BLUE, BLUE MOON/さみしい呪いで縛ってよ 散逸する記憶のなかで唯一、輝きを失わないものがある。
手を伸ばして、距離を詰めたとき。いつも通り馬鹿をやった俺にあいつがまたうるさく小言を言ってきたから、それらをいなしながら、茶化すように腰を引き寄せたとき。ためらいがちに寄越された、ちいさな拒絶を覚えている。
あんたは本当にいつもさぁ。うんざりした響きに溶けた気の置けなさ。それに口元をゆるめると、決まって飛んでくる大きな声。それが好きだった。いいや、好きだ。気安く触んなって言ってるでしょ。つれない言葉でのちいさな拒絶など、俺にとってはなんでもない。それを示すために肩を抱けば、形だけの抵抗が返ってきて。逃げんなよ、さみしーだろ、と、囁くために近づけた顔が制された。口元に押しつけられた手のひらからは花みたいな香りがした。そういやさっきなんか塗ってたな。他の奴がそんなものを手に塗りたくってたら馬鹿みてぇだなって思うのに。こいつが手にしたものは、こいつが選んだというだけで途端に世界に在るべきもののように感じられた。この美しさをかたちづくる欠片。そのどれひとつ欠けても、とこいつは思ってることを俺は知っている。自分を完璧にするためにこいつ自身の眼で選び抜かれたものたち。自分に求めるものがとんでもなく多いこいつの鎧。それをひとつひとつ纏う過程を見つめていると、優越感に胸が疼いた。勿論全部じゃねぇけど、俺にだけ見せる横顔がある。それだけで、言いようのない気持ちにさせられていた。
まずい花も多いが、豊かな味のする花だってある。こいつが今日選んだ花の香りはどんな味がするのだろう。だからと言って、今目の前の手のひらをべろりと舐めたらきっと顔を真っ赤にして怒る。もう怒らせたくねえな。今は。
……なんて、ぐるぐると思考を巡らせていたら、俺の顔を押さえつけていた手のひらがするりと動いて、しなやかな指が俺の鼻を摘んだ。んぐ。予期せぬ攻撃に、思わず鼻を鳴らせば、ぱっと離れた手のひら越しに一言。……間抜けな顔。
うわ。ルルが俺に、ふれた。
俺が、ぎこちなく、そしてわざとらしく顔を背けたことには触れず、言葉は続けられる。 あんたといると飽きないよ。
盗み見るように、視線をそっと戻せば、柔らかく笑んだ────ルルがいた。そうだ。ルルがいたのだ。俺の腕のなかに。
──綺麗だ。
あの日、出逢った時からルルはずっと綺麗だった。毎年繰り返されているであろう『審判』の様子を固唾を飲んで見守るやつなんてとっくにいない。入学式とかいうくだらない余興に興味は毛程もなかったけれど。自分の『審判』をさっさと片付けてすぐ、この場を立ち去ろうと思っていた俺をあの場に留まらせたのは、目の前をただただ睨みつける紫色の瞳だった。退屈な通過儀礼。その間もぴしりと背筋を伸ばした後ろ姿が美しかった。それが目に焼きついて離れなくて。がらくたにしか見えないマネキンが、俺と同じ深紅の制服をあいつに纏わせた姿を見た瞬間、柄にもなく、ああ俺は、こいつに出逢うためにこんな場所に辿り着いたんだと、本気で思った。
あの日から、俺の世界で綺麗なものはひとつだけだ。
お前のことについては、何も忘れたりなんかしない。お前だけは。たとえお前に望まれていないと知ってても、俺は。
飢え続ける欲望が俺を縛っている。俺に課せられた呪いはひとつじゃない。乾いて乾いて仕方がない。満たされることを望んで、異形の肉を腹に収め続ける犠牲を払って手に入れたものは何もない。かき集めても零れ落ちてゆくばかりだ。
──あんた、やっぱ頭おかしいよ。
低められた声が、黄金に煌めく記憶を、ぶわっと濁らせた。
そうだな。俺はばらばらになって、落ちていっている。その感覚が消えない。多分ずっと落ち続けている。何処に辿り着くかわからないもわからない、満たされない呪いに縛られている。お前と出逢って分かち合った全部が全部、俺にとっては力になったというのに。
足りないものを補い合うように求めた。お前も俺も足りない同士で、だから与えてやりたかった。その瞳を見つめるだけで大丈夫だと思えた。お前が失くしたものを全部取り返して、その空虚を埋めてやりたかった。
小さい箱庭のようなこの場所で、未だに俺の隣のようなところに収まっている、収まり続けなければいけない、それを強いられているあいつの真意は読めないけれど。それでも、俺にとっては。
この学園での生活、俺が過ごす時間、俺が命を賭してもいいと思えるなにか、それはすべて。
ルル。お前と一緒じゃなきゃ、なんの意味もねえよ。
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衝撃が走った。痛えな。熱を持った頭に手を当てて、息を大きく吐き出しながら体を起こす。寝心地のいいソファ。そうだ、それを求めてやって来て……ああ、甘ったるい香りがする。あの頃とは違う絢爛な匂い。そうだ、ここは。目の前には腰に手を当てて、心底嫌そうな表情の──ルルがいた。
「あんた、ここを何処だと思ってんの?」
ふたりの時だけトーンが落とされる美しい声を、ずっと聴いていたいと思う。それが自分だけの願いと言うことを、痛いほどにわかっていても。
ルルは苛立った顔で俺を睨みつけていた。
