猫と、マリンパークあらすじ&登場人物
◆ 類
「猫」の家庭で生まれた、人間のショーが大好きな、人型の猫。猫耳と尻尾がある。人間のショーをもっと楽しみたくて、旅がてら家を出て野外で生活してた。公園で子供たちにぷちショーを披露する司に出会い、意気投合し、一泊だけしたら公園に戻るつもりだったが、司が心配するので、天馬家で居候することになった。
居候生活はじめて半年ぐらいの春、発情期をきっかけに司への恋心を自覚し、告白を経て無事付き合い始めラブラブカップルに。
自作の水色ピアスで思ったことをそのまま相手の脳内に脳波で送れる。ご都合便利アイテム。そのせいで人語が上手く喋れなかったけど、今はだいぶ上手くなった。
あとやることはやった。(R18シリーズ)
◆ 天馬司
ショーの話しができるでっかい猫を拾った高校二年生。猫の様子がおかしいと獣医に聞いたら発情期だと分かって、どうしようかとテンパる時もあったが、離れたくない気持ちをそのまま伝えたら晴れて付き合うことに。
どっちが飼い主だ(今は恋人同士だが)とツッコミを入れたくなるぐらい普段から類に溺愛されていて、いつまでもふわふわ気分が抜けないのが最近のちょっとした悩み。
猫と、マリンパーク
「ふぅ―……」
左胸を震わすドクドクと止まらない心音を少しでも落ち着かせようと、息を長く吸い込んでからゆっくり吐く。後ろからチラチラ覗く紫の尻尾には緊張と期待が詰まっている。
「……よし」
意を決した類は左手に持っているチラシを握り締め、少し震える右手でコンコンとドアを叩くと、「Tsukasa」と書かれたドアプレートが少し揺れた。
「司くん、少し、いいかな」
「類か? 入っていいぞ!」
速やかに返ってきた司のよく響く返事に、頭上にある尖った耳が無意識にぴこっと動いた。
「おじゃまするよ」
ガチャリ、ドアを開けてみると、司はさっきまで向いていたであろう机に背を向け、類の所まで来てくれた。
「小腹でも空いたか?」
「ううん、大丈夫。今日も夕食おいしくて、たくさん食べたよ。いつもありがとうね」
「こっちこそ、毎回オレが作ると沢山おかわりしてくれて嬉しいぞ! よしよし! 野菜も食べてくれたらもっと嬉しいけどな?」
「うっ……」
悪戯っぽい笑顔を見せながら頭を撫でてくる司に類は一瞬返す言葉を失い、慌てて本題を持ち出す。
「えっと、そうじゃなくて、司くんの来週の予定、聞きたくて、きたんだ」
「来週? 見てくるから座って待ってくれ」
予定を確認するのだろう、司はスマホを置いてある机に戻っていく。初めてではない司のベッドにゆっくり腰を掛けると、ふんわりと柔らかい香りが広がった。
「ふむ……」
考え事をする時に片手を顎に当てるのは司の癖で、類はそんな時に司の指をじっくり見るのが好きだけど、知らず知らず自分にもその癖が移っていることに類は気付いていない。
「うむ、土曜はワンダーステージの練習があるが……日曜日が空いているな! 何かやりたいことでもあるのか?」
希望通りの答えに類は思わず目を輝かせ、尻尾の先端の水色部分が小刻みに揺れた。
「うん、あのね、ここのマリンショーを見に行きたいな」
少し皺がついてしまったチラシを広げ、広告にある『夏限定マリンショー!』の文字に指差して司に見せた。
「ここは……あ、駅何個か離れた所にあるマリンパークではないか! 小さい頃咲希と一緒に一回連れて行ってもらったことがあるが、それっきりだったな。いいぞ! ふむ……まだ時間はあるし、早速スケジュールを……」
「! まって司くん!」
「む?」
机から紙とペンを取り出した司を類が止めに入り、きょとんと金色の頭は横へ傾いた。
「え、っとね、」
「?」
「これ、いつものショーかんしょう、ではなく、」
「ではなく……?」
「デート……だから。はじめての。だから、僕にまかせてほしいな」
「へ??」
「……」
類の言葉が終わる瞬間に司から間抜けな声が漏れ、数秒の間部屋は無音になった。
「……その、僕たち、恋人同士、なので、」
「あっ待て、違う、嫌とかではなくてだな……」
先ほどまでピーンと立っていた猫の耳が少し元気を失い、司は慌てて弁明する。
「……今までのショー鑑賞も、デートだと思っていたが……違ったのか?」
「え?」
「……」
「まって、あの、」
「……ぷっ、はははっ!」
「ふ、……ふふふっはは!」
暫く続いた笑い声が落ち着いた頃、司は尻尾をゆらゆらさせている類の隣に座り、手を握った。
「オレはデートの気分でいたぞ。それらしいことは特にしなかったが」
類はチラシを置いて、司の手に自分のものを重ねて、ゆっくり包み込んだ。
「僕も、こっそりだけれど……デートだと思っていたよ。僕たち、知らずにたくさん、デートをしてきたんだね」
「そうだな」
自然と向き合うことになった体勢が周りの空気を甘く醸していく。リップクリームを塗っているのか、艶のある司の唇がまるでスイーツのように見えて、猫はざらつきのある舌でちろ、と舐めた。
