君の頭の中の図書館 石神千空の頭の中には図書館がある。
そう言うと、千空をよく知る人々は笑ってこう答えるだろう。「確かにあの知識量は図書館そのものだ」と。宇宙やロケットから始まり、薬品、サバイバル、工学、医学に食べられる野草、果ては量子力学まで。ひとりの人間の頭の中に収めておける限界まで詰め込まれているんじゃないかと思えるほどの圧倒的な知識で、我らが科学王国を導いてきた旗印。
生きた図書館。それが石神千空という男の評価のひとつである。
「図書館ねぇ……。まぁ、あながち間違っちゃねえがな」
「えっ」
「あ゙? なんだよ」
「千空ちゃんのことだから、海馬がどうの〜とか……いや、海馬は一時的なんだっけ? んじゃ大脳が〜とか言うと思った」
そう言いながら、ゲンはお茶として試飲した中でこれはと思った葉を幾つか混ぜる。石化前の世界で言うところの、オリジナルブレンドというやつだ。とはいえお茶用に育てられた葉ではなく、その辺の食べられる雑草を用いた物なので、野生味あふれるストーンワールドバージョンだが。
ブレンドした葉を火にかけていた鍋にいれて適当に煮出すと、それっぽいお茶が出来上がった。一口飲んで味を確かめる。雑味はあるが、それなりの味だ。近くに置いてあるガラスのビーカーに注ぎ、ゲンの向かい側でガリガリと何やら書きつけている千空の傍へ。
ゲン特製のお茶へちらりと視線を向けた千空を確認し、ここらで中断させてもいいだろうとパンパンと手を叩いた。
「はーい、千空ちゃん。そろそろ終わりにしたら? もう夜も遅いしね」
その音にぴくりと反応した千空は、ゲンのことを見てから窓の外に視線を動かし、忙しなく動かしていた手を止めた。本当に集中しているとき、千空はほとんど外の世界に見向きしなくなる。作業しながらとはいえゲンとの会話に応じ、小難しい計算がびっしりと書かれた設計図から視線を離したのなら、いつ中断させてもいいということだ。
合理主義が服を着て歩いているような男は、ゲンの思惑通り大人しく作業の店仕舞いを選択した。木炭のペンを腰の革袋に放り込み、紙を片付けてからグルリと肩や首を回して凝り固まった筋肉を解している。お茶の入ったビーカーを差し出すと、ぐいと豪快に煽った。
「ヨモギとドクダミ、あとはオオバコ……の近縁種かこれ?」
千空の視線は、ゲンがブレンドする前の乾燥した葉に向いている。
「さぁ? 詳しい種類は俺もわっかんない。ただ飲んでみてイケるってやつ教えてもらってブレンドしただけだもん」
「大概器用なヤツだな、テメーは。で、大脳がなんだって?」
言いながらビーカーに口を付け、こちらに視線を向けてくる姿に、心の中だけでニヤけた。一旦仕事を終わりにした千空は科学王国の石神千空ではなく、ゲンの恋人の千空なのだ。言葉にすると「気色ワリィ」と言って顰めっ面をされるが。
「大脳って言うか、千空ちゃんが図書館みたいだって話。間違ってないってどういう意味?」
自分もビーカーを持って、千空のすぐ隣に腰掛ける。筋肉も脂肪も少ないヒョロガリは体温も低めだが、肩が触れ合うほど近づけば人肌の温かさが少しだけ伝わってきた。この距離を許してもらえるのは、ひとえにゲンが千空の恋人だからだ。ゲンがこの距離を許すのもそう。
夜のしじまに溶け込むような囁き声で問い掛ければ、雰囲気につられた千空も声を落として言った。
「人間誰しも、頭ん中にゃ図書館があんだよ。記憶の源泉っつったらいいか?」
ヒソヒソと内緒話のように、千空は楽しげに話す。遠い昔の学生時代、見回りの先生に見つからないよう、夜中にこっそり友人とお喋りに興じていたときのような。
「それ、俺にもあるの?」
明かりの乏しい夜のストーンワールドで二人寄り添って、誰にも咎められやしないのに小さな声で囁きあった。誰にも言えない秘密を共有しているような、そんな高揚感と背徳感が背筋を撫でていく。
「そりゃあんだろ。図書館かどうかは知らねえがな。形は人それぞれだ」
「千空ちゃんは図書館?」
「あ゙あ、見てみるか?」
「見せてくれるの?」
楽しくなってそう問えば、ニィと笑った千空の真っ赤な目がゲンを射抜いた。
「テメーなら見せてやってもいい」
そんなことを言われれば、選択肢など初めから無いも同然なのに。
「これ持ってろ、無くすなよ」
