Not Strong Enough距離を置けば、多少は楽になるだろうという見通しはは甘かった。共に過ごす時間が減っただけ、あの男への渇望は増した。この飢えを抱えたまま残りの人生を歩むしかないのだろうと諦めていた。
もうどうにもできないことだ。
ある日、閉まりかけたエレベーターの扉が突然開いた。扉の間に差し込まれた大きな手がおれの腕を掴み、籠から引きずり降ろした。何するんだよと笑いながら言いかけて口を閉じる。何年も一緒にいたのに、見たことのない表情だった。この男が獰猛になっているとき、いつもおれは後席にいたからだ。
腕を掴まれたまま、玄関に引っ張り込まれる。相変わらず口下手な男がおれをじっと見つめていた。おれから言えることは何もない。感情を目に表さないように努めつつ、顎を少しだけ持ち上げて言った。
「明日も仕事だ。話がないなら帰る」
背を向けた瞬間、後ろから抱きしめられた。毛織物と男の体臭が混ざった匂いが、おれの理性と誇りを剥ぎ取った。こんなことを始めるのは間違いだとわかっている。この抱擁を受け入れた先にあるのは不幸しかない。それでも、おれは振り返った。たとえどんな結果が待っているにしろ、焦がれ続けた男の腕に包まれる以上に正しいことはない。
おれたちは無言で抱き合っていた。二人の間の温度が上がり欲情が増すのがわかった。もう引き返せない。武骨な手がおれの顔から眼鏡を外し、下駄箱の上にそっと置いた。あの太い指がどれほど器用かおれは知っている。その指が自分に触れることを夢見たこともあった。愚かしいことと知りながらも微かな期待を手放せなかった。
目を閉じたおれの口に熱く乾いた唇が押し当てられる。あれほど手先が器用なのに、驚くほど不器用な唇だった。強引な舌を受け入れ、自分の舌を絡ませると喉からが呻き声が漏れる。そのとき、ドアが施錠されていないことを思い出した。慌てて振り返り鍵をかける。カチリという音が響いた。
「いつまで冷静なんだよ」という言葉と共に後ろから捉えられた。俯いた頬にドアチェーンが触れる。チェーンはおれの肌の熱を得て、あっというまに温くなった。
ざらざらした唇が耳朶を挟み敏感な皮膚を探った。声を堪えられず自分の指を噛む。男の手は素肌に触れ、そして更に下へと伸びた。拒むことなどできなかった。こいつは自分でやるときもこんなに乱暴なのかなと考える余裕があったはずが、気づけば相手の肩に後頭部を預けて喘いでいた。これ以上は我慢できないからベッドへ連れて行ってくれと破廉恥に懇願する自分の声がうっすらと聞こえた。
結局ベッドへは行きつかなかった。薄暗く狭い廊下で転がりながら互いを貪った。逃げるなよと言いながら、男はおれを絶頂に追い立てる。おまえこそと言いながらおれは煽る。男の背に爪を立てると肩を噛まれた。痛みと快楽で目の前が滲んだ。涙が内心の慟哭を露呈させたようで腹が立った。肉体だけが解放を求めていた。快楽が爆ぜた後、互いに我に返るのが怖かった。
性交なのか格闘なのかわからないような行為は数週間続いた。決してベッドに行きつかず、いつも玄関で始まり床で終わった。一言も発せぬまま呻き、喘いだ。かつて命を託した相手になら何をされてもいいと思っていた。肌を重ねる度に興奮も快楽も遠ざかり、虚しさと苦痛だけが増していることから目を背けた。そしてある日、突然身体を押しやられた。噛まれたばかりの皮膚が痛んだ。相手の肩にも血が滲んでいた。おれも噛んだからだ。
「もうやめよう」
そう言ってごろりと横たわった男の手に指を伸ばすと、強く握り返された。どうにも繋がれなくなったおれたちは、冷たい床に転がりながら手を握り合っていた。汗が冷えても手を離せなかった。