バスケ部のイレギュラー 事の発端は、黛千尋の母校の後輩である赤司征十郎からの電話だった。
『あなたの忘れものを届けたいので、住所を教えてほしい』
高校卒業に伴い退寮し、来月からの大学生活に向けて一人暮らしを始めた黛に、赤司はそう言った。
黛は断った。大事なものを部室に忘れた記憶がないし、大したものでないなら郵送させるほどのことはない。「忘れものは、そちらで処分してくれ」と赤司に頼んだ。
『そういうわけにもいかないんです。
こちらから届けるのがダメなら、黛さんのほうから受け取りに来てください』
口調こそ丁寧だが、有無を言わせぬ調子で赤司は言った。
こいつがこうと言ったら聞かないことを黛は重々承知している。結局、都合のいい日にちを教えてもらえれば、交通費はこちらで出す、という赤司の提案に黛は折れた。
赤司が指定してきた場所は、京都府内にある母校の高校ではなく、赤司家が京都に持つ別荘だった。できれば赤司以外の元チームメイトとは顔を合わせたくない、と思っていた黛としては好都合である。高校在学中にお坊ちゃんの後輩の別荘になど行ったことはなかったが、メールで教わった住所をもとに黛は純和風の大きな別荘へと辿り着いた。
で。その結果が、これである。
「……ナニコレ」
目の前の光景が理解できずに、黛はその場に立ち尽くす。
「見て分かりませんか?」
と、赤司が愉快そうに笑った。
赤い髪に、赤い双眸。相変わらず、ライトノベルの中から飛び出してきたような容貌だ。左目の色は、黛が見慣れた色とは違ったけれど。
「分かんねえよ。どういう状況だ、これは。なんでこいつらまでいんだ」
黛は眉をひそめ、赤司を見返す。
「もー、いいから入ってよ、黛サン!」
と騒がしい声が邪魔してきた。
黛は赤司家の別荘の中に目を送る。よく磨かれた廊下の奥からは、母校のバスケ部でスタメンの葉山小太郎、実渕玲央、根武谷永吉が顔を覗かせていた。
「そうだぜ。いつまでも突っ立ってねえで、早くこっちに来いよ」
「征ちゃんちの人がお料理用意してくれてるわよ。
黛さんの席は、小太郎の隣ね。私の隣は征ちゃんの席だから」
根武谷と実渕が好き勝手に黛に指示してくる。
先ほど話に割り込んできた葉山といい、揃いも揃って先輩である黛に敬語を使う気もなければ、遠慮もない。
「お昼まだでしょう? そういう時間を指定しましたから。
さあ、どうぞ中へ」
一番遠慮のない後輩に腕を引かれ、黛は別荘の敷居を跨ぐ。
「赤司。お前、騙したな」
軽く睨んで問うた黛に、赤司はにこりと笑うことで応えた。
「おーっし。これで全員揃ったな」
「ねーねー、赤司ー! 早く始めようよー!」
「少し待ってくれ。――どうぞ。黛さんの分のお茶です」
「……おう」
黛の手元に、温かい緑茶が入った湯呑みが置かれる。
目の前の座卓には、湯葉料理や甘鯛の塩焼き、手鞠寿司といった料理がいくつも並んでいた。その食卓を、黛は今、元チームメイトたちと囲んでいる。部屋の障子は開け放たれ、庭に咲く桜が眺められるようになっていた。
「じゃあ、早速」
「その前にこの状況を説明しろ」
葉山の言葉を遮って、黛は要求する。
「電話でお話ししたでしょう?」
と、赤司が首を傾げた。
「電話で言ってたのは、オレに忘れものを取りに来いって話だったろ。
それが何でお食事会になってんだよ」
「それは、忘れものを受け取ってもらうためですよ」
「意味が分からねえ。つうか、忘れものって何――」
「黛さん、まだ受け取ってなかったでしょう。オレ達からの、卒業祝いの言葉を」
「…………」
