Song for an Assassin一、
「それでなんて呼んだらいい?」
――君のこと。口元に微笑を浮かべて柔らかく問いかけるその顔は、ソロの心を掴んで離さない相棒と全くもって異なっていた。自分でけしかけておいて言うのもなんだが、この人物は性格も優しすぎるに違いない。ソロが抱く幻想とはえらくかけ離れた彼は、訪れた沈黙に少々困ったように眉を寄せ、頭を掻き出す。その何気なくかきあげられた前髪が、薄暗い部屋に差し込む月光に照らされて、冷たく黄金色に輝いた。
「好きに呼んでくれて構わない」
「じゃあ、君はなんて呼んでくれる?」
「えっと――」
ソロは無意識に思い焦がれる名前を言いかけて慌てて飲み込む。実際にだってその名で呼んだことはほんの数回しかないのに、一夜限りの相手をそう呼ぶだなんて、我ながらどうかしている。なんて哀れなんだろう。自分が招いたことなのに、いたたまれない気持ちで胸が押しつぶされそうだ。込み上げてくる感情を喉の奥に流し込み、震える手をごまかすようにシーツをぎゅっと握りしめる。
「なんて呼んだらいいかな?」
「ふふ、なんでもいいよ。君が呼んでくれるなら」
「名前は聞かないし呼ばない。そのかわりひどくして」
「随分と投げやりだね。それじゃあ僕は、誰の変わりをしたらいいのかな?」
ソロの額に口づけを落として、名前も知らない彼が微笑む。ああ、本当に似ていない。アイツはこんなふうに笑みを零したり、自分のことをまるで壊れもののように優しく扱ったりするのだろうか。ほんの一瞬だけ勝手に思い描いた想い人との営みは、現実との落差にソロを余計に惨めな気持ちにさせるだけだった。
二、
10月31日。この日はイリヤにとって特別な日、というわけもなく365日の内の1日という認識に過ぎない。これといって何か思い出もあるわけでもないし、どうこうしようという考えもない。ただ、何となくソロは好きそうだなと勝手に思っていたし、少しだけ意識をしていた。アイツは絶対、何か企んでいると。
そして迎えた当日。別に自分が何かをするわけでもないのに、朝から落ち着かずそわそわしていたイリヤはいつも通りに一日を過ごし、気づけば夜を迎えていたのだった。
「(――おかしい。カウボーイが何もしてこない)」
何事もなく夕食を終え、シャワーも済ませ、今日という日が終わろうとしている。別にハロウィンを楽しみたいという気持ちはなかったはずなのに、心のどこかで期待していたようで、なんだか自分が馬鹿みたいだ。後は寝るだけといった状態で、一緒に酒を酌み交わすソロをずっと窺うように見つめていたイリヤは、半ば投げやりにつぶやいた。
「トリックオアトリート」
グラスを傾けていたソロは片方の眉を器用に上げ、驚いたような表情を見せる。やけくそに放った一言は、ソロの興味を引くには十分だったようだ。
「どうした急に?どこかで頭でも打ったか?」
「打ってない。今日はハロウィンだろ?」
「いや、そうだけど。まさか、ペリルからその一言を聞くとは」
「なんだ、悪いか?」
「悪いことはないけど、意外だなと思って」
「別に深い意味ない。それでどっちを選ぶ?」
イリヤの食い入るような問いかけに、ソロは少しだけ考えるような素振りを見せると、ややあって「降参」とでもいうように両手を軽く挙げた。
「あいにく、お菓子は持ち合わせてない。しょうがないがいたずらの方で頼むよ」
「ほう、それは意外だな。カウボーイのことだ、何か用意をしてると思ったが」
「そうだな。僕としたことが、まさかペリルに仕掛けられるとは盲点だった」
好きにしろと言わんばかりに手を広げ、目を閉じるソロの口元が僅かにゆがむ。にやりと効果音が聞こえてきそうな顔だ。そんなソロの表情に「しまった」と思ったが、すでに手遅れだった。
「カウボーイ…お前、わざと何も用意しなかったな」
「なんのことだペリル?仕掛けたのはお前だろ?」
