そこから始まる恋の予感 どうか、どうかレオナ先輩の機嫌がそこまで悪くありませんように……! なんて、保健室の扉の前で必死に神頼みする。
寮対抗マジフト大会でディアソムニア寮に負けた上、試合前にも一騒動あったみたいだし、あのレオナ先輩が保健室のベッドにサボリ以外でお世話になるなんて前代未聞だ。精神状態が過去最大級に荒れていてもおかしくない。一応、財布を放られてお遣いを指示されたときにはそこまで不機嫌でもなかったけれど、油断したら駄目だ。気紛れな獅子がいつ目覚めるか、私みたいなレオナ先輩曰くの〝小動物〟如きには分かるはずがないんだから……!
なけなしの勇気をかき集めて、私は扉をじっと見据えた。
本当に、レオナ先輩を前にすると、緊張でいつも気が気じゃない。普段はしないようなドジはするし、平常心でいられることの方が珍しいし、あまりにもいっぱいいっぱいすぎて記憶はたまに飛んでるし。だめなところばっかりなのに、何故だかレオナ先輩は頻繁に私を呼び出すし、私は私で体よく誤魔化せずに言うこと全部聞いちゃうし……
仲は悪くないだろうけど、私って一体何なんだろうとたまに思わなくもない。いや、普通に考えれば、都合のいい使い走りの一人なんだけど。
……というか、既に保健室の中が騒がしい気がする。ケンカしてるっていう雰囲気じゃなくて、何というか、賑やかに話してる、みたいな……
一体どうしたんだろう? なんて疑問を抱きながら、私はようやく覚悟を決めて、扉を静かに開けていく。
「お、お邪魔しまーす……」
「れ、レオナおじたん……!」
「こりゃ当分ネタにできるッスね~!」
「てめぇら、本当に後で覚えとけよ……!」
……ええと、おじたん、とは……?
ラギーくんをはじめとした何人かが笑いながら口にした単語に首を傾げる。
聞いたことがないけれど、どうやらレオナ先輩に関わる言葉であることは確かだ。明らかに怒ってるし。でも、どうにも内容がピンとこない。私が思うことはただ、あのレオナ先輩をからかうだなんて、皆相当な命知らず……じゃなくて、度胸があるなってことぐらいだ。私には無理だ、絶対に無理。だってレオナ先輩怖過ぎるもの……! おかげで不機嫌そのものな声を耳にしただけで現在絶賛逃げ腰です。いやでも、届けるのが遅くなったらなったで怒られる可能性もあるし……。だめだ、詰んだ。諦念が胸の内を占める中、私は恐る恐るベッドが並ぶ奥へと向かう。
「おっ! ゆきさん、待ってたッスよー!」
幸い、私の到着に最初に気付いてくれたのはラギーくんだった。良かった、レオナ先輩に睨まれたら絶対に回れ右してダッシュで逃げるところだったから……!