そう言われて差し出されたのは、手のひらに収まるほどの真っ赤な丸い石だった。つるつるとしたそれはグラスに入ったワインのような透明感があり、夜を切り裂くように鮮烈な緋や夕暮れ時のような物悲しさを呼び起こす朱、その他にも様々な表情を見せる赤が混ざり合って、丁寧に磨かれた宝石のような美しさをしている。そして、なぜかゲンにはその赤に見覚えがあるような気がした。これほど美しい赤色なのだ、一度見たら忘れるのに苦労すると思うのだが、自分はどこで見たのだろう。
「ねぇ、千空ちゃん。俺これどっかでさ……、千空ちゃん?」
言いながら隣を見ると、薬品焼けで荒れている指先がゲンの両頬に伸びてきた。コツ、と額が触れ合う。ぼやけるほど近い位置に、夜闇の中でも輝くような赤色が二つ並んでいる。
「ねぇ、千空ちゃん。これなに?」
「通行許可証。集中してろ」
静かな声に促され、羽のように軽いと自負する口を閉ざした。音楽も機械の駆動音もない世界だ。皆が寝入ってしまえば、聞こえるのは二人分の息遣いと、カサカサという葉擦れの音。そしてどこかにいる虫の声。それだけ。
ぼやけた赤色がひとつ瞬きするたび、ゲンの世界を知覚するものが少しずつ吸い込まれていくような感覚。今この瞬間、世界には自分と千空しかいないような。何もかもが遠く離れ、置き去りにされた場所で二人寄り添っているような、そんなことを思った。
赤い宝石を持ったまま千空の両頬に触れる。雪のように白い肌が案外滑らかなことを知ったのは、そう遠くない昔の話だ。細い首筋を撫で下ろし、背中へと回した腕で抱き寄せる。肩が触れ合うほどの距離がさらに縮まった。抵抗はない。頬を撫でていたもう片方の手を後頭部に回し、ゆっくりと顔を傾ける。
真っ赤な目は開いたまま。自分も目を閉じない。雪の結晶に触れるように、そっと、唇が触れ合った。世界に置き去りにされた場所で二人、抱き締めあってキスをしている。千空以外のものはすでに遠く、手の届かないところへと走り去っていた。構いやしない。だって自分の宝物はここにいる。
千空がまたひとつ瞬きする。宝石のような赤色が隠れたその一瞬、一秒にも満たないはずのそれは、やけに時間がかかったように見えた。
唇が離れていく。ぼやけるほど近くにあった冬の化身のような色彩がはっきりとした輪郭を持ち、同時に世界が戻ってきた。——少しばかり様相を違えて。
暗い石造りのホール、その中央にゲンと千空は立っている。上を見上げれば宇宙を模した天井が煌めき、金色の天体図がクルクルと回っていた。どこからともなく青い燐光が溢れ落ちてくるこのホールは暗いのに明るく、どこを見渡しても見えづらいということはない。千空の冷静さを表すようにキィン……と静かで冷たい色の空間は、しかし彼の厚い人情が反映されて見目に反して暖かだ。
ゲンという異物が紛れ込んでもなお広い器を、持ち主たる千空が進む。天井に届きそうなほど巨大なドアの前で立ち止まり、クイと指先でゲンを呼んだ。
あらかじめ渡されていた通行許可証を受付に収め、千空の元へと急ぐ。ドアプレートに書かれているのは「記憶」。その持ち主がドアに触れると、巨大な扉がまるで意志を持っているかのように、ギギィ——……と自らその奥に続く道を開けた。
歩き出す千空に続いてその扉をくぐる。名前も知らない星座が遥か遠い天井を彩る廊下を歩き、支えのない螺旋階段を降った先。
「う、わぁ……、ゴイスー……」
本、本、本。そして見下ろしても地面が見えないほどの床から、見上げても先が分からない天井まで聳え立つ巨大な本棚。隙間なくみっしりと様々な本が詰め込まれたそれが、見通せないほど広いホールの中央にいる自分達を中心として、円形状に並べられている。理路整然と並べられたその威容は、まるで天から知識が降ってくるかのような威圧感を持って、ゲンの視界を圧倒した。
たった一人で石化から復活し、たった一人で文明復興へと歩み始めた科学の申し子。我らが王国の旗印。ゲンの共犯者にして、共に地獄へ落ちようと誓った男。その頭の中に詰まった人類の叡智が、今ここにある。
そんなものを前にしたゲンの言葉は、うまく形にならないまま床に溢れ落ちてしまった。メンタリスト・あさぎりゲンともあろうものが。いつもならペラペラと滑るように出てくる言葉の群れは喉を通れず、ありきたりな感想だけが音として空気を揺らす。
——けど、と思う。