眉を上げ、しらばっくれるソロを思わず睨む。イリヤはまんまと罠にかかり嗾けられた自分に思わず舌打ちする。やっぱりだ、こんなイベント、ソロが楽しまない訳がない。愉快に笑うソロがなんだか気に食わなくて、感情をぶつけるようにその憎たらしいほどに艶めく唇にかぶりつく。
イリヤにとってのはじめてのハロウィンは、それはそれは忘れられない一日となった。
三、
コーヒーでも淹れて一息入れようとキッチンに立っていると、背後からひょこりと大きな影が覗いてきた。
「なんだ、茶でも淹れるのか?」
振り返り様にふと見上げた瞳は、紅茶が出てくると信じてやまない、と言わんばかりに輝いていて、そんなイリヤの表情に「いや、コーヒーを淹れるつもり」だなんて到底言えるわけもなく、最初からそうするつもりでいたように話を合わせる。
「なんだ、ペリルも飲むか?」
「ああ、俺が淹れるからカウボーイは―」
座ってろ。そう、ボソッと呟いたイリヤはティーポットに手を伸ばすと、顎をしゃくって座るように促してきた。
「なんだ?どういう風の吹き回しだ?」
「別に深い意味はない。いいから座ってろ」
「一人で準備できるのか?」
「当たり前だ、お前より上手く淹れられる」
思いもよらない展開に若干、戸惑いつつも言われるがまま大人しく席につく。イリヤは全く手伝わせる気が無いようで、ソロは少しばかり手持無沙汰を感じながら、意外にも慣れた手つきで準備する背中をしげしげと眺める。これはもしかして、もてなそうとしているのだろうか。そう思うと、紅茶にジャムにとあれこれ準備する姿がなんだか愛おしく感じる。なんとも乱暴な誘い方ではあったが、こんなティータイムもたまには悪くはないと密かに思った。
四、
酒でも飲もうと誘われて、用事を済ませてソロの部屋へと向かう。
いつものように二回ノックをするが返事はない。もう一度、先ほどよりは強めに叩いてみたが、それでも返事はなかった。自分から誘っておいて、いったい何をやっているのか。僅かに苛立ちを覚えつつ、半ば壊す勢いでドアノブに手をかける。イリヤの予想とは裏腹に施錠されていなかったドアは、何の手ごたえも与えることなく空を切るように開いた。
「おい、自分から呼び出しておいてどういうつもりだ」
部屋に入るや否や、文句を言い放つ。いつもであれば、すぐさま返ってくるであろうソロの声はしない。これは流石におかしいと違和感を覚え、辺りを見渡すも暗い部屋にソロの姿はなかった。
突然、ふわりと漂う花の香りに眉間に皺を寄せる。視線の先には、バルコニーに面したレースカーテンが風に揺れていた。なんだそんなとこにいたのか。少しばかり安堵しつつ、施錠してなかった諸々の嫌味でも言ってやろうとバルコニーへ足を向ける。カーテンを翻し、声を掛けようとした瞬間、街の喧騒をぼんやりと見つめるソロの表情に、思わず息をのみ立ち尽くしてしまった。
「ああ、ペリル。来てたのか」
気づかなかったよ、とイリヤの存在に気がついたのか、口を開いたソロは、此方を一切振り返らない。ただひたすら、グラスを片手に遠くを見つめている。鮮やかにライトアップされた街の光が反射して揺らめくソロの瞳はどこか虚ろげだ。
「あのマリーゴールドは、死者を導いてくれるらしい」
華やかに街を彩る花々を指し示すソロの声が儚く響く。死者を弔うには少々賑やかなこの街の雰囲気は、ソロの姿をより哀れなものにみせる。イリヤの触れられない過去を纏ったソロの顔は、噎せ返るほど強いマリーゴールドの香りと共に、イリヤの脳裏に焼き付いて離れなかった。
五、
「なあペリル、忘れられない味ってあるか?」
大きく口を開けて、一口目にありつこうとしていたイリヤの動きがぴたりと止まる。こちらの問いかけたタイミングが悪かったとはいえ、別に食べてしまえばいいものを、相変わらず律儀な奴である。
「急になんだ?」
怪訝そうな顔で此方を見つめるイリヤは、手に持っていたものをいったん皿に置き、質問の意図を求めてくる。
「いや、特に深い理由はないんだが。ちょっと思い出したことがあって」
「思い出したこと?」