「あっ、こら」
夏に相応しい爽やかな柑橘系の匂いが類を包む一方、司は舐めとられたかもしれないクリームを補おうと唇を合わせた。その仕草もまた、猫には魅力的なもので、目が離せなかった。
「すまないねぇ。おいしそうで、つい」
「その言い方、ちっとも悪いと思ってないだろ」
「おわびにクリーム、ぬってあげるよ」
その企みを含む細目を、司は前にも何度か見たことがあった。ここで求められたものを与えたら、「誘い」に応じたのも同然。けれど、好いている相手に触れたくないほど、司も無欲ではない。
包まれて暖かくなった手を抜き、鞄から最近愛用しているリップクリームを持ってくる。類が塗りやすいよう片足だけベッドにつき、正面を向いてスタンバイするのに、スティッククリームを捻った類はその先端を司のではなく、自分の唇へ塗りつけている。
あ、とその意図に気付きゴクリ、唾を飲んだ瞬間、柔らかい感触と共に、司は薄い蜜柑のような匂いに呑まれた。
「んっ…… ふ、」
「は…… っ、ん……」
擦り合わせられている類の体温につられ、はぁ、と口の中から漏れた熱い吐息は、触れあう唇同士に再び閉じ込められた。
いつものように絡められるかと司は舌を浮かせて待っていたが、その期待が現実にならないまま類は離れていった。
「……?」
「っ ……司、くん」
「ん……」
「……あした、まだすいようびだけれど……」
名前を呼ばれて、意識をはっきりさせるどころか、逆に目を閉じてしまった司に抱きつきたい衝動を抑えて、類は惜しみながら触れ合いに終止符を打つ。
翌日が休みでない日は、学校やバイトに影響が及ばないよう、暗黙のルールで触れ合いは控えめにしている。
「……ッハ、
あっ、そ、そう、だな、うん、あ、く、クリーム! あ、ああありがとうな!」
「……ものたりないかい?」
「……っっっ、耳元で言うな……!」
「ふふっ、ごめん」
かわいいから。と、いつもは口に出さずともピアスが伝えてくれるが、今の類はピアスをつけていない。それでも、先ほどの一言で既に効果は十分にあった。
「るいがど、どうしてもというなら今回は全て任せる! 期待しているからな! じゃ、じゃあもうオレ、寝る、から……!!」
「ありがとう。おやすみ、司くん」
半分推されながらドア近くまで戻った類はドアノブを回す前に振り返り、赤くなった恋人の頬に触れる程度のキスを落してから、甘酸っぱい匂いに充満された部屋を後にした。
さて、最高で、デートらしいデートを計画しなければ。
類の計画は完璧だった。
そう、ちゃんとスタートできていれば、だ。
リュックを背負いながら類は窓辺に立っている。水の容赦なく窓ガラスを打ち付ける嫌な音に、綺麗だった庭の景色を歪ませる液体に、成す術もなく気力を吸い取られていく。
「やはり僕には……」
ぽつりと零れる言葉は呪いのようで、リュックをますます重くした。
一番大きい水槽で行われるメインターゲットのマリンショー以外にも、司が好きそうな短いショー、餌やりタイムを上手いこと全て回れるよう、順番を書き記した園内マップ。飼育されている生き物の特徴や、司を笑顔にできそうな面白い生態を細かく記したノート。他に水筒やハンカチなど、司も持っていきそうだけれど、用意しておいたほうがいいもの。
そして、目の前で猛威を振るっている暴雨にはとても敵いそうにない、折りたたみ傘を二本。
天気予報を完全に裏切った暴雨は目を覚ました時から降っていた。そのうち止むと自分に言い聞かせ、類は予定通りに支度を済ませたが、出かけるべき時間になっても雨の勢いは変わらないままだった。
雨に濡れたガラスに映る姿が、湿気のせいで綺麗にまとまれない髪の毛の跳ね方が、まるで忘れたかった昔の自分のようで、呪いがより重くのしかかる。
『……司、くん』
堪らなく息苦しくなり、唯一、昔にはなかった水色のピアスで、無意識に助けを呼んだ。
「うん。待たせたな」
「! おか、えり」
辛くてもデートの中止を伝えるしかないと、類は朝支度を終えた時に一度司を探したが、どこにも見当たらなかった。司の母によると、買い物に近くのコンビニに出かけたばかりだそうで、類は窓際でその帰りを待っていた。
「そと、雨すごかったんでしょ?
……ざんねん、だけれど、今日は……」
「おう! この雨じゃ傘はちっとも役に立たなそうだからな! 着るのは久しぶりだが、
レインコードを買ってきた! 類の分もあるぞ!」
「……え?」
「マリンパークにも確認しておいた。今日はいつも通り営業しているそうだ」
「……!」
「な~にぼーとしてるんだ? デート、行くんだろう?」
「……っ! ……っ」
手を握ってきた司に心が躍るも、その少し冷たくなった指に触れると、忌々しい過去の暗い自分に噤ませられる。
この突然の雨が、「行かないほうがいい」という予告だったら?