予想外の答えに、黛は返す言葉を失う。
「オレ以外の三人は、引退式の日にお疲れ様も言わせてもらっていません」
畳みかけるように、赤司は言葉を重ねてきた。
「征ちゃんが、卒業まではそっとしておくように、って言うから、私達もそうしてあげてたケド。まさか、卒業式の当日になっても部室に顔出さないなんて思いもしなかったわよ」
「ほんと、つれねーよなあ、アンタ」
「しかも、黛サンって卒業式の日が誕生日だったんでしょー? それも祝わせてくれないなんてさー! なんか寂しーじゃん!」
実渕達が次々に口を挟んでくる。
「なんで、葉山がオレの誕生日知ってんだよ」
黛の問いに、
「ひぐっさんに聞いた!」
と葉山は笑顔で答えた。
黛は、バスケ部の試合で何度も世話になった同級生を思い浮かべる。三年生の時にはマネージャーを務めていた、樋口正太。確かに、あいつには誕生日を教えていた。
「マネージャーが引退式に出て、卒業式の後も部室に顔出ししてるってのによお。シックスマンのアンタは、どっちも来ねえんだもんな」と根武谷。
「悪いかよ。オレはセレモニーみたいな面倒くさいもん好きじゃねえし、妙な馴れ合いも好きじゃねえんだ。
お前らこそ、雑魚扱いしてたオレのことなんか、どうでもいいんじゃねえのか」
黛は思ったままを口にする。すると、その場にいる全員がきょとんとした顔を黛に向けてきた。
「……あー。もしかして、ウィンターカップの決勝戦のこと気にしてる?
あれはさー、だって、しょうがないじゃん。ホントのことだもん」
「試合中に選手の気が立ってるのなんて、よくあることだろ。ンなもん、試合が終わったら水に流せよ」
「黛さんがそれを言うならともかく、アンタが言うのは違うと思うケド。
でも、私も永吉と同じ意見だわ。試合で勝たなきゃいけない時に、味方への言葉遣いなんか気にしてられないもの」
実渕達が好き好きに意見を述べる。
「お前たちの言うことも分かるよ」と、赤司が口を挟んだ。
「けれど、今後は少し改めるように気を付けよう。
オレ自身も、それについては反省しているんだ」
いつも自信に満ちた赤司が、珍しく沈んだ声を出して目を伏せる。途端に、実渕達があたふたとし始めた。
「やだ! 征ちゃんはそんなこと気にしなくっていいのよ!」
「そうだぜ。ありゃ、お前の期待に応えられなかったオレ達にも問題があるんだ。気にせず、これからもバシバシ鍛えてくれよな!」
「そうだよ! てか、赤司が厳しくなかったら、なんか調子狂っちゃうよ!」
チームメイト達の好意的な反応に、
「……そうかな」
と赤司が目を丸くする。
実渕達二年生からすれば、先輩の黛より、後輩の赤司に甘くなるのは当然のことかもしれない。が、それにしてもこの扱いの差はなんだ、と黛は内心でツッコむ。
「すみません。話が逸れましたね」赤司が、よく通る声で言った。
「では、改めて。――黛さん。シックスマンとして、一年間お疲れ様でした。そして、ご卒業おめでとうございます」
主将の赤司が、柔らかく目を細める。
「おめでとう、黛さん。お疲れ様」
副主将の実渕が笑顔で続く。
「おめでとさん」「おめでとー、黛サン!」
根武谷と葉山も、口々に祝いの言葉を述べた。
「……おう」
黛はそっけない言葉を返す。
このメンバーと一年弱過ごして、自分が会話の中心になったことなどほどんどない。だから、今こうして注目を浴びている状況がなんとも居心地悪かった。
「おーっし! じゃあ、赤司のお手伝いさんが作ったご飯食べようよ。オレ、お腹空いちゃった!」
「おう! オレもだ!」
「ちょっとアンタ達、主役が先よ!
