月下のダンスホール/月下の心臓月下のダンスホール (D)
強烈な月明りの下で踊るのが好きだった。
グローブに包まれた彼の無骨な手を握り、それを頼りにぐるりと回ったり足をでたらめにばたつかせてみたり。本当はバロックダンスの正しい作法も知っているのだけれど、それを彼に一から教えてやることはできない。踊れる時間は限られているのだから。
常夜の町にも穏やかな夜はあった。怒号も悲鳴も聞こえない、不気味なほど静かな夜だ。この町にもまだ吸血鬼と戦うために残っている人間がいるというのに、誰の声も聞こえない。誰もが息を潜めているのだろう。血が滲んだような色の月と陰口を叩くように瞬く星だけが新横浜を包む、嫌な夜。
だからこそドラルクは踊りたかった。
「ロナルド君、今宵はとても静かだね」
それがドラルクなりのシャル・ウィー・ダンスだった。
戦わなくてもいい静かな夜くらいは笑いたい。それに見てみたかった。若くして戦禍に身を投じ、心を擦り減らしている男が心の底から笑うのを。うつくしいかんばせだ、きっと綺麗に笑うのだろう。
ロナルドはドラルクの誘いを断り続けた。言い分はさまざまで、遊んでいる場合じゃないだとか、誰が吸血鬼なんかと踊るかだとか、ある日は無言を貫いて無視されることもあった。吸血鬼退治人として敵対している怪物と手を取って踊ることはあり得ないと、彼はそう思っているようだった。もったいない。きっと楽しいのに。
しかしいつからかロナルドはドラルクの前でもうっすらと笑うようになった。それなりの時間をともに過ごしてきたことで情が湧いたのだろう。元より彼はお人好しなようだったから。苦しい戦いの数々を最弱の吸血鬼の助言をもって潜り抜け、つかの間の休息では世話焼きな吸血鬼の料理を食べ、眠る前に無邪気な吸血鬼の昔話に笑う。
そんな生活を続けてきた宵、その日も静かな夜だった。
「俺、ダンスなんてしたことねえけど」
冷たく突っぱねるだけだった言葉が呆れるように笑った声を含むようになり、それから。ロナルドは首を竦めてそう言った。
「お前の足を踏んでもいいんなら踊ってやるよ」
軽く穏やかな口調に揶揄いを混ぜ込んだロナルドに、ドラルクは困惑した。答えてくれる日が来るなんて、思ってもみなかったのだ。どうせ今日も断られるのだろうなと思っていたのに。
ロナルドに両手を取られぐるんと振り回される。驚いて死にかけるもロナルドはそんなドラルクに気遣うことなく次々に足を踏み鳴らす。音楽も、ダンスのルールも何もないめちゃくちゃな動き。なにもかもがはじめてだ。こんな奇妙な踊りも。ロナルドとの触れ合いも。
戸惑いの表情を浮かべるドラルクの腰を厚い手のひらが引き寄せた。そのまま勢いに任せてターンする。ぐっと綺麗な顔面が目の前に迫りドラルクは息を吞んだ。
ロナルドは笑っていた。銀髪に赤い月の光を反射させて。
「誘ってきたのはそっちだろ!」
上手に踊ってみせろよ!