「まあなんだ、遠い昔の記憶だ」
「ふん、お前もそうやって感傷に浸ることがあるんだな」
「そりゃ、こんな生き方をしていれば、色々とあるよ」
「じゃあ、なんだ。今日のこれも『忘れられない味』だったりするのか?」
イリヤは器用に片方の眉を跳ね上げて、揶揄うような視線を寄越すと、先ほど皿に置いたサンドイッチに手を伸ばし、今度は躊躇することなくがぶりと齧り付く。口一杯に頬張るイリヤの姿に、あの日の光景が呼び覚まされる。照明に照らされて黒く光る海面に沈んでいく船。そして、どこの誰のものかもわからないあのサンドイッチの味が、ワインと海水の香りと共に舌先に蘇った気がした。
「どんな思い出なのかは知らんが、まあ悪くない味だ」
「悪くないか。ふふ、それはよかった」
こちらの心の内なんて何も知らないで、黙々と食べ続けるイリヤの姿に、ソロは思わず目を細めてしまうのだった。
六、
本当だったら、もっとああすればいいとか、こうすればいいとか、どうとか。数えきれないほど相応しいやり方があるのだろうが、透き通るような青に熱を孕ませ、ひたと見つめてくる瞳を前に、不器用すぎる自分はどうしたらよいのかわからなかった。
もしこれが任務でこれから先、自分の人生に関わり合わない見ず知らずの相手だったなら、それこそ今まで訓練したように、適当に思っていないことを囁いたり、求めてみたり、そつなくこなせたかもしれない。
けれども、今イリヤの目の前にいる人物は、そういったその場しのぎの衝動でどうにかできるような相手ではなかった。
「ペリル、どうかしたか?」
どうせ、こっちの感情なんて手に取るようにわかっているくせに、ソロがいじらしい声をあげ、微笑みかけてくる。普段の鼻につくような、憎たらしいほど自信に満ちた顔は影もなく、酒のせいで赤らめた頬は、まだ何も知らない赤子のように幼くみせる。こんな計算され尽した表情ですら、腹が立つほど釘付けになってしまう。
「カウボーイ、そうやって俺を揶揄うな」
「揶揄う?僕がなにかしたとでも?」
くすりと笑みを零したソロが、手にしていたグラスを煽る。はらりと肌蹴た襟元から覗く赤らんだ首元に思わず目がいく。一度沸き上がってしまった欲望は治まることなく、ふつふつと欲深い蜷局を巻いてイリヤの心に居座り続け、気がついた時にはその禁断の実に手を伸ばしていた。
「ソロ、俺は――」
一番伝えたかったはずの言葉は、重ねられたソロの唇によって飲み込まれてしまう。触れた瞬間、貪るように吸い付くと、ソロがくぐもった声でくすくすと笑った。その余裕そうな仕草に恥ずかしさが込み上げる。
「おい、人の話を最後まで聞け」
「ふふ、悪い。つい欲しくなって」
「またそうやって揶揄う。後で泣く羽目になっても知らないからな」
「いいよ、お前がしたいことだったらなんでも」
ソロが耳元で囁いてくる。その密やかな響きはイリヤを焚きつけるには充分すぎるものであった。
七、
熱のこもったぼんやりとした頭の中に、シャリシャリと瑞々しい音が響く。徐々に醒めていく意識とは裏腹に、身体がやけにだるい気がする。何とか起き上がろうとするも、思うように力が入らなかった。
「目が覚めたか」
不意に響いた低い声に、思わず肩がビクつく。怠さに侵された頭を何とか動かし、声のする方へ顔を向けると、ベッドのすぐ脇に人影があることに気づいた。
「ペリル…?」
渇いた口からなんとも弱々しい声が零れる。目を凝らして見つめるが、薄暗い視界のせいで、イリヤがどんな表情をしているのか、全くもってわからない。
「少しは良くなったか?」
いつもより優しい声色で訊ねるイリヤの大きな手がソロの額に触れる。汗ばんだ額をすっぽりと覆うその掌は、ほんのり冷たく、心地よさについ目を細めてしまう。
「まだ熱っぽいな。コレ喰えるか?」
渇いた唇にヒタリと冷たい何かが触れる。ソロはイリヤが差し出したものにおずおずと確かめるように舌先を当てると、爽やかな風味を舌先に感じた。ゆっくりと口を開いて白い塊に齧り付く。小気味良い音を立てながら噛み砕くと、口の中いっぱいにりんごの甘酸っぱさが広がる。
