月が綺麗ですねと彼が言い、私は太陽が好きですと答えました その夜、ベンチで喫煙中の病理医の元へ、外部の弁護士が押し掛けた。
断りもなく隣に座る男に、岸は悪いと評判の目付きを、さらに悪くして向ける。
「湧くな部外者」
「細木と打合せですー。5分休憩したら行くから休ませろい」
「打合せ? 世間話だろう」
「そういうのが仕事に繋がるんだよ。せんせーは本当に営業や接待と縁がねえのな。つっても、俺も得意じゃなかったけど」
接待ゴルフは、上司やお偉いさんへのごま擦りがメイン。彼らを気持ちよく勝たせる為だけに、腕を磨く。千石にはそれが苦痛だった。
彼らの意見は絶対で、中には羞明(光を眩しく感じる、痛みを伴う症状)のある千石に対し、サングラスが生意気だと言い放った者もいた。
「……ゴルフ場は日陰が少ないからね」
精神的にも肉体的にも向かないと、岸が言葉を付け足す。
そのさり気ない理解が、千石には嬉しかった。だから何気なく、言ってしまったのだ。
「月が綺麗ですね」
実際、空には美しい満月があった。
暫く沈黙があった後、岸は、僕は太陽が好きだと答えた。
―――――――――
「最近、千石さん来ませんね。どうしたのかな」
と、昼を前にぽつりと洩らしたのは、技師の森井だ。岸は、仕事じゃない? と興味なさげに答えた。
「さすがに毎日来てたら暇すぎでしょ」
「昼飯どうします?」
「食堂行くかな」
「そうですね」
ここ暫くは、外に誘ったり買って来てくれたりと、弁護士が何かと顔を見せていた。
「あと5分待ちますか?」
「何で? 必要ないでしょ」
そう言いながら、この部屋の主は立ち上がろうとしない。
宮崎は学会にお出かけ中。だから気兼ねなく話せる。切り出そうと、森井は決めた。
「喧嘩でもしたんですか?」
聞くと、岸の手の動きが鈍った。
「喧嘩? あの悪徳弁護士と? 友人だっけ?」
「それ以上では? どうせあなたの失言でしょ。何言って怒らせました?」
「月が綺麗ですね」
「はぁ?!」
「そう言われて」
「言われたんかい。で?」
「太陽の方が好きだと」
うわっちゃー、と森井が天を仰いだ。遠回しながらも有名な愛の告白に対して、この男は辛辣な返事をしたようだ。
ここまで冷血漢だったか? という疑問が湧く。
「待ってください。意味はご存じ?」
「含みは知ってる」
「知っててその返し? え、嫌ってました?」
「嫌いじゃないけど付き合う気はないよ」
驚いていると、噂の弁護士と同級生である、細木がひょっこりと顔を覗かせた。
「どもー。千石来てない?」
「ない」
「機嫌悪いね。森井君こいつどうした?」
「痴話喧嘩みたいです。千石さんに月が綺麗と言われたそうですよ」
途端に、細木の表情が変わった。獲物を見つけた猫のように、目を輝かせている。
「うっわ、あいつそんな言い方したの? 太陽がダメな人間だから? 誤解されるように? 違いますよそんな意味じゃないですよ、て? チキンだな。逃げか。振られる前提か」
「太陽がダメ……あれ、地毛ですか?」
「そうよ。昔は大人しい髪型で、ピカピカの優等生だったから、悪目立ちはしてなかった。それが。あそこまで。出来上がるとは。プークスクスww で? 何て振ったの?」
「……太陽の方が好き」
「ぶっひゃっひゃっひゃっ! 鬼かよ! 日中グラサンなしで出歩けない人間に言っていい台詞じゃねえ。この人でなし」
「希望を持たせる方が悪いでしょ」
「裏の裏まで読む弁護士相手に、言葉少なは悪手よー。住む世界が違う、二度と来るな気持ち悪い、とまで受け取ったかもねー」
「そこまでは……」
「いやー、フルボッコ。全否定。泣きっ面に蜂すぎ。慰めてやりたいけどあいつネコだからなー。それに、今は無理させられないかー。怪我人だし」
仕事の手を完全に止め、病理医は顔を上げた。
「怪我? どういうこと?」
「ネコに驚かないの? 興味ない? 興味ないのに聞くの? やだ楽しくなってきた。にやにやしちゃう」
「何があったか聞いてんだ」
「ウヒヒ怖っ。怪我は刃物による、ひーだり前腕の切創」
「通り魔?」
「誰があんなゴリラ襲うかよ。厄介な案件に巻き込まれたんだって」
ストーカー被害の弁護。犯人との交渉役。しかしその犯人、前にも弁護士を怪我させており、どこも依頼を受けてくれなかった。結婚を控えた依頼人は、交渉役よりも身代わりが欲しかったのだろう。
と、無関係の細木が説明する。
「ベラベラ喋って、守秘義務は?」
「契約違反どころじゃないもん。つか契約結べてないんじゃない?」
ここでばら撒いたチラシ。病院で拾った依頼人が、断りもなく利用した。既に依頼したと嘘を。
「あんたの写真もあったでしょ。だからあいつ、矢面に立ったんだよ」
チラシに載せた姿そのもので、出向いた。
「で、その打合せに向かう道中で、いきなりさっくり。待ち合わせしてた依頼人を帰して、警察対応して、タクシーで病院へ。ハンカチで止血しただけだった」
「救急車呼んでいいでしょ」
