花のような君へ小さな花
やわらかい金髪、優しげな凛々しい顔立ち。
そして、世界でただひとつの海色の瞳。
そこに、白、黄色、水色、薄紫、淡い紅色。
その景色を、アニはただ見つめていた。
「それで、ファルコのやつ、いっつも私のやることに口出ししてくるし、気安くさわってくるし、なにか言いたそうにじっと見てくるし……ほんとなんなの!?なんで私の世話を焼こうとするの!?いくら私が好きだからって!ありえない!ファルコのくせに!」
「まあ、自分に惚れてる男から過保護にされて戸惑う気持ちはわかるよ」
大樹のすきまからこぼれ落ちてくる日差しが、二人の少女を照らしている。
大きく息を吸うと森林の香りがしみこんできた。
「で?なんであんたは、私にそんな話をしてるの?」
伐採用のナイフを隙のない仕草でふるい、切り倒した大木から、こまかい枝を切り落とす。
落とした枝をまとめ、もちあげたとき、思わぬことを言われてしまった。
「だって、アニさんはアルミンさんと愛しあってるでしょ?だから、アニさんなら恋愛のことはよくわかるかもって。こういうときどうしたらいいのか聞くなら、実際に恋愛してる人のほうがいいでしょ?」
せっかくまとめた枝を落としてしまった。バラバラと音をたてて地面にころがり落ちる。
ため息をはいて横を見ると、こちらを純粋そうな目で見つめるガビ・ブラウンの栗色の瞳と目があった。
「あんた、私が恋愛の達人に見えるの?」
「違うの?」
「違う」
羞恥を隠すように前髪をかきあげた。木漏れ日の下で輝く金髪がアニ・レオンハートの白い頬をくすぐった。
「恋なんてものをしているかどうか、今だって私は……わかっていない」
落とした枝をまとめて、アニはなにかを振り切るように縄で強くしばった。
『天と地の戦い』から数か月。
カレンダーが機能しなかった期間がすくなくとも一ケ月はあったため、今日が正確には何月何日なのかわからない。
人類にとって『空白の数か月』の正確な日付や記録が残ったのは、彼らが日付を再び記録しはじめ、アルミン・アルレルトらが手記として後代に記憶を残したからである。
戦いを生きのびたスラトア要塞の人々は、残骸となった飛行艇を修理し、『地鳴らし』から逃げきった人々が点在する場所を調べた。次に機関車を直し、人類が多い場所へ移住。文明的な建物が残っている場所に、孤立していた『難民』たちを集め、人々は細々とではあるが新しい社会を形成しつつあった。
今日は材木を確保するためアニをはじめ力仕事を担当する人々は森林地帯に来ていた。多くの地表が巨人に踏み荒らされたなかで、残った木々は貴重な資源だ。復興に必要な最低限の木々を伐採し、家屋の建設に利用する。
立体起動を使える五名があらかじめ巨木の枝を切り落とし、それから幹を伐採した。
新緑のなか、次々と枝を落としていく彼らの動きに、人々は感嘆する。
彼らの中空を舞うような立体起動の動きを『天使』や『鳥』になぞらえる人は多く、人類に対する献身的な態度とあいまって、すでに彼らは英雄として崇拝されつつあった。
『英雄』と他人に思われることは、アニの心になじまなかった。
幼い頃は『戦士』であることを求められた。
島に入ってからは『兵士』と呼ばれた。
どの呼び名もくだらないと思う。
結局どの呼び名も、他人や社会から『そうあれ』と望まれた者が受けるラベルでしかない。
『戦士』と呼ばれた者が戦っているとき、そう名付けた者は酒を飲む。
『兵士』と呼ばれる者が戦死するとき、王都ではチェスゲームに興じる貴族がいる。
どの世界もクソったれで、称号を誇らしく思う気にはなれなかった。
だが、いまは『英雄』という飾り言葉が自分たちを守っている。
彼が構築した『英雄』という枠組みによって、自分たちは生かされていくだろう。将来を思うと気が滅入るが、そんな道をなんとか切り開いていこうとする彼のことは、なるべく支えてやりたいと思う。思ってはいるが……
アニは大きく息を吐いた。その『彼』と自分が、周囲からはどう見えているのか、改めてガビのような子供から知らされるのは複雑だ。
アニはガビたちとともに切り倒した大木から細かい枝を切り離していた。百メートル離れたところでは、他の仲間たちが大木の枝を切り落としている。他の人々から離れてアニと二人きりになったときに、ガビがふいに幼馴染のファルコとの悩みを打ち明けてきたのだ。