「む? 行きたくなくなったか?」
「……っっ」
それでも。
『……行き、たい……!』
「おう! 楽しみだな! マリンショー!」
ザアザア意地悪く降り注ぐ雨にも負けないような司の眩しい笑顔に包まれ、冷たく感じていた指も、いつもの心地よい温度に戻った。
◇
「ぐあ――! 着いたぞ!!」
『駅に、だね……!』
二人は何とか駅に辿り着けたが、レインコードを着ていても所々濡れてしまっていた。ビニール素材の裾からぽたぽた落ちる大きな粒が、タイルに水溜りを作る。
「マリンパークの最寄り駅についてからパークまでいく道は屋根があるし、もう脱いで大丈夫だぞ」
「それも、パークの人におしえてもらったのかい?」
「あー……いや、これは、昨日眠れなくて調べて分かったのだ。すまん」
気まずそうに目を逸らしながらも、司は正直に答えて、謝罪も加えた。スケジュールを任せたのに指示を出したり、勝手な行動をしたら、類の役を奪ってしまうと思ったから。
「あやまることないよ。レインコードと、シューズカバーまで用意してくれてありがとう。おかげで、少なくとも半分ぐらいの計画は実行できそうだ」
そう言う類がレインコードを脱ぐと、家を出るまでぺしゃんと垂れていた猫耳も少し元気を取り戻せたようで、司をほっとさせた。
「それはよかった! よし、レインコードはバッグに……と、もう次の電車来るんじゃないか?」
「ん……それはぎゃくの電車、だね。僕たちがのる電車が来るまであと10分かな。ゆっくりホーム行こうか」
「お、おう」
気分が晴れて余裕を持てるようになった類は、歩き出す前に司へ手を差し伸べた。
「ん?」
「手、つないでいこうか」
「っ!」
今まで一緒に出かけることは何度かあっても、外で手を繋ぐことはなく、司は思わず周りをちらちら確認した。大雨が続いているのが幸いか、唯一周りにいる人は駅員で、その駅員も作業に忙しく、少しも二人の方角を見ようとする様子はない。
「……繋ぐ」
嬉しさと照れがポンプとなり、心臓からドクドク熱を指の先へ送っていく。そんな司が触れた類の手の温度は、もう少し高かった。
「あ、そうじゃなくて……」
「?」
繋いだばかりの手がまた少し離れて、どうしたのかと司がはてなを浮かべていると、類は指を一本一本交差するように絡めながら繋ぎ直した。さっきよりも固く、簡単に離れることも、離してしまうこともない安心感に浸り、司は時間が止まったように、暫く互いの指を見つめた。
「恋人つなぎって言うらしいね」
「っ、そ、そう、だなっ」
「ふふ、そろそろ行こうか」
満足げにふにゃりと目を細めて微笑む類に引っ張られたまま歩き出す。出かける前に窓際で見た小さくて頼りない背中はすっかり大きくなり、公の場でなければ抱き締めて飛びつきたいなと、司は密かに思った。
◇
ホームに着いたのと同時に電車もちょうど滑り込んできて、二人は待つこともなく乗り込めた。乗り降りする乗客はそう多くなかったが、流石に休日だけあって、車内に空いている席はなかった。迷わずするすると人と人の間をすり抜けていく類はまさに猫のようで、警告音と共にドアがぴしゃりと閉まった時には、もう違う車両の隅に二人分のスペースを見つけていた。
類が自分を奥側へ誘導するからと、素直に潜り込んだ司が背中を壁につけた途端、ちゅっと一瞬だけ額にリップ音が聞こえた。
「お、おい……!!」
ここ電車! と小さい声で咎める司に類は悪びれる様子もなく、ピアスから返事を送る。
『大丈夫、誰も僕たちのことなんか見てないよ』
「そういう問題では……! あれ、外でピアス使って大丈夫なのか?」
『? うん、これは司くんにだけ伝えてるよ。好きだよ』
「な、流れるようにさらっと言うな恥ずかしいやつめ……! 今日なかなかそれ使わないから使えないのかと思った」
『あー、だって、僕がずっとこれで話していると、司くんは声も大きいから、他人からは一人でぎゃーぎゃー喚く人のように見えるだろう? 優しい気遣いにご褒美くれてもいいんじゃないかい?』
「な!? っ、ぎゃーぎゃー喚いてなどない……!!」
「フフフフ」
からかわれて思わず大きな声を出しそうになった司に類はまた笑みを零した。
『ねぇ、好きだよ』
「しってるぞ……っ」
『好き。大好き。今日もまた一緒に出かけることができて、本当に嬉しいよ』
「まだ目的地にもついていないがな」
『電車の中でも、司くんといれば楽しいし、いつまでも居られるよ。好きだ』
「お、まえばかりペラペラずるいぞ……!」
『おや、司くんも言ったらいいじゃないか。……「好きだよって」
耳元へ急に届けられた愛情に不意をつかれ、司は思わず体をビクっと震わせてしまうが、幸いちょうど車両もガタンと揺れて、体の反応もそんなに不自然には見えなかった。
「…………夜帰ったら嫌になるぐらい言い返してやる」
『嬉しいご褒美をありがとう』
にこにこと笑みが絶えない類が羽織っているロングパーカーが、中の尻尾につられて波を打つ。彼が嬉しいと調子に乗ってしまう人(猫)であること、その意地悪の根本に嬉しさがあると知っているからこそ、司もいつも放任してしまう。
ガタン ガタン
「……朝のような、この世から消えたそうな悲しい顔をやめさせられるなら、いくらでも甘やかすぞ」
ガタン
『? ごめん、車両の音がうるさくて聞こえなかった。もう一回言って?』
司を守るように壁に当てている両腕を曲げて近づいた類の肩に、金糸が垂れ掛かった。
ゆったりした大きいパーカーに遮られて見られないだろうと踏んで、司はきゅっとその下の紺色を掴んだ。指先から気持ちが流れていき、そのまま類に伝われれば、と。
「いや、オレも類のこと、堪らなく好きだなぁと思ってな」