仕方ないじゃないか。だって今ゲンの目の前にあるのは、石神千空「そのもの」だ。生まれてからこれまで、彼が見聞きしたもの全てがここに詰まっている。それはゲンと千空が出会った時のものもあれば、まだ小さな彼が目を輝かせていた時代のものもあった。
巨大な本棚同士を繋ぐ螺旋階段まで本棚にして本を詰め込んでいる千空の知識に対する貪欲さに、もはや「らしい」と苦笑しながら、手近にあった少し角がよれている立派な本を一冊手に取ってみる。
「あれ?」
タイトルに「ィ妙ぇどウ燈タスえ」と書かれた本の中には、表紙と同様意味のない言葉の羅列が、縦横と蠢く図形と共に古めかしい紙の上を踊っていた。
「千空ちゃん、これ読めないんだけど」
「あくまで俺の記憶だからな。テメーが知らねえもんは分かんねえっつうだけだ。おら、これとかは読めんだろ」
「え? あ、ホントだ読める」
千空がページを開いた状態で手渡してきた本に載っていたのは、マンガン電池の作り方だった。ひたすら地道な作業を繰り返していた、そしてそれ以上の驚きに満ちた日々は色褪せることのない思い出で。そんな日々の一ページにある、さんざん作らされたマンガン電池の作り方は、今でもゲンの頭の中に残っている。
「懐かしー。ほーんとドイヒー作業だったのよ、これ」
パラパラとページを捲ると、ゲンが知っているものはこれだけだったらしく、他のページは読めなかった。
本を傷つけないよう丁寧に元の場所に戻すと、その隣に見覚えのある表紙を見つけた。紫の羽織に、白と黒の髪を持つ男の肖像が描かれた本。ゲンに関する記憶の本だ。
「…………」
一瞬手を伸ばしそうになり、すぐに引っ込める。その様子を、背後の千空が面白そうに見ていた。
「んだよ、見ねえのか?」
「見ないよ。こういうのはね、見ない方がいいの。俺、千空ちゃんと喧嘩したいワケじゃないもん」
千空がゲンのことを本当はどう思っているのか、この本は詳らかにするのだろう。千空が表に出さないことだって、幾つも書かれているに違いない。今この本を読むだけで、それらを簡単に知ってしまえるけれど。
人の心は自分にだって簡単に嘘をつけるほど脆いのだ。もしかしたら千空自身も自覚していないことだってあるかもしれない。それらを必要もないのに不躾に覗き見る真似なんて、仮にもメンタリストと名乗っている自分に出来るわけがなかった。
——それに。
「本の状態見れば分かるよ。この本、傷がひとつもない。大事にされてる」
指先で背表紙を辿る。ツルツルとして引っかかりなどなく、傷も汚れも見当たらない。
「中身見なくたって、千空ちゃんが俺のこと大切に思ってくれてるの、分かるよ」
言いながら千空に向かって微笑んだ。ゲンの笑みを見た千空が、口を開く。
「気色ワリィ」
「ドイヒーすぎない⁉︎ いいこと言ったよ俺⁉︎」
キィ——……と、音を立てて巨大な扉が閉まっていく。千空の歴史そのものが詰まった場所を後にしたゲン達は、いつものラボへと戻ってきていた。既に仲間達は寝ているか、そうでなくとも外に出るような時間はとうに過ぎている。
「俺たちも帰ろっか」
「おう」
夜の道。月明かりを街灯代わりに、どこかで鳴いている虫の声をバックミュージックにして、ラボから寝泊まりしている小屋への道を歩く。誰も聞いていないとは思うが、念のため周囲を確認してから千空の肩を抱いて耳元に唇を寄せた。
「ね、千空ちゃん。今度俺の図書館にも来てね♪ 俺の場合は図書館っていうより劇場かもしれないけど」
「ククク、考えとくわ」
「絶対来てくれない返事! えー、ねぇ俺のも見てよ。千空ちゃんをいつお迎えしてもいいようにバッチリ準備しとくからさぁ!」
「あ゙あ? テメー、見られんの苦手じゃねえのかよ」
小さな声で千空がそう溢すのに、口元が緩むのを抑えきれない。
「なになに、千空ちゃんったら。俺のこと心配してくれてるの? やっさし〜♪」
「だぁ、うるっせえ! 調子乗んな!」
文明復興という重責を乗せるにしては随分と頼りない、けれど誰よりも力強く進む背中を抱き寄せ、腕の中にいる雪景色のような彼の額に自らの額をコツリと優しく重ね合わせる。
「良いんだよ、俺も。千空ちゃんならさ」
ゲンにならいいと言った千空の顔が過ぎる。今ここに鏡はないけれど、もしかしたら自分も同じような顔をしているのかもしれない。
「ね、だからお願い。俺のも見て」
「……気が向いたらな」
「素直じゃないんだから〜」
笑い合って、抱き締めあって、月明かりの下でキスをして。今日もまた思い出のページが一枚増えた。