「これ、お前が剥いてくれたのか?」
「ああ、これぐらいなら俺にだってできる」
唇に添えられたりんごをシャクシャクと貪る。果汁を滴らせながら、最後の一欠けらを口にすれば、指先で摘まむように口元を拭われた。
「そんなに慌てなくてもいっぱいあるから、ゆっくり喰え」
イリヤはくすっと笑みをこぼすと、ソロの額にかかったうねる前髪を、撫でつけるように梳きはじめた。イリヤのひんやりとした大きな掌の気持ちよさに、もっと触れていたくて、甘えるように鼻先をすり寄せてしまう。おぼつかない視線の先、ソロを見つめるイリヤの表情は、いつもよりほんの少しだけ、優しい眼差しを浮かべているような、そんな気がした。
八、
昨晩から降り出した雨は、日付が変わり朝になった今も止んではおらず、しとしとと降りしきる雨の様子をイリヤは窓越しに眺めていた。
―――たしか、あの日もこんな天気だった。
上司を交えた席上、イリヤはテーブルを挟んである人物と対峙していた。隣に座る自分の上司に膝を向けて座るその姿は、資料から想像したとおりのいけ好かない奴だと思った。相手の上司の説明を聞きながらちらりとその顔を窺えば、心底うんざりした表情で卓上の資料を見つめていた。どうしてこんな奴と協力しなければいけないのか、当時のイリヤはそんな憤りが頭の中でぐるぐると渦巻いていた。
その後、上司が簡単な説明を終え席を立ち二人きりになったのをきっかけに、イリヤは自分の中で募っていた苛立ちを、そのままぶつけるように相手に投げつけた。まあ、結果として何倍にもなって返ってきたのだが、こうして改めて振り返ってみると、なんて最悪な顔合わせだったんだろうと、なんだか感慨深くなるのであった。
「どうした?そんなに睨んで」
外をじっと見つめたまま、思い出に浸っていたイリヤにソロが声を掛けてくる。コーヒーの香りを漂わせながら、マグカップを片手に近寄ってくるその姿は、あの時とほとんど変わっていないはずなのに、イリヤの中に湧きたつ感情は全く違うものになっていることに気づかされ、あの日のソロのしたり顔が浮かぶような気がして、なんだか悔しいような気持ちがしないでもない。
「いや、別になんでもない」
「ふぅん。なんだか怪しいな」
口元に悪戯めいた笑みを浮かべて茶化してくるソロに、イリヤは少々大げさな溜息をついて見せる。あの日の自分が今のソロとの関係を知ったら、果たしてどんな顔をするのだろうか。最悪な出会いから数年、こんなことになるなんていったい誰が予想できただろうか。
九、
何かにつけて張り合ってくる競争心、そして誇り高く自国の話をしてくるあの顔。いつも嬉しそうに祖国のことを自慢してくるイリヤを、ソロは毎回の如く軽くあしらっていた。
自分にとって祖国とはただ単に、生まれた場所に過ぎず、その国のために命を捧げようという考えは、イリヤに出会うまではくだらないことだと思っていた。まあ正直、今でも国のためにという考えはどうかと思うが、あのイリヤの高潔な心を掴んで離さない「祖国」の存在は、ソロが思う以上に大きく、そして根深いものだと一緒に過ごしていくうちに嫌というほど知ることになるのだった。
「それで、次はいつ帰ってくるんだ?」
祖国の上司を通して国に戻るように言われた、と告げるイリヤの背中に問いかけるも答えはない。いそいそと準備をする姿は見慣れたものであったが、今回はやけに荷物が多い。元より、ソロと比べて物は少ないのだが、それでもいつものそれよりは多く感じた。何も語らない背中をじっと眺めていると、不意にイリヤが振り返る。真っすぐソロの瞳を見据えるとゆっくり口を開いた。
「次はない」
きっぱりと言い放った言葉の強さとは裏腹に、その声はどこか危うげで今にも消えてしまいそうなほど掠れていた。
「そうか」