「ええっ!?恋してるかわからないのにあんなキスするの!?」
「あっあんなキスって!なにがっ!?」
自分でも赤面していることがアニには痛いほどわかった。
「戦いが終わったとき、すっすごい熱烈に、きっキスしてたでしょ!?」
「あっあれは!なんていうか、そのときの勢いっていうか……あるでしょ!」
「わっわかんない!」
「わっ私だってよくわからない……」
ガビの混じり気のない幼い視線を受け止めきれず、アニは目をそらしてナイフをふるい、また枝を切った。
森林浴は人間にとって良い作用をおよぼすらしいが、アニにはあまり気持ちの良い場所ではない。壁外調査で巨大樹の森に追いつめられたこと。そのときに犯した数々の罪を思いだす。
他人の感情どころか、人間の命さえ価値を見出せなかった自分が、他人から恋愛相談される未来があるとは思わなかった。
島の人々を地獄に陥れ、仲間を巨人に喰わせ、多くの人々を蟲を踏み潰すように殺してきた。そんな自分が、生き残ったうえに惚れた相手に愛されるなど。赦されるはずがない。望むことさえ罪深い。
そんなまともな理性や良識は、生き残ったアルミン・アルレルトの海色の瞳を見た瞬間、吹き飛んでしまった。
最後の戦いのあと、地獄を生き延びることができた奇跡に人々が歓喜していたとき。アニは自分から青年に身を預け、接吻した。『すべてのことがどうでもいい』と思って生きてきたが、あのときこそなにもかもがどうでもよかった。
ただ、アルミンが生きている。そのことを確かめたかった。
それだけでよかった。
やすっぽい熱情かもしれないが、恋とはそういうものかもしれない。
「アニさんとアルミンさんって、美男美女だしすごい愛しあってる感じがするし、お似合いだし、英雄同士だし、『二人みたいな恋がしたい』って言ってる女の子とかいるよ?」
細かい枝をまとめてしばりながら、ガビは頬を紅潮させてアニを見あげた。皮肉っぽく笑ってアニはまたナイフを振った。小さな枝がかさりと地面に落ちる。こまかい枝が地面にかさなり、まだ背の低い小さな花が枝に隠れていく。
「笑えないね。私たちみたいなのなんか、お勧めしない」
「そうなの?私から見てもお二人はお似合いだと思うけど……」
目を細めて、アニはやや乱暴にナイフを枝にふるった。
「私たちは敵同士だった。殺しあいも騙しあいもした。そんないいものじゃなかったよ。他人がどう思うかは知らないけど」
あたかかくなってはきたが、森のなかはまだ肌寒く感じられた。
アルミン・アルレルトと出会って以降のことをアニは反芻した。
なるべく誰とも深く関わらないようにしてきたが、他人の懐に入るのがうまい彼には、たびたびアニの内面の芯の部分にまで踏み込まれそうになった。いや、既に踏み込まれていたのだろう。彼の頭の良さを考えれば、殺しておくほうが得策だとわかっていたのに、それでも殺せなかった。騙されたとわかっていても憎めなかった。
そんな自分たちが、少女たちに羨まれる『恋人の象徴』と見られるのは皮肉なものだ。自分たちが歩んできた道は、とても他人に推奨できるような楽なものでも、甘やかなものでもない。
あの青年を愛する自分というものを、アニはまだ自分のなかに定着させられずにいた。そもそも心というものが自分にあるかも不明瞭だった。
島では他人と極力かかわらないようにしてきたが、努めてそうしなくても自分はもともと不愛想で、暗くて、冷たい人間だ。くだらなくて、つまらない人間だ。そんな自分に、人並みに誰かを思う心があることが今でもよくわからない。まして恋愛感情などは。
あのときは自分から口づけしたものの、それ以降アニは自分からあの青年に恋人としてふるまうことはなかなかできなかった。多くの命を奪ったことへの罪悪感と、誰かに恋する自分への戸惑いなどがアニの足を絡めとり、青年との未来に素直に歩みだせずにいる。
彼と何度も口づけをかわしたが、アニのほうからすることはほとんどない。彼から「キスしてもいい?」と尋ねられれば応じたし、不意打ちを食らうこともある。彼からのキスがあまりにスマートで、やり返してやりたくなったときだけ自分から口を奪った。
あの青年は自分をどう思っているのだろう?
あんなに言葉の使い方がうまく、饒舌な彼が、岩のなかにいるわけでもないのに無口な自分といてつまらなくならないのだろうか?彼が注いでくれる深い愛情にろくに応えられない自分を薄情には思わないのだろうか?