『~~~~~~』
「どうした、言葉になってないぞ」
『やっぱり司くんってかっこいいね……』
「ハハハッ! そうだろう!」
得意げに顔を上げた司が愛しくなって、腕でそんな愛らしい恋人を器用に隠しながら、類は今度は目の前にある唇を一瞬だけ奪った。
マリンパークの駅まで来ても、空は忙しなく雨で合奏曲を披露し続けている。二人の知っている通り駅とパークを繋ぐ屋根付き通路があり、室内展示館に濡れた状態で入館する事態は無事免れた。
ところが、電車に乗る前に服についた水気が湿度のせいでなかなか抜けず、どうも湿った匂いがしてやまない。
「司くん、一度ギフトショップを見ていかないかい?」
「構わないが、何を急いで買うんだ?」
「しめった服を、きがえたほうがいいと思って」
「おお、いい提案だな! 行こう!」
入館ゲートのすぐ横にあるギフトショップに入り、アパレル商品が並ぶ棚に直行した二人の目に真っ先に入ったのは、展示品としてハンガーに掛けられている、白地にドーンと一匹だけヒトデの描かれた、半袖のパーカー。
「「スター!!」」
ほぼ同時に同じ感想が口から滑り出て、二人は見合わせて笑った。
「正しくはヒトデみたいだけど、運命、だね?」
「あ、ヒトデか」
「ヒトデじゃだめかい? ほら、ここにグラデーションがかかっていて、とても司くんっぽいと思うんだけれど。あ、ぼうしのうら、きれいな黄色になっている。きっとよくにあうよ」
相当ヒトデパーカーが気に入ったのか、パーカープレゼンテーションを始めた類に圧倒されそうになる。
「わ、分かった分かった。駄目って訳じゃないが……類はどれにするんだ?」
「そうだね……僕も同じのにしてもいいかい?」
「恥ずかしいから駄目だ」
「そうつれないこと言わないでおくれよ……よよよ……」
目をわざとらしくうるうるさせる類をよそに、司は商品をチェックしていく。自分に合うサイズのヒトデパーカーを探していると、下に紫っぽい色を見かけたので、それを引っ張り出してみれば、ぷっ、と、服の柄に思わず吹きだした。
「何か、おもしろい服でも見つけたのかい」
「見ろ類。お前にぴったりなのがあったぞ」
「……これは……細かいしゅるいはわからないけれど……たぶんエイ、だね。ぼうしの色が紫だからすすめたのかい? 司くんにしてはあんちょくなチョイスだねぇ」
エイパーカーを真面目に分析する類に司はますますおかしくて笑いそうになる。
「違う違う、こいつの顔がお前によく似ているんだ」
「えええぇ……????」
「ほら、鳴き声もエイだ」
「エイはええぇ〜とはなかないし、僕は猫だけど」
「そうだった」
「にゃあ」
「よしよし」
可愛くデフォルメされたパーカーのエイは相当嬉しそうににっこりと笑っているが、それがどう自分に似るのか類にはいまいちぴんと来なかった。
「ともかくだ、ヒトデを二人で着るのは却下するが、ヒトデとこれならいいぞ。一応同じシリーズらしいしな」
「まって、こうしよう。僕が黄色いエイをきるから、司くんは紫のヒトデにして。どう?」
「さ~~てはお前ど~~してもカップルであることをアピールしたいんだな?? そういえばさっきチケット売り場で黙ってクーポン券みたいなのを使ってたな、もしかしてカップル割りとかか!?」
「そうだよ! よくきづけたね!」
チケット売り場のおばあさんがにっこりと笑顔を向けてきたから司も何となく微笑み返したが、あの笑顔にそういう理由があったと知り、今更恥ずかしくなってきた。
「お前……! スタッフが異様にニコニコしてたと思ったら……! ……まあ何も間違ってはいないから許そう」
つまらないことでいちいち恥ずかしがったらデートを楽しめなくなるしな。司はある程度吹っ切ることを決めた。
「ありがとう! かいけい、僕がすませてくるよ。司くんSでいいんだよね」
「待てぇえいそんなに小さくないわ! Mだ! ほらヒトデのL持っていけL男!」
「フフフフフ、なんだいL男って。そう言うと司くんはM男になるけれどいいのかい?」
「!? よくない……!!」
談笑する声がカウンターまで届いたらしく、二人は会計時にスタッフにタグを外すか笑顔で尋ねられた。
◇
「類! 類! 上を見ろ上! サメだ!」
最初の展示はトンネル水槽に上昇エスカレーターを通したものだった。解説プレートによると、カーブのついたガラスの向こうに、およそ十種類の生き物が集められているらしい。その中唯一の小型サメが頭上を通るまで、類は悠然と泳ぐ水中生物よりも、パーカーの紫色の裏地に染まる司の髪の毛に見蕩れていた。
『……まるで僕のものになったみたいだ』
「ん? うちは広いほうだが、流石にサメは飼えないぞ?」
「ふふ、何でもないよ。あ、司くんの大好きなエイがいるね。これは……ウシバナトビエイ、か。ふむ……うしの鼻に見えるのは実はヒレなんだって」
「ウシバナってそういうことなのか。 ……ん? オレが好きなのはエイじゃなくて、類に似ているエイだぞ。あ、この子も似ているな」
パーカーと同じくにこにこしているようなエイが悠々と泳いでいく。
「……まじめに言われるとちょっとてれちゃうな。どうにているのか、いまだによくわからないけれど」
エスカレータを降りた所、類は思い出したようにスマホを取り出し、何かを調べだした。
「あった。ねぇ、エイはこんな顔にもなるの、知ってたかい?」
「ん? ……!? なんっっだこれは!? ひ、干物……っ!?」
ついさっき見た可愛らしいにっこり笑顔とは真逆の衝撃的な写真を見て、司は目を見開きながら信じられないようにパチパチさせた。
「司くんにかまってもらえないと僕、ひからびてこんなこわい顔になっちゃうかもね……」
