カツ…ッ
カツ…
おおきな荷物を背負っているので足取りは心持ち遅い。
私は狭い街の路地を我が家へ向かいながら
日が沈む前に帰れるかな…と
だんだん赤みが差してきた空を見上げた。
この空を見ているとふと、昔の光景が淡く浮かんでくる。
父は自らが営む小さな食堂でよく楽器を奏でていた。
暇があると私を捕まえて、自分は昔、宮廷音楽家だったのだ、と誇らしげに話していた。
幼い私はその話をなんとはなく聞いていたが、今思うと、父に、音楽の素晴らしさを教わっていたのかもしれない。
昼時は忙しいので、私は手伝いや、子供に出来ることがない時は外で近所の子達とともに遊んでいた。
夕時になると人は減っていき、店内はひっそりと静まり返る。私はその時間がとても楽しみだった。
父は、その時刻になるといつも自分の傍らに置いてある楽器を持ち、店の隅へ腰掛ける。窓からの夕焼けで赤く染まる私たちしか知らない特等席だ。そして、ゆっくりと弓を構えて父の持つ物に音という命を吹き込む。すべるような動きの弓に合わせて五つの弦が震える。時に激しく、時に緩やかに…。私は毎度毎度、心を奪われ、食い入るようにその動きを見つめていた。父の奏でる音は優しく、まるで生きているかのようだった。ふいにそっと音はやむ。それに合わせて私はいつも力いっぱいの拍手を捧げた。
すると、普段は仏頂面の父が、歯を見せながら笑ってこちらを向く。
また聞いてくれてたのか?ありがとう、ちっちゃい観客さん。いつもお前が嬉しそうな顔をするからもっと弾きたくなるよ
私はその笑顔がいつも嬉しかった。父の本当の素顔をみているようなきがしていたからだ。
そしてゆっくり私の前へあるいてきて頭に手を乗せる。
でも、今日はもう終わりだ、晩御飯にしよう。
うん!父さん!
そこまで思い返した後、私の腹が勢いよく鳴き、ふっと立ち止まったままなのに気づいた、私はあわてて歩を進めた。今日は朝たべたきりだ。誰もきいていなかったかと少し辺りを見回す。空はもう小豆色になっている。長い間、遠い昔のことを思い出していたものだ。暗くなったらこの先の道は足元がみえなくなる、大変だ。
今は迎えてくれるもののいない、一人きりには大きすぎる我が家へと急ぐ。
父がいなくなった後、店を閉めたので人がくることもなかなかなくなった。
父の気配のする小さな店がそのままで残ってある。
私は時々、もう私しか知らない特等席へ腰掛け、スコアを広げる。数々の音の束。父の遺品だ。そして父が好きだった曲を奏でた。
父はどの様な気持ちで演奏していたのだろう…分からないが、私は今、演奏家をしている。どこかの家の片隅で演奏をする毎日だ。音楽は、私にとって切っても切れない大切ものになっていた。今日もその帰りで、背中に背負っている荷物は今では商売道具になった私の宝物だ。
一度父に聞いてみたことがある。音楽家に復帰しないのか、と。今から思っても父の演奏は本当に素晴らしかった。幼い私はもったいないと必死になったものだ。
父さんはみんなにすごいっていわれるよ!世界一の人になる!
すると父は優しく微笑んで、ははは、俺も慢心して、そう思っていたことがあるよ、でもな、その後色々あって途中で思ったんだよ、俺にとっての音楽はな、人を幸せにすることが一番大切だったんだって、父さんは今、お前やたまに聞きに来てくれる人に聞いてもらえるだけで満足してるからなぁ。
と私の頭を力いっぱいなでた。
今はわからないが、
私にも…いつか、目の前にいる人の笑顔の為に弾ける日がくるだろうか…あの日の父のように。