いつかは来ると分かっていたその時は、実際に来てみればなんとあっけないものだろう。なんて声を掛けたらいいのかわからず、思わず黙ってしまう。二人の間に気まずい空気だけが流れていく。
「俺の選択は間違っていると思うか?」
黙ったままのソロを窺うようにイリヤが問う。その表情は、ソロが好いていたあの自信に満ちた誉れ高いものとは程遠いものだ。どうせ、その選択しか許されない、いや、できないくせにどうしてそんな顔を見せるのだろう。ここで自分が引き留めたって、何も変わらないことぐらい知っているくせに。本当に、ずるい奴だ。
「いや、お前の選択はいつだって正しいよ」
思いのほか落ち着いた声が出たことに、我ながら流石だなと思う。これが最後だというのなら、あの憎たらしい顔を拝んだ方がマシだ。ソロの言葉が本心ではないことぐらい、イリヤもわかっているのだろう。ソロの優しく微笑みかけるような言葉に小さく頷くと、ソロをひたと捕えた双眸を青く光らせ、いつものように勝ち誇ったような表情を浮かべる。ソロは愛してやまないその表情を目に焼き付けるように見つめ続ける。
ああ、なにが祖国だ。自分からこんなにも大切で愛おしい人間を奪うなんて、やはりくだらない。こんなこと思うだけ無駄なのに、そう思わずにはいられない。そして何より、イリヤを引き止められない自分の力のなさにまざまざと気づかされ、ただ苛立ちだけが募った。
十、
貪るように深く口づけたまま、お互いの唾液で濡れそぼったソロの唇を舌先でノックする。
「――んっ、あ…」
ソロは応えるようにおずおずと唇を開くと、あえやかな吐息を漏らした。イリヤはそれを合図に、そのまま流れるようにソロの口内に舌を侵入させる。そして、呼吸する間も与えないまま、嬲るように歯列をなぞり、さらに奥、ソロの弱いところである上顎へ進もうと窺っていると、舌にちりっと淡い痛みが走った。
「――いっ」
「もっ、しつこいぞっ、ペリル…!」
口づけを一方的に解いたソロは、目元から首元まで真っ赤に染め上げ、はふはふと息をあげながら、潤んだアイスブルーの瞳で睨んでくる。明らかに「悪くない」顔をしているのだが、どうも、素直に「よかった」と言えないらしい。イリヤはべっと舌を出して確認してみると、舌先につんと血が滲んでいる。どうやら、ソロのあの鋭い犬歯にやられたらしい。
「別に噛むことないだろ」
「最初からそうやってガツガツくるほうが悪い」
口を尖らせ文句をつけてくるソロだが、別に先ほどのキスが悪かったわけではないことをイリヤは知っている。これはちょっとした照れ隠しで、ただ単純にペースを握られたことが気に食わないだけなのだ。
「それじゃあ、お前の好きにしろ」
イリヤは少々ぶっきらぼうな声を出しながら、目を閉じて唇を突き出すようにソロに向ける。
「ふふっ、いいだろう。僕が本物の口づけというものを教えてあげよう」
ソロはくつくつと楽しそうな声をあげると、まずちゅっと触れるだけの口づけをして、イリヤの唇を甘く食んでくる。
こうやって触れ合うたびに、なんてめんどくさい性格なんだと思ってしまうことが多々あるのだが、惚れた弱みなのだろうか、そんな反応ですら、今のイリヤには可愛いと思えてしょうがないのだった。
十一、
歓喜に湧く人々が波のようにゲートに押し寄せる。対応に困った警備兵がゲートを開いたその瞬間、隙間という隙間を縫って流れるように人々は通過していった。禍々しい分断の象徴であった障壁に登る人や壊す人。湧き立つ思いの表現の仕方は人それぞれであるが、その心に宿る感情は皆一様のようだった。
そんな、歴史的な瞬間を写し出すテレビの映像は、あの日の出来事、そしてあの懐かしい人物の顔を思い出させる。
「まだくたばっていないだろうな、ペリル」
久々に口にしたその名前は、ソロをなんだかくすぐったい気持ちにさせる。チームが解散して、もうどれだけの月日が過ぎたのだろうか。たった数年しか一緒にいなかったはずなのに、未だに思い出される賑やかしい日々は、ソロの心に多くのものを残したままだ。
「まったく、いつまで待たせれば気が済むんだ」