そう笑うものだから。「見くびらないでくれたまえ!」とドラルクも片眉を吊り上げて笑い返し、でたらめなステップを踏んだ。
そういう夜がたくさんあった。
踊っていた。笑っていた。触れていた。
多分、恋をしていた。
それなのにね。
ロナルドは動かなかった。呼びかけても答えない。宝石のような青い瞳は瞼によって隠されたまま姿を見せない。
静かな夜だった。戦いが終わった、穏やかな夜だった。
いつもみたいな夜なのに、ロナルドだけが目を覚まさない。
「ロナルド君、今宵はとても静かだね」
踊りたい。あの下手くそなダンスでなければから回った呼吸が落ち着きそうになかった。けれどドラルクはロナルドがもう今までのように笑うことはないのだと理解していた。
理解しなければならないほど戦況は最悪だった。
「ロナルド君」
ひゅう、と聞こえた不細工な喉の音は自分のものだ。
もう二度と彼と触れ合うことはできない。
そんなのは、嫌だった。
彼には生きていてほしい。それは世界のためであり、ドラルクの願望でもある。そしてそれを叶える方法をドラルクは知っていた。
「ジョン。許してくれるかい?」
己に忠誠を誓ってくれた騎士に問いかける。鎧の男はただ無言でドラルクの足元に跪いて深く頭を垂れた。それにドラルクは「ありがとう」と小さな声で答える。
力無く放り出されたロナルドの手を取り、自身の痩せこけた頬に擦り付ける。グローブ越しに伝わる体温が冷えきっていたけれど構わなかった。最後に一度だけ触れてほしかっただけだ。脈打たない手首に唇を寄せる。
ドラルクは片手を自らの胸に添えた。
「‟真祖の心臓”、君に預けてやる」
手のひらに深紅の宝石を載せ、無理矢理不敵な笑みを象る。心臓を失った体が塵へと変わっていく。
ロナルドの心臓として生きる。そのことに後悔はなかった。触れたいのに触れられないよりも、彼の内側から想う方がずっと良い。ドラルクの体は完全に塵となり、宙を揺蕩う。なくなったはずの体がぷかぷかと浮かんでいるような感覚の中でロナルドが目を覚ますのを待つ。
玉石が息絶えた肢体の中で脈打ち、彼の命を司る。もうじきあの青が再び世界を映すだろう。
ドラルクはただ祈る。またロナルドと踊れる日が来ることを。それまではしばしお別れだ。
――私は私らしく、君を生かすのさ。
またいつか、きっとその手を取らせておくれ。
切実な願いに呼応するように、呼吸をなくしたはずの唇が吸血鬼の名前を象った。
月下の心臓 (R)
笑っちまうくらい好きだった。とにかく大事だったんだ。
月明りの下、闇を塗り広げるかのようにマントを翻して軽やかに歩む姿も、軽口を叩いて緊迫した空気を和らげる優しさも、弱いくせに一緒に最前線に立ってくれたちっぽけな勇気も。すべてがいとおしかった。
ぎらぎらと無遠慮に降り注ぐ月明りにロナルドは目を眇めた。悪寒がするほど静かな夜に月の光だけが存在感を放っている。平和で不快な夜だ。こんな夜くらいはでたらめに踊って笑い飛ばしてしまいたい。
そうだろう、ドラルク。ロナルドは自らの左胸に手を宛てて問いかけた。
能天気で空気が読めない吸血鬼。それがロナルドにとってのドラルクだった。
戦いのない静かな夜。決まってあの吸血鬼はロナルドをダンスに誘った。冗談じゃない。吸血鬼退治人が吸血鬼と手を取り合って踊るものか。ドラルクと手を組んでいるのは人間を敵対視している吸血鬼を倒すためであって、それ以上の感情はない。ドラルクを本当の意味で殺すまでの間、仕方なくその手を取ったまでのこと。ドラルクに誘われるたびにそう言って突き放した。そうしてドラルクは「そう」と残念そうに笑って肩を竦めるのだった。
いつからだっただろうか。この吸血鬼の隣がひどく安心することに気が付いたのは。強大な敵を前にして神経をすり減らすロナルドの横で、いつだってドラルクは笑っていた。あいつの催眠のタイプは、などと助言をして。つかの間の休息では限られた食糧を使って信じられないほど美味い料理を作り、眠る前には長命ゆえの博識ながらも興味深い昔話を聞かせてくれた。そして一日の終わり、戦いに疲れながらもロナルドは思うのだった。悪くない日だった、と。
だから、良いかと思った。それだけだ。
「ロナルド君、今宵はとても静かだね」
いつもの誘い文句に笑って頷けば、大きな目をさらに大きく見開いてロナルドを見つめる。その顔が珍しくも間抜けで、ロナルドは笑みを深める。