「……殴ることねぇだろ」
「蹴ったんだよ。そんなことも分かんない?」
「マジか。おわ〜どうりで痛ぇわけだわ……ちょっとおいたが過ぎんじゃねぇの」
「はぁ? あんたにだけは言われたくないんだけど……」
正面を向き、ソファにどっかりと座り直せばルルと向かい合う形になる。あえて大きな音を出してソファに身を預けた俺に、ルルの眉間の皺が濃くなった。
「もう一回、わざわざ聞いてあげなきゃいけないってわけぇ?」
あんた、ここ何処だと思ってんの。
「……ルルの部屋」
「どうやって入ってきたんだよ? 信じられない……」
「眠くてよぉ〜…部屋まで戻んのダルかったんだわ」
「ふざけんじゃないよ! 自分の部屋までの方がカジノから近いだろ。わざわざ嫌がらせに来るな……」
「不正解〜自分の部屋からカジノに行くまでにすげぇ怠いなってなったんだわ」
「いや有り得ないってか信じらんない、意味がわかんないし……何企んでんの」
「な〜んも? ケチくせぇ事言うなよな〜」
「……」
薄っぺらい誤魔化しには首を縦に振らないルルに、良くも悪くも手の内が理解されていると感じる。それだって俺は嫌じゃない。ルルはうんざりしていると分かっちゃあいるけれど、あしらわれることだって相手にされないよりはマシで。だから間も無く断ち切られた応酬に驚きはせずとも肋がずきんと痛んだ。ああ、肋じゃねえな。それより上。肺のあたり。
さっさと出て行きな。
本当に? それだけ? 見つめれば、額に皺を寄せた顔が、張り合うようにこちらを射抜く。その表情に、初めて出逢ったあの日に、くだらねえ「審判」をやり過ごしたあの場所でたったひとつ、輝いていた瞳の色が重なった。
あの9月2日はもう遠いけれど、そんな顔じゃなくて、自分は。
「……もうちょい、」
「え」
黒皮の手袋、その先の手首を引っ張った。油断していたのか、いとも簡単にバランスを崩した身体はソファーに倒れ込んだ。俺の横に。
「ちょっと……?! 本当に何……」
「もうちょっとだけ……寝てえ」
「あぁもう知らないってば、離せ! 」
「すげえいい夢見ててさあ……」
「そんなの俺の知った事じゃないんだけど」
「もうちょっと、」
こっちきてくれ。ぴたりとルルが俺の胸を押し返す手が止まった。その肩に頭を預ける。身体が強張る。ルルのも、俺のもだ。心臓がうるさい。それは俺だけ。ルルの心はわからない。強張ったままのルルの身体が身じろぐ。後ろに下がろうとする動きで、分かってしまった。クソ。
「本当に、馬鹿で、……どうしようもなく馬鹿で、仕方がないね」
寝ぼけてるとしたら、たちが悪いったらありゃしないよ。もう一度強く押し返された。強い拒絶。追憶のなかで、あの時ゆるされた俺も、俺をゆるす指も、もう何処にもない。ちいさな拒絶だとしたらいなせるのに。なんでもないように触れるという範疇にはすでに存在しない俺の過ちを、ルルは最も簡単に切り捨てる。
「離して」
冷たい声だった。
何も言えないのは、言うべき言葉を持たないからだ。力を抜く。いつもの威勢の良さが鳴りを潜めているのが答え。ルルをルルじゃなくさせてるのは、紛れもなく俺で。
笑って欲しい。俺の隣で。なあ、笑ってくれよ。言葉にできない呪いは、呪いにすらなれない。そっと離れていく手を、引き留めることはできなかった。
「……出てって」
俺が、ジャケットを脱ぐ間に。
そう言って俺が座り続けているソファーを超え、部屋の奥に向かうルルは、こちらに一瞥すらくれやしなかった。俺には分かる。ルルは声には出さずに数えている。10から、いや、20からか。venti,diciannove,diciotto……俺と同じやり方で、俺に選ばせる。数えている間に選べと示しつつ、選択肢はひとつだけだ。出ていけと。そう促されている。
ゆっくり立ち上がった。ルルが指輪を外す音がする。ひとつ、ふたつ。革靴が床を鳴らす音は響かない。つまり、やつは俺を振り返らない。分かってはいるけれど、どうしても。微かな音も聞き逃したくなくて、できるだけ静かに歩く。扉が閉まる音も、できる限り小さな音になるよう努めた。俺を俺じゃなくさせているのが、ルルであると示したかった。あいつが気づかないとしても。後ろ手に締めた扉に身体を預ける。冷たい感触。俺にかけられた呪いはひとつじゃなくて、記憶はばらばらに散っていて、俺の目に映るものはこれまで通り、何ひとつ輝いて見えない。いや、たったひとつを除いて。
腹の底にある欲は燻り続けている。
記憶にとらわれた、それすら呪いになるのだとしたら。
俺の呪いは、ルルのかたちをしている。
「今日も、綺麗だな」
静寂に包まれた空間に溢れた感情は誰に届くこともなく、だからこそ、誰かにとって呪いになることはないのだ。
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手に届くはずもない星に手を伸ばす。けれど欲しい。飢えて飢えて仕方がない。手に入らないから、こんなにも飢えて、乾く。俺が向ける呪いはかたちにすることすらかなわない。もしかしたら遠い星よりもっと虚しい。
今だって、こんなに近くに感じられるのに。
BLUE, BLUE MOON/さみしい呪いで縛ってよ