み続けていると──突然俺の頭に、天啓のような閃きが訪れた。
そうだ、逆転の発想だ。しかしこれは……アスナにバレたら絶対、無茶苦茶に怒られる。どうする?──と逡巡したのは一瞬だった。
数十分後。汗で首筋に張り付いた栗色の髪を、梳くように指で流し、現れた肌に唇を寄せる。愚にもつかない独占欲だと自覚しながらも、その行為で一応は自分の気持ちにケリをつけた。
「あれ、結城さん、首どうしたの?」
「えっ?」
局所的豪雨により水泳から変更となった体育の授業のため、制服から体操着へと着替えていたアスナは、突然の指摘を受けて反射的に問い返した。隣に立つクラスメイトが首を傾げながら続ける。
「このへんちょっと赤いよ。何かに刺された?」
指摘されたのは首──左耳の真下からやや後ろに回り込んだあたりだった。ちょうど制服の襟で隠れてしまい、そうでなくても正面からは見えにくい位置だ。痒みや痛みはまったく感じない。それがあれば、とうに気づいていただろう。
なんだろう? と疑問に思いながら、鞄から手鏡を取り出し、首の該当箇所を映す。
ちょうど体操着の襟ぐりの上、虫刺されにも見える指先ほどの大きさの赤みに、アスナは見覚えがあった。
胸元にいくつも散らされているものと同じ──!
驚きに息を吸い込んだまま硬直する。さらに一瞬のうちに沸騰するかと思うほど全身が熱を持つのを感じた。もしここが仮想世界なら、エフェクトで顔が真っ赤になってしまうところだ。
同時に、水着についてあれこれ言っていた恋人の顔が脳裏に浮かぶ。そういえば、あの後の行為は妙に激しく熱がこもっていたが……。
キリトくんーっ!!
アスナは思わず内心で、愛する人の名を叫んだ。
別れ際、彼の態度がすこしだけ引っかかったことも思い出す。あんなに水着について不満そうだったキリトが「水泳の授業、がんばってな」と口にしたからだ。やや目線を逸らしぎみの苦笑いを浮かべながら。
アスナは最初、キリトがまるで駄々をこねるかのような自らの態度を回想して苦笑いしたのだと考えた。そして数時間後、入浴時に胸元に残る跡の多さに気づき、苦笑いの理由はこれだったかと考えを改めた。しかしどうやらそれも違っていたようだ。あれは、自らの悪戯がたどる今の展開を見越しての表情だったのだろう。
アスナは体操着の胸元に掌を当てた。その付近に残るぽつぽつとした赤みは、器用にも水着を着ると隠れる範囲内にのみ散らされていて、着替えの際に周囲に見られないよう注意すれば問題はない。
しかし首の跡だけはそういうわけにはいかない。どうにかして隠せないかと考えたものの、瞬時に不可能だと判断する。もうクラスメイトに発見されてしまったのだから、隠せばむしろ疚しい跡だと自白するようなものだ。
はたして何人が、この赤い跡の意味に気づくだろう。自分に恋人がいることをどの程度知られているのかわからないが、このことが元でよからぬ噂が広まったらどうしよう。
「結城さん?」
横合いから問いかけられ、アスナはほんの数秒の思考を打ち切ると、ごく自然な笑顔を浮かべて答えた。
「──あ、うん。蚊かな? いつの間にか刺されたみたい」
首を傾げて見せたアスナは、手早く着替えを再開しながら考える。
気づくのがあと少し早ければ対策もできたのに……と悔やむが、そもそもキリトはこの状況をこそ狙ったのだろう。
つまり、この赤い跡は彼の主張なのだ。──結城明日奈は自分のものだぞ、という。
それは普段の彼があまり見せることのない独占欲で、アスナはこんな事態になってなお、そんなキリトの感情を嬉しく感じていた。
着替えを終えて、ふぅ、と軽く息をついてから腹を決める。
──いいわよ、もう。
──実際、私のぜんぶはキミのものだしね。
愛しい恋人の熱を首筋に思い出しながら、アスナは更衣室を出た。