一安心して、私は小走りにそちらへ向かう。レオナさんは無言だったしちょっと不機嫌ではあったけど、向けられた目付きはそこまで鋭くなかったから、心の中でほっと胸を撫で下ろした。
「えと、お待たせしました。頼まれていた物です……!」
そう伝えながら、レオナさん達から頼まれていた夕食を配る。それから、レオナさんへはお財布も。
お遣いの手間賃ってことなんだろう、「お前の分も買って来い」と指示されたから私の分もあるけれど、これは自分の部屋で食べればいいとして……。食べ物のゴミだけ回収したら失礼しようかな、なんて考える私の耳には、楽しげな会話が入ってくる。
「レオナさん、こんなときまで野菜拒否とか、治るモンも治らないッスよー?」
「うるせぇな。ゴチャゴチャ言うなら返せ」
「嫌ッスよ。ていうかもう、一口食べちゃったんで」
ちゃっかりしているラギーくんの発言に、レオナさんは舌打ちをしたけど、本気で怒ってるわけじゃないんだろう。この二人は何だかんだで仲が良いから羨ましい。……羨ましい? 自分で自分の考えに内心首を傾げた。
別にレオナ先輩に対して軽口を言い合える仲になりたいとは思っていないはずなのに、一体私は何が羨ましいんだろう? 少し考えてみたけれど、答えがどうにも浮かばないから、結論を出すことは早々に諦めた。
さて、とレオナ先輩に視線を向ければ、ふと、その奥からちらちらと明るい茶色の頭が覗いてる。あれ? と思って見ていれば、ひょっこり顔を出したのは、見知らぬ小さな男の子だ。
「あの、その子は……」
「……俺の甥のチェカだ」
複雑そうな表情を浮かべながらもレオナ先輩が返してくれて、私が入室したときに交わされていた言葉の意味を理解する。成る程、〝レオナ叔父さん〟。納得しながら見下ろす私に、にぱっと笑ったチェカくんが「こんにちはー!」と元気に挨拶してくれた。
「こんにちは! ……すごい、とっても可愛いですね……!!」
くりくりとした大きな瞳、ふっくらとして赤いほっぺた。子供特有の可愛さに加えて、レオナ先輩にすごく懐いているんだろう、屈託のない笑顔をにぱっと浮かべている姿は正に天使そのものだ。
小さい子とは関わる機会が少なかったから余計に感動していれば、ふと、チェカくんは目を見開くと、「あーっ!」と声を上げながら私を真っ直ぐに指差した。
「お姉ちゃん! 写真のお姉ちゃんだーっ!」
「しゃ、写真……?」
一体なんのことだろう? 心当たりがない私とは違って、レオナ先輩は何か思い当たるものがあったらしい。未だ私に視線を向けたままのチェカくんに、制止を促す手を伸ばしていて。
「おいチェカ、」
「うん、写真! おじたんがね、お姉ちゃんの写真、この前見せてくれたんだよ! ねー、おじたん!」
「………………へ?」
静止の為だろうレオナ先輩の呼び掛けも虚しく、最後まで言い切ったチェカくんによる発言に、私も先輩もピシリと完全に固まった。
み、見せた……? え、レオナ先輩が、チェカくんに、私の写真を……? というか先輩、私の写真なんて持ってないと思うんだけど……
もしかしたら人違いかも、なんて思った私の前では、同意を求められたレオナ先輩が、珍しく慌てた様子を見せながら、急いでチェカくんを自分へと向き直らせていて。
「見せてねぇ! あれはお前が勝手にデータ見たんだろうが……!」
「……ってことは、ゆきさんの写真を持ってるのは事実なんスね」
ラギーくんからの冷静な指摘に、レオナ先輩は気まずそうな顔をしたまま、ぐっと押し黙ってしまう。否定はしない。つまり、それは、正解ってことになるんだろう。
というか……え……え? どういうこと? 本当にレオナ先輩が私の写真のデータを? というか、写真って何の? 同じサバナクローではあるけれど、学年も部活も違うし、個人的に一緒に撮ったことなんてもちろんないし……
「あ、あの……それ、どんな写真なんですか……?」
せめて、せめて大人数の中の一人とか、偶然映り込んだ程度の小さいものだとか、そういうものでありますように……!
心の底から祈りつつ縋るような気持ちでレオナ先輩を見つめれば、先輩は何とも言えない表情を浮かべて目を伏せながら、額に手を当てて俯いた。
「……前にお前が、俺の部屋で呑気に居眠りしてやがったときの写真だ」
「ちょっ……なんてもの見せちゃってるんですかああぁぁっ!!」
「うるせぇな。……からかってやろうと思って消すの忘れてたんだよ」
明確な謝罪こそないけど、レオナ先輩も内心では悪いと思ってくれてはいるんだろう。普段よりも少しだけ口調に覇気がない。それでも、私にとっては恥ずかしい以外の何でもなかった。
いや、確かにレオナ先輩の部屋でうっかりうたた寝しちゃったことは私が百パーセント悪いんだけど、それでもやっぱり誰かに寝顔を見られるのは気恥ずかしいし、それが写真で残ってるとなると余計に強く羞恥心が込み上げる。
よ、ヨダレとか垂らしてないよね? 流石にそこまで変だったら先輩も撮ったりしないよね!? 変な顔してたらホントにどうしよう……! しかもそれをレオナ先輩に見られたかもしれないんだ……考えれば考える程、何十倍にもショックだった。
そもそも先輩、どうしてそんな写真を撮ろうと思ったんだ……! ……はい、からかう為ですねそうですね。さっき自分で言ってたもんね! いやでも、それならそれで忘れずにからかった上できちんと消してくれれば良いのに……!