黛さん。こいつらに取られる前に、自分が食べたい物、お皿に取り分けておいたほうがいいわよ」
「そうですね。量は足りるはずですが、そのほうが賢明だと思います」
葉山が野菜寿司に、根武谷が牛肉に箸を伸ばし、賑やかに食事が始まる。
主役である筈の自分をそっちのけで騒ぐ後輩たちを見て、
(まあ、こうなるよな)
と黛は思った。
必要以上の会話は交わさずに、バスケ選手として優秀なこいつらの傍らにいる自分。それがなんだか当然なことのように思えて、つくづくオレは影(サポーター)なんだな、と黛は自嘲した。
「お口に合いましたか?」
黛が縁側で庭の桜を眺めていると、赤司が問いかけてきた。振り返ると、赤司の赤い双眸と目が合う。
「……まあ、飯は美味かったケド」
「そうですか。それは良かった」
赤司は微笑み、黛の隣に正座する。一拍間をおいて、「今日は来てくださって、ありがとうございました」などと殊勝にも頭を下げた。
「騙されたような形だったけどな」
「あなたにとっては、そうでしょうね。
オレとしては、あの三人の心残りを晴らせて良かったです」
そう言って、赤司は背後に目を向ける。
黛がつられて目を向けると、実渕達が部屋の中央で談笑しているのが見えた。
「あいつらに心残りなんてねえだろ。今だって、誰もオレのことなんて気にしてねえじゃねえか」
「そうでもありませんよ。葉山なんて、引退式のあとから、ずっとあなたのことを気にかけてたんですから」
「葉山が?」
「はい。勿論、ほかの二人も。それにオレも」
澄んだ声で言って、赤司は黛に目を向ける。赤い双眸をやんわりと細め、人好きのする笑顔を浮かべた。
「あなたとするバスケは面白かったですから。
みんな口にはしませんが、あなたからのパスがないバスケを物足りなく感じているんですよ。
……またどこかで、一緒にバスケしましょうね。その時は、オレからお誘いしますから」
黛は赤司の視線を受け止め、一瞬だけ思考を巡らす。けれど、すぐに視線を外し、「断る」と明言した。
「お前らみたいなバケモノ共とやるのは、もう充分だ」
溜め息混じりに付け足すと、赤司がフッと苦笑を漏らすのが聞こえる。
「すみません、オレの言い方が悪かったですね。――僕が呼んだら来い、千尋」
「……!」
重く響く声。僕という一人称。一年生とは思えない、尊大な話し方。
黛は目を瞠り、赤司の瞳に目を向ける。赤い右目と橙色の左目の、オッドアイ。高校生活最後の一年間、何度もアイコンタクトを交わした目と目が合った。
赤司の別人格。一年弱前に、黛をライトノベルのような世界に引き摺り込んだ張本人が、確かにそこにいた。
「お前のプレイスタイルは、一人で練習して維持できるようなものではないだろう。どうしても、お前の特性を理解したチームメイトの存在が要る。
僕が直々に手伝ってやろう。まさかとは思うが、僕が見出してやった能力を、みすみす手放すような真似はしないだろうね?」
黛が慣れ親しんだ声と表情で赤司は言う。
「……気が向いたら、付き合ってやってもいいケド」
思わず、黛はそう返していた。
不敵に笑って、未来でも見えているかのように赤司が断言する。
「お前は来るよ」
真っ直ぐに見据えてくる赤司を眺めて、結局こいつの言う通りになるんだろうな、と黛は経験則から思った。
別に、それが嫌だとも感じなかった。バケモノ共の後輩とプレイしたところで自分が良い思いをできるとは限らないが、まず間違いなく、普通では味わえないゲームは体験できる。
「お前がそう言うなら、そうなんだろうな」
応える口元が、知らず緩む。
黛の返答に満足したのか、赤司も僅かに表情を緩めた。
――もう少しだけ付き合ってやるのも悪くねえか。この立場を楽しめるうちは。
胸中で独り言ちて、黛は空に目を向ける。
舞い散る桜の花弁の群れが、ほんの一瞬だけ、春の眩しさを遮っていった。