「歩けるからって断ったそう。見た目頑丈だし? 警察も上手く誘導したんじゃない? 幸いな事に神経と血管は無事だった。でも真皮まで達していて縫合。抜糸は来週かな。毎日消毒に来いっつったのにあの野郎。今日やっと来たよ。まあ振られた直後なら来るの辛いか」
「いつの話?」
「3日前。そういえば前日、月が綺麗だったね」
細木が満面の笑顔を広げた。機嫌がどんどん急降下していく、同期の反応が楽しいらしい。
「普段くだらないお喋りに来るくせに、そういう事は言わないのか?」
「こっ酷く振った割には心配かよ。つか、嫌いな人間気にかけるなんて、そんな優しかった?」
「嫌いなんて言ってない」
「ふーん。不思議なのよね。あんたがわざわざ太陽を持ち出すなんて。回りくどくない? なーんで?」
「別にいいでしょ」
「交換条件よ。代わりにこれあげる。中華店のサービス券」
ぱちり、とひとつ瞬いて、病理医は理由を口にする。
「日の光の方が、顔を見やすいんだよ」
陽の光に透ける金に近い明るい髪と、サングラスの奥から覗く甘やかな色の瞳。綺麗だなと思った。
だから太陽の方が好きだ。
―――――――――
千石は、ため息を吐いた。
ここ数日忙しかった。被害届を出したり、住所がバレぬようビジネスホテルに移動したり、犯人確保を受けて警察に赴いたり。
やっと時間と安全が取れて、病院へ行った。今はその帰りだ。
捕まった犯人は、余罪もあって当分出て来ないだろう。依頼人も安心して、さっさと引っ越すそうだ。契約する前だったが、慰謝料なのか、ふた月程度の金額を包んでくれた。
割の良い仕事だったと考えよう。時給にしたらどうだ。大手時代より多い。代わりに気力と体力がごっそり減ったが。
痛みと気が張っていたからか、ホテルではあまり眠れなかった。薬は抗生物質以外、飲んでいない。
睡眠不足を笑うように、頭上はいい天気だ。真っ青な空が抜けている。
色の濃いサングラスがないと、目を開けていられない千石には、あまり縁のある景色ではなかった。人と違う空にも、慣れたと思っていた。
太陽が好き。
セリフがリフレインした。住む世界が違うと言われた気がした。あそこまできっぱりと振られたら、諦めも付く。もうしばらく時間が必要だが。
そろそろ何か食べないと。
そう思うのだが、足が進まない。食べたい物が決まる前に、混み合う時間になってしまった。
細木に貰ったサービス券の中華にでも行こうか。気持ちを切り替えたが、直後に、そうか太陽が好きか、と思考が振り出しに戻った。
サングラスを取る。腕に引き攣るような痛みが走ったが、千石は気にも留めなかった。
太陽に嫉妬心が湧きそうだった。天動説ならまだ許せただろうか。自分を中心に回ってくれれば。
空を見上げた。
痛みに眉を顰める。それでも頑張って、世界を見ようとした。せめて、あの病理医が好きだと言った、同じものが見たかった。
「…痛ってえ…な……クソ」
激痛に、前屈みになった。膝に手を付いて耐える。腕を切られた時より痛い。心のダメージかも知れない。視界がぼやけた。
千石は内心で、馬鹿かな、と零した。ここで蹲っていても仕方がない。
よっと勢いを付けて、立ち上がろうとした。しかし寝不足もあって、目の前が大きく揺れる。一旦全ての動きをストップした。
うー……と唸りながら、ガラ悪くしゃがみ込む。
「立てない?」
俺か。声かけられてるの。
「大丈夫大丈夫。立ち眩み。少し休めば平気」
「そ、ならウチ来て休んだらいいよ」
え?
「タクシー捕まりましたよ」
「……あれ? 森井君?」
「無理して目を開けなくていい」
「せんせ?」
一瞬だけ合った目を、岸はすぐさま細めた。千石にはそう見えた。こうなると本気で目付きが悪い。
睨む仕草に感じて、本格的に嫌われたかなと。勝手な判断だと分かっていても、千石の心が軋んだ。無意識に目元を拭う。
「どうして外した?」
と、握り締めたままのサングラスを見遣り、岸が言った。軽く、千石が舌を打つ。
「……そんな気分? せんせーだってあるだろ。空を見たい時が」
「写真でいい」
「情緒ねえな」
「とりあえず移動するよ」
岸が腕を取った。タクシーまで誘導しようとしたのだ。サングラスも掛け直そうと。だがその前に――
「っ……!」
千石が息を詰めた。細木が話した左腕ではなく、右腕を掴んだ。にも関わらず、痛みに耐えるよう身をすくめている。
岸が力を抜き、触診するよう指先を動かした。スーツ越しにある、包帯の感触。
「怪我、右腕?」
「……細木に? ああ、まあ、ちょっとミスった」
「そう(細木め)」
細木にしてみれば、振った岸が面白くないのだ。だから、うっかり中華屋で鉢合わせして怪我した腕に触れてイタタわあごめん病院へ行こう、になればいいと思った。キッカケになればと。
岸も同期だが、今回は千石の肩を持った。一歩踏み出した、勇気を讃えて。
あとは単純に、くっ付いた方が面白いからだ。
「歩ける? この問答が面倒だな、救急車呼ぶか」
「立ち眩みだっ。そんな気軽に呼ぶなよ医療従事者」
「……襲われた時ぐらい呼べば良いだろ」
岸の手が、サングラスを千石の顔の定位置に戻した。
それから腕を取らず、背を支えて、タクシーの車内へと誘導する。一連の動作は、口調からは考えられぬほど、優しかった。