きっと先輩は写真のデータはほとんど見返さない人なんだろう。というか、そもそもそんなに写真を残すような人にも思えないし。そんな貴重な写真の一枚が冗談で撮った私の寝顔……
あんまりにも低確率で起きた事件に思考が全くまとまらない。ああ、と両手を顔で覆う私とは対照的に、チェカくんはにこにこと楽しげな笑顔と輝く瞳を向けてくる。
「ねえねえ! お姉ちゃん、レオナおじたんの未来のお嫁さん? 今度のお休み、おじたんと一緒にきてくれる? 僕とおじたんとお姉ちゃんと三人で遊べるの?」
「あ、ああああぁぁ、の、その、ええと……!」
だめだ、これは完全に勘違いされてる……!
すっかり彼女だと信じ切ってるらしいチェカくんに説明しようと頭を必死に働かせても、動揺のせいでちっとも上手くまとまらない。その上、会話を聞いていたラギーくんまで意味ありげな笑みを浮かべてこっちを見てきて。
「ゆきさん、良かったッスね~? 玉の輿ッスよ、玉の輿!」
「そ、そういう問題じゃあ……!」
「えー? じゃあ嫌なんスか? レオナさんのお嫁さん」
「え!? ち、違、そんなわけ……!」
ない、と、誤解を避けるべく否定しかけて……はたと私は我に返った。
誤解? 誤解って、一体なんの誤解だろう? レオナ先輩に失礼だとか、怒られるだとか、多分、そういう理由ではなくて。いやでも、それじゃあ何が誤解なんだろう? ぐるぐると考え込んで、ふと、一つの可能性が不意に浮かぶ。
――嫌なのが、誤解、だとしたら?
何とはなしに、レオナ先輩のことを見る。明るいグリーンの瞳が、微かに見開いた状態で私に向けられていた。まるで驚いてるみたい。そう、考えたところで、自分が口にした言葉をもう一度振り返る。
――私はさっき、一体何て言ったんだっけ?
考えていた時間は長かったのか、それとも短かったのか、それすら自分じゃ分からない。耳には何の音も入ってこなくて、呆然とした心地で立ち尽くしてる中、まるでパズルのピースがはまるかのように、一気に理解させられた。
「……へ、あ、ぁ……!?」
意味のない音ばかりが零れて、言葉が全く浮かばない。頬に熱が集まって、混乱で思考もまとまらなくて。慌てて何かをしようとするのに、どれから手をつけるべきかの判断すら下せなかった。
これでもし、誰もが無反応だったら、せめてレオナ先輩が普段通りに呆れた様子を見せてくれたら、まだ平気だったのかもしれない。でも、現実はというと、レオナ先輩は口を噤んで、私からふいと顔を逸らした。――その頬は、ほんの少しだけ、確かに赤みを帯びていて。
私には、そこまでが限界だった。
「し……失礼、しますっ!!」
逃げる形で早足に保健室を後にする。誰も追ってきてないのに、廊下に出てからも一目散に駆け抜けた。走り出したばかりなのにうるさい心臓の音だけが、私の鼓膜に大きく響く。
おかしい、おかしい。だって、これじゃあまるで――私が、レオナ先輩の、ことを。
どうにか否定したいのに、思考は消えてはくれなくて。
目蓋に焼付いて離れないのは、ほんの少し赤みを帯びた、レオナ先輩のあの横顔だけだった。