アニは眉をゆがめて目を閉じた。
罪を忘れることはできない。かといって、けじめをつけるために彼を突き放すことも嫌で、そのくせ彼への想いに向き合えずにいる。結局、自分は体制にもそのときの感情にもながされやすいのだろう。中途半端な自分に嫌気がさしてアニはため息を吐いた。
「……私もけっこうお二人に憧れてるって言ったら、迷惑?」
手を止めて、アニはガビを見下ろした。幼い瞳が困惑している。アニからすれば親戚の子供のようなガビから羨まれるほど、自分たちは円満に見えるのだろうか。
あのときの彼との口づけを目撃したガビには、その光景が強烈だったのだろう。それ以降も何度か彼とキスしているところを目撃されてしまったことがある。たいていはすぐにファルコがガビの目を塞ぐのだが、見た記憶は消せないだろう。
(アルミンが急にキスしてきたりするから……)
別に秘匿しているわけではないが、おおっぴらにしたいわけではない。触れ合うときは二人きりのときにしてはいるが、時おり青年は人目をはばからないし、自分もそうするときがある。
二人でいるところを馬面の仲間に目撃され『おいお前ら!ところかまわずいちゃつくんじゃねー!いたいけな子供が見たら教育に悪いだろうが!』とニヤケ半分にからかわれたことが一度や二度ではない。そんな調子だから、いつのまにか他人に羨まれたりするのだろう。周囲の人たちから見れば、自分たちは単に『若い恋人たち』としか認識されないのかもしれない。
さきほどとは違う意味でアニは頬を赤らめた。周囲の人々はともかく、ガビの期待は裏切りたくないような気がした。
「……いや……そんなことはない。あり、がとう……」
どうしてこんな小さな御礼すら自分はまともに言えないのだろう。
「でも、私たちが、あんたが思うようないい関係とは限らないよ」
「いいの。私からすると二人って、なんていうか、いいなって、思うから……」
「そう……」
自分がガビと同い年のころ、自分は彼女ほど感情も表情もゆたかではなかった。
ガビほど純粋でも直情でもなく、もっと冷めてひねくれていた。
自分よりガビのほうが素直で可愛いとアニは思う。
「悪いね。相談してもらっておいて、ろくなこと言えなくて」
こういうとき彼ならもっと相手に寄り添った相談をしてくれるのだろうと思う。
枝をまとめおえたガビは、ふとその場に座り込み、ちいさな白い花を撫でた。
「ううん。なんか、アニさんもけっこう戸惑ってたりするんだと思ったら、ちょっと嬉しかった。ファルコに告白されてからずっと調子が狂っちゃってるから、どうしたらいいのかなって。前みたいに気楽にやりたいんだけど、うまくいかなくて」
「前に戻りたいの?」
「え?」
「『前』ってファルコから告白される前ってことでしょ?戻りたいの?その頃に」
アニもその場にそっと座った。生い茂る草のなかに、小さな花が点在する。
アニは淡紅色のちいさな花に手をのばした。触れることはない。花を愛でるのは自分には合わないと思っていた。花を好むどころか、虫をつぶしていたような自分だ。綺麗で、可愛いものとはきっと自分は縁がない。
「やだ。戻りたくない……」
ガビはその場にうずくまった。体を丸める少女の姿は、まだ硬い花の蕾を思わせた。
「じゃあ、いいんじゃない?そのままで」
「え?」
蓮に似たちいさな花をアニはながめた。
「どうしたらいいかわからないけど、前には戻りたくないんでしょ?だったらそのままでいいんじゃない?あんたはたぶん、慣れてないんだよ。自分が好かれてることに」
「そう……なのかな……」
「別に以前の関係に戻りたいってわけじゃないなら、それでいいんじゃない?慣れなくても、一緒にいれば……」
アニも膝を抱えた。ガビに言った言葉が自分にも向けられていると気づいた。
アルミンに想われることと、自分がアルミンを想っていること。
単純な相思相愛なはずなのに、自分のほうがそれに慣れることができずにいる。
でも失うのも怖くて、慣れないけれど、そばにいる。
それが今のアニの心境だった。
つくづくガビに偉そうなことを言える立場ではないと思う。
「私からしたら、あんたとファルコのほうが私たちよりずっとお似合いだよ」
「そっそんなこと!ないよ……」
赤面するガビにアニはちいさく笑った。
ガビには自分よりずっとまともな恋愛をしてほしい。自分などを見習って、素敵な男性からの求愛にろくに応えられないような、可愛げのない女にならなくていい。
遠くから大木が倒れる音が響いてきた。アルミンたちが木を切り倒したのだろう。なんとなく今すぐ彼の海色の瞳を見たいような気がして、そんな甘い自分を振り払うようにアニは立ちあがった。早春の風が木々を揺らし、アニの頬を撫でていった。