「毎日これでもかというほど構っているだろうが」
「ふふ、そんな司くんのおかげで、毎日が楽しくてしかたがないんだ」
「それはオレも同じだぞ!」
自然と繋いだ手は、今度は司から絡めていった。
◇
「ここの展示は……ペンギンか! 色んな種類がいるな」
『うん。この時間にちょうど、ペンギンの餌やりが始まるんだ』
ペンギンゾーンに近づく時から、周りは餌やりタイムを待つ来場者で溢れ、口で喋ってもよく聞き取れないようだったので、類はピアスを活用することにした。
「なるほど。それでこの人混みなのか」
『前……は行けなそうだし、いっそ後ろのほうで見てみるか』
「ととと……ここら辺なら邪魔にならないか。あ、意外とよく見えるぞ!」
『よかった』
よちよち歩きのペンギンを眺めながら少し待っていると、展示する生き物の生息環境に合わせて室温が低く抑えられているせいか、司がぴとっと肩を寄せてきて、類は絡め合っている手に少し汗を滲ませた。
『……司くん、寒い?』
ギフトショップで購入したパーカーは半袖で、真夏とはいえ、館内はここ以外の所も冷房で涼しくなっている。類は元より猫の体質で体温が人間より少し高いが、司は普通の人間だ。現に、今類の右腕にぴったりくっついている司の白い腕は、普段よりも冷たくなっている。
『風邪引いたらいけないから、寒かったらバッグの中のジャケットを……』
「いや、類とこうしていれば暖かいから、大丈夫だ」
『そうかい? ……ならせめてこうしよう』
そう言って、類は絡める指を一旦離し、腕ごと絡めてから手を重ね直した。
『どうだい?もっと暖かくなったんじゃないかな』
「そうだな。類の体温がとても気持ちいいぞ」
ペンギンの可愛い動きに癒されたからか、司も気持ちを素直に伝えられたようだ。それに嬉しくならないはずがなく、類は抱き締めたい気持ちをぐっと抑えて、代わりに、司の薄黄金色の髪の毛に、自分の紫を混ぜるようにスリスリと頭を擦りつけた。
そういう時に司は決まって、類の頭を手でわしゃわしゃ撫でてくれる。その触れ合いは恋人同士というより飼い主とペットの関係に近いけれど、類は嫌いじゃない。
そうしているうちにようやく時間になり、飼育員が生魚など入ったバケツを持って現れた。近くまで集まったペンギンにそのまま魚を与えたり、遠くのペンギンへ投げてあげたり。ペンギンが上手く魚をキャッチするたびに、ガラス越しに見ている来場者は歓声を上げた。
飼育員が拍手で来場者に見送られた後、司は特に類を見ることもなく呟いた。
「なぁ、なんか、さっきの飼育員の動きってさ」
『ジャグリングみたいだね』「ジャグリングみたいだな」
「……ふ、ふはは! そうだよな!」
「ふふふ。 『やっぱり司くんも同じこと思ってたんだね』
「ショーを見たくなったな」
『そうだね。マリンショーの朝の回は見逃してしまったけれど、午後に二回目の公演があるよ。それまではここから順路で行ける淡水魚ゾーンでも……』
キュルルル
室内・室外全域を含んだ園内マップを広げながら類が計画を述べていると、途中でどこからか主張の激しい腹の虫の鳴き声が聞こえた。
「今のは……?」
『…………ぼ、僕……だよ』
目を逸らしながら腕を上げて自首する。格好良くガイドしていたつもりなのに、らしくない生理反応に中断されたのが恥ずかしく、穴があったら今頃類はきっと中に入っていた。こんなの計画に入ってなかったのにと腹の虫を恨みながら。
「ハッハッハ! お前朝はずっとしょんぼりしててあんまり食べなかったもんな! ショーまでの時間もちょうどいいし、昼食にするか!」
項垂れた紫をもう一度わしゃわしゃと猫耳ごと撫でまくった後、司は恋人の体格から想像つかない可愛らしい一面を堪能しながら、熱くなった大きな手を引っ張って、レストランの方向へ歩き出した。
◇
「お待たせしました。ヒトデ乗せハンバーグにフライドフィッシュカレー、セットのドリンクとなります。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます!」
添えられたウェットティッシュで手を拭く司を見ながら同じことする類は、思ったことを「そのまま」伝えた。
『水族館で魚料理頼んでしまうんだね』
「べ、別にいいだろうが! ペンギンたちが美味しそうに食べるもんだから……!」
「ふふ。えいきょうされやすいの、かわいくて僕は好きだよ」
「可愛いのはお前だろ!」
反論しながら司はハンバーグを盛られた皿を類の前に押し出した。
「ヒトデと言ってもただのスライスチーズだし、ハンバーグとか……」
「いやぁ、僕もにあわないかなと思ったんだけどね、未来のスターを食べれちゃうと思うと、たのまずにはいられなかったよ。司くん、いただきます」
「いただきますの前にオレの名前をつけるんじゃない。いただきます」
ハンバーグとチーズを一口サイズに切って、口元まで運ぶが食べはせず、ふーと息を吹きかける類を見ながら、司はドリンクをごくりと飲み込む。
「相変わらず猫舌だな」
「猫だからね。先に食べていいよ」
「おう」
カレーをご飯と一緒にスプーンへ乗せて口に入れる。ほどよく調和された香辛料の味が口の中で広がり、より食欲をそそる。時々、料理もある種のショーだと思うことがある。
そして目の前の類の仕草もまた、そのショーの一部である。温度を確かめるために、ハンバーグは一回唇に触れ、問題ないと確認されてからやっと、口は大きく開かれる。
類は両手とも器用に箸を扱えるようだが、ご飯時いつも右手で箸を持つのは、空いてる左手で垂れかかる水色を指先で掬うため。その時の指を司は何度見ても見飽きらない。