独り言ちるソロの声が部屋に静かに響く。あの日、ソロとギャビーをすんでのところまで追いかけまわしたイリヤが、弛ませられたワイヤーによって止む無く降り立った場所に、今度はソロと二人で降り立つことになるのは、ベルリンの壁が崩壊してから数年後のことだった。
十二、
『明日デートでもしないか?』
時刻はてっぺん付近、ホテルの一室。一緒に酒を酌み交わしていたソロが、イリヤを見つめながら突然、そう言って誘ってきた。アルコールで染めた頬を緩ませ、熱が籠り潤んだ瞳をこちらに寄せるその表情は、とても煽情的で思わず喉を鳴らしてしまう。
正直なところ、数日にわたる任務を終えたばかりの、久々の二人だけの夜。てっきりこれから、朝まで仲睦まじくベッドで過ごすのだろう、と考えていたイリヤにとって、ソロからのデートの誘いは予想外だった。
ソロが言うには、せっかく来たこの街を出歩かないのはもったいないとのこと。その口ぶりから、どうやら以前この街に訪れたことがあるようで、色々と連れていきたい場所があるとかないとか。そんなことを言われれば、興味が湧かないわけがなかった。
ソロの誘いに首を縦に振ると、「じゃあ、明日もあるから」とすぐさまお開きにされ、瞬く間に部屋を追い出される。ドアを閉められる寸前「ちゃんと着飾って来いよ」とウインクするソロはそれはそれは楽しそうに笑っていた。
そんなことで迎えたデート当日、身支度を念入りに済ませたイリヤはエレベーターに乗っていた。待ち合わせ場所は一階、ホテルのロビー。左腕の時計を確認すると、文字盤を示す針は予定の十五分前の時刻を指している。少し早すぎるような気もしながら、浮ついた気持ちのまま、ボーっと立ちつくしていると、すぐ下の階でエレベーターの動きが止まる。チンと控えめな音と共に開いた扉の先には、本日のお相手であるソロの姿があった。
「なんだ、随分早いな」
「人のことが言えるのか?」
「ふふ、そうだな。ちゃんと眠れたか?」
「当たり前だ」
「そうか。実はこっちから誘っておいてなんだが」
――ちょっと緊張してる。エレベーターに乗り込んだソロは少し背伸びをすると、イリヤの耳元に口を寄せてそう囁いてきた。ソロの熱っぽい吐息を交えた声に、思わず昨日触れられなかったソロの身体の温もりを想像してしまう。こんな場所でこんな声を出すなんて、本当にずるい奴だ。ゆっくりと動き出したエレベーターの中、イリヤは湧きあがる感情を抑えながら、なんとか平常心を保とうとしていると、不意に唇に熱を感じた。
「今日の夜までは、お預けだぞ」
ソロはちゅっと可愛い音を立てイリヤの唇から離れると、昨晩のあの煽るような目つきで笑みを零す。まるで心の中を見透すようなソロの行動に、イリヤは堪らず大きな声を出しそうになるが、無情にもエレベーターは一階へと辿り着き扉が開く。ソロは何事もなかったかのようにつかつかと歩き出すと、まだエレベーター内にいるイリヤの方にくるりと振り返った。
「ほら、何してんだ。置いて行っちゃうぞ」
まだ、デートは始まっていないにも関わらず振り回されっぱなしのイリヤに、くつくつと楽しそうにソロが笑う。イリヤは小悪魔のように表情をころころと変えて翻弄するソロを睨みつつ、今晩は絶対離してやらないぞと心に誓い先を歩く背中を追いかける。しかしながら、その足取りがいつもよりもずっと、軽やかになってしまうのは隠しようがなかった。
十三、
自分より少し締まった太腿にどっしりと跨り、ひたと顔を向かい合わせる。背筋を伸ばし、じっと見下せば、眼前の双眼が揺れる。ソロを捕えて離さないその虹彩は、いつもとは違う色を孕んでいた。
ああ、これは、欲望だ。そんな熱の籠った眼差しに晒され続け、ソロの身体も徐々に逆上せあがるように熱くなっていく。求めるように両手を首元へと伸ばし、ぐっと腕を回して顔を近づける。もう少しで唇が触れてしまいそうだ、なんてこと考えていると、じわじわと感じ始めていた渇きがより鮮明になってきた。これは、まずい。そう思ったが、既に遅かった。