華奢で壊れそうな手を取りぐるんと振り回す。ダンスの作法なんざ知らないのでめちゃくちゃに足を踏み鳴らした。はじめて触れ合ってみたいと思って触れた手は、見た目通り骨ばっていてよわくて、やさしい。
ダンスって確か、体を寄せあったりするんだったか。衝動のままにロナルドはドラルクの腰を引き寄せ、その感触にぎょっとした。両手で掴めば指がまわってしまいそうなほどに細い。勢い余ってターンすれば、戸惑ったような吸血鬼の顔が目の前に迫り、ロナルドは息を呑んだ。
ドラルクの瞳がルビーのように赤いのを、はじめて知った。月の赤よりも、ずっと、ずっときれいな色だ。
ロナルドは笑って声を張り上げた。誘ってきたのはそっちだろ、上手に踊ってみせろよ! と。ドラルクはアハ、と牙を見せて破顔した。
「見くびらないでくれたまえ!」
枯れ枝のような足がステップを踏む。軽すぎる体重をロナルドに預けて無邪気に笑うのに合わせてロナルドも踊った。
そういう夜がたくさんあった。
踊っていた。笑っていた。触れていた。
多分、恋をしていた。
それなのにな。
目が覚めたとき、ドラルクはいなかった。最後に見た彼は今にも泣きだしそうな顔をしていたのを思い出す。いつだって笑って愉しそうに振る舞っていたあの男が、だ。冷たいはずの体温が手袋越しにも温かく感じたから、あぁ自分はもう死ぬのだなと思った。
夜明けを見ることは叶わないのか。悔しかった。それなのにどこかほっとしたような気もして。その時確かに思ってしまった。死ぬ前に恋した男の顔を見ることができて良かったと。例えそれがひどい顔色だったとしても。
そうして覚悟した死は訪れることなく、今もロナルドは生きている。ドラルクの存在を代償にして。人間には理解しがたい事が自分の身に起きていることだけはわかる。きっとドラルクが何かしたのだろう。ロナルドは頭を抱えた。何が起きたのかはわからないけれど、苦しくて仕方がなかった。
不意に座り込むロナルドの周囲に砂塵が舞う。ひび割れたアスファルトに落ちることなく漂うそれは吸血鬼の塵だった。ロナルドを気遣うように頬を撫でるそれは確かにドラルクの気配で。なんとなくわかってしまった。
ドラルクは、俺の心臓に成って、くれ、たんだな。
退治人として、流さないと決めていた涙が塵を濡らす。ぼたぼたと零れる水滴はもとは血液だったもので、その血液は心臓から送り出されたもので。その、心臓、は。
あぁ……あぁ。ああぁぁぁ!
蹲り慟哭するロナルドに纏わりつく塵からは何の温度も感じないのに、どこか優しい。けれどいつもロナルドを慰める声が聞こえない。どうしようもなくかなしくて、息を切らせるように泣き喚きたいのに、鼓動だけは穏やかにロナルドを安心させるように鳴り続けた。
戦いのない静かな夜。ロナルドは眠れなくなった。
「今夜は静かだな、ドラルク」
ダンスのパートナーが待てど暮らせど現れないのだ。
せっかくできた休息の時間だというのに、孤独感に耐えきれなくて眠ることができない。無理矢理眠ろうとすれば、でたらめなダンスを踊った夜の夢を見る。もう触れ合うことの叶わない想い人が、よく似合う思いきった笑い方でロナルドの手を取る夢だ。ばかみたいにしあわせな悪夢に飛び起きては現実を思い知る。
近くにいるのに会えないし、ずっとそばにいるのに一人のまま。
それでもロナルドは戦わなくてはいけない。それが退治人の使命であり、ドラルクがロナルドに心臓を託した理由でもあるから。
いつか、叶えたい夢がある。人間と吸血鬼が手を取り合えるようになった平和な世界で、色々なドラルクが見たい。怒ったり困ったり、ころころと変わる表情を一等近くで眺めて、そうして騒がしい恋がしたい。月の下、人間も吸血鬼も一緒になって、回るルーレットの上で足を取られながらも踊るふたりを指差して笑うような。
そんな、ギャグ漫画みたいな恋を。
それを叶えるまでロナルドは死ねない。ロナルドが生きることでドラルクは鼓動し続けるのだから。
――俺は俺らしく、お前を生かすんだ。
周囲を舞う塵に手を差し伸べればエスコートに応じるようにロナルドに纏わりつく。月の光を含んだ粒がきらきらと輝き、踊る。
再びあの華奢な手を取れる日まで。それまでロナルドは、左胸に最愛を抱えながら生きていく。