加えて、司のアングルからよく見える類の紫かかった睫毛も、その綺麗なショーに華やかさを増して、最後まで見届けたくて、手が止まってしまう。
「……美味しいか?」
「ふむ……」
もぐもぐ味わいながら唸る類を待ちながら司はフライドフィッシュを一部口に入れた。パリッとした衣にほどよく脂を帯びた白身は予想以上のものだった。水族館のレストランも意外と侮れないものだ。
「司くんがつくったほうがおいしいよ」
「ほう、嬉しいこと言ってくれるじゃないか。そんなに褒めても何も出ないぞ?」
「ホントのことを言っただけだよ。司くんのハンバーグには愛情がこめられてるからね」
誇らしげに言う類に、胸の奥が暖かくなる。
「……確かに込めてるつもりだが、食べる側に言われると少々照れてしまうな。ありがとう、今度また作るか!」
「たのしみにしてるよ! そっちのカレーはどうだい?」
「美味しいぞ。一口どうだ?」
「ちょうだいするよ」
掬いやすいように皿を前へ押し出そうとしたら、箸を置いた類が雛鳥のように口を開けて待ち出した。司はえっ、と思いながら慌ててカレーにフライを添えて、ふーふー吹いてはゆっくりその口に入れた。
猫の尻尾がそれはそれはもう嬉しそうにゆらり、ゆらりと揺れている。
「ん、おいしい!」
「だろう? フライ二つあるからこっちは類にあげよう。お腹空いているだろ」
「ありがとう! じゃあ僕はこっちのブロッコリーをおすそわけするね」
「それはお前が食べたくないだけだろう!!」
食事はブロッコリー運び戦争と絶えない笑い声とともに進み、最終的にそれはいつものように司の胃袋へ収まられた。ブロッコリーの横にあったにんじんも含めて。
カタン、プレートを返却口に載せた司は少し後ろで待っていた類と合流する。
「追加は大丈夫なのか? セットにご飯もあったが、ハンバーグだけでは足りないだろう?」
「司くんのフライをもらったし、ドリンクでおなかいっぱいだから、大丈夫だよ。もうすぐショーの時間だし」
「お腹空いたら遠慮なく言うんだぞ!」
「ふふ、わかってるよ、おかあさん」
「な、お母さんじゃない!」
「じょーだんだよ。司くんは僕のかわいい彼氏だもんね。行こうか」
「それを言うならかっこいい、だろう!」
反論を挟みながらも司は自然に差し伸べられた手を握り返す。外で手を繋ぐのにだいぶ慣れてきた司を見て、猫はまた尻尾を揺らせた。
◇
マリンショーが行われるのは館内の一番大きな水槽。開演時間が迫ると、水槽前に設置された席も徐々に埋まっていく。
「まだ前も後ろもいくつか空いている所があるな。オレはどっちでも構わないから類に任せるぞ」
『うーん……本当は二回見て両方の見栄えを見比べたかったけれど……仕方ない、僕たちが前に座ると小さな子が見えなくなるかもしれないし、後ろにしようか』
「オレもどっちかなら後ろにしようと思った所だ。ショーはみんなで楽しまないとな!」
『だね』
ガヤが続く中、二人は中央ブロックのちょうど二人だけ空いている隅の席に腰掛けた。
『司くん、こんな大きな水槽を見たら、水中ショーを試したくならないかい』
「ふむ……陸なら何でもこいと胸を張って言えるが、水の中はなにかと危ないからな……」
泳げない訳ではないが、人間は陸の生き物。水の中で演技をする経験もないので、流石の司も躊躇った。
『……まあまあ、まずは見てから決めようじゃないか』
「待て、お前まさか次は水中ショーをやろうと思っているのでは……!? うちに人が入るほどの水槽なんか、」
『ほら、始まるよ』
言葉が終わらないままわざとらしく遮られてしまい、司は水槽を見るしかなかった。
マリンショーはダイビングスーツを身に纏った飼育員が主導しているが、巧妙に計算されたライティング演出と音楽で、自然と目は魚のほうへ誘導されていく。
『なるほど……この手が……』
無意識であろう、類の感心した声が脳内に流れる。
『あっ、さっきの所のライトを少し左へ調整したら、もっと……』
類の声を参考にしながらショーを楽しむ。シンクロする時もあれば、時々自分と異なる見方もあって、一人で鑑賞する時と違う楽しさがあった。
司はこの楽しみ方も嫌ではないが、類はそのせいで司の集中が散って、ショーへの感動が途切れてしまうのがあまり嬉しくないようだ。そのため、普段はショーの間はピアスを取るようにされていたが、今日は何故かつけっぱなしになっている。
マイワシが主役のライティングショーを最後に、マリンショーは幕を閉じた。轟く拍手に混ざり手を叩きながら司は類のほうを見る。その同時に類もこちらに向いてきては、いつもの癖でピアスを「つけよう」とした。
『あっ』
「あ」
『す、すまない。うるさかっただろう』
「構わんぞ。久々に類の解説がリアルタイムに聞けて楽しかった!」
『ありがとう……! 「えっと、それで、どうかな、水中ショー」
観客がぞろぞろと離れて次の展示へ向かい、周りが静かになった所、類は口からもう一度同じ質問を投げてきた。食いつくような目に予想外の真面目さが篭もっている。
「え、そんなにやりたいのか……??」
「……い、や……やっぱり、いいや」
「待て待て、嫌とは言ってないぞ」
逃げるように話題を終わらせようとする類を引き止め、司は真っ直ぐ類の目を見ながら続いた。
「さっきのマリンショーは凄かったし、類の気持ちは解説でよく伝わってきた。何より、オレは類の考える演出が好きだと、何度も言っただろう? 水の中でやるショーはリスクも高いと思うが、類が考えてくれた水中ショーなら、内容次第では考えてやらんこともないぞ」
「……うん。ありがとう。……ありがとう。ごめんね。司くんならと、ちゃんと、信頼しているつもりだったけれど」
