この空に君を想う ふと後輩の肩越しに見えた窓の外の空の色にはと息を止めた。意図的にそうしたわけでは決してなかったけれど、何故だかその沈みゆく太陽の赤さに目を奪われたのだ。見慣れているはずの風景。これまでに幾度となく見たことのあるはずのそれなのに、妙に目について、心臓の裏側を擽る。
「おや、何か珍しいものでも?」
くつりと意地悪く笑ったアズールはきっと、イデアの機微に気付いていて、その上でその理由を口にさせようとしているのであろうことはわかった。そして、それを素直に実行するようなイデアでないことも彼は分かった上でやっているのだろう。
「別に」
何かが詰まったような喉の奥から素っ気なく返事をすると、ふふと可笑しそうな空気を零した。そう来ることが分かっていたかのように、特段のリアクションはない。
「チェックメイト」
「……」
「一瞬の隙は命取りですよ」
机に両肘をついて内側へと折り曲げた手首の上に顎を乗せた。計算され尽くした角度と営業スマイルに鼻を鳴らして負けてしまった盤面を見下ろす。途中までは優勢だったはずなのに、いつの間にかまあまあな劣勢に追いやられている。そうなるまで気付かなかったのも不思議なくらいで、再び持ち上げた目で窓の外を再び捉え、夕陽に照らされた赤い空に、お前のせいだと毒付いた。
「何か悩み事……いや、考え事ですか?」
「別に」
「イデアさんと僕の仲じゃないですか。特別価格でお伺いしますよ」
「金取るんかーい」
「ただより怖いものはありませんよ」
鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌はチェスでの勝利からか、先輩の弱みを握れるとでも思っているからか。抑揚のない声であしらって、負けてしまった我が軍を回収する。不甲斐ない司令官ですみませんなあなんて片隅で考えながらケースへと退陣させた。
「今日は随分空が赤いですね」
イデアが度々窓の外に視線を投げていたのに気付いていたのだろうアズールが何ということもないように呟く。いつか見た夕焼け草原の風景写真が丁度こんな景色だった。生命の塊のような太陽がその大きな身体を地平線の向こうへと沈めて行く。この賢者の島には地平線はなく、窓の外は水平線であったけれど、それがまた水面を赤く燃え立たせていて、ちかちかと光った赤い破片が宝石のようだった。
「……」
はたと手を止める。そうだ、赤い太陽が、つられて輝く水面の赤が宝石のようだ。それはまるで、あの艶やかな黒い髪を束ねている宝石のような。
「ご相談はいつでもお受けしますので」
いつの間にか片付けはおろか帰り支度まで終えていたアズールが呆然と手を止めていたイデアの目の前に黒い手袋を往復させた。引き上げて行く指先を追いかけて傍らに立った後輩を座ったままの姿勢で見上げる。首を傾げて微笑んだ様が何とも商人然としていつつ、どこか楽しそうなそれで下瞼を痙攣させた。
「結構でござる」
「それはそれは残念です。しかし、イデアさんが恋とは。わからないものですねえ」
「は、はあ!? だだ誰がそんなこと!? あああアズール氏ちょっと想像力逞し過ぎん? 最早妄想の範囲では」
「はいはい」
指摘されて焦るのは図星が刺された証拠であると分かっているのに、反射的に立ち上がって声を荒げたイデアに全く動じる様子もないアズールが適当に流しながら革靴の踵を鳴らす。
「ではまた来週。ご武運をお祈りしていますよ」
ひらりと手を振って部室を後にした背中を見送って、やり場のない焦燥と羞恥を抱えたまま再びイスに腰を下ろした。何でもないことからその人を連想してしまうのは、思考の幾分かを占領されているということになるのだろうか。例えば、中庭にいた珍しい鳥の羽を見た時、黒曜石の装飾を見かけた時、宝石のような夕陽を見た時。
「……機械のバグなら直せたのに」
恋愛は脳のバグだというけれど。ならばどうしたら治せるというのだろうか。溜息ともに呟いて窓の外に目をやると夕陽はもう姿を消し、下り始めた濃紺の帳にその瞳を連想して重症だと自嘲した。
地元にいた時よりは多少遅くなったものの、朝食の支度がある以上はそういつまでも寝てはいられない。ふあとひとつ大きく欠伸をしながら自室を出てキッチンに向かう。明け方は少し肌寒く、羽織った上着の前をかき合わせた。
誰もいない廊下を歩く内、ふと目に止まったのは窓の向こうの朝焼け。濃紺から薄桃を経たオレンジへのグラデーションは故郷とも少し違うそれで、思わず足を止めた。これまで幾度も見ているはずの景色に目を奪われるなど、大概ロマンチストな所があったものだと冷静な自分が嘲笑するのを聞きながら、それでも目が離せない。
薄い青から薄い桃色へ変化している僅かなそこは、短い時間の経過とともに薄れ、やがてオレンジへと飲まれて行ったけれど。垣間見えたあの色は、あの日ジャミルが告白したあの日に見た、イデアの髪の色によく似ていた。
「……先輩はそろそろ寝る頃か……?」
時計を確認するついでにメッセージ画面を開く。こんなことなら先刻の写真を撮っておけばよかったなと後悔しながら、迷いに迷って結局当たり障りのない挨拶の言葉だけを送ってまたキッチンへと歩き出した。