「――んっ…」
「ふっ、カウボーイ。お前の負けだ」
イリヤの勝ち誇ったような声に、ソロは耐え切れずに閉じてしまった瞼をこする。潤んだ視界の目の前には得意げな表情をしたイリヤの顔がぼんやりと滲んで見えた。
どっちが長く目を開けていられるか勝負しよう、と戯れのつもりで誘ったのだが、まさかあんな目で見つめてくるなんて。予想外の展開に思わず身体が熱くなってしまった。
「ずるいぞ、ペリル」
「ずるい?俺がなにかズルでもしたというのか」
イリヤはさっきの表情とは打って変わって、今度は拗ねるように口を尖らせる。まったくもって、感情の起伏が激しすぎる。まあ、それを煽っているのは大抵自分なのだが、こうも面白いぐらいに反応されると、此奴は本当にスパイなのだろうかと思えてならない。ただ、イリヤがこんなにも豊かな表情を見せるのは、自分の前でだけだと思うと、そう悪い気はしない。
「わかった、わかった。僕の負けだよ」
「わかったもなにも、先に目を閉じたのはお前だ」
「はいはい、お前の勝ちだよ。これで満足か?」
「満足?散々煽っておいて逃げる気か?」
不意に腰を両手で掴まれたかと思うと、そのままぎゅっと引き寄せられ、こちらを見上げるイリヤの瞳が鈍く光る。ゆらゆらと熱を帯びた碧眼に、ソロは身体の奥の疼きを見透かされたようで、思わず喉を鳴らしてしまう。それが、合図となるのは言うまでもなかった。
十四、
「まだかかるのか?」
「んー?あと少し」
予定の時刻をとっくに過ぎているというのに、なんとも呑気な返事が返ってくる。たしか、つい十分前も似たような質問をしたのだが、返ってきた言葉はさっきの返事と一緒だった気がする。とっくの昔に準備を終え、待ちぼうけを食う羽目になったイリヤは密かに溜息をつく。
約束事を交わした日のソロはいつもこうだ。任務の時もまあそれなりに時間がかかっているとはいえ、遅刻するようなことはないはず、だとイリヤは思う。まあ、仕事に支障をきたしてはいないため、あまりとやかく言うことはないのだが、それでもずっと待たされるのは面白くない。
以前、それとなく「時間がかかり過ぎでは?」と遠回しに言ってしまったことがあり、その時はしまったと思ったが、ソロは別に気にした様子もなく「お前がかけなさ過ぎるだけだよ」とやんわり返されただけだった。
まあ、ソロと違ってイリヤはそれほどまで服装にこだわりはないため、あまり時間をかけていないことは確かで、それもそうだと思ったが、それにしても、ソロの身支度というのは暇がかかり過ぎる気がするのだった。
「おっ、待たせたな」
軽く右手を挙げながら、ソロがようやくイリヤの前に現れる。濃いネイビーのスリーピースを身に纏ったその姿は、相変わらず完璧で嫌味を言う隙すら与えない。正直なところ、どんな服装でも似合うと思うのだが、そんなことを口にすれば調子に乗るとわかっているので、そんな思いを自分の胸の中にそっとしまい込む。
つかつかと此方に向かってくるソロは、朝起きたばかりの時はふわふわとなびかせていた御髪をしっとりと撫でつけ、任務の時は纏っていないスモーキーで微かに甘さを含んだ香りを漂わせていた。
「ふ、ようやくお出ましか」
「ふふっ、随分と待たせたようで」
「まあ、いつものことだろう」
「そうだけど、これはお前のためでもあるからな」
「俺のため?それはどういうことだ?」
ソロの言葉に意味がわからないと眉に皺を寄せながら、思わず聞き返してしまう。そんなイリヤの表情にソロはくつくつと意味深な笑みを浮かべると、そっとイリヤの耳元に口を寄せる。
「だって、お前これを脱がせるの、好きだろ?」
熱の籠った吐息と共に、思いもよらぬ一言がイリヤの耳にかかる。ソロの不意打ちに昨夜のやり取りを思い出してしまいさっと耳朶が熱くなる。なんとか誤魔化そうと、咄嗟に反論しようとしたが、思わぬ図星を喰らってしまい、ゲホゲホとむせて余計に身体を熱くさせてしまうのだった。
完