少しほっとしたように、でも申し訳無さそうに、猫耳がやや垂れてしまった。
「……なぁ、さっきから……いや、朝から何だか様子がおかしいが、何かあったのか?」
「……少しむかしの、つまらないことだけれど、聞いてくれるかい」
「勿論だ。類のことにつまらないことなんてない。よかったら聞かせてくれ」
ライトに照らされて、水槽の魚が方向を変えるたびに、鱗がギラギラ光を反射する。その光を、類は初めて見る訳ではなかった。
「僕も、小さいころ、ここに来たことがあるんだ。しりあいの、猫とね。
その時に、みんなで、このすいそうで、ショーを見た。ないようは、今とちがうけれど、すごいものだった」
「……」
静かに、でも真剣に、司はただ話を聞いていた。一つ深呼吸をし、類はゆっくり続いた。
「……その時、まねしてみようよ、水を使ったショーはきっと楽しいよと、ていあん、してみたんだけど、みんな、見るだけでじゅーぶんと」
それは、猫は皆水が苦手だから? と口まで出かかった司だが、さっきまで水のショーに燦々と目を輝かせいた目の前の恋人も、ちゃんと猫で、水も得意ではない。それでも。
「ショーへの熱意が違うんだな」
「……そう、だね」
「そうだぞ。類も水は苦手だろう?それでも、凄いショーを見ると、同じショーがしたくなる。試したくなる。違うか?」
「ちがわ……ない」
「あの時の類とショーができなくて残念だが、今の類となら、いくらでもできる。やるぞ、水中ショー!」
やりたいことをできなかったと語る類を抱きしめて慰めてあげたい気持ちもあるが、司は憐れみだけでは妥協しない。それだけで無理に付き合っても、類は喜ばないと知っている。
「……僕、まだくわしいこと、何ひとつ言ってないのに、いいの?」
「だから、内容次第だ! 未来のスターは最高の演出しか受け付けないぞ!」
その笑顔一つで、体が興奮に駆られる。ぞわりと猫耳が震わされ、ぴょこっと跳ねた。やっぱり、この人で間違いなかったんだ。
「……司くん、抱きしめても、いいかな?」
「待っ……
い、一瞬なら……わっ!」
隣にいた来場者が去っていくタイミングを見計らい、司をぎゅっと腕の中へ収める。
『もっと早く、出会いたかった』
「……そうだな。でも大丈夫だ、これからずっと一緒だからな」
『うん。沢山、ショーをしよう』
「ああ。楽しみにしてるぞ、類の新さく……
……っ!!」
ばっと押しのけられて、司に回していた腕を宙に浮かべたまま、類はぽかんとする。
『……速くないかい』
「ひ、人が、来たからな……」
声もすっかり小さくなった司に類は不服そうにむっとしながら尻尾でパタパタ椅子を叩く。
「こらこら、さっきも一瞬ならと言っただろ。その……帰ったらいくらでもさせてやるから……」
「ほんと??」
「ほ……近い近い近い!」
「それならそろそろつぎいこうか!」
「いやいやだからって急いで帰ろうとするなっ ハッ待て!」
「ん?」
引っ張られたまま急スピードで大水槽を離れた途端、すぐに次の展示に目を引かれた。
「タッチプールだ!」
「ふふ、うれしそうだね」
「む、類こそ完全に狩猟態勢じゃないか。だめだぞ、ここのヒトデは食いもんではない」
『おや、じゃあこっちの黄色いヒトデは食べてもいいと?』
「そそそそうとは言っとらん! ほら手を洗うんだ」
備え付けの水場で揃って手洗いをしていると、ドタドタと元気のいい足音が近付いた。
「わー!! ヒトデだあ!!」
髪の毛を左右に二つに結ばれた小さな女の子が走ってきたが、保護者の到着まで少し時間がかかるようだ。
「待て待て、お嬢ちゃん、触る前にまず手を洗うんだぞ」
「手?」
「そうだ。でないとヒトデが病気になってしまうからな。ほら、この猫のお兄ちゃんと同じようにするんだぞ」
触れずに女の子を水場まで誘導する司からバトンを受け取り、類は締めたばかりの蛇口を再び緩めた。
「ねこ!」
「フフ、猫だよ。石鹸はここにあるからね」
素直に言われた通り手を濡らした女の子と一緒に、類は教えるついでにもう一度手を清めた。
「洗った!」
「洗ったよ!」
「ぷふっ、よしよし、二人とも偉いぞ!」
百八十センチもある類が百もない女の子と並んで報告しにくる凸凹とした二人がどうも面白く、思わず声に出して笑ってしまった。
「気をつけて触りな! 持ち上げたらだめだぞ!」
「「はーい!」」
「で、司くんはさわらないのかい?」
「ハッ、触る」
すっかりお兄ちゃんモードに入ってしまった司は手を腰に当てながら二人を見守るところだった。
「ふふふ。司くん、いいお母さんになれそうだ」
「まだ言うか。それを言うならお父さんだろう。まあどうしたって子供はできないが……」
『……スキンなしでしてみたらできちゃうかもね?』
なんて、司をからかって真っ赤になっている所を堪能するためにしても、小さい子もいるというのに、少々度のすぎた冗談だったかなと瞬時に後悔した類だが。
「……するのか?」
想像と違って、司は真っ赤になるどころか、目を見開きながらチャンスを見逃すまいと真剣に確認を取られた。そうだった、自分がつけることに拘るあまり、余計な興味を持たせてしまっているんだった。
『えっ、しないよ』
「……ケチ」
『ケチじゃない。司くんの体を思ってのことだよ』
「分かっている」
隣で遊ぶ女の子に聞かれないためにも、司は小声で返事をした。
『……欲しいのかい?赤ちゃん』
「んー……欲しくてもできないし、子供一人を育てるのはそう簡単なことじゃないからな」
指先でナマコをぶにぶに触るも、司はナマコのことなど考えていなかった。忙しなく響く足音がまた響いたと思うと、女の子の母と思われる女性が大荷物を抱えながら走ってきた。
