書きかけの死ネタもどきほんのりと甘い花の香りが、身体から気力を奪ってゆく。自分の目でその姿を見るまでは信じたくないのに、この部屋の寒さと静謐な雰囲気ときたら、勘弁して欲しい。
遺体安置場の大きな祭壇には、山ほどの五番隊隊花が飾られている。白にピンクに、紫。
無害に見えて馬酔木には神経毒があると、前に曳舟隊長が言っていた。ひよ里はすずらんの方が可愛くて好きだけど、面長なこの花の方がシンジには合っている気がする。アイツ、馬面やし。
「開けてもいいよ」
後ろの京楽に促される。棺の窓のツマミを指でつまんで、左右にそっと開く。冷たく固い金属の感触に、背筋が伸びたような感覚になった。
「どうだい。平子隊長は死化粧にもうるさそうだけど、男前にできてるだろう」
穏やかなハゲの顔が、そこにあった。
自慢の金髪が白布によく映えていて、それがどうにも憎たらしい。こんなん、アンタに似合わんやろ。なあ。
語りかけるように恐る恐る頬に触れると、指先から現実が流れ込んでくるような気がした。
ひやりと、冷たい。
閉じられた口はもうデカい歯を見せて笑うことも、あのふざけた声で自分にちょっかいをかけることもないのだと、瞬時に理解した。
胸元で行儀よく組まれた骨ばった手と取っ組み合いをすることも、この手に抱きかかえられることも、もうないのだ。
しばいたら文句言いながら起きてきそうなくらい、マヌケな寝顔なのに。
「葬儀までまだ時間がかかりそうでねえ。部屋はなんとかするから、しばらくこっちにいて火葬までちょくちょく会いに来てあげてくれないかな。その方が平子隊長も喜ぶ」
火葬、という言葉に、またひとつ身体から何かが抜け落ちた気がした。もうやめてくれ、聞きたくない。
「ハゲの死に顔なんて見てたって何もおもんないわ。気分悪い、帰るで」
「そうかい。わざわざ来てもらっちゃってすまなかったね。じゃ、葬儀の日時が決まったらまた連絡するよ」
京楽の声を背に、部屋から出る。現世は晴れていたが、こっちの空はうっすらと曇っていてなんだかはっきりしない。一面雲に覆われているのに、じっと見上げていると奥に隠れた太陽の光を感じてやや眩しい。その明るい灰色のテクスチャーが、余計にひよ里を苛つかせた。
ふと、気になった。
京楽直々に連絡を受けてすぐこちらへ来たので、他のみんなとは顔を合わせていなかった。こちらにいるリサ達はともかく、現世のラブやハッチはもう知っているのだろうか。
でも、共有したらシンジの死がますます現実になっていきそうで、こわかった。
一人暮らしの部屋に戻ると、ひよ里は布団に崩れ落ちた。
思い出したくないのに、目を閉じるとあの安らかな顔が、握った手の冷たさが、どんどん迫ってきてはひよ里を追い詰める。
こんな日が来る可能性は、いつだって頭の片隅にあったはずなのに。
仲間の死も、死神時代に嫌というほど目の当たりにしてきた。隊長職に就いている以上、いつかシンジがそうなるかもしれないという心の準備もできていたはずなのに。これはシンジだけに限った話ではないけれど。
だけど、どんなに頭でわかってたって感情は制御できない。ひよ里の未熟な心は訃報を受けたあの時からずっと、嫌や嘘やと叫んでいる。
シンジ。なあ、なんで。置いてかんとってや。
またいつもみたいにケンカして、ウチのこと怒鳴ってや。ヘラヘラアホなツラ見して笑って。一緒にアイスとかうまい飯とか食って、ゲームでもせえへんか。アンタにも歌わしたるから、カラオケも行こうや。それからウチのこと無理やり抱え込んで空飛んで、なんぼカンチョーしてもええから。ああ、やっぱり何もせんと側でダベってるだけでええ。なあシンジ。会いたい。なあ、なあ、なあ。
胸にとりとめもない気持ちが溢れて苦しい。
自分もどこかのタイミングで護廷に復帰すればよかったかもしれないと、初めて思った。
そうすれば結果は変わらなくとも、一緒に過ごす時間は増えたはずだ。
こちらに残ったことに後悔はない。
いつものケンカで別れたあの日の最後を、しみったれた言葉でやり直したいとも思わない。
だけどやっぱり、包み隠さない気持ちを言うならば、もっと一緒にいたかった。
アホなことを思っても時間はもう戻らないし、もし戻れたって自分は同じ選択をするのだからそんなこと考えたって無駄だけれど。
堂々巡りはもう疲れた。何も考えたくない。
そのまま布団に丸まって、逃げるように眠った。
その日から、ひよ里は何日もバイトを休んで、飲まず食わずで部屋に引きこもって過ごした。大好きな風呂さえ、数日に一回になった。
時々ラブやハッチが食べ物や飲み物を差し入れしてくれたが、それもろくに手をつけずに眠り続ける生活。
そんな暮らしをしていれば当然、無理が出る。ある時トイレに行こうと立ち上がったら眩暈がして、そのまま倒れ込んでしまった。
冷たい床にべったりと全身を這わす。これはアカン、ヤバいと思うが身体がガタガタと痙攣を起こして、思うように動けない。
やがて視界がぼやけて、焦点が定まらなくなってくる。
遠のく意識の中で、おそらく脱水症状だろうと冷静に判断している自分がおかしかった。
(ウチ、アホや)