「勝手に走っていったらだめでしょ!」
「ママ! ねこのお兄ちゃんと手洗った! ママも手洗おう! ヒトデすごいよ!!」
「すみません、うちの子が……」
「いえいえ」
女性は荷物と女の子両方に気をつけながら急かされたまま手を洗ったのち、元気よく跳ねる子にプールの中の生き物について教えた。
『……大変だね』
「だろう」
触れ合い終わった手を消毒し、親子に軽く挨拶とお辞儀を送り、二人はタッチプールを後にした。
◇
閉園直前の時間になると雨も止んだので、パーク最後のショー、イルカショーを室外展示場で堪能した。イルカに負担をかけすぎないように、ショーというより、餌やりと健康管理のための検査がメインの内容だった。
「……司くん、帰る前にもういちど、ギフトショップへよってもいいかい」
「ああ、お土産も買わねばな」
二度目のギフトショップ、類は今回もとある棚へ直行した。アパレル商品よりも入り口に近いその棚には、ぬいぐるみが並んでいる。
「たしか……あった!」
「イルカのぬいぐるみ? 記念品か?」
「さっきイルカショーを見て思い出したんだ。この子を僕たちの子にしないかい?」
「ん……んん!? ど、どういう……??」
七十センチほどある大きな、しかし可愛らしくデフォルメされたイルカを手にする類の話をぱっと理解できず、司は説明を求める。
「さっきさいしょに出てきたイルカ、ヒレに星のもようがあったでしょ? その子のぬいぐるみなんだ。未来のスターなんだよ、このこも、司くんのようにね」
「ほうほう? しかもこいつ、ショーに出てたな?」
「そう! 僕たちにこどもがいたら、そのこもきっと、」
「「ショーが大好き!」」
「ふふ。きまりだね」
「だな」
そう言って、司は改めて類が持っているイルカのぬいぐるみと、棚を見比べた。
「色んなカラーの子がいるんだな。紫の子にしてもいいか?」
「おや……かわいいこと言うじゃないか」
「ちが……いや、違わないな……そうだ、類の色だ。スターにはその才能に見合う演出がないと輝けないからな! この子には類の血も継いでもらわなければ」
「ひとりで司くんのスター性と僕の演出力をりょうほうそなえてしまうなんて、大スターまちがいなし、だね」
「その通りだ!」
イルカのぬいぐるみと家族への土産物をカウンターへ持っていき、閉園時間ギリギリでマリンパークを出た。
「ねぇ、にもつは僕が持つから、こもりをおねがいしてもいいかい、ママ」
人も疎らになったホームで電車を待ちながら、類は両手に抱えた荷物のうち、ぬいぐるみの方を司へ渡した。
「あら、ありがとうあなた……っではないだろう!! オレは!! ママでは! ない!! どっちかというとパパだ!」
「ええ? だって…… 『入れる側は僕だし……?』
「な! ……子供の前で破廉恥なこと言うな……!」
小声でツッコミを入れながらも親子ごっこにノリノリな司が可愛く、自ずと笑顔がさらに綻んだ。
『これはママに直接送ってるからこの子には聞こえないよ。大丈夫大丈夫』
「あっそうだ。この子に名前をつけないと」
「んー……なまえねぇ」
空いた手を顎に当てながら類は考え込んだ。暫し沈黙が続いた後、ハッとなったように司は提案する。
「イルカくん、は、どうだ」
「あんちょくだね? 家にある他のぬいぐるみは、もっとはでななまえだったような……」
「うっ…… その…… イルカのイとルが、類から取ったみたいでな……特別だ!!」
「それなら『カ』は司くんの『カ』かい? なるほど。いいね」
「だろう! コホン、
よろしくね、るいパパ!」
裏声で子供の声を作りながらぬいぐるみで挨拶をする恋人が愛しすぎて、類は手に持っている紙袋を落としかけていた。
「っ……ゴホン、こちらこそよろしくね、イルカくん。司ママにちゃんとつかんでてね」
「何度言ったら分かるんだ。オレもパパだぞ」
「ふふふふ、ゆずらないねぇ」
「当たり前だ!」
雨はもうすっかり上がっていた。電車に揺られておよそ二十分、夕日の光とマリンパークの思い出を両手に抱えながら、ただいまを口にするまで、道中数え切れない笑い声を溢れさせていた。
『司くんっっ……だめかい?』
「イルカくんをそんなおねだりに加勢させるんじゃない! 教育に悪いだろうが!」
夕飯に風呂を済ませて部屋へ戻った途端、パジャマ姿の類がイルカを連れて押しかけてきた。どうやら今日約束したアレやソレを請求しにきたらしいが、司に覚えのないことまで付け加えられている。
「すまないが明日は学校があるんだ……」
『それは分かっているけれど……僕、昨日も含めてここ一週間ずっと、ず~っと我慢してたんだよ?』
「オレ……オレだって……!」
いつもは土曜の夜もしくは日曜を使ってたっぷり触れ合う二人だが、今週はデートに備えるため、負担になるようなことは避けていた。避けたけれど、デートを経て欲は満足して解消されるどころか、むしろ高まる一方だった。
『一回、だけだから……ねぇ……』
司がそっぽを向くので、抱えているイルカでちょん、ちょんとその柔らかい頬をつつく。
つーん。
心を鬼にされたのか、少しも振り向いてくれない。喧嘩という訳ではないのに、何だかそのように感じて、悲しくなった。
『……分かったよ。ごめんね、無理言って……おやすみ』
ぬいぐるみをベッドに乗せ立ち上がろうとした時。
「イルカくん、寝かせるから」
『?』
「今日はイルカくん、ここで寝てもらう」
『? 分か、った』
「そんで……オレは類の部屋に行く」
『!!』
「い、一回だけだからな!!」
飛びつく猫からキスの雨が降り注ぐ。その甘い雨は、二人のデートは、猫の部屋で夜中まで続いた。
猫と、マリンパーク END